安楽寺
巨勢寺塔跡
権現堂古墳
正福寺
川合八幡神社
水泥南古墳
水泥北古墳
新宮山古墳
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安楽寺 地図
◇安楽寺塔婆(国重文) 宝形造(ほうぎょうつくり)の屋根の上に露盤宝珠をあげた本瓦葺の建物である。これは三重塔の初層 1696(元禄9)年撰の 『葛城寺緑起』によると、 「稲屋村阿弥陀山葛城寺 (赤名妙安寺)貞心院は聖徳 太子の創建で、のちに葛木臣に賜うた。四十六院の随一、 八大伽藍の一として栄えていたが、文禄年 中(1592~96)に寺産を奪われて以来堂宇年々に荒廃し、住僧減じ、延宝年間には三重塔の九輪墜落 上の二層は崩れて下層だけをとどめることになった。 |
巨勢寺塔跡 地図
こせ でら ○巨勢寺跡(国史跡) JR線と近鉄線が吉野口に接近するあたりの両線の間にある。現在は大日堂という小堂がたってい る。草創の記録はないが、出土瓦から飛鳥時代にさかのぼる可能性のある古代の大寺院で、大豪族 1987(昭和62)年、道路建設のための事前調査として、塔跡の西側、JRの線路わきが発掘調査され た。そのとき講堂あとなどが確認され、巨勢路に面して東南する法隆寺式伽藍配置であると推定され た。 『日本書紀』の天武天皇の朱鳥元(686)年の条に 「巨勢寺封二百戸」とあり、7世紀後半に成立していたことがわかる。鎌倉時代末期まで法灯を保っていたようで、古瀬の「正福寺」に伝わる「和 州葛上郡古瀬邑玉椿山図」には巨勢寺の伽藍が描かれており塔は五重である。 この地は現在御所市に編入されているが、古代の高市郡巨勢郷で、現在高市郡高取町に属している北部の地域とともに、古代の豪族巨勢氏の本拠地と考えられ、大和の平坦部や飛鳥から紀伊国や吉野 へ通じる重要な拠点となっていた。 |
権現堂古墳 地図
ごんげんどう ○権現堂古墳(奈良県史跡) 巨勢谷の4基の横穴式石室のうち、もっとも古くに築かれたと思われる古墳で、樋野(ひの)集落北の天安 河(あまのやすかわ)神社境内にある。石室の崩壊を防ぐため鉄骨施設が施されたとき、6世紀前半の土器 古墳は高取山からのびた屋根の端部に築かれているが、墳丘はすでに原形をとどめないほどに荒れ ている。径20mほどの円墳であったと推定され、片袖式で南南東に向き開ロされているが、義道部分 は土砂に埋まってよくわからない。 玄室には二つの凝灰岩の刳り抜き式家形石棺が納められていたが、一つは完全に破壊されている。 墳丘の周辺に散在する石材がそれである。 のこる石棺も小口の部分がこわれている。この棺の特徴は 棺身に石枕が造り付けられていることにある。石棺に枕が造りつけられる例は大和では比較的めずら しい存在の古墳である。 |
正福寺 地図
川合八幡神社 地図
水泥南古墳 地図
○水泥南古墳(水泥蓮華文古墳 ·国史跡) 畑地にある径14m, 高さ 5mの円墳である。 ただし、 墳丘の裾がかなり削られているので、 著名なもので、蓮華文は蓋の前後の縄掛突起に彫られており、側面の突起はひどく退化し 石室は両袖式で、全長10.8m、玄室の長さ 4.6m、幅約 2m、義 道の長さ 6.2mの規模である。玄室は浸水によっていつも水につかっている状態であるが、高さは 巨勢路にある4基の横穴式石室をみて、時代順にならべると、権現堂古墳(6 世紀前半)、新宮山 古墳(6世紀中葉)、水泥北 (6世紀後半)、水泥南(7世紀前半)となり、年代的に整然とした流れをし めしている。巨勢谷にある他の古墳が木棺を採用していることからも、この4基は興味深い。 |
水泥北古墳 地図
○水泥北古墳(水泥塚穴古墳·国史跡) 巨勢谷の最奥、五条にむかおうとする古瀬集落の南のはずれに、2基の横穴式石室がある。 水泥北古墳は西尾氏邸宅裏庭の一角にある。墳丘の前面は大きく削り取られて崖状になり、 かって、石室を納屋として利用するため、床面を堀下げたところ、土管が20本もつらなって出て |
新宮山古墳 地図
しんぐうやま ○新宮山古墳(奈良県史跡) 巨勢谷の北西部、稲宿(いないど)集落の西に位置する新宮山古墳は巨勢山から北にのびてきた |
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