海瀧山王龍寺地図

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 十一面観音立像 不動明王立像 
   
本堂の内部には、さらに内陣があり、その奥に本尊の磨崖仏の十一面観音立像がある。本堂内陣
の奥にある岩は、高さ4.5m、幅5.5m。そこに王龍寺の本尊が刻みこまれて安置されている。
磨崖仏は堂内にあるが、堂の裏手が写真のような岩となっている。この岩は凹状になっていて、
下で繋がっている。片方は岩の状態、もう一つの岩は磨崖仏となって堂内に安置されている。 
   
黄檗宗
 聖武天皇の勅願による古刹とされている。
 黄檗宗の寺院として体裁が整られたのは、大和郡山の城主であった本多忠平公によって、
元禄2年(1689)に堂宇が整られた。
 開山は、梅谷禅師。石仏十一面観音立像は建武3年(1336)の作になり、不動明王立像は
文明元年(1469)。
     

 海瀧山王龍寺は、奈良市の西部、矢田丘陵の北、富雄川のほとりからすこし

山をのぼったところにあります。富雄川は古くは「とみのおがわ」と呼ばれ、

平安時代から歌に詠まれてきた、由緒のある川です。

いかるがやとみの小川のたえばこそ

わがおほきみのみなをわすれめ


                          拾遺和歌集

 この富雄川から徒歩で二十分ほどのぼったところに王龍寺があります。聖武

天皇の勅願によって建立されたと言い伝えられています。古来より人々に親し

まれてきた地であるといえましょう。現在では、王龍寺の山から東の方向を眺

めれば、平城宮跡のむこうに東大寺や若草山を一望のもとにとらえることがで

きます。

 王龍寺が現在の形になったのは江戸時代になってからのことです。江戸幕府

五代将軍綱吉の時代、貞享二年(1685)に、栃木宇都宮より本多忠平公

(1632-1695)が、奈良の大和郡山十二万石の城主となられました。そして

元禄二年(1689) 、現在のこの地に、王龍寺を黄檗宗の寺院として復興,創建し、

その菩提寺とされました。

 なお、忠平公は、奥州白河、下野宇都宮、大和郡山とうつられましたが、白

河在城のとき、寛文四年(1664)、亡母法光院殿七回忌菩提のため黄檗山萬福

寺に、范道生の十八羅漢像を寄進されております。

そして、ここ王龍寺にも、

かなり小ぶりながらも萬福寺にあるのと同じ様式の十八羅漢像が安置されてい

る次第です。

 開山は、梅谷禅師です。長崎において、中村姓に生まれました。幼いときよ

り仏教にこころざし、長崎永昌寺において、曹洞禅を学んだ後、黄檗宗第二代

木庵禅師に師事し、その法をつがれました。元禄十四年(1701)に、六十二歳

でなくなられました。


王龍寺の本尊は磨崖仏(石仏)十一面観音菩薩像となっております

世の中に石仏は多くありますが、その作成の年紀があきらかなものはほとん

どありません。そのなかにあって、王龍寺の本尊、この十一面観音菩薩像は、

その作られた年紀が刻み込まれて、現在にまで伝わる、数少ない貴重な事例と

いえます。
その銘には、
建武三季丙子二月十二日大願主僧千貫行人僧千歳

と刻されています。建武三年は、1336年になります。

また、その脇には、不動明王像が刻み込まれています。
この
不動明王像にも、作成の年紀が明記してあります。その銘には、

文明元年己年丑十月日僧昌□とあります。文明元年は、1469年にあたります。

現在の王龍寺は、黄檗宗として禅宗の寺院になっていますが、

今につたわる本尊などからは日本の中世のひとびとの信仰の

端をかいまみることができることでしょう。

この本尊は南北朝期を代表する年紀のはっきりした磨崖仏と

して、奈良市の文化財(史跡)に指定されています。


本堂

 本堂は、山門から渓流沿いに300メートルほどのぼったところにありま

す。江戸時代に、現在の王龍寺の堂宇になった時に建立されたもので、元

禄二年(1689)のものです。

 本堂の内部には、さらに内陣があり、その奥に、本尊の磨崖仏(石仏)

の十一面観音菩薩像があります。本堂の内陣の奥にある岩は、高さ4.5メ

ートル、幅5.5メートルにもなります。そこに王龍寺の本尊が刻み込まれ

て安置されております。

外陣の左右には、十八羅漢像が安置してあります。これは黄檗宗の大本

山、京都府宇治市にある黄檗山萬福寺の本堂(大雄宝殿)に安置されてい

るものと、同じ様式につくってあるものです。江戸時代になって中国(明)より
伝わった仏教彫刻として、
貴重なものとなっております。


大黒堂

 参道から本堂にむかって左の方、さらに石の階段をのぼったところに、

大黒堂があります。この大黒天は近年になってからのものですが、古代中

世より連綿と王龍寺が信仰の場であったことを示すものとなっております。


鐘楼

 本堂にむかう参道の途中、瀧の横から細い路が分岐していて、鐘楼にい

たります。鐘それ自体に銘はありませんが、この鐘の由来を記した元禄七

年(1694)の銘版が、王龍寺には伝わってのこっています。


王龍寺の自然(文化財)

 王龍寺の境内地は、古来より信仰の場であったため、豊かな自然がのこ

されています。南門ちかくには樹齢300年をこえるヤマモモの大木があり

ます。また、山門から参道を経て本堂の周囲の山林は、コジイ林として市

内でのこされた貴重な里山の自然となっています。これらはともに、奈良

市の指定文化財(天然記念物)に指定されています。ヤマモモの古木は、

奈良県の保護樹木にも指定されています。


黄檗宗について

 黄檗宗は、江戸時代、中国の明の時代に、隠元禅師によって日本にもたらさ

れた、臨済宗のながれをくむ禅宗です。隠元禅師は、中国において、福建省

にある黄檗山萬福寺の住職をされていました。1654年に、63歳のとき弟子

20名とともに、日本にわたってこられ、京都の宇治に新たに同じく黄檗山

萬福寺を建立されました。明治になって、黄檗宗として独立の宗派となりま

した。現在でも、本山(萬福寺)では中国式の生活様式で修行がおこなわれ

ています。