葛木二上神社・葛木倭文坐天羽雷命神社・加守(掃守)神社 地図
加守(掃守)廃寺・北 地図
加守(掃守)廃寺・南 地図

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葛木二上神社 
 祭神 豊布都霊神(建御雷神)大国御魂神

葛木倭文坐天羽雷命神社
 祭神 倭文の祖 天羽雷命

加守(掃守)神社
 祭神 掃守の祖 天忍人命
倭文神社⇒⇒⇒
       
拝殿   倭文神社の額  

   
 参道  神社の横から二上山へ
   
 神社の社務所  蟹の図
 天忍人命は鵜鵜葺草葺不合命の生誕のときにその胎便(蟹と呼ばれる)を掃除したという神で、
その子孫は蟹守(かもり)氏(掃部、加守、狩森などとも)と称した。 
 たい べん (胎便)
胎児の便。粘稠性で色は青黒く,分娩後2~4日ほどに排出される。
かにばば。かにくそ。胎屎たいし。
大辞林 第三版 




加守(掃守)廃寺・北 地図
加守(掃守)廃寺・南 地図

 
 加守廃寺の位置
 
加守古墓と二上山(東より) 
奈良県立橿原考古学研究所展示パネル

北遺跡
 
  北遺跡の塔の跡
   
  岳雲山教善寺の境内にある北遺跡塔の心礎  岳雲山教善寺 地図 

南遺跡
 
  長六角堂
 

 『正倉院文書』に登場する「掃守寺(かもりでら)」と考えられている。これまでに計5回の
発掘調査がおこなわれ、尾根を隔てて北と南に200m離れて伽藍が展開することが明ら
かになっている。
 現在、四天王堂と呼ばれる小堂の西側で、南北に長い六角形の建物基壇が見つかった。
基壇上には、長六角形の平面形をもつ建物が建っていたとぎえられている。その平面形は、
當麻寺の當麻箋茶羅をおさめた厨子の形を想起させ、長六角堂についても織仏を掲げる
建物であった可能性が指摘されている。
 塔跡は、通称「トンタ二」と呼ばれる谷間地の中央付近にある。
 長六角堂は8世紀初頭〜中頃、塔は8世紀中頃の完成と考えられている。  
 
 當麻寺の當麻箋茶羅厨子

県指定史跡 加守廃寺 平成七年三月二十二日指定

 加守廃寺は二上山麓の尾根を挟む形で南北に分かれて立

地しており、それぞれ北遺跡·南遺跡と呼称されている。

 奈良時代の「掃守寺」と関連するものと推定されるが、創

建当時の建物は全て失われていて往時の伽藍を推定する手

がかりは、わずかに北遺跡に残された土壇跡のみであつった。

発掘調査の結果、北遺跡では塔とそれを取り囲む回廊が

検出され、塔基壇の規模は薬師寺のものに匹敵することが

明らかになった。また、南遺跡では水田下より長六角堂を

検出した。通常知られる多角堂は、正六角形ないしは正八

角形であるが、この遺跡は細長い六角堂で、他に類例を見

ない特殊な形である。また、出土した瓦類には葡萄唐草文

の軒平瓦や、八世紀中頃の平城宮系の軒瓦等が含まれてい

て、奈良時代の建立であることを示している。

この遺跡は二上山麓の古代寺院を知るうえにおいて極め

て重要な遺跡のひとつである。

   平成九年三月   奈良県教育委員会の説明文

大津皇子ゆかりの寺院跡とされます.。

“薬師寺縁起”にある加守寺(掃守寺、竜峯寺とも称されたようです)は、大津皇子の鎮魂の

ために建立されたとされています。

 加守廃寺は二上山の尾根を挟んで 南遺跡(加守神社の周辺)と北遺跡(塔土壇)に分かれま

す。

 北遺跡では塔及びそれを囲む廻廊が検出されました。

 塔基壇は凝灰岩製の壇上積基壇で、 犬走を伴う。

 但し基壇の大半は既に削平されていました。

 回廊は塔の西側と南側で礎石 (自然石)及び礎石抜取り穴が確認され、塔を取囲むもので

あったとされます。

 また残存する土壇を断ち割ると、流紋岩製の円形造り出しを持つ2個の礎石が出土しました。

 南遺跡で発掘された長六角堂跡は大津皇子の供養堂説が有力です。

 四天王堂付近で瓦を出土し、礎石が残っていました。

 (この後方が廃跡になりますが、今は更地で何もありません)

 塔心礎は教善寺に、金堂礎石は當麻寺護念院に移されているようです。

 當麻寺中之坊に古図があり、 加守附近に三層の塔を描き掃守龍峯寺と記されているそうです。

 遺跡所在地の旧名をトンタニと称するそうです。

 「塔谷」の転記で、龍峯寺の塔跡ではないだろうかとのこと。

 大津皇子は、初めここに埋葬されたとも伝わります(太津皇子墓)

 池の畔に、悪霊となった大津皇子が馬に乗って飛び降りた時の蹄跡と伝わる 「ひずめ石」が

あるそうです。

 江戸時代の絵図に「神馬蹄石(しんめひづめいし)」と載っているそうです。