今井町 散策ガイド

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豊田家(重要文化財 屋号「紙八」)

間取り⇒⇒⇒
 御堂筋北側にある。
 建物は寛文二年(1662)のもので、今西家に次いで古い建物。
屋根は入母屋造り本瓦葺、軒は高く、二階は出桁造。
外観は今西家と同じように、豪壮で古い手法がみられ、
今井町における上層町屋。
 防火のために厚い壁となっている。
 木屋を示す家紋がつし二階の東に
浮き彫りされている。
 正面つし二階の壁に、
木の字を丸で囲んだ大きな飾りをつけている。
これは、材木商牧村家の屋号を現す紋所である。
 たけで編んだ下地に、壁土を塗りこめて、なんども塗り固めていく。よく乾いたあとで、石灰をふのりでといた壁土で、白壁を塗り上げていく。
 豊田家、御堂筋東側より。
 つし二階のむしこ窓は、
窓のないところも塗り格子をつらねて格式を誇っている。
 煙出しは、屋根と90度の位置にある。
この方式は、
今西家
音村家など古い家に見られる。
煙出参照⇒⇒⇒
 鬼瓦に寛文二年(1662)の刻銘があり建設年代が明らかになった。
「こしのま」外から。  正面玄関 「しもみせ」の外から。
 「みせのま」外から。
柱ほどある格子の下に馬をつなく
駒つなぎ留めがある。上にあるのは牛用。
材木商のために、荷車用の牛をつなぐようになっていた。
玄関から中を見る。
 この家には二本の大黒柱(1尺2寸)がある。
「にわ」に接する「みせのま」と「なかのま」の間、
及び「なかのま」と「だいどころ」との間にある。
 「にわ(どま)」にあるかまど。
 「にわ(どま)」から玄関を見る。梯子で二階に通じる。  玄関から入り、「にわ(どま)」の北側に「みせのま」がある。
その奥には「こしのま(みせおく)」がある。
 接客用の「なかのま」その奥が主人の寝室「おくのなかのま」となる。この境二間は、両脇半間を板壁とし、
中央一間は戸を両側に引き込んでいる。
また、一段高く敷居を入れた帳台構(ちょうだいかまえ)となっている。
 「だいどころ」から奥に「ぶつま」がある。
仏壇の棚は南向きとなる。
 「にわ」にそって内側、「みせ」・「なかのま」・「だいどころ」は二間、
上手「こしのま(みせおく)」・「おくのなかのま(なんど)」・
「ぶつま」は一間半と狭く古式。
 にわ梁組、煙出しを内部から見る。  にわ梁組
 「なかのま」と「みせのま」の間にある大黒柱。
大黒柱は二本あり、右の写真に「なかのま」と「だいどころ」の間にもある。
 天井は根太天井となっており、「みせ」の上も二階になっている。
その他、「こしのま」・「だいどころ」・「しもみせ」の上も
壁で仕切らた二階になっている。
 もう一本の大黒柱、「大黒柱」に対してこれを「えびす」柱と呼んでいる。
 材木商らしく、太い梁組が使われている。  「なかのま」から「にわ」を見る。
 「おくのなかのま」にある戸。就寝の時はこの戸を閉める。戸には鍵穴がる。
 主人しか入れない「おくのなかのま」内側から。間仕切りの突止め溝がある。
 また、さるおとしで上下する棒が、向かって左側の細い方にあるが、これに穴がある。
これは、非常の際、例えば主人が万が一の時に、外の右の穴から差し込んだ鍵によって、上にあげる。
 当家は、江戸時代末期に分家移住し「紙八」の屋号でしられているが、もとは木材商、牧村清右門の所有で「西ノ木屋」の屋号をもち、大名貸しや福井藩の蔵元もつとめた有力な商家であった。
 先の修理の際、多くの鬼瓦に寛文二年(1662)の刻銘があり、建設年代が明らかになった。
 御堂筋の称念寺の向かいやや西よりにあり、東側も小路となる。
 屋根は入母屋造り、本瓦葺で、軒は高く、二階軒は出桁造となり、二階正面上部の壁に丸に木の字の紋を付けている。
 正面の「しもみせ」・「みせのま」の格子は太く、外観は今西家と同じように豪壮で、今井町にあって今西家につぐ豪壮な建物である。建設年代も古く、各所に古式の手法が残る。
 内部は今西家同様、六間取りの部屋で、東西隅に「しもみせ」をとっている。接客用の「なかのま」と主人の寝室である「おくのなかのま(なんど)」の境は、一段高く敷居を入れた帳台構(ちょうだいかまえ)もある。
土間側「みせのま」・「なかのま」・「だいどころ」が巾二間、上手「こしのま」・「おくのなかのま」・「ぶつま」が一間半で狭くなるのは古式である。二間のうち両脇半間を板壁、中央一間は戸を両側に引きこんでいる。
 「ぶつま」には仏壇をおく棚が南向きにある。木材商の家らしく土間境の太い柱、太い梁組、正面の太格子、間仕切りの突止溝(つきどめみぞ)駒つなぎなどは今西家に類似して古式で力強い感じをあたえている。
 また、発掘調査の際、地下より旧地表面が発見され、カマド跡も確認出来たが、当家に限らず今井町の地盤は軟弱で地下水位も高く、また、再三飛鳥川の氾濫になやまされていたので、再建の際は少しでも高く盛土をして、建物をしたと思われる。
 当家西側には今井宗久好みと伝える茶室が昭和十年頃迄あったが、小田原の松永家に移されていた。現在は堺市に寄贈され、堺市博物館に移されこう黄梅庵と名付けられている。また称念寺奥書院は当家から移したものと伝えている。
 昭和五十・五十一年に解体修理を行い、豪壮な外観をみせる。