倭文神社地図 伯耆一宮経塚 宮戸弁天

   
 拝殿   本殿
伯耆一の宮倭文神社
通称 伯耆一の宮
祭神 建葉槌命(たけはづちのみこと・主神)
    下照姫命
    事代主命
    建御名方命
    少彦名命
    天稚彦命
    味耜高彦根命 
  一の宮
 葛木倭文坐天羽雷命神社⇒⇒⇒
 
 拝殿

     
鳥居扁額   鳥居  随神門
  伯耆一の宮として御冠山の中腹に位置し、広く安産の神として信仰されている。創立年代は不明であるが、出雲大社祭神大国主命の
娘下照姫命が出雲から当地に移住され安産の普及に努力された。
 創立当時、当地方の主産業が倭文(しずおり)の織物であったので、その後倭文部の祖神建葉槌命に当地と関係の深い下照姫命
を加えて祭神としたもので、その後倭文の織物が姿を消し、安産信仰だけが残り、安産守護として尊敬され、
参道横には安産岩も伝えられている。
 平安時代延喜式神名帳(922)には当神社の名がみえ、神階は度々昇進し、天慶3年(940)には従三位から正三位に進んでいる。
その後正一位に昇進されたとみえ、(正一位伯州一宮大明神)と刻した勅願と称する古額が現存している。
 住古の社殿拡大で、千石の御朱印地を有したと伝えられ、鎌倉時代の東郷荘絵図には、東郷湖付近に点々と一の宮領の文字が
みえている。
 しかし、戦国時代荒廃する。
 元亀元年(1570)羽衣石城主南条宗勝が復旧した。
   
  下照姫命御着船の地
 羽合町宇野と泊村宇谷の中間の御崎に、出雲より御着船されたと伝えられるが、
その近くに化粧水と称し、
船からおあがりになって化粧を直すのに使われた水が伝えられている。

   
   社務所
   
 安産岩  夫婦岩
安産岩
 神社境内に至るまでの参道横にある。
昔常に難産に苦しむ婦人が、古来から安産の神として信仰の厚い伯耆一の宮に願をかけて日参し、
満願の日下照姫命の霊夢を感じ、参詣の帰途この岩で安産したので、
以来安産岩と称するようになったという。
   
伯耆一ノ宮経塚
  この経塚は、平安時代後期に広がった末法思想のもと、康和5年(1103)に築かれたものである。
経塚の中央部から平石で組まれた石槨(せっかく)が発見され、その中には経典を納めた銅製の経筒や
仏像、短刀、瑠璃玉などが納められていた。経筒には文字が刻まれており、僧京尊が弥勒仏の出現に
備え功徳を施すことにより自他共に成仏するようにという願いなどが記されている。出土品は国宝に指定
されている。
 境内山林にあり、古くから当神社の祭神である下照姫命の墓と言い伝えられてきたが大正4年、経塚の中
から平安時代
初期の銅経筒を始め仏像、銅鏡、るり玉などが発掘され出土品全て国宝に指定。
 下照姫命は大国主の命の娘として生まれた。農業や医療の技術に長けており、大国主命と力を合わせて出雲
の国づくりに励んだ。そんなおり、天照大神は天稚彦(あめのわかひこ)を遣わし、出雲の国譲りを要求した。
ところが天稚彦は下照姫と恋に落ち、結婚するまでに至った。
 下照姫と天稚彦との幸せな日々は長く続かず、天稚彦は天照大神から遣わされたキジを射殺したことが原因で、
天照大神により射殺されてしまった。下照姫は最愛の夫の死、国譲りによる出雲との別離(わかれ)などを乗り越え、
一匹の海亀の導きによりここ伯耆國宇野の海岸に着船した。
 小高い丘からの眺めに心を奪われた下照姫はこの鎮座地を新たな住居に定め、農業指導や医療普及に努め
人々から尊敬を集めた。  
   
 宮戸弁天
 古くから伯耆一の宮の七弁天と称して付近七か所に弁天さんが祭られていたといわれる。
宮戸弁天もその一つで、今日ほこらが残っているにはここだけである。
もとは小島で一の宮の御祭神・下照姫が魚釣りを楽しまれたと伝えられる。
 今は埋立られて、陸続きになった。また、下照姫の使いの白蛇が、ここから龍湯島(東郷町役場
裏の辺り)までの間を往復したとの伝説もある。 
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