今井町 散策ガイド

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今井山称念寺(浄土真宗本願寺派)地図

 今井は昔、興福寺の寺領であったが、中世、永禄年間(1560年代)に突如として今井町に生まれた。
それは今西家の祖先川井権兵衛清長がその一族十市氏(龍王城)の落城後郎党と共に今井へやってきた時期である。
街の周囲に堀をうがち、白く厚い壁で町を覆って自衛し、一向宗と結んで時の権力者織田信長と闘った時期に合致する。
   
 信長によって武装は解除されたものの自治権を残して、それまでにも深い関係のあった海の堺と同じく陸の今井として栄えた。
かって、今井兵部が営んだ本願寺の道場は、称念寺となり、そこに今井氏が住職として坐るという形ができた。
 徳川時代になって、世の中がおさまるにつれ高度の自治を展開したので徳川幕府は今井を町として認め、江戸、
大阪、京都、奈良と同様に惣年寄、町年寄をおき町制にあたらせた。 

今井郷と稱念寺

近江源氏の一族、永田刑部大夫高長の子河瀬太郎大夫高光の一子が幼なくして父母に先立

たれて山門に入り僧となったが、後還俗して河瀬新左衛門氏兼と名乗り大和に十市氏と川

井氏を恃んだので、これを剃髪させて大坂に伴い、石山本願寺顕如上人光佐の門流に属さ

せて河瀬入道兵部房とし、新しく今井郷に道場(稱念寺)を営立して住職とした。

稱念寺は川井氏今西家が介立した今井郷の檀那寺である。 

 称念寺⇒⇒⇒
 表門は、明治十年(1877)明治天皇が「行在所(あんざいしょ)として寺に宿泊されることに合わせて、談山神社から移築されたもの。
 今井町に惣年寄制がしかれたのは慶長年間(1600年頃)で初めに川井与次兵衛(後改め今西氏)、河瀬入道兵部房(後改め今井氏)、尾崎源兵衛、後上田忠右衛門、を加えた。
 門・本堂・鼓楼・鐘楼・玄関・客殿・別客殿・庫裏がある。「明治天皇駐蹕之処」と刻まれた石碑が立っている。今井町は称念寺を中心に本願寺門徒の寺内町として発達したもので、寺は今井御坊と呼ばれている。
 本堂は入母屋造、向拝付本瓦葺で、内部は外陣を広くしている。江戸時代初期の建立でかなり後世の修理を経ている。しかし細部には桃山時代に遡ると考えられる所もある。庫裏、客殿(書院)、玄関は江戸時代中期の建立であるが、別客殿(奥書院)はこれらよりやや古いようである。明治天皇は明治十年に畝傍御陵に御親拝のみぎり、称念寺が行在所となり、別客殿に二泊三日御滞在になった。
 本尊は阿弥陀如来立像、木造漆箔玉眼入りで像高78.6cm、室町時代前期十四紀の作である。
 開基は今井兵部富綱で、父宗綱とともに一向宗に帰依し、本願寺の対信長合戦のとき、先住の近江国河瀬荘より石山に移住し、その後顕如上人の命をうけて高市郡今井荘に移住し、ここに一宇を建立して称念寺と号した。その後、興福寺宗徒によって焼き払われTSり、迫害を受けたが、本願寺の支援もあって、道場を再建し、これが今日の称念寺に発展したものである。
室町時代の一向宗の道場を起源とする浄土真宗の寺。寺内町(武装宗教都市)だった今井町の中核となった。明治天皇が訪れていた時、西郷隆盛による西南戦争の一報が伝えられたという逸話もある。
 「今井町は十六世紀中頃には、一向宗僧侶今井兵部豊寿によって、武装宗教都市「寺内町」が形成されていたとみられる。
 当寺は、天正年間、本願寺第十一世顕如上人により寺号を得て、今井兵部豊綱を開基として建立したと伝え、寺内町今井の中核として発展し、大和五ヶ所御坊、十六大坊の要として中本山に列する寺である。
 当寺は代々、今井氏が世襲して兵部と号し、武士と僧侶をかね、信長・秀吉・家康に仕えるなかでも、特に秀吉の庇護は厚かったが、江戸時代に入り、寺内町の存続をきらった幕府は、延宝七年(1679)「郷中並」に扱い今井氏は武士を返上し釈門に専念することとなり現在に至る。
 本堂は、真宗寺院の典型的な平面を有し、部分的に後補の改修はあるが、当初の形態をよくとどめ十七世紀初期は降らない建物である。
 南側の細長い庫裏は、旧は二列で明治十年に北側一列を増築している。
 客殿は庫裏西側に接続し、折れ曲がって書院がある。
 庫裏・客殿は、後世の改変はあるが、十七世紀初期頃の建物とみられ、対面所、書院の機能をもつ貴重な建物といえる。
 山門は明治十年二月、明治天皇行幸の際、多武峰より移築されたもので、太鼓楼は弘化二年(1845)建設の建物である。」
 橿原市教育委員会
 日本芸術文化振興会
 重要文化財 称念寺
 桁行19.9m、梁間21.4m、入母屋造、本瓦葺、向拝付、東面の大規模な建物である。
 本堂の建立時期は明らかでないが、随所に真宗本堂の初期の手法がみられ、寛永十四年(1637)に鐘楼堂の建設のあったこと、また、寛文十一年(1671)の修理墨書も発見されているので、少なくとも江戸時代初期頃建立になると判断される。
 側廻り、入側筋には、一間毎に面取り角柱を建てる等古式を踏衆している。
 内部は、外陣と内陣に分け、正面に一間の広縁を取っている。外陣両端一間通りも古くは広縁と同様の納まりである。
 外陣は、桁行七間、梁間六間、内陣は梁間二間で、中央に御本尊を祀り、左右に余間、香房の間、飛櫓間を配し、後堂に通じる。
 外陣の丸柱、紅梁、内陣、外陣の格天井、縁廻り、妻飾り等は、十九世紀前半頃の修理のものである。
 当本堂は、当初の形態をよく残し、真宗本堂の発展過程を知る上でも欠くことの出来ない遺構で、今井町発展の拠点となった寺院の中心施設でもある。