書寫山 圓教寺地図

   
摩尼殿(如意輪堂) 
摩尼殿(如意輪堂) 書写山の中心を成す圓教寺の本堂。
 天禄元年(970)創建と伝え、西国33ヶ所観音霊場の第27番札所。
 桜の霊樹に天人が礼拝するのを見た性空上人が、その生木に如意輪観音を刻み、
これを本尊とする堂を築いたのが始まりと伝わる。
 幾度か火災に見舞われており、現本堂は大正10年(1921)に焼失した前身建物の
残存遺構や資料をもとに、ほぼ前身を踏襲した形で昭和8年(1933)に再建。
 近代日本を代表する建築家の一人である武田五一が設計し、大工棟梁家の伊藤平左衛門
が請け負った。
 懸造り建築の好例で、伝統的な様式を踏襲しながらも木鼻・蟇股などの彫刻等に近代和風の
伊吹が感じられる。
本尊は六臂如意輪観世音菩薩四天王立像(重文)も安置されている。
構造形式 桁行10間、梁間7間、正面1間向拝付、入母屋造、本瓦葺。 
 天台宗
 西の比叡山と称される。
  康保3年(966)、性空上人によって開かれた。
 天正6年(1578)には豊臣秀吉の軍勢が乱入。仏像などが多数持ち去られ、2万7千石の寺領も失った。
 江戸時代は833石の寺領で再興を目指すが、明治維新で没収された。
 それまで続いてきた行事も途絶えたが、危機感を抱いた僧侶が書き残した「円教寺行事記」が修理l中の
お堂から見つかった。
それにより、3月6日から3日間法華経を唱える法華経不断読誦会(どくじゅえ)、12月三千仏礼拝行も復活した。
 昭和8年再建された摩尼殿は壮大な舞台造り。開基の性空上人が岩上の桜の老木に生木のまま彫刻した
如意輪観世音が本尊。重文の大講堂、食堂、常行堂がある。
 
 はづき茶屋
   
大講堂 
   
食堂 
 食堂(じきどう)長さ40mの大建築で並んだ列柱や蔀戸(しとみ)印象的。
   
常行堂 (じょうぎょう・重文)  本尊 阿弥陀如来
 常行三昧(ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊の周りを回る修行)をするための道場である。
 建物の構成は、方5間の大規模な東向きの常行堂、北接する長さ10間の細長い建物が楽屋、
その中央に張り出した舞台とからなっている。
 舞台は大講堂の釈迦三尊舞楽を奉納するためのものと思われる。
     
 弁慶の井戸 鐘楼(重文)  法華堂本尊 
弁慶の井戸
 書写山には武蔵坊弁慶が少年時代を過ごしたという伝説があり、この鏡井戸や勉強机が今に伝えられている。
 昼寝をしていた弁慶の顏に、喧嘩好きな信濃坊戒円がいたずら書きし、小法師2.30人を呼んで大声で笑った。
目を覚ました弁慶は、皆がなぜ笑っているか分からない。弁慶は、この井戸に映った自分の顔を見て激怒し、喧嘩となる。
その喧嘩がもとで大講堂はじめ山内の建物を焼き尽くしてしまったと云われている。  
鐘楼(重文)
 袴腰付で腰組をもった正規の鐘楼で、全体の形もよく整っている。寺伝によれば、鐘楼は元弘2年(1332)に再建、鐘は元亨4年(1324)に再鋳とされる。
いずれも確証はないが、形や手法から14世紀前半のものと推定さてれる。
 鎌倉時代後期の様式を残す鐘楼として県下では最古の遺構であり、全国的にも極めて古いものとして貴重である。 
法華堂本尊 
 普賢菩薩法華三昧堂といい、創建は寛和3年(985)播磨国司藤原季孝によって建立された。もとは檜皮葺であった。
現在のものは、建物、本尊ともに江戸時代の造立。昔は南面していた。  
   
泉式部の歌塚  護法堂拝殿
 泉式部の歌塚
暗きより 暗き道にそ入りぬべき 遥かに照らせ 山の端の月
性空上人の教えにふれようと、書写山を訪れた平安期の代表的女流歌人・和泉式部が、
居留守を使われたときの無念さを歌にしたもの。弟子から様子を聞いた性空は、この歌にひどく感動して、
急いで一行を呼び戻し、この歌を返した。
 日は入りて 月また出ぬたそがれに 掲げて照らす 法の灯
歌塚には鎌倉初期の「天福元年十月二十六日」と刻まれている。
護法堂拝殿(弁慶の学問所) 
 奥の院の広場をはさんで護法堂と向かい合っている。
このように拝殿と本殿(護法堂)が離れて建てられているのも珍しい。
 今の建物は、天正17年(1589)に建立されたもので、神社形式を取り入れた仏殿のような建物で、
一風変わった拝殿である。
 この拝殿はその昔、弁慶が鬼若丸と呼ばれていた頃、7歳から10年間、この山で修行していたことから、
弁慶の学問所と呼ばれている。今もその勉強机が残っている。
     
開山堂(奥の院) 
 開山堂(奥の院)
 圓教寺開山の性空上人を祀ったお堂で、堂内の厨子には上人の御真骨を蔵した等身大の木造が納められている。
 寛弘4年(1007)上人の没後に高弟延照が創建、弘安9年(1286)消失。現存のものは江戸期寛文11年(1671)に造りかえられたもの。
 軒下の四隅に左甚五郎の作と伝えられる力士のうち北西隅の一人は、重さに耐えかねて逃げ出したという伝説がある。
 
 姫路城主・松平直基の墓所 十地院(茶店) 
   姫路城主・松平直基の墓所
松平直基は、徳川家康の孫にあたります(家康二男、秀康の第五子)。
もと出羽国の山形城にいたが、慶安元年(1648)西国探第職として
播磨国の姫路城主を命じられた。しかし、山形から姫路へ移封の途中、江戸で発病し姫路城に入らず
亡くなり、遺骨は相模国(神奈川県)の最乗寺に葬られた。後になって、直基の子・直矩が姫路城主に
なってから寛文10年(1670)に分骨し、ここ書写山」に墓所をつくった。  
   十地院 本尊 聖観世音菩薩
もとは開山堂西の広大な敷地にあったが、妙光院と同じく名称のみ残っていたのを、
勧請殿跡地に建立したものである。
庭越しに瀬戸内海を眺望することの出来る唯一の塔頭である。 
   
 大黒天  瑞光院  薬師堂
瑞光院 本尊六臂如意輪観世音菩薩
 創建、縁起は不詳。圓教寺の各塔頭は、往時は多数あった講の宿院も兼ねていた。瑞光院も現網干観音講の宿院となっている。
薬師堂 
 根本堂とも呼ばれ、圓教寺に現存する最古の遺構。元々あった簡素な草堂を、性空上人が3間4面の堂に造り替えたのが始まりと伝わる。
 寺記によると延慶元年(1308)に消失し、現在の建物は元応元年(1319)に再建された。
 幾度か改修されており当初の形は明らかでないが、もと方一間の礼堂(外陣)を付設したようである。挿肘木など大仏様の手法
がみられ、組物や虹梁に当時の特色が残る。本尊薬師如来等は、現在食堂に安置されている。なお、昭和53年の解体修理の際、
奈良時代の遺物が出土しており、この地には圓教寺創建以前、すでに何らかの宗教施設があったと推定されている。 
   
 姫路城主・本多家の墓所 5棟の堂は、本多忠勝・忠政・政朝・政長・忠国の墓。

 本多家は江戸時代、初期と中期の二度、姫路城主になった。忠政・政朝・忠国の3人が姫路城主であった。
 忠政は、池田家のあとをうけて元和3年(1617)桑名より姫路へ移り、城を整備したり船場川の舟運を開いた
城主であった。
 政朝は忠政の二男で、あとを継いだ。
 忠国は、二度目の本多家の姫路城主で天和2年(1682)に福島より入封した。
 忠勝は忠政の父で平八郎と称し、幼少より家康に仕え徳川四天王の一人。政長は政朝の子で、
大和郡山城主となった。
 堂のない大きな2基の五輪塔は、忠政の子・忠刻と孫・幸千代の墓。忠刻は大阪落城後の千姫と結婚し、
姫路で暮らしたが、幸千代が3歳で死去、忠刻も31歳で没し、ここに葬られた。
 忠刻の墓のうしろには、殉死した宮本三木之助と岩原牛之助、三木之助に殉死した宮田角兵衛の墓が
並んでいる。
5 棟の堂は、江戸時代の廟建築の推移を知るのに重要な建物である。