安楽寺
巨勢寺塔跡
権現堂古墳
正福寺
川合八幡神社
水泥南古墳
水泥北古墳

新宮山古墳
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安楽寺  地図

◇安楽寺塔婆(国重文)

 宝形造(ほうぎょうつくり)の屋根の上に露盤宝珠をあげた本瓦葺の建物である。これは三重塔の初層
に後世に宝形屋根をかぶせたもので、室町時代の建築物と考えられている。内部に室町期と推定される
大日如来像などが安置されている。屋根下の枠縁に「三重の宝塔ハ正嘉二(1258)年十月十日二重下シテ
ー重改」とあるというが、『葛城寺縁起」には延宝年間(1673 ~81) としている。正嘉は鎌倉時代の元号で
あるが建物の様式から江戸期の延宝説のほうが正しいと言われている。

 1696(元禄9)年撰の 『葛城寺緑起」によると、 「稲屋村阿弥陀山葛城寺 (赤名妙安寺)貞心院は聖徳

太子の創建で、のちに葛木臣に賜うた。四十六院の随一、 八大伽藍の一として栄えていたが、文禄年

中(1592~96)に寺産を奪われて以来堂宇年々に荒廃し、住僧減じ、延宝年間には三重塔の九輪墜落

上の二層は崩れて下層だけをとどめることになった。

   
     



巨勢寺塔
跡 地図

こせ でら

○巨勢寺跡(国史跡)

 JR線と近鉄線が吉野口に接近するあたりの両線の間にある。現在は大日堂という小堂がたってい

る。草創の記録はないが、出土瓦から飛鳥時代にさかのぼる可能性のある古代の大寺院で、大豪族
の巨勢氏の氏寺と考えてよい。

1987(昭和62)年、道路建設のための事前調査として、塔跡の西側、JRの線路わきが発掘調査され

た。そのとき講堂あとなどが確認され、巨勢路に面して東南する法隆寺式伽藍配置であると推定され

た。

 『日本書紀』の天武天皇の朱鳥元(686)年の条に 「巨勢寺封二百戸」とあり、7世紀後半に成立

していたことがわかる。鎌倉時代末期まで法灯を保っていたようで、古瀬の「正福寺」に伝わる「和

州葛上郡古瀬邑玉椿山図」には巨勢寺の伽藍が描かれており塔は五重である。

 この地は現在御所市に編入されているが、古代の高市郡巨勢郷で、現在高市郡高取町に属している

北部の地域とともに、古代の豪族巨勢氏の本拠地と考えられ、大和の平坦部や飛鳥から紀伊国や吉野

へ通じる重要な拠点となっていた。

   




権現堂古墳 地図

ごんげんどう

○権現堂古墳(奈良県史跡)

 巨勢谷の4基の横穴式石室のうち、もっとも古くに築かれたと思われる古墳で、樋野(ひの)集落北の天安

河(あまのやすかわ)神社境内にある。石室の崩壊を防ぐため鉄骨施設が施されたとき、6世紀前半の土器
が出土している。石棺の形式からみた年代観とも矛盾していない。

 古墳は高取山からのびた屋根の端部に築かれているが、墳丘はすでに原形をとどめないほどに荒れ

ている。径20mほどの円墳であったと推定され、片袖式で南南東に向き開ロされているが、義道部分

は土砂に埋まってよくわからない。

 玄室には二つの凝灰岩の刳り抜き式家形石棺が納められていたが、一つは完全に破壊されている。

墳丘の周辺に散在する石材がそれである。 のこる石棺も小口の部分がこわれている。この棺の特徴は

棺身に石枕が造り付けられていることにある。石棺に枕が造りつけられる例は大和では比較的めずら

しい存在の古墳である。 

   




正福寺 地図

   




川合八幡神社  地図

     




水泥南古墳 地図

○水泥南古墳(水泥蓮華文古墳 ·国史跡)

 畑地にある径14m, 高さ 5mの円墳である。 ただし、 墳丘の裾がかなり削られているので、
実際は20mちかい規模になろう。古墳の中央南に開口する石室の正面に立っと、縄掛け突
起に六葉素弁の蓮華文を浮き彫りにした家形石棺がみえる。 古墳の名称の由来となった

著名なもので、蓮華文は蓋の前後の縄掛突起に彫られており、側面の突起はひどく退化し
た形式となっている。この羨道部の石棺とは別にいまひとつの家形石棺が玄室部におかれ
ている。 こちらの方は縄掛突起もしっかりしており、形式的には古い。当然のことではあるが、
玄室部の石棺がさきにおさめられ、しばらくあって羨道のものが追葬されたのでああろう。

 石室は両袖式で、全長10.8m、玄室の長さ 4.6m、幅約 2m、義

道の長さ 6.2mの規模である。玄室は浸水によっていつも水につかっている状態であるが、高さは
2.2mほどと推測され水泥北古墳よりひとまわり小型化している。築造年代はこれまた判然としない
が7世紀前半ころと推測される。ところで、蓮華文は軒丸瓦や仏像台座の連弁に共通する仏教的
文様であるが、蓮華文石棺の被葬者が、どの程度仏教に関心と理解をもっていたのか興味深い。

 巨勢路にある4基の横穴式石室をみて、時代順にならべると、権現堂古墳(6 世紀前半)、新宮山

古墳(6世紀中葉)、水泥北 (6世紀後半)、水泥南(7世紀前半)となり、年代的に整然とした流れをし

めしている。巨勢谷にある他の古墳が木棺を採用していることからも、この4基は興味深い。 

水泥南古墳⇒⇒⇒ 
 
     




水泥北古墳  地図

○水泥北古墳(水泥塚穴古墳·国史跡)

 巨勢谷の最奥、五条にむかおうとする古瀬集落の南のはずれに、2基の横穴式石室がある。
およそ80mの距離をおいてならぶところから、蘇我蝦夷·入鹿の「今木(いまき)の双墓(ならび
ばか)」と考えられたこともあった。また、北の古墳を「水泥塚穴古墳」南を「水泥蓮華文古墳」と
よばれている。

 水泥北古墳は西尾氏邸宅裏庭の一角にある。墳丘の前面は大きく削り取られて崖状になり、
規模などは明確ではないが、径20mほどの円墳と思われ、高さは 6mである。石室は南に開口し、
玄室内は巨石を3、4段に立てて積んでいるため、非常に高く広い空間を感じる。両袖抽式の
石室で全長12.9m, 玄室の長さ5.3m、羨道の長さ7.6 mであり、巨勢路においては新宮山古墳とと
もに卓抜した規模を誇っている。

 かって、石室を納屋として利用するため、床面を堀下げたところ、土管が20本もつらなって出て
きた。土管は焼成の良いもの悪いものが混ざっているが、つぎつぎとつながるような構造である。
おそらくは石室の排水の便に供したものであろうが、非常にめずらしい例である。これを後世の造
作とみれば、石室の形態から6世紀後半の築造と考えられる。 




新宮山古墳 地図

しんぐうやま

○新宮山古墳(奈良県史跡)

 巨勢谷の北西部、稲宿(いないど)集落の西に位置する新宮山古墳は巨勢山から北にのびてきた
屋根の端部近くにいとなまれている。径25mほどの円墳であるが、北と南は崖になり裾線は明瞭で
ない。東南方向に長さ 7.3mの羨道の入口が開いている。玄室の長さは 6.3mで、玄室手前に巨大な
家形石棺が置かれている。 蓋には前後各1、側面に2対の縄掛突起がつくられている。棺内はみごと
に刳り抜かれており、赤色顔料が塗布されていたようである。家形石棺のさらに奥に、長さ 2m前後、
幅約 Imの大きな3枚の板石がころがっている。箱形の組合わせ石棺の蓋石と両側石で、石材は緑色
片岩で、吉野川流域から運ばれたものである。さきの家形石棺が二上山産の凝灰岩製であるのと対
比的である。この石室には、あらかじめ産地と形状の異なる二つの石棺をおさめるようにしていたの
であり、巨勢谷の位置や古墳造営者の性格がうかがえて興味深い。盗堀されており出土遺物が無い
ため明確ではないが、6世紀中頃の築造と考えられる。