八坂神社地図

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 西楼門(重文)
   
随神像(吽形) 随神像(阿形) 

 祇園さんの名で親しまれている八坂神社は、夏の祇園

祭と大晦日の白朮詣(をけらもうで)が有名である。
八坂神社の創建年
代は、社伝によると斉明天皇2年(656年)
といわれている。

重要文化財である本殿の様式は祇園造といわれ、2つの

屋根をさらに大きな屋根で覆う形式で他に例を見ない。

 京都の夏の象徴である祇園祭は、貞観時代(9世紀)

頃、都·帯に疫病が流行り、疫病退散を祈って、鉾66本

をたて神輿を神泉苑に送り御霊会を修したことにはじま

る。7月の1ヶ月間の祇園祭の中でも、特に17日の山鉾巡

行、神輿の神幸、24日の花傘巡行、神輿の還幸は豪華絢

爛、躍動感に溢れ往時が偲ばれ圧巻である。.

 白朮詣は、12月28日早朝、神職が鑽り出した火を大晦

日に燈籠にうつし、その火を元旦にかけて吉兆縄につけ

て持ち帰り、新年のお祝い事や御灯明の種火とする、新

春のめでたい行事である。

 室町時代に再建され楼門としては珍しい切り妻造。
丹塗り2階建てで高さ9m。
2007-11-30に95年ぶりの保存修理工事が終わった。
 明治維新まで「祇園社」と称されていた八坂神社は、
今も祇園さんと呼ばれ親しまれている。
 四条通りの東端にある西楼門は京都観光のシンボル的存在。
 鎌倉時代の絵図には、本殿とともにほぼ現在に近い姿が描かれている。
通りの突き当たりに、他に智積院(七条通り)がある。 
本殿(国宝)
祭神 
  中御座 素戔鳴尊
  東御座 櫛稲田姫命
    御同座 神大市比売命・佐美良比売命(さみら)
  西御座 八柱御子神
        (八島士奴美神・五十猛神・大屋比売神・抓津比売神
         大年神宇迦之御魂神大屋毘古神須勢比売命) 
    傍御座 稲田宮主須賀之八耳神
 旧官幣大社
 祇園祭はこれら神社の祭礼であり、厄除けや商売繁盛などの神として信仰を集める。
  由緒⇒⇒⇒

 八坂神社は疫病退散を祈願する祇園信仰の総本社。

今の本殿は1654年に、江戸幕府の4代将軍徳川家綱によって建てられた。
通常、神社では参拝者が本殿の外からお参りするが、 八坂神社は本殿
の中に参拝者が礼拝する「礼堂」があり、供え物を置く棚もある。

 この構造は鎌倉時代の資料や室町時代の図面にも記され、中世の信仰
儀礼と建物の関係 を示している。屋根の三方にはひさしが付いており、

これは建物の面積を広げる平安時代の工法。

 

本殿を国宝に指定するよう文部科学相に答申。2020-10-16

 国宝になるのは2回目で1929年から50年まで、当時の国宝保存法
に基づき国宝に指定されていた。当時は重文担当のものとひとくくりに
国宝とされていた。1950から文化財保護法に切り替わり、より細かく分
類され重文していされ現在に至っていた。

 
 
 南楼門(境内より)
 
 
   
 随神像(吽形)  随神像(阿形) 
境内 本殿正面にある舞殿
 素戔鳴尊(すさのおのみこと・須佐之男命)・櫛稲田姫命(くしいなだひめみこと)およびその御子八柱神(やはしらかみ)を祭神とする。明治元年(1868)の明治新政府の神仏分離政策による命令で、以後八坂社と称し、古くは祇園社・祇園感神院(かんしんいん)と呼ばれ、一般に「祇園さん」の名で親しまれており、全国祇園社の根本神社である。この神社は貞観18年(876)僧円如(えんじょ)が牛頭天王(ごずてんの・別名武塔神・むとうしん)を迎えたのが起りといわれ、牛頭天王が素戔鳴尊になって現れたといわれる疫病除けの神である(祭神が素戔嗚尊になったのも八坂神社に命名されたころ)。疫病流行に際し、京都の人々はこの神を祭って疫神をはらおうとした。こうして祇園会が始まり、平安時代中期から山鉾巡行も起り、幾多の変遷を経て現在も毎年7月祇園会が当社の祭礼として盛大に行われる。
 一方本殿は平安時代の初め藤原基経(もとつね)がこの地に観慶寺感神院を建て寺内に本殿を設けたのが始まりといわれる。現本殿(重文)は承應3年(1654)の再建であるが、平安時代末期の様式を伝え祇園造として有名である。東山通に面する楼門は西門で室町時代の建物(重文)である。なお、毎年元旦未明に行われるおけらまいりも有名である
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優美な曲線を描く華やかな本殿
 祇園祭は俗称で、正式名称は祇園御霊会(ごりょうえ)である。夏の暑熱と湿気は疫病その他の厄災が起こりやすく、その原因と考えられた怨霊を鎮めるため、
京都周辺で催さた御霊会の一つが現在地に定着したのが、祇園社の起こりといわれる。
 牛頭天王(ごずてんのう)は天竺北方九相国の王で、沙渇羅龍王(さかつらりゅうのう)の娘との間に八王子を生み、
八万四千六百五十四体の眷属神(けんぞくしん)を持つという。釈尊の住んだ祇園精舎の守護神とされる。祇園社・祇園感神院の名もそこに由来される。
 武塔神は流離する神で、蘇民将来(そみんしょうらい)と巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟に一夜の宿を乞うたところ、
富める弟の巨旦は断り、貧しい兄の蘇民は歓待した。改めて再来した武塔神は蘇民に茅(ち)の輪を与えた。
その呪力によって蘇民一家は大厄をのがれ、巨旦一家は没落した。

京都の夏を彩る祇園祭は疫病を鎮めるため、平安時代に始まったとされる。かつて祇園社と呼ばれた八坂神社は全国に移しまつられ、祇園祭は各地で催されるようになった。 


牛頭天王(ごずてんのう)
 この神はもとインドの祇園精舎の守護神であった。奈良時代に大陸へ留学し、帰って聖武帝太子の学士となった吉備真備が姫路の広峰へ牛頭天王を祀り、その時、素戔嗚に習合した。
 広峰から京都へ移って八坂社となったのがこの神様。八坂神社を祇園さんと呼ぶのは、牛頭天王の根源が祇園精舎の守護神だったからである。
 祇園精舎跡はネパール国境に近いサヘート・マヘートという寒村に現存する。  
 祇園社などの祭神。もと祇園精舎の守護神とも,薬師 如来の化身ともいう。疫病神で,のちには素戔嗚尊すさのおのみことと習合されて尊崇された。
大辞林 第三版

 そみん しょうらい —しやうらい (蘇民将来)
① 人疫病よけの神の名。貧者だったが,神に宿を貸したお礼に茅ちの輪を作って疫病から免れる方法を教えられたという(備後風土記)。
②災厄を除いて福徳を祈る護符の一。六角または八角 の棒や木札・紙札などの形状がある。「大福長者蘇民将来子孫人也」などの語を記す。毎年正月,寺社で発行する。大辞林 第三版
素戔嗚尊 蘇民将来 蘇民将来  牛頭天王社跡  森王墓古墳 
大坂山口神社 天津石別神社  和爾下神社  長弓寺 
りょうさんの池  天皇陵古墳 垂仁天皇陵  祇園祭で怨霊退散  素戔嗚尊 
由義神社  和爾下神社  八坂神社  八坂神社本殿
 石鳥居(重文)
明神鳥居ともいい、柱間約8m、高さ9.5mあり、石鳥居中最大。
摂社 悪王寺社
祭神 素戔嗚尊の荒御魂
摂社 疫神社
祭神 蘇民将来命
末社 大神宮社(だいじんぐう)
祭神 天照大御神 豊受大御神
末社 美御前社(うつくしごぜんしゃ)
祭神 市寸島比売命 多紀理毘売命 多岐津比売命
末社 大国主社
祭神 大国主命 事代主命 少彦名命  
末社 日吉社
祭神 大山咋神 大物主神
末社 厳島社
祭神 市寸島比売命
末社 太田社
祭神 猿田彦神 宇受女命
末社 大年社
祭神 大年神 
    巷社神(ちまたやしろのかみ)
末社 北向蛭子社(えびす・重文)
祭神 事代主命
社殿は正保3年(1646)の建造。
十社 
 多賀社  伊邪那岐命
 熊野社  伊邪那美命
 白山社  白山比咩命(しらやひめ)
 愛宕社  伊邪那美命・火産霊命
 金峰社  金山彦命・磐長比売命
 春日社  天児屋命建武雷之男神
        比売神・斎主神(いわいぬし)
 香取社  経津主神(ふつぬし)
 諏訪社  建御名方神
 松尾社  大山咋神
 阿蘇社  健磐龍神・阿蘇都比咩命
       速甕玉命(はやみかたま)
五社
 八幡社 応神天皇
 竈神社 奥津日子神奥津比売神
 天神社 少彦名命
 水神社 高靇神(たかおかみ)
       罔象女神(みづはのめ)
境外
摂社 冠者殿社(かんじゃでん)
祭神 素戔嗚尊荒御魂
地図
末社 御供社(ごくう)
祭神 素戔嗚尊
    櫛稲田比売命
    八柱御子神
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御旅所
四条御旅所
 西御殿 素戔嗚尊 櫛稲田比売命
 東御殿 八柱御子殿
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大政所御旅所旧跡
 大政所 素戔嗚尊・八王子(八柱御子神)
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少将井御旅所旧跡
 少将井神輿 櫛稲田比売命
地図

7月「コンチキチン」とお囃子を奏でながら、壮麗な山鉾

が京都市街を巡行する。八坂神社,祇園祭のハイライトだ。

だが、祭りの本当の主役が、八坂神社の祭神·素戔嗚尊と妻

子を乗せ、神社から御旅所まで担がれる3基の神輿であること

は、あまり知られていない。平安時代末( 11世紀)以来のこの

神輿渡御(とぎょ)を祝うイベントとして、室町時代( 14世紀)に町衆

(商工業者)が始めたものが、山鉾巡行のルーツとされる。

山鉾巡行は長年、「女人禁制」だった。勇壮な神輿の行列

にも女性の姿はない。だが、歴史学者の脇田晴子は、中世の神

輿渡御には、神の言葉を告げる巫女や踊りの女芸人ら女性が参

加していた、と指摘した。

脇田が祇園祭の研究を始めたのは、京都大学の大学院生だっ

た1957年。演習のテーマをくじで選び、当たったのが八坂

神社の文書だったという。講座の先輩で後に夫となった脇田修

大阪大名誉教授( 86 )は「西宮の旧家の生まれで、幼いころか

ら能に親しんだ晴子にはぴったりのテーマでした」と話す。

脇田が呼びかけて結成された「女性史総合研究会」で指導を

受けた亰樂真帆子.滋賀県立大教授( 54 )は「(晴子)先生は、い

つごろから祇園祭で女性の排除が強まったのかについて強い関

心を持っていた」と振り返る。

脇田は、中世社会では商工業でも家庭でも女性が重要な役割

を果たしてきたことを明らかにしてきた。祭りの女人禁制が古

くからあったとは納得できなかったのだろう。

長年の友人だった写真家の西山治朗( 85 )は20年ほど前、福井

県の旧家に伝わる江戸時代初めごろの屏風の撮影を、脇田から

依頼された。祇園祭の山鉾巡行を描いた屏風には、鉾の上で踊

る女性の姿があった。「脇田さんが写真を見て『昔は山鉾巡行

にも女性が参加していた証拠や』と喜んでいたのを覚えてい

ます」。脇田は著書「中世京都と祇園祭」(中公新書)で、女

人禁制が強まったのは祇園祭の歴史の中でも新しく、江戸時代

中~後期ごろと結論づけた。

2001年祇園祭山鉾連合会は、お囃子などに女性が参加

する場合は事前に届け出るよう呼びかけ、山鉾巡行への女性参

加を事実上容認した。当時、連合会の理事長を務めていたドイ

ツ文学者の深見茂(83)は「脇田さんとは伝統を巡る見解の違い

はあったが、『祭りが生き残るには、時代に合わせて変わるこ

とも必要』という点は一致した」と振り返る。

「老若男女で楽しんでこそ本来の祭りの意義がある」とい

う脇田の思いは、現実のものになりつつある。

=敬称略(編集委員,今井邦彦)


祇園祭は7月の1カ月間をかけて行われる。
17日の「前祭」を前に、14~
16日には「宵山」を開催。山鉾では祇

園囃子が奏でられ、各山鉾町に伝わる屏風絵などの美術品が公開される。
17
日午前に前祭の山鉾巡行。
夕方から八
坂神社の祭神を乗せた神輿3基が御旅所までを練り歩く
「神幸祭(しんこうさい)」がある。

21~23日は「後祭」の宵山。
24日午前
には後祭の山鉾巡行と花傘巡行があり、
夕方からは神輿が御旅所から神社
に戻る 「還幸祭(かんこうさい)」。
31日に八坂神社境
内の疫神社で行われる「夏越祭」の茅の輪くぐりで、
祇園祭は締めくくられ
る。
神輿渡御の経路は八坂神社、山鉾
巡行の経路は京都市観光協会
のホーム
ページなどで確認できる。

2017-6-15 朝日新聞夕刊 より



駅伝発祥の地