太子道(安堵町)

 太子道は町を斜めに横切 るように通る。東西、南北に道を敷く条里制が残る奈

良で斜めの道は珍しく、「筋違道」とも呼ばれる。

 町北部には在原業平(825~880)が櫟本から河内・高安の姫のもと

に通ったと伝えられる東西の「業平道」もある。

 二つの道が交わる場所に近い善照寺は1467年創建と伝えられ、町で最初の

小学校ができたお寺だ。門をくぐると、樹齢250年という根上がりの黒松「富

生の松」に目を奪われた。数十種類の花を描いた天井絵も見応えがある。

 その南の広峰神社は、さらに南500mがの場所にある「飽波神社」がもともと

あった場所とされる。飽波神社は、聖徳太子の晩年の宮殿「飽波葦垣宮」だった

との説がある。つまり、太子は今の広峰神社がある場所に住んでいたかもしれない。

 飽葦垣宮は法隆寺(斑鳩 町)南の上宮遺跡あたりと の説もあるが定かではな

いようだ。

 ポランティアの会の大西嘉子会長らは「飽波の名が残っていることが、宮があ

った大きな証拠では。斑鳩から安堵にかけての一帯が「飽波葦垣宮」だったのか

も」と推測する。

 素溝尊を祭る飽波神社には、太子が腰掛けたという石があるほか、神殿に竹

とスズメの絵が刻まれている。愛馬「黒駒」に乗って付近を通りかかった太子が

通り雨に遭った時、どこからともなくスズメが現れて舞い、太子を道案内したと

の伝説に由来するという。神社から歴史民俗資料館へ向かう道には、江戸時代か

らの商家など古い町並みが残る。
  2012-6-19  朝日新聞
  





法隆寺調査

 

 南大門をくぐると、正面に見えてくるのが寺内で最古の建物が集まる

「西院伽藍」だ。すべての建物が国宝。金堂に、アーモンド形の目に微

笑をたたえた釈迦如来を中心とした釈迦三尊像や、薬師如来像、四

天王立像などの国宝仏が並ぶ。

 金堂では、解体修理中の49年1月に火災が発生。日本最古の仏教

絵画である壁画(重要文化財)が大きく焼損し、伽藍の東の収蔵庫で

保管されている。いま金堂の壁を飾るのは、67年から当時最高峰の

日本画家らが描いた再現壁画だ。

 西院伽藍の東に百済観音像(国宝)や玉虫厨子(同)などの寺宝を

公開する大宝蔵院があり、さらに東には東院伽藍がある。中心にあ

る夢膨は、聖徳太子の斑鳩宮があった場所に8世紀に建てられた八

角形の建物。太子をモデルにしたと伝えられる救世観音立像を安置

する。

 金堂·薬師如来像の光背に刻まれた銘文によると、法隆寺は607年、

推古天皇と聖徳太子によって創建された。「日本書紀」には、67

0年に火災で全焼したことが記録されている。

 明治時代、建築学者から「西院伽藍は飛鳥時代の古い様式だ」と

再建を疑う説が出て、「再建·非再建論争」が起きた。しかし、1

939年に西院伽藍よりも古い瓦を伴う若草伽藍の跡が発掘され、

若草伽藍の焼失後、西院伽藍が再建された可能性が高まった。

 ただその後も、金堂内に606年ごろに伐採された木材が一部使

われていることが、年輪年代測定で判明。なぞは深まった。奈良芸

術短大の前園,知雄教授(考古学)は「670年の若草伽藍の焼

失は決定的だが、その前から西院伽藍の金堂などの建設が始まって

いたという説もある。まだ完全決着とは嘗えない」と話す。

 聖徳太子は622年に没し、その子で、舒明皇と皇位を争った山背大

兄王は643年,蘇我入鹿に攻められて一族と自決。聖徳太子が興

した上宮王家は滅びた。670年に焼失した法隆寺を再建したのは

誰だったのか。

 前園さんは「当時の天武·持統天皇が援助したことは間違いな

い」とみる。法隆寺のある斑鳩は、大和各地からの川が大和川に

合流し、国際港だった難波津へつながる水運の要衝。川沿いに多く

の渡来系氏族が定住し、文化的先進地だった。「聖徳太子が斑鳩に

宮を構えたのも、そのため。天武持統天皇も当然、この地域に影

響力を持っておきたかったはず」 前園さんは、斑鳩周辺に拠点を

持っていた豪族·山部氏にも注目する。山部氏は四国に勢力を持つ

ていた久米氏から分かれたとされ、四国に法隆寺の荘園が多数あ

った。こうした氏族のネットワークと寺の関係を解明することも、

再建の謎を解く鍵になりそうだ。

(編集委員·今井邦彦)2016-4-17  朝日新聞





井真成(いのまなり)

 2004年に中国の古都西安で見つかった遣唐使の墓誌

に刻ぼれていた、日本人·井真成の人物像をめぐり、日中

間で説が割れている。日本では奈良時代に遣唐使に選ばれ

た留学生という解釈が一般的だが、中国では、唐の学校制

度などから見て異論があり「留学生ではなく、遣唐使の随

員(役人) 」との主張が登場した。「井真成はどんな人

?」との疑問に迫ろうと研究が続くが、日中間の議論はい

つこうに収束しそうにない。(渡辺延志)


 留学生説を否定したのは、復旦大(上海)の韓昇教授だ。昨年末に出た専修大の東アジア世

界史研究センターの年報に、「井真成墓誌の再検討」との論文を寄せた。

 墓誌によると、井真成は奈良時代の734年に36歳で死亡した。懸命に勉強したとの記述が

あることから、717年の遣唐使船で派遣された留学生と見られてきた。

 だが、韓教授は、733年に到着した次の遣唐使の随員だったとの論を展開する。

 まず、唐の制度では、官立学校の在学期間は最長9年までで、それ以上は滞在もできなか

ったと指摘し、「十数年にわたり留学したとの見解は成立しがたい」とする。

 また、井真成の死後追贈された役職「尚衣奉御」は、皇帝の衣服を管理する部門の責任者で

単なる留学生に与えられるものではないことや、亡くなった場所の官第は短期滞在の外国の使

節の宿泊所であることなどから、「井真成は留学生では決してない」と強く否定している。

 さらに、井真成の死は皇帝に報告され、葬儀の費用は唐政府が負担したとも墓誌には記され

ているが、それは三等官以上の外国使節に対する扱いであることを紹介する。だが、遣唐使の

三等官以上に相当する人物は見あたらない。

 そこで、韓教授は、唐に派遣するために臨時に昇格させる借位をしたからだと推測する。追

贈された尚衣奉御は従五品上の官位だが、唐では、本国より一階級上の位を贈るのが原則。井

真成は日本では従六位下だったが、使節団では借位して従五位となり、三等官と四等官の間

の上席准判官の役職だったはずだと結論づけている。そして韓教授は「唐の制度を検討してみ

ると、井真成は留学生だとの説には根拠がない」と論文を締めくくっている。

 国学院大の鈴木靖民教授は「韓さんの説は論証も丁寧で検討に値する」と評価したうえ

で、「随員として尚衣毒にふさわしい身分を推定すれば日本でも高級官吏だったはずだ。遣

唐使の幹部で死去したのなら記録に残っていいのだが、一切伝えられていない。そうした日本

の制度からすると、留学生として唐に渡り、現地で登用された阿倍仲麻呂のような人物だった

が、若くして亡くなったために中国側の記録に残るほどは栄進しなかったと見るのが自然だと

思います」と語る。

 中国側には当初から、在学年限制度をもとに短期留学生説や随員説があり、具体的には朝廷

の衣服制度を学ぶのが目的だったのでは、という見解があった。韓教授の論文は、そうした

見方を総括したものともいえる。

 一方、日本側では、日本の遣唐使は20年に1回程度で、頻繁に派遣した新羅など他の周辺国

とは事情が違い、帰国の迎えとなる次の遣唐使ほでは残留が認められたはずだという声が強い。

 墓誌が世に出るきっかけをっくった専修大は、「古代東アジア世界史と留学生」というテー

マを掲げ研究を続けている。研究は深まっているようだが、同時に日中間の見解の溝も広がっ

ているようにみえる。井真成が旅立ったはずの奈良に都が移って今年は1300年。時間の厚

い壁を感じさせる。
   2010-1-27  朝日新聞  夕刊


 中国の古都西安で見つかった日本人遣唐使·井真成の墓誌。最大のなぞである「井真成はどんな

人」をめぐる日中間の論争が、また一歩新たな段階へと踏み出した。短期の留学生か随行の役人だ

ろうとの中国の研究者の主張に対して、奈良大の東野治之教授が反論をまとめたのだ。(渡辺延志)

 墓誌には、井真成は奈良時代の734年に36歳で死亡したと記されていた。古代の国造りを

急いでいた時期でもあり、717年の遣唐使に選ばれた長期の留学生だったと日本の研究者は

考えた。

 だが2004年の発見の直後から、中国の研究者は、井真成は亡くなる前年に中国に到着し

た遣唐使の一員だったはずだと主張。海を渡ったのは、勉学の志を抱いた若く優秀な学生だっ

たのか、それとも中年の域を迎えた役人だったのか。墓誌の出現から6年にわたり、井真成の

人物像は日中間の論争となってきた。

 東野さんは今回、中国側の主張の根拠に疑問を投げた。歴史書「新唐書」に記録されている

「新羅と日本からの留学僧は、9年以上滞在することを認めない」との規則だ。中国の研究者

は、それを留学生一般に拡大して「十数年も中国にとどまり勉強を続けることは許されなかっ

た」と考える。

 その規則を東野さんは「いつの時点のものか」との着想から検討した。「百済や高句麗とい

う国名がないので、新羅が朝鮮を統一した7世紀後半以降のものだろうが、この規則が酊能に

なるのは、ある年限になれば帰国することのできる交通制度が整っていることが前提になる。

奈良時代にそれがあったのだろうか」

 各種の資料を点検すると、唐から日本に渡るには、その都度「大船」を建造していたことが

わかった。渡海に5度失敗し、6度目の753年に日本に到着した鑑真の記録は、そうした経

緯を具体的に記していた。鑑真は763年に死去するが、その報が唐に伝わったのは実に13年

も後だったという。

 「9世紀になると日本と唐を結ぶ交通網はそれなりに整備されるが、8世紀の段階では様相

がまったく違う。9年たったから日本へ帰れといわれても、とうてい不可能だった。平安時代

になると、留学より巡礼のために唐に渡る僧の方が増える。新唐書の記録はそうした時期のも

のと考えるべきだ」と東野さんは指摘する。

 717年の遣唐使に選ばれた吉備真備や僧玄昉が735年に帰国するまで勉学を続けるな

ど、次の遣唐使船が迎えに行くまで長期滞在するのが奈良時代の留学制度の基本だとされてき

た。井真成もその一人と日本では考えたが、それを否定したのが中国からの異論だった。

 工学院大の榎本淳一教授によると、北朝の隋は589年に南朝の陳を平定すると、沿海部に

大船建造の禁令を発したという。騎馬民族の系譜を引く隋にとって南朝の船は脅威だったの

だろう。隋を倒した唐も同じ北方の出身で、この禁令を引き継いでいた可能性があるようだ。

 墓誌の発見当初から東野さんと並んで議論をリードしてきた国学院大の鈴木靖民教授は、

「論争がここまで続いたのは、日中ともに自国の制度について研究の蓄積があったからです。

広く関心を集めたテーマでもあり、両国の専門家が集まり議論する場を設けることができると

いいのですが」と語った。2010-6-18  朝日新聞


三輪山

 『桜井市史』はヤマトの「ヤマ」は三 輪山のことだったと推測している。標高467mの円錐形の秀麗な三輪山は

和の地に入った外来者にとって印象的だったろう。

 山すそには箸墓古墳がある。初期の大型前方後円墳で邪馬台国の女王·卑弥呼の墓という説も根強い。三輪山の周辺に

はメスリ山古墳、桜井茶臼山古墳など大王級の古墳もある。神武の名前にイワレとヤマトの地名が入っていること、たび

天皇の宮が設けられたことと合わせて、ヤマト王権がこの山を神聖視してきたことは間違いない。

 熊野山中で物部一族の高倉下と出会い、垂直的世界観に宗旨替えするヒントを得たヤマト王権の創始者たちは、

の地で「神が降臨する」という観念を具現化していった。だとすると、その対象は三輪山をおいてほかにあるまい。 三輪

山は王権が垂直的世界観をわがものにする「ゆりかご」の役割を果たした。私はそう考えている。

 奈良盆地で育った古代史学者の和田萃氏は、三輪山の祭祀の歴史にはふたつの段階があるとして、次のように述べている。

 「古代の大和王権の大王が自らまつる、そういう山であった段階と、六世紀後半に大物主神の後裔である三輪君がま
つるようになった、二つの段階があるのではないか。そしてそれぞれの祀り手が変化するとともに、三輪山の神の性格も

変わったのではないだろうか」(『三輪山の神々』学生社)
 ヤマト王権初期の三輪山祭祀がどのよ
うな形であったかは、よくわからない。ただ山中のあちこちにあり、いまなお祈

りの対象として祀られている磐座が、古代の祭祀で重要な役割を演じたであろうことは想像できる。
 三輪山には「はんれい岩」が露頭して
いる場所が多い。自然のままの巨石石の周りに石を置くなどした場所が磐座

として祀られた。

 磐座の周りでは、いくつかの祭祀遺跡が発見され、鏡や玉、子持ち勾玉などが出土している。5世紀の品々が中心とい

う。三輪山は大神神社のご神体なので、祭祀遺跡の調査も一部でしか行われていない。今後もっと古い祭祀跡が見つかる

可能性もあろう。

 古代人は神が大岩や大木に降りてくると考えていた。磐座は神が降臨する舞台であり、神社の社殿ができる前からの祈

りの対象だった。ヤマト王権の創始者たちが三輪山のふもとで垂直的世界観を育んだと考えている私が、そこに点在する

磐座に注目するゆえんである。

 三輪山には、大神神社とその摂社,末社が並ぶふもとから頂上に向けて「辺津磐座」「中津磐座」「奥津磐座」があ

る。辺津磐座、中津磐座は、それぞれふもとと中腹に点在する磐座の総称だとされている。

 一方「辺津磐座は拝殿奥の禁足地にある」という話もあって、どうもはっきりしない。聖なる山は、あいまいな部分を

残すほうがかえってありがたみが増すのかもしれない。

 辺津磐座には少彦名神、中津磐座には大己貴神(大穴牟遅、大穴持)、奥津磐座には大物主神がそれぞれ鎮まっている、

ともいわれる。だがそれは後代の考えで、初期の王権は三輪山そのものを神が降臨する山として崇めていたのだろう。
2009-316朝日新聞 桐村英一郎


長谷寺追加

 本堂は735 (天平7)年の創建で、本尊の十一面観音立像を安置する正堂と、
台を張り出す礼堂からなる複雑な木造建築。創建以来焼失を重ね、現在の

本堂は1650 (慶安3)年に完成した9代目の建物だ。

 本堂の屋根は03年3月,風雨で倒れた裏山の大木の直撃を受けて破損する
被害に見舞われた。

部分的な解体修理に伴う奈良文化財研究所の調査で、現在の本堂は徳川幕

府の3代将軍家光によって新築されたことなどが確認された。8代目の本堂は
豊臣家の援助で再建
されており、豊臣と徳川の確執がうかがえる。






お水送り

2006-3-10  朝日新聞
 3月18日未明、奈良の東大寺で
行われる「お水取り」が済むと、関西に春が訪れる。このお水取り

の水は、福井県小浜市を流れる遠敷川の鵜の瀬のせせらぎ から「お水送り」されたものだと伝え
られている。

 このお水送りは神事でもあり、仏事でもある。一連の儀式は3月2日午前、小浜の下根来八幡宮
(しもねごり)で
ある神事で始まり、午後になると、少し離れた神宮寺に舞台が移され、弓打ちや修
二会 、本堂の回
廊で大たいまつを振る達陀の行と続き、午後7時ごろ、寺の境内に設けられた大
護摩が点火される。

 参拝者たちは、夜空を焦がす火柱から手たいまつに火を移し、寺から鵜の瀬までの1.8キロを
行列
する。山伏姿の行者や白装束の僧侶を先頭に、長いたいまつ行列が火の帯をつくった。
今年は約25
00人が神宮寺一帯を訪れたそう

 鵜の瀬に到着すると、送水神事が始まり、火の祭典から水の祭典に転じる。神宮寺の住職が
送水文
という祝詞を読み、寺の境内にある井戸からくんで竹筒に入れた香水を川面に流す。

 若狭と奈良は、地下の水脈ながっていると信じられ、鵜の瀬で流された香水は、10日後に奈良

に到着し、東大寺のお水取りの行事で、若狭井という井戸からくみ上げられる。

 インドから渡ってきたと伝えられる奈良時代の僧実忠和尚は若狭の神宮寺で修行をした後、奈

良の都にのぼり、東大寺二月堂を建立した。大仏開眼(752年)の2カ月前、実忠は修二会という

14日間の行をはじめた。その初日に「神名帳」を読みあげ、日本中の神々に行の加護を願った。

 ほかの神々はすぐに東大寺に集まったが、若狭の遠敷明神だけは魚とりに夢中で、行も終わり
に近
いころに現れた。遅刻のおわびとして、神通力で地面を割り三月堂のご本尊にお供えする水
をわか
せた。これが東大寺の若狭井で、修二会の別名を「お水取り」というようになった。

 国の重要文化財に指定された神宮寺の仁王門と本堂には、寺院なのに、しめ縄がかけ渡され
てい
る。本堂には神仏双方がまつられ、祝詞とお経が読まれ、柏手と合掌がなされる。明治時代
の神仏
分離令による弾圧をくぐりぬけ、中世の神仏混交をいまに残す珍しい例だ。

 神宮寺のほかにも、奈良、京都の都にとって"北の玄関口"であった小浜には古い社寺が多い。
口約3万3千人の小浜に130余りもの寺がある。「海のある奈良」といわれるゆえんである。

(国立民族学博物館名誉教授)


 奈良·東大寺の「お水取り」は752年に始まる。一方小浜のお水送りの始まりははっきりとしない。
ただ、若狭
と奈良が地下水脈でつながっているという,伝説は興味深い。

 そのお水送りに、私も今年初めて行ってみた。

 神事が始ほる前、神宮寺境内では1mほどの手たいまつが売られていた。行列にはだれでも
参加でき、たいほつに
は「家内安全」「学業優等」などの願いをしたためる。

 鵜の瀬までの道のりを一緒に歩いた。深い闇夜に、遠敷川のせせらぎが妙に大きく響き渡る。
行列の先回りをして
振り返ると、オレンジ色に揺らめく火の列が弧を描いて連なっていた。
幻想的だった。

  「瀬に沁みて奈良までとどく蝉のこえ」

 お水送りから一夜明けて、鵜の瀬を改めて訪れると、近くにこう記された句碑があった。
俳人、山口誓子の句だ。

多くの貢ぎ物を朝廷に送るなど、奈良と深い関係にあった若狭。古から脈々と流れ続ける目に見
えないものを思った。

(稲垣大志郎)









元興寺(塔跡)

 元興寺を名乗る寺は、奈良町に二つある。ともにルーツは南都七大寺の一つの

元興寺,奈良町散策用のイラストマップには、「元興寺(柩楽坊)」「同(塔跡)」とカッコ
付きで書き分けて
あった。

 最近は単に元興寺といえば、本堂と禅室が世界遺産に登録された前者と思われ

がちだ。しかし、歴史的には塔跡の方で、世界遺産の方は「元興寺極楽坊」と呼

ばれてきた。塔跡の元興寺は七大寺の面影がすっかり失われ、「隠れ古社寺」の

趣である。

 極楽坊の本堂と禅室はもとは僧が住む僧坊で、奈良時代の元興寺境内の北にあ

った。だから、塔跡の元興寺はもっと南だろうと見当をつけ、狭い通りに町家が

一軒を連ねる奈良町を気ままに歩いていたら、ちゃんとたどり着けた。

 表の通りから引っ込んで、古い門がある。拝観料を払おうと思ったが、それ

らしい場所がない。入って左手の庫裏を訪ねると、無料だという。塔跡は国の史

跡だが、寺は観光名所ではないからなのだろう。平安初めの重厚な一木造りで知

られる国宝·薬師如来立像を持つが、奈良国立博物館にずっと預けられたままに

なっている。

 門からまっすぐ塔跡に向かった。高さ1mほどの基壇があり、雑草が芝生のよ

ろにきれいに刈られている。草の間から顔をのぞかせるように大きな礎石が据

えられている。

 基壇の端からのぼった。礎石は表面が黒く、風化のせいだろうか、白い斑点が
交じっている。東西
と南北にそれぞれ約10の範囲に4列ずつ、計16個が整然と
配置され、中央
にひと回り大きい心礎(心柱の礎石)が置かれている。

 大きさと形は不ぞろいだが、最も正円に近い形のものは直径約90cmあった。柱

のほぞ穴と接合する突起もほとんどの礎石に残っている。「元興寺」と刻まれた

石碑は端が一部欠け、わびしく見えるところが失われた古塔の標識にはふさわし

く映る。

 塔は五重塔で、幕末の1859 (安政6)年の大火で焼失した。それまでは奈良時代
から約1100年
もの間そびえていたわけだ。実際、焼ける約70年前に刊行された
「大和名所図
会」には元興寺の五重塔が奈良町のにぎわいとともに描かれている。
興福寺五
重塔と競うように立っていただろうその雄姿を想像すると、惜しまれてな
らない。

 大和名所図会には2基の灯籠が描かれている。その一つであろう、本堂の前の

石灯籠は現在は八角形の基壇しか残っていないが、基壇には蓮華文が浮き彫りさ

れていて、相当古そうだ。もう一つは、やはり絵に相当する場所に完全な姿で立

っている。そう古いものではないようだが、仏足石も置かれている。

 塔跡は心礎の周辺だけ戦前に発掘されたが、文化財調査はどこまで行われてい

るのだろうか。わずかにしろ、立派な遺構と遺物は残っている。説明板が何もな

いのが寂しかった。
2006-6-13  朝日新聞

(沖真治)


(メモ) 奈良市芝新屋町。華厳宗。極楽坊は同

市中院町で真言律宗。元興寺は平城京遷都に伴い飛

鳥寺が移転して造られた。平安時代から衰え、1451

年の火災で主要な建物が焼け、極楽坊、五重塔·観

音堂、小塔院地区の3カ所に分断された。焼けた諸

堂の跡に一般民家が建てられ、現在の奈良町に発展

した。近鉄奈良駅から徒歩約10分。





補陀落渡海

 南の海をじっと眺めて、あの水平線の先には何があるのだろう、といえば、常識的にはグアムやサ

イパンなんかがあるのである。

 しかし、グアム、サイパンどころか地球が丸いことすら知らなかった時代の人々は、そこに何があ

ると考えていたのだろうか。

 海の彼方に補陀洛という浄土があると考え、外に出られないよう釘付けされた箱船に乗り込んで、

船出する。そんな奇妙な宗教儀礼が、かつて、那智の浜で行われていた。

 海岸近くに建つ補陀洛山寺には、そうした渡海船の部材だったと見られる蓮や牡丹の描かれた

板と、少ない史料をもとに復元された渡海船が展示されてある。

 四方に鳥居が立てられた異様な姿。人がひとり乗るのが精一杯と思われる入り母屋型の船室。多く

の上人たちが、そんな船内の闇の中で、ひたすら往生を願ってお経を唱えつつ、海に消えていった。

 『熊野年代記』によれば、補陀洛渡海時貞観10年(868年)から享保7年(1722年)の間に、合計20回
行われたとのことで
ある。

 現代の感覚では自殺としか思えない行為だろう。しかし、彼らが本当に補陀洛の存在を信じていた

のなら、そんな悲愴感はなかったのかもしれない。修行を積んで,生死など超越していたのだろうと

いう説もある。近世以降の渡海は、実際は水葬であったとも言われる。だが、なぜそのような行為

が行われるようになり、上人たちがどんな気持ちでそれを行ったのかなど、詳細を記した史料は残っ

ていない。

 井上靖の小説『補陀落渡海記』では、金光坊なる僧侶が、途中で船から脱出しようとして許されず、

そのまま無理矢理渡海させられたことになっている。その話は、実際に伝説として語り継がれてもい

るのだが、そういう伝説があるということは、逆にいえば、金光坊以外は冷静に受け入れていたので

ある。海の果てに何があるか見きわめたい。あるいは、そんな好奇心もあったのではなかろうか。

 面白いのは、渡海上人のひとりが琉球に流れ着いたという記録があることだ。紀伊半島から船出す

れば、黒潮によって東に流されるはずだが、そうはならずに南西の島に漂着した。まさかとは思う

が、そういう奇跡的な話がついてまわるのも、補陀洛渡海の不思議さである。

 補陀洛山寺はすでにユネスコの世界遺産に登録されているが、特別に補陀洛渡海を、勝手に関西無

形世界遺産に認定したい。
 2006-2-26  朝日新聞  宮田珠己
 (エッセイスト)


 2月上旬に訪ねた南紀那智湾は、風花が舞う寒さ。に

もかかわらず、空は青くまぷしく、穏やかに波が寄せ返す

浜は、南方の観音浄土(補陀洛)への船出にふさわしい地

であったろうと感じさせた。

 渡海の記録は、高知県の室戸岬や九州各地に残るが、最

大の拠点は那智だった。この浜には、熊野山系からの水が

流れこむ。熊野には平安期から多くの修験行者が現れた。

生死の間をさまよう厳しい修行を積み、焼身往生もあった

という。補陀洛渡海は、海での捨て身の修行だったのか。

 逃走したという金光坊は戦国時代の人。「生死を超越し

た修験僧と違い、金光坊はいかにも人間らしい。外海は波

が荒く、すぐに難破するのは自明のことですから」と、補

陀洛山寺に勤務する瀬川伸一郎さん( 55 )は話す。

 室町後期の那智参詣曼荼羅には、渡海上人のほか、見送

りの僧や民衆、途中まで綱で引く船や同行者も描かれる。

「厳しい修行」から二種の華々しい儀礼」に、渡海の意

味も時代とともに変わったのかもしれない。(吉村千彰)



 狭く暗い箱に生きたまま閉じこめられ、海に流される――何とも恐ろしい状況

だ。そこで金光坊は、小舟にくぎ付けされた箱を必死の体当たりで壊して脱出す

るが、翌夕発見され、再び潮の中に押し出される。

 熊野の補陀洛山寺(和歌山県那智勝浦町)などに伝わる儀式をテーマにした井

上靖の「補陀落渡海記」 (1961)は、陰惨ともこっけいともいえる名作だが、元史
料の熊野巡覧記は
「此僧甚だ死をいとい命を惜しみけるを、役人是非なく海中
へ押し入れける」と
そっけない。

 16世紀末と推定されるこの出来事の後、同寺の渡海は僧を死後に水葬する儀式

に変わったが、僧の亡霊が死人を食う怪魚「ヨロリ」になるという伝承や金光坊
の名はいまも残る。

 もっとも怪魚の正体は小骨は多いが味のよいクロシピカマスで、伝承と違っ
小田原などの海にも多
く、盛んに蒲鉾にされているという魚類学者の言を南

方熊楠が紹介している。

 日本宗教史の謎とされる、こうした渡海に関する約170の論考や史料を「補陀
落渡海史」(200
1)にまとめた根井浄龍谷大学教授によると、同寺上人の補陀落
渡海は、868
年から20件記録されているが、堺、四国、九州などからの渡海や
氏名不詳の例な
ども含めると1909 (明治42 )年まで計60回。 生還の記録は沖縄
に漂着し
た日秀上人だけという。

 「ふだらく」は、梵語の「ポータラカ」で、インドの伝説の山や海上はるかにある
観音菩薩の浄土をさ
す。チベットのポタラ宮や音読みで日光山に変わったという
二荒山も同語源だ。

 舟の四方に鳥居を立てる様式は古代の水葬にも近いが、母殺しの罪を償うため、
断食や不眠の苦行の後
に渡海した行者や、村代表らしい複数の男女の集団渡
もあることから、根井教
授は、その動機として個人的滅罪と、人々に代わって
や罪業をうけ共同体を救
おうとする、いわゆる代受苦の精神を想定している。

 時には数人から20余人の同行者を伴い、歓喜のうちに実施された渡海は、宣教

師らには「日本全偽の天国に導く悪魔の奸策」と映ったが、こうした苦行や捨
を崇高と感じる心理は仏
教の伝来前からあったらしく、奈良、平安時代も入水や

焚身などが僧尼令で禁止されるほど多発したという。

 その心理の古層は、戦後、西欧近代の発想を習合しつつも特攻隊員の手記に

涙し、回峰行者や大峰先達を敬う現代の私たちにもあるに違いない。

 井上靖の小説と同時期に注目された国文学者·益田勝実の論文「フダラク渡り

の人々」(1962)は、渡海者の抱く生と死の意識の不思議な重なり合いにっいて
「わたしたちの民族は
二十年ほど前発して護国の鬼となる』という自覚のもとで
の死で、似通った体
験をもっている」と鋭い指摘をしている。

 2007-11-15朝日新聞 佐伯善照

















法隆寺火災記事

 法隆寺の火災は日本書紀の天智9 (670)年の項に書かれている。


 「四月三十日夜半之後に法隆寺に災けり。一屋も涂ること無し。

大雨ふりい雷震る」


 素直に読めば、激しい雨の中、落雷で火災が起き、伽藍が全焼し
たと解
釈できる。法隆寺再建非再建論争はこの火災の有無をめぐ
って争われた
が、若草伽藍で見つかった金堂と塔の跡が焼けた

法隆寺であることは間違いなく、再述説が定説となった。


「全焼」は誇張

 だが、「全焼」は発掘では証明されていない。誇張ではないかと疑
う見
方もある。そこで記事の表現に注目してみた。「災」で表される
火災
は雷など自然現象が原因とされる。「災」で表記された日本書
紀の火災記
事を『日本書紀索引』で調べると、552 (欽明13 )年から
686 (朱鳥
元)年まで計13回ある。ほとんどは「是の冬、鳥板蓋宮
に災けり。故
に飛鳥川原宮に遷り居します」のように,起きた事柄の
み記している。法
隆寺の火災記事は発生日時、規模、天候描写に
び、非常に詳しい。

 もう一つ特徴的なのが「大雨」。火災記事で雨を伴う表現は法隆
寺にし
かない。そこで「大雨ふり雷震る」に注目し、火記事以外で同
じような
言い方を調べると、他に4回出てくる。

 このうち618 (推古26 )年の記事に、河辺臣が船を造るため安芸国
派遣された時の話が次のように書かれている。

 山で良材を見つけたが、雷神がよりついた木なので伐採してはい
いと言われる。それでも無理こ伐採させると、
「大雨ふりて、雷電す。」642 (皇極元)年8月の記事では、皇極天皇

が雨ごいのため明日香の南淵の川上で、ひざまずいて四方を拝み、
天を仰
いで祈ると、「雷なりて、大雨ふる」とある。

「大雨と雷」

 「大雨」と「雷」が対になった表現は霊的な力が働く特別な場面で使わ

れている。4回とも天候空から見た若草伽藍のの異変に別の意味合
いが
込められている。法隆寺の火災記事には、日本書紀の編者が
特別な意図を
込めた可能性が考えられ火災記事のすぐ後に、背中
に「申」の字が書か
れた亀の話が出てくる。これは2年後の672(天武
元)年に起こる古
代最大の内乱、壬申の乱の伏線をなす記事とされ

ている。東野治之·奈良大教授は、法隆寺の火災記事も壬申の乱の
伏線と
して配された異変記事の一つであるという(論文論争と史実」)。

 そうであれば,火災記事の特異性の理由が推定できる私見になるが、

日本書紀の編者は壬申の乱の伏線としての効果を高めるため、
「一屋も余
ること無」の大火にしのではないか。さらに「大雨·雷」を加
えるこ
とで、火災に霊的な力(天意)が働いていることを印象づけ、
避けるこ
とのできな3壬申の乱の予兆とした司能性が考えられない
だろうか。







建築様式折衷様

  古建築というと、法隆寺の金堂や五重塔、薬師寺東塔に代表される飛鳥·奈良

時代の建物を連想する。鎌倉時代以後の中世建築は古代建築に比べると劣って
るように、つい思ってしまう、山岸常人,京大大学院助教授(建築史)はこうした見
方を以前から強く批判
してきた。最近,出版された山岸さんの「塔と仏堂の旅-寺院
建築から歴史を
読む」は、中世の仏堂が古代の建築様式からいかに発展したか
を系統的に説き明
かし、古代建築崇拝者への啓蒙書となっている。

 日本の建築様式は朝鮮半島や中国から輸入された寺院や宮殿建築が平安時
代に
日本的に変容して「和様」を生む。鎌倉時代に再び中国から「大仏様」と「禅
様」を採り入れ、「新和様」と「折衷様」が誕生する。山岸さんが高く評価するの
は鎌倉後期から南北
朝時代( 13世紀後半~ 14世紀)に建立された折衷様の
物で、破格の自由閣達な
様式をもつという。

 平家に焼き打ちされた東大寺の再建で重源上人が採用したのが、東大寺南
大門
に代表される大仏様。重源の死後、大仏様は途絶えるが、技法は南都の
工匠に伝
わり、和様に大仏様の要素を取り込んだ技法や意匠が工夫され、折衷
様が生まれた。

 山岸さんは初期の例として、奈良市の般若寺楼門(1267年ごろ) ,同市の唐招提
寺講堂の改修(1
275年) 、生駒市の長弓寺本堂(1279年)を挙げる。

 だが、折衷様の仏堂が集中して残るのは瀬戸内海沿岸部だ。興味深いのは、
律を重んじる律宗中興の祖叡尊(1201~90)の配下の「西大寺流律宗教団」
が瀬戸内海沿岸で布教
活動を進め、教団に南都の工匠が付き従っていたとい

う指摘である。

 本堂などが代表的な折衷様である広島県尾道市の浄土寺は、叡尊の弟子の
定証
が13世紀末に再興し、東大寺の大工が金堂などの造営にあたった。

 折衷様の最高傑作とされる同県福山市の明王院本堂(1321年) 。史料は乏

しいが、山岸さんは燧梁と(ひうちばり)いう特殊な技法から、西大寺流律宗教団
がかかわった
可能性が高いとしている。

 古代建築だけでなく中世建築もまた、奈良の僧と大工たちが重要な役割を果た

した。奈良文化の偉大さを改めて思った。

 山岸さんは元奈良文化財研究所員で、奈良の寺院の法要に参加して、法要を
近に見ながら研究を蓄積した。「奈良にも中世寺院はたくさんあるので、さらに

研究を重ねたい」と話している。

(沖真治)






青岸渡寺

 目を奪う奇岩や巨木の多い熊野の山中でも、那智の滝は格別だ。地質学的には1400万年

の歴史を持ち、熊野灘からも天と地を結ぶ白布のように見えるというから、神や仏という扉

もない時代から山人や海人の尊崇を集めてきたに違いない。

 その滝を眺める高台に、熊野那智大社と青岸渡寺が隣りあう光景は8、9世紀から明治まで

続いた神仏習合の時代を実感させる。そもそもこの寺が一番札所になったのも、千年ほど前

に、ここで千日間の滝修行をした花山法皇が、三十三所巡りを復興したという伝説からだ。

 金色の如意輪観世音菩薩の御前立に目をこらすと実に端正な顔立ち。目を伏せ、首を少し
傾けた姿勢も女性的でな
まめかしい。さらに近寄るとひげのような線も見え、ちょっとがっかり
したが「そうかそう
か」と悩みを聴いてくれそうな半眼の穏やかな表情だ。

 ふだんはその奥におわすご本尊は高木英,副住職によると「椿の無垢材で、御前立さん

と違って、ずいぶん男性的な印象ですよ」。 1978年から8年がかりで三十三所の本尊を描

いた故丸山石根画伯も「高さ三mほど、やはり六臂の座像でしたが、黒一色、御前立とは打っ

て変わって男性的な誠に力強いお像」と記している。

 ふりむくとお堂の隅に修験道の開祖·役行者像があった。鬼神を使役した大呪術者にしては

にこやかで、こちらもなかなかの人気。高木副住職は、地元の分と共に、荒れていた大峯奥

駈道の南半分や那智四十八滝の行場を復元、熊野修験の再興にも努めている。
2008-10-3  朝日新聞 (佐伯善照)






一乗寺

 兵庫県の加西市、加古川市、姫路市の境あたり、山の斜面に一乗寺がある。寺伝によれば、

インドから紫雲に乗って飛来した法道仙人を開祖とし、仙人の法力で病気がいえた孝徳天皇の

命で650年に金堂が建立され、鎮護国家の道場となった。

 山林も含めれば40haの広大な敷地は、国宝や重要文化財の宝庫でもある。162段ある階段

の踊り場には国宝·三重塔が。

1174年に完成した国内有数の古い仏塔だ。上りきれば、重要文化財の金堂が姿を現す。火
で幾度か焼け、現在の建物は
1628年こ再建された。

 本尊の金銅仏·聖観世音菩薩(重要文化財)は、金堂の厨子に安置されている。来年11月、
22年ぶりのご開帳となる。白鳳
時代(7世紀中頃)の作とされ、ほぼ同時期の御前立(重要文化財)
は宝物殿に。
 「飛鳥仏のようにすらりとして、丹念な衣の装飾が特徴。お顔はふっくらと穏やか
です」
と、太田實秀住職は語る。

 金堂の格子戸を隔てて向こうの厨子前にも、よく見ると御前立が。こちらは2代目だ。もともとこ
こには宝物殿にある初代
を置いていたが、明治時代に盗難に遭い、のち裏山に放置されている
のが見つかった。「重く
て置き去りにされたのでは士が担いで寺へ持ち帰ったそうです」と、
太田住職。以後、厨
子の前は2代目の定位置だ。

 金堂から境内を見下ろせば、折々に表情を変える山に三重塔が映える。時折去来する巡礼さ

んのにぎわいを除けば、鳥の声だけがこだまする。秋は紅葉も美しい。
2008-10-24  朝日新聞(星野学)







施福寺

 西国三十三所でも有数の難 所。車はふもとの小さな料理旅 館付近まで。仁王門をくぐり、

槙尾川のせせらぎと木々のざわめきを聞きながら、急坂と階段を約40分かけて登る。しっかり

した靴は巡礼に欠かせない。

 創建は欽明天皇(510~71 )の代、つまり仏教伝来のころにさかのぼる。津守佐理山主

( 65 )は「仏教以前から、人々が海の安全や戦勝を祈願した磐座がある信仰の場だった」と話

す。槙尾川は泉大津の港に注ぐ。陸路で紀伊と河内をつなぐ地でもあり、渡来人技術者の行

き来も盛んだったという。行基、空海ら名僧が滞在した記録も、ここが単に山深い寺ではな

かったことを物語る。

 山号は、役行者(687~704)が葛城の山々に法華経を納めた際、巻尾がこの寺だった

ことに由来するという。境内の馬の像は、三十三所を再興した花山法皇が巡礼中に道に迷い、

不思議な馬のいななきに導かれて無事に施福寺に着いたという伝説にちなむ。「『まき』は牧

にも通じる。馬との関係も深かった」と津守山主は想像する。

 馬頭観音もまつられているが、こちらは絶対の秘仏。本堂で本尊·弥勒菩薩坐像と、十一面
千手千眼観音菩薩立
像、文殊菩薩立像の開扉が始まった。

 長く真言宗だったが、江戸時代に天台宗に。織田信長の焼き打ち、江戸時代の山火事で、
物はほとんどが幕末のものだが、目の前に迫る金剛山や岩湧山、はるかに見渡す大阪湾の風

景は、古代からの信仰の歴史を感じさせる。
2008-1-10  朝日新聞 (佐藤千晴)





神武天皇陵について

 初代の天皇とされる神武天皇の陵(墓)として、宮内庁は奈良県橿原市・畝傍山北東の「四

条ミサンザイ古墳」 を指定している。奈良時代の「日本書紀」や平安時代の「延喜」の記述
が基になっている
が、神武天皇が実在したかどうか疑問を持つ人も多い。奈良県立橿原考
古学研究所(橿考研)
の今尾文昭さんは、このほど開かれた日本史研究会例会で、神武天皇陵
が7世紀末ごろ「創
出」された可能性を指摘した。

 神武陵は直径36mの円丘。明治時代の改修で造成されたもので、もとは直径数mの丘が二つ

だった。,江戸時代末の改修工事で、須恵器や鳥形の埴輪が出土した記録がある。
その北にある「四条塚山古墳」は第二代の綏
 靖天皇陵に指定されており、こちらは直径30m
ほどの円墳だ。

 両天皇陵の周辺では80年代以降の発掘調査で、694年に完成した藤原京の建設で削られた

5-6世紀の古墳が多数見つかった。両天皇陵も、実はこの破壊された古墳群の「生き残り」

だったらしい。

 日本書紀には、天武天皇がおいと皇位を争った壬申の乱(672)の際、神武陵に馬と武器
奉納して戦勝を願ったという
記述がある。自分の正統性を誇示するため、天武は即位後に
武をはじめ、祖先の墓を整備しようとした可能性が高い。

 藤原京はその天武が構想し、妻の持統天皇が完成させた。今尾さんは「藤原京の予定地にあ

った古墳群のうち、一部を神武らの『天皇陵』とするために残し、他の古墳は削ってしまった

のでは」と推定する。今尾さんがこの時に「神武陵」とされたとみるのは、現·綏靖陵の四条

塚山古墳。中心の藤原宮から、京を南北に分けるように伸びる四条大路が同古墳のすぐ北を走

り、子孫を見守る「始祖墓」としても最適の場所だ。

 今尾さんは「7世紀末に律令国家の体制が整備される中で、国は巨大な前方後円墳などを天

皇の祖先の墓として管理し、正統性を印象づけようとした。神武綏靖ら初期の天皇の墓も、

この時に既存の古墳を利用して創出されたのではないか」と話す。ただし天武。持統の時代に

「神武陵」が存在しても、それが40代も前の神武天皇の実在性を補強するものでないことは、

言うまでもない。

2005-8-19  朝日新聞(今井邦彦)


 橿原市四条町にある四条塚山古墳は、橿原神宮に向かう県道沿いに入り口がありま

す。畝傍山周辺にある小さな古墳です。江戸時代には塚山、福塚などと称されていま

した。石棺が存在した伝えを載せる史料もあります。現在、宮内庁では、第2代綏靖

天皇の「桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえ)」として管理しています。

 考古学を志してからも、学生時代に綏靖天皇陵を訪れたことはありませんでした。最

初に訪れたのは、県立橿原考古学研究所へ勤務するようになった1980年前後のこと

です。同志社大学の森浩一先生が来所の折に、「もしかしたら八角墳かもしれないから

確かめに行く」と言われたのでお供しました。自発的な動機ではありませんでした。

 陵墓地形図が森先生の推測の根拠だったのかもしれません。四条塚山古墳は直径
28m、高さ3 . 3m程度の円墳として図化されています。外周は南北方向の長方形の土堤

と石柵になっています。

 墳丘の途中にも石柵があり、東西に長い八角形に囲っています。文政8 (1825)年
に大坂·北浜の医師、三上大助らの寄進とされる石柵でしょう。しかし、拝所からでは内部
の墳丘をほとんど観察することができず、もどかしい思いをしました。

 私自身は、その後も綏靖天皇陵に特段の関心をはらうことはありませんでした。と一言

うのも、歴史学者の津田左右吉の研究以来、初代の神武天皇と、その後の第9代開化
天皇
までの「欠史八代」については、「古事記」「日本書紀」に記された天皇の事績を

そのままに史実とすることはできないとされていたからです。伝説上の天皇の陵墓が直

接、考古学に関係するとは思つていませんでした。

 その認識を改めたのは、1987年の橿原市の県立医大グラウンド予定地で見つかっ

四条1号墳(四条古墳)の存在です。四条塚山古墳からは、県道を挟んで北東約150m
の至近距離にあります。

 古墳時代中期末葉(5世紀末ごろ)に築かれた造り出しがある方墳で、南北約32mの

大きさです。二重周濠で、内濠から円筒埴輪、形象埴輪とともに鳥形、盾形,蓋形など

の木製品が出土しました。

「木の埴輪」の新発見として大きく報道されました。

 発掘調査の成果は、そこにとどまりません。四条1号墳は藤原京(新益京)の造営が

契機となって墳丘が削られたことがわかりました。周濠を残すばかりの状態で埋もれて

いました。

 平らにされた四条1号墳の南半分は、四条大路になります。北半分には、建物や井戸

が造られました。四条1号墳は7世紀末から8世紀初めに、古代都市の宅地と道路に

なったのです。

 皇統譜上の初期王陵は畝傍山周辺に集中しています。「古事記」「日本書紀」には、
畝傍山を起点にした方角をもとに3代の天皇の陵名が記されています。

 律令国家は、藤原京の範囲にあった古墳に対して、道路や宅地にするために平らにす

る古墳と、伝説上の天皇陵に当てはめて墳丘を残す古墳に選別したのではないかと
推測します。もちろん、残した古墳は陵墓制度に基づく管理と祭祀を行ったことでしょう。

 周濠を残すばかりの四条1号墳と、墳丘が残された四条塚山古墳の存在は正反対で

す。律令国家の意思が見えてきて、「目で見る都づくり」を実感できます。
  2018-3-2   朝日新聞
 (関西大非常勤講師 今尾文昭)


 江戸時代の本格的な修陵(陵墓を定め、修理すること)は元禄修陵に始まり、おもに
享保、文化、文久の数度、行われたようです。徳川幕府はそのたびに陵墓の改め

を実施し、変更することで充実を図りました。しかし、近代日本は治定した陵墓を変え

ない施策をとります。

 戦後の皇室典範でも、それまでの陵墓を追認する付則を設けることで継承します。
定められた被葬者と現代の考古学成果が異なることはありますが、変更するには、
現行法の整備がまず必要だと思います。

 元禄の修陵から幕末まで、橿原市の四条塚山古墳(現綏靖天皇陵)は神武天皇陵と

して管理されてきました。

「もしか」は禁物ですが、幕末に変更がなければ、管理と祭祀がその後も続き、近現代

の畝傍山周辺の景観は異なったものになっていたでしょう。

 元禄10 (1697)年の修陵記録に塚山について「神武天皇御廟之由村人申伝候」と

あります。地元の四条村には神武天皇陵の伝承がありました。山陵絵図「廟陵記」
には陵上に松が1本桜が2本、柵外の南側に文化5 (1808)年の石灯籠が1基、描か

れています。嘉永7 (1854)年、与力で山陵研究家の平塚瓢斎の「聖蹟図志」は、

四条塚山古墳を「神武陵」と記しながら、一説に「綏靖帝陵」と併記しています。

 この間に、神武天皇陵の所在地をめぐる論争が起こります。明和9 (1772)年、

国学者の本居宣長は「菅笠日記」に四条塚山古墳を神武天皇陵とすることへの異論
を述べます。「古事記」が神武天皇陵は「畝火山之北方白檮尾上にあると記したことによ

ります。

 四条塚山古墳は、畝傍山から離れているではないか。畝傍山西北麓の「すゐぜい塚」

が神武天皇陵にふさわしいと主張しました。橿原市慈明寺町にある墳丘の全長71mの
前方後円墳、スイセン塚古墳のことです。古事記を重んじた真骨頂を発揮したわけです。

 四条塚山古墳が畝傍山から離れているという古事記に基づく見方は、後の神武天皇陵

の所在地論にも影響を与えました。嘉永元(1848)年,大和出身の津藩士で山陵研究家
の北浦定政は「打墨縄」に神武天皇陵は「畝火山の東北を洞村(ほら)と云丶其村の上

にあり、字丸山とよぶ」と、畝傍山東北麓で中腹にある丸山を主張します。各文献史料

の記事内容と合致する場所を見つけようとしました。

 文久修陵の中心人物の谷森善臣は、安政4 (1857)年の「藺笠(いがさ)のしづく」や文久

2 (1862)年ごろに完成した「山陵考」で別の説を示します。丸山説は、陵墓としての形跡
が観察できないというのが、おもな理由です。丸山の北側の下方にある畑の
小字ミサンザイ、俗称神武田(じむだ)を地名考証から神武天皇陵だと主張しました。

 文久修陵にあたり、北浦の丸由説と、谷森のミサンザイ説が朝廷に提出されます。
文久3 (1863)年2月、最後は孝明天皇の勅裁でミサンザイが神武天皇陵に決定しました。
今の「畝傍山東北陵(うしちらのすみ)」です。四条塚山古墳は治定替えとなり、1878
(明治11 )年2月に綏靖天皇陵となりました。

 その後、神武天皇陵は変わらず、周辺の拡張整備が行われぼす。1917 (大正6)

年9月以降に数年かけた洞村の移転がありました。陵墓の神聖を侵すというのが理由で

した。神武天皇陵と共に語られるべき歴史だと思います。
  2018-3-9  朝日新聞
 (関西大非常勤講師今尾文昭)





多神社

 79年1月,奈良市東部の丘陵地にある茶畑から銅板の墓誌が見つかった。「従

四位下勲五等 太朝臣安萬侶」と読め、大騒ぎになった。奈良時代初めの712年
に日本最古の史書、
古事記を完成させたことで知られる太安万侶の墓だったのだ。

 安万侶の出身氏族は多氏。現在の田原本町多は多氏の本籍地で、古代の氏族

名が地名として残っている。多神社は多氏一族の氏神としてまつられていた。

 古事記の編纂は、大海人皇子余武天皇)が近江朝廷に反旗を翻した壬申の乱

(672年)と深くかかわっている。この古代最大の内乱に勝利し、神とあがめられた
天武天皇はその絶対
権力を正統化しなければならなかったからだ。

 前世紀から編集作業が進んでいたらしい帝紀(大王·天皇の事跡)と旧辞(神話や
氏族伝承など)につい
て、天武天皇は「虚偽が多く加わっているので、誤りを改め
実を定めて後世に
伝えよ」と詔し、稗田阿礼に誦み習わせた。途中で天武天皇は
没したが、元明天
皇の命を受けた安万侶がヤマト 言葉を漢字·漢文で表記するの
に苦労しながらま
とめた。

 安万侶は古事記の序で編纂の経過をこう記した。その前段では、壬申の乱での

大海人軍を流麗な漢文体で雄々しく描いている。実は、大海人軍には安万侶の父、
多品治がいた。古事記
は推古天皇の代で終わるので本文では触れていないが、
日本書紀は品治が3千
の軍勢を率いて近江軍を撃退したことなどの活躍を書
とめている。

 古事記は朝廷の有力氏族の祖を記しており、多氏の祖は神武天皇の皇子、神八

井耳命とある。一方、多神社は延喜式神名帳に「多坐弥志理都比古神社」とあり、
これが今も正式名
だ。ミシリツヒコのいわれははっきりしない。古事記には
カンヤイミミが弟の
綏靖天皇に皇位を譲ったと書かれており、この故事にちなん
だ名前という見方が
あるそうだ。だが、「田原本町史」は水を治める神との見方
も示している。

 多氏は本籍地から各地へ出て活躍したようで、一族が非常に多いことでも知ら

れる。そのためであろう、多神社は大和でも屈指の大社だった。今、その面影は

ないが、広い境内を散策していると、地下に栄華の跡が埋まっているような気が

じてくる

 多神社と道を隔てて、安万侶をほつる小杜神社があった。社と鳥居の周辺は雑

草と雑木が茂っている。雑草の中にぽつんと「小杜神社」と刻まれた石碑が立つ

ていた。裏を見ると、大阪の銀行が「古事記撰上1230年記念」に寄進したと

記されている。42 (昭和17 )年に当たるから、戦争中に寄進したのだろう。
  2004-1-27  朝日新聞
 (沖真治)







万葉歌 最古の木簡

 奈良県明日香村の石神遺跡(飛鳥時代)から出土した7世紀後半の木簡
に、国内最古の歌集、万葉集の歌が記され

ていたことが、森岡隆·筑波大准教授(日本書道史)の調査でわかった。万葉

集の歌木簡は、滋賀県甲賀市の紫香楽宮跡とされる宮町遺跡(奈良時代、

8世紀中ごろ)の出土例が最古だったが、約60年さかのぼる。今回の歌が

収録された万葉集巻7の成立時期より少なくとも半世紀以上古く、編纂過

程を知る貴重な史料となる。

 森岡准教授や奈良文化財研究所によると、木簡は羽子板状で長さ9.1cm 、幅5.5cm

厚さ0.6cm 。日本語の1音漢字1字で表す万葉仮名で、左側に「阿佐奈集伎尓伎也
(あさなきにきや)」
右側に「留之良奈你麻久(るしらなにまく)」の14文字が、くぎのよう
なもの
で刻まれていた。万葉集巻7に収録の「朝なぎに来寄る白波見ぼく欲り我はす
れど
も 風こそ寄せね」(作者不明)の冒頭部分とほぼ一致していた。

 歌の意味は「朝の凪に寄せて来る白波のような恋人を見たいと思いはするが、風が
を寄せて来ない」(『中西進著作集20万葉集全訳注原文付二』四季社)。

 木簡は奈文研の調査で03年度に発見。近くで出土した別の木簡には「己卯年(679

年)」と記されており、7世紀後半のものと推定した。木簡は右から書く例が多いため

出土時は意味が判読できず、万葉集の歌とはわからなかった。森岡准教授は、過去
の研
究で土器に左から歌を書く例があったことから、万葉集の歌と判断した。今回の
木簡の
歌には「見まく」の「見」に相当する部分がなかった。「寄る」を「やる」としたの

は書いた人のなまりのため、「白波」を「しらなに」としたのは「弥」を「你」と間違ったと
推測している。


「はやり歌」か

上野誠·奈良大教授(万葉

文化論)の話
 木簡の歌は
万葉集が完成するかなり前から詠み継がれてきた「はやり

歌」の可能性がある。口頭で歌われたものを書きとめたため、一部に間
違いもあるのだ
ろう。万葉集は訓読みの漢字や、万葉仮名で書かれた
後世
の写本しか残っていないが、7世紀後半の時点で万葉仮名で歌が書
かれていだことがわ
かり、非常に意義深い。








和算

 和算発展の立役者関孝和(せき·たかかず(1640年ごろ~1708年))
生年や出生
地は諸説あってはっきりしない。もともとは甲府藩士

で、後に幕府の勘定吟味役などを務めた。自ら開発した「傍書法」
で多元高次方程式を解いたほか、代数
行列式、正多角形理論など
を西洋数学とは独立して開
拓した。著書に「発微算法」(1674年)がある。
天文
研究や暦の改訂にも尽力した。


 江戸時代すでに、九九やそろばんは中国から伝わっていた。だが、鎖国の時代、最新の西洋

数学は入ってこず、和算が独自の発展をとげた。

 孝和の死後、弟子らは「関流」を名乗り、和算を全国に広めた。難問を解いた人の名前を

記した「算額」を神社に奉納し、各地に孝和を顕彰する石碑を建てた。

 弟子たちの多くは大名の家来として取り立てられたが、全国を行脚し、別の流派や地方の和

算道場で決戦を挑んだ和算家もいる。富山の薬売りに手紙を託し、遠く離れた人と和算の談義

をする人も。

 一方、庶民のベストセラーは1627年に吉田光由が書き、さまざまな改訂版も出た「塵劫(じんこう)

記」。数の読み方や、九九といった基礎知識から、「ねずみ算」などの数学遊びも紹介した。
別の本では、布や紙を切っ
てあわせ、最初とはまったく違う形にする「裁ち合わせ」なども流行。
老いも若きも、武士も
庶民も和算を楽しんでいたようだ。






中宮寺菩薩半跏像

 この仏様、中学や高校の歴史教科書でも目にするほど有名だ。高さ87. 9 cm。腰掛けに座り、
足首を左ひざに軽く乗せる。深い思索にふけり、ほおに 右手指を添える。その美しさが、何よ

り印象的だ。

 同じスタイルをした仏像は、京都市の広隆寺や韓国にもある。しかし、それらが上体を前にやや
傾けているのに
対し、中宮寺の半跏像は背中がまっすぐに伸びている。反り返るような、力が入った
様子はなく、
落ち着いた雰囲気がある。


解説 東京国立博物館 上席研究員 松浦正昭 
その1

 「この像は、右手指をほおに添えるために寄せ木造りで製作されたに違いない」 過去の研究で、
10以上
の木製部品を組み立てて造った仏像であることはわかっている。確かに体のあちこちに、
木を組み
合わせた跡が見て取れ1本の木を削り出す二木造り」が製作手法の主流なのに、この像を

造った仏師は違う手法を採った。なぜかといえば、ほおに指先が来るよろに1本の木を彫り進め
いくと、木のゆがみな
どで微妙なずれが生じる。それを避けるには、一部品を組み合わせる方が 
 「この表情のために、
手法を変えた。理想的な造形を求めたのでしょう」

その2。「
 頭部はぎり
ぎりの長さのくぎで留められている」これは、00年の X線撮影でわかったことだ。顔
後頭部の部品を合わせ
るため、仏師は頭部に鉄くぎを打っている。太さ1.5ミリ。表面を見てもよく
わからない。そんな
細さだ。

 このくぎの長さが微妙で、後頭部から打ち込んで、顔に飛び出さないぎりぎりのところで止まって
いる。松浦さんは
「これも仏師の計算。さすがですよ」と感服する。

その3
 「この仏は、
腰をおろす瞬間の姿だ」菩薩像は腰掛けに座っているが、その前にある花に下ろした
左足は5本
の指が反り返るように上を向いている。「これは、今足を下ろしたばかりで足裏が花につ
いたか
つかないかの瞬間です。もし、しっかりと座った後なら、指は花についているでしょう つまり、
静かにほほえ
んでいるだけのように見える菩薩様は、実は「動的」な彫刻だったのだ。「この観察眼
はすごい」
と松浦さんがうなるのも無理はない。

 「仏様の、この瞬間を彫刻にしたい」。そう願った仏師はどんな人だったろう。そして、彼にインスピ
レーションを与え
たモデルはいたのだろうか。
  2005-5-8  朝日新聞 小滝ちひろ

  中宮寺⇒⇒⇒







東大寺お水取り

 修二会(お水取り)が近づくと、奈良·東大寺宿は親しい人たちにこう語るという。「12日の

参拝は避けた方がいい」

 夜空を焦がす「お松明」。二月堂舞台から降る火の粉を浴びると無病息災の卸利益が
あるとさ
れ、参拝者は増える傾向にある。中でも、ひと回り大きい籠(かご)松明が登場す

る12日の混雑は激しい。

 02年の2万2夭から05年は3万1千人には長くなるばかりだ。

 近鉄の武部宏明·秘書広報部長は「他の日に訪れた人が『やはり大きい松明が見たい』
と12日に
来る。観光イベントではない本物の伝統行事の魅力でしょう」と話す。

 01年に兵庫県明石市の歩道橋で11人が亡くなった雑踏事故の教訓を、寺も受け止め
ている。修二
会の費用約4500万円のうち、1千万円以上をガードマン配置などの警備費
に充てる。

 北河原公敬執事長は悩ましい思いでいる。外から、入山料をとって人出を制限してはと言

われる。でも、すべての参拝者を受け入れる立場の寺にそれはできない」

 11人の練行衆(こもりの僧たち)の人繰りも厳しい。東大寺の僧は約20人。長老ら事実上
の卒業
組を除くと15人弱しか残らない。最近は九州や四国などの末寺から数人の「応援」
がやって来る。

 檀家がない東大寺には、拝観料以外に目立った収入源がない。仏堂修理の蓄えもいる。
経済的
にも僧を増やすのは難しい。

 平安末期の1180年、平氏の南都焼き打ちに遭った時も、修二会には15人の僧がこもっ
た。

 「あの危機でも続いたのに、いま途絶えさせるわけにはいかない」

 「不退の行法」といわれる重い伝統を背負い、今年の練行衆の一人はそろつぶやいた。
  2006-3-10朝日新聞









スサノオがヒーローに

 心がすがすがしくなったー。スサノオがこういって名づけたと伝わる須我神社は出雲の山ふとこ

ろに抱かれている。朝8時、境内を歩いて澄み切った空気を吸う。目にとまるのは和歌を刻んだ石

碑。クシナダヒメと結ばれたスサノオがつくった祝婚の歌という。

 <八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を>

 雲がわき上がり、雲の垣根をつくってくれる。
 新妻をこもらせる
ために、雲の垣根を。そんな得意げば歌。最古といわれる和歌は愛と出雲を
うたいあげている。

 スサノオは、とんでもない破壊力をもっ荒ぶる神として古事記に登場する。姉のアマテラスが天
岩屋に隠れてしまうほど暴れて天原を追われるのだ。おりたったのが出雲の国の「肥の河」
上流。
そこで、ヒーローになる。

 「スサノオさんは出雲へおいでてオロチ退治をしてくれた。気性は荒いけれど、情け深い」。親し

げに語る黒川博さんはここ、島根県雲南市大東町に伝わる海潮神代神楽にたずさわって
70年余と
いう長老だ。「八雲立つ」の歌も「八重垣を広げよう、出雲を開拓しようと決意にあふれて
いて壮大
だ」とほめちぎる。

 神楽の演目は数々あるが、なかでもこれがなければ始まらないというのがヤマタノオロチ退治。

 スサノオは、出雲の国の神アシナヅチが泣きくれているのに出会う。8人いた娘がオロチに次々
まれ、最後のクシナダヒメも犠牲になる寸前だという。「妻にくれるなら退治しよう」と条件を出す

スサノオ。アマテラスの弟と知ったアシナヅチも「喜んでさしあげましょう」という。そこでオロチ

を酔わせて倒し、クシナダヒメを首尾よく妻にする。

 目はホオズキのように赤くんつの頭に八つの尾を持つという大蛇。荒れ狂うオロチはいったい
を意味するのか

 古来、様々な説が唱えられてきた。八方に支流がある大河の斐伊川をオロチに見立てたという
説で
は、洪水で農民をのもうとする川の治水に成功した話と解釈する。

 「あるいは、移動する製鉄技術者集団説。雲南地方はたたら製鉄の地で、川からとった砂鉄を
原料に
した。オロチが暴れ回る様は、技術者たちが稲を奪い、食料を調達 し、武器を作る製鉄に
励む姿を写
している。スサノオが切ったオロチの尾から剣が出るというのも暗示的だ。

 「オロチは出雲そのもの。高天原から遣わされたスサノオは出雲を退治にきたのだ」というのは
雲古代史に詳しい駒沢大の瀧音能之教授。出てきた草薙の剣をアマテラスに献上したのは、
天原の権威に出雲が服属した証し」とみる。

 古代日本文学に詳しい専修大の西鳝教授は「オロチ退治はスサノオが出雲世界の神に成
するために与えられた試練。通
過儀礼だろう」という。高天原では母のいる根の堅州国に行きた
と大泣きする甘ったれだが、出雲では怪物を退治してたくましい若者になる。和歌まで詠んでし
う。成長する神だった。

 こんなふうにスサノオは研究者をとりこにしてきた。ヨーロッパ神話学が入ってきた明治期には、

破壊的な暴風神か人文的な英雄神かと論争も起きた。だが、一面的に説明できない、自然のカ
と英雄
精神がまざった姿が魅力なのだろう。かと思うと、「目の前のことに心を奪われる子どもっぽ
さな
ど、日本人の自我は昔からスサノオ的なものを生きてきた」と受けとるユング派精神分析家で
大阪大
の老松克博教授もいる。だから、目が離せないのか。
  2011-5-2  朝日新聞(夕刊)
 (河合真美江)






桜本坊 釈迦如来像

 三重の厨子の中で、とても小さなお像が台座に腰掛けています。高さ17.9cm 。奈良県吉野町にあ

る櫻本坊の宝聚堂 (宝物殿)に鎮座する国重要文化財·釈迦如来坐像です。以前は一般公開はなかっ

たのですが、十数年前から春と秋に公開され、この春は17日まで拝観できます。

 櫻本坊は役行者が開いた修験道の根本道場です。冬の夜、満開の桜の夢を見た大海人皇子(後の
天武
天皇)が、672年の壬申の乱に勝った後に即位しました。天武天皇が吉野山に登り、夢に出た桜

のもとに寺を建てたとされています。同時に造られたのが釈迦如来坐像。吉野山では現存最古の彫像

です。

 半球状の大きな上まぶた、鼻筋が通った顔立ちは穏やかです。首回りや胸を大きく開いた、ゆった

りとした衣の着方もなんとなくホッとします。やや前かがみで座る姿は、手を合わせる参拝者の祈りに、
静かに耳を傾けているように
も見えます。

 険しい山中を祈り歩く修験道では、宇宙や大自然の恵みの中で生かされていることに感謝します。

巽良仁住職( 57 )は「お像に手を合わせるのは、自分の心に手を合わせることです。釈迦如来様の
表情
は、厳しい行だけが修行ではないということを教えてくれます」と言います。
2018-4-13  朝日新聞 (宮崎亮)
 







北円堂について

 北円堂は721 (養老 5)年、興福寺を創建した藤原不比等(659~720)の一周忌に菩提を弔う

ため、元明太上天皇と元正天皇の命を受けた長屋王が建立した 釈迦の次にこの世に現れて
衆生を救うとさ
れる弥勒仏を中心に、計9体の仏像を安置。その後、1049 (永承4)年と1180
(治承4)年の火災
で焼け, 1210 (承元4)年ごろ、現在の建物が再興された。

 2度の火災のために、創建当初の仏像群は残っていない。しかし、運慶(?-1223)の工房が
弥勒仏
( 1212年・木造、国宝)と無著・世親両菩薩像(同)を再興した。

 高さ約1 . 9mの無著・世親像は実在のインド僧の兄弟を写実的に表した彫刻で、玉眼(水晶
を入れた
目)がきらりと光り、息づかいさえ聞こえてきそうな雰囲気がある。両像の前に座る
弥勒仏は、対照的に静
かだ。細長いが正面の虚空を見つめる目は木を削りだして作られて
いる。僧侶で
ある無著,世親とは違う「悟り」の存在だからだという。

 この3像が今も、厳かで張りつめた空気を醸す。来るものを拒みはしないが、簡単に受け入
れるわけでも
ない。姿勢を正せ、と言われているような気がする。

 しかし、その四周に立つ高さ約1 . 3mの四天王像(791年木心乾漆造、国宝)はギョロ目で、
腕の振り上げ方や腰のひねり具
合がおおげさだ。それでいて、足腰や腕は大きくて太く力強
い。表情や動きと、
体格とのアンバランスさがユーモラスに映る。

 元は大安寺に伝わっていた像が破損したため、興福寺の僧が修理した。それが縁で、
北円堂に納ほったらしい。

 4体の像のうち、持国天の表情は特に誇張が利いている。顔の中心よりやや下に目、鼻、口
が集まる。目は
まん丸で、鼻は横につぶれているし、口は半円を描いたようなへの字。
怒ってい
るというより、にらめっこをしているような感じ。一方、体の正面で十字に交差させた腕
は怪力を想像させ
るたくましさにあふれる。

 北円堂は、四天王のほほえましさが、弥勒仏と無著世親両菩薩の重さを壊すことなく同居し
ていると思
う。
――――――――――

 元々は円堂と呼ばれてひたが、813 (弘仁4)年に新しい円堂が建立されてから北円堂、
南円堂と呼び分けるようになった。
7体のほかに、法苑箖·大妙相両菩薩像(室町時代)も安置
されている。北円
堂の開扉は毎年春と秋。

  2008-10-21 朝日新聞 小滝ちひろ





留学生と留学僧

 飛鳥時代、倭国は中国大陸や朝鮮半島の文化の摂取に努めました。多くの渡来人たちによって新しい文物がもたら

される一方、外交使節とともに、留学生·留学僧が派遣され、先進的な知識や技術の、戦略的な獲得が目指されていました。

 早い例は、607年、小野妹 子を隋に派遣した際に同行した、数十人の僧侶です。彼らの名前は伝わりませんが、「日本

書紀に帰国記事のみ見える留学僧の中には、このとき渡海した者がいるのでしょう。

 具体的な人名がわかるのは、 翌608年,隋の使者、裴世清(はいせいせい)を本国へ送り届ける際に、学生·学問僧あわせ
て8
人が派遣されたときのことです。学生には高向漢人玄理(たかむこうのあやひとくろまろ)、学問僧には新漢人日文
(いまきのあやひとにちもん)
や,南淵漢人請安らの名が見えます。「漢人」とあるように、彼らを含む8人はいずれも渡来系
の氏族であり、
ある程度の言語的·学問的な素養を持った人物が選ばれたようです。

 彼らは隋から唐へ王朝が変わっても中国に残り学び続けきた。623年に帰国した一部の学問僧らは、唐に留学している者
はみな一人前にな
ったので呼び戻すべきだ、と進言 しました。曽旻(みん・新漢人日文)は632年に、高向玄理と南淵請安は

640年に帰国しています。

 帰国した南淵請安のところは、 中大兄皇子と中臣鎌足が儒教の教えを受けに通いました。その行き帰りに蘇我本宗家
討滅の謀略を練ったとい
らエピソードは有名です。また、僧旻の堂には豪族の子弟が集まり、「周易」(儒教の経典の一つ)を
読んでいまし
た。蘇我入鹿や中臣鎌足も参加しており、僧旻の言によると、入鹿が最も優秀だったようです。
南淵請安と僧旻は留
学僧でしたが、儒教についても教えており、学識の広さがうかがわれます。僧旻と高向玄理は、645年
乙巳の変
後、国博志任じられました。博士といっても生徒を教えるのではなく、国政のアドバイザーのような役職であっ

たと推測されています。

 遣唐使が派遣されなかった期間も、新羅経由で留学生留学僧の往来がありました。留学生の土部甥(はじべのおい)・.
白猪宝然(しらいのほね)
は、684年に、白村江の戦いで唐の捕虜となった人々とともに新羅経由で帰国し、後に大宝律令
の編纂に参画しま
した。

 留学僧は幅広い学識を持つていましたが、僧侶は役人になることができません。そこで彼らの力を十分に活かすため、
国家は還俗(僧が俗人に
戻ること)を命じて、役人として登用することにしました。山田御方(みかた)は新羅への留学
でしたが、692年以前に
還俗し、漢文作成の第一人者として活躍しました。707年に新羅から帰国した学問僧義法は、
陰陽の占術にた
けており、714年に還俗して大津意毘登(おびと)と名乗りました。藤原宮の東面北門(山部門)付近の外濠
からは、「義
法師」と書かれた木簡が見つかっています。

 これら漢文作成や陰陽占術は、国家の維持運営に不可欠ではあるものの、なかなか習得が難しい技能でした。僧侶
還俗を命じたことは、人材
不足を端的に物語っています。日本国内での人材育成が軌道に乗るには、いましばらく時間が
必要だったのです。

(奈良文化財研究所都城発掘調部史料研究室研究員桑田訓也)

  2014-3-14 朝日新聞






遣唐使持ち帰った文化

 今からちょうど1300年前、遣唐使に選ばれた若者や乗組員500人以上が奈良を発ちました。この中には、後に唐の朝廷に仕え

阿倍仲麻呂や僧の玄昉がいました。玄昉は18年間唐で学び、735年に5千巻におよぶ経典を携え帰国しました。

 そのころ都では、聖武天皇と光明皇后が仏教中心の国づくりをめざしていました。平城宮のすぐ東にあった皇后の屋敷の一角
にお寺
を整え、玄昉を住職として迎えました。今の海龍王寺です。

 当時から残るのが、西金堂にある国宝の五重小塔(高さ約4 m)です。組み物の細部まで忠実につくられています。
室内にあった
ため傷みも少なく、天平時代の建築様式をよく知ることができます。

 そのころの境内には、中金堂(今の本堂)の手前に西金堂と東金堂があり、回廊が巡っていました。限られた敷地に大きな塔を
てることができず、かわりに小さな塔を配置し、本格的な寺院として整えたのでしょう。
 塔(国宝)⇒⇒⇒
 法華寺⇒⇒⇒

  2017-2-24  朝日新聞 栗田優美






壬申の乱

 671年の晩秋、天智天皇は病床に伏しました。死を覚悟した彼は、弟の大海人皇子

に後事を託そうとしますが、大海人皇子はこれを謀略かと疑い、辞退して吉野に去りま

す。そこで天皇は子の大友皇を後継者に定め、朝廷を結束させた後、同年末に死去し

ました。

 このとき、倭国(日本)は厳しい外交的選択を迫られていました。唐の大使節団が来

航し、新羅攻撃への協力を要請してきたのです。アジアの国際情勢は新しい局面を迎え

ていました。朝鮮半島で百済と高句麗を滅亡させた唐と新羅の連携がやぶれ、新羅が半

島を統一する形勢となりました。このため、唐は一転して倭国と結ぼうとしたものと考

えられます。大友皇子の率い近江朝廷は、天皇の喪を告げ、大量の物品を差し出して

帰ってもらいましたが唐の皇帝からの文書を受け取らされた以上、何らかの軍事的対

応をとらざるを得なくなりました。

 672年、美濃・尾張で徴.兵が行われたのもその一環でしょう。千載一遇のチャンス

と見た大海人皇子は吉野を脱出。美濃の野上(現岐阜県関ヶ原町)を本営とし、伊勢・
尾張の国司をてなずけ
て、各国の軍兵を奪い取りました。壬申の乱の始まりで 

 大津宮を本拠とする近江朝廷はすぐさほ追討の兵をさしむけ、大海人軍と激しい戦闘

を繰り広げます。しかし、朝廷軍は湖東から湖南ヘじりじりと退却していき、瀬田川を

近江京の最終防衛ラインとしました。(その間、飛鳥宮のある大和でも戦いが続いていま

した 飛鳥寺西の近江朝廷の軍営を大伴吹負が打ち破り、大海人軍の救援をうけなが

ら、大和を制圧しました。吹負はさらに難波へ軍を進め、難波長柄豊碕宮のかたわらに

駐屯しぼす。 つまり壬申の乱は、大津宮・飛鳥宮・難波宮をめぐる攻防であったとも言

えるでしょう。

 決戦地は瀬田橋でした。橋の西には近江朝廷軍が連なり、雨のように矢を放ちまし

た。しかし、大海人軍の勇士が橋を突破すると、朝廷軍は一気に崩れます。大友皇子は

退路を断たれて自殺し、高官たちも捕らえられました。大海人皇子は近江朝廷の瓦解を

確かめ、意気揚々と飛鳥に凱旋します。そして飛鳥浄御原で即位し、天武天皇となり

ました

 戦乱によって近江大津宮は廃虚と化しました。たくさんの書物が失われ、文華栄えた

日々も過去の幻影となりました。一方、大化改新の舞台であった難波長柄豊碕宮はよ

く保たれましたが686年に全焼してしまいます。天武天皇の最晩年、唐の脅威も

薄らぎ、中央集権体制が完成しつつある時期のことでした。

 アジアの激動が生み出した「飛鳥を離れた王宮」は、このように相次いで姿を消して

いきました。しかし、難波宮や大津宮が果たした歴史的役割はまことに大きく、それゆ

え後世まで強く記憶され続けたのです。
  2015-2-27  朝日新聞
   (京都大学文学研究科教授吉川真司)





大化改新の実像

  推 古朝では推古女帝(在位 592~628年) の下、厩戸王(聖徳太子)が蘇我馬子と協力
して国家組織の確立に
努めました。

 しかし、東アジアの動乱のなかで、権力の集中によって戦争遂行可能な体制をつくる

必要が生じました。蘇我家を継承した入鹿は、傀儡(操り人形)の王を立てて、権臣が専制
権力をふるう高句
麗型の権力集中を目指していたようです。そこで、645年に中大兄皇子
(後の 天
皇) と中臣(藤原)鎌足を実動部隊として、蘇我本宗家を討滅する乙巳の変が断行
され
ました。

 ここで即位したのは中大兄皇子の叔父、孝徳天皇でした。かつては中大兄皇子らが

「大化改新」と呼ばれる改革の主体で、646年に出された改新詔には、律令国家建設

の指針が示されていると説明されてきました。しかし、そこに規定された「郡」は7世
には「評(こおり)」とするのが正し
く、現在では改新詔には,後の大宝律令に基づく潤色
があ
ると考えられ、また改革の中心としてはやはり孝徳天皇を重視すべきではないかと
いう
見解が有力になっています。

 647年に冠位十二階を改める「大化3年冠位制」が定められた時、左右大臣はこれ
従わなかったといい、新し
い施策には反対勢力があったようです。縦割り的な部民制

(律令制導入以前の民衆支配制度の一つ)の廃止について意見を求めた天皇に対し、
大兄皇子は必ずしも賛同しておらず、この段階では中大兄皇子も急進的改革に反対
する
「抵抗勢力」だったのです。

 孝徳天皇が改革の拠点として飛鳥から遷都した難波宮が完成するころ、653年に中

大兄皇子は突如、飛鳥還都(かんと)を主張し、母の皇極前天皇らを奉じて飛鳥に戻っ
てしまい、
孝徳天皇は失意のうちに崩御します。

 その後、母が斉明天皇として重祚(ちょうそ・退位した天皇が再び皇位につくこと)し、
飛鳥の
都づくりが進展しますが、660年唐·新羅の連合軍が百済を討滅するという国際
変動
が起こります。百済遺民は復興運動を展開し、中大兄皇子は斉明天皇の崩御を
乗り越
え、計4万人以上の救援軍を投入しぼすが、663年の白村江の戦いで唐の水軍に
壊滅
的敗北を喫し、百済は完全に滅亡しました。

 この敗戦により倭国には、唐·新羅の侵攻に備えた防衛体制の整備が急務になり、唐

を模した中央集権国家構築の必要性を痛感した中大兄皇子=天智天皇は、664年に甲

子宜を発布、孝徳朝以来の懸案である部民制へ王権の浸透を進め、670年には最初の

全国的戸籍の庚午年籍を作成します。出兵。敗戦で打撃を被った地方豪族も、自己の支

配基盤維持につながるため,朝廷に協力したのです。天智朝は律令国家確立への歴史的

転換点だったのです。
  2015-3-13  朝日新聞
  (東洋大学文学部教授森公章)




纏向

 纏向遺跡⇒⇒⇒

 「神の居ます山」として、各地で崇拝
されてきた神奈備山はどんな形の山か?

 神社研究者の池邊彌氏によれば、人里のある平野に近く、笠を伏せたか少し角

度のある傾斜をもち、樹木に覆われ、山中に磐座(神が降りてくる岩)などがあ

る,低い山を指すという(『古代神社史論攷』吉川弘文館)。

 真っ先に思いつくのが奈良県桜井市の三輪山である。条件にぴったり、まさに

神奈備中の神奈備といえよう。

 熊野·吉野山中から奈良盆地に進出したと『日本書紀』が語る神日本磐余彦

(神武天皇)の一行は、三輪山の秀麗な姿に魅せられたに違いない。そして、九

州の日向を出発するときに誓った都づくりの地を、そのふもとに選んだ。

 そこは古代から「磐余」と呼ばれてきた。神武は「数ある挑戦者のうちで磐余

まで到達した勇猛な武人」として後に記憶され、その名に地名が入れられた。

 ヤマト王権の最初の「王城」は今にい纒向遺跡だった。2世紀末か

ら4世紀前半までの集落遺構や初期の前方後円墳が集中する遺跡である。
神武の
後継者たちは、三輪山から昇る朝日を仰いで、神が天上から降臨する
という観念
を膨らませたことだろう。

 三輪山は、海人族だった祖先から引き継いだ水平的な世界観を垂直的な
世界観
へ変えてゆく触媒役を果たしたのである。そこは、東海地域を中心に、
東は関
東、西は大分まで各地の土器が見つかっている「古代の都市」でもあ
った。

 纒向遺跡で不思議なのは、遺構が纒向川の北側にとどまっていることだ。
邪馬
台国の女王·卑弥呼の墓という説のある箸墓古墳も、川の北側に築かれ
ている。

 初期の古墳や遺跡が見当たらないという溝は初瀬川(大和川)北側の区域も

同じ。 つまり三輪山,纒向川·初瀬川に囲まれた三角形の台地は人々の立ち
入り
が禁止された「聖地」「禁足地」だったと考えられる:なぜそうなったのか。

 聖なる三輪山を遥拝し、山頂から台地へと降ってくる神の道を清めるためだっ

たのではないか。三輪山を神聖視するには、その全容が見えるところから

拝むのが一番いい。纒向遺跡はそんな場所にある。

 考古学者の石野博信氏は纏向の中でも古く、3世紀初めに造られた石塚古墳
注目した。この古墳は三輪山頂に向けて築かれているのだ。石野氏は
「纒向石塚
に葬られた人、あるいは葬られた人の後を継いだ人は、亡くなった
人と三輪山の
神をじゅうぶん意識して、この古墳を造っている」と述べている
(『三輪山の考
古学』学生社) 。

 纒向遺跡のほかの古墳の向きは,ラバラだから、石塚古墳だけで初期王権の
輪山崇拝を語るのは材料不足だ。だが実際に石塚古墳の墳丘に立つと、
正面いっ
ばい、優雅に広がる三輪山を、古代人があがめたことは容易に想像
できる。

 三輪山にはいくつもの磐座があり、それぞれ神が天降り、居られる場所として

祀られてきた。注目するのは, 三角形の「禁足地」の端にも磐座が残つてい

ることだ。長年、纒向遺跡を掘ってきた桜井市教育委員会文化財課の橋本輝彦
と一緒に2カ所を訪れた。

 ひとつは九日社という小さな社の横にある。纒向川をはさんで箸墓と向き合う

場所だ。1m足らずのふたつの石が仲良く並び、注連縄で結ばれている。左は

「マラ石」と呼ばれてきたように右は上部に溝の入った陰石である。注連

縄の延長線上に三輪山があった。

 纒向川の川筋は時代によって変わってきたが、この磐座は古くから自然堤防の

上にあった、と橋本氏はいう。三輸山頂から磐座を順番に降ってきた神は、最後

に「禁足地」の端にあるこの男女石に依り付く。纒向の人たちはその神に豊穣を

祈ったことだろう。

 もうひとつの磐座は国道169号沿い、大神神社の大鳥居の足もと近くにあ

る。境内に磐座を抱える綱越神社は大神神社の摂社。毎年7月31日に、茅の輪
くぐって身を祓い清める「夏越祓(おんばら祭)」が盛大に行われる。

 ここの磐座は高さ1 m、底辺が2mほどある三角形の石だ。三輪山中と同じ

「はんれい岩」だ。現在は初瀬川からやや離れているが、橋本氏は「道の向こう

は一段低くなっており、古代はこの磐座が台地(禁足地)の端だった」という。
   2009-4-10 朝日新聞 夕刊 桐村英一郎





天照の誕生

 いつ古代人の間に皇室の祖先神とされ天照大神は登場したか。筑紫氏は言い

切る。「誕生したのは持続女帝(645~(702年)の治世の晩年のことであ

り、皇大神宮(伊勢神宮·内宮)がつくられたのは退位(697)の翌年。まだ女

帝の治世の時代であった」。この国の各地には古くから「天つカミ」(日や風や

雷のカミ)への信仰があった。伊勢の人々は自分たちの「天つカミ」をイセの大

神としてあがめていた。その神は太陽のスピリット(神霊)として「アマテル」

とも呼ばれた。この筑紫氏の提唱は、有力な学説とみられている。

 歴史学者の上田正昭氏は「伊勢の天照大神が、皇祖神として明確化するのは、

天武·持統朝からであった」とする(『新修日本の神話を考える』小学館)。ま

た直木孝次郎氏は「(伊勢神宮が)天皇家の氏神の地位を独占し、天皇家の最高

の神社となるのは、天武朝以後とみるベきで、その画期となったのが壬申の乱

(672年)である」と述べている(『神話と歴史』吉川弘文館)。皇祖神の誕生

は意外に新しいのだ。

 天照と並ぶ司令神だとされる高皇産霊尊と縁が深い長崎県·対馬の阿麻氐留神

社(あまてる)も、日神(ひのかみ)の信仰のひとつだった。

 『日本書紀』には、大海人子(天武天皇)が壬申の乱のおり、雷雨の翌朝に

三重の川べりで「天照大神を拝んだ」という一節がある。筑紫氏は、天武は天照

大神ではなくアマテル大神を拝んだとする。イセの大神が天照大神に「成長」し

た背景には、南伊勢の地を重視した天皇家にアマテル信仰があり、地元の豪族も

天武朝に接近した、という事情があった。天照と同じ時に皇大神宮も誕生した。
彼はそんなふうに解いてみせる。

「プレ天照」ともいえる日神信仰の名残を伝えるのが、三重県志摩市磯部町に

ある伊雑宮(いざわのみや)の御田植祭だ。毎年6月24日に行われ、
「磯部の御神田(おみた)」として国の
重要無形民俗文化財に指定された。

 伊雑宮は伊勢神宮内宮の別宮で、格の高い社である。祭神は天照大神だが、

『磯部町史』によれば、その昔は日の出の太陽(稚日女尊・わかひるめ)を祀って
いたようだ
。この地方は伊勢神宮に米や海産物を奉納していた。神様も一緒に
取り込まれ
たのではなかろうか。

 「磯部の御神田」で興味深いのは,漁民の祭り(竹取神事)と農民の祭り(御田植

神事)が重なり合っていることだ。もとは同じ海の民のものだった町能性がある。

 女児が演じる早乙女が早苗を取ったあと、裸の男たちが泥田で忌竹(いみ)や、
その先
に付いた大団扇を奪い合う竹取神事は勇壮である。大団扇はサシバ、
ゴンバウチ
ワなどと呼ばれる。神田の端に立てられた大竹の先には宝船や
松竹梅など縁起物
の絵が描かれている。ほかに「だーごと大書してある。
「太一(たいいつ)」は北極星だか
ら、天帝という意味だろうか。

 合図とともに神田に倒されたサシバは男たちにずたずたにされる。竹やサシバ

の断片を船に供え、航海の安全や豊漁を祈願する風習だ。神事を見ながら解説し

てくれた助田時夫氏(志摩市文化財調査委員)は「子どものじぶん、参加者は漁

師だけだった。怒号の中で竹を折り、血が流れる。怖かった」という。

 漁民の数が減ったためだろうか、いまは消防団や地区の若者たちで漁師はほと

んどいないようだ。男たちは、泥だらけの体を近くの野川で洗う。そこで小さく

切った忌竹を知り合いの漁民に配るというから、風習は残っている。

 御田植神事では2人の少年が演じる「刺鳥差の舞(さいとりさし)」が面白い。
野鳥捕りのし
ぐさだろうか、「やあ は、おんは」の掛け声,太鼓と笛に合わせ、
少年が数え唄
を歌う。磯部には鶴が落とした稲が元で米どころになったという
伝説がある。


一ツ 日の本神代の昔

二ツ 不思議のかの真名鶴が

三ツ 瑞穂をくわえて来る

(中略)

九ツ  この田を首尾よく植えて

十で豊けき秋祈るなる

 一生懸命覚えたのだろう。竹取神事の

喧騒のあとの神田に少年の声が響き渡り、早乙女たちが田植えをした。

 天照大神は持統天皇の時代に誕生したとする筑紫氏は、さらに「アマテラスの

モデルは持統天皇です」という。

 大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほ)らせるかも(万葉集巻3)

 柿本人麻呂がつくった歌である。

 壬申の乱に勝利した天武、夫を継いだ持統は「神」になった。「ここに女帝を

モデルにした天皇家の始祖アマテラスを、絶対で至高のカミとして系譜のうえ

に位置づける必要が生まれます」と筑紫氏。それは皇祖神·天照の誕生と同時に

女神.天照の誕生でもあった。

 いったい「アマテラス(アマテル)」はもとから女神だったのだろうか。日(太陽)
の神として男神だったのではな
いか。男神だからこそ、天皇の子女で未婚の
女性である斎王が伊勢に派遣
祭祀をつかさどったのではなかろうか。

そうだとすれば、持統女帝がいなければ女神も生まれなかったことになる

持統が亡くなって10年後に『古事記』、その8年後に『日本書紀』はできた。

『記·紀』は、できたての皇祖神を神話の主人公にまつりあげたわけだ。
  2008-8-25 朝日新聞 





推古朝から舒明朝へ

 『日本書紀』巻21の峻天皇までは夜明け前の印象ですが、巻22の推古天皇の時

代に入ると、朝日に輝く清新な世界のように感じられます。推古が、わが国最初の女

性天皇であり、おいの厩戸皇(聖徳太子)が政治を総攬し、蘇我大臣馬子がそれを助

けたからでしょう。

 592年に飛鳥の豊浦宮で即位した推古天皇は、603年10月に小墾田宮に移りま

す。小墾田宮は、明日香村の雷丘の東北域と推定されます一方、601年から斑鳩

(斑鳩町)の造営が始まり、飛鳥と斑鳩を結ぶ筋違道(太子道)の敷設も始まりま

した。605年に斑鳩宮が完成し、厩戸皇子と一族は斑鳩に移ります。以後、厩戸皇子

は仏教に深く傾倒し、政務に携わることは少なくなりました。大伯父にあたる馬子の専

制が際立ってきたからだとみられます。

 607年、小野妹子が隋に派遣されました。中国への使者派遣は南朝の宋への478

年の遣使以降、ほぼ130年ぶりです。推古朝の遣隋使は、6回にも及びます。隋は

世界に冠たる大国でしたから新しい文物や思想、文化が伝えられました。さらに特筆す

べきなのは、翌608年4月に小野妹子が隋の使者、裴世清らと一緒に帰国したことで

す。一行は難波津(大阪市)から大和(奈良県)に入り、飛鳥の小墾田宮に至りまし

た。裴世清が推古天皇に拝謁したかどうかは、議論が分かれます。

 607年には大和や山背(京都府南部)、河内(大阪府東部)で多くの池が掘削され、生

産力が飛躍的に増えます。613年には大和と難波を結ぶ大道(竹内街道)がつくられ

ます。推古朝は、まさに新時代が到来した時代でした。

 推古天皇が亡くなり、629年正月4日に田村皇子が即位します。舒明天皇です。
達天皇の後、用明、崇峻、推古の三天皇が即位しましたが、この3代は蘇我氏の
血筋
を引きます。一方、舒明は-敏達-忍坂彦人大兄皇子の系譜に連なります。
推古天
皇は亡くなる直前、枕元に田村皇子と山背大兄王(厩戸皇子の子)を呼び寄せ、
後事を
託しましたが、天皇の本意は田村皇子にあったようです。

夫の敏達の意志を尊重してのことなのでしょう。

 「万葉集」巻1の第二番歌は、舒明が香具山(橿原市)に登って「国見」をしたとき

のものです。「大和には群山あれど とりよろふ天の香具山」で始まります。国土

が穏やかで平和なことを祝福し、舒明天皇の皇統が末永く続くことを祈念したと思われ

ます。
  2013-5-10  朝日新聞

  (京都教育大名誉教授 和田萃



鬼となった天皇(斉明天皇)

 661年7月、朝鮮半島の百済を救援するために赴いていた九州の朝倉宮で、斉明天
は亡くなります。波乱に富
んだ68年の人生でした。深夜に宮殿で葬儀が行われました

が、その様子を裏山から笠をかぶった鬼が凝視していたとされます。道教に帰依した女

帝が鬼となり、自らの葬儀をチェックしていたのでしょう。

 その後、柩は飛鳥に移され、飛鳥川原宮で大葬が営まれました。息子の1人で、皇

太子の中大兄王皇子が白い喪服を着たまま天皇の職務を代行しました。4日間の葬儀を
ますと'あたふたと朝倉へ戻ったのでしょう。

 朝鮮半島南部の白村江の戦いで敗北した混乱のなか、川原宮近くに仮の墓が築かれま

した。鬼の雪隠・俎板 古墳だと思います。その4年後には中大兄皇子にとって最愛の妹、

間人孝徳皇后が亡くなります。母の仮の墓の東側に同形の石室を並べました。このこ

ろ、中大兄皇子の娘で、弟の皇子の妃だった大田皇女も20歳ほどの若さで亡く

なりました。大津皇子大伯皇女の母です。中大兄皇子の周辺では肉親の不幸が相次ぎ

ました。

 658年、斉明天皇の孫の建王が8歳で亡くなりました。天皇は大変悲しみ、自分との合葬
を遺含しましたが、
中大兄皇子は667年、母と然斉明天皇と間人皇女)の陵と、娘(大田皇女)
の墓を
越智岡に改葬します。これが飛鳥の西部にある牽牛塚古と、そのすぐ近くの
越塚御門古墳です。

 牽牛子塚古墳は、7世紀の天皇墓に特徴的な八角形のつくりです。2人用の石室があ

り、斉明天皇と間人孝徳皇后が合葬されました。発掘では、孝徳皇后の享年とほぼ同

じ40歳ほどの女性の歯が出土しました。

 石室の周囲には大型の方形の切り石をめぐらせました。周囲の敷石の中には、双槻宮

(なみつき)明日香村)や亀形石造物(同)で敷いていた天理砂岩もありました。柩は布を漆で

重ねた「夾紵棺(きょうちょかん)」でした。白棺」から、より高い技術の夾紵棺に変わるの
です。

 大田皇女は東の脇に造られた越塚御門古墳に葬られました。ただ、ここにも建王の記

載はないのです。祖母の斉明天皇の柩に納められたのでしようか。

 ほどなく、中大兄皇子は江大津宮に遷都します。その後の斉明陵は越智山陵と呼ば

れ、2度修理された記事が残っています。文武3(699)年 衣縫王(きぬぬいのおおきみ)らの
技術者が派遣
されます。天平14 (742)年には越智山陵が崩壊し、天武天皇の孫で権勢を
振るった長
屋王の弟·鈴鹿王が采女を連れて修理に来ています数日後、女性たちは
墓前祭祀にも
参列したと思います。

 ところで、牽牛子塚古墳の石室にはソックリさんが二つあります。北へ500対離れ

益田の岩船(橿原市)と、石の宝殿(兵庫県高砂市)です。いずれも加工を途中で

断念したとみられ、いわば斉明陵の未完成品と言えます。
  2014-6-20  朝日新聞 

   (京都橘大名誉教授猪熊兼勝) 




推古天皇 なぜ豊浦宮を選んだか

 1985年、明日香村豊浦にある向原寺の庫裏の解体修理に際し、発掘調査が行われ

ました。地下から、古代の豊寺の講堂,金堂の痕跡が見つかり、出土した瓦は飛鳥寺

に次ぐ古いものでした。その下層から、石敷きを伴う掘立柱建物の柱穴が見つかりまし

た。豊浦宮を豊浦寺にしたことが史料にみえるので、そこが豊浦宮であることが分かり

ました。大発見と昔ってよいでしょう。

 さて、592年12月、額田部皇女が飛鳥の豊浦宮で即位しました。推古天皇です。わ

が国最初の女性天皇としてよく知られています。

 推古即位に先立つ6世紀後半は、磐余の地に敏達、用明、崇峻の三代の天皇の宮殿が

営まれました。磐余と称された地域は、香具山(橿原市)の北から北東域で,橿原桜

井両市を流れる寺川や米川の流域です。奈良盆地各所に通じる交通の要衝だったの

に、なぜ推塻皇は、狭い飛鳥の地を選んだのでしょうか。 

 まず第1に推古天皇が欽明天皇と蘇我堅塩媛(父は蘇我大臣稲目、兄弟に蘇我大臣馬

子)との間に産まれたことが挙げられます。実兄は,厩戸皇子です。稲目と馬子はともに
仏教
の篤信者であり、推古天皇やそのおいの厩戸皇子も同様でした。

 崇峻元年(588)、法興寺(飛鳥寺)の建立が始まります。稲目や馬子の勢力範囲は、
軽の地(橿原市大軽町)
から飛鳥の豊浦に及び、蘇我氏の邸宅が各所にありました。

 第2に、5世紀後半の雄略朝に朝鮮半島の伽耶や百済から倭国に渡来し、飛鳥の桃原

(石舞台古墳を中心とした一帯)や真神原(飛鳥京跡の一帯)に居住した今来漢人との

関係が挙げられます。最先端技術を持った集団で、飛鳥の原野を開発し、飛鳥川を制彻

して水田開発を進め、須恵器や馬具を作り、錦を織り成し、通訳(おさ)を養成すること

に優れていました。蘇我氏が今来漢人をひざ元に置くようになったのは6世紀中ごろと
思われます。蘇我氏
の勢力範囲が、軽から豊浦に及び、今来漢人の居住地と一体
したことが強力な背
景となって、推古天皇の豊浦宮での即位が実現したのです。
  2013-5-3  朝日新聞

  京都教育大名誉教授 和田萃





日本最古のカレンダー

 2002年、明日香村の神遺跡から、1点の不思議な形の木簡が出土しました。直

径約10cm 、厚さ1 . 4cmの円板状の木製品の表裏に文字が書かれています。
記述内容の
検討の結果,表面には持統天皇3 (689)年3月8日から14日までの、その
裏面には
4月13日から19日までの暦が書かれていることがわかりました。日本最古
のカレンダー
の発見です。

 文字の配列から、もとは長方形の板材の表裏にそれぞれ1カ月分の暦が記されて
いた
ようです。カレンダーが不要になった段階で、板を円形に削り、孔をあけ、何らか
の木
製品として再利用されたのでしょう。

 この木簡には、月日、干支十二直(1文字で吉凶をあらわす)のほか、さらにくわしい
日々の吉凶が記
されています。このように、暦に日の良しあしなどを注したものを,
「注を具(そな)えた
暦」の意味で具注暦(ぐちゅうれき)といいます。

 古代の暦は、陰陽寮が作成し、毎年11月に、各役所に配られました。暦の原本は
巻物
の形でしたが、巻物では日々の閲覧に不便なため、板に写し、掲示する工夫が
なされた
のでしょう。

 天武天皇持統天皇の時代には、官僚機構の整備が進み、暦は、年中行事を式
日通
りにおこなったり、日々の政務を間違いなく進めたりするために、なくてはならぬ
もの
でした。暦を写すために必要な良質な紙の製造法が伝わったことも、頒曆
(はんれき・陰陽寮がつ
くった暦を役所や諸国に配ること)を可能とした条件です。
60余に分かれた国々と周
辺の島々を統治する天皇は国土とともに時をも支配する

存在でした。天皇から頒布される暦はその象徴でもあったのです。

 具注暦木簡で裏面の1行目は、ほとんど文字を読むことはできませんが、
「十三日乙
未満□□厭九坎」と復元されています。満は万物が満ちあふれる日とされ、
結婚や移
転などには吉ですが、土を動かし、薬を飲むには凶とされています。
のみならず、この
日は、万事に凶とされる坎日(かんにち)にもあたります。

 「日本書紀」によると、持統天皇が将来を期待した皇太子草壁皇子は、まさにこの

日、4月13日に亡くなりました。飛鳥の官人は、その悲報を前に、思わず暦の吉凶を
確認
したのではないでしょうか。
  2014-11-24  朝日新聞

  (奈良文化財研究所都城発掘調査部主任研究員 山本崇)






五智堂

 奈良に都のあったころ、元正天皇を訪ねてインドから「無畏三蔵」という高僧が興福寺へ来られました。

 大和巡歴の途中、たまたま今の柳本に来て、小川のほとりにある1本の大きな柳の木を見て、感ずる
ところ
があって、この地こそ仏の聖地であるとして寺を建てられ、附近を楊本と名づけられました。
柳本と書くよう
になったのはずっと後のことです。

 「善無畏三蔵」の創建と伝えられる五智堂は、笠の形をし、支柱を除けば四方吹離しとなるところから、
に「傘堂」とも呼ばれている珍しい堂です。鎌倉中期の建物と考えられ、国の重要文化財になっています。
た、五智堂は、支柱の上方の四面を額で覆い五智如来の梵字(サンスクリット)が刻んであって、どこから
ても正面に当たるので、真面堂と呼ばれます。

 また、形が小さいという豆堂とも呼ばれてます。
  てんり昔ばなし より
  

 




天降る神の原点

 神話の上で「初代の天皇」とされる神日本和磐余彦(神武天皇)の誕生につながる海幸彦·山幸彦の物語
が南方系の
神話だとすれば、天孫降臨神話はどこからきたのだろうか。

 祖先神が天上から山の上に降りてくるというモチーフは、朝鮮や中国東北部など大陸系の神話と共通する。
そのことは
岡正雄氏や三品彰英氏らの研究によって知られている。

 古朝鮮の建国神話である檀君神話や朝鮮南部の金官加羅国の始祖首露王の降臨神話などは、すべて
この系統だ。『三国
遺事』という朝鮮の歴史書によれば、檀君の父、桓雄は家臣3千人を引き連れて太伯

山頂に降りたという。

 高天原からの邇邇芸の降臨について、『古事記』は天照と高木神(高皇産霊の共同作業とするが、
『日本書紀』
の本文では高皇産霊が単独で指示したことになっている。

 天照はヤマト王権が確立してから皇祖神に祀り上げられた神だと思う。だから高皇産霊との共同作業という
のはぴんと
こない。ここの部分は『書紀』の本文のほうが神話の原形に近くて、より古い内容なのではなか
ろうか。

 『古事記』によると、天照は高皇産霊と協議し、 自分の子である天忍穂耳「地上に降って統治せよ」と
命じた。

 彼は「その支度をしているときに子が生まれました。名を邇邇芸といいます。その子を降すのがよいでしょ
う」と答
え、任務を自分の子に託した。天照は孫の邇邇芸一行八尺(やさか)の勾玉と鏡、草薙の剣などを
一緒に持たせ、とりわけ鏡に
ついて「私の御魂として、私を拝むようにまつれ」と命じている。

 『神話と神話学』(大和書房)でこの場面を取り上げた大林太良氏が、ロシアのバイカル湖周辺に住む
遊牧騎馬民族の
ゲセル神話との類似性を指摘していることが興味深い。ゲセル神話は、こう伝える。

 至高神デルグエン·サガンは、悪者に困っていた民の哀願を聞いて、天神を降して退治しなければならない
と考えた。
彼は全天の諸神あわせて99柱の主な神々らと、悪者征伐の大評定を開いた。最初、神々のうち
の一人が「至高神デルグ
エン·サガンの子、カン·チュルマス神を降すべきだ」と提案した。

 しかし、当のカン·チュルマス神は老齢を理由に断った。そして自分の末子で幼童のゲセル·ポグドゥに
天降りを命ず
るよう求め、神々もこれに賛成、4歳のポグドゥが命令を受けた。ポグドゥは、全天の九つの
天の主宰神のもつ知謀のす
べてと祖父のもつ黒い軍馬、準備金、祖父の蹄縄·短い槍、それに1人の妻を求

め、これらを手に入れて天降った。

 天上で派遣する神を選ぶ協議をする、天神の孫の選出、さまざまな品を持参するなど多くの要素が、
日本の
天孫降臨神話によく似ている。

 平安時代の初めごろ、物部氏の伝承などをまとめたとされる『先代旧事本紀』には、

 天照大神は子の天押穗耳(天忍穗耳)に豊葦原の瑞穂国に天降るよう命じたが、天押穂耳は「私が行こ
うとしたとき
に、ちょうどわが子饒速日尊が生まれました。彼を天降らせるべきです」と言って、天照の了解
を得た。

 『旧事本紀』は、饒速日天押穗耳高皇産霊の娘の栲幡千々姫(たくはたちぢひめ)との間に生まれた、
とする。降臨するのが
『古事記』『日本書紀』が邇邇芸、『旧事本紀』では饒速日というところを除けばそ
つくりなのである。

 これはどういうことだろうか。『記·紀』の降臨神話の「お手本」は『記·紀』が編さんされたときにすでに存在
していた物部一族の伝承では
いかと考えている。

 それは『旧事本起の元になった「原旧事本紀」ともいうべき言い伝えだったのではなかろうか。つまり物部
氏の祖先
神饒速日が天降る話が先に存在していた。それに対抗、優越すべくヤマト王権のもと 降臨神話
がつくられた、と
いう筋書きだ。

 「それならなぜ旧事本紀の降臨神話に『相手方』の天照が入っているのかと思われるだろうか。
 
物部一族が『旧事本起をつくった 理由がその答えのヒントになると思う。

 『旧事本紀』は新興勢力の中臣(藤原)氏に追い抜かれた物部氏の名誉のため、そして物部一族をヤマト
王権と
直結させる目的でつくられた書だと推定できる。だから当時すでに、最高神としてゆるぎない地位を
確保していた「天照
大神」は欠かせない。

 物部氏には『旧事本紀』ができる以前から「高皇産霊神が饒速日尊を降臨させた」という伝承があった。
『記・.
紀』の編者はそれを参考に「天照が孫の邇邇芸を天降らせた」という話を仕立てたのではないか。
  2008-6-9  朝日新聞(夕刊) 桐村英一郎



 いったい、物部氏やその一族が信奉した神々のルーツはどこだろうか。その解明は容易ではないが、
せめてにおいぐら
いはかぎたいものだ。

 歴史学者の黛弘道氏は『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』が語る饒速日尊の天降りの段を分析

し、そこから物部氏に北方の遊牧騎馬民族の息吹を感じ取っている。

 物部氏が祖神とする饒速日には32人防護の従者が同行した。彼らにはそれぞれ、「天香語山命は尾
張連」「天鈿売命
は猿女君」「天児屋命は中臣連」「天日神命は対馬県主」らの祖といったように、その子孫
(氏族)の名が示されている。

 黛氏は、饒速日の従者に天鈿売天児など天孫降臨に従った神々が含まれているのは不自然だ
といった理由で32人か
ら7人を除外する。そして残った25人が本来の伝承ないし原形に近いのではない

か、とみる。25は5の倍数だ。『旧事本紀』では、そのあとの文章に「五部人(いつとものをのかみ)」

「二十五部人(はたちあまりいつとものをのかみ)など5や5の倍数が数多く出てくる。

 黛氏は、さきに文化人類学者の岡正雄氏が「百済や高句麗を含めて東北アジアの諸民族では、その
社会構成、部族構成
に五を単位とする例が非常に多い」と指摘したことをふまえたうえで、次のように述
べる。

 「饒速日尊の天降りに供奉(ぐぶ)した人びと(集団)は、いずれも五ないし五の倍数から成っていることに
なるが、百済の五
部·五方、高句麗の五部などツングース系扶余族の社会が五を単位としていることと
対比して、物部氏もまた北方の遊牧
騎馬民族にその起源を有するものとべきものかもしれない」
(『物部·蘇我
氏と古代王権』吉川弘文館)

 高皇産霊尊はどんな神であろうか。

 この神はもともと、ユーラシア大陸の草原を馬で駆け回っていた遊牧騎馬系民族が信奉した。彼らの子孫
たちが中国東
北部、朝鮮半島を経由して九州に渡ってきた。

 物部が渡来系の血を引く一族だとしたら、高皇産霊を祀ってきた可能性がある。渡来系でないとしても、
降臨神話を
もつ渡来系の思想·世界観に強く影響された氏族だったのではなかろうか。そうでなければ
「祖先の饒速日尊が 大磐船に
乗り河内国河上の哮峯(いかるがのみね)に天降った」といった伝承には
なるまい。

 高皇産霊が朝鮮半島を経由して伝来したと考える理由は、長崎県の対馬に高皇産霊を祀る神社がある
からだ。

 『日本書紀』の顕宗天皇のところに、風変わりな記事が載っている。

 日神(ひのかみ)が阿閉臣事代(あへのおみことしろ)という人物に憑いで「(大和の)磐余の田を、わが祖
の高皇
産霊に献れ」といった。そこで田を献じ、対馬の下県直がお祀りし、お仕えした、というのである。

 この記述からふたつのメッセージを読み取ることができる。ひとつは、対馬の日神が高皇産霊を「祖」だと
しているこ
とだ。もうひとつは、高皇産霊が対馬から大和に勧請されたことである。

 歴史学者の上田正昭氏は高皇産霊と対馬の関係に興味を抱き、現地調査をした。そして、対馬市厳原町
豆酘にあ
る多久頭魂神社の境内で高御魂神社を見つける。もともと豆酘の海辺に鎮座し、里人に「たかお
むすぶの神」と呼ば
れていた。高御魂は高皇産霊に違いない。

 対馬に生まれ育った永留久恵氏の著書『古代史の鍵·対馬』(大和書房)をひもといた。

 貞享3 (1686)年に編さんされた『対州神社誌』には、高御魂のご神体が「うつお船」に乗って豆酘の浦に
流れて
来たと記す。「ろつお船」は「うつろ船」、つまり中をくりぬいた丸木舟やヒョウタンだという説などがある。

 永留氏は「対馬では、海の向こうから渡来したものには、うつろ船の漂着伝説が多いので、どうやらこの神は、
海の彼
方から渡来したことを語っているようだ。それがまた、対馬から大和へ勧請されて行く」と書いている。

 日神のお告げに従って大和の地で高皇産霊を祀った神社は、延喜式内社の目原坐高御魂神社だといわ
れてきた。しかし
江戸時代に、それがどこにあるかわからなくなってしまった。その候補は橿原市太田市町の
天満神社
と、大和三山のひとつ耳成山にある耳成山口神社だという。ともに高皇産霊(高御魂)を祭神とし
ている。

 天満神社は耳成山の北東にある古社である。椋の大木に3組のアオサギが巣をつくっていた。通りかかった
農家の人に
よれば、神社の前に「マメハラ」と呼ばれる禁足地があり、そこに入ると足にマメができるという言
い伝えがあるそう
だ。マメハラは目原に通じる。

 一方、耳成山口神社は標高139mの8合目に鎮座する。耳成山のある橿原市木原町の「キハラ」も目原に
通じるか
ら、ややこしい。

 耳成山は「天神山」とも呼ばれてきた。形も端正だ。私は高皇産霊神が対馬から勧請されたのは山口神社
の場所だっ
たのではないか、という気がする。

 日本と韓国の間に浮かぶ島から、はるばる大和まで神様がやってきた。「うつお船」で流れ着いたという場所
はどんな
ところだろう。日神はどこに祀られていたのだろうか。
  2008-7-7  朝日新聞(夕刊) 桐村英一郎



 世界の神話には王権の祖先が天空から降りてきたとの話が多い。天照大神の孫邇邇芸命(瓊瓊杵尊)も
物部氏の祖
邇芸速日命(饒速日尊)もそうだった。

 だが飛行機もロケットもない時代,人が空から降り立つはずはない。そこには特別な家系の誇示や、侵攻を
美化するな
どの狙いがあるのだろう。神日本磐余彦(神武天皇)を救った刀剣・フツ霊が 「天から降ってきた」
という物語にも、何か
秘密が隠されているのではないか。

 『古事記』などによれば、天照大神や高木神に神武救援を命じられた武神の御雷(武甕雷)が、「私が行
かなくて
も、私が平定した刀剣がありますから、それを高倉下のもとに落としましょう」と提案し、了承される。

 刀が天から降ってくることもない。高倉下は武装して駆けつけただろうから、新たな武器など必要なかった。
物部一族
の高倉下が天照側の武神から「お告げ」を受けるというのも変な話である。

 熊野の研究家、酒井聰郎氏は「高倉下に神剣を落としたのは武甕雷ではなく、高倉下の亡き父·饒速日だっ
たのではな
いか」と見る。父が子の夢に現れ、大事な交渉·儀式に向かう息子を激励するほうがストーリーとし
ては通りがいい。

 しかし、それでも疑問は残る。なにも空から落とさなくても高倉下自身が持参して、神武に献上すればそれで
済むこ
とだからである。この刀剣は物部氏のレガリア(王権の象徴)ではなかったかと考えている。もしかしたら
饒速日の宝物
だったかもしれない。レガリアの献上は軍事·政治的な服従を意味する。

 この逸話のポイントは「天から降下した」という表現にある。つまりこの出来事は、ヤマト王権の創始者が
物部一族の
帰順を契機に世界観を転換させたことを示唆しているのではないだろうか。

 神武らはもともと海になじんで暮らしてきた海人系の人々だった。海幸彦·山幸彦の神話はそれを物語る。
『古事記』
では次のようになっている。

 山幸彦(火遠理)は高天原から降った邇邇芸命の子だ。山幸彦は兄の海幸彦(火照)から借りてなくした釣り針
を捜
しに海神の宮に行き、豊玉毘売と結ばれる。神武は、海神の娘の豊玉毘売が海岸で産み落とした子
(鵜葺草葺不合命)
豊玉毘売の妹·玉依毘売と結ばれて生まれた。

 彼らは海人の一族だ。水平線から朝日が昇り、そこに真っ赤な夕日が落ちる光景を見慣れ、そのかなたに
「死と再生の
地」を思う民だったに違いない。

 だが、黒潮の通う海に別れを告げ、内陸に侵攻したら、新しい思想や世界観を身につけていかなければな
らなくなる。

そこへ都合よく現れたのが、祖先神の降臨伝承を信じる物部一族の高倉下だった。

 物部氏が政治·軍事的帰順に加えて思想や世界観まで「献上」したのか、それともヤマト王権の創始者たちが
「これは
都合がいい」とちょうだいしたのか、それはわからないただ思想や世界観は力ずくで奪えるものではない。
海が見えな
くなった海の民が、新しい環境に適応するため受容し、自らの思想に仕立て上げた、といったところ
ではなかろうか。

 『古事記』によれば、神武の兄弟は、はじめは自分たちのことを「日神の御子」と呼んでいた。それが天から
刀剣が
降ってきた熊野での出来事を契機に神武は「天つ神の彻子」と呼ばれるようになる。そこに注目したい。
「日神」から
「天つ神」への変化に、「水平」から「垂直」への転換を感じるからである。

 絶対神の居る天上があり、大王が支配する地上(葦原中国)に民が暮らす一 方、暗い黄泉の国がある。
そんな垂直的
世界観は、海人族がもっていた水平的.循環的世界観に比べて政治支配に便利な論理だ。
「大王は天上の神の子孫とし
て、民衆の上に立つ」という思想が明示されている。大和の制圧をめざす人びと

は、その意味からも我がものにしたい発想だったと思う。

 もちろん「水平」から「垂直」への宇申世界の枠組み転換は一気に進んだわけではあるまい。
それは三輪山のふもと
磐余で基礎固めをしたヤマト王権の勢力圏が広がるにともなって固まっていった。
8世紀の初めに編さんされた『古事
記』と『日本書紀』は「海」から「天」への宗旨替えの完成宣言でもあった。

 とはいえ、海の民はその血の中に引き継いだ潮の香や波の音、海原を染める荘厳な太陽へのあこがれを
消し去ることは
できない。それは海幸彦·山幸彦などの神話に色濃く残っている。

 ところで、神武を助けた高倉下は何者なのだろうか?

 この人物には謎が多い。物部氏に伝わる『先代旧事紀』は饒速日の子としているが、『記·紀』にはどんな
人物かの
説明がない。ただ「態野にいた」とされるだけだ。『記·紀』にその名が出てくるのは高天原から降ろされた
刀剣で神武
を救ったエピソードの場面だけである。

 物部氏を代表して帰順したのだから、ヤマト王権からすれば大功労者だろうまして私の推測のように、
高倉下から新
しい世界観のヒントを得たとしたら、もっと尊重してしかるべきではないか。

それなのに神武の側近になったとか、論功行賞を受けたといった記述はない。

 それどころか、神武の即位後間もなく、越の国に派遣されてしまう。企業なら左遷人事である。

 『記·紀』も『旧事本紀』も、 この「人事」に沈黙している。それも ひとつだ。
   2008-10-27  朝日新聞(夕刊) 桐村英一郎


 和歌山県新宮市にある神倉神社の「御燈祭」と、同県那智勝浦町·熊野那智大社の「火祭り」。ともに名高い

 神日本磐余彦(神武天皇)への物部氏の帰順という大事な仕事をしたにしては、高倉下の熊野や大和での扱
いは良く
ない。熊野三山ではほとんど無視されており、天照大神とともに熊野速玉大社と密接な関係がある摂社、
神倉神社の祭神,
とされている程度である。ヤマト王権と物部氏の双方から、「知りすぎた人物」として敬遠された
のではないか、という
推測である。

 大和の勢力だけではない。平安時代に盛んになった熊野信仰を奉じる人たちの間にもこの空気は伝わり、
高倉下を正面
に出さなくなったのではないか。

 しかし歴史は消しきれるものではない。御燈祭は毎年2月6日の夜に行われる。そこが神武一行の登った
「天磐盾」
だといわれる神倉山の頂上から、松明の火が一斉に駆け下りる勇壮な祭りと聞いていた。それは、
ヤマト王権の創始者が
熊野の地で「水平」から「垂直」にその世界観を転換するきっかけをつかんと、そのキー
パーソンは高倉下であった
ことを歴史に残す「指紋」かもしれない。年に1度の「縦の火流」が、神武伝承や高倉下
の存在をも思い起こさせるか
らだ。そんな気持ちを抱いて、海風が肌に冷たい新宮を訪れた。

 祭りの舞台である神倉山に以前に登ったことがある。「鎌倉積み」という自然石を組み合わせた急な石段が
五百数十段
も続く。昼間の上り下りさえ足元が危ういのに、夜、松明を手に一気に駆け下りるなんて、想像する
だけで足がすくむ。

 神倉神社の背後にあって、見るものを圧倒するのは、巨岩「ゴトビキ岩」だ。ゴトビキとは地元の言葉で
ヒキガエルの
こと。形が似ているから付けられたのだろうが、これは海上からも見えるという。神武がそこに登っ
たという伝承もな
るほどと思わせる。

 祭り当日、新宮は「ハレ」の空気に包まれる。襦袢から足袋まで白ずくめの男たち(上り子)が、あちらこちらから
れる。おなかに幾重にも縄を巻き、手には松明を持つ。三々五々集まって速玉大社や阿須賀神社に参拝し、
すれ違うと互
いに「頼むぞ」と声を掛け合う。中には父親に連れられた小さな男の子もいる。

「御燈祭」に参加することは通過儀礼でもある。初祈願は「初上り」という。

 速玉大社の「特殊神事調」によれば「神倉神社御燈祭ハ二月六日ノ夜(晴雨ニカ、ワラズ)之ヲ執行ス」とある。
時の灯火管制のときも行われたというから、伝統神事とはたいしたものである。

 夕刻になった。写真家たちは「火の流れ」の間近、急な石段の脇に陣取るが、私は火の流れと、熊野で神武を
救ったと
いう刀剣·韴霊(ふつのたま)の降下とを重ね合わせて考えていたので、神倉山全体を眺められるピルの
屋上でそのときを待った。

 夜のとばりがおりると、その数2千人という上り子たちがワッショイワッショイと声をあげながら山上のゴトビキ岩を

めざす。神事が続いているのだろうしばらく静寂のときが過ぎる。ゴトビキ岩の下で御神火は大松明に移される。
火は
石段の途中にある「中ノ地蔵」まで下ろされたあと、山上で待つ上 子たちの松明に次々点火される。

 8時前、「ウォー」という大歓声とともに「爆発」が起きた。いったん閉じられていた柵が開き、松明を掲げた男たち

が一斉に石段を駆け下りるのだ。

 「山は火の滝、下り龍」と表現される祭りのハイライトである。

 闇を裂く縦の火流。私には、それが天上からの場神の降臨の姿に映った。

 12世紀に編さんされた『長寛勘交』の中に記された「熊野権現御垂跡縁起」によると、熊野の神は唐の天台山か
ら九
州、四国、淡路島を経て熊野新宮の神蔵峯(神倉山)に降臨したあと、速玉社などに祀れた。だから、地元では
「新宮
は熊野本宮大社に対する新宮ではない。神が降臨した神倉山に対して新しい宮という意味だ」という。

 「御燈祭」は旧暦の1月6日に行われていたというから、新年の祭りだ。初春にゴトビキ岩に降りてこられる神を迎

え、その年の平穏と豊穣を祈願する。熊野の神の降臨伝承と豊作などを祈る予祝行事が合わさった祭礼だといわ
れれば,
そうだろうと思う。

 熊野速玉大社が発行する「神倉神社とお燈祭」と題する小冊子の中で、先代宮司は「当地方では神武天皇御東
征に際し
て、高倉下命が松明をもって奉迎した故事によるとの伝説がありますが、これは附合された根拠のない
説話と思うので
す」と語っている。私はむしろもうひとつの那智の火祭りのほうが、そうした伝説に似合いだと思う。

 古代史はロマンだとはいえ、何でも自説に都合よく解釈するのはよくなかろう。しかし私には「御燈祭」と高倉下の

関係が気にかかって仕方がない。

 なぜ高倉下が、熊野の神が降りたという山頂に鎮座する神倉神社の祭神になっているのか。なぜそこが長い年月を越え

て彼の名を残してきたのか。一度それを見たものの目に焼きつく上からの火の流れは、ヤマト王権秘密をにぎる
高倉下が後世に伝えようとしたメッセージに思えてきた。
  2009-1-19 朝日新聞(夕刊) 桐村英一郎 


 古代豪族,物部一族の高倉下が、天から降った刀剣の霊で神日本磐余彦(神武天皇) 一行の危機を救ったという逸話

は、物部氏の帰順を表す出来事だと思ろ。『古事記』は「この刀は石神宮(奈良県天理市)に幽す」と付記しているから、
物部氏が祀ったのだろう。

 物部氏は帰順の恩賞としてヤマト王権の軍事と祭祀をつかさどる有力氏族になった。武士は「モノノフ」とも読む。

「モノノフ」の由来は物部とされるマト王権の軍事部門を担当した物部氏は、王権の勢力拡大の先兵として、軍団

を率いて各地へ派遣された。

 神話学者の松前健氏は名著『大和国家と神話伝承』(雄山閣)で、物部氏などが5、6世紀ごろ、大和朝廷の代官とし

て、霊剣·韴霊を奉じ、鉄器製造に携わる鍛冶部や司祭者集団の若宮部 伴い各地を征討・鎮定したらしい証拠があ

る、と説いている。

 つまり若宮部の奉斎神が経津主 (韴霊の神霊)であった。『日本書紀』に、経津主が天下を巡って平定したという話の

ほかに、出雲の国譲りの話に、経津主が大己貴(大国主の別名)を帰順させる話が出ている。また『肥前国風土記』の三

根郡物部郷の記載にも、物部若宮部が社を建てて物部経津主神を祀ったという話などもある。そうしたうえで,これらは

「史実を反映している」というのだ。

 物部氏はヤマト王権の代理として、自たちにつながる高倉下が神武に行ったと同じような帰順儀式を各地で実行して

まわった。平定された豪族や部族の長たちは、物部と同様に服従の証しとして刀剣などを献上した。そしてそれらはヤマ

ト王権の武器庫に収納された。

  その武器庫は最初、初期のヤマト王権の勢力地だった磐余(三輪山の麓)に近い今の奈良県桜井市忍阪にあったよう

だ。古代史学者の和田萃氏は、雄略天皇の没後に王権の武器庫が忍阪から、同県天理市·石上の地に移され、それを
契機
に物部氏による祭祀が開始された、と推測している『大神と石上』筑摩書房)。

 『日本書紀』によれば、天武天皇は在位3年目の8月に忍壁皇子を石上神宮に遣わして、油で神宝の武器を磨かせた。

同じ日に「そこに収められている以前からの諸家の宝物はみんな、それらの子孫に返せ」と命じているのである。

 物部氏がヤマト王権のために各地の帰順者からかき集めた刀剣類を、所有者に戻したのだと思う。王権の力がゆる
ぎな
いものになり、「服従の証し」を返しても反抗はないと判断したからであろう。

 松前氏は講演でその間の事情を次のように語った。

 「地方の神聖土侯の持っていた呪宝、レガリア(王権の象徴)を大和朝廷が取り上げることは、彼らの呪力、土地会

を治める霊的な力, 一種のカリスマを取り上げて、中央集権の実をあげようとする、いわば地方豪族制圧策だった」「天

武三年といえば、もう律令制が始まってきたから、地方土豪の呪力の根源であったレガリアを、中央に置いておく 必要も

なくなった」(朝日ゼミナール『古代日本の権力者』) 「物部神社」が各地にあるのは、広い物部氏の分布に加えて、
モノノフ軍団の
活躍の結果であろう。高倉下の帰順儀式が行われたと私が推測する熊野川の中州天斎原(おおゆの
はら)」に後代、本宮大社が建てられ
たように、全国各地の帰順のゆかりの地に物部神社とか「フツ」を頭に冠した神

社ができたのではないだろうか。韴霊も1本ではなく、全国平定の先頭に立った物部の武将たちが携えた神剣の一般
名詞
だったのかもしれない。

 それにしても、韴霊はどんな刀剣で、どこでつくられたものだろうか。

 明治新政府のもと、官幣大社になった石上神宮に中央から大宮司として派遣された菅政友は、本殿を建設する調査
のため
明治7 (1874)年に拝殿奥の「禁足地」を発掘した。そこから出土した刀剣を、「韴霊」として新築した本殿に祀

ってある。片方に刃がついた長刀だという話はあるが、だれも見ることができないため、それが伝承の刀剣であるかどう

か確かめるすべはない。

 想像をたくましくすれば、韴霊は右上神宮近くの「布留遺跡」の地でつくられたのではないか。布留遺跡は現在天理

教本部を中心に広がる、縄文·弥生·古墳時代にわたる一大遺跡である。この遺跡からは鍛冶がらみの遺物がたくさん出

土している。残った鉄かすは鉄を溶かした炉がそこにあったことを物語る。また、鉄のはさみが出ているから、金属工

房があったことも確実だ。

 さらに、刀剣も製作された模様だ。水分のおかげで保存がよかった木製品の刀の把や鞘が多数発見されたからで
ある。

布留遺跡の発掘に携わった天理参芸員の山内紀嗣氏は「5世紀の初め、この地で刀剣などをつくっていたのは間違

いありません。鉄の素材は中国や朝鮮から運ばれた。製作には大陸の技術や渡来人の関与があったでしょう」と語る。

 布留遺跡は石上神宮が創建される以前から物部氏の勢力地であったのだろう。となれば物部氏のレガリアがそこで
つく
られた、と考えたくなる。

 鍛冶遺跡などから、布留が一番活況だったのは5、6世紀という。一方、石上神宮から出土したとされる刀剣の制作年

代など詳細は明らかでない。だから、韴霊が布留でつくられたという私の推測は、いまのところ想像の域を出ない。
  2009-2-2  朝日新聞(夕刊) 桐村英一郎

 高倉下(たかくらじ)⇒111 、 222 







七支刀

 石上神宮を代表する文化七支ガ遺産のなかに、神宝·七支刀がある。長さ約75cmで鉄製、ヤリ

先の下、両脇の交互に3本ずつの枝刃がついた形をしている。『日本書紀』の神功皇后時代の部分
に記す七
枝刀のことだとされ、これは「ななつさやのたち」と読む。372年に朝鮮半島の百済からもた
らされたとの
見方が有力だ。かつては『日本書紀』通りに、献上説が有力だった。

しかし近年、金線で刃に象眼された60余文字の銘文の研究などが進展。中国·前燕の進出に伴う
高句麗の南
下に備えた百済が、日本の王権との同盟を固めた際の「記念品」との見方が強まってき
た。石上神宮には多
くの歴史ドラマが秘められている。 

しちしとう[七支刀]

 奈良県天理市の石上神宮に伝世する貴重な呪刀。日朝関係史を物語る銘文がある。全長七四.八

㎝、刀身およそ六五cmの鍛鉄両刃の刀で、刀身の左右に三つずつの枝が互い違いに出ている。
社伝では「六叉刀」「六叉鉾」
「六支鉾」などと称されているが、銘文に「七支刀」とある。刀身の表
(三四字)、
裏(二七字)に六一字の金象嵌の銘文がある。泰和四年については東晋の太和四
(三六九)とみなす説が有力である。

七支刀銘文の釈文、解釈については諸説があって、百済王の倭王への献上説あるいは百済王の
倭王への下賜説をはじめと
する見解の対立があるが、『日本書紀』の記述によって、百済王が倭王
に服属の証
として献上したとみなすような説はなりたたない。銘文の最後に「後世に伝示せよ」とあり、
「百済王世囝」とみえるのも
みのがせない。「百済王の世子(後の近仇首王」とよむ説もある。
いずれにしても
注目すべき金石文である。

[参考文献]和田萃編『大神と石上』(筑摩書房昭63 )(上田正昭)



石上神宮と七支刀 ―― 七支刀はなぜ石上神宮に伝わったか

 日本書紀と刀銘によれば、百済が倭国の援助によって、新羅の一部を占領し、済州島も支配でき
たので、王は倭国に貢物を献上、その1つが七支
刀である。そのためにこの刀は倭国にとって外交的
に重要な剣で、倭国の
権威の象徴として百済王が造って献じた。

 古来、石上神宮には大量の武器·刀剣があったが、現在はこの七支刀1本だけで、神剣渡御式など
特別な祭祀がおこなわれている。

 石上神宮を管理したのは、春日臣市河という人で、後に物部首を称するが、春日市河の祖先は、
天足彦国押人命と伝え、その子孫
和邇氏であり、さらに枝分かれして春日氏が生まれる。

和邇氏の本貫(本籍)地は、天理市和爾町で、和邇氏でその中の有力氏族が春日氏である。

 七支刀は、朝廷の外交政策にとって一つのシンボルとして象徴的な剣である石上神宮はかつて
和邇氏が奉斎した神
宮であった。そして和邇一族は、応神天皇から敏達天皇での長い期間、娘を
后としてさしだし、皇位継承を断絶し
ないための義務を課せられた氏族でもある。そういう状況である
とき、天皇家は断絶しそうになり、応神天皇の6世
が孫という継体天皇が即位する。その間、和邇氏に
預けられていたという
倭国のシンボルである七支刀は、古くから天皇家とも関連のある石上神宮
神庫に収めれていた。一方和邇氏が衰退していくと、和邇氏奉斎の石上
神宮独自の宝剣として神倉
に納められ現在に至っている。4世紀に造られ
た剣が蔵の中に保管され伝世した世界史上稀なものと
思う。

 平成19年度 山の辺文化会議 総会記念講演
   天理大学名誉教授 近江昌司氏 講演より抜粋



古い太刀⇒⇒⇒

東大寺山古墳⇒⇒⇒
中平銘鉄刀と七支刀⇒⇒⇒ 
東大寺山古墳と謎の銘鉄刀⇒⇒⇒





リョウサンの池 地図

 奈良県桜井市の市街地から国道165号を長谷寺の方へ向かって行くと「出 雲」という地区がある。

 三輪山のふもとに出雲。そこを通るたびに、大和と島根県の出雲の関係を考えさせられる。

 実際、「奈良の地名が先にあり、ここから人びとが山陰に行った」「いや逆だ」という本家論争がある
ようだ。その
正否はともかく、『日本書紀』に載っている雄略天皇の朝倉宮の推定地が近くにあるなど、
古くからひらけた土地である
ことは間違いない。

 出雲地区に生まれ育った郷土史家の榮長増文氏は、三輪山の東方に連なる纏向山、初瀬(泊瀨)山
などの山域に古代文
化が栄えたという考えをもっている。「泊瀨」の枕詞は「隠国」だ。榮長氏はそ

れを「こもりく文化圏」と名付けた。

 山ふところのこのあたりは、国中(奈良盆地)からみるとエキゾチックな感じがする場所だったのか
もしれない。
 

 三輪山の背後の山中にある池のほとりに、物部氏が祖神とする饒速日を祀っていた小社があると
聞いて,案
内してもらった。

 彼から面白い話を聞いた。明治の初めまで、500mほどの高さの稜線でウナギがとれたというのだ。
山頂付近でウナギとは。

 「奈良県の大和高原に降った雨は、この近辺の山塊に伏流水になってたまる。

水量の多かった当時、山肌はしみ出た水でいつも湿気を帯びていた。落ち葉と湿気の間をウナギが
登っていったのでしょう。

 湿気は雲をつくる。いつも雲が立ちのぼっているから「出雲」という地名になった、というのが榮長説
である。

 途中の白河地区の民家で見せてもらった土人形が面白かった。江戸時代の作という高さ30cmほど
の瓦ふうの焼き物だ
が、大きな角を持ち、南方の水牛にそっくりの風貌である。

 持ち主は「牛頭天王神像と一言い伝えられてきた」という。牛頭天王はもともとインドの神様で、
日本では素盞鳴尊と習
合(折衷)したといわれる。山間の村と水牛という奇妙な組み合わせは:古代に

海から進出し、定住していった海人たちの影響だろうか。

 杉の葉が覆った狭い道を脱輪しないよう慎重に登る。榮長氏によれば、標高545mの初瀨山の周囲、
485mの高さ
に水脈があり、あちこちにわき水や沼地をつくっているそうだ。

 そのひとつ、青々とした水をたたえた「リョウサンの池」の脇に高山神社(こうさん)があった。
石垣の上に小さな社殿をもつだけ
の小社だが、これまでたびたび祭神が変わったという話に興味を
ひかれた。

 現在の祭神は『日本書紀』の伝承記録に出てくる高龗神(たかおかみ)だという。 

 神話によれば、愛する妻·伊奘冉尊一緒に「国生み」をした伊奘諾尊は、妻が火の神、軻遇突智
(かぐつち)を産んだときのやけ
どで死んだのに怒り、わが子を三つに切り捨てる。高龗神はそのとき
に生じた水
神、雨乞いの神である。

 昭和の初めまで、出雲村の人びとは干ばつになると初瀬川の禊場に出向き、水中で艇若心経を
100回唱えた。そして
水中に浸した村の半鐘を担いで高山神社まで登り、高龗神に降雨を祈ったという。

 高山神社の祭神は過去に4度も変わったそうだ。最初の祭神は饒速日尊。それが素戔嗚尊、牛頭
天王、善女龍王にな
り、明治に入って高龗神になった。善女龍王はインドの女神で、弘法大師空海が

唐からもたらしたといわれる。日本では水神としてあがめられてきた。

 07年秋にこんなことがあった。 関西各地に住む霊感の強い人たち6人が榮長氏を訪ねてきた。
案内した高山神
社で一心に祈るうち、ひとりの女性に善女龍王が取り憑いたという。「なんでも聞きな
さい」と問われた榮長氏は、「天
武天皇が宴をした迹驚淵(とどろきのふち)の場所を知りたい」と
言った。

 『日本書紀』天武天皇8年に「泊瀨に幸(いでま)して、迹驚淵の上に宴したまふ」といろくだりがある。
榮長氏はそこがどこか
長年捜し求めていた。「私についてきなさい」と語った女性は、神社の裏手の道

を登り始め、しばらく行った場所で音が聞こえる」とつぶやいた。

 そのあたりはリョウサンの池の水源地で、江戸時代に池が改修される以前は岩場だった。
「善女龍王」が憑いた女性
は、今はなくなった光景を幻視し、淵にそそぐ水音を聴いたのだろうか

 「古代には卑弥呼をはじめ、神の意を伝える数多くのシャーマン(霊能者)が出てくる。三輪神話にも
倭迹迹日百襲姫
や大田田根子などが登場します.古代史には科学だけでは解けない何かがあるよ

うな気がしてきました」と榮長氏。

 リョウサンの池の近くに、白い石を二重の円形に敷き詰めた不思議な場所があった。周りはきれい
に整地され、注連縄
が張られている。毎年、注連縄が張り直されてきたが、だれがしているのか地元

の人たちにもわからないそうだ。

 そこは「熊野久須比命」の塚と 言い伝えられてきた。熊野那智大社の主神である熊野夫須美神の
ことだとすれば,なぜ
熊野の神がそこに祀られ、あるいは葬られているのだろう。

 ヤマト王権がそのふもとで基礎固めをした三輪山の周辺は、いまなお歴史のミステリーゾーンだ。
  2009-4-3 
朝日新聞(夕刊) 桐村英一郎







高倉下

 「熊野の神」の毒気にあてられ、失神した神武軍を、空から降ってきた刀剣で救う。そんな働きをした高倉下なのに、

『古事記』も『日本書紀』もその後、彼がどうなったか知らんぷりである。

 高倉下をめぐる秘密は、どうやらそのあたりにありそうだ。「いったい何者か」と問いながら、彼を追いかけたい。

 まず、「地元」の熊野さすがに熊野には高倉下を祀る神社が多い。和歌山県建庁に同県内の関連神社を調べてもら

ったところ、次のようになっている。神社本庁の全国調査に基づくもので、小さな社まで網羅しているわけではない。

【高倉下を主祭神とする神社】

◇地主神社=串本町古田

◇高倉神社 新宮市高田、同市熊野川町日足、同市熊野川町奕同市熊野川町上長井(小口)

◇矢倉神社 串本町高富

【高倉下を一緒に祀っている神社】

◇王子神社=すさみ町和深川

◇八幡神社=同町防己(つづら)

◇若宮八幡神社=古座川町平井

 和歌山市六十谷の「射止神社」は天香山命(高倉下の別名)を一緒に祀っている。ほかに、和歌山市和田の竈山神社

や田辺市鮎川の住吉神社は境内社で祀っているという。

 肝心の熊野三山(本宮大社、速玉大社、那智大社)では、どうなっているだろう。

 本宮大社の摂末社のひとつとして「高倉神社」があり、明治22 (1889)年の水害で社殿が流失した旧社地.・大斎

原(おおゆのはら)にある石の祠に祀られている。

 「ゴトビキ岩」をご神体とする新宮市の神倉神社の祭神は高倉下命と天照大神だが、神倉神社は速玉大社の摂社。
「御
燈祭」で有名だが、高倉下の扱いは決して高いとはいえない。

 『記·紀』は多くを語らない。熊野でもなんとなく軽んじられている。これはどうしたことだろう。そのことが逆に、

高倉下の果たした役割の大きさを物語っているように思えてならない。

 物部氏に伝わる『先代旧事本紀』は高倉下を大和の先住者である饒速日尊の息子だとしている。彼は物部一族を
代表
して神武との和平という重要任務を課された、妹を饒速日に嫁がせた長髄彦が徹底抗戦の構えをみせていた
中で、親族を裏切り敵方につくというの
だから、かなりきわどい立場だ。

 当時、物部陣営は「抗戦派」と「和平派」に割れていたのではないか。高倉下や宇摩志麻治命(可美真手命)ら饒速日

の息子たちは、長髄彦に見切りをつけ、神武になびいた。

 ヤマト王権は、三輪山のふもとの磐余から飛鳥まで、都や王宮を移しながら権力基盤を強めてきた。その過程で
先住者
や旧支配勢力をうまく取り込み、支配体制に組み込んできた。

 そんな王権にとって、物部一族の内紛や高倉下の役割などは、ことさら騒ぎ立てたくないことだったろう。まして、彼

と神武との出会いがきっかけで世界観を転換させたとすれば、「触らぬ神にたたりなし」ではないか。

 事情は物部氏も同じ。相手が大王家とはいえ、後からやってきた勢力にさっさと帰順したというのは、伝統ある一族と

してあまり宣伝したくはないことだろう。まして、それが思想や世界観にまで影響を与えるきっかけになったとあれ

ば、忘れたい、思い出したくない人物になるはずだ。

 高倉下の名が物部伝承や、彼が大和からそこに渡ったとされる新潟方面では、もっぱら天香山命(天香語山命)と呼ば

れているのも「高倉下を忘れたい」気持ちの表れのように思える。

 ところで、神武軍を助けた高倉下は、なぜその時熊野にいたのか。物部の本拠地である大和から、和平交渉のために

出向いた、と私は見ている。

 面白いのは、彼は物部氏が鉱山資源を得るために熊野に派遣されていた、という見方である。

 高倉下「山師説」とでも言おうか。

 熊野は鉱物資源に恵まれた地域だった。物部氏が目をつけてもおかしくない。そうなると、熊野の資源をめぐっ

て、地元の部族長らしい丹敷戸畔と高倉下、神武の3者が入り乱れ、神武が勝つたという筋書きになる。

 高倉下自身が鍛冶と深く結びついていた、という説もある。

 新宮に生まれ、詩人で実業家でもある澤村経夫氏は著書『熊野の謎と伝説』(工作舎)の中で、「神剣を奉じた高倉

下命は、また鍛冶神であるといわれる。

速玉社(熊野速玉大社)に奉仕する神楽人の鍛冶人こそ、征服された高倉下命の姿をあらわすものだろう」と書いている。

 平安初期に編さんされたといわれている『先代旧事本紀』によると、高倉下には天香語山命のほかに、手栗彦命という

名前がある。

 手栗は「吐り」に通じる。火の神軻.遇突智(迦具土) 産んで「ほと(陰部)」を焼いた女神·伊奘冉尊が、死の苦しみ

の中で嘔吐したものから生まれたのが金山彦神と金山姫神である。金山彦は鍛冶や鉱業など金属関係者の神とされて
た。伊奘冉の嘔吐物が熱に溶けた鉱物を連想させるからであろう。

 一眼一足の怪物「一つたたら」の伝説などとともに、熊野と鉱物資源のかかわりを物語る名前に興味をひかれる。
  2008-11-10 朝日新聞(夕刊) 桐村英一郎






八咫烏

 『記·紀』では、物部一族の高倉下が神武軍を救う話のすぐあとに、道案内役として、八咫烏が登場する。それは吉野

熊野の山道を知り尽くした地元の豪族の長だろう。彼らも物部一族で、高倉下の指揮のもと、神武支援に動員されたの

ではなかろうか。

 八咫烏が登場する場面を『古事記』に見てみよう。いまの言葉にすると、あらまし次のようだ。

 高木大神(=高皇産霊尊)が「ここから先には、荒ぶる神がたくさんいるから、天つ神の御子(神武)をどんどん奥

の方へ行かせてはならない。天上から八咫烏を派遣するから、それについて進みなさい」といわれた。
そこで、いわれた
通りにして、吉野川 川べりにお着きになった。

 『日本書紀』の同じ場面は、こうなる。 神武一行は、さらに内陸部に進もうとした。しかし、険しい山岳に阻まれ、立

ち往生した。そのとき神武がみた夢に天照大神が現れ「八咫烏を遣わし、それに案内させる」という。その通り飛んでき

た鳥を見て、神武は「これは良い夢の通り、大したことだ。祖先の天照大神がわれわれを助けてくださる」と大喜びし

た。一行は鳥を見上げながら追いかけ、宇陀の地にいたった。

 『書紀』は「頭八咫烏」と上に「頭」を付けている。岩波文庫の注釈は「頭の大きかったことを示すものか」としてい

るが、それだけ大きな鳥ということだろ天上から高倉下に韴霊を落とさせたのは、『古事記』では天照と高皇産霊の2

神だが、『日本書紀』には天照の単独指示となっている。一方、八咫烏を派遣したのは『古事記』では高皇鏖、『日本

書紀』では天照、と異なっている。

 高皇産霊は物部一族の大本の神ではないかと考えられる。その神が神武を助けるよう高倉下と八咫烏に相次いで

指令を出すのだから、八咫烏も高倉下と同じ一族と考えるのが自然だ。「高皇産霊」「物部氏」「八咫烏」を結ぶ糸は,
もう1本ある。

 「熊野権現の使者」として熊野三山でもよくお目にかかる八咫烏は3本足の烏のことだ。それは「太陽神の使い」でも

あった。

 中国·前漢時代の思想書『淮南子(えなんじ)』の中に目の中に踆鳥(そんう)がいる」という記述があった。
後漢時代の学者がそれを、
「3本足の烏のことだ」と解説した。

 古代中国は異形の動物を神聖視した。それが太陽に棲んでいるとなれば、なおさら聖なる使者として尊敬される。
その
思想は朝鮮に伝わり、6世紀の高句麗の古墳壁画には、天孫の象徴として3本足の鳥が描かれているという。

 八咫烏は高句麗、新羅のルートをたどって日本に伝わった可能性がある。そろした地域の民族は祖先神が天上から
降臨
したという垂直的な世界観を持っていた。八咫烏にはユーラシアの平原を馬で駆け巡った騎馬民族のかおりが
ただよ
う。それは高皇鏖が発するのと同じかおりだ。八咫烏が物部一族ではないか。

 神武東征伝説の残る奈良県の菟田野から榛原に向かう道沿いに、その名もずば八咫烏神社がある。玉砂利が
敷かれた
境内に立つ案内板には「『続日本紀』に慶雲2年(705年) 9月、八咫烏の社を大倭国宇太郡に置いて祭らせた
ことが
みえ、これが当社の創祀」と書いてあった。

 拝殿の脇に、サッカーボールを頭の上に載せたユーモラスな表情の八咫烏の石像が鎮座している。何の説明もない
ので
神社入り口のお宅で尋ねたら、宮司のお母さんが「2002年のワールドカップ日韓共催を記念して地元の人が建て
てく
れました」と教えてくれた。そういえば、八咫烏は日本サッカー協会のシンポルマークである。

 平安時代に編さんされた氏族名鑑である『新撰姓氏録』によれば、八咫烏は鴨県主の祖とされている。

 奈良県の葛城地方に勢力を張った鴨(賀茂)氏や、下鴨上賀茂神社で知られる山城(京都府南部)の鴨氏と、どう

関係するのだろう。古代の葛城に詳しい平林章仁·龍谷大学教授に聞くと、鴨県主は山城の鴨氏の祖先で、大和(葛城)

の鴨氏には八咫烏伝説は継承されていないという。

 「奈良県御所市の鴨都波神社の一帯に広がる鴨都波遺跡から、弥生時代煎期までさかのぼる遺物が出土しました。
大和
の鴨族は3城の鴨族より古い歴史を持つ氏族ではないかと考えてい求す」と平林氏は語る。

 『山城国風土記』には、山城の鴨の祖先神がまず葛城の峰に宿り、そこから山城にいたった、と記されている。

 平林氏の誉ろとおり、鴨氏は葛城地方に定着した古い氏族で、そこから山城地方へ分派した。その分派一族が、
自分た
ちの家系の「格」を上げるために、神武を助けた八咫烏を祖先神にしたのではなかろうか。

 本家筋である大和の鴨氏に八咫烏伝説が伝わっていない理由も、それで説明できる。
八咫烏⇒⇒⇒
   2009-2-16 朝日新聞 桐村英一郎





大和と出雲

 ヤマト主権が「海(あま)」から「天(あま)」へ発想を転換したことは、彼らがもつ異界のイメージも変えた、と考える。「明と暗.

「生と死」を併せ持っていた理想郷「常世」や「妣(はは)の国」という観念が薄れ、「根の国」「黄泉の国」は死者たちの世

界にされてしまった。神話は男神・伊弉諾尊が亡き妻の女神。伊弉冉尊を訪ねた黄泉の国を暗く、穢れた所と描く。

 天つ神々が住む高天原が天上で、大王や人びとが地上に暮らすとなれば、どこかに死者の国をつくらなければならな

い。そんな考えから大和の支配者に選ばれたのが出雲だったのではないか。

 そう考えると、『記·紀』と『出雲国風土記』の神話の食い違いや、伊奘諾の禊ぎから生まれたとされる素戔嗚尊の二面性など
の疑問の一端が解けるような気
がする。

 『古事記』『日本書紀』は素戔嗚が天照大神らに続いて、誕生した弟としている。ならば「天つ神」に違いあるまい。

かと思うと、彼は大国主神らとともに出雲系の「国つ神」とされる。

 素戔嗚は高天原を追われたあと突然出雲に現れ、八岐大蛇を退治して英雄になる。『記·紀』が伝えるこの話は『出雲

国風土記』にはない。どうしてだろう。

 素戔嗚と大国主の続き柄もまちまちだ 『古事記』は大国主が素戔鳴の6世の孫だとする。『日本書紀』の本文によれば2人は
親子である。そうしながら
『書紀』の「一書(あるふみ) 」は6世の孫とか7世の孫といっている。2人に血のつながりはあるのか。
出雲は大和の西北、太陽が
沈む方向にある。ヤマト王権は6、7世紀までには、この出雲地方を配下におさめたといわれる。
そこに「地下の世界」
を押し付け、垂直的な観念を完成させようとしたのではないか。

 天上と地上·地下の橋渡し、水平から垂直への枠組み転換のつなぎ役を演じさせられたのが素戔嗚だったのだろう。

 彼はもともと出雲や紀伊·熊野のローカルな神だったのではなかろうか。島根県出雲市には素戔嗚終焉の地と伝えられ

須佐神社がある。一方、和歌山県有田市にも漁民に崇拝されてきた須佐神社(地図)がある。神話学者の松前健氏は、社格は出

雲より紀伊の方が高かったことから、「私は紀伊の須佐こそ、この神の崇拝の原郷だったと思っている」と述べた(『出神話』講談
社現代新書)。

その「故郷」がどちらであれ、素戔嗚は『記·紀』のコスモス(宇宙)を作り上げるために、「大役」「2役」を任されることになってしまった。

 素戔嗚と天照は姉と弟ではなく、もとは無縁だった、と私は思う。「出雲に降りて、地下の支配者になる」という筋立てがまずあって,
そのためにストーリー
を逆に組み立てていったのではないか。

高天原で乱暴を働き、追放されたという逸話は、出雲を根の国にするという目的のために作られた話だろう。

 『記·紀』によれば、伊奘諾は天照、月読 素戔嗚の子どもたちにそれぞれ「高天原」「海原」「根の国」を治めさせる。天照は一貫
して天上を統治するこ
とになっているが、月読と素戔嗚は統治を命じられる場所が文書によってまちまちだ。天照と高天原を結
びつけさえすれ
ば、あとは二の次だったのではないか。

 大国主は大穴牟遅(大己、大穴持),葦原色許男、八千矛などたくさんの別名をもつ。『出雲国風土記』が大穴持神を「天の下造
らしし大神」と呼んでいるよ
うに、この神は出雲で古くから敬われ、祀られてきた神格だ。松前氏のいう「生粋の『出雲っ子』」なの
である。

 素戔嗚に大役を負わせるため「出雲代表」の大国主と血のつながりを作ろうとしたが、うまくいかない。それが「親子だ」「いや
6世だ」「7世だ」といった
混乱を生んだようだ。

 「出雲神話」といえば、八岐大蛇を退治する話、因幡の白兎など大国主にまつわる物語、そして「国引き」神話などが思い浮かぶ。
八束水臣津野命が「少女の
胸の形のような鋤で、魚のえらを突くように土地を突き刺し、魚の肉を切り分けるように土地を切り離して、
『国来、国
来』と引いて来縫った」というくだりはテンポがよく、また素朴で美しい。

 しかしこの「国引き」のくだりは『記·紀』にはない。ヤマト王権にとって、出雲と出雲神話は「従順な国譲り」と「死者がゆくところ」
というふたつの要
素があれば十分だったからではないだろろか。逆にいえば、『出雲国風土記』が伝える神話は、その地がヤマト
王権に支
配される以前の伝承を残しているという点で貴重だと思う。

 出雲を「死者の国」にするため伊弉冉まで協力させられたふしがある。

 『古事記』は伊奘冉が出雲と伯耆(鳥取県西部)の境にある比婆の山に葬られたと記す。また、伊弉諾が変わり果てた妻に離縁を
宣言した黄泉比良坂も「いまの出雲国にある
伊賦夜坂という名の坂だ」とする。

 一方『日本書紀』は「一書」の伝えとして、伊奘冉は熊野の有馬村に葬られたという。『記·紀』の不一致は、出雲を「死者の国」に
仕立てようとして生じた
ほころびだったのではなかろうか。

 出雲市の出雲大社から山ひとつ越えた海岸に猪目洞窟がある。『出雲国風土記』に出てくる「黄泉の坂·黄泉の穴」、つまり黄泉の
国の入り口はここだ、と伝えられてきた場所だ。
2008-9-8 朝日新聞(夕刊) 桐村英一郎






陸の高皇産霊 海の天照

 神話に登場する神々の中で、不思議に思う神は高皇産霊尊である。

 天皇家の皇祖神として天照大神と並ぶ扱いだが、どこの出身なのか、なぜそんなに格が高いのか、よくわからない。
皇産霊尊は『日本書紀』の表記で、『古事記』では高御産巣日神とか高木神などと記される。

 この神は『古事記』の冒頭に登場する。

 天地初めて発(ひら)けし時、高天(たかま)の原に

成れる神の名は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は、みな独神と成りまして、

身を隠したまひき。(岩波文庫)かみむすひのかみ

 高御産巣日は夫婦のペアではなく、単独の神として成り出て姿を隠してしまう。そのあたりは、『古事記』の編者が

この神の扱いに困っている様子もうかがわせる。一方、『日本書紀』の天地開闢の本文には高皇産霊の名は出てこ
ないが、「一書」の第四に、天地が初めてわかれるときに
高天原に生まれでた一神として、その名が現れる。

 「身を隠した」はずの高皇産霊だったが、その後は天孫降臨や神武東征神話の重要場面で高天原の指令者として
大活躍
する。『日本書紀』の本文では、瓊瓊杵(邇邇芸命)を葦原中国に派遣すべく、諸神を集めて指示をすのは
瓊瓊杵
の祖母の天照ではなくて高皇産霊だ。

『古事記』は「天照大御神,高木神の命もちて」と2神を同等に扱っている。

 『記・紀』はヤマト王権の正当性を示すためにつくられた書だから.重要場面は王権の最高神.天照大神がひとりで仕

切ればよさそうなのに、高皇産霊尊が大きな顔をして取り仕切っているのはなぜか。それは高皇産霊こそ古くから
実際に
敬われた神であるのに対して、天照は王権の支配力が強まった後に最高神になった神だからだ、と思う。

 『記·紀』は既存の伝承に新しい神を主人公にした物語を挿入、再編したため、複数の「皇祖神」が奇妙に混在する

形になってしまったのではないか。

 高皇産霊と天照の混在と矛盾の背景を明快に解いたのは古代史学者の溝口睦子氏である。彼女の著書『王権神
話の二元
構造』(吉川弘文館)は、ヤマト王権が「海」から「天」 ヘ世界観を転換したという私の考えに示唆を与えてくれた。

 溝口氏は、日本神話は伊奘諾·伊奘冉から天照、そして大国主にいたる「アマテラス(天照)系」と、「タカミムスヒ

(高皇産霊)系」という異なる体系の神話からなっているとする。そして のような説を唱える。

 天照系降臨神話が新たにつくられる前には降臨神話は高皇産霊系しかなかった。降臨神話が二元的になるのは
天照系
成立以後だから、もし天照系の成立が天武朝以降だとすれば、降臨神話は天武朝以降にはじめて二元的に
なる。

 日本神話に二つの系統があり、天照系がより新しいとする説は、溝口氏がはじめてではない。だがその分析にひか
れる
のは、二系統の世界観を簡潔にまとめたこと、そして高皇産霊の「原郷」を遊牧民が活躍したユーラシア大陸の
草原地帯
とにらんだことである。


 溝口氏は二つの系統の世界観を次のよ
ろにまとめる


 [タカミムスヒ(高皇産霊)系]
①天
に絶対的な価値を置く天優位の世界観
大王を天の主宰者である日神の子孫とする神話的王権思想
③出自·血統の重視
父系的·父権的観念


 [アマテラス(天照)系]
①海のかな
たの国である「常世」を、豊かな生命力の源泉として価値の高い国とする。ほかに高天原・根の国・海神
  (わたつみ)の国などの異界
もあり、全体として海洋的色彩が強い
男女の働きを等価とみる
③呪術的能力や
人間的資質を重視する、出自·血統によらない首長観


 要するに高皇産霊系は「大陸」、天照系は「海洋」を背にしているわけだ。溝口氏は、ヤマト王権の黎明期·確立期を

通じて最高神·国家神は一貫して高皇産霊尊だったとみる。それが、律令国家の成立と時を同じくして天照大神に転換
る。『記·紀』はその様相を反映している、とするのだ。

 海のかなたに豊饒の常世の国があり、死者はそこに行き,またそこからよみがえる。それは水平的かつ循環的で、
海の
明るさを包容した世界観だ。これに対して、天が優位に立ち、その下に人びとが暮らす垂直的な世界観には、
より秩序の
重視を感じる。

 天上から始祖が降るというモチーフは本来、遊牧騎馬民族や森林狩猟民のものだった。古朝鮮の檀君神話、
高句麗や王
族が遊牧騎馬系の扶余族である百済の王権神話、金官加羅国の首露王の神話は、いずれもその始祖が
天から降臨する。北
方系と南方系の神話が入り交じっている日本神話の中で、いわゆる「天孫降臨神話」には、
「天照系」というより「高皇
産霊系·遊牧騎馬系」の香りがする。

 「天照系」の神話には海の香りや波の音が満ちている。そもそも天照は、の国から帰還した伊奘諾が塩水の混じる

水で禊をし、左目を洗ったときに誕生したとされる。海幸彦·山幸彦の話に、神武は祖母がワニ(サメのことか) 、母は

その妹で、ともに海神の子だと出てくる。天照の世界は海洋的で、高天原とか天上からの降臨などは似つかわしくない

のである。
  2008-6-23 朝日新聞(夕刊) 桐村英一郎

 なぜヤマト王権は高皇産霊から天照にくら替えしたのか。

 溝口氏は、それを天武·持統朝に行われた一種の宗教改革とみる。「古い族制的な体制から抜け出して国家が直接
全国
民を掌握しようとする新体制に高皇産霊はふさわしくない。一般の人になじみが薄い高皇産霊より、広く人々に親
しまれ
てきた太陽信仰に立脚する天照のほうが、国家統一の象徴としてふさわしい。

それが天武朝の判断だった」というのが彼女の推測だ。

 溝口氏の分析にひかれるけれど、引き出す私の結論は異なる。これまでも述べてきたように、ヤマ 権の創始者は海

洋民の子孫で水平的な(天照系の)世界観をもっていた。一方、彼らより先に大和の地をおさえていた物部一族は垂直
(高皇産霊系の)世界観をもつ人々だった。そう考えるからだ。

 ヤマト王権は高皇産霊を捨てて天照を掲げたのではなく、自分たち用の「高皇産霊の世界」をつくるため、天照大神を

「創造」したのではなかろうか。「天優位の世界観」「地上の大王を天の主宰者」とする考えは、新しい秩序の形成
づくりに都合のよい政治思想だった。

 溝口氏は高皇産霊を「天皇家の守護神であり天の最高神」とするが、高皇産霊は、本当にそうだったのだろうか。

 高皇産霊はヤマト王権の世界観の枠組み転換でも「消し切れなかった」神だった、と私は考える。本来、天照だけにし

ておけば矛盾も二元性も生じない。しかし、高皇産霊の存在は為政者や有力氏族の間でよく知られていたので無視で
きな
かったというわけだ。

 この推論を進めるためには「神々の線」をつなぐ作業が必要だ。それは、高皇産霊と物部氏が祖とする饒速日尊、そ

して熊野で神武を救った高倉下を結ぶ線である。物部氏の祖は遊牧騎馬民族特有の思想·世界観をもった民ではない
かと
推測する材料もほしいところだ。

 髙皇産霊-饒速日-高倉下の系譜をはっきり語るのは、平安時代初めに編さんされた『先代旧事本紀(せんだいくじ
ほんぎ)』である。これま
でも部分的に引用してきたが、ここで同書の評価を語っておきたい。

 『旧事本紀』は江戸時代に「偽書」のレッテルを貼られ、長らく軽視されてきた。しかし今日では『記·紀』とは別に

物部氏が伝承してきた古い物語を含む貴重な資料として再評価されている。

聖徳太子と蘇我馬子の撰」という序文が全体の信用を損ねたほか、その中では記·紀』の丸写しも少なくない。だが、
かの古文書にみられない独自の話も散見されるという見立てである。

 長年、同書を研究してきた鎌田純一氏は、饒速日など物部伝承が含まれている巻三、五のほか、巻四、十などの
資料性
は高い、としている(上田正昭氏との対談『日本の神々 「先代旧事本紀」の復権』大和書房)。『旧事本紀』は、
饒速
日が高皇産霊の娘、標千々姫を母として誕生したと語る。つまり饒速日は高皇産霊の孫というわけだ。また天香
語山命
(高倉下)が饒速日の息子であると明記しているから、高倉下からみると高皇産霊はひいおじいさんにあたる。

 そこには、高皇産霊と饒速日が肉親の情で結ばれているかのような記述もある。饒速日は長髄彦の妹をめとり、宇摩

志麻治命が生まれるが、わが子の顔を見る前に死んでしまう。あわれに思った高皇産霊は速飄命(はやちかぜのみこと
)を遣わせて饒速日の遺体
を天にのぼらせ、七日七晩、葬儀の遊楽をして悲しみ、天上に葬った、というのである。
そんな場面の高皇産霊は天上を
支配する厳格な神というイメージではなく、孫がいとおしいおじいちゃんといった感じだ。

 一方、『記·紀』は高倉下が何者か明言していない。ただ『日本書紀 神代下の「一書(第六)」が「(天照大神の子

の)天忍穂根尊(天忍穂耳)は高皇産霊尊の子・栲幡千千姫と結婚し、天火明命を生んだ。その子の天香山(あまのか
ぐやま)は尾張連らの
遠祖である」と記しているのが注目される。天火明は饒速日の別名で天香山は高倉下の別名と
されているから、別名を介
してではあるが高皇産霊-饒速日-高倉下の系譜を示しているわけだ。

 「一書にいわく」として触れ いるところをみると、これは『日本書紀』編さん当時、すでにあった物部氏系の伝承か

ら引用したと思われる。長髄彦が殺される場面で『日本書紀』が「饒速日は物部氏の遠祖だ」と語っている部なの出所も

同じだろう。

 『古事記』は高倉下の出自について、彼が神日本磐余彦(神武天皇)に献上した刀剣·布都彻魂(師霊)は「石上神宮

に坐す」と付記し、物部氏と高倉下の関係を示唆している。

 また『古事記』には「邇芸墻命は登美毘古(長髄彦のこと)の妹と結婚し、奉志麻遅命が生まれた。彼が物部連の

祖だ」という一節がある。『旧事本紀』では宇摩志麻治命と表記されている。宇摩志麻治は高倉下とは母違いの弟とされ

る人物だ。大和に入った神武は、熊野で命を救ってくれた高倉下より、宇摩志麻治の方を可愛がったようだ。
  2008-6-30 朝日新聞(夕刊) 桐村英一郎



善きものは海から

 熊野の海から、海のかなたの理想郷常世に旅立つ。神話はそんな光景が好きらしい。神日本磐 (神武天皇)の兄

のほか、 少彦名命もそうだった 大国主を助けて国づくりを進めたという小さな神だ。

 大国主が出雲の美保の岬に居たとき、少彦名はガガイモの実の船に乗り、蛾の皮で作った衣服を着て近づいてきた。
を合わせて国づくりのために働いたあと突然、常世の国へ帰ってしまう。やってくるときも去るときも、いたく唐突な神

様である。

 その場面を『日本書紀』の「一書」は、こう記す。

 
 少彦名命、行きて熊野の御碕に至り

 て、遂に常世郷に適(いでま)しぬ。亦曰(またい)はく,

 淡嶋(あはのしま)に至りて、粟茎(あはがら)こ縁(のぼ)りしかば、弾

 かれ渡りまして常世郷に至りましきといふ。

 (岩波文庫)

 小さな神だから粟がらに弾かれて飛んでいったというわけだ。

 紀伊半島の一番南、和歌山県串本町に潮御崎神社がある。漁民らに海上の守護神として信仰されてきた。同神社の祭神

が少彦名で、この神はそこから常世に去ったと言い伝えられている。なるほど潮岬は本州の最南端だから、常世郷までの

最短距離といえよう。

 民俗、国文学者の折口信夫ふうにいえば、熊野の海は聖なる「まれびと」が常世からやってくる場所でもあった。

 海のかなたからやってきた人たちや神々のなかで一番有名なのは徐福だろう。紀元前3世紀、秦の始皇帝のために不老

不死の霊薬を求めて大勢の若者や技術者を連れ、東方に船出したといわれる人物である。

 徐福がここにやってきたとの伝承が鹿児島から青森まで全国に残されているというから、世の中にはロマンが好きな人

がいっぱいいる。

 熊野川の河口に位置する和歌山県新宮市には徐福の墓と伝えられる場所があり、異国風の門をもっ徐福公園になって

いる。三重県熊野市の波田須町にも徐福が漂着したというところがあり,「徐福の宮」と呼ばれている。

 黒潮が運んできたのは徐福伝説だけではない。数多くの神仏像が漂着し、それぞれ沿岸の社寺の祭神や本尊になって

いる。

 熊野川河口に鎮座する熊野速玉大社の秋の例大祭「御船祭」は隻の早船が川中の御船島を競って周回する古来の祭り

だ。これは、来臨する神を迎える祭事ともいわれている。善きもの、尊きものは海のかなたから寄り来るのである。

 神武が熊野に上陸したという神話も「善きものは海上からやってくる」という観念を背景にしているのではないか。

 そう考えたのは「神武上陸地はここだ」と主張してきた場所のひとつ、三重県紀勢町(現·大紀町)錦に伝わる「ギッチョ」と
いう祭りのことを知ったから
である。ギッチョは1月の祭りだ。真夜中に、祭りを主催する的場地区の代表がひとりで暗い
浜辺に行く。海に背を向
け、後ろ手で左手に触れたものを拾う。

たいていは丸い石だ。拾ったものを決して見ずに、懐に用意した白い紙にすばやく包む。それは神武の神霊というべき

「オタカラ(タマ、マリともいう)」である。この神靈に海山の幸を加えた「七タカラ」を一足半の草履に納め、その周りを藤ツル
で包んで祀る。

 以前は日中に「神武」行列があった。向かう先はギッチョ場と呼ばれる斎場だ。そこは「高倉」という字名の地であ

る。天から降ってきた刀剣で、神武の危機を救ったとされる高倉下の神話を思い起こすような地名である。

 熊野の暮らしや祭礼を詳細に分析した民俗学者の野本寛一氏は「神武天皇の神霊·神徳を浦人が拝受するという行為が

民俗的に展開されているところ」にこの祭りの特徴をとらえる。

 そのうえで、「神武天皇が海から上陸されたという根強い伝承を再演する形で、海から、タマの核となる丸石を迎え

るところが注目される。これは、常世の浪に洗われた石を海から迎える形で常世の神を迎えるという土着的な古層の信仰

の上に神武伝承が重層して展開されたものと見ることができよう」と書いている(『熊野山海民俗考』人文書院)。


 地元の錦神社の北村真比古宮司に話を聞いた。

 ギッチョは神武天皇が上陸した際、地元の民が「お宝」を奉じた帰順の行事だったのではないか、と北村氏はいう。藤

ツルで包んだ「オタカラ」は翌日の深夜に海に納めるという。それは神が常世にお帰りになる儀式かもしれない。返納は

他人に見られてはいけない。もし見られたらやりなおすそうだ。

 これも時代の流れだろう。神武行列も以前のように毎年は行えなくなった。最近では06年の正月に行われた。少し前に

気がついていたら、行列を見ることができたのにと残念に思った。

 『日本書紀』によると、垂仁天皇の時代に大和を離れた大照大神は、「ここは常世からの浪が繰り返し寄せるとこ

ろ。私はこの国に居たい」と言って伊勢の国に鎮座した。熊野の浜では常世の波に洗われた小石を神武の神霊と仰ぐ祭り

が引き継がれている。

「常世」と「海辺」はヤマト王権のモチーフのひとつのようだ。
   2008-5-26 朝日新聞(夕刊) 桐村英一郎



箸墓古墳被葬者

 箸墓古墳の後円部の頂上に特殊器台が使われていた特殊器台は型式が進むと、円

筒部の側面に流れるように刻まれた連続した「S字文様」が独立し、ワラビのよう

に先端が巻き込んだ「蕨手文様」や「斜線文様」に変化していきます。文様の簡略化です。

 底部も脚が横に踏ん張らずに直立する形になります。つまり地面の上に置くのではな

く、埋めるのに都合のよい形になります。これを特殊器台と円筒埴輪の間という意味合

いで「特殊器台形埴輪」と呼んでいます。箸墓古墳ではこちらも出土していほす。前方

後円墳の起点となるにふさわしい出土品です。

 特殊器台や特殊器台形埴輪は、墳丘上から出土しました。一方、桜井市教育委員会

や県立橿原考古学研究所による墳丘外側の周辺調査では土器類が出土しています。
古墳
時代前期(3世紀後半~4世紀)に使われた「布留式」と呼ばれる土器のうち、最古型

式の「布留0式」とされています。

 1994年12月に始まった調査は、大池(北側のため池)の護岸整備工事に伴って

行われました。池の水を抜き、発掘の調査区が設けられました。

 すると池底へも前方部の墳丘裾の葺石が延び、幅10mほどの周濠が墳丘を取り巻

き、さらに盛り土による外堤(幅は20m以下)が設けられていたことが分かりました。

そして、なお外側には幅50m以上の大規模な落ち込みが見つかりました。土を取った
なのか、はじめから外濠とすることを意図したものなのか、今のところ判定は難しい

です。

 このとき、周濠や外堤、大規模な落ち込みのいずれの場所からも「布留0式」の土器

が出土しました。落ち込みの最下層で見つかった土器類に付着した試料を使って放射性

炭素14による年代測定が行われました。

 炭素14の年代測定法を簡単に説明します。炭素14は、地球上の動植物であれば生物
みな体内に取り入れて生きていますが、死ぬと一定の割合で減少し、5700年ほど経

っと半減していきます。この法則を生かした自然科学的手法による年代測定の方法です。

 国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)は、測定結果に基づいて箸墓古墳の築造年代を

西暦240~260年と考えました。すると、あらためて247~248年ごろに亡くなったとみられ
る女王卑弥呼
が、被葬者の最有力候補としてクローズアップされました。箸墓古墳が
ある纒向遺跡
(国史跡)が邪馬台国に決定という意見が強まっています。

 これまで説明してきましたように、様々な要素から箸墓古墳が最古式の本格的な前方

後円墳であることに異論はありません。ですが、古墳時代の始まりも3世紀中葉に考え

て本当に良いのでしょうか。

 自然科学の年代決定法は近精度も上がっていると聞きほす。ただ、それにも様々

な条件があると考えなくてはなりません。

 すでに指摘されていることですが、測定に使われた試料が付いた土器は、箸墓古墳の

被葬者の埋葬時期を直接示した土器ではありません。土器は箸墓古墳の築造工事が始

ってから持ち込まれたとも考えられます。測定された年代以降に築造が始まり、埋葬が

行われたと考える方がふつうではないでしょうか。

 箸墓古墳が古墳時代の本格的開始を告げる前方後円墳であることは、いうまでもあり

ませんが、実年代や被葬者については、今も思案に暮れています。
  2016-5-13  朝日新聞
 (関西大非常勤講師今尾文昭)


女帝を考える

 第14回歴史シンポジウム「いま、女帝を考える」(歴史シン

ポジウム実行委員会. ANA主催、歴史街道推進協議会, AN

Aセールス株式会社協力、朝日新聞社後援)が5日 、大阪市淀

川区の新大阪メルパルクホールで開かれた。飛鳥、奈良時代に

活躍した女性天皇が、なぜ近代には登場しなかったのか。皇室

の将来をめぐって女性天皇の司能性が議論されている時期だけ

に 実行委員長の中西進·京都市立芸術大学長ら4人による議

論は白熱したものになった。 (司会は天野幸弘 編集委員)上田 正昭さん

パネリストの顔ぶれ

京都大名誉教授(古代史)

中西進さん

京都市立芸術大学長(万葉学)

半藤一利さん

作家

池内 恵さん

国際日本文化研究センター助教授(イスラム政治思想史)
池内 恵さん


――神功皇后の物語はどこまで
本当か。

 上田 神功皇后の本来の名は「オキナガタラシヒメ」。父は長氏という近江北部の豪族出身。

母は大和の葛城氏の女性だ。おそらく息長氏が伝えてきた伝承上の女性だろう。古事記や
日本書紀で
は、彼女は神の託宣を受ける、祭祀と関係の深い女性として描かれる。編者は、
魏志倭人伝に登場す
卑弥呼を神功皇后と同一人物と考えていたようだ。一方、朝鮮出
の伝承には疑問点が多い。


 中西  神功皇后や聖徳太子など昔のお札になったような人物は、その伝承にフィクション
が含
まれると見た方がいいだろう。神功皇后をまつった宇佐八幡宮の主神、比売大神はカイコ
の神と考え
られ、養蚕伝承とも関係もありそうだ。私も息長氏の伝承が、白鳳時代のころに
天皇家の伝承に組み
込まれたのだと思う。

――なぜ奈良時代に女帝が集中しているのか。

 中西 まだ女性の祭祀権の記憶が消えていなかった時代だった。また、当時は藤原氏が
天皇家の後
継問題にも介入していた。天皇家の外戚が女帝を立てるのは蘇我氏、藤原氏
などに共通した傾向
だ。江戸時代も、徳川将軍家が娘を皇室に嫁がせ、介入を図った時
に女帝が登場している。

 上田 文武天皇の死後、彼の母元明天皇が即位したのは、背景に藤原不比等の意向が
あったと見
て間違いない。当時、藤原氏が即位を待望していた聖武天皇はまだ7歳。元明、
元正両女帝は嫡系の
聖武天皇の成長を待つため即位した。また聖武天皇の皇太子にも、

藤原氏以外の母を持つ安積皇子(あさか)は見送られ、不比等の孫で女性の謙天皇が選
ばれた。嫡系の継承法
と藤原氏の影響力は見逃せない。

 半藤 女帝が多いのは、一つには藤原氏が権力を保持するために時間を稼いだという考え
方と、も
う一つは万世一系の皇統を守る合理的な考え方がある。私はどちらかというと前者で、
藤原氏が「女
帝でいいんだ」と有無を言わせなかったと解釈するのが、一番分かりやすいの
ではないか。

――イスラム教の地域には女王、女帝はいなかったのか。

 池内 イスラム史は7世紀に始まるが、それ以前には伝説的な女王が2人いた。ひとりは、
旧約聖
書の中に出てくるシバの女王。もうひとりは、3世紀に滅びたシリア·パルミラという都市
にいたゼ
ノビアというな毛形式的には、自分の子どもを王にすえた摂政だったが、実質上は
女王として支配
していた。ローマ帝国と衝突して、負けてしまいローマに連れていかれてしまう。
シバの女王もゼ
ノビアも、アラブ世界のイスラム教以前の非常に強い女王だった。

――古代の天皇の継承ルールはどこまで分かっているか。

 上田 実情を伝えていると思うが、漢詩集の「懐風藻」に、弓削皇子が、文武天皇の即位に
猛然と
反対したとある。その時にはまだ、嫡系の継承法ができていなかった。けれども、文武
以後は嫡系
原則の決まりができており、もめていない。今の女性天皇論の中で、明治の皇室
典範で皇位継承の
原則ができ、古い時代にはなかったと言われているが、考え直していただ
きたい。

――女性が天皇値なれない背景に、女性を「けがれている」と見る考え方の影響はないか。

 上田 女性が「けがれている」という思想が生まれたのは平安時代以降。例えば、伊勢神宮
や贺茂
神社の斎王は女性ではないか。

 半藤 現在の宮中では、新嘗祭には女性は参加しない決まりだ。昭和天皇の侍従長だった
入江相政
さんのような洒脱な人でも女性による宮中祭祀に否定的だった。

――イスラム世界では、今後も女王、女帝は出ないのだろうか。

 池内 君主制の国は一夫多妻。男の子がいないので女性が王になる、ということは今後も
ないだろ
う。しかし、インドネシアなどの民主化が進む国は、女性の大統領、首相はすでに登場
している。

――半藤さんは男性天皇論か。

 半藤 「万世一系」の天皇の存在は、近代日本人の基軸だった。戦後、平和憲法が基軸に
なった
が、それも最近は危うくなり、日本人は基軸を失ってしまっている。国民のために祈りを
ささげ続
ける天皇の存在は、今後再び、日本人の基軸たり得る。「万世一系」を守っていくため
には、男系
であった方がいい。

――天皇の継承は、皇室に任せるべきだと言う墓見もある。

 上田 皇族は国政に参与しないというのが現在の原則だが、皇族会議を開いて意見表明の
機会も設
けるべきでは。

 池内 天皇、皇室は時代に合わせて変わりつつも威信を保ち、国民から親愛の情を得てきた。
私た
ちの世代も、自分たちの子育てと愛子さまの成長を重ねて見ており、それが皇室への親近
感も生ん
でいる。心配しなくても、皇室への敬愛は失われないだろう。

 半藤 まだ、皇太子や各宮家の男性もお元気なのに、「今年中に結論を」と急いで議論をする
必要
があるのか。感情に流されず、もう少し慎重に検討すべきだ。

――女性天皇が誕生したら、一般家庭にどんな影響があるか。

 池内 新たな家庭のモデルになっていくことは間違いない。公的な場で、男性が女性に付き従
うと
いうことになるわけだから。一般の人たちも影響を受けずにいられない。

――女帝問題を論じる意義は。

 中西 今年中とか来年中とかいう問題ではなく、今、議論することは、非常に大きい意味がある。

世論調査でも86 %が女性天皇に賛成だ。国の基軸が失われてしまいかねない状態では、私たち
の国の
イメージが結びにくい。

 上田 過去の女帝は、あくまで男系の中での存在だ。女系の女帝はいまだかつて登場してい
ない。
過去にも日本に女帝がいるから女帝ができても不思議でない、という議論はあまりにも単
純過ぎる。
女帝の問題を掘り下げることで、日本文化のありようを究明していことが大事だ。

 半藤 今の皇室はあまりに開かれ過ぎていて、国民のミ ハー的な関心しか呼んでいない。
現在の
問題を論じることで、日本人が皇室にどのような思いを持ったらいいのか、もう一度考え直
す機会に
なればいいと思う。愛子さまがが可哀想だからとか、男女同権だからとか、真剣さを欠い
たまほで安易
に論じることはよくない。


―――――――――――――

上田さん
 日本史には、多くの女
王、女帝が登場する。有名なのは3世紀に登場す

る卑弥呼。そして、そのあとを継いだ台与だろう。5世紀には飯豊王女
一時的に大王になった
可能性が指摘されている。

 飛鳥·奈良時代では皇極斉明持統、元明,元正、孝謙,称徳の
各天皇が女帝だ。皇極と斉明、孝謙と称徳は同じ人なので6人,・8代。

8世紀は「女帝の世紀」と呼んでもいい。江戸時代にも明正後桜町と2
の女帝が即位した。

 日本の女王·女帝は卑弥呼のような、呪術や神事をつとめる「巫女王」か
ら、政治権力をふ
るう「女帝」へと変化した。しかし巫女王の伝統は消えた
わけではなく、
日照りの年、皇極の雨ごいが大雨をもたらしたという日本書
紀の記述もあ
る。「女性では皇室の神事、祭祀を務められない」という意見
は実態と
は異なる。

 文武の死後に即位した母の元明は、即位の際に位は先の天皇の嫡系

が継ぐ」という原則を明言。これを受けて孝謙は女性で初めての皇太子と

なり、父·聖武の譲位を受けて天皇になった。日本の女帝は、適当な男子

継承者が現れるまでの単なる「中継ぎ」の解釈だけでは理解できない。



中西さん

 皇室典範は、天皇は男系の男子に限ると定めている。現代の世界の王室

では、君主には性を問わないか、男性優先だが女性でもなれるとしている

ところが圧倒的に多い。

 なぜ、日本では男子に限るのか。時代をさかのぽると、卑弥呼は「まつ
ごと= 政治」より「ま
つり=祭祀」をつかさどる王だった。その後,王は次第
に政治上の「元
首」へと移行していき、女性の姿が消えていく。

 明治時代になると、天皇はすべての統治権を総攬する、あくまでも男性

的な存在になっていく。もっと柔らかく「象徴」だと考えるようになったのが
新憲法だ。

 日本の国家原理は、平安時代までは女性原理だった。しかし政権が武士

に移ってから、富国強兵をとなえた明治政府に至るまで、攻撃型の国をつ

くるという男性原理が貫いてきた。女帝問題を考えることは、日本の文化

立国を考えることとリンクしている。

 男系しか継承を認めない点も見直すべきだ。肉体的な血統は母系を中心

に考えるべきだというのが、現在の自然科学的な見方。文化的にも、入り

婿婚は家業を繁盛させるための大変な知恵だ。内親王は結婚すると皇室を

出る、という今のあり方は時代に合わない。


半藤さん
 近代の天皇は、なぜ男
子に限られたのか。

 西南戦争などの内戦を経て、政府の指示をいちいち仰いでいては、戦況

に即した対応ができないと考えた山県有朋,陸軍卿らは, 1878年、独自の判断
で軍を動かすシ
ステムとして「参謀本部」を設置した。

 その際、政府から独立して動くため、山県らは天皇を軍の「大元帥」とし、
その直接指揮をうけるという形にした。1882年に天皇が発した形で出された
「軍人勅論」
には「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」という一文があり、国民に
「軍のト
ップは天皇陛下」だと強く印象づけた。

 明治憲法と皇室典範が作られたのはこの後の1889年。天皇は男系の男子
に限るとされたの
は、軍の大元帥となるため当然のことだった。 

 今の皇室典範は国会の過半数の賛成で改正ができ、その内容に皇室の方

たちの意思は反映されない。首相が設置した素人同然の有識者会議の議論

だけで改正を進めていいのか、疑問が残る。


池内さん
 イスラム世界では、我
々にとっての仏典などとは全く違い、すべてコーランが
基準になってい
る。コーランは神が人間に下した啓示であり、法であるとされる。

 コーランでは、女性は男性のほぼ半分の権利を持つとされる。相続でも、
女性の権利は男性の
半分。裁判の証人としての地位も、男性1人に対して女性
2人で同等にな
る,我々の価値観では、女性の権利が制限されているようにも思
える。

 イスラム世界の権力継承は血縁ではなく、基本は軍事的な実力主義だ。

預言者ムハンマドと4人の後継者(カリフ)の関係も、血縁ではない番の有能な
司令官が後継
になるのが規範だ。こうした背景では、女性が正統な権力に加わ
ることは
あまりない。 

 そんなイスラム史上ただひとり、女帝がいる。1250年のエジプト・マムルーク朝
のシャジャ
ル·アッドウツルだ。

 彼女はスルタンの側室だったが、彼の死後、スルタンがまだ生きているかの
ように装い、軍の指
揮を執って第7次十字軍を撃退してしまう。実力主義の原則
により、彼女
はマムルークの軍団に推され、スルタンになった。後に夫に譲位す
るま
で、わずか80日間ではあったのだが。
  2005-3-12  朝日新聞
葛城氏⇒⇒⇒





仏教の始まり

 橿原市では、ちょっと見渡すだけでも立派葺きの住宅やお寺が目に入ってきます。見慣れた光景

ですが、実は588年に始まった飛鳥寺の造営まで、日本に瓦葺きの建物はありませんでした。
仏教伝来が重要なの
は宗教思想とともに、大陸文化が流入し、それまでの文化を大きく変容させた
ことにあ
ります。飛鳥寺に始まる瓦葺き建物の導入もその一つなのです。

 建物の屋根全体を瓦で葺きあげること自体が初めての試みでしたが、順調に進んだ背景に、
仏教を伝えた朝鮮半島
の百済からの技術的支援がありました。飛鳥寺の造営が始まる588年、百済
から仏舎
利(釈迦の遺骨)や僧侶6人、寺工(てらたくみ)2人、露盤博士1人、画工(えかき)1人とともに、
瓦博
4人が派遣されたという「日本書紀」の記述からも分かります。

 この記述が事実であることは、飛鳥寺創建時の瓦からも知ることができます。飛鳥寺を代表する
軒先瓦の一つに、
シンプルな花びらを十枚組み合わせた蓮華文軒丸瓦があります。これを同時代の
百済の
都、泗沘(しび)で使われた蓮華文軒丸瓦と比べると、その類似に驚きます。
飛鳥寺に葺かれた
創建時の瓦の文様や技術が、百済に源流をもつということは定説となっています。

 一方、飛鳥寺の瓦づくりには、古墳時代以来の須恵器(高温焼成の硬質の土器)の製作技術も使
われています。

前例のない瓦づくりの技術の受容には、須恵器工人が動員されたようで、創建瓦には灰色に硬く焼
きしまった須恵質
の瓦もあり、慣れない作業に従事した工人たちの苦労がしのばれます。
この時に初めて
つくられた屋根瓦は、1400年たった今も、奈良市の興寺極楽堂の屋根を守り続け

ています。

 蓮華文をあしらった瓦は、瓦づくりが始まった当初から寺院の軒先を飾ってきました。蓮華文は
仏教以前からあ
る文様ですが、古代インド、あるいは中国で仏教と結びつき、朝鮮半島を経由して
日本
にもたらされました。光明の象徴ともいわれる蓮華文は仏や仏教世界を荘厳(しょうごん・飾るこ

と)する文様として、正倉院に伝わる漆金箔絵盤をはじめ、仏像や絵画のいたるところにみることがで
きます。

 寺院の軒先瓦に蓮華文があしらわれているのも、この世の仏教世界を荘厳するためであった
とみてよいでしょう。

寺院内の仏の空間は様々な金属·ガラス製品や絵画のほか、緑色のうわぐすりをかけた磚
(せん・れんが)、せん仏、後に
は三彩などの焼き物も用いて厳かに飾られます。屋根瓦も寺院
そのものの荘厳具とし
て、仏教受容と一体的に導入されたと考えられます。やがて仏教が国家的宗教
となるに
したがい、蓮華文に飾られた瓦葺き建物は'宮殿建築としても採用されていくこととなるのです。

 美しい瓦屋根に彩られた飛鳥寺は、新たな宗教の始まりとともに、大陸文化の流入による新たな
時代の始まりを
するように、古代飛鳥の地に姿を現したのです。

   2013-12-13  朝日新聞 奈良文化財研究所都城発掘調査部研究員 森先一貴


 崇峻天皇元年(588年)、飛鳥寺の建立が始まったころ、まだ日本列島の各地では大きな古墳が造
られていまし
た。例えば、飛鳥寺を建てた蘇我馬子の墓は、その南方にある石舞台古墳と考えられて

います。1957年に奈良国立文化財研究所(当時)が行った飛鳥寺塔跡の発掘調査では、そのような
時代背景を反
映した、驚くべき品々が出土しました。塔心礎埋納品(とうしんそまいのうひん)で す。

 今でも寺には塔がありますが、塔は仏舎利、平たくえ は、おしゃかさまの遺骨を納めるための建物
です。「日
本書紀」には、飛鳥寺の造営に際して仏舎利を「刹(せつ)の柱の礎の中に置く」という記事が

あり、当然発掘にあたっても、その発見が期待されました。

 発掘が進むと、塔心礎中央の舎利孔(穴)に納められていた仏舎利と舎利容器は、建久7 (1196)年
の塔の焼
失後に掘り出され、新たな石櫃(せきひつ)に入れて再埋納されていることがわかりました。
しか
し、その時に掘り返されなかった心礎の周縁部分から、玉類、耳飾りといった装身具や武具·馬具
など、心柱を立て
る儀礼の際に埋納された品々が、当時のままの状態でみつかったのです。

 これらの装身具や武具·馬具については、発掘当初から同時期の古墳副葬品との共通性が指摘され
てきました。奈
良国立文化財研究所元所長で、飛鳥寺の発掘に携わった坪井清足さんも「まったく古

墳を掘っているのではないか、という感じがした」と当時の心境を書き記しています。玉類や耳飾りなど
装身具
の塔心礎への埋納は、最近、同時期の百済などでも確認されるようになり、必ずしも古墳祭祀
との関係だけで理解で
きるわけではなさそうですが、武具や馬具の埋納については東アジアにも類例
がな
く、これまで通り古墳祭祀との関係で理解した方がよさそうです。

 装身具も、百済などとまったく同じというわけではありません。例えば、その用途がよくわかっていな
かった「剣
菱形」の飾り金具については、藤ノ木古墳の発掘によって、日本独特の髪形である美豆良
(みずら)飾りの一部である可能性
が高まってきました。

 寺院の造営に関わる人々が納めたとみられるこれらの品々からは、日本初の本格的寺院の建立
に踏み切りながら
も、依然として大きな古墳を造りっづけた馬子ら当時の最高権力者たちの姿が浮
かびあ
がります。国家的な事業として進められた飛鳥寺の造営を契機として、日本列島各地で「古墳
から寺院へ」という動
きが始まります。武具や馬具という、およそ仏教儀礼には似つかわしくない品々
を含む
飛鳥寺の塔心礎埋納品は、大きな古墳を造っていた権力者たちに仏教が受容されていく当時
の状況を物語っているの
です。
  2013-12-20  朝日新聞
 奈良文化財研究所都城発掘調査部研究員 諫早直人

 蘇我馬子をはじめとする当時の政権中枢にあった人たちによって,飛鳥寺(法興寺)の建立が発願されたのは、用明
天皇 2(587)年のことでした。仏教はそれより少し前に伝わっていましたが、蘇我氏が政治の実権をにぎると社会の
安定をはかるために積極的に仏教を受容しました。

 崇峻天皇元(588)年、馬子は飛鳥の真神原(まがみのはら)の地を選び、長らく友好的な関係にあった朝鮮半島の
百済に技術的支援を求め、わが国初の本格的な寺院の造営に着手しました。百済からは、僧侶とともに仏舎利
(釈迦の遺骨)がもたらされ、瓦博士、寺工(てらたくみ)、画工(えかき)などの技術者がやってきました。
「日本書紀」は、飛鳥寺の完成を推古天皇4(596)年と記しますが、完成の時期については諸説あり、本尊の飛鳥大仏
ができあがった推古17 (609)年とみる説が有力です。いずれにせよ、初めて挑んだ大伽藍(寺院の建築物)の建立は
百済の指導を仰ぎ、国の総力をあげての一大プロジェクトでした。

 1956年から飛鳥寺の発掘調査が始まります。発掘の前には、寺の伽藍配置は、五重塔、金堂、講堂が一直線に

並ぶ四天王寺式の配置と考えられていましたが調査が進むにしたがい、金堂が五重塔の北側のみならず、東西にも

1棟ずつ建つ特異な形式の伽藍配置だったことが分かりました。中国や高句麗、新羅の要素を百済風に織り交ぜ、変

容させた配置と考えられており、一塔三金堂形式と呼ばれています。

 中央の金堂(中金堂)には、仏像づくりの名人である渡来人、鞍作止利(くらつくりのとり)が作った釈如来座像(飛鳥
大仏)が安置されました。その際のエピソードが日本書紀に記されています。完成した大仏を金堂に納めようとすると、
入り口よりも大仏の方が大きかったのです。これでは、完成したばかりの金堂の入り口を壊さなければなりませんが
止利の工夫で金堂を壊さずに中に納めることができたようで

す。飛鳥大仏は当初の姿をよくとどめ、1400年前に据えられた位置を動いていないことが分かっています。今飛鳥大仏
のある場所が創建時の中金堂にあたることになります。

 残念ながら、創建時の建物は中世までにすべて失われ、今は残っていません。15世紀には野原の中に大仏だけが

たたずんでいた様子が記録されています。でも、創建時の飛鳥寺の姿を断片的ながらも現在に伝えるものがありぼす。
瓦や創建当初の建築部材です。平城京への遷都とともに奈良に移った元興寺で、今も現役で用いられています。

 さらに、建物の基壇をつき固める版築の工法や基礎工事,礎石を据える方法など、随所に百済から導入された最先
端技術を垣間見ることができます。巨大な瓦葺きの木造建築、天高くそびえる五重塔、金色に輝く釈迦三尊像,朱塗り
の柱や緑の連子窓(れんじ)など、完成した飛鳥寺は、人々の目に、異国情緒あふれる別世界として映ったことでしょう。

 これ以降、日本各地に次々と寺院が建立されます。寺院の建設にたずさわる知識人や技術者が各地に生まれたこと

を意味しています。飛鳥寺の建立は、日本で最初の本格的寺院の建設にとどまらず、国内の仏教思想、文化、建築技

術が開花する一大契機となっのです。
  2013-12-6  朝日新聞(奈良文化財研究所企画調整部任期付研究員成田聖)





飛鳥・藤原の寺

 飛鳥寺の造営後、推古天皇 2 (594)年に仏教興隆の詔 がでると、寺院の建設は広が っていきました。
現在の明日香村一帯に
は、当時の建物を残す寺院はありませんが、発掘調査の成 果などにより、寺院
が立ち並
ぷ風景を思い浮かべることが できます。

 飛鳥寺は丘陵に囲まれた、真神原と呼ばれる狭い飛鳥盆地の真ん中に、そのきらびやかな姿を現します。
礎石上に
朱塗りの柱を立てた瓦葺きの建築は、地面に穴を掘って素木(しらき)の柱を立て、自然素材で屋

根を葺いたそれまでの建築とは全く異なるものでした。

 このような寺院の建立は、その後、飛鳥寺の周辺に広がっていきます。飛鳥の北方には、推古天皇の宮
に由来する
豊浦寺や 奥山廃寺、山田寺といった繁氏系氏族の寺院が建てられました。また東漢氏の檜隈寺
鞍作氏の坂田
寺、堅部使主氏(たてべのおみ)の立部寺、呉原忌寸氏(くれはらのいみき)の呉原寺といった
来系氏族による氏寺は、飛鳥寺の南方の丘陵地を中心に造られていきます。

 一方、天皇が発願した寺院に、百済大寺川原寺があります。百済大寺は飛鳥寺から約3キロ北東の
平野部に、飛鳥
寺をしのぐ堂塔をもつ大寺院として建立されました。川原寺は、7世紀後半に飛鳥寺南方の、
飛鳥川の西岸に造られ
ぼした。川原寺の堂塔の屋根には、大ぶりで華麗な複弁八弁蓮華文軒丸瓦が採用
され
最新の様式が取り入れられたようです。また、伽藍中心部から北にやや離れた場所では、鍛冶, 鋳造、
瓦窯などの
工房が存在することが発掘調査によって判明しました。寺院造営を支えた職人たちの活動の一端
をここに垣間見るこ
とができます。

 川原寺南方の丘陵地には、尼寺である橘寺が川原寺と向かい合うように造営されます。飛鳥寺の建つ狭い
盆地
の南端を、この二つの寺院が飾っていた風景は,現在のこの場所からも推し量ることができます。
そしてここから東
を眺めると、丘陵の中腹には現在と同じように岡寺の堂塔を望むことができたでしょう。

 こうした寺院造営にひとつの転機が訪れます。わが国初めての中国式都城である藤原の建設です。
国を護る宗教
として、都市計画に寺院が利用されるようになったのです。藤原京の都市計画にのっとって
建てられた代表的寺院
は、薬師寺(本薬師寺)と大官大寺です。天武天皇9(680年に発願された本薬師寺は、
藤原京の造営と並行し
て建設が進められたことが発掘調査で判明していぼす。

 また、小山廃寺(紀寺)藤原京の条坊に合わせてが造営されたと考えられています。こうして、寺院は
個々
の寺の景観という意味だけでなく、整然と造られた都市空間のなかのランドマークとしての意味を帯び、
新たな景観
をつくりだしました。

 飛鳥周辺に建てられた寺院について、「日本書紀」天武天皇9年の記事には「京内二十四寺」と記されて
います。
飛鳥寺が完成してから70年あまり、華やかな仏教文化と最新の建築技術で建てられた寺院は、
飛鳥の風景において欠
くことのできない存在となっていたと思います。
   2014-4-4  朝日新聞
 (奈良文化財研究所都城発掘調査部遺構研究室研究員 前川歩)






難波の宮と大化改新

 大阪城の南、中央大通に面したところに難波宮跡の史跡公園があります。上町台地の一等地をしめる難波宮跡は、

大化改新の実像をうかがわせる、かけがえのない遺跡です。

 645年中大兄皇子一派飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を斬殺し、権力を奪い取りました。『日本書紀』は、蘇我氏

の専横こそが宮廷クーデターの原因だったと述べますが、激動するアジア情勢に対応するため、権力集中が急がれた

のは疑いのないところです。

 孝徳天皇と中大兄皇子を両巨頭とする改新政権は、王族豪族を本拠地から引き離し、王権のもとに結集させる

ため、飛鳥を捨てて難波に移りました。大川の近くにあった子代屯倉(こしろのみやけ・小郡)が改修されて王宮となり、
新しい国家
体制の建設が さまれました。

 こうして大化改新が着々と進められていくなか、新国家にふさわしい王宮の建設が始まりました。それが652年

に完成した難波長柄豊碕宮です。難波宮跡の下層の建物群(前期難波宮)が難波長柄豊碕宮にあたることは、もはや

定説と言ってよいでしょう。

 宮殿の壮麗なさまは筆舌につくしがたい、とたたえられた難波宮は、たしかに飛鳥宮の数倍の規模をもつ王宮でし

た。中央には東西233m南北281mもの朝堂院があり、国家的な儀礼や政務が行われました。その北に天皇が暮ら
す内裏がありますが、朝
堂院に向かって飛びだした内裏前殿は、のちの大極殿と同じく、天皇が官人たちに君臨

するための建物だったのでしょう。

 朝堂院の北端にある東西二つの八角殿がたいへん目を引きますが、王宮では類例がないため、役割はわかって
いま
せん。さらに朝堂院の東では役所施設、内裏の西では倉庫群が見つかっています。大化改新とともに多くの
官人が生
み出され、新しい税が公民からしぼり取られるようになったことを、これらの建物はよく物語っています。

 難波長柄豊碕宮はまさしく大化改新の象徴であり、改新政権の身体ともいうべき施設でした。しかし、空前の巨大

王宮が使われたのは、ごく短期間にすぎません。653年、孝徳天皇と中大兄皇子が不和となり、政権が分裂した

ためです。皇子は王族·貴族官人たちを引き連れて飛鳥に戻り、難波には孝徳天皇が取り残されました。そして翌

年、失意の天皇は、難波宮内裏で死去します。飛鳥はふた倭国の政治的中心となって、斉明天皇のもとで中大兄

皇子が実権を握り、改新政治をさらに本格化させていくのです。
  2015-2-13  朝日新聞
 (京都大学文学研究科教授 吉川真司)








律令制と天皇

 天智天皇は、どのようにして律令体制を構築しようとしたのでしょうか。

 藤原鎌足の伝記「大織冠伝」には「帝令大臣撰述礼儀,刊定律令、通天人之性作朝廷之訓」とあり、近江令

が作られたとする見解も有力です。しかし、これは「帝、大臣をして礼儀を撰述せしむ。律令を刊定し、天人の
に通じて、朝廷の訓を作る」と読むのが正しく、『日本書紀』にも礼儀を定めたとあります。

 律令を斟酌した儀礼の整備は、654年の新羅の「理方府格60余条」の先例があります。天智朝でも、中国に
倣っ
た過程で律令体制整備の第一歩を踏み出そうとしたのでしょう。

その意味では、天智天皇を律令国家の創始者と見るのにやぶさかではありません。

 しかし、天智天皇は671年に46歳で崩御します。翌年には、弟の大海人皇子(天武天皇)と子の大友皇子
皇位
継承を争う壬申の乱が勃発します。奇跡的な勝利を収めて即位した天武天皇は、『万葉集』に「大王は神
にしませ
ば」と謳われるほどの君主権の伸長を得ます。天智朝にはまだ中央豪族の力が強く、改革が進展しな
かった状況を一
気に打破することができました。

 「天皇」という君主号の成立時期には推古朝説、天智朝説もありますが、「天皇」の和訓(日本よみ)はスメラミ

コトで、聖別された存在,現人神としての性格があり、天武こそ「天皇」を称した最初の君主だったと考えられます。
皇室神としての伊勢神宮
の奉祀も整備されます。

 中央官制の枠組みは、天智朝末に「六官」が成立しており、天武朝でもこれを引き継ぎますが、675年に部民制

を全廃し、諸豪族の官僚化を進め、天皇の官吏としての勤務評定の方式などを確立していきます。その集大成と
て.681年に飛鳥浄彻原令の編纂に着手し、684年の八色の姓では皇族の真人を頂点にカバネの新秩序をつく
ます。諸皇子にも冠位を授ける685年の「天武14年冠位制度」の実施などを通じて、天皇を中心とする国家を
構築
します。

 この680年代には、650年前後の新羅の方策を模した風俗の唐風化が進展します。男子の服装では、スカー

ト型の脛裳(はばきも)からズポン型の袴へ、女子に 垂髪(すいはつ)を結髪(けっぱつ)にし、馬に跨がって乗る
ことを
指示、伝統的な跪辯礼(きふくれい)を立礼に改めるなど、中国的律令国家の確立を目に見える形で提
しました。藤原京の造営に
も着手、683年には、最初の銅銭の富本銭を発行し、都市生活や貨幣使用の基礎を
くろうとしており、日本国号の成立も天武·持統朝と考えられますから、天武天皇こそ律令国家「日本」を築いた
物といえるでしょう。
  2015-3-20  朝日新聞
 (東洋大学文学部教授森公章)


 701年正月1日、藤原宮では元日朝賀の儀が挙行され、さまざまな(ばん・儀式で使われる旗)が樹立し、
新羅使
も列席するなか、文武天皇大極殿に出御します。

 奈良時代の正史である『続日本紀』は「文物の儀、ここに備われり」と評しており、この年には大宝律令が完成し

ています。威奈真人大村という役人の墓誌には「大宝元年を以て、律令初めて定まれり」とあり、この中級貴族の

生涯でもこれは特筆すべき事柄だったのでしょう。

 『日本書紀』には大化·白雉,朱鳥などの年号が記されています。しかし、難波宮西北の水溜り遺構や藤原宮跡出

土の木簡などには、いずれも干支(えと)で年紀(年代)が記されています。それらの存在·使用は不確実で、現在

の平成まで続く連続した年号の使用は、大宝元年を嚆矢(こうし)とするのです。

 天武天皇の後は、天智天皇の娘で皇后であった,持統天皇との間に生まれた草壁皇子皇位を継承する予定で、
その
即位を飾るものとして飛鳥浄御原令の完成が企図されていました。しかし、草壁皇子は28歳で死去します。
母である
持統天皇が即位し、夫の残した律令国家構築や条坊制に基づく藤原京遷都などを実現し、孫の文武
への継承を推進
していきます。

 大宝律令は「大略は浄御原朝庭を以て准正と為す」とあり、689年施行の浄御原令が基層になったようです。
だし、この段階では律はつくられておらず、大宝律令でも律の頒布は702年で、日本の社会·慣習とは異なる
唐律
の導入に苦労したことがわかります。

 大宝律令施行に際し、官名位号の改制を説明し、律令の編者である下毛野古麻呂(しもつけのこまろ)が新令
の内容を百官人に講説し、
道君首名(みちのきみおびとな)が大安寺で僧尼令を講義します。また、全国に使者

を派遣して新令による政務の施行を指示するなど、新制への移行に意を砕いています。

 大宝律令はほとんど伝来しておらず、教科書などでは大宝律令と養老律令には大きな差異がないと説明され
てい
すが、大宝律令は律6巻·令11巻、養老律令は律10巻。令10巻と、形式的に整備されています。編目名も
「官員令」
が「職員令」に、「選任令」「考仕令」が「選叙令」「考課令」に変更されます。養老令では「宮衛令」が
「軍防
令」から独立するなど、編目数にも変化があります。

 大宝元年にはまた、30余年ぶりの遣唐使が派遣され、藤原京から平城京への遷都など、大きな修正が試みら
れま
す。律令体制の運用についても唐の法学者に質問するなど、実地に学習を重ね、律令国家の完成·定着へ
の努力は
奈良時代を通じて続いていくのです。
  2015-3-27  朝日新聞 
(東洋大学文学部教授森公章)



飛鳥以前

 飛鳥時代の歴代の宮殿が営まれた伝飛鳥板蓋宮跡、蘇我氏の邸宅や嶋宮があったとされる島庄遺跡、九重塔がかつ

て威容を誇った大官大寺跡...。これらは飛鳥にあって、古代史を語るうえで欠かすことのできない遺跡です。しかし、実は
縄文時代の遺跡でも
ある。そのなかで、大官大寺跡で縄文時代の遺跡を発見した経緯は、飛鳥ならではの興味深いもの
です。

 現在、大官大寺の伽藍は南から中門、金堂、講堂の順に一直線に並び、回廊内の東に塔があることが判明していま

す。しかし、1970年代の発掘調査開始当初は、中門と講堂をつなぐ回廊のなかに、西に金堂、東に塔を配すると考えられて
いました。です
が、金堂推定地を発掘しても、金堂の遺構は確認できません。金堂を求めて調査を進めていくうちに、かわり
に縄
文時代中期の終わりから後期にかけての土坑(どこう・穴)や遺物がまとまって姿を現したのです。古代の遺跡がひしめ
く飛
鳥では、その下に埋もれた縄文時代の痕跡をたどることは容易ではありません。しかし、飛鳥の地にもこのように縄文人
は確かに息づいていま
した。

 縄文時代は、草創期から晩期までの六期に区分されています。奈良県の草創期から早期にかけての遺跡は、山間部

の谷地に営まれることが多く、飛鳥では明確な居住の痕跡はまだ確認できていません。

 最古の遺物は檜前脇田遺跡(ひのくまわきた)と飛鳥池遺跡から出土した、尖頭器と呼ばれる石槍です。

飛鳥池遺跡では木葉形尖頭器と有舌尖頭器とが出土し、両者とも先端部が欠けていました。狩りの際に折れてしまったの
でしょうか。獲物を仕留
めることができたのか、気になるところです。

 続いて、飛鳥における前期から中期前半の様相も不明な点が多く、藤原宮跡の周辺で前期末の土器、稲淵ムカンダ遺跡
で中期前半の土器がとも
にわずかに出土しているのみです。

 飛鳥の地で人間が居住した痕跡を明確に確認できるのは、中期後半以降です。奈良県内でも、この時期に遺跡が増加
するとともに、山間部か
ら低地へと集落の立地が変化します。狩猟採集を主とする生活から、河川や低湿地を積極的に利用
することで漁撈(ぎょろう)や
堅果類(けんか)の貯蔵などが可能になり、安定した定住生活を送れるようになりました。

 飛鳥では、中期末の土器がまとまって出土した大官大寺跡を皮切りに、後期には伝飛鳥板蓋宮跡、島庄遺跡、稲淵
ムカンダ遺跡など、多くの遺跡が飛鳥川の河岸段丘上に営まれるようになります。そのなかの稲淵ムカンダ遺跡からは、
網の重りとして使われ
とみられる切目石錘(きりめせきすい)が出土し、飛鳥川で漁撈が行われていた可能性があります。

 また、伝飛鳥板蓋宮跡では中央に炉をもつ竪穴住居が出土しました。西日本では後期になると関東地方の影響を受けた
土器が多くみられます
が、飛鳥でもそうした土器を確認できます。これらの遺は晩期まで断続的に継続し、島庄遺跡では、
晩期末の土器
棺墓が出土しています。

 このように発掘調査で時折出てくる縄文人の足跡から、飛鳥の自然を巧みに利用した縄文時代の豊かな生活や遠隔
との交流を垣間見ることが
できます。
  2015-7-3  朝日新聞
 (奈良文化財研究所都城発掘調査部考古第三研究室研究員石田由紀子)




二見の海

 その海の 光景がお気に召した天照大神が「常世から波が打ち寄せるここに居たい」として、選んだとされる土地である。

 伊勢の皇大神宮(内宮)に沿って流れる五十鈴川は二見町の手前でふたつに分かれて伊勢湾にそそぐ。西側の本流は
の支流,南满る五十鈴川派川が元の本流だというからややこしい。

 『倭姫命世記』という、鎌倉時代にできたといわれる文書によれば、天照大神の鎮座地を求めて巡った垂仁天皇の皇女

倭姫は船で二見の浜にやってきた。そのあたりは河口の湿地だったからだろうか、倭姫は五十鈴川をさかのぼった。
んな土地らしく二見町には、倭姫がらみの伝承地や神社がたくさんある。

 古代のヒーロー倭建命(日本武尊)と倭比売(倭姫)は甥と叔母とされる。西国から戻ってすぐ父景行天皇に東征を命じら
れた倭建は「天皇は私など死ねと思
っておられるのか」と叔母に愚痴ったと伝える。『古事記』の名場面だ。

 ふたりの名前には共通点がある。西に東に大活躍した日本武尊伝説は、ヤマト王権の勢力拡大に携わった複数の武人
ちをひとりにまとめた英雄譚であろう。

一方、倭姫を「大和のお姫様」と解釈すれば、天照大神に仕えた巫女の一般名詞かもしれない。

 伊勢市への合併によって、二見総合支所になった旧町役場で濱千代日出雄氏に会った。元役場の職員で、地元の区長
夫婦岩で名高い二見興玉神社の総代などを歴任した人だ。

 濱千代氏は江戸時代の享保年間の作製という古地図の復刻版を机に広げた。「宮川以東神領で図」とあるように、内
と豊受大神宮(外宮)周辺の地は当時
伊勢神宮の領地で、二見の郷民は年貢を免除された代わりに神宮に奉仕した。

 古地図は、二見町の観光名所である夫婦岩を「立石(たていし)」と記している。その少し沖合に、「興玉石はここにある」
と注記
されているのが目を引く。興玉石は神話で天孫の降臨を出迎えたとされる猿田彦ゆかりの神石で、大小の岩に
注連縄(しめなわ)を渡
した夫婦岩はその神石の鳥居の役割をしているそうだ。

 いまは興玉石を見ることができない。安政元年(1854)の大地震がもたらした津波で水面下に沈んでしまったからだ。
毎年5月にその場所で神に供える海
藻を採る藻刈神事があるという。

 享保年間の古地図には「興玉之森」と書かれたところもある。内宮の手前の五十鈴川沿いの場所である。「海の興玉」

と「森の興玉」はどんな関係にあるのだろう。興味を覚え、濱千代氏に案内してもらった。

 そこに向かう川岸に、御座石といわれる石がある。「お座り石」ともいう。倭姫が溯上の途中に腰を下ろして休んだ石
そうだ。対岸にあり、水位が上がると
隠れてしまうとあってよく見えなかった。

 護岸工事の堤防が、そのあたりで少し湾曲している。工事を始めてから「『お座り石』が壊されてしまう」と騒ぎになり、
設計変更したというから面白い。

 「興玉之森」は、伊勢神宮に縁の深い摂社である宇治山田神社の社叢だった。小さいとはいえ造りは内宮と同じで、社

の左は空き地になっている。遷宮があるのだろう。18世紀末に編さんされた『伊勢参宮名所図会』には「興玉森」の説明

が出ている。神宮の地を譲った猿田彦神が退き、住んだところとある。猿田彦はこのあたりの地主だったのだろうか。

 二見の浜に船でやってきた倭姫を迎えた佐見都日女命は、「ここはどこか」との倭姫の質問に答えず、かたまった塩で

ある堅塩を献上したという。無口な女性だったらしい。その佐見都日女を祭神とする堅田神社は二見総合支所のすぐそば

にあった。内宮の摂社で、やはり遷宮の空き地をもつ。

 佐見都日女の由来にそって、伊勢神宮で用いる塩はずっと二見の地で作られてきた。海水をくむ「御塩浜」、それを荒

塩にしてさらに堅塩に焼き固める「御塩殿」,二見町を回っているとその浮世離れした様相に、古代をさまよっているよ
な不思議な気分になる。
  2009-5-22  朝日新聞(夕刊)




蘇我4代

 敏達13(584)年、蘇我馬は朝鮮半島の百済から伝わった石仏を譲り受け、石川の自宅を精舎(仏殿)としてまつりました。
蘇我氏の仏教支
持宣言です。精舎の候補地は、橿原市石川町の小字ウラン坊です。翌年、馬子は大野丘の北に塔を建てま
すが
仏派の政敵、物部守屋が火を放ちます。塔の伝承地は橿原市和田にある土壇とされましたが、発掘の結果、7世紀後
の塔跡でした。その後、植
山古墳(橿原市五条野町)の調査で、大野丘が植山古墳周辺だったことが分かったのですが、
それでも塔がどこに
あったのかは分からないままです。

 大阪府八尾市の渋川の戦いで物部守屋に勝った馬子は、飛鳥に大寺を建てます.その少し前、百済では威徳王が錦江岸に、
「王興寺」を建てま
した。それに倣ったのでしょうか。馬子は自らの建てる寺に、仏法の繁栄を願って「法興寺」と名付けます。
百済
は、寺を建てる先端技術のプロジェクトチームを派遣しました。瓦博士らが法興寺(鳥寺)に着くと、東の丘の瓦の窯から
煙が上がりました。

仏像を安置する須弥壇には、兵庫県の竜山石を運んできました。柱石と瓦を使い、先進文化の粋を集めた未知の建設工事で
した。

 593年、百済服を着た馬子は石舞台古墳の西側の嶋の邸宅から、推古天皇は豊浦の新宮から飛鳥寺に到着。厳粛な読経の
中、塔の中心柱を受
ける地下3対の心礎の中央に仏舎利を納めました。馬子は渋川の戦で武装した鎧などを心柱のそばに置
きました。そ
びえる塔に人々は驚きの声をあげたでしょう。現代の東京スカイツリーどころではありませんでした。

 1956年に飛鳥寺跡を発掘すると、塔の東西からも金堂が見つかりました。初期寺院の仏殿は南北の直線に配置されると考え
られてきました
が、日本最古の本格寺院の飛鳥寺は、塔を中心に品字形に金堂を配置する「三金堂伽藍」でした。当初は高句
麗の
清岩里廃寺がモデルとされほしたが、最近 百済の王興寺や新羅の芬皇寺などでも三金堂伽藍だった可能性も指摘さ
ています。乙巳の変(大化の
改新)で入鹿が殺されると、大兄皇子は飛鳥寺西門に陣を構え、甘樫丘の蝦夷の館と向き合い
ます。馬子が建立
し、子の蝦夷の終焉を見届けた悲運の飛鳥寺となりました。

 さて、入鹿のいとこ、石川麻呂は、山田寺(桜井市山田)を建てる途中に入鹿暗殺の計画に加わります。娘を中大兄皇子に嫁
がせ、結束を固
めます。大化の新政府で右大臣に就きぼしたが649年に中大兄皇子暗殺計画の被疑者とされ、山田寺で自害
しま
した。

 その後、しばらくたって、孫のウノ皇女(持統天皇)が、祖父の冤罪の払拭と菩提を弔い、講堂に丈六三尊仏をまつって伽藍を
完成させま
す。1982年、その東面回廊が倒れたままの姿で発掘されたのです。
  2013-6-7  朝日新聞
(京都橘大名誉教授猪熊兼勝)


 推古20 (612)年、推古天皇は、母の堅塩媛(かたし)の柩を、父の欽明天皇陵に追葬しました。欽明天皇は6人の女性を妻に

迎え、25人の皇子皇女がいました。欽明天皇の妻となった堅塩媛と小姉君はいずれも蘇我稲目の娘で、馬子と境部摩理勢と
はきょうだいでした。

 欽明陵の北に特設した軽の広場で、追葬の式典が催されました。推古天皇や皇子、馬子が列席し、天皇と馬子の弔辞が読
まれぼした。玄室に1
万5千点の副葬品を供えたとありぼす。蘇我氏出身の天皇の母を正当化し、蘇我氏の権勢を誇示する
大イベントでした。

 1991、近鉄岡寺駅の東にある見瀬丸山古墳(橿原市五条野町)の石室閉塞部が開き、近くの会社員が石室の内部を撮影し
ました。そのカ
ラーフィルムには巨大な横穴式石室の玄室手前に6世紀後半の、奥壁沿いに7世紀前半の家形石棺が写って
いまし
た。私は大変な衝撃を受けました。「日本書紀」の記述そのままに映っていたからです。全長331mの大前方後円墳は
欽明天皇陵にふさわし
いのです。

 628年に推古天皇は亡くなります。遺言によって、大野丘にある、先立たれた息子・竹田皇子の墓に追葬されました。2000年、
見瀬丸山
古墳の東約200mの植山古で、東西に並ぶ二つの横穴式石室を橿原市が調査しました。東の石室に6世紀末の空

の家形石棺、西の石室には石棺はなく、玄室入り口に寺院建築のような扉を開閉する敷石を設けていました。

 植山古墳を竹田皇子の大野丘墓とすれば、後に大阪府太子町付近に改葬されたとする「古事記」「延喜式」の記載と、
宮内庁指定の推古天皇陵
(山田高塚古墳、太子町)との矛盾はありません。大野丘甘樫丘の西端にあたります。欽明天皇、
竹田皇子、堅
塩媛、推古天皇の順に埋葬され、見瀬丸山古墳と植山古墳は一体だったのでしょう。

 堅塩媛の妹の小姉君は、欽明天皇との間に4人の皇子と1人の皇女を産みました。1985年、藤ノ木古墳(斑鳩町)の横穴式
石室から朱塗り
の家形石棺が見つかり、2人の合葬墓だったことが分かりました。1体は人骨から20歳代の男性。もう1体は
くるぷ
しの細骨から男性と推定されましたが、女性用の取っ手付きの鞍が出土し、私は男女の合葬墓と考えます。

 天皇家に嫁いだ蘇我氏の娘は、息子である天皇や皇子と合葬されています。黄泉の世界まで蘇我氏の威力を残そうとした
のでしょうか。とすれ
ば、藤ノ木古墳の豪華な副葬品から見て、小姉君とその息子の茨城皇子か、葛城皇子の合葬墓と思い
ます。
  2013-6-14  朝日新聞
(京都橘大名誉教授猪熊兼勝)


 推古34 (626)年5月、蘇我馬子は桃原の嶋の大邸宅(明日香村の島庄遺跡)で死にます。その約2年後。推古天皇が亡くなり、
後継者問題
が浮上します。馬子の末弟で、一族の長老の境部摩理勢が、聖徳太子の子の山背大兄皇子を推し、田村皇子
(
舒明天皇)を推す本宗家のおいの蝦夷と鋭く対立しました。

 桃原の邸宅の東で、亡き馬子のための大墓(のちの石舞台古墳か)を建造中のことでした。各豪族から集められた人たちが
摩理勢の指揮の下に
働いていました。摩理勢は蝦夷から、次の天皇が田村皇子に決まったと知らされます。摩理勢は憤激の
中、作業場を
壊し、退去しました。この後、蝦夷は摩理勢を殺すことになるのです。「日本書紀」に描かれた蘇我氏内部の権力

抗争の生々しい記述です。

 近年、馬子が葬られたとされる石舞台古墳の周辺から、建物群の柱穴が発掘されています。中世の記載ですが、馬子の
墓前には御霊屋があり、
太子にぬかずく馬子を描いた絵画が掛けられていたようです。室町時代に農地拡張のため墳丘の
上段の盛り土が除去
され、方形の周濠も埋められます。江戸時代の「西国三十三所名所図会」には、石舞台の脇で稲刈りを
する農夫の挿
絵がありますが、露出した石組みから造墓途中のイメージも想像できます。

 ちょうど80年前の1933年の発掘調査で墳丘の川原石の落下状況から、上円下方墳とされました。縦長の玄室は合葬が司能
です。馬子の妻は
皮肉にも、宿敵だった物部守屋の妹です。2人は合葬されたのでしょうか。御霊屋の所在は分からないまま
です。

 栄華を誇った蘇我氏も645年の乙巳の変で入鹿が殺され、蝦夷も甘樫丘で自害。炎の中、一族の本宗家は消滅します。
長い間、蝦夷の邸宅の
所在地は分かりませんでしたが、2005年、国営飛鳥歴史公園の整備に先立つ調査で痕跡を捉えました。
今も作業
服姿の「刑事コロンボ」たちの発掘が続いていますが、中心部には至っていません。

 蝦夷の壮絶な最後の地は、見晴らしの良い甘樫丘の展望台付近のはずです。蝦夷は眼下で起こった異変に気付いていたか
もしれません。飛鳥の
創造者に対し、葬儀と埋葬は許されました。けれど、生前に造営していた葛城の寿墓ヘの埋葬は許され
ませんでした。

 最近、甘樫丘の西南部の菖蒲池古墳が調査され, 7世紀中葉から後半の築造と判明しました。横穴式石室の内部は石の隙間
をしっくいで補充
し、木造家屋を模した二つの石棺の内壁には漆を厚く塗っていました。古墳の年代と立派な石棺から、蝦夷と
入鹿の
墓の可能性もあると思っています。飛鳥寺の僧たちは、どんな気持ちで創建家の葬儀に臨んだのでしょうか。
  2013-6-21  朝日新聞
 (京都橘大名誉教授猪熊兼勝) 





飛鳥の古墳

 飛鳥は古墳の宝庫です。お寺や宮殿遺跡、謎に満ちた石像物に目を奪われがちですが、観光スポットの石舞台古墳(明日香村)、
壁画古
墳で有名な高松塚古墳キトラ古墳斉明天皇陵であることが有力視される牽牛子塚古など枚挙にいとまがありません。
鬼が通行人を捕らえて
「俎」で調理し、「雪隠」で用を足したとの伝承が残る俎·雪隠も、もとは二つが組み合わさって古墳の石室
をな
していたものです。

 飛鳥の古墳には、様々な形があります。五条野丸山古墳(橿原市)や平田梅山古墳(明日香村、現・欽 明天皇)は、3世紀から続く
鍵穴
形をした前方後円墳です。両古墳とも王権中枢部で築かれた最後の前方後円墳とみられます。飛鳥時代に入るとともに前方後
円墳は築か
れなくなりますが、その後も古墳は、方墳や円墳、八角墳に形を変え、規模を縮小させながらも築造は続きました。

 研究者の多くは、飛鳥時代の古墳を「終末期古墳」と呼びます。その名称は、1972年の高松塚古墳の壁画発見をきっかけに広まり
ました。
規模は小さくとも、歴史的意義を古代国家が完成に向かう過程の中で正しく評価しょうとする意図が込められていました。

 古墳が小規模になる背景に「薄葬化」という現象がありぼす。飛鳥時代後半には墳丘や埋葬施設、副葬品の内容が簡素になります。
「日本書
紀」に記されている「大化薄葬令」との関係が読み取られてきました。この法令自体の存在や実効性を疑う意見もありますが、
飛鳥時代に葬送の
観念や方法に大きな変化が生じたことは間違いありません。

 飛鳥の諸宮殿や藤原京を見下ろす南側の丘陵部に、集中的に築かれる点も飛鳥の古墳の特徴です。都の郊外に天皇皇族クラス
の古墳を計画的
に配置する点は、中国の皇帝陵にならった可能性があります。天武持統両天皇が合葬された野口王墓古墳は、
藤原
京の朱雀大路の南の延長線上に正確に築かれています。古墳づくりが、藤原京の設計と一体的に計画された証拠です。

 大小さまざまな谷が入り組む京郊外の丘陵部は、谷の奥まった場所を好んで古墳をつくる、中国伝統の風水思想にもマッチしてい
ます。近
年の発掘調査では、古墳づくりに大陸由来の高度な技術が用いられた様子も鮮明になっていぼす。海を越えて渡ってきた
最先端の知識や技術が投
入されたのです。

 飛鳥の古墳の最大の魅力は、「日本書紀」に名を残した人物を被葬者に思い浮かべることができる点です。日本の古墳で墓誌が残
されること
はまれで、被葬者を特定できるケースは多くありませんが、飛鳥の古墳には古墳の特徴と文献の内容を整合的に読み解く
ことで被葬者がほぼ確
実になった例がいくつか存在します。7世紀の中心舞台だった飛鳥の古墳ならではです。
  2013-10-4  朝日新聞
 奈良文化財研究所都城発掘調査部研究員 廣瀬覚




達陀松明(だったんたいまつ)

 9日、達陀松明が仕上げられた。12~14日の後夜(ごや)の法要である達陀の行事に使う、長さ2m余りの松明3本。10人

の童子が半日がかりで取り組んだ。達陀は、火天役の練行衆(こもりの僧)が松明を引いて二月堂内陣を回る。正面に来る
と礼堂に向かって松明
を突き出し、水天役の僧とともに踊り跳ねるしぐさを繰り返す。勢いよく燃える松明は、本行終盤の
高揚感をさら
に高める。

 長さ8mの籠松明に比べれば小ぶりだが、構造は複雑。割り竹に数本の割り木をフジづるでぐるぐる巻きに縛り付けて、
点火部の芯とする。本
体の竹の先端を六つに割り開き、真ん中にこの芯をつっこむ。「打ち込み」と呼ぶ割り木数十本を芯
のフジづるに打
ち込んで灯火部にし、全体を化粧板で覆ってほぼ完成。大きな花のような灯火部にはこの後、木の枝を小
さな花型に
削った「ケズリカケ」を何本もさして整える。

 ほとんど竹と木、つるだけで造る達陀松明は、燃やすのがもったいないと思えるほど美しい。童子も、縦に割り裂いたつる
の内側、繊維部分が
表からは見えないようにしたり、何カ所もあるつるの結び目を一直線に並べたり、細部にこだわってい
た。

 毎夜午後8時ごろから営まれる初夜の法要で、世界平和や病気平癒の祈りに加え、100年に一度とさえ菖われる世界的
な経済危機からの脱却
を祈る祈願文が読み上げられている。

 「諷誦文(ふじゅもん)」と言い、祈りの趣旨を本尊の十一面観音菩薩に表明する作法だ。11人の練行衆(こもりの僧)の
うち
総リーダーである大導師の狹川普文·北林院住職が読み上げる。5日夜.狹川さんは二月堂内陣の自席に正座し「世界
規模たる経済危機」
について言及。他の日には「勤労の意欲あれど、その路見いだせず」などと述べ、社会の現状を嘆く
言葉を約
5分間の諷誦文に盛り込んだ。"

 狹川さんは昨年も大導師を務め、地球環境の悪化などについて述べた。諷誦文は長年伝わる基本的な型があるが、

戦後、時事的な問題を訴えるパターンが登場するようになった。核兵器の廃絶、阪神大震災などの犠牲者追善、ペル
大使館占拠事件の解決など
が登場している。

 狹川さんは「広く一般に公開しているものでないので、取材は遠慮します」と控えめに語る。95年に阪神大震災を取りあげた
森本公誠長老は
1250年以上続くお水取りは主に、昔に決められた作法を繰り返している。ただ、人々の願いは時代に応
じて変
わるもの。それを観音さまに訴えるのも大導師の大事な役目なのです」と話す。
  2009-3-10  朝日新聞






7世紀の木簡

 2001年、藤原宮のすぐ南側から、1万3千点近いが出土しました。701(大宝元)年と702年を中

心とする木簡群で、まさに1300年後の大発見です。

 木簡は、衛門府の本庁によって廃棄されたもの。衛門府とは、藤原宮の宮城門などの警備にあた
った役所です。大
宝元年は大宝令が施行された年だけあって、新たな法典が発布されたことの影響
を探る
上で、興味深い木簡が多く含まれています。

 そのひとつに、藤原宮から物品を搬出する際に、通行証として使われた「門牓木簡(もんぼう)」が

あります。大宝令によると、物品の搬出を希望する官司は、中務省(なかつかさ)に申請して、「門牓」

を発行してもらうことになっていました。中務省が独自に門牓を作成するのかといえば、そうではあり
ません。中
務省に送った門牓申請の木簡の余白に、中務省が一筆加えることで、黒木簡に変身さ

せたことが新たに判明しました。なかなか合理的ですね。

 こうした門牓木簡のなかに、高級繊維製品である紵(ちょ・麻布)や羅(絹布)を購入するための費用
として、布や
糸を搬出したものがあります。その際、わざわざ銀や布を媒介して、等価値となる布
糸の数量を算出していま
す。ここに富本銭が登場しないのは、当時あまり流通していなかったから
でしょう。

 門牓木簡には通過する宮城門が指定されています。通過時に門牓木簡は回収され、孔(あな)

をあけて紐を通し、複数枚を束ねました。各宮城門では、これをもとに通過記録を作成し、衛門府の
本庁へ送り届け
たのです。このとき、通過記録の根拠となる回収した門牓木簡も添え、本庁で厳密な
ェックができるようにしています。

 しかし、わずか数年で、中務省は門牓の発給に直接関与しなくなり、宮城門で回収された門牓木簡
も本庁に送られ
なくなりました。慶雲年間(704~708年、大宝律令の施行にともなう矛盾が露呈して、
軌道修正が試みら
れますが、門牓制の制度変更もその一つと思われます。

 大宝律令は、 日本初となる律(刑法)と令(行政法)の備わった体系的法典です。繰り返し講説したり、
官職·位
階·衣服の制度から先行施行したり、律よりも令の施行を優先させたり、各種儀礼とリンクさせ
たりするなど、大宝
律令を浸透させるための多大な労力が費やされました。門牓制度を厳密に運用
しようと
意気込む役人の姿も、こうした時代的風潮があってこそでしょう。

 木簡の表記レベルでも、701年を境に「評」から「郡」に表記がきれいに変わるなど、その徹底ぶりに
は驚かさ
れます。「評」は朝鮮系の用字,「郡」は中国系の用字です。7世紀の木簡をみると、朝鮮半島
的な要素が随所に認
められほす。7世紀にも遣隋使遣唐使は派遣されていますが、文明を享受する
ための
強力なルートは、朝鮮半島であったように感じられてなりません。それが701年に大きく転換しま
す。この年は約
30年ぶりとなる遣唐使も任命されました。このときの遣唐使は「倭」から「日本」への

国名変更を伝えるという重要な役目も担っていました。新たな時代の始まりです。
  2015-9-11  朝日新聞
(大阪大学大学院文学研究科准教授市大樹)

 木簡は文字の書かれた木片ですが、日本国内だけで38万点以上も出土しています。

 年紀の書かれた日本最古の木簡は、難波宮跡(大阪市)出土の「戊申年」(大化4年、648年)木簡です。
難波宮跡は645年に始まる「大化改新」の舞台でした。年紀が書かれていなくても一緒に出土した土器
などの年代から、およその時期のわかる木簡があり、少なくとも7世紀前半まで遡ります。6世紀以前に
も木簡はあったはずですが、その使用がかなり限られていたようで、確実な出土事例はありません。

 このように日本では、7世紀、飛鳥時代になって木簡の用が本格化しました。とくに天武天皇(在位673年
-686年の時代は目覚ましく、木簡の出土点数が爆発的に増加します。日本古代国家と連動しながら、
木簡を使用する機,会が増えていったのです。

 ちなみに、朝鮮半島では複数の6世紀の木簡がみつかっています。中国にいたっては、少なくとも紀元
前3世紀まで遡ります。

 中国といえば、竹簡を思い浮かべる読者も多いでしょう。日本では、たくさんの竹が生えているにもかか
わらず、竹簡はみつかっていません。不思議だと思いませんか。その理由ですが、紙が発明されると、
竹簡は徐々に紙へと置き換わったからです。

 中国では、竹簡は細長く加工した竹を複数用意し、スダレのように紐でつないで使いました。竹をつな
げば、文字は無限に書けます。紙の場合も同じですね。これに対し、木簡は基本的に単体で用いられ、
どうしても文字数は制限されます。

 日本で木簡が使用された時代は、紙と木が主要な書写材料となっており、竹簡を使う必然性がなかっ
たのです。

 当時、木と紙の特性を生かして、使い分けられました。木の場合、削れば何度も再使用できる、頑丈
なため持ち運んでも壊れにくい、並び替えが容易で情報処理に便利、紙よりも安価、などの利点がりま
した。

 その一方で、文字数に制限があり、印を捺して権威づけすることもできず、改竄の恐れもあり、おのず
と軽微な内容となります。電子メールでの連絡、宅配便のタグシール、紙切れのメモ書き、などを想像し
てください。

 木簡は、最後はゴミとしててられました。後世に何かメッセージを残すために作らた史料、たとえば
「日本書
だなどと決定的に違うところです。当時の人にとってはコミにすぎませんが、私たちにとっては
貴重な宝物です。
  2015-7-31朝日新聞(大阪大学大学院文学研究科准教授 市大樹)



継体大王の母の墓か

  福井県越前町の町織田文化歴史館の堀大介学芸員が「継体大王と越前·若狭の古墳」のテーマで講演し   

た。6世紀初めに在位した継体大王は、その出自や即位の経緯などに謎が多いとされる。日本書紀は父の
主人王(ひこうし)が福井県出身の振媛を迎え入れ、2人の間に生まれた継体大王は振媛の実家で成長
したと記す。堀さ
んは、県内に築かれた古墳の詳しい分析から振媛の足跡に迫った。

山上に首長の墓

 県内北部では4~6世紀中ごろに10基程度の主要な古墳が築かれていくが地域を代表する首長の墓
山上にも築かれたことが
福井県の特徴とされる。このうちで堀さんが注目するのは、標高273mの山上

に築かれた、福井県永平寺町の二本松山古墳(5世紀末)だ。全長約89mの前方後円墳とされ、鍍金と鍍銀

の冠や眉庇付冑(まびさしつきかぶと)、短甲など豪華な副葬品で知られる。

江戸時代と明治時代に1基ずつ石棺が見つかったと伝えられ、複数の被葬者の眠る墓との見方が強い。


副葬品だけの棺

 だが、堀さんは二つの石棺のうち、人骨が見つかったのは1つしかない点に注目する。副葬品しか残って

いないのは、最初から遺体が埋葬されなかったためではないかと想定。さらに、副葬品と埴輪の年代が異な

る点なども重視し、古墳が造りなおされた可能性を披露。「継体大王の父彦主人王は早世したとみられ、実

家に戻った振媛は、亡き彦主人王のために円墳を造って遺品を弔った。その後前方後円墳に造り替えら

れ、振媛が葬られたのでは」と述べ、二本松山古墳の被葬者を振媛とみる考えを示した。

福井県では渡来系の遺物も多い。越前町の番城谷山5号墳で出土し、朝鮮半島の新羅系とみられる陶質土

器の甕(かめ)を紹介。「福井では新羅系の土器の出土も多く、百済よりも新羅とのつながりが深かったの
かも」
とみる。


尾張連氏との関係

 小栗明彦·橿考研付属博物館主任学芸員は「継体大王と尾張型埴輪」と題して講演。継体大王は即位前、

現在の愛知県を拠点とした尾張連草香の娘丶目子媛(めのこひめ)を妃とした。このことから継体と尾張連
氏との結びつき
が指摘されてきた。

 小栗さんは「尾張系円筒埴輪」の特徴を挙げ、各地に波及した尾張系の分布とその形の類型化を試みた。

「この埴輪の類型から、尾張連氏は自らのつながりの濃かった地域にルーツを持つ継体大王を擁立し、
他の
擁立勢力とも一時的に関係を結んだことが見えてきた」と分析した。
  2015-6-12  朝日新聞 塚本和人




降臨

 北端から韓国の灯が見える長崎県の対馬。 大陸文化の中継点になったその島で、天照大神と並んで天皇家の皇祖神と

されている高皇産霊尊が、大和に祀られるようになった伝承の源流をさぐった。

『先代旧事だ紀』によれば、高皇産霊は物部一族の祖先神・饒速日尊のおじいさんにあたる。こんどは,その「孫」の足跡を
追った。

 『旧事本紀』は、 天磐船に乗った饒速日が河内国の哮峯(いかるのみね)に天降り、次いで大倭国の鳥見白庭山に移った、
と記してい
る。天上から降りたという場所にあるのが、大阪府交野市の磐船神社だ。

 国道168号が奈良県生駒市から交野市に入るあたりは、天野川沿いで、ちょっとした渓谷地帯である。そこにある磐
神社には、「古代」を感じさせる独特
の雰囲気が漂う。

 拝殿の裏の巨岩がまず目に入る。高さ12mという船形の大岩で、これがご神体になっている。なるほど「磐船」だ。ここは
肩野物部氏の勢力圏だったという。
祖先が大岩に乗り、このあたりに降臨したという伝承も、「さもありなん」と思った。

 巨岩はご神体だけではない。境内には「岩窟めぐり」ができるほどたくさんある。社務所で拝観料を払って白衣を借り、
拝殿の横から岩場にもぐった。
そこは川の上に大石がごろごろ重なり合う荒々しい空間だ。裏山に抜ける「岩窟めぐり」は、
冬場や雨の後は滑りやす
く危険なので閉鎖するという。私が拝観したとき、岩は乾いていたが、木の板を渡る勇気がなくて
途中で引き返した。

 「天照の孫の瓊瓊杵尊にせよ、饒速日尊にせよ、空からやってきたのではない。ヤマト王権や物部氏も、九州方面からの
一族の移動や進攻を、のちに『降
臨』と称した」という説がある。興味深い筋書きだ。

 それはともかく、いったん地上に降り、饒速日が移動したという「鳥見白庭山」の伝承地は、磐船神社からさほど遠くない
奈良県生駒市にあった。そこは
日本磐余彦(神武天皇)の宿敵、長髄彦の本拠地と伝えられている土地でもある。
饒速日は長髄彦の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)と結
婚。長髄彦の本拠地に落ち着き、大和盆地に「にらみ」をきかした
というのは筋
が通っている。

 近くには「饒速日の墓」もあるそうだ。生駒民俗会の吉田伊佐夫氏に聞くと、丘陵の中でわかりにくいという。そこで地元の
郷土史に詳しい正木榮氏に案
内をお願いした。正木氏は大正15年生まれ博識である。
 現地は矢田丘陵の北部に位置してい る。運動公園の一角に車を止め、このお2人と一緒に雑木林に踏み込んだ。15分

ほど歩いて、赤と白に染め分けた送電塔の下、「饒速日命墳墓」と彫った石柱の場所にたどりついた。大正時代に大阪の

歴史愛好家グループが立てたそうだ。背後に小石に覆われた土まんじゅうがある。石柱の前には榊や酒の空き瓶が置か

れていた。

 『この丘をくだると白庭台の住宅地。そこが長髄彦の根拠地でした。そこから眺めて南に面した丘の上に、亡くなった

妹の婿を葬ったのでしょう」と正木さんは言う。

 長髄彦は登美毘古とも呼ばれた,白庭台の東には、現代の「登美ケ丘」の住宅地が広がる。南北に富雄川が流れる。

「ゆかりの地」の雰囲気は十分である。

 正木さんに「奈良県の桜井市にも鳥見山や等弥神社(とみ)があり、候補地といわれていますが……」と水を向けてみた。
とこ
ろが、「伝承の地やゆかりの場所の数は生駒のほうが断然多い。問題になりません」と軽くあしらわれた。

 丘を下って、農業用水池のほとりに据えられた「長髄彦本拠」の石柱を見た。池の脇の集会所裏庭には「鳥見白庭山」

の石柱がある。「饒速日命墳墓」と同じつくりだから、同じ時期に立てられたのだろう。2本の石柱はもともと、500~600m東
にあった。しかし、昭和50
年代の開発で今の場所に移転されたそうだ:

 「長髄彦は『長いスネ』を持つ長身族だったのではないか」という説がある。これに対して正木氏は「南北に長く延び
矢田丘陵の形から、その名がついた」
という説だった。

 私たちは最後に、畑の中にぽつんと残る塚を訪ねた。そこは御炊屋姫の墓と言い伝えられてきた。このあたりに饒速日

と御炊屋姫の邸宅があったのだろうか。見上げると、先ほどの送電線の塔が丘の上に立っていた。

 長髄彦を討った神武天皇は、饒速日と御炊屋姫の間に生まれた宇摩志麻治命に目をかける。しかし、饒速日と神武に
族関係があったかどうかはわからない。

 『古事記』は、神武天皇が三輪山の神である大物主神の娘の伊須気余理比売を妃にしたと伝えている。

 古代史研究者の大野を二氏は『先代旧事本紀』に読みや注をほどこした。大野氏は、その書が饒速日を「大神」と呼ん

でおり、古代の大和で「大神」は饒速日以外にありえない、とする。そして、大神神社の祭神·大物主神は饒速日のことで、
三輪山は饒速日の墓所だ」と考
えている。その説に従えば、神武天皇は饒速日の娘と結ばれたことになる。

 それぞれが、それぞれの夢をはぐくむことができる。古代史は、まことにロマンの宝庫である。
  2008-7-28  朝日新聞(夕刊)桐村英一郎


 一方は、ユーラシア大陸の草原を疾走する汗血馬。他方は、南海の洋上に昇り、水平線に沈む赤く大きな太陽。

 奈良盆地の先住者とされる豪族の物部一族と、海人族だったと思われるヤマト王権の創始者たち。それぞれが受け継い

だ世界から、私はまずそんな光景を思い浮かべる。

 物理学·科学思想といろ専門分野から、古代日本人の世界観·宇宙観に迫った荒川紘氏は『古事記』と『日本書紀』

の構造を描いた(『日本人の宇宙観』紀伊国屋書店)。この図では、理想郷である常世の国-葦原の中っ国ー妣(はは)の国は
水平軸、高天原ー中つ国ー
黄泉の国が垂直軸、ということになる。

 『記·紀』には毛色の違うふたつの世界観がごっちゃに混じり合っている。

 穀物が実り、「まれびと(異人) 」がやってくる常世の国は、死者が戻り復活する場所でもある。常世や、琉球地方の思想で
高貴な国とするニライカナイは生
と豊饒、死と再生のサイクルという点で妣の国とつながっている。水平的世界観が同時に
循環的世界観でもあるゆえん
だ。男神,伊奘諾尊の鼻からうまれた素戔嗚尊が「亡き母のもとに行きたい」と泣き叫んだ妣の
国は明暗両面を持つ異界
なのだ。

 垂直軸は違う。高天原-黄泉の国を重ねると、神々が住む天上の国と、人々の暮らす中つ国,死者の黄泉の国は上下関係
で分けられている。

 火の神,軻遇突智を産んで死んだ女神伊奘冉尊が行った黄泉の国は暗く、けがらわしい世界として描かれた。そこから逃げ
帰った伊奘諾は「私はなんと穢い
国にいったのだろう。身体を清めなければ」といって禊をする。素戔嗚が行きたがった妣の
国はそんなところではないは
ずだ。

 天上の絶対神を地上の王が奉じるといろ思想は、ユーラシア大陸の奥地からモンゴル·中国東北部、朝鮮半島、対馬を経て
九州にたどり着いた。そんな神のひ
とりである高皇産霊尊は垂直的な世界観を体現する神として物部一族の血脈のなかに
生き続け、『記·紀』の中に残っ
た。私はそう思う。

 熊野山中に分け入るまで、そんな世界観とは縁遠かったヤマト王権の創始者たちは、「高皇産霊との遭遇」によって中つ国
の支配に都合のよい考えを得た。そ
れは常世と妣の国が循環する「海(あま)」の世界から,「天(あま)」の世界への転換にほ
かな
らない。

 もちろんそうした転換は一気に進んだわけではない。「高天原」や「天照大神」の完成までにも曲折があったろう。

三輪山のふもと磐余の地で地盤固めをした初期時代から天武王朝まで、王権の世界観の完成には数世紀の時が必要だっ

た。『記·紀』はヤマト王権側の「答案」でもあった。

 だが世に完璧な答案はない。高天原の最高神が高皇産霊と天照の2神で、命令系統がすっきりしないのは、つじつま合

わせがうまくいかなかった一例だ。

 もっとも、後世の人々は「高天原」や「天照」を丸ごと素直に受け入れたわけではないようだ。空の上に水田があったり、
農を織ったりしているはずがない。
歴史をくだるにつれて、「高天原」は地上のどこかのことで,そこは大和に進攻する地元勢力
の本拠地だったという見解
が増えたのは当然といえよう。

 雑誌「季刊邪馬台国」編集責任者の安本美典氏によれば「こここそ高天原」と主張された地は大和、九州各地、常陸、

近江など国内にとどまらず、朝鮮、中国、はては遠く「バビロニア説」まであるそうだ。当の安本氏は「天照=卑弥呼」という
考えに基づいて高天原は北九
州にあった、と述べている(『高天原の謎』講談社現代新書)

 江戸中期の儒学者新井白石の常陸説など地上説に対して、「天上」を譲らなかったのは『古事記伝』の著者本居宣長で

ある。『古事記』に書かれていることが真実だ、という信念をもつ宜長が天上説を唱えるのは不思議ではないが、地上説

をきって捨てる論法は鋭い。碩学に敬意を表して、その一部を紹介しよう。

 最初の「天祖都城弁弁(てんそとじょうべんべん)」は、天祖都城つまり高天原は豊前国(大分県北部~福岡県東部)の
中津ではなく大和だとする
説「天祖都城弁」に反論したもの。「弁」の反論だから「弁弁」というわけなのだろう。
後の『古事記伝』にも地上説を批
判したくだりがある。

 そもそも天照大御神の都は、高天原に在て、その高天原といヘるは,天上なること、古典の趣、いと明らかなれば、豊前国
也といふも、大和国也といふも、其
外も、すべて此国土に在しごとくいヘる説は、みな古典にそむける私ごと也。

 高天原は、すなはち天なり、然るを、天皇の京を云など云る説は、いみしく古伝にそむける私説なり、凡て世の物知人みな
漢籍意に泥み溺れて、神の御上
の奇霊きを疑て,虚空の上に高天原あることを信ざるは、いと愚なり。(いずれも『本居宣長
全集』筑摩書房)

 尊い天上の場所を、地上のここだあそこだなどというのはけしからん、外国かぶれにも困ったものだ。そんなつぶやき

が聞こえてきそうだ。宣長さんに「高天原も天照も後の創作だ」なんて面と向かって貫ったら、首を絞められるだろう。
  2008-9-1  朝日新聞(夕刊)  桐村英一郎



 熊野山中で"物部一族とされる豪族の高倉下が神日本磐余彦(神武天皇)を救う話である。

 熊野の神の毒気にあてられた神武軍が、高天原から下された刀剣である韴霊(布都御魂)で目覚める。この出来事

は、『古事記』や『日本書紀』が伝える神武東征神話のハイライトのひとつだ。

 つまり空から刀剣が落ちてきたというこの不思議な逸話と、熊野本宮大社付近の重々しい話である。

 十津川は、奈良県から和歌山県に入ると、熊野川へと名前を変える。奈良から、狭く曲がりくねった国道168号を南下
すると、それまで深い谷底に見下ろ
した川が、道のわきを悠々と流れる大河になる。県境のそんな景観の変化に、い

つも新鮮な驚きを覚える。

 熊野本宮大社は、県境の和歌山県側に鎮座する。明治22 (1889)年の大洪水で、熊野川の中州にあった社殿が流さ

れた。かろうじて残ったいくつかの建物を近くの高台に移転したのが、現在の本宮大社である。

 国連のユネスコは、エジプト·アスワンハイダム建設で水没する古代のアブシンベル神殿遺跡を移築した。壮大な彫刻

が施された岩山をいったん、ブロック状の石材に切り分けて高台に運び、かつての姿のままに再建した。

 日本もこの前例のない難事業に貢献した。「人為と天災」「事前と事後」の違いはあるが、熊野本宮大社は「日本のア

プシンベル」といえよう。

 その旧社地は天斎原(おおゆのはら)」と呼ばれている。刀剣の降 下と本宮大社の近辺の風景が重なり合う。

 『記·紀』はこのエピソードをどう伝えているか。『古事記』からその場面を一部省略して紹介しよう。

 今の言葉にすると、こんなふうになる。熊野上陸までに兄を失った神武にまたも試練が襲う。大きな熊が見え隠れした

かと思うと、軍勢は気を失ってバタバタと倒れた。「 惑(お)え」とは正気を失う様子をさす。そこに高倉下という男が参上、

太刀を神武に献上する。するとあーら不思議、神武は正気を取り戻し「よく寝たなあ」とあくびのひとつもして起き上がった。
神武がその太刀を手に取ると敵は
総崩れになった。

 高倉下はいきさつを神武に説明する。「実は夢を見ました。天照大神と高木神(高皇産霊の別名)が建御雷神(武甕雷神)
に『地上は騒然として、わが御子
たちは困っている。助けに行け』といわれましたが、建御雷神は『私が行かなくともこの
刀を落とせば大丈夫です』と答
えられた。そして、私に『倉の屋根を破って落とすから、朝目が覚めた御子に献上しな
さい』といわれたので、 こうし
てまいりました」

 神武は、自分が天照大神と高皇産霊に守られていることを知る。(布都楖魂は石上神宮にある)の部分は、小さな字の
添え書きである。

 ここで、ちょっと付け加えたい建御雷神は天孫降臨に先立って葦原中国を平定するために派遣された武神だが、
刀剣降下の場面でまた登場するのは
違和感がある。なにも建御雷が1枚かまなくても、天照か高木神が直接下せばい

いからだ。

 建御雷は『記·紀』の編さん時に権力を握っていた中臣(藤原)氏の氏神である。神話学者の松前健氏は、出雲の国譲

りや熊野の刀剣降下の神話に建御雷を「割り込ませた」のは中臣氏だ,という見方をしている(『史話 日本の古代③

ヤマト王権のあけぼの』作品社)。

 ところで『日本書紀』は、この熊野山中の出来事をどう記しているだろうか。中身は似ているので、『古事記』と表現

が異なるところだけ、要約して引用しよう。

 天皇軍(すめらみことみいくさ)を帥(ひき)ゐて進みて、熊野の

荒坂津(亦の名は丹敷浦)に至りま

す,因(よ)りて丹敷戸畔(とべ)といふ者を誅(ころ)す。

時に神、毒気を吐きて、人物咸(ひとことごとく)に瘁(を)えぬ。

 『日本書紀』は、神武軍が丹敷戸畔という名の敵を倒した直後に、倒れたという。地元の豪族なのだろう。この書き方に従

えば、「毒気」作戦で神武を失神させたのは丹敷戸畔の軍だったのかもしれない。

 そこに高倉下が登場し、刀剣を献上するに至ったいきさつを説明するくだりは『古事記』とほぼ同じ内容である。

 神武に献上した刀剣の名は「韴霊」と表記されている。また『古事記』で建御雷神に命じるのは天照と高皇産霊の2神だが、
『日本書紀』では天照の単独指令
とされている。

 高倉下が夢から覚めて刀剣を見つける場面を「庫(ほくら)を開きて視るに果して落ちたる剣有りて、倒(さかしま)に庫の底
取(しきいた)に立てり(倉の
底板に逆さに刺さっていた)」と記す。

 『古事記』よりリアルに描かれている。
  2008-9-29  朝日新聞(夕刊) 桐村英一郎

 古から聖地といわれてきたところには、えもいわれぬ空気が漂っているものだ。本居宣長が「迦微(かみ)」と名付けた

常ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物」がそこに「居ます」からだろうか。

 里人や信者はその神を敬い、おそれて手厚く祀ってきた。神々と人々が織りなしてきた長い長い時の流れがそこに凝縮

·沈殿し、張り詰めた雰囲気をかもし出すのだろう。

 熊野三山のひとつ熊野本宮大社の旧社地もそうである。

 熊野川を河口から30km ,ほどさかのぼり、本流と支流の音無川、岩田川が合流する中州が「大斎原(おおゆのはら)」と呼
ばれる旧社地
だ。1889 (明治22 )年の大洪水で社殿の大半が流失した。かろうじて残ったいくつかの社殿を高台に移転した
のが現
在の本宮大社である。

 旧社地では2基の小さな石祠(せきし)が本殿のあった場所を示している。参拝者や観光客の多くは今の本宮大社に向かう
が、私
は1万坪の社地の中心に大木が茂る大斎原に惹かれる。

 07年7月14日、台風4号が暴れるさなかの紀伊半島に出かけ、那智の火祭りを見た。その帰りに大斎原に立ち寄った。

荒天の旧社地を見たかったからである。

 濁流で増水した熊野川は広い河原を埋め尽くして走り、旧社地はしのつく雨に煙っていた。高さ34mの大鳥居が「聖地

を守ってみせる」とばかりに、上流に向かつてすっくと立っていたのが印象的だった。

 熊野川では昔、死人を河原の小石の下に埋める風習があったという。何年かに1度の洪水で河原が洗われると遺骨も熊

野の海に流される。一種の水葬だ。

 川の合流点の中州は聖地であると同時に洪水の直撃を受ける危険な場所である。明治の水害は、熊野の神をさらに強

大な「迦微」が押し流した「神の水葬」だったのかもしれない。風雨のなかで、そんなことを考えた。

 古代の熊野を語る文書は少ない。12世紀に編さんされた『長寛勘文』の中の「熊野権現御垂跡縁起」は貴重なひとつだ。

 「縁起」によると、最初に熊野の神を感得したのは地元の犬飼、つまり犬を使って猟をする狩人だった。大きな猪を射

止めた彼は手負いの猪を追って川を渡り、大湯原(大斎原)にたどり着く。猪がイチイの大木の根元で死んでいたので、
そこで一夜を明かすことにした。狩
人は大木の先に「3枚の月形」を見つけ、それを熊野権現だとして仰いだ。そんなストー
リーである。

「縁起」を分析した橋本観吉氏(和歌山県田辺市立芳養小学校の前校長)の指摘が興味深い。

 橋本氏は「川の合流点は、水系の異なる山岳地帯への入り口にあたる。そこが聖なる地とされていくのは、狩人にとっ

て狩りのための重要な分岐点であったからではなかろうか」「やがて、そろいう地は、神の示現の地、託宣の地として祭

祀(神社)の発生をみるに至ったのではなかろうか」と述べている(国書刊行会r紀州史研究3総特集熊野1』に掲載の

論文「熊野の創祀とその祭神」)。大斎原の地は古来、鎮魂と祭祀の場だったのである。

 この聖地は、天から授かった刀剣・韴で神日本磐余彦(神武天皇) 一行の急場を救った高倉下と関係があるのだ。

 江戸·元禄年間に紀州藩士·児玉荘左衛門は藩主の命で熊野三山参拝のための旅行案内書『紀南郷導記』を書いた。当

時は熊野川の中州にあった熊野本宮大社について彼は「此地主ハ高倉下ノ神ナリ。此社へ毎月二十八日竜宮城ヨリ乙姫

詣デ来ル卜云ヒ慣ハセリ」と記す。

 中州の周りには、川水が渦を巻く深い淵がいくつもあった。舟の難所だけに祭祀の場所ともなった。そのひとつ立島ノ

淵について『郷導記』はこんな伝承を紹介している。

 雨乞いのため笛を吹いていた男が誤って笛を淵に落としてしまった。それを捜して水底に至ると竜宮城があり、金銀玉

に飾られた床の上に笛があったので、取り返して戻った。一時のことと思ったが、13里川下に出たときには3年が過ぎ

ていた。

 『記·紀』神話の海幸彦·山幸彦の話や浦島太郎物語を思い起こさせる。橋本氏は「淵は異界や他界の入り口であり、

海ともつながると考えられていた。それが竜宮伝説になったのだろう」と解釈している。

 私は「高倉下が地主」という伝説が残るこの大斎原こそ、彼が神武に物部氏のレガリア(王権の象徵)である刀剣韴
を献上する「帰順儀式」が行われた場
所だと思う。高倉下が「毒気(あしきいき)」に倒れた神武一行を救ったところは、
熊野川の河
口から本宮大社にいたるまでのどこかではないか、と考えている。『記·紀』のストーリーでは刀剣を捧げると
,たちま
ち敵が倒れた形になっている。実際は、高倉下率いる物部の軍勢のおかげで形勢が逆転した。戦闘の勝利後に、
場所を移
して帰順儀式」が挙行されたという順序だったのではなかろうか。

 儀式だから重々しく行われなければならないとなれば狩猟時代から聖地とされてきた「大斎原」がふさわしい。

 そこには地元の狩人たちが鳥獣を鎮魂し、豊猟を神に祈る祭祀の場がすでにあったかもしれない。神武は高倉下の
労を
ねぎらい、物部一族直系の帰順に大和進攻への自信を深めたことだろう。
  2008-12-22  朝日新聞(夕刊) 桐村英一郎