平城宮跡 第一次大極殿正殿復原
鴟尾(しび) |
瓦葺屋根の大棟の両端 につけられる飾りの一種で、 火除けのまじない にしたともいわれている。 平城宮の発掘調査では 見つかっていないが、 当時の格式の建物では 必ず乗せられていることから、 平安宮大極殿のために 作られたと考えられる 鴟尾を参考に、 2mのものを復元した。 近つ飛鳥博物館より。 |
710年に都が奈良に移り、平城遷都1300年にあたる2010年には奈良時代前半の平城宮第 1次大極殿が復元されます。 大極殿は長大な回廊で取り囲まれており、この区画を大柩殿院と呼んでいます。そこは即位 大極殿院の北寄り3分の1は大極殿,後殿が位置する高台で、南寄り3分の2は臣下の並ぶ広場で す。広場から高台に上る斜路が東西にあり、高台の正面と斜路の側面には?(せん)と呼ぶレンガ その形と各部の長さは不可解なものでしたが、設計方法を検討した結果、擁壁の端部や屈曲点の位 置を決めるのに、大蜑中心の8尺北寄りに中心をもつ同心円三つと、後殿前に中心をもつ偏心円の 交点などを用いて設計・施工していることがわかりました。同心円の半径は240尺. 280尺. 3 20尺、偏心円は360尺あり、40尺の6、7、8、.9倍を用いています=図。複雑な設計にもかか わらず、規則性がうかがえました。 中国の史書「史記」によると、秦の始皇帝が宮殿を造営した時、北?星を含む星座「紫微宮 宮殿の造営は宇宙をかたどるものとされ、その設計思想は伝統的に受け継がれています。明・清時代 の宮城である紫禁城(北京の故宮博物院)や、京都?所の紫宸殿に紫の字が使われるのは、紫微宮に ならったためです。 平城宮の中心建物は大極殿といいましたが、唐の長安城では太極殿といいました。字は異なっても 意味は同じです。太極とは儒教が重視した易の思想にかかわるもので、宇宙の根源のこと。それを天 帝(天の皇帝)の住む北極星と考えたため、大極殿の名称は北極星に基づく名称なのです。 天帝は、地上のしかるべき有徳者に天命を下し、地上の支配を委託、受命した者が天子となり地上 を統治します(天命思想)。天子は、天帝から委託を受けた証しに天上界を地上の宮殿の中に再現 し、自身を権威づけたのです。 古代の日本は「史記」などの中国古典を通して宮殿の設計思想を学びました。?積擁壁の設計に用 いた3同心円と偏心円は、キトラ古墳の石室天井の天文図に描かれた内規(周極星の範囲を示す円) ・赤道・外規(観測できる南天の限界円)の同心円三つと中心の異なる黄道(1年間の太陽の通り 道)を意識したものです。 3同心円の中心は天皇の玉座「高御座」が置かれる天下の中心であり、天上界の不動の点、天の 北極に相当します。高御座が大極殿のやや奥まったところに置かれることは、天の北極と北北極星がわ ずかにずれている宇宙の構造を正確に反映した結果です。 一方、偏心円は太陽の通り道である黄道を表すため、本来、赤道と同じ大きさで表現されるはずの ものでした。ところが、あえて最も大きな円にしています。これは記紀(古事記、日本書紀)の神話 で日神の子孫とされる天皇の力が、宇宙をも覆うということを示そうとしたデザインです。 天皇は天下を支配する正当性を神話の中の天上界(高天原)に求め、第1次大極殿院の造営は天上 界を写して、天皇の権威を国内外に誇示するものであったと、私は考えています。 奈良文化財研究所 文化遺産部景観研究室長 内田和伸 |
すでに平城宮跡では、朱雀門(すざくもん)、東院庭園(とういんていえん)などの復原が完了し、平成13年度より、遷都1300年となる2010年完成に向け、宮跡の中核施設である第一次大極殿正殿の復原工事が進む。 復原にあたっては、発掘調査から分かることや推定されること、また古代建築物として現存する、法隆寺金堂や薬師寺東塔等を参考に、「続日本紀」、「年中行事絵巻」といった多くの歴史資料も参考にして、構造・意匠において奈良時代の姿に忠実に復原することを目指している。 |
「大極殿を二重とみなしたのは、まず第一に薬師寺に代表されるように、奈良時代の仏教寺院では金堂を二重とするものが少なくないこと。また平安宮大極殿について、天禄元年(970)に成立した「口遊(くちずさみ)」に、出雲大社本殿および東大寺大仏殿とならび称される大型建物と謡われていることなどから、二重としていいます。」 「上屋構造の復原にあたっては、主として構造形式は古代建築で唯一現存する二重仏堂である法隆寺金堂をよりどころとして、組物・軒廻りなど細部の意匠については、年代を考慮して奈良時代前半の薬師寺東塔にならうこととしました。」 |
高さ(棟高)約27m、東西長さ44m、南北長さ約19m。朱雀門より大極殿の方が大きく(朱雀門 東西長さ約25m、南北長さ10m、高さ22m)東大寺大仏殿よりも小さい(大仏殿 東西長さ約57m、高さ48m) |
屋根いたも張られ、瓦を載せる直前。 | 屋根板をふく直前 | |
現場前の加工場、やりがんな仕上げ。 | 朱塗りの垂木や組み物の加工場 | |
天井板、支輪板の彩色 「国内産檜のやりがんな仕上げを施した板に、なず彩色の下地として胡粉塗装(白色)を行います。胡粉は板甫かきの貝殻を風化させたものをつぶした白い粉で、主成分は炭酸カルシウムです。 胡粉と膠水を混合してできる塗料を膠の量を変えて塗り重ねます。胡粉塗装が完了した後、蓮の花をモチーフとした図を描きます。新岩絵の具という人工顔料を調色したものを塗料としています。彩色は、まず図の輪郭部分をぬきとった渋紙で大まかな形を転写します。花びらの赤い部分には、薄い色の部分がぬれた状態で濃い色の絵の具を置くことにより色を自然にぼやかす”たらし込み”と呼ばれる日本画の技法が使われています。原画作成は、日本画家の上村敦之先生です。」 |