標高約900mの高野山の山上では冷たい空気が澄みわたる。
 静寂に包まれたこの地を、荘厳な宗教都市にしようと見定めていたのが空海であった。
 高野山にある高野山真言宗の総本山である金剛峯寺には、今も空海を慕う人たちが集まってくる。 

高野山大伽藍

比叡山延暦寺が伝教大師によって開かれたころ、高野山金剛峯寺が弘法大師空海によって開かれた。
ごく初期の
伽藍建築についてはわからない。空海は唐から帰国後、弘仁七年(八一六)に朝廷から寺地を賜わった。
空海の生存中は草庵が
あった程度のようである。

延暦寺の場合、それぞれの中心建築「中堂」が重要であったが、金剛峯寺ではこのような堂よりも「塔」が中心であった。
空海が示寂し
たころには宝塔二基が工事中だったというから、これからも塔(多宝塔、その最大規模のもの

が大造が中心であったことが知られるであろう。空海在世中に大塔・講堂(金堂)・僧房があったとするのは時期的に早すぎるようで、
大塔が完成したのは延喜のころになる。
 

大門:   高さ25.1mの大門は一山の総門にふさわしく威風堂々とした門構え。
御影堂:  弘法大師がお住まいになっていたといわれるお堂。
不動堂:  高野山に残る最古の建物で建久9年(1198)建立。
金剛峰寺:  高野山真言宗の総本山で、全国3600に及ぶ末寺の宗務を執っている。
霊宝館:  1200年の歴史を持つ高野山に残る国宝、重文等を保管し公開する。
女人堂:  明治5年まで女人禁制であった高野山へは、女性はここより山内に入ることが許されず、細く険しい女人道を通って大師廟へのお参りをした。
刈萱堂:   親子の名乗りをあげないまま修行に明け暮れたという刈萱道心と石童丸の悲しい物語ゆかりのお堂。
奥の院:  弘法大師御入定のあと、弟子達は足元に玉川の清流が流れるこの池に廟を建てた。
徳川家霊台:   寛永20年(1643)三代将軍家光が建立した家康と秀忠の両霊屋で白木造りの外観に金銀箔を押した極彩色の厨子は日光東照宮を思わせる豪奢な造り。
参道:   一の橋から御廟まで約2kmの参道には、何百年も経た老杉がそびえる武将から庶民まで20万墓を越す墓碩が並んでいる。
灯籠堂:   老女お照が献じた「貧女の一燈」、白河天皇が献燈の「白河燈」が一千年来燃え続けているお堂。
弘法大師御廟(ごびょう)
 大師は今も御廟の建物にこもり、深い瞑想を続けていると伝わる。そこで毎朝6時と10時半、2人の僧が白木の箱に納めた食事を運んでお供えする。
この儀式が生身供(しょうじんく)で、1200年間欠かさずに行われているという。
   
根本大塔   大塔の鐘
根本大塔
 昭和12年に完成した高さ48.5mの朱塗りの大塔で、内陣に胎藏界大日如来を本尊として
金剛界四仏が安置され、16本の柱と壁に極色彩で描かれた諸尊とともに曼荼羅世界を表し
ている。
根本大塔⇒
大塔の鐘
 約6トンの鐘高野四郎の名でよばれる。一日5回、計108つの鐘の音を響かせる。
     
 西塔  東塔  秋季金堂彼岸会
 伽藍の北西、巨杉に囲まれるように建つ高さ27mの多宝塔。
本尊の金剛界大日如来は重文。 
 天保14年(1843)の大火災で消失した、昭和59年再建された。   一山の総本堂として重要な法要が営まれていまる。本尊は阿シュク如来。 
 
 金剛峰寺
八大童子立像の内制多迦童子



金剛三昧院
     
 多宝塔(国宝)
国宝の仏塔一覧⇒⇒⇒
 山門をくぐり、右手に本坊(重文)の大玄関を望む。  
  北条政子が建立した、高野山最古の建造物。
また、大津石山寺の多宝塔に次いで、
日本で二番目に古い。
 塔内には、五智如来(重文)が安置され、
七回忌本尊である、阿しゅく如来が
安置されている。
   高野山西端の大門から東端の奥の院までの
主要道路に多くの寺院が、
道路に面しているが、金剛三昧院は、
大門から1km余り奥の院に向かったところから、
南にに少し入る。 
     
途中熊野本宮に至る小辺路44kmの入口がある。  静かな杉の木立を抜け、右手に山門がある。  経蔵(重文)
     
  山門をくぐり、境内から振り返ったところ。
この山門の中には、梵鐘(重文)がある。
 山門をくぐり、正面が本堂  境内



根本大塔

「高野の大塔」で知られる大塔は「根本大塔」といわれ、奈良時代にはまだ見られなかった

塔の新型である。現在のものは金堂とともに昭和十二年、鉄骨造に木造部を取付けて復興

された。高野山にはこの根本大塔と、もう一つの新型の塔として瑜祇塔(ゆぎとう)が建てられた。

大塔は一般にはごく大きい塔あるいは塔の尊称としても用いられ、
「五重大塔」などとも言われることも
るが、高野山の大塔は建築史上では特殊形式の塔の
一つとして扱われている。
文字通り特
別に大きい塔で、十六間四角、高さ十六丈と十六」、という数字が出て来るが、
これは実
数ではなく、十六大菩薩をあらわしたものともいう。
構造形式は円形の平面に四角い屋根
を架け、相輪を上げた姿で、
もしこの中国系
の四角い屋根がなく、円形平面の饅頭型に直接相輪が立っていれば古代印度
の塔(いわゆ
るラマ塔も多少これに似ている)そのままである。
しかし余りにも巨大で、その上日本では
木造だったから構造的にも難点が多かっただろうし、
完成してからの保存管理の面からも
苦心したであろう。

最初の大塔がどんな姿であったかは十分には判らない。後述するように、興廃をくり返

すうちに少なくとも第二回目からは四角い屋根の下の円形部の保護を考えて周囲に仮設的

な覆い屋根(これが裳階である)が付けられたようである。だから最初の塔が裳階なしの一

つの屋根だけだったとすれば多宝塔型でなく、建築でいう「宝塔」だったと言えよう。

ここで気のつくことは、宝塔として高さ十六丈とまでは行かなくても、現在の大塔のよう

な大型では円型部の形を整えるのも難しくサマになりにくい。そして下に雨がかからぬ

ためには四角い屋根の軒は深くしなければならず、現代でも構造的に難しい。

再建大塔から裳階付きの多宝塔型となったのは、こうした点からも当然と言えよ

あるいは当初裳階がなかったとしても、その保護のためなんらかの設備はしたであろう

から、見方によっては大塔は当初から裳階付きとも考えられる。この大塔の建立は空海没

後、二代真然のときであるという。初めの塔は正?五年(九九四)落雷のため焼失、その後

久安五年(一一四九)、大永元年(一五二一)、寛永七年(一六三○)、天保十四年(一八四三)

とたびたび焼けている。

大塔の平面は特大であるだけに特殊で、裳階は五間(四方同じ)、その中に十二本の円柱

が円周に沿って立ち、その内部のこれと同心円周上に八本の円柱,さらにその奥が四本の

柱で中心部を形づくっている。心柱を除いて普通の五重塔などの柱数は十六本であるの

に、大塔のそれは計四十四本にもなる。これだけの大建築であるから復興も大変だったろ

う。室町時代に長年月かかって建てられた根来寺の大塔では、内部の八本の円周上の柱は
略されて十二本と四本柱だけになっている。
上の屋根を支える柱は十二本で、これが円形
に並び、これから出た組物で四角い屋根を支

える。この構造法は宮大工の最高技術とされて来た。いまの大塔は鉄骨の芯が入っている

からいいものの、木造であれば隅行(四十五度の方向)で四十五尺、七間半も出る軒をどう

して支えるかを疑った専門家がこの建築当時にいたものである。
































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