法観寺・八坂の塔地図

 
法観寺・八坂塔(重文)

 霊応山法観寺と号し臨済宗建仁寺派に属す。殊に五

重の塔は東山一帯のシンボルとされている。寺伝によ

れば、崇峻天皇2年(589)、聖徳太子が如意輪観音の夢

告により塔を建立、仏舎利三粒を納め国家の安泰を祈

願したという。現存の塔は永享12年(1440)、足利義教

公の再建である。塔より西に向かう八坂通は別名「夢見

坂」と呼ばれ、かつて聖徳太子が仏舎利を感得し、仏法

興隆を夢見られた地である。

 
  霊応山(れいおうざん)と号し、臨済宗建仁派に属する。
 寺伝によれば、聖徳太子が如意輪観音の夢のお告げにより592年に創建たとされており、往時は延喜式七カ寺のひとつに数えられ隆盛を極めたが、
現在は八坂塔(五重塔)と太子堂・薬師堂の二宇を残すのみである。
 八坂塔は本瓦葺五層、方6m、高さ46mの純然たる和様建築で白鳳時代の建築様式を今に伝えるものである。
創建以来たびたび災火により焼失したが、その都度再建され、現在の塔は永享12年(1440)に足利義数によって再興されたものである。
塔内には本尊五智如来像五体(大日釈迦阿シュク宝生阿弥陀)を安置し、須弥壇の下には古い松香石製の大きい中心礎石があり、
中央には舎利器を納めた三重の凹孔が残っている。
 寺宝としては塔を中心に当時の社寺を描いた紙本着色八坂塔絵図のほか、足利義数画像、法観雑記など貴重な文化財を蔵している。
 法観寺⇒⇒⇒
  境内から塼仏(せんぶつ)の一部が出土されている。これにより、寺の創建が少なくとも白鳳時代(7世紀後半~8世紀初頭)に
さかのぼることは間違いない。
 塼仏とは、仏や菩薩像型抜きした粘土を焼き固めたもの。
遣唐使に随行した高僧・道昭が唐から7世紀後半ごろに持ち込んだとされ、装飾や念持仏として使用されたと考えられている。