長弓寺地図

   
   
 
   
   
建築様式折衷様⇒⇒⇒     
 
 
 一つのお堂の中に仏の世界である「内陣」と人が仏を拝むところの「外陣(げじん)」を持つ。
 お堂の中で拝むようになったのは平安時代の末くらいから。法隆寺の金堂と五重塔の前に
礼拝石があり、ここから拝んでいた。堂内は仏様の世界であって、僧侶を含めて人が立ち入る
ものではなかった。
 本堂は鎌倉時代の建築。反りの美しい屋根や太く長い梁を持つ豪壮な建築である。 

聖武天皇勅願
行基菩薩開基

大和十三仏霊場第九番札所

 真弓山考寺はいわゆる鵄邑(とびのむら)とよばれる神武天皇、
長髄(ながすねひこ)の古蹟豊かな里の名刹である。

寺号は、この地の名族、真弓長弓(小野氏)が世嗣(よつぎ)
長麻呂
と共に神亀五年聖武天皇(二十八歳)に従って度々この

地で狩猟されたことにはじまる。

ある日,森より

飛び立った異鳥を追い、これを射おとそうとした長麻呂

は、誤って父、長弓を射殺してしまった。天皇はこの悲

運な最期をご覧遊ばされ、深くあわれみをたれ給い、行

基に命じてその冥福を祈るためにこの寺を建立すると共

に、自らも深く仏教に帰依遊ばしたという。

ー神亀五年三月と伝えられるー

 行基は命を受けて白檀の十一面観音を作り、牛頭天王

八王子の宮を建て天皇の御弓で本尊頂上の仏面を彫刻し

天平二年十月十八日落慶法要を営む。と正徳絵縁起にか

かれてある。

 桓武天皇の御代、藤原良継公伽藍を中興し、阿弥陀、

釈迦、地蔵、四天王像を安置したという。

 中世の沿革は明らかでないが、弘安二年(一二七九)

に現本堂が建立され 貞治二年(一三六三)修理、文明

五年(一四七三)山名宗全の落人のために重宝等を破壊

された。天平五年(一五七七)信長に寺領を没収される。

慶応二年(一八六六)と昭和十一年(一九三六)本堂の

修理の歴史を経て、現在に至っている。


一 、本堂(国宝)

   【軒行五間梁間六間一重入母屋造向拝一間桧皮葺】

 棟上弘安二年(一二七九) の墨書がある。新和様とも

いうべき建築様式で、組物の簡素な点を彫刻入りのかえ

る股でおぎない、内部は虹梁、垂木を露出させて構造の

美を発揮ざしている。

一 、黒漆厨子(重要文化財)

   【総高五尺六寸二分桁行四尺五寸六分梁間四尺五寸】

 扉板の左方に胎蔵界種子曼茶羅、不動明王、二童子像、右

方に金剛界種子曼茶羅および降三世明王像の極彩絵がある。

一、本尊十一面観音立像(重要文化財)

 立像御丈四尺、木像の本尊は典雅な像で平安時代の作

とされているが、貞観様式を含んだ藤原仏の説もある。

一、本堂安置の諸仏

 阿弥陀如来【四尺五寸五分】木、座像

 釈迦如来【四尺八寸】木、座像

 四天王【(持国·増長·広目、多聞)【五尺三寸】木、立像

 影見観音 木、座像

 聖武天皇 木、座像

 行基菩薩 木、座像

一、その他

 梵字銅額 伝弘法大師巡錫持念

 大般若波羅密多経 大般若経六百巻を施入、維持貞元三年
              云々
とある。

 多宝塔、彫刻石塔婆 室町の永禄元年の号を刻む。

 役行者石像 天文二十二年とある。前鬼後鬼を配した行者像。

 塔台閣 淳和天皇 天長年間藤原諸嗣建立。

 善女竜王祠 弘法大師勧請
大師堂

 本尊 勢至菩薩(大和十三佛九番霊場)
 脇佛 弘法大師 不動明王 大黒天

真弓塚

 森の東1キロの高さにあり、奈良市西郊住宅街を眼下

に臨む。神亀年間真弓長弓を葬った古墳である。また一

説に、本尊十一面観音の頂上仏を彫った天皇下賜の御弓

の残余を埋めた塚であるともいう。