日本書紀編纂の目的

 さて、第四十代天武天皇(在位六七三~六八六)といえば、兄·天智天皇子·大友皇子との間に骨肉
の争いを演じ(壬申の乱)、力ずくで王権を奪い取っ
た人物として知られている。『日本書紀』天武十年
三月の条には、川嶋 · 忍壁の
二人の皇子らに、「帝紀」と「上古諸事」(旧辞・きゅうじ)を記し定めるよう
命じたとあ
り、これが『日本書紀』編纂の端緒になったと考えられている。

 そして一般に『日本書紀』の編纂目的は、次のように考えられている。すなわち、天武天皇は甥殺し
によって政権を手に入れたわけだから、その正当性を証明
する必要があったというのである。その可
能性は否定できないが、問題は編纂が
長引いたことにある。

 『日本書紀』の完成は、天武天皇亡きあと三十数年を経ており、この間、天武皇はもちろんのこと、
天武天皇の皇后で天武天皇亡き後即位した持統天皇(鶴野
自皇女)もすでに崩御したあとであった。
とするならば、編纂素の開始が天武天皇の
発案であるとしても、編纂の目的が変節している可能性が
あった。すなわち、正
確にいうならば、『日本書紀』は天武天皇にとって都合のいい歴史書だったので

はなく、『日本書紀』編纂完了時の政権にとって都合のいい歴史書だったはずである。

 もちろん、『日本書紀』編纂の西暦七二〇年といえば、天武天皇や持統天皇の血統が政権を掌握し
ていたのだから、天武天皇の遺志は引き継がれていたと考え
るのが当然だ。持統天皇に至っては、
十八の有力豪族の墓記を集めるなどの活躍
を見せているから、まさに、夫の遺志を引き継ぎ、『日本
書紀』」編纂に遇進して
いた様子が分かる。

 持統天皇は天武天皇 の皇后で

あったけれども、一方で天智天皇の娘でもあった。この人物は、天智天皇(中大兄皇子)の懐刀·中臣
鎌足の遺児·藤原不比等を抜擢し、寵 愛した。壬申
の乱の直前、天武天皇(大海人皇子)と中臣鎌足
は対立する立場にあったから、
「天智の娘」としての持統天皇の藤原不比等抜擢は、天智天皇·中臣
鎌足 コンビ
の復活を意味しているのである。壬申の乱で天智系王家を滅ぼして成立した天武王朝に
あって、天武天皇崩御後、数多いた天武天皇の皇子を見さしおき、なぜ天智
天皇の娘· 持統天皇が
即位し、しかも天智天皇の懐刀の息子·藤原不比等が台頭
する余地があったのだろうか。

 私見はこれを「静かなクーデター」とみなしているが、その証拠は、『日本書紀』の神話のなかに隠さ
れているように思われる。

 通説通り、『日本書紀』が天武天皇の強い意志によって編纂されたとすれば『日本書紀』はたしかに
壬申の乱で甥を殺した天武天皇の正当性を証明するため
の歴史書であっただろう。 そして、天智系
を断ち切って新たな王権を樹立したと
いうことは、天武天皇こそが、この王権の始祖に当たるわけで
ある。

 ところが、『日本書紀』の神話のなかで、皇祖神として燦然(きぜん)と輝き、「天孫降臨の主役とな
ったのは、女神·天照大神であり、しかも天照大神の背後では
高皇産霊尊なる神が暗躍していた。こ
の天照大神と高皇産霊尊が、持統天皇と藤原不比等の姿を投影したものであった。持統天皇は息子
·草験壁皇子の死後、孫の軽皇子(文武天皇)の即位を強烈に願っていたから、天照大神が子ではなく
、孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊を降臨させた、とい
う神話の図式とも重なってくる。この天孫降臨を画策し
たのが高皇産霊尊であ
り、『日本書紀』神代上第九段本文には、

  時に、高皇産霊尊、真床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊に覆ひて、降りまさしむ。

 とあり、 高皇産霊尊が天津彦彦火瓊瓊杵尊を地上界に送りだした様子が見て取れる。これは文武
天皇の即位に藤原不比等が奔走したこととそっくりである。

 のちにもう一度触れなくてはならないが、持統天皇と不比等のコンビは、「女神からはじまる王権」と
いう神話を構築することで、天武天皇の王朝を、観念的に「持統女帝」を始祖とする王朝にすり替えた
と考えられるのである。

 間題は、持統天皇のしでかした「静かなクーデター」を『日本書紀』が巧妙に隠蔽し、あたかも天武王
朝は継承されたかのように記されていたことである。

 なぜこのようなカラクリができ上がったかといえば、天武天皇の王家が正統な時存在であり、これを
乗っ取った持統天皇と藤原不比等にやましい気持ちがあっ
たからにほかなるまい。その、間違ったク
ーデターを「正当化」するためにも、
蘇我氏を悪役に仕立て上げる必要があったという図式が読み取れ
るのである。

 天孫降臨の謎 関裕二

 



黄泉の国の入り口

 死者の世界である黄泉(よみ)の国について、葦原中国の地下にあると考える向きが強いが、同じ地
上で、葦原中
国と連続したところにあるという説もある。『古事記』や『日本書紀』は「黄泉の国と葦原中
国との境に
黄泉比良坂(よもつひらさか)があると伝えている。はたして入り口からその坂を下っていく
のか、
あるいは上っていくのか、文中から読み取ることは難しい。

 さて、黄泉の国の入り口であるが、葦原中国との境にある黄泉比良坂について、『古事記』は「今、出
雲国
の伊賦夜坂(いふやざか)といふ」と記している。つまり、黄泉の国 への入り口は出雲にあるという
ことになる。かつての
出雲、現在の島根県の八束郡東出雲町に、揖夜神社(いやじんじゃ)という神社が
ある。
この神社は、出雲国風土記では「伊布夜社(いふや)」と、また『日本書紀』でも「言屋社(いふや)」
と呼ばれている。おそら
くかつては揖夜=「いふや」と呼ばれていたのだろう。伊賦夜坂つまりヨモツヒラ
サカに通じる。

 この揖夜神社より東方へ数キロほど離れた地に、黄泉比良坂の入り口と伝えられている場所がある。
昭和
十五年(一九四○)に皇紀二六○〇年を記念 して「神蹟黄泉比良坂伊賦夜伝説地」と記された石
碑が建立さ
れている。

 また出雲国風土記の出雲郡の記事によると、宇賀郷というところに高さ、広さともに六尺ほどある岩屋
ある。その岩屋のなかに穴があるのだが、その穴は人が入ることができないため、深いのか浅いの
かもわか
らない。人が夢でこの場所を見ると、必ず死ぬといわれており、そのためこの地を人々は黄泉
の坂、黄泉の穴
と呼んでいるという。この穴もまた、黄泉の国の入り口の一つと考えてよいだろう。

 この岩屋は、現在の出雲市猪目町にある猪目洞窟を指すといわれている。日本海に面したこの洞窟
は、昭
和二十三年(一九四八)に発掘が行動われ、なかから縄文時代から古墳時代にかけての人骨が
発見されている。
古代の埋葬地であったと考えられており、そこから死への入り口、「黄泉の穴」とされ
るようになったのだ
ろう。

 黄泉の国の入り口とされる場所はほかにもある。『古事記』は、イザナミが葬られた場所について、「其

の神避れる伊耶那美神は、出雲国と伯伎国のさかいの婆之山に葬りき」と伝えている。「比婆之山」
とは、広島県
と島根県の県境付近に広がる比婆山連峰の中心である比婆山であるとされる。比婆山の
山頂には、
ザナミを配る比婆山熊野神社の奥の院とされる御陵がある。イザナミの埋葬地とされるこの
御陵は、
周囲二百メートルにどの円墳であり、巨石が横たわっている。この比婆山には、イザナキが黄
泉の国へ
の入り口を塞礎いだと伝えられる「千引岩」もある。
   平藤喜久子 國學院大學日本文化研究所准教授



国譲り

 国譲り神話は、新たに始動した律令社会の実現に不可欠な思想的根拠であり、かつそれに信
憑性をもたせるため、文芸的な知恵を駆使した記紀最大の国家神話であった。


「略奪」ではなく、なぜ「国譲り」なのか

 見方を変えると国譲り神話とは、大和朝廷による葦原中国の略奪である。タケミナカタは力比 ベによ
て抵抗し、オオナムチも「許さず」と述べ、迫る二神 (フツヌシ·タケミカヅチ)を拒否する(神代紀九段一
書二)。

 嫌がる者から奪うのは、略奪である。にもかかわらず、記紀では最終的にオオクニヌシ (オオナムチ)
献上して譲ったとする。あるいは最初から天孫が国を作っておけば、献上を求める必要も、略奪する
必要も
なかったはずである。だが大和朝廷は、国の献上(譲り)にこだわった。

 本来、日本神話には国を献上するという国譲り神話の話型は存在しなかった。それまでは国占め神
話が一
般的な土地入手の神話であった。国占め神話には、必ず先住のモノがいて抵抗する。外来神
は、先住の土地
霊を掌握して国占めに成功し、外来の人々は先住神祭配に成功して初めて国を占め
ることができる(『風土
記」)。その後も土地には先住神が残留する。現代の地鎮祭はその名残である。

 葦原中国にオオクニヌシがいたのも国占め神話を基にして国譲り神話が作られていることをうかがわ
せる。
しかし先住神のいる土地を手に入れた後に、国占め神話のように先住神の残留を語ることは、
国譲り神話で
はできなかった。天孫の統治を永久的に描くためには、先住神が居残って崇りを起こすこ
とは許されない。
崇り神は国譲りの際に全て退去させねばならない。「崇り神を遷し却(や)る」などの祝
詞の国譲り神話は、天皇統
治下には崇り神の存在を認めなかったことを示している。国占め神話を
にしつつも、国占めでは表現でき
ない内容があったからこそ、新たな時神話を創作しなければならなか
った。

 その内容はオオクニヌシの神名に隠されている。オオクニヌシとは、アシハラノシコヲ·オオナムチ·ヤ

チホコノカミなど、多くの国つ神を総合·統合して造られた新たな神格であり、葦原中国を象徴する神の
称といえる。そのような神々の総意を得て国が献上されるからこそ、国民すべての総意によって天孫
が日本
を治める、という理念上の正当性が保たれる。そのために記紀は献上(国譲り)にこだわってい
るのである。

 実際には武力的な略奪や侵略があったはずだ。しかし記紀ではそれを隠す。記紀の平定物語は「言
向(ことむ)け和(わ)
す」という平和的な平定を多く描く。

同様に国譲り神話も略奪(負の歴史)を隠蔽し、正の歴史に塗り替える。

二度の失敗、三度目の成功

 だが国譲りは一筋縄ではいかなかった。アメワカヒコとアメノホヒは国譲りに失敗する。この二神の失
は何を物語るのか。

 ここで注意したいのが、二神の失敗には違いがあることだ。アメノホヒは婿びたために失敗し、アメワ
ヒコは「葦原中国を馭(し)らむと欲ふ」ことによって使命を遂行しない。敵に婿びることによる失敗と、
天孫が
治めるべき国を我が物にしようとする失敗である。律「八逆」ではこの時ような行為を禁止する。

 「謀反」は国家転覆(クーデター)の罪で、「謀叛」は不正者(反乱者や異国)に服従した罪である。律で
は「謀反」と「謀
叛」とを区別する。この規定に当てはめれば、婿びたアメノホヒは「謀叛」、国を我が物
にしようとしたア
メワカヒコは「謀反」に当たる。

 律では「謀反」にあたるアメワカヒコの方が、アメノホヒ「謀叛」)よりも重罪となる。罪の軽重に従って叙
述され
ていることは、アメノホヒは殺されず、アメワカヒコは殺されることからも十分に考えられる。出雲
国造神
賀詞でアメノホヒがオオクニヌシを「婿び鎮めた」功績を主張するのも、殺されていないことを逆
手にとって
の叙述であろう。

 要するに、国譲りの失敗は、次第に罪が重くなっていくように並べられている。このことは国譲りの成
が次第に困難さを増していることを物語ることになる。そして困難さが深刻になった(律による)後に、
功が語られる。これは国譲りの成功を、よりドラマチックに描こうとした結果の表れといえる。

 二度の失敗に段階をつけ、後に成功するという設定も演出効果を狙ったものと考えられる。昔話では
通常、
失敗者の後に成功者の話、もしくは成功者の後に失敗者の話が続く。これは成功を演出する効
果を狙った方
法(比較成就謂)であり、成功と対比するための失敗であるので、失敗は一回語られれば
比較成就の話型と
なる。二度の失敗、しかも罪の軽重による困難の増幅という設定は、物語効果を狙
った設定なのである。そ
のことは、逆に国譲りを効果的に作り上げた朝廷の真剣さをうかがわせること
になる。また、タケミカヅチ
が行った、浪の上に剣を逆さに立ててその剣の先にあぐらをかく、という荒々
しい威嚇行為は中国から輸
入された雑伎団の芸能をヒントにつくられた叙述とされている。この点も新
しい表現によって、先住神の撃
退を促す場面を効果に演出した叙述といえよう。 
  歴史読本2010-4  埼玉大学准教授 飯泉健司




大事な決定を息子に(国譲り)

 オオクニヌシは、国譲りの決定を息子のコトシロヌシとタケミナカタに委ね、一大決定を自分で決めな
い。
ということは葦原中国の移譲は、オオクニヌシ個人では決定できなかったのではなかろうか。

 葦原中国にはさまざまな神々や精霊が盤踞(ばんきょ)する。その代表がオオクニヌシである。だが、
あくまでも代表
であって絶対的な権力を有する天皇ではない。天皇を頂点とする律令制導入以前は氏
族連合の社会であった。
その代表が大和の大王である。邪馬台国のヒミコも連合社会の代表であり
他の氏族のことに口を挟む権限
はない。他の氏族社会に介入すれば、戦になりかねない。そのような
社会
背景が国譲り神話には想定されている。オオクニヌシは連合社会の代表であり、他氏を含めた国
全体のこと
を個人では決定できないから息子に判断を委ねる。ではその息子にはどのような役割が与
えられていたのか。

 コトシロヌシは託宣神とされる。

 壬申の乱時に、高市 県主許梅(たけちのあがたぬしこめ)にこの神が懸かって託宣を下し、勝利に

必要な祭配方法を天武天皇に教える(天武元年七月条)。また神功皇后の問新羅遠征の際にも、コトシ
ロヌシは
託宣を下す(神功摂政前紀)。神には姿形がないので、言葉を発することはできない。だから人
や動物に懸
かって、その口を借りて発言する。これが託宣である。

 神懸かる者は、神が慿く前に沈黙状態となる。高市県主許梅の場合もにはかに口を閉びて、言ふこ
と能(あた)
はず」とある。神が愚く前には準備期間としての沈黙が必要であった。コトシロヌシも沈黙期
間を設けてい
る。それが「鳥の遊び」である。

 鳥は霊魂を運搬する。言葉を発することができなかったホムチワケが鳥を見て「あぎとふ」(口をばくぱ

くさせた)のも、言葉を司る霊魂を鳥が持っていたことによる。「鳥の遊び」とは、託宣に必要な霊魂をコ

トシロヌシに身につけさせるため沈黙期間であったのだ。つまりコトシロヌシは国譲りを事前に察知して

おり、その是非を問う託宣の準備を進めていたのである。託宣によって政を行うのも連合社会らしい。

 しかし託宣だけでは心情的に納得できない者がいる。事実『日本書紀』では、反抗する悪神がおり、
オオナ
ムチも「許さず」と一度は拒否する。社会の変革には武力がつきまとう。『古事記』でタケミナカタ
がタケミ
カヅチと相撲をとるのは、託宣の言葉に納得できない反抗分子を象徴しているのであろう。

 実は相撲も神事であり、託宣であった。愛媛県大三島の大山祇神社で行われる一人相撲は、目に見
えない
精霊と人が相撲をとり、一年のことを占う。ある種、託宣を乞う神事である。二度の託宣(言葉と
武力=相撲
)によって国譲りの是非を占う、それが息子たちに決定を委ね た理由である。裏返せば二度
の託宣によっ
て国譲りの正当性が保証されることにもなるのだ。
  歴史読本2010-4  埼玉大学准教授 飯泉健司



火鑚の詞(古事記)

 『古事記』には「火鑽(ひき)りの詞」と呼ばれる、「日本書紀」にない言葉が載っている。神聖な火を鑽
り出して
聖なる食事を作る過程を述べるもので、これは出雲国造の火鑽り神事と関わる。出雲国造は
オオクニヌシ
祀り、また、アメノホ ヒの末裔である。オオクニヌシ祭配との関係を意識して、『古事記』
は「火鑽りの詞」を載せ
ていると考えられる。

 出雲国造は、毎日別殿 (御食焼所)

で聖なる火を鑽り出して一人で食事をする。家族 でさえも、この建物に入ることは許されない。神と国
造と
の共食である。

 また、神聖な火は、国造が職を継承する際(火継ぎ式)と古伝新嘗祭においてもり鑽出される。火継ぎ
式・
古伝新嘗祭は、本来意宇郡の熊野大で行われていたといい明治以前は意宇郡大庭の神魂神社
で執り行わ
れた。神魂神社は国造のかつての邸内社といい、熊野大社は意宇郡 の大神とされる。意
宇の地図で火鑽り神事
が行われるのも、元来、国造が意宇郡に居住していたこと(「出雲国造世系譜」)
による。日々の祭配、一
年の収穫祭配、代替わりの祭配で聖火は鑽り出され、出雲国造は「火」の祭
によってオオク ニヌシ祭配を行う
。国造にとって「霊継ぎ」は「火継ぎ」なのである。




京都・五塚原古墳(いつかはら)地図

 京都府向日市の五塚原古墳(全長約91m、国史跡)で堅穴式石室がみつかった。市埋蔵文化財セン
ター
が6日発表した。出土した土器から3世紀中ごろに築かれた古墳時代前期の最古級の前方後円墳
の可能性が
強まった。邪馬台国を治めた女王卑弥呼の墓説もある奈良県桜井市の箸墓古墳(3世紀中
ごろ~後半)と
墳丘構造が類似することが分かっており、宮内庁が管理する陵墓として原則非公開の
箸墓古墳の石室を探る
重要な発見として注目されうだ。

 センターによれば、昨年7~11月に後円部の頂上部を発掘調査した。頂上の中央部にほぼ南北方向
で全長
6. 2m、幅1. 3mの堅穴式石室が出土。石の多くは崩れ落ちていたが、約30~40cm大の河原石を
垂直に
横み上げて壁面を築き、最上段に長さ約70~80cmの天井石を渡し、粘土で密封する構造だ
ったとみられる。
同時期に築かれたとされる近畿の前方後円墳で石室の出土例は少ない。河原石中心
の五塚原古墳の石室構
造は異例だ。

 五塚原古墳は、古墳時代に日本列島各地に広がった前方後円墳の原型とされる箸墓古墳(全長約
280m
)の3分の1の規模。これまでの測量や発掘調査から墳丘の形状などの特徴が箸墓と類似し、同じ
築造技
術が採用された可能性が高いとみられてきた。

 一瀬和夫·京都橘大教授(考古学)は「箸墓古墳と同時期に築造されたことがはっきりし、墳丘の構造も

類似しているため箸墓の石室を類推して考えられる。 箸墓の石室が河原石積みの可能性もある」と話
す。

 現場はすでに埋め戻されたが、発掘現場の写真などは7日から向日市文化資料館で展示される。
  2019-9-7  朝日新聞
(高井里佳子、小林正典)



縄文人の食生活

 縄文時代は、旧石器時代とほぼ同じ狩猟、採集、漁労の三本柱で1万年以上続いた。人類史上特別な
ありようだった。その時代に縄文人は文化を蓄え、充実、継承していった。

 旧石器人は「遊動的」だったが、縄文人は自然の一部を切り取って、ムラという根拠地にした。 そこは
文化情報の
蓄横地であり、公共図書館のようなもので皆が活用することができた。ムラの周りはハラで、
自然の秩序が維持さ
れ、縄文人にとっては食料庫であり、 道具をつくる材料を提供する資材庫でもあっ
た。

 しかし、大陸ではハラを認めず、開墾して、ノラに変えて征服しようとした。 日本の縄文文化はそうした
世界の潮
流には乗らず、自然との共存共栄の道を歩んだ。
  2019-10-9 朝日新聞  国学院大名誉教授 小林達雄


史跡 詩仙堂

 現在詩仙堂とよばれているのは、正しく は凹凸窠であり、 詩仙堂はその一室である。

凹凸窠とは、でこぼこした土地に建てた住居という意である。詩仙堂の名の由来は、中国の漢晋唐宋の
詩家三十六人の肖像を狩
野探幽に描かせ、図上にそれら各詩人の詩記丈山自ら書いて四方の壁に
掲げた,詩仙
の間,を中心としているところからよばれる。

 丈山がこの堂に掲げる べき三十六詩人とその詩を選定したのは、寛永十八年、五十九歳の時であっ
た。これは、我が国の三十
六歌仙にならったもので、その選定には林羅山の意見も求め、左右十八人、
それぞれ
の組合せに意味をもたせた。蘇武と陶潜、韓愈と柳宗元等七対は羅山の改定した所である。

 建造物は後に覧政年間、多少変更を見たが、天災地変の難を免れ、庭園と共に往時をそのままに偲
ぶことが出来る。

 丈山はここに ”凹凸窠” 十境を見たてた。入り口に立つ(1)小有洞の門、参道をのほりつめた所に立
(2)老梅関の門、建物の中に入り (3)詩仙の問、読書室である。(4)至楽巣(猟芸巣)、堂上の楼 (5)
嘯月楼、至楽巣の
脇の井戸 (6)膏肓泉、侍童の間(7)躍淵軒、庭に下り、蒙味を洗い去る滝という意の
(8)洗
蒙瀑、その滝が流れ込む浅い池(9)流葉ハク、下の庭に百花を配したという(10)百花塢、そ

の他丈山考案の園水を利用して音響を発し、鹿猪が庭園を荒すのを防ぎ、又、丈山自身も閑寂の中にこ
の音を愛し老隠の慰めとし
たという僧都,(添水、一般には鹿おどしともいう)等は今も残されている。

 詩仙堂の四囲の眺めを見たてた“凹凸窠十二景”, は画家に絵を描かせ丈山自ら詩を作ったものである。
丈山の遺愛の品である"詩仙堂六物”
多数の硯、詩集である「覆醤集」等多数の品々が残されている。

これらは毎年五月二十三日の丈山忌後、二十五日から数日間、「遺宝展」として一般公開している。

 現在は曹洞宗大本山水平寺の末寺である。詩仙堂の四季にはそれぞれ趣きがあるが、特に五月下旬
の “さつき, 、十一月下旬の
紅葉等がすばらしい。

 




神武天皇伝説

 神武伝説は、継体天皇をモデルにして形成されたという見方がある(直木孝次郎)。『日本書紀』によれ
継体天皇は、越前の三国(福井県)
から迎え入れられ、樟葉宮(大阪府枚方市)で即位してからヤマト入り

するまで二十年を要し、その間、樟葉に四年、山背筒城に七年、山背弟国に八年と三回の遷都を繰り返
して
いる。その点が、例えば『古事記』で日向を出発して豊国宇沙の足一つ騰(あ)がりの宮→竺紫の岡田
宮(一年)
阿岐国の多祁理宮(たけり・七年)→吉備の高嶋宮(八年)と移動しながらヤマトに向かった神武の
行動と共通
性が見られる。

 継体天皇は、武烈天皇亡き後、皇統が絶えようかという状況の中で、越の国より応神天皇の五世孫とし
ヤマトに迎えられた。外部からヤマト入りした王が即位するという神武東征の思想はこの継体の迎え入
れと
いうありかたを基盤とする可能性がある。五世孫というのも、天大照大御の五世孫として神武が位
置付けら
れていることと関連するという見方もある。

 それに継体天皇が磐余の玉穂宮(たまほみや)に即位している点が、神武の名前イハレビコとの関わり
で説かれもする。
継体を迎え入れる側の中心的人物が大伴金村連であるという点も、東征伝説において
大伴氏の祖が活躍す
る点との関連において無視できない、ヤマトに入る方位の相違が問題となるが、東
を優位とする思想と、
外来王という思想が重なることで東征という形になっている可能性はある。また、継
体は応神の五世孫と位
置付けられるが、その応神天皇もまた、外来王として東進してきた天皇である。
神功皇后の腹中にて新羅征
討から帰還して後、築紫で生まれた応神はヤマトへ向かうことになる。やがて
異母兄弟の
香坂(かごさか)·忍熊王の反逆を経、その後、越前の角鹿(つぬが)での禊ぎを経てヤマト入

りし、即位するという形をみると、さかのぼれば神武、降れば継体の即位次第と繋がるありかたを示して
いる
ものと思われるのである。

 また、壬申の乱の際の天武天皇行動が反映しているという見方もある。神武がヤマト入りの際に吉野
ら宇陀の地を経る行程は(『日本書紀』では菟田から吉野)、天武天皇の通った道筋に共通する点、また
伴氏の活躍や物部氏の動向に神武伝説との共通性が伺えるという点で、関連性が認められるというの
である
(菅野雅雄)。

 これらの反映説は、取りようによっては邪馬台国東遷説などの史実反応映説の延長線上にあると見る
ことも
出来るかもしれないが、基本的には歴史認識と歴史叙述の問題として見るべきものであって、『古事
』」 『日
本書紀』の叙述の方法や内容を検討することが、そのまま事実か否かを考えるということにはなら
ない。そ
の点は十分に注意しなければならない。 
  谷口雅博 國學院大學兼任講師



神武東征 なぜ九州から

 いかにして東征説話が構築されたかという点については、儀礼との関わりにおいて説かれる場合と、
思想
との関わりで説かれる場合、 具体的モデルとの関連性を想定して説かれる場合などがある。

 以下、『古事記を中心に話を進めたい。まず第一段の日向から難波へ向かう場面については、
天照大御神の誕生の地がな
ぜ日向なのかという問題、そして孫降臨神話において、ニニギノミコ
がなぜ日向に降るのかという問題
と切り離しては考えられない。日向は天上界から地上界へと日の
神が向
かう場であり、その日向から日の神の御子であるイハレビコが東(ひむかし・日向かし)へ向か
うという流れになって
いる。東は日の神が向かうべき必然的な場所なのである。なぜ東なのか、という
点については、明確にされて
いるとは言い難い。やはり日が昇る方角であるという点が大きいのでは

ないか。倭国が隋に送ったとされる国書に「日出づる処の天子」と記した意識ともそれは関わってくるし、

国号「日本」の成立とも関わる問題である。

 「第二段階では、まずイハレビコのイッセの戦死が描かれる。大阪湾まで至って後にイッセはナガ
スネビ
という者の矢を受けて負傷し、「私は日の神の御子として日に向かって戦うことはよくなかった。
それで賎しい
しい奴から手傷を負ってしまった。今からは迂回して日を背に受けて敵を討とう」と誓うが、
紀国の男の水
門(みなと)に至ったところで亡くなってしまう。日を背負う、つまりは日の神の威光を背に
受けて戦わなければなら
ないということで、やはり日の御子としての東征という要素が強い。

 ところで、このイッセは『古事記』で見ると、発言に「詔」 が使われ、亡くなった時に「崩」の字が使われ

るなど、天皇に準じる扱いを受けている。「古事記」では初めにイハレビコと兄イッセが協議して東に行く

ことを決めており、初めからイハレビコのみが突出した存在となってはいない。元はこのイッセを主役とし

た東征伝承があったのではないかとも言われているが(中西進)、兄の死を経ることでイハレビコの位置
けが明確になるということではないか。

 この後、熊野に至って一行は突然現れた熊の毒気にあてられて気を失ってしまう。その後、天照大神·
木神の夢のお告げを受けたタカクラなる人物が、かつて葦原中国平定したタケミカヅチの剣を持
って
きた時に目覚め、熊野の荒ぶる神々を切り倒す。この、失神と目覚めを経て『古事記』ではそれまで
イハレ
ビコと呼ばれていた神武天皇は「天神御子(あまつかみのみこ)」と呼び換えられることになる。こ
れはイッセの戦死、自らの
失神(仮死)、更には天照大神等の託宣と関わる剣の献上を受けて新生するこ
とにより、天神御子としての
性格が明確化され、初代天皇として保証されるという展開なのであろう。

天照大神が天の石屋戸こもりを経て司令神となるという展開と重なる形である。

 東征の後、ヤマト入りした神武天皇は、畝傍の橿原の宮で即位する。ところで、神武天皇の名前、
カムヤ
マトイハレビコはどういう意味を持つ名なのか。神話の末尾、神武誕生の場面によれば、その名は
ワカミケヌノミコトと言い、
亦の名をトヨミケヌノミコト、亦の名をカムヤマトイハンビコノミコトと言うと伝える。

 天照大御神の直系の御子は、 基本的に稲穂を神格化した名を持つと見られている。 子のオシホミミ
孫の
ホノニニギ、曾孫のホホデミの名には皆「ホ」が含まれており、それは「穂」を意味するようだ。神武の
に当たるウガヤフキアヘズだけが稲穂とは関わらないが、神武の兄たちの名も、イッセは「厳稲(イツシネ

=本居宣長説)」、イナヒは「稲霊」、ミケヌの「ケ」は食物を意味する語であり、ワカミケヌ·トヨミケヌも食物神
的要素を持つ名である。

 ところが、神武記において使われるカムヤマトイハレビコノミコトという名には、そうした意味合いの語
含まれていない。カミは、神の子
であることを示し、ヤマトは地名の倭を意味することには問題がない。

イハレも地名で、ヤマトの磐余の地を指すと見るのが一般的であるが、神武天皇と磐余との間に直接的
な関
連は見受けられない。それ故に、このイハレを地名ではなく、「謂われ」の意として理解する説も唱え
られて
いる(西郷信綱·阪下圭八)。ヤマトの地において天皇が天下を治めることの「謂われ」を背負った
天皇と
しての名であるというのである。神武天皇の宮も御陵も畝傍橿原の地である点からするならば、
「謂われ」
と見る解釈も捨てがたいが、神武天皇伝説が継体天皇モデルとして形成されたとするならば、
継体天皇の事跡と関わって地名
磐余を名に含み持っている理由にはなろう。

  谷口雅博 國學院大學兼任講師




イナバノシロウサギ

 ウサギである。これはシロウサギと呼ばれているわけだが、白い兎という意味ではない。この部分

は、『古事記』の原文では、「素兎」という漢字が使われている。「白兎」ではなく、「素兎」であること
に注
意する必要がある。その意味するところは、「毛皮を剥がされた赤裸のウサギ」という意味なの

 次に、オオアナムチがウサギに示した治療法だが、この部分、神話を扱った多くの一般書では、
白いガマ
の穂を取ってきて敷き詰めた上にウサギが横たわったら、ウサギの体が白くなったという
意味で説明されて
いることが多い。これも実は正しい理解ではない。『古事記』の原文では、治療の
ためにオオアナムチが取って
こさせた薬は、「白い蒲の穂」ではなく、「蒲黄」と書かれている。こ
「蒲黄(ほこう)「」とは、ガマの花粉のこと
なのだ。その花粉が黄色なので、『古事記』の原文では、
「蒲黄」と書かれ、
ガマノハナと訓読されているのである。「蒲黄」には、血を止める効能があった。

 『古事記』原文を忠実に読み解く限り、ウサギは、ガマの白い穂によって白い毛に戻ったのではな
く、ガ
マの黄色い花粉の止血作用によって皮膚の損傷が治癒したという形が本来のあり方なのだ。
  森田「喜久男  島根県古代文化センター専門研究員
 




根の国はどこにあるか

 古事記』によれば、兄弟神たちの虐待をうけた大国主神(大穴牟遅命)は、「須佐之男命のいらっ
しゃ
根の堅州国にいきなさい」という大屋毘古神の言葉にしたがって、根の国に赴く。

 この根の国はどこにあって、なにをする場所だったのか。

 この話の最後尾で大国主神が須佐之男の娘·須勢理毘売を連れて根の国を脱け出す場面がある
が、そこに
黄泉比良坂が出てくる。須佐之男命は追い駆けたが、大国主神らの方が一歩早かった。
須佐之男は黄泉比良
坂の坂下で 諦 め、遠くに見える大国主神に「お前の持ち出した生大刀(いくた
ち)
や生弓矢(いくゆみや)を持って兄弟神たちを坂の裾に迫い伏せ、川の瀬に迫い払って、自力で
大国主神となれ。そして私の
娘を正妻とし、宇迦の山の麓の盤石 (ばんじゃく)の上に大空高く千木
を上げた豪
壮な宮殿を建てて住みな」と呼びかけて祝福を与えた、とある。

 ということは、根の国の出入り口は黄泉比良坂である。死者が赴くという黄泉国も地中にあり、地上
に出
るときはこの坂を通る。比良坂というから、急峻な登り坂である。地上に出るには黄泉国·根の国
とも共通
して比良坂を通るのならば、深度には差があろうが、根の国もとうぜん地中深くにある国だ
と当時の人たち
に考えられていたわけである。

 黄泉国との場所の性格のちがいは、その名称から推測できる。

 伊邪那美火之迦具土神つまり火の神を産んだために女陰を火傷し、そのために病んで死んだ。
そして黄
泉国に赴いたのだから、黄泉は死せる者の赴く所である。黄泉はヨミでそこから帰れれば
ヨミガエル(蘇生)
わけである。

 これに対して、根の国は根つまり根源·ルーツの国である。名前から推測すれば、物事の根源とな
る活力
を 澱 らせた世界で、地上のあらゆる生命を作り出すと考えられた所である。

 大国主神が野原のまんなかで焼けにそうになったとき、 鼠が 「内はほらほら、外はすぶすぶ」とい
って、
穴のなかに隠れるよう示唆した。これは鼠などの地中の動物が根の国から生じてそこと行き
来する生き物で
あるからだ。春になれば草木が地表一面に生えはじめるのでだれの目にも分かる
ように、地中には生命の根
源が宿っている。それは根の国の作用にほかならない。

 そのありかはおそらく黄泉国よりもさらに深く遠い場所で、高天原地上·地中と乗直的に捉えられて
た古代的世界観のなかでは、もっとも基底的な位置つまり最大深度の地中にあると想定されてい
たのだろう。

 『日本書紀』では、素戔鳴尊は「母のいる根の国に行く」といい、八俣の大蛇を退治したあと須賀で
奇稲田と結婚して、そののち根の国に行った、とある。『古事記』 では、 「母の根の堅州国に行く」
としているが、
出雲国の須賀(島根県大東町)に宮を造って鎮まったあと、唐突に根の国にいることに
なっている。
本居宣もおかしいと思い、なんらかの記事の脱漏があるとした(『古事記伝』)。

 しかしそんなことより、もともと母·伊邪那美は黄泉国にいるはずで、根の国にいるはずがない。
母が黄泉
国にいるのなら、須佐之男も母のいる黄泉国に一緒にいるはずではないか。

 これは、母のいる場所を根の国とするか黄泉国とするかに異論があったのかもしれない。だがお
そらくは
母は死没したので黄泉に止まるが、須佐之男は没していないので、根の国に赴くのが妥当
とされたのであろう。

 出入り口が共通であることから推して、黄泉は根の国の一部と見られていたと解釈できるし、須佐
之男が
黄泉で母に会うのは根の国に赴くまでの通過点でのできごとと見なせばよい。 
  松尾光 早稲田大学非常勤講師





黄泉の国はどこにあるか

 黄泉の国葦原 中 国とは黄泉比良坂(あるいは黄泉平坂、記紀)または黄泉の穴(出雲風土記)
でつな
がっている。黄泉の国には黄泉神やヨモツシコメ、雷神がいる。また、この国で煮炊きしたも
のを食べる
(ヨモツヘグイする)と葦原中国に帰れなくなる。これはギリシア神話で誘拐されたデメテル
の娘ペルセポ
ネ(コレー)が冥界のザクロの実を食べたため完全にはオリュンポスの神々の世界に
戻れなくなったという
伝承と似ている。死の穢れの観念の表れであろう。

 イザナミを連れ戻そうとしてイザナギが訪れる際の描写については、横穴式古墳がモデルとされた
可能性
が示唆されている。またイザナミの死体が、ウジが湧くまで暗闇に置かれているという記述は、
死者の蘇
りを期待して行なわれていたと思われるモガリ(殯)の儀式を連想させる。

もしそうならば、黄泉の国の描写の一部はモガリが行なわれたモガリの宮の内部とも関連するかもし
れない。

 妻の亡骸の 醜 い姿を見たイザナギは逃げ出し、イザナミは 辱 めを受けたとして彼女自身の分身
のよう
なヨモツシコメ(「黄泉の国の醜い、恐ろしい女」)たちに夫を追わせる。

イザナギはさまざまな品物を投げると、それらが障害物となって追っ手を阻む。最後には桃を投げつ
けてこ
の鬼たちを撃退し、葦原中国との境である黄泉比良坂まで逃げてきて、大きな石を置いて二
つの世界の交流
が不可能になるようにして、石を峡んで妻のイザナミに離婚の宣言(コトドワタシ)を
行なう。
これに対して、死者の女王となったイザナミは一日に千人の命を奪うという呪言を述べる。
するとイザナギは一日に
千五百の産屋を建てる、つまり千五百人の子どもが生まれ来るようにする
と呪言返しを
する。

 陰陽五行説では、北東の方角である丑寅が災いの方角の鬼門に当たる。だから鬼は丑(牛)のよ
うに角があり、寅
の皮の 褌 を着けているとイメージされるのだが、 黄泉の国神話のシコメはこの
中国由
来の鬼と同一視されていたと思われる。だからこそシコメは中国で魔よけの果物とされてい
る桃によって撃
退されるのである。そして日本の昔話において、鬼退治の英雄が桃から生まれた
桃太郎であるのもそのため
だ。鬼が島は丑寅の方角にあるはずだが、そこに向かう桃太郎には
サル、
キジ、イヌが家来として従っている。サル(申)トリ (酉)、イヌ(戌)も南北軸を中心に反対となる
北西か
ら西の方位の千支の動物である。黄泉の国神話には、後に桃太郎の昔話として開花する
要素がすでに潜んで
いたと考えられる。

 根の国(紀では根の堅州国)という、スサノヲが支配する神々の世界がある。大祓祝詞には「根の国、

底の国」が海の彼方にあると述べ、記は根の国への通路を黄泉比良坂としている。記では黄泉の国
と根の国
が同一であると考えられているのかもしれない。 
   松村一男  和光大学教授



宇賀志の血原

 昔、神武天皇の大和平定の初め、宇陀郡地方では、苦しい思いをして、未開の土地を開拓しながら
進まれた。

すなわち土地を切りウガッて進まれたところを、ウガチの邑と呼び、それが今のウカシ村の元となった。

 それからこの地方には、兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)という者がおり、弟猾は先ず帰順したが、
兄猾はなお反抗し、さらに
天皇を誘って落とし穴に落とそうと企てた。天皇はこれを察せられ、その落と
し穴を逆用して兄猾を誅せら
れた。その時の血が野原一面をおおったので、その地を血原と呼んだ。
今も血原川があり、血原橋がかかっ
ている。




国内最古の文字

 松江市の田和山遺跡でみつかった弥生時代中期後半(紀元前後)ごろの石製品に、文字(漢字)が黒墨
で書か
れていた可能性があると、福岡市の研究者が明らかにした。国内で書かれた文字とすれば国内
最古の例とな
る。一方、赤外線撮影では墨書を確認できなかったことなどから慎重な意見もあり、議論
を呼んでいる。

 福岡市埋蔵文化財課の久一住猛雄さんが1日、岐阜県大垣市で開かれた学会で発表した。石製品は
長さ9cm
前後。久住さんは、墨をすりつぶした使用痕などから石製品を国産の硯と推測。

裏の中央付近に、二つの黒っぽい線のようなものが見られ、中国統一王朝の前漢後半から後漢初めの
時代に
あたる紀元前後ごろの隷書体とみて、墨書きによる「子」と「戊」との見方を示した。

 同じく弥生時代の硯を調査している柳田康雄·国学院大客員教授(考古学)も文字とみて、「午」「壬」や
「戌」「戍」の可能性も指摘する。

 国内で確認された最古の文字は、福岡県や三重県で出土した土器に記された2~3世紀の事例があ
る。柳
田さんらによれば、弥生~古墳時代の硯は主に西日本で200件ほど確認され、田和山意跡出土
の石製品も
硯であれば、日本列島での文字使用の起源や波及過程の解明につながるという。

 一方、松江市埋蔵文化財調査室がこの石製品を赤外線で撮影したが、墨書は確認できなかった。
武末純一
・福岡大教授(考古学) は「文字の可能性はあると思うが、断定できるかといえば、まだ慎重
にならざるを
得ない」と話す。
    2020-2-3 朝日新聞
(編集委員。中村俊介)




悲劇の皇子たち

 賑わいをとりもどした飛鳥の都で皇位についたのは、人々の期待した中大兄皇子ではなくて、
皇極太上天皇であった。斉明天皇という。中大兄が皇位を辞退したのは、皇太子の身分
でいたほうが
自由に腕がふるえるからであるというのが通説だが、間人皇女と結ばれていたからかも
しれない。
同じ母から生れた兄妹の結婚は、当時でも忌まれていた。中大兄が天皇になれば、間人皇
女を皇后
に立てなければならないが、
それを実行することは社会の慣習がゆるさない。

間人への愛をつらぬくために、中大兄はあえて即位をみおくったと私は考えたい。それから七年たって
斉明天皇が
死んだのちも、中大兄はすぐには即位せず、依然、皇太子のまま政治をとる。彼が正式に
即位して天
智天皇になるのは、六六五年(天智称制四)に間人皇女が死んでからである。それは斉明の
死後七年
目、間人の死後三年目の六六八年(天智称制七)のことであった。

 事情はどうであれ、中大兄の即位がおくれることは、宮廷にいろいろの影響をひきおこす。有間皇
の悲劇も、それと関係がある。彼は孝徳天皇のただ一人の皇子である。中大兄がはやく天皇となっ

おれば、孝徳の死んだときまだ十五歳であった彼が皇位にのぞみを抱くことはなかったろう。しか

中大兄がいつ天皇になるかわからない状態にあるならば、即位の機会は有間にもまわってくるかも
しれ
ない。彼が成長するにしたがって、皇位に期待をかけるようになっても不思議はない。しかし、
そんな
有間の存在は、政権をわたす気持ちの少しもない中大兄にとっては邪魔である。いくたびか政
争の
波涛をくぐりぬけた中大兄が、若い有間を挑発して叛意をかきたて、陥穽(かんせい)におとしいれるの
は、
たやすい仕事である。有間はその策略にはまって捕えられ、処刑された。享年十九歳、六五八年
(斎
明四)十一月のことであった。

 孝徳天皇と中大兄と間人との三角関係は推測の域を出ないが、中大兄とその同母の弟である大海人

皇子と、万葉歌人として令名高い額田女王との三角関係は、事実とみてよかろう。額田ははじめ大海
の妃となり、十市皇女をもうけたが、のち中大兄に愛されてその後宮に入った。二人のあいだは

中大兄が天皇となり、さらに死にいたるまでつづくが、額田が天智(中大兄)の目をぬすんで、
ひそかに
大海人に思いを寄せていたことは、両人のとりかわした有名な相聞の歌によって知られている

(ただし、この歌を宴席での戯歌とする説もある)。


 あかねさ
す紫野ゆき標野(しめの)ゆき野守は見ずや君が袖振る  額田女王

 紫草の にほへる妹を憎くあら ば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも     大海人皇子


 中大兄もまた、香久山耳成山とが畝傍山の愛を争ったという伝説を、歌に詠んでいる。

 天智天皇は律令国家の確立という大きな仕事をしのこしたまま、あとを皇子·大友(弘文天皇)にゆずっ
て、六七一年(天智十)、近江の大津宮でみまかった。翌六七二年、吉野にかくれ住んでいた
大海人は
兵をあげ、近江の朝廷をほろぼし、弘文天皇を自殺させて、都をみたび飛鳥にかえし、みず
から即位し
て天武天皇となる。これが壬申の乱であるが、先には中大兄と対立した孝徳の皇子·有間
が、このたび
は天武と対立した天智の皇子·弘文が、ともに非業の死をとげたことになる。歴史の変一
転をかえりみ
ると、暗然たらざるをえない。このような悲劇をくりひろげつつ、日本古代国家は飛鳥
において、最後の
完成への道をたどるのである。 
  直木孝次郎  飛鳥 より




天武の宮廷に生きた天智の皇子 河嶋皇子

河嶋皇子と天武の宮廷

 河嶋(川島·河島とも書く)皇子は天智天皇の子、母は宮人の忍海造小 竜の女·色夫古娘で、同母の姉
に大江皇女(天武の妃となり、長·弓削両皇子を産む)、妹に泉皇女(大
宝元年から四年間、伊勢斎宮と
なる)があった。『懐風藻』の伝に、没した時、「年三十五」とあり、
日本書紀』に持統五年(六九一)九月
九日の条に「浄大参皇子川嶋薨ず」とある。逆算して斉明三
(六五七)の生れとなる。『懐風藻』には、

「淡海帝(天智)の第二子なり」とある。天智の皇子は河嶋のほかに建皇子(母は蘇我倉山田臣石川麻呂
の女·遠智娘)、施基皇子(志貴とも書く。母は
越道君伊羅都売こしじのみちのきみいらつめ)、大友皇子
(母は伊賀采女宅子 娘)の四人があり、うち最年長は大友皇子で、大化四(六四八)生れ(天武元年、
二十五歳没より逆算)、
つぎは建皇子で白雉二年(六五一)の生れ(斉明四年、八歳没より逆算)である
から、河嶋は皇子のなかの三番目になる。施基皇子の生年は明らかで
ないが、『日本書紀』の皇子の
序列では、つねに河嶋のあとに記されるから、四人のうちの最年少と
みてまちがいない。『懐風藻』が
第二子とするのは、成年に達せずして死んだ建皇子を除いてのこと
だろう。

 余談になるが、どういうわけか天智の皇子は、皇女が一○人もあったのにくらべて、成人したのはわず
か三人と数が少ない。また天智のきさきには、前述の蘇我氏出身遠智娘のほか、古人大兄皇子の
女·
倭姫王をはじめ、蘇我倉山田臣石川麻呂のもう一人の女·姪姫、大化の左大臣阿倍臣倉梯麻
呂の女,
橘,娘、天智末年に左大臣に昇った蘇我臣赤兄の女·常 陸 娘など、皇族や中央有力氏族
出身の身分の
高いきさきが何人もいたが、それらの貴族階級のきさきたちの産んだのは、天折した建
皇子をのぞくと、
みな皇女ばかりである。数少ない三人の皇子の母親は、いずれも地方豪族のむすめ
たちで、宮廷での
身分は低い。もし天智に皇族を母とする皇子があったら、天智もそれほど後継者問
題に頭を悩ますこと
はなく、
壬申の乱も起らなかったかもしれないが、もちろんそれは一片の空想である。

 現実には、伊賀采女を母とする大友皇子は壬申の乱に敗死し、天智の男子では河嶋皇子と施基皇子

の二人だけが、天武天皇の飛鳥浄御原朝廷で生活することになる。天智の皇子として近江朝廷に育っ

たこの二人にとって、天武の朝廷での居心地は必ずしもよかったとは思えないが、『日本書紀』に記
ところでは、皇族中で差別待遇を受けたようにはみえない

 天武九年(六八〇)七月、二十四歳になった河嶋は、病死した納言兼宮内卿舎人王のもとへ高市皇
とともに弔使として赴き、天武十年三月の天武の詔
によってはじまる帝紀および上古諸事の記定の事業
には、最上位の地位で関与する。第二席は天武の皇子忍壁で、以下広瀬王·竹田王ら一〇人
の皇族や
諸臣が名を連ねている。さらに天武十四年正月の授位では、草壁皇子=浄広壱、大津皇子=
浄大貮につ
いで、河嶋皇子は忍壁皇子とともに浄大参の位に叙せられている。高市は河嶋
より三歳うえ、河嶋は
忍壁より二、三歳うえという年齢差を考えると、この叙位はとくに河嶋を差別したものと
はいえない

 天武八年五月に天武が吉野宮に行幸して、皇后と諸皇子に詔し、「千歳の後に事無からんと欲す(いつ
までも平和に過ごそう)」と誓いを立てるが、このときの諸皇子は草壁·大津·高市·河嶋・忍
壁·芝基(施基)
の六人で、天武は天智の皇子の河嶋,芝基をわけへだてていない。

 河嶋は天武の朝廷において、先帝の皇子にふさわしい待遇を得ていたとみてよいであろう。
  直木孝次郎  飛鳥 より



天智天皇            
  母     生没
( )推定
年齢 ※1 ※2 ※3  ※4 
大友皇子
伊賀妥女宅子娘 
(いがのうぬめや
かこのいらつめ )
妃十市皇女(父天武天皇
母額田王)
648~672 25     ー ー 
建  蘇我倉山田臣石川
麻呂の女遠智女 (おち)
話すことが不自由で夭折
斉明天皇に寵愛をうけた 
651~658  8      ー  ー 
河嶋皇子
忍海造小竜の女
 色夫古娘 
(おしぬみのみや
つこのむすめ 
しこふこのいらつめ
妃 泊瀬部皇女
姉に大江皇女
 天智の皇女、天武の妃と
 なり長・弓削皇子を産む
妹に泉皇女  
 大宝元年から四年
 間 伊勢斎宮となる
 妃は忍壁の妹 
657~691 
35
 
 〇    16   30
施基皇子
越道君羅都売
(こしじのみちのきみ
のいらつめ)
追尊天皇 春日宮天皇 
息子は光仁天皇、現在の
皇室の系統
 
(658~660)
  ~716
(57~
59) 
 〇   (13~15  (27~
29) 
天武天皇          
草壁皇子 鸕野皇女(持統天皇)  妃阿部皇女(後の元明天皇)
は天智天皇の皇女であり
持統天皇の異母妹  
謚 岡宮天皇 
662~689  28  〇   1 11  25 
大津皇子  天智天皇の娘 
大田皇女
(母)大田皇子は大津が
五歳の時(667)に没
した 
663~686   24  〇  2 10  24 
高市皇子
胸肩君尼子娘
(むなかたのきみあま
のいらつめ)
草壁の八歳上  654~696   43   〇 3  19  33 
忍壁皇子
宍人臣大麻呂の娘
カジ媛娘
(ししひとのおみおおま
ろかじひめのいらつめ)
磯城同母兄
妹泊瀬部皇女が河嶋の妃
?~705   〇  4     
長皇子 
大江皇女  キトラ古墳の被葬者説 ?~715          
弓削皇子  大江皇女   673頃~699 27      1頃   14頃
舎人皇子  新田部皇女  淳仁天皇の父  676~735        ー  11
磯城皇子 宍人臣大麻呂の娘
カジ媛娘 
忍壁同母弟
天智の皇子施基とは別 
?~?           
新田部皇子  藤原鎌足の娘
五百重娘 
新田部の邸宅の跡は
鑑真に与えられ唐招提寺
となった 
 ?~735          
穂積皇子
蘇我赤兄の娘
石川夫人
   ?~715          

※1 〇印 天武八年吉野宮に行幸し皇后と皇子に詔し誓いを立てる
※2 数字は序列
※3 壬申の乱が終わった時の年齢
※4 天武天皇崩御時の年齢  

 天武天皇 686 崩御 55歳
 文武天皇 697 即位(683~707 25歳) 
 持統太上天皇 702 崩御 57歳






河嶋・大津・忍壁皇子の交わり

 浄御原朝廷での河嶋皇子の生活は決して不幸ではなかった。帝紀や上古諸事の記定にたずさわるに
ふさわしく、一首だけではあるが『懐風藻
に漢詩を残しており、貴族としての教育も身につけていた。
『万葉集』にも、

   白浪の浜松が枝の手向草幾代までにか年の経ぬらむ     (巻一~三四)

の一首がある。「或いは山上臣憶良の作と云ふ」ともいわれ検討を要するが、和歌のたしなみもあったと
思われる。

 先に一部を引いた『懐風藻』の伝には、前引の「淡海帝の第二子なり」につづいて、

 志懐温裕、局量弘雅。始め大津皇子と莫逆の契を為す。

とある。「莫逆」はたがいに逆らわないことで、大津皇子と心の通じあう親しい関係にあった、というので
ある。大津皇子は『懐風藻』の伝で、「性頗(せいすこぶる)る放蕩(ほうとう・ほしいまま、放逸)にして、
法度に拘らず、
節を降して士を礼す。是れに由りて人多く附託す」といわれ、度量が広く、多くの人と親し
く交わっ
たことが知られるが、母を異にする兄弟よりは、従兄弟の河嶋とのほうが気兼ねなくつきあえた
のか
もしれない。

 また河嶋は天武の皇子の忍壁とも親交があったと思われる。それは、

  柿本朝臣人麻呂、泊瀬部皇女と忍坂部皇子に献る歌一首の題詞をもつ歌(『万葉集』
巻二~一九四·
一九五)の左註に、

  右、或る本に日く、河嶋皇子を越智野に葬る時、泊瀬部皇女に献ずる歌なり。

とあることにより、河嶋が忍壁(忍坂部)の妹·泊瀬部皇女を妃としていたことがわかるからである。

つまり河嶋と忍壁とは泊瀬部皇女を介して義兄。義弟の間がらとなる。

いつその関係が生じたかは明らかではないが、持統五年に河嶋の没した時の年齢が三十五歳だから、
天武朝末年までに河嶋は泊瀬
部をめとったと考えてよかろう。私の推定では忍壁の年齢は朱鳥元年に
二十七、八歳だから、その妹
の泊瀬部は二十二、三歳にはなっていたであろう。天武十年前後の結婚
としては矛盾はない。

 このように河嶋は天武の朝廷において、一方では相当の待遇を得、貴族としての教養も備え、他方

では天武の皇子のうち、比較的年長で自分と年齢の近い大津·忍壁の両皇子と親交を結んでいた。彼

は天武の朝廷で安定した地位を得ていたといってよいであろう。

 しかし見方をかえると、三皇子の結びつきは疑惑を呼びかねない要素をもち、河嶋の立場をかえっ

て不安なものにしないとは限らない。

 ここで天武の皇子たちに目を移すと、先に天武八年の吉野行幸や、天武十四年の授位について述べ

たように、天武朝における皇子たちの序列は、①草壁、②大津、③高市、④忍壁で、その他の場合
(たとえば朱鳥元年八月の封戸授与記事)をみても、この序列は不動である。天武にはこのほかに、

長·弓削(以上、母は大江皇女)、舎人(母は新田部皇女)、新田部(母は藤原鎌足の娘·五百重娘)、
穂積(ほずみ・
母は蘇我赤兄の娘·大蕤娘)、磯城(忍壁皇子の同母弟)の六人の皇子があったが、年が
若いため、こ
のうちで天武朝に姿をみせるのは、日本書紀』による限り磯城皇子だけであり(天智の男
施基〈志貴〉皇子とは別に、天武の男にも磯城皇子がいた)、その磯城も登場するのは天武朝最末期
の朱鳥元年八
月条である。

 つまり河嶋は、天武の有力な四人の皇子のうちの二人ととくに親しいのである。しかも河嶋自身も、
天武十四年の授位記事や天武八年の吉野行幸記事でみたように、③高市と④忍壁のあいだに序
列さ
れている。宮廷における勢力カのバランスから言って、五人の有力皇子のうち三人が結びあうとい
うの
は、決して歓迎すべきことではなかろう。

 もし疑いの目を以て見るならば、三人の母にも一種の共通性のあるのに気づく。河嶋の母は忍海造
色夫古娘、忍壁の母は宍人臣大麻呂の娘·カジ媛 娘であって、二、三流豪族の出身であ
る点で似かよ
っている。一応畿内の豪族であっても、蘇我·阿部·藤原などの大豪族とは一段も二段
も格がさがるので
ある。大津の母は天智天皇の娘大田皇女で、身分高い豪族ではあるが、大津がま
だ五歳の天智六年
(六六七)二月に没した。この三人の皇子は、宮廷での地位は高いが、母の身分が、
低いか、または死
没しているかで、母方からの後援·援助をさして期待できないという点で共通している。

 母方の援助が弱い点では、胸 肩君尼子娘を母とする高市皇子も同じである。万一、その共通性から
四人の皇子の連合ができあがったらどうなるか。皇后鶴野皇女(のちの持統天皇)を母とし、天
武十年に
は正式に皇太子となった草壁皇子の地位も決して安全ではない。その立場がめぐまれている
だけに、
さまざまのそねみ。にくみの寄せられることは十分考えられる。

 天武の宮廷でこの不安をもっとも強く感じていたのは鶴野皇后であろう。高市は天武の皇子中の最
長で、草壁の八歳うえであるだけでなく、壬申の乱に天武を助けた大きな功績がある。それだけに
天武
も鶴野も高市の処遇には十分配慮したようで、序列は草壁·大津についで第三位だが、たとえば
朱鳥元
年八月の封戸支給では、高市には草壁·大津と同じ四○○戸を与え、河嶋·忍壁の一○○戸と
大きな差
をつけている。おそらく年かさで分別のある高市が軽挙妾動することはあるまいが、その危
険が生ずる
よりまえに、河嶋ら三人の結びつきをこわすことが望ましい。もし鶴野がこう考えたとし
たら、第一に目
をつけられるのは立場の弱い河嶋皇子であろう。

 天武がしだいに老境に近づき、皇位継承が現実の問題になるにしたがって、河嶋皇子に対する無言

の圧迫が高まったのではないか、と私には思えるのである。    直木孝次郎  飛鳥より





大津皇子の変と河嶋皇子

 天武天皇は治世の一五年目の朱鳥元年(六八六)九月九日、ついに五十余年の生涯を閉じ(ふつう
五十六歳と推定)、翌十月二日に大津皇子の謀反が発覚し、
捕えられた。『懐風藻』の河嶋皇子の伝
には、先の引用につづいて、

 津(大津)の逆を謀るに及びて、島(河嶋)則ち変を告ぐ。

と記す。大津の謀反発覚は、莫逆の友であった河嶋の密告によることがこれでわかる。なぜ河嶋は親

友を裏切ってこれを死地に追いこんだのか。誰しも感ずる疑問に対して河嶋の伝はつぎのように述べ

 朝廷、其の忠正を嘉(よ)みすれど、朋友は其の才情を薄しとす。議する者、未だ厚薄を詳(つまび)
らかにせず。

 朝廷は河嶋の忠正な態度を賞したが、友人たちは河嶋は人情に薄いとして非難した。それぞれもっ

ともであるが、第三者として議論する者は、皇子が忠義の心に厚いのか、友人としての情宜に薄いの

か、よくわからない、というぐらいの意味だろう。伝はなおつづけて言う。

  然れども余以為(おもえ)らく、私好を忘れて公に奉ずるは、忠臣の雅事、君親に背きて交を厚くす
るは、
悖徳(はいとく)の流(たぐい)のみ、と。但し、未だ争友の益を尽くさずして、其の塗炭に陥るるは、
余も亦疑ふ。

 しかし私が思うのに、私情をなげうって公に奉ずる(親友をも告発する)のは、忠臣としてなすべき正

しいことである。君や親に背いて友との交わりを厚くするのは、徳に反する連中のすることなのだ。

 しかし、こうは思うものの、河嶋皇子が争友――争ってでも相手の誤りを正すという真の友人――と

して、なすべきことをせず、親友の大津皇子を塗炭(泥水と炭火、水火の苦しみ)に追いこんだことは、

私も疑問を感ずる(以上の解釈は「日本古典文学大系」本『懐風藻』の注を参照した)。

 遠まわしな表現ながら、結論としては『懐風藻』の編者は河嶋皇子を非難しているのである。

 たしかに「伝」のいう通りである。しかし河嶋の立場を考えると、複雑微妙である。大津がどれくらい叛
意を持っていたか、持っていたにしても具体的な叛乱計画を立てていたかどうかは疑問である。

しかし彼が天武の没後の政局に不安を感じていたことは事実であろう。天武が没すれば、鶴野皇后

草壁を守るために、最大のライバルの大津を失脚·没落させようとし、謀反の疑いをかけてくることは十
分に考えられるところである。この不安は河嶋にも共通する。まさか皇后は河嶋を草壁のライバ
ルとは
見なしていないだろうが、大津をそそのかしていると見られたら、致命的である。そこまで行
かなくても、
大津が罪におとされれば、一味として連坐するおそれは十分にある。罪は忍壁にも及ぶ
かもしれない。

 おそらく河嶋が大津と親交を結んだときは、天武もまだ壮健で、大津と草壁との関係はそれほど切
してはいなかったのであろう。しかし歳月を経て天武が没した朱鳥元年九月の時点では、危険は河
嶋の
身にも迫っていた。彼は煩悶·懊悩(はんもん・おうのう)の末、大津を告発して自己の保全を計る道を選
んだ、と私は
想像する。

 大津が謀反を企てていたかどうか不明であることは先に述べた。しかし鶴野皇后を中心とする政治

のありかたに何ほどかの不満を持ち、不平を親友の河嶋に洩らすことはあったろう。告発しようと思

えば、河嶋には材料があったにちがいない。

 こうして大津は死を賜り、河嶋は身を全うすることができた。ただし身を全うしたといっても、日本書紀
による限り、朱鳥元年八月の封戸授与記事以後、持統五年九月に没するまで、持統の朝
廷に姿を見せ
るのは、持統五年正月十三日条に封一○○戸を賜ったことだけであり、位も死ぬまで天
武十四年正月
の浄大参のままである。持統朝における彼の地位はめぐまれたものとは思われない。

 大津についで鶴野皇后に警戒されていたと思われる忍壁皇子――河嶋の義兄――はどうかというと、
忍壁に関する『日本書紀』の記事は、
朱鳥元年八月に河嶋皇子とともに封一○○戸を給せられたことを
最後に、以後ひとつも見えない。彼
がふたたび史上に姿を現わすのは、『続日本紀』文武四年六月条に
律令撰定の功労者としてである。

持統の朝廷からは河嶋以上に疎外されたと思われる。

 忍壁よりましであったとはいえ、持統朝ですごした河嶋の歳月は、苦渋に満ちていたのではあるま

いか。先に私は河嶋の作の短歌一首を挙げたが、その歌にも彼の悩みがにじんでいるように思われる。

それには、「紀伊国に幸しし時の川島皇子の御作歌」という題詞があり、左註に「日本紀に日く、朱

鳥四年庚申の秋九月、天皇紀伊国に幸すといへり」とあるのを参照すると、持統四年九月の天皇の紀

伊行幸に供奉しての作と推定される。

 そう考えてよければ、河嶋の作歌「白浪の浜松が枝の手向草幾代までにか年の経ぬらむ」から当然

想起されるのは、持統四年をさかのぼる三二年の昔、斉明四年(六五八)に謀反の罪で捕えられ、紀
の温湯に滞在中の斉明天皇のもとに護送される途中の有間皇子の詠じたつぎの歌である(一首のみ録
す)

   磐代の浜松が 枝 を引 き結び真幸くあらば また 帰り見む   (巻二~一四一)

 しかし有間皇子はふたたび「浜松が枝」を帰り見ることなく、藤白の坂で刑死した。河嶋のこの紀伊の
旅路での歌は、有間哀傷の歌であったと考えられる。
   直木太次郎  飛鳥より





河嶋皇子の悩み

 『日本書紀』によれば、天武天皇は朱鳥元年(六八六)九月九日に飛鳥浄御原宮の「正宮に崩じ」 それ
から二三日目の十月己巳二日に、「皇子大津の謀反発覚し、皇子大津を逮捕す」とあり、翌庚午
三日
に「皇子大津を訳語田(おさだ)の舎に賜死(みまから)しむ」とある。一九八六年十月三日は大津皇子
没後満一三〇○
年の命日になる。

 この日、私は桜井史談会の招きにより、橿原市東池尻町の御厨子観音の名で知られる妙法寺に行き、

皇子追悼の講演を行なった。寺は天香久山から東北に延びる丘陵の中腹の見はらしのよいところに在

るが、丘陵の裾を東から北にひろがる水田は、かつての磐余池の跡と考えられる。この磐余池跡の推
については、従来も池尻や池之内などの地名からおおよその推定がなされていたが、和田氏は
小字名
や地形・地質なども詳しく検討して、池の範囲を明確に復原された。「桜井市史』上巻(一九
七九年)に載っ
ているので、関心あるかたはそれを見られたい。

 ところで皇子が死を賜った舎のある訳語田はふつう桜井市戒重の地とされる。磐余池の東北約一:
km余のところである。しかし『万葉集』にみえる皇子の有
名な辞世の歌には、

   
 ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ  (巻三~四一六)


とあり、詞書きにも、「大津皇子、被死(みまか)らしめらるる時、磐
余の池の陂(つつみ)にして涕(なみ
だ)を流して作りましし御歌一首」とあって
皇子は磐余池の提を死に場所としたと考えられる。『日本書紀』
万葉集』の両所伝に誤りがないとすると、皇子は訳語田の舎で死罪の宣告を受け二km近い道を徒歩、
あるいは騎
(罪人だから輿ではあるまい)で辿って磐余池の堤に至り、刑死したということになる。
訳語田の舎を皇子の住居とする
考えが一般のようだが、皇子は前日逮捕されているのだから自宅に
監禁されていたとみるより、別の建物に幽閉されたと
考えるのが自然だろう。「舎」という用語もそのほう
がふさ
わしい気がする。

 その舎から護送された堤の場所は、地形に従って西南から東北にむけて流れる戒重川やその他の小

川の水を塞きとめるための堤だから、現在の字「島井」とする和田説が妥当である(島井は二万五〇〇○
分の一の地図「畝傍山」
では、「東池尻町」の池の字の東の集落)。

 大津皇子の最期の地をこのように推定すると、妙法寺から二、三百のところである。皇子が仏教
信者であったかどうかはわからないが、新羅僧行心を身辺に近づけていたくらいだから、仏教に無
関心
であったはずはない。不遇の皇子を弔うのに妙法寺はまことにふさわしいと思われる。
   直木太次郎  飛鳥より




山背大兄王の死

 六四三年(皇極二)十一月一日、聖徳太子の嫡男、山背大兄王の住む斑鳩宮は、突然、蘇我入鹿
さしむけた軍勢の襲撃を受けた。

 聖徳太子が死んでもう二一年たつが、太子の築きあげた勢力と人望をうけついだ山背大兄が、当時

の政界に占める力は大きく、彼を天皇に立てたいと望む人々は少なくなかった。彼自身も皇位に希望

をかけていた。時の天皇は女帝の皇極である。夫の舒明天皇の死後に後継者が定まらないため即位
たのであって、だれがつぎの天皇になるかは政界の関心の焦点である。大臣蘇我蝦夷と入鹿の父子
蝦夷の妹、法提郎女が舒明との間に産んだ古人大兄皇子の即位を望んでいたことはいうまでもない。

その願望に対するもっとも大きな障害は、山背大兄王の存在である。

 入鹿は父の蝦夷も知らないうちに、ひそかに兵をあつめ、山背大兄王の宮に焼討ちをかけたのである。

 陰暦朔日、新月の夜、闇にまぎれての夜襲ではないかと思われるが、さすがに山背大兄王、不意を

つかれながらも、寄せ手の副将土師裟婆連を戦死させるほど手痛くたたかい、囲みを破って生駒山

かくれた。しかし、権勢ならびない蘇我入鹿が相手では、所詮のがれるすべはない。東国へ落ちて再

挙をはかっては、とすすめる従者もあったが、王は父·聖徳太子の建立した斑鳩寺(法隆寺)に入って自
殺し、妻妾、子弟もともに死に、聖徳太子の家系(上宮王家)はここに断絶した。太子の最古の
伝記であ
る「法王帝説」は、「合せて十五王子等、悉く減ぶなり」と記している。

 大化改新を序幕、壬申の乱をクラィマックスとする日本古代最大の政変の到来を予告する悲劇であ

った。

   直木太次郎  飛鳥より 


蘇我氏の没落

  山背大兄王一族の滅亡事件には、大化改新の中心人物中大兄皇子は姿を現わしていない。しかし、

この悲劇を傍観する皇子の心中は複雑なものがあったはずである。皇極女帝の治下皇位継承の候補
者として有力な皇子は、衆目のみるところ、山背大兄皇子と、古人大兄皇子
古人と同じく舒明の男で
ある中大兄皇子の三人につきる。ともに大兄という称をもつのも、三人が他
の諸皇子より高い地位にあ
ることを示す。山背大兄は、蘇我系の古人大兄にとってだけでなく、皇極
を母とする中大兄にとっても、
手ごわい競争相手である。その没落を、中大兄もまた一度は吉報とし
てうけとったのではなかろうか。

 しかし熟慮するまでもなく、上宮王家をほろぼして意気あがる蘇我氏が、かえす刀で中大兄を襲う

おそれは大きい。中大兄は年は古人大兄より若いが、現天皇を母とする血統の点では、蘇我氏を母と

する古人のそれを上まわる。山背大兄以上に有力な次代の天皇の候補である。古人大兄をおしたてよ

うとする蘇我氏の次のねら いが、中大兄に照準をあわせていることは明白である。

 この危機を打開するには先手をうつほかはない。若い中大兄は決然と行動をおこし、政界きっての
謀の士、中臣鎌子(藤原鎌足)がこれを助ける。飛鳥寺での蹴鞠の遊びが両者のまじわるきっかけ
となり、
儒学の師、南淵請安の家へ通う道すがら、蘇我氏打倒の策を練ったというエピソード『
本書紀』は伝え
ている。鎌足は蘇我一族中の有力者、蘇我倉山田石川麻呂を味方にひきいれ、さらに
その娘を中大兄
の妃にいれてちぎりを深めるなど、慎重に手を打ったうえで、六四五年(皇極四)六
月十二日、蘇我入鹿
打倒のクーデターを決行する。おりから梅雨にけぶる飛鳥板蓋宮の殿上で、入鹿
は中大兄のふるう剣を
身にうけてたおれ、翌日、父の蝦夷はみずから邸を焼いて死んだ
大化改新の幕はこうして切って落され
た。

   直木太次郎  飛鳥より





大化の明暗

 強大な蘇我氏が勢いを失い、ここにはじめて天皇中心の政治が実行できる条件がととのった。皇極
位を中大兄にゆずろうとしたが、二十歳になったばかりの中大兄では、この政変のな
かで天皇になるに
は若すぎる。彼は鎌足とはかって、皇極の弟で、このとき五十歳の軽皇子を皇位に
つけ(孝徳天皇)、自
分は皇太子となって政治の実権をにぎり、阿部倉梯麻呂、蘇我石川麻呂を左右
大臣として、政府の首
脳部をかためた。皇極四年は大化元年となり、その八月、政府は東国と大和と
に使者をおくって、土地
と人民の調査をはじめ、国家権力による全国支配の政策を軌道にのせる。天
皇制中央集権国家のスタ
ートである。
 一方、中大兄は、かつてのライパル古人大兄に追い討ちをかける。古人大兄は蘇我氏の
没落ととも
に政界での望みを捨てて吉野の山に入るが、中大兄は謀反の疑いありとして、兵をつかわし
て攻め殺
すのである。妻妾、王子もともに死んだ。非情な古代政治史のひとこまである。そうして中大兄
は同
じ年の末、難波遷都を断行して、あたらしい政治をあたらしい都でおし進める。大和はしばらく政治

の中心から離れるが、国と評(こおり。郡)とからなる地方制度や、画一的な祖税制度など、支配の体制
がし
だいに整ってゆくことは、大和の人々にも実感されたことであろう。

 都がうつって五年目の六四九年(大化五)、飛鳥の山田寺で、右大臣として令名の高い蘇我石川麻呂
が謀反の疑いをかけられて自殺す
るという事件が おこり、世をさわがせたが、さらにそれから四年たっ
た六五三年(白雉
四)、にわかに中大兄皇子が、皇極太上天皇や弟の大海人皇子(のちの天武天皇)と
とも
に百官をしたがえて、飛鳥川辺行宮にかえってきた。孝徳天皇をひとり難波におきざりにして、朝廷
の中心部が飛鳥に移動したのであ
るが、そのうえ孝徳の皇后で、中大兄の同母妹の間人皇女までが、
天皇をすてて中大兄と行をともに
し、飛鳥へもどった。まことに異常な事態である。単に政治上の間題で、
中大兄と孝徳との対立があ
らわになっただけではあるまい。孝徳はこのとき 
  
錯(かなき)つけ吾が飼ふ駒は引き出せず吾が飼ふ駒を人見つらむか

という歌を皇后に送っているが、いうまでもなく皇后を大事に飼っている馬にたとえ、皇后と皇后をつれ
去った中大兄に恨みをのべた歌である。けれども、
中大兄はただ間人皇后をつれ去っただけだろうか。
二人は恋愛関係におちいっていたのではあるまいか。同母の兄と妹とが、まさかと思われるが
間人皇后
のおもいきったふるまいは、その疑惑をひきおこすに十分である。

 孝徳は悶々のおもいにたえかねて、皇位を去ろうとしたが、結局翌年、さびしく難波で世を去り、都は
ふたたび飛鳥にもどった。

   直木太次郎  飛鳥より




うめ

    わが園に 梅の花散る ひさかたの

    天より雪の  流れくるかも

              主人 大伴旅人(五~822)

(梅·鳥梅)

 梅の花は春のことぶれ。

 かつては柳芽、霞、鶯とかが春のことぶれであったが梅の渡来により、梅の花が春のことぶれとして歓
迎されるようになった。梅は『古事記』、『日本書紀』『風土記』にさえ載っていない
が、『懐風藻』の漢詩集
に登場しているのはやはり中国産の花らしい。

 梅花の歌で壮観なのが大宰帥大伴旅人卿宅での饗宴にて詠まれた「梅花の歌三十二首」。天平二
(730)正月十三日、大宰府や管内諸国の著名人が集まって各々が梅に寄せる情を和歌で詠ん
だ。当時
の文化人たちの意気込みが伝わるかのような序詞ではじまる。

  「于時、初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾蓋。

  夕軸結霧、鳥封 縠(うすもの) 而迷林。庭舞新蝶、空帰故鴈。……後略」

 折りしも初春のよき月で、気は清澄にして風はやわらか、梅は佳人の鏡前の粧ひのように開き欄は匂
ひ袋の香のようにただよう。そればかりではない。明け方の峯には雲が移りゆき、松は薄絹
をかけて、

鳥は林のなかで迷うている。庭には新蝶が舞い、空には故雁が帰ろうとしている。…… 後略、とい
四六駢儷体の美文調によって、楽しくて、華やかな宴席の模様が描かれている。「文筆でなけれ
ばどうし
てこの情緒がのべられようか」とあるからといって、饗宴を全くの虚構と見倣すことはで
きないだろう。
漢詩の句に類似していたとしても、それは古今に変わらぬ風雅の楽しみを推奨する
ものであって、
「いささか短歌をなすべし」と結ぶ言葉も生きてくる。

 周知の旅人は大伴安麻呂の長男で家持の父である。旅人が大宰帥に任ぜられたことは、『続紀の記
載には見えないが神亀年間中のこと。赴任後間もなく妻大伴郎女を亡くして二、三年が経過し
た頃の宴
である。この頃になって旅人もようやく風雅の落ち着きを取り戻
したようだ。「員外の故郷を思ふ二首」と、
「後に追いて梅の歌に和ふる
四首」が追加されている。以上のすべてが旅人の追作であろうというのが

有力な説。梅の歌の早期の編集では巻三~四首、巻四~三首となっているが、作者は藤原八束、大伴
駿河麻呂、大伴百代、大伴家持等で、初出は大
宰府宴での大弐紀卿の815番である。したがって梅の
歌は、まずは異国に近い大宰府に渡来して文雅の花開いたということができようか。
    宮地 たか  花まんだら より
   元号⇒⇒⇒




やまぶき

   山振の 立ち儀ひたる 山清水

   的みに行かめど 道の知らなく      高市皇子(二~158)

やまぶき (山吹·山振·山麻夫伎)

 「山吹の花が装いをこらして一面に咲いているあたりの山清水を汲みに行きたいが、行く道がわから
ない」

 春の山野に咲く黄金の花。「山振之 立儀足 山清水・・・」に訓解の曲折があったのを、「ヤマプキノ

タチョソヒタル ヤマシミッツ」と改めたのは「代匠記』」の契沖であった。山吹は既に万葉の頃から多く詠ま
ていた。一重咲きからは結実し、八重咲きには実がつかない

   花咲きて 実はならずとも 長き日(け)に

   思ほゆるかも 山吹の花  (十~1860)

 花が咲くだけで、実はならないとしても、長い間花の咲くのが待ち遠しく思われることよ。山吹の花、実
はなくとも八重咲きの山吹の花は美
しい。実らぬ恋を慰める裏の意味が隠されているのか。

このように古くから両種類の山吹があったらしい。高市皇子の山吹はどちらであるのか。山深い谷間の
縁に咲き揺
れる花の枝先が、あたかも水を飲むかのように清水に触れて戯れる。

 高市皇子は、生涯に三首の歌を残すのみで、すべては異母妹の十市皇女に贈られた挽歌。二人と

も父は天武帝で、高市の母は胸方君尼子娘。十市の母は額田王。皇女は近江朝の大友皇子(父天智,
母宅子娘)の妃となり、壬申の乱では夫と父が皇位を巡って争うという悲劇の渦中にあった。乱後、当に
斎宮に幸(いでま)さむ時に謎の死を遂げたのである。「卒然に病発りて宮中に薨(みう)せぬ(天武紀下)」
によって行幸は中止。赤穂に埋葬さる。歌のなかの黄花と泉には「黄泉の国」の幻想がある。高市皇子は

「山吹のにほへる妹」を求めて、十市皇女を取り戻すための 「黄泉」に至る道を探し求めて、山路に迷い
込んでしまうのである。

  厚見王の歌一首(春の雑歌)

   河蝦(かわず)なく 甘奈備川に 影見えて

   今か咲くらむ  山吹の花 (八~1435)

 カジカが鳴く甘奈備川に影をうつして今ころは咲いていることであろうか、美しい山吹の花よ。

山吹は風の吹くままに枝がゆれ動くので「山振」とも表記される。厚見王は父母は不明だが天平宝

字元年に従五位上を授けられる。
   宮地 たか  花まんだら より



さねかずら

   玉くしげ  見む圓山(まとやま)の さなかづら

   さ寝ずはついに ありかつましじ  藤原鎌足(一~94))

 さなかづら(狭名葛·佐奈葛)

 さねかづら (狭根葛,核葛)

 「見むまと山のさなかずらーそのかづらの名のように、さねずー手枕まかずに、結局はこのまま

耐えていることができないでしょう」

 現代ではサネカズラであるが、万葉ではサナカズラとサネカズラの両方がある。サネは実のこ

と、カズラはつるの意味で、赤い実の目立つ蔓のことである。サナカヅラは「逢う」にかかるとい

うこと。秋に蔓が延び、隣の蔓と縄のように絡まり合い=逢うという状態を導くのに実に適切な言

葉ということができよう。

 歌は藤原鎌足が鏡王女と逢う時に贈ったものである。鏡王女は額田王の姉と言われる。姉妹はと

もに中大兄皇太子(天智天皇)の寵愛を受けたが、鏡王女はやがて鎌足の正妻となった。鎌足の二

男藤原不比等は鏡王女から生まれたのではないかとの興味深い憶説があるが、真偽のほどは確かで

はない。
  宮地 たか  花まんだら より




まつ

  吉野より蘿生(こけむ)せる松の柯(えだ)を折り取りて遣はしし時に、

  額田王の奉り入れたる歌一首

 み吉野の 玉松が枝は 愛(は)しきかも

 君が御言(みこと)を 持ちて通はく   (11~113)

まつ(松·待·麻都)

 「み吉野の立派な松の枝はいとしいことよ。あなたのお言葉を持って通ってくるのですもの」

 初期万葉の代表といえば額田王。その生涯は謎をみながら最も広く知られている万葉女性歌人であ
る。
歌人としての最後の歌が弓削皇子との相聞歌となる。

 弓削皇子は大江皇女(天武帝の妃)の第二子で兄に長皇子がある。おそらく持統女帝の行幸に従駕し
た時の事と思われるが明瞭ではない。弓削皇子と額田王との間には、松の歌に先行して、弓絃
葉の上
を鳴き渡って行くホトトギスに託した懐古の歌がある。ホトトギスの漢名に「蜀魂」があ
り、蜀王の魂が鳥
となって昔に恋い焦がれるというもの。時期は定かではないが多分初夏の頃。額
田王は既に六十歳頃
と推定される。

 弓絃葉の上を鳴き渡って行く小鳥を、古に恋うる鳥かもと詠んだ弓削皇子の贈歌に対して、それはホ
トトギスでしょうと贈答した額田王。弓削皇子は、亡父天武帝を偲び、額田王に訴えているか
のようであ
る。更に皇子は吉野から苔の生えた松の枝を額田王に贈っている。その「玉松が枝」に
はおそらく言葉
が添えられていた、あるいは歌であったかもしれない、それは残っていないから推
測の域をでないが、
額田王が早速に御礼の答歌を贈っている。その返事は弓削皇子からは寄せられていないから、両者の
以後の御縁は不明。
  宮地 たか  花まんだら より





あし

  慶雲三年丙午、難波の宮に幸しし時、

  志貴皇子の御作歌

 葦辺行く 鴨の羽がひに 霜降りて

 寒き夕へは 大和し思ほゆ 志貴皇子 (一~64)

あし(葦)

 「葦辺行く鴨の羽がいに霜が降って、寒さが身にしむ夕べには大和が思われてならない」

 志貴皇子は天智天皇の第七皇子で、母の越道君伊羅都売が生んだ唯一の皇子であった。政変の激

しい時代に、天武持統文武の諸天皇に仕え、気品のある秀歌を『万葉集』に六首を残している。

御子の白壁王が即位して光仁天皇となった時に追尊されて「御春日宮天皇」「田原天皇」など

の号が諡号られている。

 上掲の歌は慶雲三(706)年九月二十五日に、文武天皇が難波に行幸された時に志貴皇子が詠んだも
のである。この二行にわたる題詞の記載形式が異例なことから、これは次の「長皇子の御
歌」と共通の
題詞(沢冩)ではないかと言われているので、長皇子の歌を取り上げておこう。
長皇
子は天武を父とし、母は天智の娘大江皇女である。高貴な二人の対照的な性格が窺える。

 あられ打つ あられ松原 住吉の

 弟日娘と(おとひをとめ)と 見れと飽かぬかも (一~65)
霰の打つ
松原も、住吉の弟日娘と共に眺めていると、何時まで見ていても見飽きないことだよ。
霰の降るような寒い、あられ松原をあたかも楽しんでおられるかのようである。

  宮地 たか  花まんだら より