唐招提寺地図

 唐招提寺は律宗の総本山。759年、日本に戒律を伝えた唐

僧・鑑真が開いた。1998年、ユネスコの世界文化遺産に登録された。

正面に8本のエンタシス様式の柱が並ぶ金堂(国宝)は代表的な天平建

築。その中に、本尊・盧舎那仏坐像を中央に、薬師如来立像,千手観世音菩

薩立像が配されている。

鑑真和上坐像(国宝)は毎年6月、命日の法要にあわせて公開される。坐

像を忠実に模してつくられた「御身代わり像」が開山堂に安置されている。 

戒壇(かいだん)
 金堂の西側にある戒壇は、鑑真和上に由来する三師七証
(さんししちしょう)によって僧の受戒が行なわれる場所で、
この寺にとっては特に重要な施設である。
 この寺の創建時に築かれたが、中世に廃され、その後再興
倒壊、再興焼失と繰り返され、石造りの戒壇の回りに門と
土塀が復興され、昭和53年、最上段の中央に石造りの
ストゥーパが築かれて現在のすがたになった。
御影堂(みえいどう・重文)
 この堂は、興福寺の別当坊だった一乗院の遺構であり、寺外
から現在の場所にむかえられた。10世紀から歴史をもつ古い
門跡寺院の表向き御殿として、格式の高い建物であり、
そのため一乗院宸殿とよばれた。
 現在の建物は、17世紀半ばごろに再建されたものだが、
格式と伝統を守って、平安時代の寝殿造りの趣を保ち、
開山大和上の御影堂としてふさわしいたたずまいとなっている。
鑑真和上御廟(がんじんわじょうごびょう・688〜763) 鑑真は日本の律宗と唐招提寺の開祖
 鑑真和上は688年に中国揚州で誕生、14歳の時、揚州の大雲寺で出家された。21歳で長安実際寺に授戒を受けたのち、揚州大明寺で広く戒律講義し、
長安・洛陽に並ぶ者のない律匠と称えられた。742年に日本からの熱心な招きに応じ渡日を決意されたが、当時の航海は極めて難しいもので、
鑑真和上は5度の失敗を重ね盲目の身となられた。
しかし、和上の意志は堅く、753年12月、6度目の航海で遂に来朝を果たされた。
 翌年和上は東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、聖武太上天皇・光明皇后をはじめ4百余人の僧俗に戒を授けた。これは日本初の正式授戒であった。
鑑真和上は東大寺で5年を過ごされたのち、758年大和上の称号を賜った。あわせて右京五条二坊の地、新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り、
天平宝字3年(759)8月戒律の専修道場を創建された。これが現在の律宗総本山唐招提寺のはじまりである。
  法華寺⇒⇒⇒
 鑑真和上は揚州大明寺にあるときから、名僧としてかずかずの業績を残していた。日本渡来のとき、多数の経典、書籍、薬品、器物をもたらし、さらに24人の
有能な弟子たちを連れてきた。鑑真が重視したのは梵網経とされる。
 天皇から「大和上」の尊号を贈られて、篤く遇されたが、そのため、彼が死んだときには奇異な伝承を生んだ。端座してしんだので即身成仏したわけである。
3日間頭の上が温かかったので、納棺しなかったという。また、火葬したところ、芳香があたりにただよったともいう。
 鑑真像は天平期の脱活乾漆造り、麻布を漆で貼り重ねた張子状の等身像で、重さは12kg。
 鑑真の弟子忍基が講堂の梁が折れる夢を見て師の死期を察して造立した。鑑真の姿を熟知した仏師による写実像である。
鑑真⇒⇒⇒
 梵網経:主眼は菩薩になろうと誓った人が守るべき規律、菩薩戒を説くこと。殺生など重い十戒と、飲酒など軽微な四十八軽戒(きょうかい)の
      計58戒を説明し、菩薩戒の根本経典として敬われた。

唐招提寺解説本(唐招提寺発行) より
南大門 孝謙天皇勅額
「唐招提寺」
金堂(国宝)、奈良時代(8世紀後半)、寄棟造、本瓦。
 本尊 廬舎那仏坐像(国宝) 背中にある光背につけられた
     化仏(けぶつ)の数は864。
千手観音立像(国宝)薬師如来立像(国宝)梵天(国宝)
帝釈天立像(国宝)四天王立像(国宝)
 金堂は「天平の甍」とたたえられる優美な大屋根や
開放的な正面のたたずまいがある。
 金堂は宝亀年間(770〜780)の造営説が有力で、鑑真の
弟子如宝により建立された。桁行7間、梁間4間、寄棟造り、
本瓦葺き屋根で、屋根両端にあった鴟尾は新宝蔵に展示
されている。
 金堂内部の柱頭部から天井にかけて、極彩色の仏画と文様
が施されている。この色彩には、唐の影響が強くみられる。
薬師如来立像(国宝) 関連神護寺薬師如来立像⇒⇒⇒
天平の甍(いらか)の碑 井上靖 新しい金堂平成鴟尾(しび)
金堂鴟尾 
 東方鎌倉時代、西方奈良時代のものは、新宝蔵に展示されている。
当寺金堂の大屋根に載る飾り瓦。左方(西・高さ1.2m、重さ185kg)は創建当時のもので、1200年間金堂を災難から
護り続けた「天平の甍」である。屋根上で残ったものとして唯一であり、唐招提寺のシンボルである。
右方(高さ1.2m、重さ237kg)は棟の東側に残っていた鎌倉時代製作のもので、この鴟尾には腹面に銘文1323年6月
に西の鴟尾を製作したことが記されている。この文に従えば東西の鴟尾を移し替えたことになる。
 新しい平成の鴟尾(写真)は、東西いずれも高さ1.2m、重さ約220kgものが屋根の上部に据えられている。
鴟尾:鳥の尾を模した飾り瓦
 鴟尾は今は新宝蔵で保管されているが、文化審議会から国宝指定が答申された。(2012−5−18)
 金堂の解体修理の際、年輪年代法の調査によって、屋根材に718年伐採の檜が使われていることが分かった。
建物ができたのは延暦年間(782〜806)とみられ、鑑真が寺を創建し天平宝字3年(759)にも、在世中にも、まだ建って
いなかったことになる。
 天平彫刻の正統とされる廬舎那仏の制作は750〜760年代とみられている。金堂が建立されるまで本尊はどこに安置
されていたのか謎とされる。
 講堂は平城宮の東朝集殿を移築したものであるが、柱間が狭く本尊は入らない。

金堂(国宝)南西側,8本のエンタシス列柱
金堂 千手観音立像(国宝)、腕の数は953本。
    平城遷都1300年ポスターより

唐招提寺の金堂を訪れた人は、誰しもその見事な円柱に心をとめるで

あろう。円柱が全姿をあらわに並列しているのは、大和古寺のなかでも

この寺以外にはない。(中略)またこの円柱は光りばかりでなく、千二百年

のあいだ、金堂に詣でた人々の息吹や体臭や衣の香りまでも吸い込んで

いるにちがいない。感触が柔く、どこかに暖かさがこもっている。

(亀井勝一郎「大和古寺風物誌」新潮文庫) 

 講堂(国宝)、奈良時代(8世紀後半)入母屋造、本瓦
 本尊 弥勒如来坐像(重文)持国天(重文)増長天(重文)
和上が当寺を開創するに当たり、
聖武天皇平城宮東朝集殿を朝廷より賜り移築した。

鐘楼・梵鐘(重文) 鼓楼(ころう・国宝)
 鼓楼は、鎌倉時代(仁治元年・1240)入母屋・本瓦の建物で、その名称にもかかわらず、
かって太鼓を置いて鼓楼の役目を果たしたことはなく、元来は経楼で、しかもここに鑑真和上将来
の3000粒の仏舎利を金亀舎利塔(きんきしゃりとう)におさめられ、初重内部の南北朝時代の
厨子の中に安置されているので、舎利殿ともよばれる。これが鼓楼と呼ばれるようになったのは、
江戸時代に黄檗宗建築が伝えられた結果、禅宗風の名称に擬(ぎ)せられたためといわれている。
 毎年5月19日には、鎌倉時代戒律を復興した大悲菩薩覚盛上人(かくじょうしょうにん)の
中興忌(うちわまき会式)が行なわれ、法要後、楼上からハート型の宝扇がまかれる。
この鼓楼と対をなす建物として鐘楼がある。当初の建物は残っていないが、
梵鐘(重文)は平安初期の貴重なもの。
 この東側に礼堂があるが、これも構造は東側を正面とする堂で、
つまり西側の舎利殿を礼拝するための礼堂であったわけである。
 5月19日に、宝扇(ほうせん)と呼ばれるハート形のうちわを参拝者にまく「うちわまき」が、
2階建ての鼓楼からまかれる。ハートのうちわは厄除けのご利益があるとされる。
 鎌倉時代に戒律復興をすすめた覚盛(かくじょう)上人(1194〜1249)が不殺生を貫き、
没後に蚊を追ううちわを法華時の尼僧が供えたのが始まり。
 午後1時から上人をたたえる「中興忌梵網会(ちゅうこうきぼんもうえ)」の法要が講堂で
営まれた後、先着の参拝者に渡され、うちわまきはその後。
東室(ひがしむろ・重文) 東室(左)、礼堂(右)と馬道。 礼堂(らいどう・重文)
 礼堂は、南北に桁行19間の長い建物であり、そのうち南の8件が礼堂、北の10間が東室であって、
その間の1間は馬道(めどう)といい通路で南北に分けられている。
 鎌倉時代(弘安7年・1284、入母屋造り、本瓦)の建物。元来は僧房で、講堂をはさんで反対の西側にも同じような僧房があった。
 鑑真和上も、かっては僧房西側の一番北に位置するところに起居されたといわれ、示寂ののちそこに御影堂が建てられた。
江戸時代、西室とともに焼失し、いまは礎石だけが残っている。
 馬道(めどう) 
 中央の1間が馬道(めどう)と呼ばれる土間の通路で、これは建物の中間に通り抜けるために馬道をもうけると、使い勝手が格段によくなる。寺院建築では古い遺構として、法隆寺東院舎利殿及び絵殿(えでん)、唐招提寺礼堂(とうしょうだいじらいどう)、東大寺二月堂参籠所(さんろうじょ)、石上神宮出雲建雄神社拝殿などに馬道がある。

左から、金堂(黒く影のある建物)、講堂(右半分の建物)、本願殿(遠く小さな建物)、
鼓楼、礼堂、校倉(経蔵)、トイレ、茶所
平成10年(1998)
「古都奈良の文化財」として
世界文化遺産に登録された。
 奈良・世界遺産⇒⇒⇒
     
 新宝蔵  宝蔵(ほうぞう・国宝、左)、
経蔵(きょうぞう・国宝、右)
 校倉(あぜくら)
 新宝蔵展示されている主なものとして、
唐招提寺勅額(孝謙天皇宸筆)、十一面観音菩薩立像(重文)薬師如来(重文)、
衆宝王菩薩立像(重文)、獅子吼菩薩立像(重文)、大日如来(重文)宝生如来立像(重文)
聖徳太子立像(重文)、金堂の鴟尾二躰。 如来形立像⇒
礼堂・東室の右手(東側)に校倉が天平時代の校倉が二つ並ぶ。経蔵はこの地が寺になる前
、新田部親王の邸宅であった時、既に米倉として使用されていたと伝えられ、正倉院(756)の校倉
より古いことになる。
 宝蔵の内部は中2階式の構造で、これは正倉院の校倉などと同様にむかしの倉の形式を伝え
る。 
 瓊花(けいか)が4月末〜5月7日まで見頃となる。
中国・揚州市の名歌。ガクアジサイに似た5弁の白い花を8個付けることから、八仙花とも呼ばれる。
 鑑真和上没後1200年の1963年、中国仏教協会から1株贈られ、現在(2017年)は10株が育つ。

境内の御影堂供華園(くげえん)で特別開園されており、通常の拝観料(大人600円など)で見られる。
午前9時
後4時。

2017−5−3  朝日新聞 より

 
新宝蔵 御影堂 醍醐井戸 戒壇 開山堂跡 西室跡 鐘楼 南大門 金堂 講堂 食堂跡 芭蕉句碑 鼓楼 東室 礼堂 校倉宝蔵 校倉経蔵 白秋歌碑 「天平の甍」井上靖記念碑 鑑真和上御廟 会津八一歌碑 弁天社 秋篠川 至薬師寺 近鉄西の京駅 東塔跡
訶梨帝母社 鎮守 水鏡天神社 弁天社
芭蕉歌碑 北原白秋 歌碑 会津八一 歌碑
芭蕉 若葉して おん目のしずく ぬぐはばや
白秋 水楢(みずなら)の 柔(やは)き嫩葉(わかば)は み眼にして 花よりもなほや 白う匂はむ
会津八一 おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ 

 天平時代の堂宇が威容を誇る奈良・西ノ京の唐招提寺。

5回の渡航失敗と失明にもかかわらず来日を果たした唐の高

僧、鑑真が創建した寺だ。その境内の片隅に、青く苔生した歌

碑が立っている。

 水楢(みずなら)の柔( やわ)き嫩葉(わかばは)み眼(め)にして

  花よりもなほや白う匂はむ

作者は詩人で歌人、童謡作家の北原白秋。「『水楢』は『見ず奈

良』とも受け取れます。その目で、奈良の都を見ることができ

なかった鑑真和上に寄せる、白秋さんの思いを感じほす」。寺の

副執事長、石田太一( 50 )は言う。

白秋が唐招提寺を訪れたのは1936年、51歳の夏だった。

前年に短歌会「多磨」を結成し、「浪漫精神の復興」

「新しい象?主義」を掲げ、新しい文学運動を興していた。その全国

大会の帰途、唐招提寺に立ち寄り、鑑真和上坐像を拝した。

何か予感があったのだろうか。

その表情が穏やかにも、厳しくも見える和上像を前に、白

秋は身じろぎもせず、長いこと向き合っていたという。翌秋、

白秋は糖尿病や腎臓病による眼底出血のため、視力が衰えた。

光や色彩を歌う歌人にとって、視覚の異常は衝撃の大事だ

ろう。病床で思い起こしたのが、似たような境遇だったとさ

れる鑑真のことだった。白秋の生前最後の歌集「黒檜」( 40

年)には、4度にわたって鑑真に思いを寄せて詠んだ歌、計6

首が収められている。碑に刻まれた歌はその最後の一首だ。

「光を失っても、教えを伝える決意は揺るがなかった鑑真和

上。白秋さんは自らと重ね合わせ、悲しんではいられないと気

持ちを奮い立たせたのでは。和上は進むべき道を示す存在だっ

たのでしょう」と石田は語る。

ミズナラの若葉が、花よりも白くにおう?。「黒檜」で

は、肉眼に代わり、耳や鼻、指先、気配で感じ取った幽玄の世

界を数多く歌った。失明の不安や心の葛藤と闘いながら、自ら

の境涯を静かに受け止め、新しい境地を追い求めた。その巻末

に、失明直前の「この一生の重患」により、「他に補うてあま

りある道の楽しみを得たことは、私の欣(よろこ)び」と記した。

「黒檜」の発表から40年。最晩年の弟子、永井聿枝らの呼び

かけで、歌碑は1980年に建てられた。当時の長老、森李

順が選んだという歌碑の場所は、白秋が和上像を拝した開山

堂のすぐ脇、木々に包まれた閑寂な高台にある。
歌にちなんで
ミズナラの木も植えた。

木々の間から、秋の日差しが降りそそぎ、碑を金色に縁取った。

目を閉じると、ひんやりと冷気を帯びた風に乗り、キンモ

クセイの香りが漂ってきた。
 2017−10−19 朝日新聞
 (鬆真司)

醍醐井戸
食堂跡 境内、醍醐井戸から御影堂・鑑真和上御廟へと向かう
蟠(ばん)
唐招提寺から薬師寺(正面)への道