野口大墓古墳

 近鉄飛鳥駅前から東へ高取川と国道169号を横断します。周辺での発掘調査の成果

からみると、古代は一帯の谷間に水が滞り、沼のような状態になっていたようです。水

は高取川に流れ込みます。

 支流の平田川が流れる谷間も沼状で、その北側に東西に長い丘陵があります。
ここに
飛鳥時代の古墳が並びます。西から梅山古墳カナヅカ古鬼の俎· 雪隠古墳
東端
野ロ王墓古墳です。飛鳥浄鷲宮で律令国家の建設に邁進した第40代の天武天皇
と第
41代の持統天皇の「檜隈大内陵」に治定されています。

 明日香村野口にある7世紀末葉の終末期古墳で、江戸時代には「王墓」、「王墓山」

「皇ノ墓」などとよばれました。八角墳で墳丘裾の一辺15m前後、対辺間の距離37m 、
さ7 . 7mと推定されます。

 内部の様子を記した鎌倉時代の古文書があります。盗掘に対する実検記録の書写本

「阿不幾乃山陵記」です。1880 (明治13 )年に京都の高山寺で発見されました。

 これによれば墓室は玄室とみられる「内陣」と羨道とみられる「外陣」に分かれます。
他の史料も参考に、内陣
は長さ4.2m2 ,幅2 . 8mが、高さ2 . 4 m、外陣は長さ3 . 5m、
幅2 . 4m、高
さ2 . 2m、全長は7 . 7mです。

 内陣の壁は朱塗りで、内陣と外陣は獅子の顔の取っ手が付いた両開きの金銅製扉
で仕
切られます。石材は「馬瑙」と記されます。墓室には花崗や凝灰岩を使うのが一般
的ですが、文献史料の馬脳は、実際は大理石を指すことがあります。現代人はだれも
見ていませんが、墓室に大理石が使われた可能性があります。

最高位の人物の墓所にふさわしい比類のない仕様です。

 内陣には格狭間(こうざま)のある金銅製の棺台、その上に朱塗りの夾紵棺
(きょうちっかん)が置かれていました。格狭間とは仏壇の基壇の装飾デザイン、夾紵棺
は重ねた布を漆で固めた最高級の棺です。棺内には人骨、衣服、石枕、玉類が納めら
れていました。さらに、床には金銅製桶も置かれていました。

 こういった墓室内の様子は、「日本書紀」「続日本」の天武天皇と持統天皇の葬送
記事に合致します。夾紵
棺の被葬者は持統2(688)年11月に「大内陵」に葬られた天武
天皇、金銅製桶は大宝
3(703)年12月に「飛鳥岡」で火葬された後に合葬された持統天皇
の蔵骨器にあた
るとみられています。

 被葬者をほぼ確定できた数少ない古墳です。文久修陵では文武天皇陵でしたが,阿不

幾乃山陵記の発見により、1881 (明治14年2月天武持統陵として橿原市の
五条
野丸山古墳から、治定変更されました。明治政府の治定変更は稀有のことです。

 また, 2012年に複数の報道機関が宮内庁に情報開示請求し、1959年、61年に、宮内庁
が墳丘を発掘調査
していたことがわかりました。開示資料には、八角墳丘裾での石材の
様子や各側辺の
実長などが示されています。

 2014年には、学会要望による立ち入り観察がありました。調査で確認された八角墳の
東北東の隅角部分
を、埋め戻した後にコンクリートで地上表示したものです。
墳丘の外から見ることは
できません。立ち入りが許されるまで、私はこういう表示がある
とは知りませんでした。  
  2018-3-16  朝日新聞
(関西大非常勤講師今尾文昭)


 鎌倉時代中期、北条泰時が執権にあった文曆2 (1235)年3月20、21日の夜のことです。
阿不幾乃山陵(あおきのさんりょう)に盗人
が「乱入」しました。阿不幾乃山陵とは、
天武天皇と持統
天皇を合葬した「檜隈大内陵のことで、考古学では野口王墓古墳と呼ぶ
明日香村野
口にある八角墳です。

 侵入後の実検記録の書写本が、京都市右京区にある高山寺の方便智院に所蔵されて
た「阿不幾乃山陵記」です。山陵の形状や規模、墓室.棺の構造と材質、遺骸の状態、

遺物の種類や数量を記します。また、遺存品の橘寺への移送や「御念珠」を多武峯の

法師が持ち帰ったことなども書かれています。

 陵墓は国家によって厳重に守られていたはずが、まさかの侵入です。7、8世紀に律
国家が整備した陵墓制度
が、時代がくだり、ほころびが生まれていたのでしょう。

 ただ、そこで思考を停止したのでは、盗人の侵入動機の背景にせほることはできませ

ん。

 「阿不幾乃山陵記」の前半には、「此の石門を盗人等纔(わずか)に人の一身の通る許切
(ばかり)り開
く」とあります。盗人らは、侵入にあたり、ひとりが通る程度のわずかばかりを
開けた
というのです。ということは、それまで墓室は閉じられたままだったのでしょう。

 後半には、「盗人取残物等」の紹介があります。石御帯、御枕、金銅桶、棺内に遺骨と
紅の御衣、銅製品のカケ
が遺存していました。銅製品のカケは銅鏡片のことでしょうか。
それに御念珠と記された銅糸で連ねられた琥珀製玉類が加わります。室内には多くの
ものが残されました。侵入はしたけれど、いったい何を盗んだのでしょうか。

 侵入事件の波紋を、ほかの同時代史料にもみることができます。歴史書「百練抄」は

侵入先を「天武天皇御陵」侵入者を「群盗」とします。年代記「帝王編年記」は、「盗人」が
侵入、場所は「天
武天皇山陵也」と特定します。当代随一の歌人、藤原定は日記
「明月記」に山陵を
「見奉る」者がいると聞いて「哀慟の思い」が増すとつづりました。

 京都の朝廷周辺の人々は、陵墓への侵入を盗掘行為とすることで一致しています。
ってはならないことだという共通した陵墓観があったと読み取れます。

 一方、「帝王編年記」には南都ならびに京中の諸人が多く「陵中」に入って、御骨を
「奉拝」したとも記されます。山陵へ立ち入り、遺骨を

拝む多くの人々がいました。 これらの人は、朝廷社会の人とは異なる陵墓観を持ち合わ

せていたようです。

 「阿不幾乃山陵記」の冒頭には、陵の形が八角で「石壇一匝(めぐ)り丶 一町許欤」、
「五重
也」とあります。当時は八角五段の墳丘がよく望まれる状態にあったのでしょう。

 律宗の中興の祖、叡尊の自伝「感身学正記」には、西大(奈良市)の復興にあたって、
まず四王堂本尊として八
角五重の石塔を立て、自身が所持していた舎利を奉納した
記されます。暦仁元(12
38)年のことです。阿不幾乃山陵への侵入とほぼ同時代 です。
ほかにも生駒谷の行基墓の開掘や、聖徳太子墓への侵入で「御牙歯」が盗まれたこと
などが記録にあります。

 これらは偶然ではなく、一連の歴史事象ではないかと私は臆測しています。聖人の遺

骨を拝む中世の人々の登場です。これらの人々にとって「盗人乱入事」は、いわば聖
を開くことだったのではな
いでしょうか。
   2018-3-28  朝日新聞
(関西大非常勤講師今尾文昭)


 インターネットの地図で藤原宮(橿原市)からまっすぐに北へたどります。奈良盆地北端
の佐紀丘陵(奈良市)を
越え、山城盆地(京都府)に入り、木津、木幡(こわた)、さらに北
画面を進めます。その先の
山麓に、御廟野古墳(ごびょうの・京都市山科区)があります。

 天智天皇の「山科陵」に治定されます。2段の方形壇の上に、対辺間距離42mの八角

形墳丘がのる八角墳です。明日香村の野口王墓古墳(天武持統天皇陵)と同じく被葬
がほぼ確定できる数少ない
古墳です。治定のとおり、天智10 (671)年に近江大津宮で亡
くなった天智天皇が葬ら
れていると考えてよいでしょう。

 別の方法でも位置を確かめました。·国土地理院発行の地図をつないで物差しを当てる

と、藤原宮のほぼ真北に御廟野古墳はあります。

 今度は藤原宮からまっすぐ南へたどりぼす。南面中門から朱雀大路が延びます。藤原
の中軸の朱雀大路の南延長
線上に築かれたのが、八角墳の野口王墓古墳です。

 藤原京と天武天皇陵の関係は、早くに古代史の岸俊男氏が指摘しました。天武天皇

の「大内陵」の造営は、持統元(687)年10月に始まっていますから、少なくとも藤原京
(694~710年)の
設定は、天武末年以前のことだとしました。あわせて文武天皇陵の真陵
とみなされ
る八角墳の中尾山古墳、また高松塚古墳栗原塚穴古墳(現·文武天皇陵) 、
キトラ古墳が、南延長線上の近くにあることはよく知られています。

 藤原京の南北中軸線の延長上に、八角墳の天智天皇陵と天武天皇陵が築かれていま

す。これが偶然だと言う研究者もいますが、私はここに歴史的な意味が込められている

と思っています。

 そこで八角墳の意味ですが、大王(天皇)の勢威が四方、八方にくまなく及ぶ飛鳥時代
の為政者の世界観を、王
陵の形に表したものではないでしょうか。「万葉集」の「わがだ王」
などにかかる枕
詞の「やすみしし(八隅知之)」もこれに通じるものでしょう。ほかにも支配
のかた
ちを八角形で表すものがあります。

 元日の重要儀式や即位式で天皇の御座となる高御座です。文献史料をもとにした考
では、上中下の3段からな
り、下段が平面方形、上中段が八角形になるとされています。
729年の天平改元の宣
命には、高御座に座した天皇は天と地の八方を治め調えるとあ
ります。現在、平城宮跡
の復元大極殿にも高御座が置かれています。見学した方も

いるでしょう。

 つまり、この世の支配の中心が大極殿に置かれた高御座に座す天皇であるのに対
して,陵に採用された八角墳はあの世での歴代天皇の支配を示すと私は考えています。

 一方、藤原宮の西門中門からほぼ西に四条塚山古墳(現綏靖天皇陵)が存在します。
都づくりのなかで選択的
に残されたと推測できます。皇統譜にみえる始祖王の
神武
天皇陵に擬せられた可能性があると考えます。

 藤原京は持続天皇からみて、直接の先々王 (父·天智天皇)と先王(夫·天武天皇)の
陵墓を南北軸として、
伝説上の始祖王陵を東西軸に配置する都市デザインのもと

に築かれたと、私は推測しています。

 都の人々が、このデザインの意味を認識していたのか。私の推論には、さらなる証明

が必要です。手掛かりとなる木簡などが出土しないものかと日々、心待ちにしています。
   2018-3-30  朝日新聞
(関西大非常勤講師今尾文昭)








車木天皇山古墳

 実名(諱・いみな)を「タカラ(宝)」という王女がいました。2度も大王の位につき、皇極大王

(天皇)として飛鳥板蓋宮治政を執ります。

 世は蘇我蝦夷入鹿の全盛期でした。その極みに事件が起きます。645年の乙巳の変
(大化の改新)です。そ
の後、2度目の即位(重祚)で斉明大王(天皇)となりました。661年には、
百済
復興支援のために朝鮮半島への出兵を決意して、自ら筑紫(今の北部九州)に出向
きま
す。百済は前年,唐と新羅連合軍によって滅亡に追い込まれ、百済の遺臣たちは再
を期して戦っていました。

 女帝の人生には、度重なる国内外の緊迫した情勢がつきまといました。斉明7 (661)年に
出征先の朝倉宮(福
岡県朝倉市付近)に没します。

殯は飛鳥川原で行われました。その後、子の間人王女(皇女)とともに小市岡上陵に合葬され、
天智6 (66
7)年には、陵前に孫の大田王女(皇女)が葬られたと日本書紀」は記します。

 宮内庁が斉明天皇陵とするのは高取町車木(くるまき)の丘陵頂上にある一古墳です。
史料の多く
が天皇(王)山、または奥谷山と記す場所です。古称にのっとり、車木天皇山古墳
と呼
ぶのが適当でしょう。陵墓測量図から中心部分のみを墳丘とみると、直径約17mの円墳

です。その南側の中腹にある古墳が、大田皇女墓になっています。日本書紀の記述に沿った
治定です。

 車木に斉明天皇陵を考えたのは江戸時代の儒学者の蒲生君平です。「山陵志」(1808年)に、
斉明大王を葬送
する霊車が来て、止まったことにちなんで「車来」の地名になったという里人
の伝えを
あげています。しかし、2度も大王になった人物の陵墓が、どうして小さな円墳なの
しょうか。

 斉明大王は皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)に民を憂いめぐむために、石槨の役
(えだつ)を起こさず」と遺言し
たと日本書紀にあります。大規模な埋葬にならないようにと生前
に伝えていました。
 文久修陵の中心人物、谷森善臣は安政4 (1857)年の「藺笠(いがさ)のし
づく」で、薄葬
思想に考え合わせた「趣」があると、車木説を追認しました。頂上を斉明天皇陵、
中腹
の古墳を斉明大王の孫 建王(たける)の墓と考えました。東南向きの横穴式石室で羨道
と玄室の
露呈を記します。さらに、その間にある1基を大田王女の墓と考えました。谷森は、合

計3基の古墳の存在を認めたわけです。

 現在の車木天皇山古墳は斉明天皇と間人皇女の「越智崗(おちのおかの)」と「建王墓」です。
腹の古墳が大田皇女の「越智崗上墓」です。谷森が示していた見解と現在の治定は異な
ます。

 谷森が慶応3 (1867)年に幕府と朝廷に献上した著書「山陵考」では、頂上を智崗上陵
中腹の小字で谷口
山を大田皇女墓としますが、建王墓には触れていません。

藺笠のしづくを著してからの約10年間のうちに、建王墓の扱いを変えたのでしょう。

 大田皇女墓となる古墳は、柵越しに見る限り円墳です。陵墓測量図によれば直径約20m

です。「大和国御陵絵図」(末永雅雄旧蔵)には、頂上と中腹の2カ所に陵墓修復の目印の縄張
りがあり、
中腹の方に数個の石が描かれています。横穴式石室の石材でしょう。谷森が当初に
建王
墓とした古墳はこちらで、これが現在の大田皇女墓となる車木谷口山古墳だと考えます。
  2018-1-19  朝日新聞
(関西大非常勤講師今尾文昭)



 「斉明天皇陵説強まる」と新聞紙面をにぎわせたのは2010年9月のことでした。車木天皇山
古墳(現·斉明天
皇陵)がある高取町の隣、明日香村越にある 牽牛子塚古墳の報道でした。
村教育委員会
の発掘調査で、墳形が八角墳になることが確かめられました。八角形のうちの
三辺分が
見つかったのです。

 横口式石槨を覆う壁部分は3段で築かれます。表面は二上山から運ばれてきた岩で飾られた
とみられます。
盛土部分の裾での対辺間距離約22m 、高さ約4 . 5m以上裾回りは石畳のよう
凝灰岩の切石が敷かれていました。隅は内角135度になるように丁寧に石材を調整しています。

 西側の外回りは川原石を主とする砂利敷きです。仕切りとなる石列をはさんで約10cmの段差
があり、2段となりま
す。仕切石での対辺間距離は約26.6m。異なる石材で色彩変化をみせる
五重の八角形
でデザインされた終末期古墳です。

 舒明天皇陵となる桜井市の段ノ塚古墳、天智天皇陵の京都市の御廟野古墳、天武·統天皇陵
の明日香村の野口王
墓古墳、文武天皇陵とみられる同村の中尾山古墳は、八角墳です。
大王(天皇)の位に
就いた斉明大王の夫、子、孫、曽孫の5人が八角墳に葬られています。
そうとなれ
ば斉明大王も八角墳に葬られたと考えるのが自然でしょう。断然牽牛子塚古墳が

「斉明天皇陵」と考えられるようになりました。

 では、西約2.5kmに位置する車木天皇山古墳は、どのように評価すればいいでしょうか。

 江戸時代に訪れた谷森善臣は当初、車木天皇山古墳を含む3基の古墳について、丘陵頂上を
斉明天皇陵、その下
に大田皇女墓、さらに下を建王墓に当てました。そのうち1基は横穴式石室
です。周辺
の古墳の様子から判断して、6~7世紀の小さな単位の群集墳を構成する1グループと

みなすのが適当だと考えます。

 それでも、牽牛子塚古墳を斉明天皇陵と考える上での課題は残っています。牽牛子塚古墳の
規模や外回りの石敷き
は、707年に葬送された文武天皇の陵墓とみられる中尾山古墳によく似て
います。丘
陵尾根上を選んだ立地も共通しています。牽牛子塚古墳の築造時期は、7世紀末から
8
世紀初めにあると考えます。

 斉明大王と合葬された間人王女の葬送が667年以前ですから、牽牛子塚古墳の築造時期との
差は大きいものとな
ります。

 牽牛子塚古墳の横口式石槨は約45cmの厚みの壁を挟んで東西に2室が設けられています。
合葬に対応した造りで
す。一方、はめ込み式の閉塞部はひとつです。閉塞は一度きりでしょう。
どこか別の場
所に合葬されていた2人を改葬するための構造だと考えます。

 私は牽牛子塚古墳への改葬前に2人が葬られていた古墳は、明日香村越の岩屋山古墳と推測
しています. 7世紀半ばの
精緻な切石造りの横穴式石室が有名です。墳丘の下段は方形ですが、
上段を八角形
とみなす見解があり、私も賛成です。

 段ノ塚古墳の横穴式石室は長さ24m前後になる可能性があります。一方、岩屋山古墳の石室は
17m前後と、小さく
なっています。石室の縮小化がより進んだ姿といえるでしょう。

 斉明大王が薄葬を願った遺言がありました。「万民を憂いめぐむために、石槨の役(えだち)を

起こさず」は、岩屋山古墳のことではないでしょうか。
  2018-1-26  朝日新聞
(関西大非常勤講師今尾文昭)






栗原塚穴古墳

 百済からの渡来人の末裔で河内国の船氏出身の僧,道昭は文武4(700)年に粟原に火葬されます。
白雉465
3)年に遣唐使に従い入唐し、三蔵法師として知られる玄奘に学びました。道昭の火葬を
続日本紀」は「天下の火
葬此より始れり」と記します。

 続いて大宝3(703)年に持統天皇、慶雲4 (707)年には文武天皇がそれぞれ飛鳥岡に火葬されます。
文武天
皇に5カ月の殯の後に「檜隈安古山陵」に葬られました。都が飛鳥から藤原京へと遷った8世紀
初めのことです。

 火葬は仏教の葬法として広まった可能性があります。が、同時期の高松塚古墳トラ古墳の被葬
者は仰向けに
寝た状態で葬られているので、有力者全員が火葬されたわけではありません。それで

も火葬は、埋葬に大きな施設がいらない薄葬思想に合致した葬法です。奈良時代には広く採用されま
す。

 宮内庁が第42代文武天皇の「檜隈安古岡上陵」として管理するのは、明日香村の字「塚穴」にあり,
俗称「ヂョウセ
ン山」と呼ばれた栗原塚穴古墳です。1881年に明治政府によって治定されました。

現在は、木が生い茂るため観察は容易ではありません。北側の丘陵を削り、南向きに墳丘が設けられ
たことが、か
ろうじてわかる程度です。

 宮内庁の専門官の石田茂輔氏は直径約15m 、高さ約3.5mの円丘があり,背面の北側丘陵は高さ
約9.3mの急
勾配になると記します(「国史大辞典」1992年) 。そして、円丘は「破壊された切石造り石室
を覆い築いたもの」としています。横口式石槨可能性があります。山寄せの終末期古墳になることは

間違いないようです。

 どの古墳を文武天皇陵に定めるかは、近世、近代を通じて流動的でした。元禄修陵時には高松塚
古墳、「大和志」
(1736年刊)では中尾山古、文久修陵の時点では野口古墳があてられました。

 学界が長く文武天皇陵と考えているのは、中尾山古墳です。1974年の調査で、3段の墳丘(対辺間
距離約19m)
に2段の外部施設(対辺間距離約30m)がともなう八角墳になることがわかりました。

 埋葬施設の横口式石槨は側石と閉塞石が凝灰岩、天井石と底石は花崗岩を組み合わせ、内部は
立方体になります。東西幅90 cm、南北幅93cm ,高さ87cm 、当時の物差し唐大尺で換算すれば3尺
四方の空間をもつことになります。

 これでは成人を寝かせた状態で葬るには狭すぎます。石槨内には骨蔵器が収められていたのでし
ょう。考古学や古
代史からは、火葬に対処した施設を備え、八角墳の中尾山古墳を文武天皇の真陵
と考え
ることがほぼ定説です。

 では、栗原塚穴古墳をどのように考えれば良いでしょうか。この古墳は中尾山古墳から南へ約400頃
高松塚古
墳から南へ約250 、キトラ古墳からは北へ約1キロの位置にあります。南に眺望が開けた
地勢にある点は、これら
の古墳と比べても遜色がありません。

 もしか、高松塚古墳が元禄修陵時のまま現在も文武天皇陵と定められていたならば、1972年3月の
極彩色の壁
画発見の端緒となる「ショウガ穴」を村民が掘ることはなかったはずです。ここに思いを及
ばせた時に、封印されて
いる栗原塚穴古墳の埋葬施設はどのようなものか。飛鳥の古墳には、未知
のことが多く
あることに気付かされます。
  2018-2-10  朝日新聞
(関西大非常勤講師今尾文昭)








 天智天皇の近江遷都(667年)を物語る宮殿跡が琵琶湖のほとりの大津市錦織で見つかったのは、もう

30年も前のことだった。遺跡は「近江大津宮跡」として国の史跡となった。「大津京跡」とも呼ばれ、
今年3月に
は近くのJRの駅名が「大津京駅」となった。だが、駅名への採用が契機となって「大津京」とい
う名称に
古代史や考古学の学者らから異論争が起きた。実は同じような問題が以前から飛鳥にもある。
「飛鳥京」という
呼び方に対してである。

 「飛鳥京」も「大津京」日本書紀など史料にみえず造語である。「飛鳥のミヤコ」「大津のミヤコ」という
意味で使われてい
る。ところが、近年の古代史学の定説では、「京」とは碁盤目状の街路と区画が整った
条坊制に基づく宮都
を い、律令制が確立する藤原京(694~710)で初めて成立したとされる。次の平城京
平安京は
完成した「京」の形態である。藤原京より古いミヤコである飛鳥や大津では、京は成立しておらず、
「飛鳥
京」「大津京」という名称は適切でないという結論が生まれる。

 そこで、「大津京駅」への異議がとなえられたわけである。だが、この論理は学問的には厳密かもしれな

いが、言葉の多義性への理解に欠けているように私は思う。言葉が学問的な厳密性にしばられると、生き
きとした表現ができなくなる恐れがある。

 ミヤコがおかれた飛鳥、大津を指して、日本書紀は「倭京(やまとのみやこ)」「近 京(おうみのみやこ)」と
書い
ている。これを分かりやすく言い換えたのが「飛鳥京」「大津京」である。「京」という言葉を条坊制

の宮都に限定すれば、適切でないかもしれないが古代人は条坊の整ったミヤコと、条坊ができる前のミヤ

コを、一言葉で厳密に使い分けていたわけではない。

 「京」と書けば、条坊があろうとなかろうと、奈良時代までは「ミヤコ」と読んだ。「平城京」は「ナラノミヤコ」
と読まれ、ヘ
イゼイキョウ」と音読みされるのは平安時代になってからとされる(現代の読み
「ヘイジョウキョウ」)。

 ミヤコの原義は、接頭語の[ミ」に「ヤ(屋)」から成る「ミヤ(宮)」に、場所を示す「コ」が付いたものだという

(岸俊男『日좀代宮都の研究』)。ミヤコは「宮(皇居)のある土地」という意味で、「京」と書かれたのである。
「東京」の地名由来が「東
のミヤコ」であるように、「京」には現代でもミヤコの意味が込められている。

「京」を条坊が整った宮都の意味に限定するのは、あまりに狭い理解だと思う。

 滋賀県で「大津京駅」の名称の是非が論争になった時、たまたま直木孝次郎さんの近著『額田王』を読ん

でいて、「大津京」と書かれていたので、オヤと思った。手元にある古代史関連の本に当たったら、井上光

貞監訳『日本書紀』(現代語訳·笹山晴生) 、門脇禎二著『新版飛鳥』、西郷信綱著『壬申紀を読む』も
「大津京」を使っていた(門脇氏は「近江大津京」)。いずれ劣らぬ古代史、古典学の大家たちである。学界

でも「大津京」の名称が案外、使われていたのだ。

 県立橿原考古学研究所(橿考研)は、天武天皇飛鳥浄御原宮など四つの宮跡が重複した明日香村岡に

ある遺跡を「飛鳥京跡」と名付け、発掘している。だが、「飛鳥京」は適切でないと考え、あえてこの遺跡
を使わない研究者も少な
くない。「飛鳥京」ももつと胸を張って使ったらよいと思うがどうだろうか。
  2008-12-2  朝日新聞
(沖真治)


 万葉集では、ミヤコは「京」のほか

「京師」「王都」「都」などと表記され、万葉仮名では

「美也古」などと書かれている。用例では「京」と「京

師」が一番多い。飛鳥京跡は60(昭和35)年から橿

考研が継続して発掘中,舒明天皇の飛鳥岡本宮、皇

極天皇の飛鳥板蓋宮、斉明天皇の後飛鳥岡本宮、

天武天皇の飛鳥浄御原宮の宮殿跡と判明し、古代

史研究に貴重な資料をもたらしている。




石の女帝

 654年、難波宮(大阪市)で孝徳天皇が崩御すると、姉の皇極上皇が再び即位(重祚)します。
斉明天皇で
す。「日本書紀」には皇極天皇と斉明天皇は、まるで別人のように描かれていま
す。蘇
我氏に頼った皇極天皇の政治運営は一変し、天皇自身の強い意思で政治が決断さ
れるよ
うになります。 

 その背景の一つに、天皇が信仰する「道教」があります。飛鳥板蓋宮は斉明天皇の即位直
後に火災にあます。

飛鳥川西岸の川原宮に移りましたが、翌年、火災の跡地に岡本宮を造営します。飛鳥の

小盆地の中心である旧宮の場所にこだわりがあったのでしょう。水はけの悪い土地に川原石
を敷き詰め、排水溝を建
物の周囲にめぐらせました。

 これと同時に宮殿の東の丘陵を整形し、右で化粧した両槻宮(なみつきのみや)も造りまし
た。丘上の宮
殿のため運河を掘削し、約10キロ離れた、はるか天理かられんが状に加工した
砂岩を運びました。工事の最中、何度も石垣が崩れるなど、余りの大土木工事のため、人々
は無駄な浪費とうわさしたほどです。

 これほどまでに事を強行した理由は両槻宮が天皇の居所ではなく、道教の神をまつる神殿
だからでしょう。すべて
の政治を神に委ねたのです。「書紀」には神殿の中枢に「高殿と天宮」
を建てたとあ
ります。前期難波宮の発掘によれば、孝徳朝の大極殿院の両側に掘立柱の八角
殿を配置
していました。熊本県の古代山城の鞠智城(きくちじょう)では、斉明朝に東西2棟の
八角塔を建ててい
ます。両槻宮にも掘立柱構造の八角塔を建てていたのではないでしょうか。
両槻の名称
は、この塔のことで、高殿と天宮と思いたいのです。

 神殿が建つ丘の周囲には、花崗岩やれんが状の天理砂岩の護石で舗装しました。宮殿
中央には、円と直線の溝を
刻んだ石の斎具(酒船石)に水を流し、神判を受けました。神殿の
北すそにも、湧き
水を石造りの蛇口から亀甲形(亀形石造物)の水槽へと水を流し、水面に映
る占相(せんそう)は、
天皇にとって最も重要な政治判断のよりどころとなりました。

 当時の東アジア情勢は緊迫していました。朝鮮半島のは、超大国の唐と新羅の連合軍
による総攻撃にあってい
ました。倭(日本)は660年、百済滅亡の知らせを受けます。百済からの
救援要請に
どう対応すべきか。その決断はこうした占いで行われました。

 おそらく「吉」の託宣が出たのでしょう。福岡県の朝倉宮へ、皇室一家の大移動が始まります。
船は瀬戸内海を西
へ向かい、岡山県大伯のあたりで孫の大伯皇女が生まれます。松山市の
熟田津宮(にきたつのみや)とされ
る来住遺跡(きし)に立ち寄り、博多港の娜大津なのおおつ)
に着きました。
大兄皇子中臣鎌足など同行する皇族や官僚が、女帝の実行役となりました。


 2014-5-30  朝日新聞(京都橘大名誉教授猪熊兼勝)





高松塚とキトラ

 飛鳥に点在する終末期古墳の中には、壁画を描いたものが2基あります。それが高松塚古墳キトラ古墳で、「壁

画古墳」と呼ばれています。ともに、藤原京の南部にある7世紀後半の王陵域にあり、当時の皇族あるいは貴族の墓

と考えられています。

 墓を絵画で飾る行為は中国では前2世紀ごろからみられます。湖南省の馬王堆漢墓(まおうたいかんぼ)では、
棺を囲む木槨の内壁に、
整列する車馬や兵士などを描いた布が張られていました。壁画墓は、そのような絵画を

直接墓壁に描くことで始まったと考えられます。壁画墓は唐代には首都長安周辺の陵墓を中心に展開し、朝鮮半島
では、世界遺産でもある高句麗壁画古墳が有名です。

 日本では5~6世紀を中心に、船·武器·武具などの絵や円·三角などの文様を描いたり、浮き彫りを施したりすること
で墓室を飾る古墳がみら
れます。それらは「装飾古墳」と呼ばれ、主に九州と関東北部·東北南部に分布します。

 やがて7世紀末になると、石室内全面に漆喰を塗り、その上に極彩色の絵画を描く壁画古墳が現れます。

画古墳も装飾古墳の一種ですが、四神·十二支といったモチーフの思想的背景や、絵を描く技術がそれまでの装飾
墳とは明確に異なります。

 高松塚古墳とキトラ古墳の墳丘は、ともに2段築成の円墳で、下段の直径は高松塚古墳が23m 、キトラ古墳が
13.
8mですから、キトラ古墳が一回り小さい規模です。石室は、両者とも二上山産凝灰岩の分厚い石材を組み合わ
せて
造られています。石室内の大きさは、幅·高さはほぼ同じですが、奥行きは高松塚古墳が265cm、キトラ古墳が
2
40cmで、高松塚古墳が約1尺分長くなっています。墳丘の大きさや石室の規格からみると、被葬者のランクは
高松
塚古墳の方がキトラ古墳よりも上位にあったといえるでしょう。

 一方、キトラ古墳の石室天井には屋根形の刳り込みが施してありますが、高松塚古墳の天井は平坦なままで、
石室
の特徴からはキトラ古墳の石室のほうが丁寧に造られています。両者の石室は細部の構築技術が共通し、
同じ石工集
団による仕事と考えられますが、キトラ古墳の方が高松塚古墳よりも若干古いようです。

 石室内に描かれた壁画は、四神·天文図·日月像が両古墳に共通し、その他、キトラ古墳には十二支像が、高松塚

古墳には男女群像が描かれます。四神図は、両古墳とも構·図がそっくりで、同じ画師集団の関与が推測されます。

 ご存じの通り、21世紀に入り、これらの壁画は石室内に置いておくと損壊してしまう恐れがあることが明らかとな

りました。貴重な文化財を後世に伝えるため、壁画は古墳から取り出され、修理·保存されることになり、考古学保存
科学·生物学·写真映像
など様々な分野の専門家が協力して調査と作業にあたりました。
   2014-5-2  朝日新聞(奈良文化財研究所都城発掘調査部研究員若杉智宏)


 昭和58 (1983)年にキトラ古墳の石槨奥壁(北)の玄武が確認され、その後、東・清、南・朱雀、西・ 白虎と天井・
日月天文図、各壁の低位置に十二支獣頭人身像も発見されました( .7軀を確認)。十二支の方位は天文図と四神図
に呼応し、石槨内に宇宙的な広大な空間を構築しています。図様は法隆寺壁画とちがい、漆喰下地に描かれていま
す。

 昭和47 (1972)年に発見された高松塚古墳は、北.・東・西壁と天井石はよく保存され、漆喰下地に上質の絵の具で
四神図(朱雀を欠く)と
男女群像、日月天文図が描かれています。男女群像という現実世界のイメージが四神図(宇宙
図)と同じ壁面に混
在するところが注意されます。7世紀終わりごろの海獣葡萄鏡や下限が和銅末年(715年ごろとされ
る須恵器
の断片も出土し、だいたいの築造年代が推測できます。火葬墓ではないのが気がかりですが、おおかたの
意見では8
世紀初頭の築造で一致していると思います。

 高松塚古墳壁画にはやわらかい筆遣いの美しさがあります。真っ白い下地(漆喰に鉛白左混ぜる)に上質の岩絵具

で彩色し、また飛鳥美人の着衣には明るいエンジ色などの有機色料によるかとみられる発色もあり、絵の具の重ね
りや暈(ぼか)しを用いて、当初は微妙な色調でさらに美しかったに違いありません。

 すでに指摘されているように男女群像には蓋(きぬがさ)、柳筥(やないばこ)、大刀、円翿(かざし)など多種の持ち
類が表され、これは正月元旦の朝賀の儀式に用いられるもので、つまりこの男女はわが国に行われた儀式の
(参列者
かその)侍者と推測されます。

 しかし、これは現実に依拠しながらも、そのまま写した写生画にはあらず同じパターンでうまく描き分け、図様

(型)の推敲を経たものと知られるのです。この中に進行方向とは違う向きに視線をやる人物がいますが、群像表現

としては進んだものと評価し、より発達した表現描写からみて、制作年を大宝2(702)年の遣唐使の帰朝後に置く考
え方が強いのです。新
たな唐の影響を見るわけです。

 この二つの古墳壁画は、キトラが高松塚に先行するとみるのが良いと思います。石槨の形式はキトラが古様(天井

をくり込み凹面を作る)、天文図もキトラの方が精細で、より整理整頓された高松塚に先行するように思います。

 キトラの天文図は、元同志社大教授の宮島一彦さんによれば、北緯37.6度程の地点から観測された図である
よう
で、原図は古い朝鮮半島製かもしれません。

 四神図は、双方ともに同じ図像を使用していますが(朱雀は保留)、図の大きさが違うので紙型は異なり、高松塚

がより整斉に描かれます。青龍と白虎で、長い尾が後ろ足にからむ図様はともに新しい唐風がうかがえます。
一方の
キトフの朱雀は、玉虫厨子の霊鷲山図に飛翔する鳳凰に近い図様で、木棺の金具ともど百済式の雰囲気
を伝えてい
ます(高松塚出土金具は、はるかに唐風の強いもの)。キトラ古墳はおそらく7世紀末までには築造された
と思われ
ます。

 かくして、高松塚古墳壁画の存在は、わが白鳳期からに移り変わるころの重要な転回点にあることが分かりま

す。初唐末の新しい文化を受容しながら、はじめてこの世の事物(男女群像)に目がけられた、そういう意味で,記念
すべき絵画であったので
す。今後にしっかりと伝えることが、もっとも重要だと思います。
  2015-1-30  朝日新聞
(奈良国立博物館名誉館員梶谷亮治)

 高松塚古墳とキトラ古墳の壁画には、共通するモチーフがあります。それが、四神と星宿図(天文図)です。四神

とは「青竜」「朱雀」「白虎」「玄武(亀と) 」で、それぞれ東·南·西·北の守り神です。四神は方角だけでなく、季節や
色とも対応し、そこから「青春」や「白秋」といった言葉が生まれました。

 四神は神獣ですが、単に地上に生きる獣を神格化したものではありません。四神の思想は、星と深い関係があり
す。古代中国には、「二十八宿」とよばれる28個の星座がありました。天空に輝く星のうち、月の通り道にある星々

を選んでつくられた星座で、もともとは暦をつくる技術として、月の位置を知るために定められたものです。

 これらの二十八宿は、七つずつ東西南北の四方にわけられますが、各方角の七宿からつくられたのが四神なので

す。司馬遷が完成させた「史記」には、「二十八宿のうちの参宿(しんしゅく)は白虎で、外の四星が白虎の左右の肩
と股である」
という内容の記述があります。我々にもなじみ深い西洋の星座でいうと、参宿はオリオン座で、中央の
三つ星を囲
む外の四つの星が白虎の四脚の付け根となります。頭を天に向けた虎を、上からみた形に見立ててい
たことがわかり
ます。

 中国·漢代の鏡である方格規矩(きく)四神鏡には、「竜と虎は不吉なことを遠ざけ、朱雀と玄武は陰陽を順調にす

る」という意味の銘文をもつ例が多くあります。四神は邪悪なものを退け、陰陽の調和を保つ存在でもあったのです。

 中国で生まれた四神は大宝元年、日本の儀式に登場しています。「続日本紀」大宝元年条には元日朝賀の際に、

藤原宮大極殿の正門に烏(う・三本足のカラス) ·日·月像の幢(どう・儀式で使われた旗)とともに、四神の幡(ばん・同)
が立て
られたと記されています。

 唐や高句麗では四神が描かれた墳墓が多く見られますが、日本では、高松塚古墳とキトラ古墳の2基しか見つ
ておらず、古墳に広く導入
されることはなかったようです。

 唐や高句麗の壁画墓と日本の壁画古墳では構図の似た4のもありますが描かれる場所や図の表現などに違いも

ります。しかし、キトラ古墳の躍動的な朱雀図や、世界最古ともいわれる精緻な天文図は、東アジア世界でも類を

ない貴重なものです。これら日本の古墳壁画は、狭く小さな石室内で、被葬者の安寧を願って懸命に絵を描いた
1300年前の画師たちの傑作といえるでしょう。
  2014-5-9  朝日新聞
(奈良文化財研究所都城発掘調


 高松塚古墳やキトラ古墳は、極彩色の壁画をもつ古墳として有名です。これらの壁画は、石室の内面にうすく塗

られた白い下地の上に描かれています。キトラ古墳の四神図のひとつ「青竜」は,発見当初、この白い下地ごと石から

浮き上がり、今にもはがれ落ちそうな大変危険な状態でした。今回は白い下地の部分に着目してみたいと思います。

 白い下地は、炭酸カルシウム、いわゆる「漆喰」という素材です。漆喰は建物の壁材などとして現在でも利用され

ており、また天然には石灰岩や鍾乳洞などでみられます。

 現在の漆喰の製法は 消石灰に水を加え、ひび割れの防止·補強のために麻·紙などの植物繊維や砂を、接着,増

粘材として、海藻が原料のフノリといった糊などを混ぜて作ります。古代もおそらく同じような材料を使用していた

のではないでしょうか。

 高松塚古墳壁画の発見当初におこなわれた分析では、炭酸カルシウムが約96 %と、非常に純度の高いことが報
告さ
れていますので、砂などの混入は少なかったことがわかります。植物繊維やフノリといった有機物は、現在では
消失
してしまったと考えられます。

 さて、高松塚古墳とキトラ古墳の下地漆喰は、同じようにみえるのですが、実は成分的に違いがあります。それが

鉛の存在です。高松塚古墳の下地漆喰には鉛が含まれていますが、キトラ古墳には含まれていないのです。

 X線を使って下地漆喰に含まれている元素の分布を調べたところ、高松塚古墳の下地漆喰全体から鉛が検出さ
れま
した(酸化鉛として計算すると約0.3%) 。青竜や白虎といった図像の周辺は、余白部分の10倍以上も鉛の多いと

ころがあることもわかりました。一方で、キトラ古墳と同様に、鉛が含まれていない漆喰(同約0 01 %以下)も、高松
塚古墳には使用されてい
ました。壁石や天井石などの石と石のすき間をふさいでいた漆喰(目地漆喰)です。

 高松塚古墳で使われた漆喰には、鉛の有無により2種類あり、漆喰を使い分けていたことがわかります。余白部

と図像の周辺では、鉛の量が異なることもわかりました。

それではこの鉛、何の目的で使用されたのでしょうか。下地漆喰を早く乾燥させるため、または鉛が白色顔料の鉛

白であると仮定するならば、下地漆喰をより白くするため、など諸説あるようですが、残念ながら明確な理由はいま
だ不明のままです。
  2014-5-16  朝日新聞
(奈良文化財研究所都城発掘調査部主任研究員降幡順子)



聖徳太子

 日本史の教科書で、古代の政治や外交、宗教など多方 面に活躍し、理想的な人物と位置付けられてきた「

徳太子

」の存在感が近年、確実に薄くなっています。.推古天(大王)の時代は「日本書紀」の記載を尊重し、「聖

徳太子の政治」とまとめられるのが一般的でした。推古天皇の「皇太子」だった「聖徳太子」は「摂政」に任命され、
国政を担当したとの説明
を受けぼした。「憲法十七条」「冠位十二階」「遣隋使の派遣」などは、すべて聖徳太子の
事績として語られました。

 ところが、最近、「聖徳太子はいなかった」という議論が注目されています。ある高校教科書には、「聖徳太子は

実在したか」という項目さえ設けられるほど位置付けが低下しています。

中学校の教科書でも、時代によって描かれる聖徳太子の人物像の変化を考えさせるページを設定しています。

 一般の方からも「聖徳太子は本当にいたのか、いなかったのか」という質問が増えました。ですが、学問に対し
良心的に答えようとすれば、「いた」とも誉えますし「いなかった」とも言える、曖昧な答えになってしまうのです。

 その理由は、「聖徳太子はいなかった」とする議論でも、用明天皇の子である厩戸王(聖徳太子)の実在性まで

は否定せず、斑鳩宮や法隆寺(若草伽藍)を造営した点は事実と認めるからです。厩戸王と、後世の追号(死後に
贈られる称号)の「聖徳太子」をはっきり区別し、史実と伝説の連続性を全く認めない点に特色がありますが、
「日本書紀」や法隆寺に伝わる史料以外からも、初期の太子信仰が明らかに確認されるので、法隆寺系の史料
だけを完全に否定する議論には無理があるでしょう。

 戦後、歴史学者の津田左右吉による「古事記」「日本書紀」の批判を通じ、戦前には「確実な史料」とされた「日

本書紀」に対する信頼性が揺らぎ、金石文や法隆寺系の史料が重視されるようになりました。その結果、「日本
紀」が記す「摂政」「皇太子」の内実に疑問が提起され、推古女帝のもとでの馬子を中心とする共同統治と
理解が通説化しました。

 近年の「虚像」としての「聖徳太子」を否定する議論は、戦後も十分に取り除かれなかった「日本書紀」の拡大
解釈に基づいた「偉大
な宗教家,政治家」との位置づけに対する根本的な批判とも考えられます。「日本書紀」の
記述を、むやみに全否
定したり、全肯定したりせずに、中国王朝·隋の歴史書「隋書」や聖徳太子の伝記「上宮
聖徳法王帝説」など、
少しでも同時代と思われる史料を駆使し、冷静に批判を加えながら読むことで、聖徳太
の実像に迫りたいと思いす。2013-9-6  朝日新聞
国立歴史民俗博物館教授仁藤敦史)


 厩戸王 (聖徳太子)の内政における位置づけを考えたいと思います。「日本書紀」によれば、603年に人材登用
をはかるため「冠
位十二階」を、翌年には「十七条憲法」を制定し、官僚の心得を示したと伝えられています。

 特に冠位十二階は、冠の種類により、個人の朝廷内での地位を示した最初の冠位制度として重要です。
大王を中心
とする身分秩序を、服飾で可視的に示すことが可能となりました。「徳・仁・礼・信・義・智」という儒教
の徳目か
らとった6種類の冠を大小に分け、計12階としました。

 重要なのは中国の「仁・義・礼・智・信」という徳目の順位と異なり、礼と信を強調している点で、十七条憲法と

の思想的な関わりが指摘できます。従来の姓による世襲制の弊害を改めるため、氏ではなく個人に対して冠を与
え、
本人の能力により昇進が可能となった点が評価されています。

 冠位十二階が制定されたことは「隋書」に記載があります。さらに、外交儀礼において冠位が実際に用いられた
ことは、
「日本書紀」以外にも「隋書」に「小徳阿輩」「大礼哥多毗」とあることによって確実です。しばしば、聖徳
太子の事績として
冠位十二階も評価されますが、少なくとも「日本書紀」には明記されず、太子の伝記「上宮聖
徳法王帝説」に、
「聖徳王」(厩戸王)と「嶋大臣」(蘇我大臣馬子)との「共謀」により、仏教興隆と冠位十二階が行
われたと書か
れています。大臣の紫冠が対象外であったことを考慮すれば、大臣馬子との共同作業の可能性が
高いと考えられます。

 一方、「和を以て、貴(たっと)しとなす」という冒頭の文章が有名な十七条憲法は、日本最初の成文法で、内容
は、豪族や
官吏の守るべき道徳的訓戒を17カ条に及ぶ漢文で示したものです。

「日本書紀」によれば「皇太子,親ら肇めて憲法十七条を作る」とあり、聖徳太子による単独の事績として明らかに
示された唯一の記載で
す。「国司」の用字を問題視した歴史学者の津田左右吉以来、十七条憲法が果たして、

当時のものなのか、起草者は聖徳太子なのか、という疑問が提起されてきぼした。

 しかし、十七条憲法では「礼を以って本と為よ」「信は是義の本なり」のように、礼と信を重要視していることが

確認されます。こうした思想は冠位十二階においても、一般的な儒教の徳目の序列である「仁·義·礼·智·信」を、
「仁·礼·信·義·智」
と改めたことと対応しています。十七条憲法を同時代のものと想定することは自然です。  
  203-9-13  朝日新聞
(国立歴史民俗博物館教授仁藤敦史


 斑鳩に移住した厩戸王(聖徳太子)の一族(上宮王家)について考えます。

 「斑鳩宮」は「聖徳太子」の居住した宮殿として有名なのですが、その点だけが強調され、「宮」としての歴史的

位置づけや機構が十分明らかになっているとは言い難いと言えます。飛鳥では小墾田宮が推古天皇の宮殿とな
りまし
たが、斑鳩宮は大王(天皇)の居所とはならず、かつ上宮王家の滅亡で比較的短期間に中途で絶えたので、
その時期
の宮殿の具体的様子を知ることができぼす。

 斑鳩宮を検討する意義として、①文献と発掘の両面から確認できる最も初期の宮②厩戸王・山背大兄王の二代
にわ
たって上宮王家が居所としていたことが知られ、これまでの歴代遷宮(大王の代替わりごとに宮を移動させる)
の考
えに再検討を迫る③「聖徳太子」の宮である点に力点が置かれ過ぎ、王宮-都城制(天皇の住まいと官庁街、
民家な
どで構成される都)の発展の中での位置づけが十分されて|こなかった、などです。

 上宮王家とは、厩戸王と山背大兄王の父子を中心に斑鳩に住んだ用明天皇系の王族集団のことを 言います。
斑鳩地
方には斑鳩宮だけでなく、岡本宮、中宮、飽波葦宮(なみのあしがきのみや・泊瀬王宮)なども存在し、
それ
ぞれの宮に、蘇我刀自古郎(とじこのいらつめ)、菟道貝蛸王女、膳菩岐々美郎女、などの妃たちが居住し

たと考えられます。必ずしも妃たちは、厩戸王と同居していたわけではなかったのです。おそらく、厩戸王が住ん

だ狭義の斑鳩宮を中心として、周辺の宮に妃とその子女たちが分散居住していたと推定されます。

 このような居住形態を採ることで、斑鳩地域の土地開発や在地支配を確実にすることができました。新興の蘇我
一族の意向のもと、奈良盆地の大和川流域の物部氏の遺領をおさえ、非蘇我系の王族(敏達天皇系)の広瀬
地域
(奈良盆地西部) への進出に対抗する目的で、上宮王家は、中心地だった磐余(桜井市南西部)や飛鳥以外の
開発
可能地域として斑鳩に進出したと考えられます。

 「上宮王」号の継承は厩戸王に始まり、山背大兄王と、異母妹にあたる舂米女王(つきしねのひめみこ)の夫妻
に独占的に引き継がれ
ています。これは「上宮王家」の家産の分割を防ぎ、有力な王位継承者としての実力を維
持するための政略結婚の
意味があったと考えられます。

 前半生の活躍に比べ、晩年の厩戸王の活動は、仏教の信仰に傾倒していったように記されていますが、仏教が
多方
面にわたる複合的な先進的知識体系であったことを前提にすれば、その摂取に努めたとも理解できます。
   2013-9-27   朝日新聞
(国立歴史民俗博物館教授仁藤敦史)





平城京

 660年代に朝鮮半島で展開 した唐帝国の軍事的侵攻の情勢 の中で、次の征服の対象が日本列島であったことは
明らかなこ
とだったでしょう。滅亡したからは、今でいえば政治難民ともいうべき大勢の人々が、日本列島に逃
れてきました。万一
唐が攻め込んでくれば,もはや 逃れるべき場所はありません。

当時の政権をになう人々は大変な危機感を抱いたに違いありません。

 そこで侵略回避の施策が次々に講じられることになります。たとえ664年には対馬、壱岐、筑紫に防人と烽(とぶひ・
狼煙・のろし)を
置き、筑紫に水城を造ります。あるいは壱岐、対馬、瀬戸内海沿岸の各所に山城と呼ぶ大規模な城塞
を築くなどして、侵略に
備えました。

 それとともに、朝鮮半島では三国に分裂していた状態の中で攻め入られたのでしたから、その轍を踏まないようにと
判断し
たのでしょうの攻勢に反発しうる強固な中央集権体制の構築を目指しました。ただ、当時にあって、そのような
中央集権国
家をつくろうとすれば、お手本は唐に求めるしかありません。戸籍の整備、律令の編纂、列島を覆う官道網
の建設,土地支配の
根幹となる条里地割の施行道国などの地方行政機構の確立など多くの施策が推進されるのですが、
その最も中心となる事
業が都城の建設だったのです。

 581年に即位した隋の文帝は、漢代以来の長安城を廃棄して、そのすぐ東南に、未曾有の大規模な都城である大興城
を建
造しました。次の王朝である唐は大興城をそのまほ継承して、名称を長安城と変えました。

 これまでになかった、まったく新しい都城をなぜ築く必要があったのかについては、様々な要因が指摘されています。
とり
わけ、長い間南北に分裂していた中華大陸を再統一した隋·唐が、王権の正統化を図るために、支配の正統性という
観念や
秩序を目に見える形に置き換えた王朝儀礼を挙行する主要舞台として都城を建築する必要があったと説かれて
います。

 それとともに、ことさらに大規模に築かれた都城は、朝貢のために参内する諸蕃国の外交使節に対して、皇帝の権力
の巨大
さを誇示するための舞台装置という重要な機能をになっていました。わが国でも、この中華思想を導入して国家
体制づくりを
進めようとしたのですが、その場合、天皇に服属すべき蓄として濫づけられたのが九州部の隼人であり、
北日本の蝦夷であり、さらに新羅や渤海などの国々をも蕃国とみなし、国家権威の維持を図らなければなりませんでした。
平安時代の初期に至るほで、蝦夷に対して執拗に征服戦争を仕掛け続けたのも、もっぱらこの小中華秩序という形を
追求する必要があったからに他なりほせん。

 いずれにしても、7世紀後半代に、唐の軍事的脅威に直面していた日本が、その危機への対応策として、列島規模の
統合し
た国家体制を構築せざるをえなかった状況のもとで、大陸国家が採用している国家統合理念あるいは方法を導入
して藤原京の
建設が推進された、いや、推進せざるをえなかったのだと考えるのです。
  2008-8-15  朝日新聞
(奈良文化財研究所国際遺跡研究室長 井上和人)

 奈良市の平城宮跡にレストランやガイダンス施設を備えた平城宮跡歴史公園が開園して約2カ月。多くの人でにぎ
っているが、第一次大極殿
を往復するだけで帰ってしほう人も多いと聞く。

 それではもったいないと、約30年も平城宮跡の発掘調査に携わる奈良文化財研究所(奈文研)の渡辺晃宏副所長( 58 )
がすすめる周遊コースを
一緒に歩いた。

 待ち合わせは、奈文研の仮庁舎近くにある平城宮跡の西の佐伯門跡。ここまでだと近鉄大和西大寺駅から徒歩10分

ほどで着く。

 まずは第一次大柩殿の中に入った。中学生や外国人旅行者と一緒に並んで、南側の景色を眺める。目の前に大極殿

院の広大な空間が広がる。

 「奈良時代、ここからの景色は天皇しか見られなかったんですよ」と渡辺さん。身分を表す色とりどりの官服を着た奈良
時代の役人が、目の前
に並ぶ光景を想像した。

 南側の朱雀門には向かわず、逆に大極殿の北側へ。道路を越えると、ツゲの木が規則正しく並んでいる。ここには食事
を担当した役所の大膳
職があったと考えられている。ツゲの木は大膳職の柱の位置を表しているという。

 1961年、この近くのゴミ穴から木簡が初めてまとまった形で出土した。役所の記録や物資などが書かれており、昨年、
国宝にも指定され
た。木簡の研究者である渡辺さんは「木簡は奈良時代の歴史や人の営みを伝える貴重な資料木簡研
究の歴史はここ
から始まったのです」としみじみと話した。

 さらに近くの市庭古墳(現平城天皇陵)に立ち寄った。もともとは前方後円墳だったが、平城宮の造営時に前方部が削ら
れてしまった。そ
の後、奈良時代には後円部の一部を庭園に変え、貴族が借景として楽しんだという。

 削られた前方部を通る路地を抜け、平城宮の第二次大極殿へ向かった。建物が復元された第一次大種殿と違い、基

壇だけが復元され、柱の礎石が並ぶ。ここが、渡辺さんが一番好きな場所だという。

 基壇に上ると、東に東大寺の大仏殿と二月堂が見えた。天気が良いと南側の吉野の山々も見える。「平城宮跡だけ
なく、奈良盆地全体を見渡
せる場所です」と渡辺さん。

平城宮跡の発掘調査を終えて、ここから生駒山に夕日が沈むのを見るのが好きだったという。

 第二次大極殿付近は、舗装されていない場所も多く、観光客の姿もまばらだ。そのおかげで、草の香りや虫の声を
しめた。

 1300年前、同じ場所を奈良時代の人が歩き、未調査の地面の下には、今も大量の木簡や遺構が眠っている。じつくり
歩いてみて、「地下の
正倉院」とも呼ばれる平城宮跡の魅力を再確認した。2018-5-18   朝日新聞(田中祐也)


 1952年に特別史跡に指定され、広さは約130ha。平城宮を中心に築いた都の平城京は、中国.
の長安城を参考に造られた。碁盤の目状に
区画された平城京内には当時、数万~10万人が住ん
でいたとされる。近鉄大和西大寺駅か
ら朱雀門まで徒歩約20分。駐車場あり。

出土した遺物が見られる平城宮跡資料館や遺構が見られる遺構展示館などがある。平城宮跡歴
史公園の朱雀門南側に3月、レストラ
ンが入る「天平うまし館」やガイダンス施設の「平城宮いざない
館」などが整備された。







飛鳥・白鳳文化

 飛鳥寺蘇我馬子の寺院とされますが、完成するまでには長期間かかり、推古天皇聖徳太子とも無関係ではあり

ませんでした。このころ、朝鮮半島の国々から仏教と先進技術の移入が盛んでした。崇峻元(588)年、飛鳥寺建立のた
百済王がわが国の求め
に応じて仏舎利や僧とともに多くの分野の技術者を送って来ました。建築や仏像造立だけで
はなく、システム導入と
いう意味合いもあったのでしょう。

 『日本書紀』によると、飛鳥寺の仏堂は崇峻5(592)年に、五重塔は推古元(593)年に建ち、同4(596)年に寺は完成します。
百済の恵聡、高句麗の恵慈、蘇我馬.子の長子、善徳が寺に入ります。寺側の記録では、すでに土着していた渡来系工人
,鞍作首加羅爾ら4人が「金人」(仏像)を造ったとされ、現在の安居院(飛鳥寺)の本尊、金銅釈迦如来坐像(飛鳥大仏)こそ
はこのときのものではないかと思います。

 ところが、その後の推古17(609)年に銅と繡(ぬい)の丈六釈迦仏が制作された記録も残っています。『日本書紀』は、

これを鞍作鳥(くらつくりのとり・止利仏師・とりぶっし)の仕事としています。1塔3金堂の伽藍配置を持つ飛鳥寺の中金堂
に遅れて建立された.
現存しない東西の両金堂に対応した本尊像とも考えられます。

 鞍作鳥は、法隆寺金堂の金銅釈迦三尊像の光背銘に「司馬鞍首止利綸」と記された人です。その家系は6世紀はじめ
ごろに百済から来朝し、
渡来系氏族の東漢氏の配下にあり、蘇我氏や天皇の近くに仕えました。鳥は聖徳太子の冥福を
祈る法隆寺金堂釈迦三
尊像を推古31 (623)年に造ります。飛鳥大仏と法隆寺金堂釈迦三尊像とを比較すれば、目の
かたち、指の表現に
微妙なちがいがありますし、着衣のかたちも異なっていて,やはり作者は別であると考えたいのです。

 ところで飛鳥寺造建では、推古天皇は鞍作鳥から、事前に図面で仏像のかたちを示されています。仏師の側に「本
(ためし)」
の蓄積があったことを物語ります。これより先、鳥の父の多須奈も坂田寺(明日香村)の仏像制作に関与して
います
し、一族の加羅爾も飛鳥寺の造仏に参画しています。

 このころは、黄書画師、山背画師などの画師も定められたときで、こうした造形の制作者がすぐれて知的な作業維持
し進めるに十分な知識
(図像とその理解)が、7世紀初めには蓄積されてきたことを示しています。この時代における仏教
の造形の知識の
源泉は、直接的には朝鮮半島の国々にあったと、歴史は語っています。
  2015-1-9  朝日新聞
(奈良国立博物館名誉館員梶谷亮治)


 7世紀後半は、朝鮮半島で唐·新羅が百済と高句麗を滅ぼし、統一新羅が成立するなどわが国を取り巻く国際環境

が大きく揺れ動きます。白雉4(653)年には道昭など学問僧13人が入唐するという画期的な出来事もありました。

道昭は長安 玄奘三蔵に師事します。しかし遣唐使は669年から702年までの約30年間途絶えます。ただ、この期間は先の
入唐僧たちの帰国
の時期にもあたり、百済や高句麗の王族や貴族ら高い教養を持つ人たちの来朝、継続的な新羅との
交流など、情報量
は決して少なくはなかったのです。

 この時代は飛鳥時代白鳳期とも呼ばれます。インド·西域風の雰囲気がある初唐美術が本格的に受け入れられ、わ
国の造形美術は明らかに変
容していきます。その白鳳期の最も注目すべき遺産が法隆寺金堂壁画です。この壁画は
つ描かれたのでしょうか。

鈴木嘉吉·元奈良国立文化財研究所長は、現在の法隆寺金堂は670年ごろには造営されたはずだと主張されます。

壁画は天武天皇(在位673~686年)の末年ごろが制作の下限だと思いほす。表現、描写に新しい初唐のインド·西域風を受
けて斬
新です。

 金堂6号壁には阿弥陀浄土図が描かれぼした。図像の典拠は敦煌莫高窟の第332窟阿弥陀三尊五十菩薩図のよう
初唐図像です。阿弥陀像の
光背には背障(ついたて)が重ねて描かれ、この背障は勧修寺繡張(奈良国立博物館蔵)と一致
します。..勧修寺繡
帳に描かれるのは優填王思慕釈迦像ですが、その原像を写した彫刻を玄奘がインドから唐に請来し、
650年代~70
年代に模刻像が集中的に造られました。初唐の制作とみられる勧修寺繍帳は、おそらくそのタイミングで日本
に伝わ
り、6号壁図像の典拠の一つとなったのです。

 建築史の福山敏男先生が説かれたように、天井に描かれた「蓮華文」を頼りに法隆寺の彩色荘厳を見ますと、
①金
堂内陣,外陣の天井画
②金堂
中の間,西の間の箱形天蓋(てんがい)天井画
③五重塔初層天井画
④橘
夫人厨子天蓋天井画
の順に
描かれたことが分かります。

①の天井画蓮華文に近い文様が、勧修寺繍帳の背障にありますが、その勧修寺繡帳を典拠の一つとする6号壁も金堂

内陣天井画と同じころに描かれたとみられます。

 一方、6号壁阿弥陀如来像の背障にも蓮華文が描かれます。これは勧修寺繍帳の他に、ササン朝ペルシャ起源の

モチーフを持つ法隆寺の四騎獅子狩文錦(初唐)や正倉院宝物の犀円文錦(隋)などの文様の影響をも受けているようです。
勧修寺繡帳は670
年代には存在した可能性があり、獅子狩文錦や犀円文錦はさらに古いもので、金堂壁画がそれらも参
考にして天武朝
末年までに成立していたとしても時間的な矛盾はありまん。

 奈良大学の東野治之先生によれば、法隆寺金堂中の間天蓋に百済系工人とおぼしき名があり,また、金堂6号壁の
図像を引く大型の仏説法図塼仏(仏像のレリーフ、三重県·夏見廃寺や奈良県·!二光廃寺で出土)には「百済□明哲在」の
名があります。この時代の百済系工人の活躍も注目されますが、一方、天智・.天武朝に賜姓(しせい). 叙位された倭

画師恵尊・音檮などの画師の活躍も指摘されています。なお入唐した黄書本実が、長安の普光寺でインド伝来の仏足

跡図を写し、わが国にもたらしたことも特筆されます。
  2015-1-23  朝日新聞
(奈良国立博物館名誉館員梶谷亮治)





今井町称念寺

 時代劇の舞台を思わせるような古い町並みが残る橿原市今井町に、ひときわ大きな瓦屋根がのぞく。今井

御坊と呼ばれた称念寺である。自治商都·堺とも深いつながりのあった寺内町・今井の中核となった寺院で、
「大和の金は今井に七
分」といわれた強力な経済力をパックにして興隆した。

 近鉄橿原線の八木西口駅から南へ歩き、飛島川に架かった朱塗り欄干の蘇武橋を渡ると今井の町に入る。

東西、南北に通る街路を何度か折れながら進むと、次々に重要文化財の古民家が現れる。文化財に指定さ
ていない建物も伝統的な町屋様式に修築されていて、中近世にタイムスリップしたような景観が続く。

 称念寺は、この町の奥まった一角に北面して立地していた。門前から見ると、山門を挟んで右に鐘楼、左

に太鼓楼があり、境内には本堂(重文)と客殿、庫裏がたたずんでいる。

 この一帯は今井庄と呼ばれて、古くは奈良·興福寺一条院の勢力下にあった。

ここへ天文年間(1532 55 )に、一向宗本願寺の今井兵部豊寿が道場を開き、寺域へ商人や浪人、門徒たち
を集めて寺内町を造
営。これが称念寺と今井の始まりとされ、町の周囲には自衛のための濠や土塁が巡らさ
れ、軍事色の濃い
環濠自治都市を形成していった。

 今井の町は東西約600m、南北約300m 。広いとはいえないが、近世に入っても繁栄を続け、17世紀には
大和の富が集中する戸
数1200、人口4千を超す商都になった。厳格な消防規定を設けて防火を徹底し、町並
みはよく残った。

現在は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

 町内には、八棟造りと呼ばれる巨大民家·今西家宅をはじめ、重文の近世町屋建築が8軒も集まっている。
ほかに県や市の指定文
化財建物もあり、その町並みは世界遺産級の歴史的価値を持っている。

 町をひと回りして称念寺の門前に戻った。山門をくぐると、右側に近世一向宗寺院の特色を備えた本堂

の大屋根が迫ってくる。

縦横約20mもある大型の入り母屋造りで、その豪壮な風格は魅力いっぱいである。

 この本堂が今、悲鳴を上げている。建物全体が左に傾き、側面には倒壊防止の支柱を設けてある。屋根の

本瓦葺きも緩み、瓦はあちこちで波打ったり垂れ下がったりしている。

 寺は本格的な解体修理を目指して勧進活動を進めており、観光客の多い休日には寺の関係者が境内で瓦
寄進を受け付けている。世界に誇れる今井の町を象徴する寺院だけに、一日も早く安心できる状態に戻っ
ほしいものだ。
  2004-6-8  朝日新聞
(岸根一正)





石位寺(いしいでら)

 「忍阪」と書いて「おっさか」と読む。「おしさか」「おさか」とも言う。桜井市忍阪は神武東征の伝

説や万葉集にも登場する古代からの地名である。

 石位寺はその忍阪地区にある。森の重要文化財、石造浮彫伝薬師三尊像も白鳳から奈良時
代前期(7世
紀後半~8世紀初め)にさかのぼり、石仏としては日本で最古級といわれる。

 三尊像は77年に出来た収蔵庫に安置されているが、普段は公開されていない。

桜井市の市民グループが企画した「第10回鎮守の森を観に行こうかい」の一行が同寺を訪ねる
と聞いて、
一緒に拝観させてもらっ

 こぢんまりした境内に木造の礼堂と、その奥に本堂の収蔵庫がある。庫裏もあるが、今は無住だ。
重文の
仏像があるのに不用心に見えるが、収蔵庫はがっちりした鉄筋コンクリート造りなので安全
だという。

 収蔵庫の扉の間近から三尊像を拝観した。三尊像の石板は硬砂岩で、高さ1.15m、最大幅
1.5m、厚さ0.3mあり,整ったおむすびの形をしている。

 真ん中の中尊(像高63cm)は如来がひざを開いて、いすに腰を掛け、両手をひざの前に重ねて
印を結
んでいる。左右の脇侍(きょうじ)(同58 cm)は菩薩が合掌して立っている。三尊とも薄い法衣
のひだを通して肉体
の起伏がリアルに表現され、衣の質感状まで伝わってくる。

 大和の古道でよく見るレリーフの石仏とは違い、りが厚く、力強い。如来がいすに腰を掛けたスタ
イルも日本ではなじみが薄い。

私はどこか異国風の印象を受けた。実際、地元では中国伝来との伝承があるそうで、石材に詳しい
研究者が
「日本にはない石」との見方を出しているともいう。

 ともあれ立派な仏像である。満ち足りた気持ちで境内で一休みした。緑がすがすがしい。北東に
外鎌山
(293m )が見える。万葉集に「青幡の忍坂の山」と、その青々とした樹海の見事さが歌われ
ている。

 石位寺は東西に連なる丘陵の西縁に立地している。丘陵は北は初瀬川、南は粟原川(おうばら)
に区切られ、丘陵の
西縁で粟原川が西から北西に流れを変えている。石位寺は流れを変えた
粟原川に
沿った道の急な階段を上った場所にある。 

 粟原川の西側には、これも山容の美しい鳥見山(とみ・245 m)がそびえる。外鎌山と鳥見山に挟
まれた粟原川沿いの谷筋の土地が忍阪で、この地名は「長い坂道」「押し迫った地域」という地形
に由来するという。

 忍阪は、開けた平地の大和盆地から深く険しい山々の宇陀·吉野地方への入り口に当たる「長い
坂道」で
あり、「押し迫った地域」だった。市民グループの一行と歩いていて、「おっさか」という語感
と独特の響
きはこの土地柄にふさわしいと思った。
  2004-6-1  朝日新聞
(沖真治)


<メモ>石位寺の本尊は今は忍阪区の所

有で、桜井市が管理している。拝観は3

5月と9~11月(午前10時~午後4時)に

限られる。予約制で、拝観の10日前までに

桜井市観光課(0744-42-9111)へ申し込

む。維持管理協力金として1人200円が必要。




法隆寺5重塔心柱

 法隆寺は7世紀初めに創建され、670年に火災に遭い、7世紀後半から8世紀初めにかけ再建

された。これは学界の定説だが、まだ解けない謎がある。一つは、五重塔の心柱が定説より約10

0年も古い594年に伐採されたヒノキを使っていること。年輪年代法で明らかになったこの事実

と矛盾しない解釈が求められている中、松浦正昭。東京国立博物館上席研究員(日本彫刻史)の新

説を紹介する。


 松浦氏は法隆寺展の公開講座(5月15日)で新説を述べ、「日本の美術」455号(至文堂)

でも詳しく論じている。

 新説の骨子はこうだ。聖徳太子は598年に法華経を講義した際、丘陵の尾根だった現
五重塔の
場所に舎利を収めた相輪塔を建て、本尊にした。次いで谷を隔てた東南に

若草伽藍(創建法隆寺)を造営した。同伽藍は本書紀にある通り670年に焼けたが、
相輪塔の
場所が再建の寺地に選ばれ、現在ぼで続く西院伽藍が建てられた。相輪塔

は五重塔の心柱に再利用された――。

 相輪は九輪とも言い、五重塔や三重塔の屋根から上に突き出た部分。建物本体がなく、
相輪だ
けを壇の上に建てたのが相輪塔で、大津市の比叡山延暦寺などに今もある。

 松浦氏は法隆寺が皇室に献納した仏像の一つ、押出観音像(7世紀後半~8世紀初め、
重要文化
財)に着目。同像の背面の銅板に、たがねで打ち出した点線で相輪の形が
かれている。現五重塔
の場所に聖徳太子が建てた相輪塔を写したものではないか、
と松浦氏は推
定。火災後の再建に際し、聖徳太子創建の由緒を最もよく伝えていると

して相輪塔の場所が選ばれたとみる。

 心柱には別に「空洞の謎」があり、松浦氏はこれも「聖徳太子とのゆかり」で説明する。

 心柱は地下約3mぷの心礎(心柱の礎石)の上に立っていたが、根元から長さ4.5m
にわたって
中が腐り、空洞だった。

一方、心礎の舎利納入穴に収められた舎利容器は一度取り出して収め直した跡があった。
収め直し
は空洞を利用したと考えられ、その時期は711年の塔の完成時との見方があるなど、
なぜ空洞が
早くから存在していたかが謎だった。

 松浦氏は心柱を補強する対策が五重塔に講じられていることを挙げ、根元の腐食は
塔を建てる当
初から存在したが、聖徳太子の相輪塔だったため、あえて使ったと推論

している。
  2004-6-1  朝日新聞





藤原宮跡の保存

 694年から710年のわずか16年という短命の都であった藤原京は、日本で最初に条坊制を採り
入れた本格的な
都城で、中央集権的な律令国家の確立を内外に示す日本史上重要な都でした。
しかし
平城京に都が遷った後、藤原京は耕地化が進み、平安時代中ごろには忘れ去られていま

した。藤原宮の中心部でも、中世の集落が発掘調査で数多く見つかっています。

 近世になると、幕藩体制下で国学が興隆し、古代の宮都への関心が吹第に高まっていきます。
条坊の痕跡を田畠の
畦などに残す平城京と異なり、その痕跡をとどめない藤原京については、
史料の記載
の検討を中心に研究が進みました。藤原宮は「鷺栖坂の北(さぎす)」と平安時代の
史料に記さ
れていぼしたが、このころは他の史料から、現在の明日香村小原(おおはら)とする
大原説が一般化
していました。

 このような状況のなか、国学者賀茂真淵が、後に定説となる高殿説(たかどの)を唱えます。

真淵は万葉集の研究を通じて、藤原宮は「香山(今の县山)・耳成(今の耳成山)畝火(畝傍山)の
三山の真
中也、今も大宮殿と云て、いさかの所を畑にすき残して松立てある是也」と述べ、橿
市高殿町の大宮土壇である
と指摘しほした。 この説は、のちの国学者、本居宣長や上田秋成に
も引き継がれます。

 高殿説が有力視される中、大正2 (1913)年に歴史学者の喜田貞吉が醍醐説を唱えほす。
喜田は大宝令の記載
から藤原京を十二条八坊と推定し、高殿説では京域に香具山など丘陵地が
多く含まれる
ことから不都合と考えました。

そこで史料にみえる「鷺栖坂」に注目し、大宮土壇の西南に鎮座する鷺栖神社付近を鷺栖と考え、
その北にある橿
原市醍醐町の長谷田土壇を藤原宮にあてたのです。この説は藤原宮を京域も含
めて論じ
た点で画期的で、説得力のある説として注目されました。

ちなみに「藤原京」は喜田が便宜的に用いた造語でした。中ツ道など古道と関連づけた喜田の京
域の復元方法は、日本古
代史学者の岸俊男の藤原京復元案につながります。

 諸説に決着をつけたのは発掘という考古学的手法でした。昭和8 (1933)年、大宮土壇の西方か
ら土砂の採
取に伴って礎石と思われる自然石や古い瓦などが出土します。これを契機に翌年、
建築
史·美術史家の足立康ひきいる日本古文化研究所が大宮土壇周辺の発掘を開始し、昭和10
(1935)年、ついに大宮
土壇の発掘に着手しました。

 その結果、大宮土壇は大規模な建物の基壇跡と判明します。足立は「この地を以て藤原宮址と
する従来の説は、更
に有力なものとなって来たように思われる」と慎重な姿勢を崩しほせんでしたが、
その
後の調査で高殿説が定説化していきます。これをうけ、喜田は藤原宮が大宮土壇から長谷田
土壇に移転したとする藤
原宮移転説を提唱しほす。足立の反論、喜田の再批判と二人の論戦が
繰り広げられほし
たが、喜田の死により論争は終焉を迎えぼす。

 藤原宮の所在地をめぐる議論は紆余曲折を経きたが、現在では高殿を中心とした藤原宮の
範囲も確定し、国の特
別史跡に指定されています。忘却のかなたにあった藤原宮は、これらの調査
研究によっ
て、その姿を再びあらわしましたが、残された課題はまだ多くありました。
  2015-4-3  朝日新聞
(奈良文化財研究所都城発掘調査部主任研究員西山和宏)

 昭和の初めに藤原宮の位置が解明されると、現在の文化財保護法の前身である史蹟名
天然紀念物保存法により
「藤原宮伝説地」として、昭和10 (1935)年に史蹟に仮指定されました。
その後、
日本古文化研究所の調査で、極殿院および朝堂院の位置規模が判明すると、昭和18

(1943)年には「藤原宮阯」として史蹟指定を受け、本格的な保存が開始されました。戦後、
文化財保護法が制
定されると昭和27 (1952)年には特別史跡の指定を受けます。指定された
範囲は
大極殿院および朝堂院の範囲でした。

 このように、藤原宮跡は順風満帆に保存が進んでいったかのようにみえますが、その後、
藤原宮跡はその保存を揺
るがす大きな問題に直面することとなります。藤原宮の内裏推定地を
斜めに横断する国
道165号バイパス計画が持ち上がったのです。

 この計画が表に出たのは昭和41 (1966)年のことです。当時の日本は高度経済成長期の真っ
ただ中にあり、都
心だけでなく地方にも猛烈な勢いで開発の波が押し寄せました。奈良も例外
ではなく、
史跡や重要文化財の隣接地にまで開発は進み、古都を中心に日本各地で開発に対
する保
存運動が繰り広げられています。

 このバイパス計画に対しても、関連する学会や市民による大規模な反対運動が起こり、奈良県
教育委員会により
発掘調査が開始されました。藤原宮全体の保存を図るには、まず何よりも当時
不明だ
った藤原宮の宮域を確定することが必要だったからです。

66年の調査では北を限る北面大垣の遺構を、昭和43 (1968)年の調査では北面大垣の東端を、
そして昭和44 (1
969)年には北面大垣の西端を発見し、藤原宮域の北限と東西規模が確定する
という
大きな成果を得ました。この調査成果を受け、パイパス計画は変更され、藤原宮跡は開

発から守られることとなりました。

 その後は、奈良国立文化財研究所(現奈良文化財研究所)が主体となって調査を進め、69年の
第1次調査では南
面中門(朱雀門)の位置が明らかとなり、東西約925m、南北約907mという藤
宮の宮域がようやく確定し
ました。特別史跡の指定範囲も、ここで得た調査成果と継続して行わ
れている調査成果
を基に随時追加され、現在では藤原宮域をほぼ網羅するに至っています。

 現在まで継続している発掘調査で、中枢部の建物配置など藤原宮跡内部の様子も次第に明
らかになってきました。

しかし、この50年近い調査で発掘された面積は藤原宮全体のわずか14 %余り。まだまだ不明な
ことが多く、今後も調
査研究を続け、先達の努力によって保存された藤原宮跡を大切に守り継承
していく必要
があります。
  2015-4-10  朝日新聞
(奈良文化財研究所都城発掘調査部遺構研究室研究員前川歩)



 わが国初の中国式都城の中枢部である藤原宮の造営は、たやすい事業ではなかったことが
日本書紀』の記述から
読みとれます。天武天皇5(676)年に「新城(にいき)」として都の建設が始
まりましたが、
なぜか、計画は頓挫し建設予定地は荒れ地になってしまいました。建設の再開は
天武天
皇11 (682)年のことで、同13年には天皇自身が都を意味する「京師(けいし)」に巡行して
「宮
室」の地を定めたとあります。

 しかし、天武天皇は完成を見ずして亡くなります。妻である持統天皇が遺志を継いで建設を進
め、ようやく持統天
皇8(694)年に藤原宮に遷居します。

 藤原宮跡の発掘調査では宮の造営に関わる遺構が発見されています。その一つが「先行条坊」
と呼んでいる道路遺
構です。藤原宮の周囲には、東西·南北に走る「条坊道路」によって碁盤の
目状に区
画された街割りが展開していました

 面白いのは、この条坊道路が藤原宮の周囲のみならず宮の内部でも見つかっていることです。

 藤原宮には、天皇が政務や儀式をとりおこなう大極殿院や朝堂院をはじめ様々な役所の建物
が立ち並んでいまし
た。宮内で確認された条坊道路は、これらの建物が建てられる前に敷設さ
れていたので
す。宮と京の造営にあたっては、まず初めに広大な土地に方眼紙のマス目を描く
ように
条坊道路を敷設し、中心部のマス目16個分を藤原宮の造営地としたことが分かってきま

した。

 また、藤原宮のほぼ中央を南北に走るような幅6~9m、深さ約2mの運河が見つかりました。
運河は宮域内の
「先行条坊道路」より後に掘削され、大枢殿の建設前には埋め立てられている
ことか
ら、ごく短い期間に木材や建設資材などの運搬の役割を果たしたとみられます。運河の

底から出土した木簡などの遺物は、天武天皇の時代の末年ごろに機能していたことを示してい
ます。

 『万葉集』の「藤原宮役民の作る歌」によると、藤原宮の建物の木材は近江(現在の滋賀県)
の里山できり出
し、これを筏に組んで川に流し、宇治川·巨椋池(干拓により消滅)·木津川を経て、

泉の津(現在の木津)で陸揚げをしました。その後の経路は記されていませんが、おそらく陸路で
大和(現在
の奈良県) へ入り、再び佐保川・寺川などを利用し、最後に運河を使って藤原宮の中に
運びこんだのでしょ
う。

 藤原京の建設に際し、持統天皇5(691)年に「新益京(あらましのみやこ)」(藤原京の意味)の地

鎮、翌年には「藤原宮地」の地鎮を行ったことが「日本書紀」に記載されています。2007年の
藤原宮大極殿院南
門の調査で貴重な発見がありました。都城で発掘された最古の地鎮遺構が
見つかったの
です。「平瓶(ひらか)」という平たい壺の片端に頸(くび)のある土器に富本銭と水晶
とともに9点ずつ納めたものでした。

 これは藤原宮の末永い安寧と平安を願う地鎮具とみられぼすが、その願いもむなしく、藤原京
はわずか16年の短
命の都に終わってしまいました。
  2015-4-17朝日新聞
(奈良文化財研究所文化遺産部遺跡整備研究室研究員 高橋知奈



 藤原宮の周りには、条坊道路によって碁盤目状に街割り された藤原京が広がっていま した。
藤原京の規模は平城京
をしのぎ、大和三山をとりこむ東西5.3キロ、南北5.3キロ もの大きさだっ
たといわれて
います。とはいえ、最初からこれほど大きな京域が復元され ていたわけではありま
せん。

 戦後20年ほどたったころ、発掘調査成果をもとにした藤原京の復元が本格的にはじまります。
このころは都市化に
よる開発の事前発掘調査も増える一方でした。結果として、これらの調査で
約1キロ四
方の藤原宮の範囲が確定するとともに、その外側に藤原京の条坊道路がいくつも通
って
いることが判明します。1969年、日本古代史学者の岸俊男は、のちに定説となる重要な藤原
京復元案を発表しま
した。
 岸は藤原宮が大和盆地を縦横に通る古道、つまり中ッ道、下ツ道、そして横大路ら等距離
に位置することを発
見したのです。また、その距離が古代の尺度できりのよい数値になっている
ことから、
これらの古道に南の山田道加えたものが藤原京の京極になると考え、東西2 . 1km

南北3 . 2km面積にして平城京の3分の1の藤原京を描き出しました。

 その後、岸が推定した通りの位置から条坊道路が次々と発見されたことで、この説は最有力案
として認められ定説
化していきました。

 しかし、盤石を誇った岸説も調査の進展とともに、やがて見直しを余儀なくされます。岸の推定
した藤原京域の
外からも条坊とみられる道路や宅地の遺構が続々とみつかりはじめたからです。
岸説で
は説明が難しい事例が増えてくると、それまで見つかっている条坊とみられる道路をす

べてとり込んだ「大藤原京」説が次々と発表されました。

 96年、折しも西と東の京極と思われる条坊道路の 字交差点(東西道路がそれ以上先に伸びず、
十字ではなく T字
交差点となる)が、橿原市土橋と桜井市上ノ庄でみつかると、東西を十坊(5 . 3
km)
と考え、南北もおなじように十条と推測して、藤原宮を正方形の京の中央におく復元案
提唱されることになりま
す。この復元案こそ、いま最も有力視される「藤原京十条十坊説」です。

 面白いことに『周礼(しゅらい)』という中国の古い書物にこの案と似た都の造り方が書かれてい

ます。このことから、藤原京は当時国交を断絶していた唐の都,長安城をモデルとせず、書物から
得られた情報を
もとにしてつくられた都ではないかとみる説もあります。

 ただし、実際の藤原京が条坊を完備した正方形をしていたかというと、それはまだ分かりませ
ん。起伏の激しい丘
陵部はもちろん、藤原宮のすぐ南にある日高山の南方の朱雀大路や,
香具山の南に存在
が推定されている条坊道路も、発掘ではみつかっていません。北と南の京極
も、実は
まだ未発見なのです。今後の調査研究で、「藤原率季坊説」の検証や京内の様子の
解明が進んでいくことが期待されます。
  2015-4-25  朝日新聞
(文化庁文化財部記念物課文部科学技官森先一貴)
下ツ道⇒⇒⇒



 藤原宮の瓦は大きく、文様もきれいでしっかりと焼き締めています. 6世紀末に始まった瓦生産
技術の最高峰と
いえるでしょう。

 和銅3 (710)年の乎城京の遷都時に、藤原宮の瓦はどうなったのでしょうか。もちろん、多くの瓦
は廃材とし
て捨てられましたが、なかには平城宮(奈良市)に運ばれて再利用されたものもあります。

 平城宮の発掘調査では興味深いことが明らかになっています。これまでに平城宮で出土した
軒瓦のうちの約7%を
藤原宮の軒瓦が占めていますが、藤原宮の瓦がまとまって出土する場所が
いくつかあり
ます。宮を囲む宮大垣と宮城門、中枢部の中央区朝堂院,第二次大槭殿の下層の
中心建
物の周辺です。とくに朱雀門から出土した軒瓦は全体の9割が藤原宮のものでした。こ
らの建物には藤原宮の瓦を
再利用して屋根を葺いたのです。

 新しい都を造るのに、なぜ古い瓦を利用したのでしようか。都の造営は大工事であり、彰大な
時間と経費を必
要としぼす。そこで、建築資材をできる限り再利用し、時間と経費の節約を図った
と考
えられるのです。

 平城宮の第一次大極殿は藤原宮の大極殿を移築したものと考えられています。しかし、屋根の
瓦は平城宮ですべ
て新調しました。平城宮大極殿の瓦は、藤原宮のものに比べて黒っぽく焼き
上がってい
ます。唐の都の瓦葺き宮殿は、黒い瓦を葺いており、そのことは再開された遣唐使

よって最新情報としてもたらされたのでしょう。宮内でもっとも重要な瓦葺き建物の大極殿には、
唐の都にならって
斬新な黒く輝く瓦を葺き、威厳を示したのです。

 しかし、大柩殿の瓦を生産するのが精いっぱいで、ほかの建物の瓦までは手が回らなかったの
でしょう。朱雀門や
ほかの宮城門、宮殿を取り囲む大垣、朝堂院を囲む塀など、威儀を示すべき
施設に
は、藤原宮の瓦を再利用することで、なんとか体裁を整えることができたのです。その
の建物の瓦は遷都から10
年、20年かけて徐々に調達していきました。

 藤原宮の瓦の旅は、まだ続きます。長岡宮(京都府向日市)や平安宮(京都市)からも、少ない
ながら出土してい
るのです。藤原宮で生まれた瓦は誕生から100年を経てもなお、新たな都で生き
なが
らえていたのです。国の威信をかけて生産した藤原宮の瓦がいかに高品質であったかを
物語っているといえるでしょう。

 現在平城宮内には、大極殿と朱雀門の復元建物が、南北に建っています。大極殿の屋根には
平城宮で新調した瓦
を、朱雀門には藤原宮の瓦を復元して葺いています。特に軒平瓦で文様の
違いがよくわ
かりますので、お立ち寄りの際には、ぜひ見比べてみてください。
  2015-5-22  朝日新聞
(奈良文化財研究所都城発掘調査部主任研究員今井晃樹)




下ツ道

1、下ツ道の誕生

 
 いつごろ作られたのか?
・・・大きく分けて3つの説

 ・6世紀末~7世紀前半説

  『日本書紀』推古21(613)年11月条「自難波至京大道」(横大路設置記事)に前後して敷設

  上ツ道、阿部·山田道の調査で、7世紀前半の敷設が考えられる調査例あり

  下ツ道の調査(三条通り付近)で、側溝底面から6世紀末~7世紀初頭の土器が出土

  7世紀前半以降、寺院の建物が正方位をとる

 ・7世紀中ごろ説

  『日本書紀』白雉4 (653)年6月条「修治処々大道」に前後して敷設

  石神遺跡(明日香村)で、7世紀中頃とみられる道路遺構(推定阿部·山田道)

  道路整備の歴史的必然性・・・斉明朝の大規模土木工事、国際関係の緊張(新羅との関係悪化)

  飛鳥板蓋宮(643~654年)以降の宮都建物が、 正方位をとる

 ・7世紀後半説

  『日本書紀』壬申の乱(672年)記事に「上中下道」…壬申の乱直前に敷設

  下ツ道側溝出土遺物は7世紀末~8世紀初頭のものが大半

  横大路の路面から7世紀末ごろの地鎮具が出土


 何のために作られたのか?

 ・外国使節の往来のため 推古16(608)年、隋使裴世清来朝(はいせいせい)…直接海石榴市へ上陸

  隋の「御道」を模倣して道路整備?

 ・大和国内の 屯倉(みやけ)·屯田開発(みやた)のため・・・推古21年の道路敷設記事が、池の開削記事と併記

  クラ地名、屯倉関係地名が横大路、南北三道、阿部·山田道などの沿線に分布

  倭・山背・,河内の三国に池溝開発、屯田開墾→管理のために屯倉配置

  屯倉相互間or屯倉ー中央間連絡のために交通路を整備

 
 沿道にどのような影響を与えたか?

   沿道の古墳時代遺跡…古墳時代後期以降に遺構密度が減少 飛鳥時代の遺構は八条遺跡のみ
  6世紀末段階で墳丘を削平された古墳痕跡(八条遺跡)
  →国家事業としての下ツ道敷設に伴い、沿道からいったん私的施設を排除?


2、飛鳥
・奈良時代の下ッ道

  岸俊男の研究( 1970) ・・・下ツ道=藤原京西京極=平城京朱雀大路

  その後、藤原京は下ツ道以西に広がることが判明  藤原宮跡の保存⇒⇒⇒ 

  下ツ道を拡幅して平城京朱雀大路としたのは事実であることを確認

 山陰·南海·山陽道(西海道)と接続orその一部となる…西日本の全ての官道が収束する国土軸

 条里制の施行に当たり、下ツ道を中心線として割り付け(いわゆる京南条里)

 沿道に官衙的施設が設けられる(南六条北ミノ遺跡)


3、発掘調査に見る下ッ道

 道路両側に側溝を持ち、20m以上の道路幅を有する

 稗田遺跡で、自然河川を渡る橋を検出

 大半の区間で東側溝が幅広→運河機能があった?

4、平安~中世の下ッ道

 <平安時代>

  平安遷都(794)により、下ツ道の重要性は低下

  延喜式(927成立)記載の南海道・・・山城ー河内ー和泉ー紀伊(東高野街道ルート)を通過→下ツ道を経由せず

   国土軸の機能を失い、畿内を南北につなぐ地方幹線道路に
  →10世紀ごろに側溝が埋没、
13世紀には一部区間を寺川流路に転用?


  ⓛ皇族.貴族等の私的旅行にたびたび利用

    861(貞観3) 真如親王、池辺院(平城宮北方?).巨勢寺(御所市)経由で南海道方面へ

    898(昌泰元)宇多上皇、法華寺·旧宮重閤門所·菅原道真山庄(大和高田市根成柿)経由で吉野へ

    1007(寛弘4)藤原道長、法華寺·井外堂·軽寺·壺坂寺等経由し金峯山へ

    1088(寛治2) 白河上皇、東大寺·葛上郡火打崎(御所市)経由で高野山へ

    1250(建長2) 九条道家? 春日社·興福寺·高天寺経由で高野詣で・・・ 帰路は髙天寺·唐招提寺経由

    1496(明応5)年『実隆公記』・・・法華寺·西大寺等巡拝後、「八木市場」経由で吉野へ

    →15世紀後半には、下ツ道と横大路の交点付近には市街地が成立

    
   『三箇院家抄』(尋尊著·室町期成立)・・・
「下津道」「高野海道」の注記

   →室町期には高野参詣道としての認識が生まれている


 ②物資運送や戦乱に際して利用される

   1236(嘉禎2) 盆地内各地の守護武士が、春日社への運上供物を抑留、庄園に乱入

   ・・・「下津道守護人刑部左衛門尉」が春日社領庵治庄に乱入

   春日社司から摂政九条道家へ供物運上路を注進した中に「下津道」

   1333(元弘3) 鎌倉幕府軍の二階堂出羽入道道蘊の軍勢が上道·中道·下道を進軍、吉野(護良親王)・
      赤坂(楠
木正成)等を攻撃→太平記の記事のため史実性は問題

   1470(文明2)  矢木座と符坂衆係良)が河内商人の油巡り相論

  2010-11-6 山の辺文化会議 資料より





中平名鉄刀と七支刀

中平銘鉄刀と七支刀-ふたつの紀年銘資料-

 天理市では、2010年、平城遷都1300年記念事業に協賛して,春には石上神宮に伝わる国宝·七支刀の
特別拝観、秋には
中平銘鉄刀を含む東大寺山古墳出土資料の里帰り展という形で、著名なふたつの金象
嵌銘文資料が相次いで特別に公
開されている。

 東大寺山古墳の中平銘鉄刀は、後漢の中平(184 ~ 190年)の年号を記す日本列島最古の紀年銘資料で
あり、2世紀末の倭
と中国の政治的交渉を通してもたらされたと考えられる。ただし、2世紀末の時代、中国
の正史には倭の入朝に
ついての記録がなく、政治的な関係を通して倭に中平銘鉄刀を贈与したのは、遼東
太守として、中国と東夷諸族の交
渉窓口だった楽浪郡を実質的に支配した公孫氏の政権だった可能性が
指摘されている。当時の日本列島は、魏志倭人伝
などの文献によれば、倭国乱が終息した直後の時期であり、

中平銘鉄刀を贈られたのは、倭国の女王として共立されて間もない邪馬台国卑弥呼だった可能性が指摘
されている。

 これに対して、石上神宮の七支刀は、金象嵌の銘文から、泰和4年(369年)、百済王が倭王に贈るために
特別に製作
したものであることがわかる。4世紀の後半は、291年に始まる八王の乱によって華北が混乱状
態となり、313年には高句麗の南下によって楽浪郡や帯方郡もついに滅亡するという東アジアの情勢を背景
に、韓半島の南部と日本列島でそれぞれ国家形成が急速に進展した時代である。369年、百済王が倭王に
七支刀を贈ったのは、同じく新興国である百済と倭が相互の外交関係を重視したという事情が存在したと思
われる。

 このように、中平銘鉄刀と七支刀は、魏志倭人伝が詳細に伝える3世紀の倭と魏の交渉の時代をはさんで、
その前
後の時期、2世紀末と4世紀の国際情勢の一端を銘文資料として今に伝えていると言うことができる。(1)

纒向遺跡から東大寺山古墳へ


 それでは、この時代、奈良盆地の考古学的な状況はどのようになっているだろうか。2世紀末から4世紀
にかけて、
日本列島で進展した国家形成のプロセスを考える上で重要な遺跡がひしめくように密集している
のが、奈良盆地の東
縁部、天理市から桜井市にかけての山麓に広がる山の辺地域である。この地域は、
盆地内部に唐古·鍵遺跡などの大
規模集落が展開した弥生時代中期には顕著な遺跡が認められなかった
のが、弥生時代の後期末以降、一転して、
纒向遺跡やオオヤマト古墳群など数多くの遺跡が濃密に形成さ

れる地域へと変貌する。纒向遺跡やオオヤマト古墳群は弥生時代から古墳時代への変化を象徴する遺跡
として位置
づけることができ、近年では、纒向遺跡を「王都」と見て、その出現をもって古墳時代の始まりの
指標とする理解も現
れるようになっている。

 中平銘鉄刀が製作された2世紀末は、ちょうど山の辺地域の南縁、三輪山の麓で纒向遺跡の形成が開始
された時代
である。纒向遺跡は、矢板で護岸をした人工水路や木樋と槽を連ねた導水施設、祭祀土坑、
掘立柱建物
群など、注目すべき遺構·遺物が確認され、この時期の中心的な役割を果たした拠点的な遺跡
であると考えられてい
る。とくに注目されるのは、弥生後期末、庄内式、布留式の土器に混じって含まれる
外来系土器の割合が非常に高く
(15%~30%)、東は東海·関東地方、西は瀬戸内·四国九州地方、北は山陰·
北陸の日本海沿岸地域に至る非常に
広い範囲に由来する外来系土器が含まれていて、当時の活発な交
流の様子が窺われることである。
(2)

 山の辺地域では、このあと、3世紀中頃から4世紀にかけて、オオヤマト古墳群が集中的に形成されるが、
この古
墳群は、春日断層崖に沿って広がる段丘面を利用して、南北約4 km、東西約1.5kmの範囲に、王墓
と考えられる大
型前方後円墳4基を核として、大小約40基の前方後円(方)墳がひしめくように密集するのが
特徴である(3)。これらの
古墳は、古墳時代後期の西山塚古墳を例外として、いずれも古墳時代前期(前方
後円墳編年1~4期)に築造された
と考えられる。箸墓古墳(1期後半)、ホケノ山古墳(1期、後半)は3世紀中
頃の可能性があり、続いて、西殿塚古墳(2
期前半)、行燈山古墳(3期前半)、渋谷向山古墳(3期後半)

などの王墓クラスの古墳を軸に、4世紀後半から末と想定される櫛山古墳(4期前半) まで、古墳の築造が
累々と続
いたと考えられる。

 桜井市の箸墓古墳(全長280 m)を卑弥呼の墓と考える説は近年ますます有力であり、天理市の西殿塚古墳、
渋谷
向山古墳、行燈山古墳といった全長200 mを超える巨大古墳は、卑弥呼の後に続く歴代の倭王の墓と
考えられる。100
m前後の中クラスの古墳の内容を見ても、三角縁神獣鏡ど多数の銅鏡が出土した
黒塚古墳天神山古墳、船を描い
た埴輪で有名な東殿塚古墳、壮大な竪穴式石室が発掘され
下池山古墳中山大塚古墳など、いずれも充実した内容
を持っている。

 このように、王墓クラスの大型古墳を核として、他地域であれば首長墓クラスの規模となる100 m前後の
中規模の
古墳が集中するさまは、まさに、共立された倭国王のもとに各地の集団の有力者が結集するという
初期王権の連合的
な性格を表しているように思われる。黒塚古墳に副葬された33面の三角縁神獣鏡は、
魏志倭人伝が伝える魏と倭の交
渉を背景にしなければ理解ができないものであり、オオヤマト古墳群は、
魏との外交をおこなった3世紀の倭政権を
構成した王侯集団の奥津城であると考えて差し支えないと思わ
れる。

 これに対して、中平名鉄刀を副葬した東大寺山古墳は4世紀半ばの築造であり、その築造を契機として、
赤土山古
墳、和爾下神社古墳と、100m超の規模の首長墳の系譜を周辺の和爾·櫟本地域の中で追うこと
ができる。一方、こ
の地域では、弥生時代から古墳時代へと、長寺遺跡、東大寺山遺跡、和爾·森本遺跡、
和爾遺跡という形で集落遺跡
が連綿と継続しながら、4世紀半ばの東大寺山古墳までは明確な首長墳が
認められない。そうした事実を勘案すると、
3世紀後半から4世紀前半まで、この地域の集団の有力者

たちは、本貫地ではなく、連合政権の一員として、オオヤマト古墳群に参集する形で墓所を営んでいた可能
性を考え
ることができる。

 つまり、東大寺山古墳の被葬者は、連合的な性格を持つ倭政権のなかで一定の地位を占めていた集団
の有力者であ
り、その集団とはおそらく、後にワニ氏として文献に登場することになる氏族の集団だったと
思われる。2世紀末
卑弥呼に賜与された可能性のある中平銘鉄刀は、何らかの機会に、連合政権を構成
するワニ氏の一族に賜与されて4
世紀の半ばまで伝えられてきたのであろう。東大寺山古墳が築造された
4世紀半ばは、石上神宮の七支刀が伝えるよ
うに、中国との関係よりは、韓半島の新興国である百済と
関係が重要になっていた時代である。変化する時代のな
かで、ワニ氏の有力者も、本貫地である和爾·櫟本
地域に
墓所を営むようになり、中平銘鉄刀も、東大寺山古墳の被葬者のため、ついに副葬品として奉じられ
ることになった
のではないだろうか。


(1) 2世紀末から4世紀後半の約200年間は、東アジアの激動の

  時代であり、中国では、後漢末の混乱期(184~220年)を経て、
  魏、呉、蜀の鼎立する三国時代(220~280年)があ
り、西晋に
  よる再統一(280~316年)の後、華北は、北方
遊牧民族の侵入
  に伴って小国が分立興亡する五胡十六国の
時代(316~419年)
  となり、華南は、西晋の王族が河南に
逃れて建国した東晋
  
(317~420年)の時代となる。


(2)山の辺地域では、
纒向遺跡のほかにも、天理市の柳本遺跡

  群、乙木·佐保庄遺跡など、オオヤマト古墳群と重なるように
  して同時期の遺跡が広がっている。たとえば、乙木・
佐保庄
  遺跡では、古墳時代初頭の流路から、さしば形木製
品、
  団扇形木製品など、「権威の象徴」ともされる儀礼的
な性格の
  遺物が出土していて、外来系土器の割合が16%に
及んでいる。
  つまり、30余国を含むと魏志倭人伝が伝える
その頃の倭人
  社会の各地域から、纒向遺跡のみならず、山
の辺地域の広
  い範囲に多量の物資が持ち込まれ、多数の
人々が集まって
  いたことが想定される。

(3)かつては、箸中古墳群(纒向古墳群) 、柳本古墳群、大和
  古墳群(狭義) というように、別々の古墳群として扱われていた
  が、近年は、「大和古墳群(広義) 」、「おおやま
と古墳集団」、

  「オオヤマト古墳群」などとして、大きく一体的に捉えることが
  多くなったものである。


天理大学附属天理参考館2010『よみがえるヤマトの王墓

―東大寺山古墳と謎の鉄刀―』創立80周年記念特別展から


中平銘鉄刀(青銅製環頭大刀3)

 この大刀は刀身部分が5片に折れており、全体としてやや内湾するものの、どの程度の内湾かは正確には
不明である。全体で約3cmの内湾と考えている。

 棟部に金象嵌で文字が刻まれており、24字中の20文字が確認できる。

「中平□〔年、五月丙午、造作文刀、百練清釖、上應星宿、〔下]辟不〔祥〕」と読める。

銘文の大意は「中平□年五月丙午の日に銘文を入れた刀を製作した。良い鉄を鍛えた刀であるから、

天上では神の御意に叶い、下界では災いを避けることができる」となる。

文字は蹴彫りされており、その窪みに金線を埋め込んである。中国で出土した象嵌銘のある長い刀剣類は3例
しかなく、稀有の資料である。「中平」は後漢の年号で、西暦184 ~ 190年に
相当する。年号や象嵌の技術から
中国製と考えてよい。

(山内)

  平成23年度 山の辺文化会議 シンボジウム より  桑原久男(天理大学)






和邇下神社

当社案内より

周りの環境 

 和爾下神社は東大寺山古墳(古墳時代前期)の上に所在します。この地域
、古い前方後円墳で、鬱蒼とした森に包まれた、静かな場所です。

和爾下神社の境内には有名な柿本人麻呂柿本寺跡があり、その跡から

は奈良時代の古瓦が出土、円型礎石四基が現在も散在している。柿本寺

は、和爾下神社の神宮寺であろうと推測される。

『東大寺要録』には、神護景雲3年(769)、東大寺領の櫟庄に水を引くため

に、高瀬川の水路を て移し、道も改修したとあり、和爾下神社の参道が登
場しています。


由緒

 1070年前の「延喜式神名帳」に記載される古い神社です。もとは「和爾氏」

と「櫟井臣」の祖神とされる孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命(あまたちひ

こくにのおしひと)と日本(やまと)帯彦国押人命が祀られていたそうで

すが、現在は本社大己貴命(おおなむらのみこと別名大国主命(おおくに

ぬしのみこと)、素盞鳴命(すさのおのみこと)、稲田姫命が祀られていま

す。

「延喜式」によると、和爾下神社は二坐有り、天理市櫟本町宮山と大和郡山

市横田に鎮座している。二つの和爾下神社は、東西線上に走る竜田道沿

いに2.5kmほどの距離で鎮座している。櫟本町の神社を上治道天王

横田町の神社を、下治道天王という。

古墳が治道山と呼ばれていたところから、治道祇春道社)や牛頭天王社、

さらに西隣に建てられた柿本寺との関係で柿本上宮とも呼ばれていまし

た。しかし、明治初年に延喜式内の和爾下神社に当るとの考証から、和爾

下神社と定められ、今日に至っています。

ポイント

 本殿は、桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、向拝一間、檜皮葺で桃山
代の様式をそなえ、国の重要文化財に指定されています。他に末社として
12社が祀られています。
 

――――――――
 平成24年10月13日山の辺学 万葉講座  より

和爾下神社 ところ 櫟本町治道山
 本殿 重要文化財

 櫟本の町中を流れている高瀬川に沿った長い参道があって、東の治道山に鎮座、寿永二年

(一一八三)藤原清輔の弟顕昭が著わした『柿本朝臣勘文』によると、「清輔が語っていうに、
大和国へ下向した時、古老から聞いたが、添上
郡石上村の傍らに社があり、春道社という。
その中に寺があって柿
本寺といい、人丸の堂である。その前の田の中に小塚があって人丸

墓という」意味の記事があり、この記事により石上村の付近に治道の森があり、治道社(春道社)
と柿本寺があったことがわかる。

『東大寺要録』には、神護景雲三年(七六九)東大寺領の櫟庄に水を引くために、高瀬川の水路
を今の参道に沿った線に移し、道も新しく
まっすぐに造られた。

 この社は東大寺山丘陵の西に位置する古墳の上に祀られていて櫟本地方にいた豪族の氏神
であったが、今は櫟本の鎮守である。

 御祭神は素盞鳴命を祀っているので牛頭天王社ともいわれ、ここに建てられた柿本寺との関係
で柿本上宮ともいわれた。明治初年に延喜式内の和爾下神社に 当ると考証されて社名を和爾
下神社と定められた。

 今の本殿は、桁行三間,梁二1間、一重、切妻造、向拝一間、檜皮葺、桃山時代の様式をそなえ、

古建築として昭和十三年国宝に指定、現在重要文化財に指定されている。例祭は七月十四日
(祇園さ
ん)と十月十四日の二回である。

柿本寺跡と歌塚ところ櫟本町人丸

 治道山柿本寺は、治道の森のほとりにあって柿本氏の氏寺であった。ここに柿本氏の出である
歌聖柿本人磨の遺骨を葬ったので、人
磨崇敬が盛んになるにつれ、歌塚として有名となった。

「藤原清輔家集」に「大和国石上柿本寺という所の前に人磨呂の塚ありと聞きて卒都婆(そとば)
に柿本人丸の塚としるしつけて傍にこの歌をなん書けり

    世を経てもあふべかりける契こそ

   苔の下にもくちせざりけれ」

 柿本寺は出土の古瓦から奈良時代に創建されたと考えられる。




 
柿本人麻呂・万葉集第二期の代表歌人

1、万葉集第二期の代表歌人
 万葉第二期期は、壬申の乱(672)終結以後から奈良遷都(71
0)までのほぼ四十年間をさします。
大乱収束後の安定と繁栄が享
受された活気溢れる時代でありまして、人麻呂の活躍の時代で
もあ
りました。 人麻呂の伝記にかんしては不明な点がはなはだ多く、生没年未詳と、ほとんどの
研究書に記載されています。

 柿本氏は昔、第三十代敏達天皇の代に家の門に柿の木があったところに由来するらしいのです。
平安時代初期の『新撰姓氏録』によれば「大和国皇別」に、次のような記載があるらしい。

 柿本朝臣。大春日朝臣と同祖·天足彦国押人命の後(すえ)なり。

 敏逹天皇の御世、家の門(かど)に柿の樹有るに依りて、柿本氏。

また『古事記』の第五代孝昭天皇の第一皇子、天押帯日子命を祖先とし、春日臣以下十六氏の
同族があり、第五に柿本があるとか。

また『日本書記』の孝昭紀に

 天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひとのみこと)は、和珥臣等が始祖なり。

しかし『古事記』には和珥氏がない。これは、「一祖多氏」の『古事記』と「一祖一氏」の形式的原則
によるらしい。その後の研究に
よって・・・中略・・・「すなわち柿本氏は和珥氏を祖とし,それが春日氏

と改姓したあとに分枝した氏であったようです。人麻呂に関しては次の見解を参考にしておきます。
 人麻呂は和珥氏の血脈を承けて成長した。

 ではこのあまり聞きなれぬ和珥氏とはいかなる豪族であったのか。それは歌人人麻呂を考える上
で大きな意味をもつと考えられる。

 和珥氏は五世紀から六世紀前半にかけて、大和朝廷において活躍した有力豪族として奈良盆地
東北部一帯に強大な勢力を誇っていた。記紀によれば、仲哀天皇以前は信憑性に問題が
あるので
除くが、応神反正雄略仁賢継体欽明・,敏達の七天皇に九人の后妃を入れ
生まれた皇女が
また后妃となる場合も多く、皇室なかんずく後宮(内廷)に密着した豪族であ
った。またこれは詳しい
調査を経なければ決定的なことは言えないが、さきの東大寺山古墳
をはじめとし、和珥氏の勢力圏内
にある平城京の北方に並ぶ佐紀盾列古墳群(さきたたなみ)と呼ばれる大古
墳群(神功皇后陵・
成務天皇陵・日葉酸媛陵・平城天皇陵・コナベ古墳・ウワナベ古墳など)も、
なんらかの意味で和珥氏
にかかわるものであろうとされているのも、それにふさわしい豪族
であったからである。(橋本達雄)


2、和珥氏について

 和珥氏とのこのような血族関係は、人麻呂の成長期にとって有意義な刺激を与えることとなった
のではないであろうか。人麻呂がや
がて宮廷歌人として成長できたのも、幼児期での宮廷への憧れが

やがて彼の努力によって実を結んだ結果ではなかったかと思う。

 しかし、宮廷歌人と最初から決めつけることはできない。それは父母や兄弟のことさえも不明確な
謎の人物だからです。

 人麻呂の経歴を考えた最初の研究者、武田祐吉先生は「天漢の歌」(人麻呂歌集)の左注「庚辰
の年に作る」からして「天武九年」
に注目されまして、人麻呂は天武九年頃より既に舎人として宮廷
出仕していたのであろうと。天武二年(673)に官人出仕の法を定めた詔がだされて「まず大舎人
に仕えしめよ」とあるからです。

この頃の年齢を二十三歳と仮定して、その姿が消えた奈良遷都の頃和銅三年を歿年とすると、
五十三歳で死亡したことになると、いう
のであります。この年齢考に刺激を受けて各論各様な年齢
考が提出
されるのでしたが、梅原猛先生は更に年齢を加えて六十歳過ぎという見解を出されてお
られます。とすると、舎人という身分は不相応
になってくるように思われますが、人麻呂の宮廷に
おける活動の出
発はこの頃ではないでしょうか。「人麻呂は天武七年頃宮廷に大舎人として仕え、
同九年の七夕歌を皮切りとするかのように活動を開
始するのではなかろうか」と推定されています。
この大舎人がどの
ような経緯を辿って「柿本朝臣人麻呂」に昇格したのかは「「萬葉歌」の題詞に
頼るほかありません。

 さて人麻呂歌集(370首) 、人麻呂作歌(94首)もともに、八色の姓のうち一般民では最高の「朝臣」
が付いています。これが
宮廷歌人であったことの何よりの証ではないでしょうか。

 柿本氏が名門和珥氏の流れに属するとは言え、既にいくつかに分枝した小豪族にすぎない。ただ
一人、人麻呂の活躍時代に出現した
柿本猿という人物がいます。天武十年に「小錦下」の位が授
けられ
和銅元年四月二十日の条に「従四位下柿本朝臣佐留卒りぬ」と。

3、柿本朝臣人麻呂作歌について

 「柿本人麻呂全歌集」(桜楓社)によって,人麻呂作歌のみについて、部立別に分類し、整理をして
みました。
 雑歌 三十九首 
 挽歌
 三十五首 

 宮廷歌人として活動に関係のある作品のみを選んでみよう。

 ところで挽歌群のなかで最も秀逸なのが「高市皇子尊の城上の殯

宮の時の柿本朝臣人麻呂の作れる歌」です。いわゆる『高市皇子挽歌』なのですが、その荘重な調
べにもまして、胸を打つの
が壬申の乱の戦斗描写の泊力です。この長歌をもって人麻呂の従軍
が出てきますし、とりわけ人麻呂には近江への回顧が、うかがわ
れるのです。この意味で「雑歌」の
冒頭にある「近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌」からはじめます。


         近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌

1.二十九  玉襷(たまだすき) 畝火の山の 橿原の 日知(ひじり)の御代ゆ  
        〔或は云ふ、宮ゆ〕  生れましし  神のこと

           ごと櫂(つが)の木の いやつぎつぎに 天の下

         知らしめししを〔或は云ふ、めしける〕 天(そら)

        にみつ 大和を置きて あをによし  奈良

         山を越え〔或は云ふ、:そらみつ  大和を置き

        あをこよし 奈良山越えて] いかさまに

        思ほしめせか〔或は云ふ、思ほしけめか] 天(あま)

        離(ざか)る 夷(ひな)にはあれど 石走る 淡海(あふみ)の国の   
                                                   

         楽浪(さざなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめ

        しけむ 天皇(すめろき)の 神の尊の 大宮は 此処

        と聞けども 大殿は 此処と言へども 春

        草の 繁く生(お)ひたる 霞立つ 春日の霧れ

        る〔或は云ふ、霞立つ 春日か霧れる 夏草か

        繁くなりぬるももしきの大宮処(おおみやどころ)

        見ればさぶしも〔或は云ふ、見ればさぶしも〕


         近江の(荒廃した都に立ち寄った時、柿本朝臣人麻呂が作った歌

          美しいたすきをかけるうなじ、畝火の山のふも

       と橿原の地に即位された天皇の御代からずっと

       〔或いは、いう宮からずっと〕、お生まれになった現人神
       である天皇のすべてが、樛(つが)の木の次々と天下を

       お治めなさったのに〔或いはいう、お治めなさったという〕、

       天に満ちるその大和を捨てて、青丹のよい

       奈良山を越え〔或いはいう、そらみつ大和を捨て、青丹のよ

       い奈良山を越えて〕、どのように思われてか〔或いはいう、

       思われたのだろうか〕都から遠い田舎ではあるけれ

       ど、石走る近江の国の楽浪の大津の宮に、天下

       をお治めなさったという尊い天皇の大宮はここ

       だと聞くけれど、大殿はここだというけれど、

       春草が生い繁っている、霞立つ春の日がかすん

         でいる〔或いはいう、霞立つ春の日がかすんでいるのか、夏草

       が繁くなっているのか〕、ももしきの大宮のあったと

       ころを見ると悲しいことよ〔或いはいう、見るとさびし

       いよ〕。
         近江荒都歌 ⇒


         反歌

1・三〇  ささなみの志賀の辛崎幸(からさきさき)くあれど大宮人(おおみやびと)の

       船待ちかねつ

1・三一  
ささなみの志賀の「一に云ふ、比良の〕 大

       わだ淀(よど)むとも昔の人にまたも逢はめやも

       〔一に云ふ、逢はむと思へや〕


         反歌

      楽浪の志賀の辛崎は昔と変わらずにあるけれど、
      大宮人の乗った
船は待ってももうやって来ない。


      楽浪の志賀の〔一に云ふ、比良の] 大
わだ淀み続
      けていても、昔の人にまた逢えようか、逢えは
      しない〔
一に云ふ、逢うだろうとは思えない〕。


4、持統女帝の行幸に従駕する人麻呂

 持統女帝は、「深沈にして大度あり」と伝えられています。

 天武帝が崩御(686)されて後、二年二ヶ月の長い殯宮儀礼が終って、いよいよ草壁皇太子の天皇
即位が実現するものと期待され
ていました。ところで皇太子は、持統三年四月に二十八歳にして病
倒れて薨去されたのでした。この草壁皇太子の薨去に対する挽歌が人麻呂によって捧げられ、
持統女帝の悲哀を慰めることができたの
でした。そして更に女帝の行幸にも従駕するようになったと
いえま
しょう。持統女帝の吉野行幸は三十一回と、更に退位後に文武天皇と一緒に一回なされてい
ます。吉野は女帝にとって心に活力をあ
たえてくれる聖地だったのです。

      吉野の宮にきし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌

1· 三六  やすみしし わご大君の 聞(きこ)し食(を)す 天(あめ)の 

      下に 国はしも 多(さわ)にあれども 山川の

      清き河内と 御心を 吉野の国の 花散(はなぢ)ら

      ふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば

      百磯城(ももしき)の 大宮人は 船並(ふなな)めて 朝川渡る

       舟競(ふなぎほ)ひ 夕河渡る この川の 絶ゆるこ
      となく この山の いや
高知らす 水激る

       滝の都は 見れど飽かぬかも

      
       吉野の宮に行幸なさった時、柿本朝臣人麻呂が
作った歌

      国のすみずみまで統治しておられるわが大君が

        お治めなさる天下に、国はほんにたくさんある

        けれど、山も川も清らかな河内として大君が御

      心をよしとされる吉野の国の、花の散っている

      秋津の野辺に、宮殿の柱をしっかりとお建てに

      なると、ももしきの大宮人は、舟を並べて朝の

      川を渡り、舟を漕ぎ競って夕方の川を渡る、こ

      の川のように絶えることなく、この山のように

      いよいよ高くお治めになる、水の激しく流れる

      滝の離宮は、いくら見ても見飽きることがないよ。

         反歌

1・三七 見れど飽かぬ吉野の河の常滑(とこなめの)の絶ゆること

      なくまた還り見む

1・三八
 やすみしし わご大君 神ながら 神さび

      せすと 吉野川  激(たぎ)つ河内に 高殿を 高

      知りまして 登り立ち 国見をせせば  畳(たたな)

      はる 青垣山 山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と 春へ

      は 花かざし持ち 秋立てば 黄葉(もみち)かざせ

      り〔一に云ふ、黄葉(もみちば)かざし〕 行き沿ふ川

      の神も 大御食おほみけ)に 仕(つか)へ奉(まつ)ると 上つ瀬に

      鵜川を立ち 下つ瀬に 小網(さで)さし渡す

      山川も 依りて仕ふる 神の御代かも

         反歌

      見ても見飽きることがない吉野の川の常滑のよ

      うに, いつまでも絶えることなく,また立ちか

      えって見よう。

      安らかに国土を統治しておられるわが大君、

      として神らしくふるまわれるとて、吉野川の流

      れ激しい河内に高殿を高々と造営されて、登り

      立って国見をなさると、幾重にも重なる青い垣

      のように高殿をとり囲む山々は、山の神の大君

      に奉る貢物として、春の頃は花を頂にかぎり持

      ち、秋になると色づいた木の葉をかざっている

      〔一つにはいう、、色づいた木の葉をかざり〕、高殿に沿って

      流れる吉野川の川の神も、大君のお食事に奉仕

      するとて、上の瀬に鵜飼いを催し、下の瀬に小

      網を張り渡している、山や川も心服してお仕え

      する神の御代であるよ。
   平成24年10月13日 山の辺学 万葉講座 宮地たか






石上神宮と飛鳥

山の辺文化会議 国際日本文化研究センター教授千田

 
 奈良時代に書かれた『古事記』『日本書紀』という歴史書の中で、現在
の皇室
では『日本書紀』を大事にされている。その『日本書紀」には
伊勢神宮石上神宮
の二つしか神
宮という名が出ていない。他は、神社となっている。神宮は、本来
天皇家の先祖の御霊
をお祭りし、神社は、神様をお祭りしている。

 中国でも皇帝の祖先を祭っているのが神宮で、中国には神社はない。
神宮という名前
を日本にもってきて、最初につかわれたのが石上神宮と思われる。
伊勢神宮はかなりあとのようだ。私
たちは石上神宮をもっと誇りとし、その歴史性
を十分認識して欲しい。


<石上神宮の概要>

① 飛鳥時代には神社があったが、その後石上神宮となり、その後石上坐布留御魂神社「延喜式」へ変化した。

神武伝承の師霊(ふつみたま)「この刀は石上神宮に座す」-古事記-
③布留川の川辺祭祀伝承「大和国布留神社縁起」
は水にかかわる神事・・・竜王山桃尾の滝、布留川 
物部氏は石上神宮に関与したがそれは天皇家の勢力が弱まり、神宮
が所蔵していた武器の管理を物部氏
  に委ねたことにより、
関係が深まった。
⑤七支刀は369年百済王から倭王へ送られた。その頃、石上神宮は日本で重要な位置を占めていたと推測さ
  れる。

<石上神宮と飛鳥>


 日本という名前や天皇という称号ができたのは、おそらく飛鳥の頃と思う。それ以前
は「倭の国の大王」と呼ばれていた。飛鳥を冠する宮号は、
舒明天皇が最初で、都が
藤原京に代わって持統·文武天皇までを「飛鳥王
朝」、別名「水の王朝」、飛鳥の水の
王朝と、水と関係深い石上神宮とのっ
ながりがある。舒明天皇は飛鳥岡本宮皇極
天皇
は飛鳥板葺宮(
大化改新が起こり孝徳天皇難波長柄豊崎宮)、斎明天皇
後飛鳥岡本宮(
天智天は朝鮮半島との問題もあったので大津宮)、壬申の乱で勝利
を収めた
武天皇は飛鳥浄御原宮というように飛鳥はとても重要な場所であり、それ

が水に係わっているのではないか。

 しかし、飛鳥は狭いというので天武天皇の時代に大和三山(耳成山具山畝傍山)
を取り込んで藤原京を造るが、天武天皇は志半ばにして亡
くなり、皇后が持統天皇に
なって藤原京に移り、その孫の元明、文武天皇
で藤原京は終わる。その前の時代に
飛鳥にはこだわりの王朝があったと見
られる。目で見てわかるのが、舒明天皇の
押坂陵(現桜井市忍坂),皇極.
天智、天武·持統、文武天皇等の八角形古墳である。
文武天皇で
八角形古は終わっていることから、飛鳥王朝は舒明から文武までと想定
できる。

 八角形は世界を現している。天皇家の中に奥深く入っていた道教(その骨格は不老長
寿)の世界観が八角形。水の王朝ともいう飛鳥にはその遺構
(噴水、溝、井戸等)が残っ
ている。

  ・舒明、斎明と息長氏との繋がり

  ・三品彰英説『古事記』息長のミズヨリヒメの系譜伝承

   ・『日本書紀』神功皇后

  ・折口信夫「水の女」

  ・舒明の父、押坂彦人大兄皇子は皇祖大兄

  ・『日本書紀』皇極が飛鳥川の上流で雨乞い

 結論―『日本書紀』による―

 息長氏の血が流れている斎明女帝が香具山の西より石上山に至る「渠」を穿った。
その石は天理砂岩である可能性が強く、石上との繋がりの深さ
を示すものであり、石上
「神宮」としたのも天皇家に関係のある御霊を祀っ
ていたからであろうと思う。石上神宮
に深く関与したのは物部氏である。
砂岩⇒

垂仁天皇の皇子が菟砥川上宮で剣一千口を作り、石上神宮に収めたことや、天武天皇
が息長氏に関係のある忍壁皇子を石上神宮に派遣して神宝を磨か
せたことなど石上神宮
は初期王朝と関係の深い神社である。






東大寺山古墳の発掘調査

<櫟本東大寺山古墳の発掘調査>

 1961~62にかけて天理大学附属参考館の発掘調査した東大寺山古墳では、棺を覆う粘土に
数多くの武器や武具類が封入されていた。

これらのうち1ふりの鉄刀の刀背には、この刀が中平年間 (184~189年) に作られたとを示す
24文字の銘文が金象嵌で表されていた。こ中国でもこの頃の長い刀は2ふりしかないが、その
1ふりが東大寺山古墳で出土している。これ
がいかに特別の刀であるということを示している。

 卑弥呼が派遣した使節を通じてこの刀が与えられ、刀の威力によって国内の平和を保ったの
だろうと推測される。東大寺山古墳は大和の豪族の一つであった和珥氏の発祥地にあたる。
邪馬台国が魏との間に外交関係を結んだ230年代の末年以後に、刀は和珥氏の管掌にうつ
されたか、あるいは下賜された可能性が考えられる。
 

平成18年度 山の辺文化会議 総会記念講演
大阪府立弥生文化博物館館張 金屋恕氏 講演より抜粋





三輪山と二上山

 奈良盆とりまく青垣の山々で、とりわけ優れた山容をもつのが三輪山二上山。この二つの山は、
造化の神の妙なる手業と思えるほどに、ほ
ぼ東西に位置している。国中(くんなか)に住む人々は、
朝には三輪山から差しあがる
太陽を拝し、夕暮れには二上山の雄岳と雌岳の間、すなわち「たわ」
に沈
む夕日を感動的に眺めることが多い。三輪山と二上山を結んだカミナリ線があり、国中の範囲
は二上山と深く関わりがあるように思う。

<折口信夫と飛鳥>

 折口信夫の祖父、造酒ノ介は飛鳥村岡の岡本家の出身で、飛鳥坐神社主の飛鳥家の養子となり、
大阪木津村の折口家に入った人で、信夫は自分
の血筋は飛鳥にあると強く意識していた。

<折口信夫の『死者の書』をめぐって>

 二上山が印象深く語られている背景としては、折口信夫(1887~1953)著の『死者の書』(中公文庫)
の影響が大きい。現在我々が読む
『死者の書』は初版ではなく、「した したした。…」という不気味な

印象のある音で二上山に葬られていたシラツヒコ (大津皇子)がよみがえる場面から始まる。
謀反の罪で刑死し、二上山のふもとに葬られた大津
子とその死を悼む姉の大伯皇女の挽歌が現在
人の同情を集めるのである。

 新しい資料として安藤礼二編『初稿 死者の書』(2004年図書刊行会)によると、平城京の家で浄土教
の写経を志した藤原郎女が、春と秋の
彼岸の中日に二上山の雄岳と雌岳の間に日が沈むとき、金色
燦然たる黄の
僅人を見る。千部写経姚えた日、お僅人(おもかげびと)に会えるだろうと思っていたら
暮れから雨で夕日が見えず、僅人を追い求めて都を離れ当麻寺へ辿り着ところから始まる。
読んでいてストリーはよくわかるが、文学的なのは勿
論、折口が推敲を重ねた現在の『死者の書』であ
ろう。また富岡多恵子著
『釈迢空ノート』(岩波新書)では若い頃から強い影響を受けていた「藤無染」と
いう人物をあぶり出し「釈迢空」という歌人、詩人としてのペシネー
ムの謎を解き明かしている。
安藤礼二著『神々の闘争 折口信ん掄』(講
談社)や『国文学(2006年9月号)の特集折口信夫』では
『死者の書』
を今までのイメージとは違った側面で読み取ることができるので参考にされたい。

<三輪山祭祀>

 『日本書紀』の崇神天皇の夢占いの伝承から、三輪山の祭祀は元来大和王権の王が自ら行っていた
ことがうかがわれる。大和王権は全国へ進出していく先々で三輪の神を祀った。6世紀以降は三輪の君
が龍神でもあり大いなる霊カを持つ大物主大神を祀り、三輪山は古来大神神社の神体山として信仰
されてきた。

<二上山をめぐる諸問題>

 二上山は中臣寿詞(なかとみのよごと)に「天二上(あめのふたがみ)」と呼ばれ、天の・・・ と冠される
のは「
香具山」と伊予の「天山(あめやま)」の三つしかないことから、古来神聖視されていたことが
うかがわれる。

 また二上山とその周辺の火山群(大坂山)の岩で、箸基古墳下池山.黒塚中山大塚古墳の石室が
構築されており、二上山のふもとの染野とい
う地名が古來「しめ」と呼ばれていたことに注目すると、
石材は国 が管
理していたと考えられる。

 4月23日に行われる「ダケ登り」という習俗は、雄岳に祀られる龍神に雨乞いをするためのものであり、
歌垣の場でもあったものの名残である。

<カミナリ線>

 大和には雷がよく落ちる「カミナリ線」というものがあり、三輪山と(雷丘畝傍山) 大和高田の龍王宮、
二上山の麓の長尾神社を結ぶ線上と伝えられており実際に

気流の流れが感じられる。

<国中論>

 奈良盆地の中央部を「国中」と呼ぶが、二上山の雄岳の間に夕日が沈む感動的な情景を見る事が
できる範囲を指すと考えたい。近鉄線では
石見と田原本、当麻と二上山口、五位堂と下田、JRでは
天理と櫟本の間
までで見ることが出来る。また二上山から流れる水を水田に入れる地域をダケ郷と
呼ぶが、国中は一部曽我川西のダケ郷を含む。タケ郷は5月14日
の当麻寺練供養に参加する地域
でもある。

<まとめ>

 三輪山と二上山が東西に向かい合っているのは偶然とは言い難く、三輪山は神体山として二上山は
雄岳と雌岳の間に沈む夕日の忘れ難い荘厳な印
象が信仰を育て、ダケ郷や当麻寺への信仰が芽生え
、無形文化財である練
りに結集しているのではないか。

   平成19年度 山の辺文化会議 総会記念講演
   京都教育大学名誉教授 和田萃 講演より抜粋




古代の石上神宮

 石上神宮の現本殿は大正2 (1913)年に完成したもので、それ以前 は本殿はなく拝殿背後の禁足地のみ
であった。『石上大明神縁起』には、
「本社ノ後ニ禁足ト名付ケル処アリ、廻ラスニ石籬ヲ以テス、社氏ノ説ニ

神釵韴霊、霊崇アルニ仍テ、石ノ櫃ニ安鎮シ此処ニ斎埋ス」と記している。

禁足地には「松樹雑木草等茂レリ」(石見見聞誌) という状態で『和州山辺郡布留社頭并山内絵図』にその
様子が描かれている。

 明治6(1873)年大宮司に任ぜられた菅政友は教部省の許可を得て翌7年8月20~22日、禁足地の発掘を
実施した。その結果、内反素環頭大刀1振碧玉勾玉272個,硬玉勾玉12個など出土し、社伝の正しさが証明
された。内反素環頭大刀は神剣韴霊と認定され、奉斎するため禁足地を北側約1 0mを拡張して本殿が建造
された。

 石上神宮は大神神社とともにもとから本殿のない神社として著聞(ちょぶん)している。確かに中世以降、
本殿はなかったのは事実であるが、もとからとみる
ことは疑問である。神宝類の禁足地への埋斎は、発掘
状況から5世紀代に
おこなわれたとするのが通説である。ところが近年、藤井稔著「石上神宮七支刀と菅政友」
によれば、明治7(1874)年10月15日付、菅政
友が教部省の栗田寛宛の書簡の写しに、禁足地発掘の届書の
目録には記載
されていないが籠手残欠(鎌倉初期)が現存しており、神剣を除く他の出土品とともに重要文化
財に指定されている。通説はこの籠手残欠の存在を
無視しているが書簡には、勾玉や管玉などと同じく地表
下0.9mの地点か
ら出土している。また北宋の熙寧(1 0 6 8~7 7)年間に鋳造された宋銭一文(現物なし) も出土
したとあるのも注目される。この書簡により
神宝類が5世紀代に埋納されたとみる通説は再検討されねばなら
なくなっ
た。古代の石上神宮に本殿があったことを示す代表的な史料『延喜式』に「凡そ石上社の門の鑰一勾・
匙二ロは官庫に納めよ。祭に臨み、さきだち
て官人·神部· 卜部各一人を遣わして、門を開き掃除して祭りに供
えよ。

自余の正殿ならびに伴·佐伯の二殿の匙各一口は同じく庫に納めて輙く開くことを得ず」とある。これにより、
「正殿」は神社の中心をなす本殿であり、石上神宮には本殿があったことは明らかである。
  
  平成22年度 山の辺文化講座  石上神宮 白井伊佐牟




邪馬台国とはどのような国だったのか」

平成18年度 山の辺文化会議総会記念講演  大阪府立弥生文化博物館館長 金関恕

<魏志倭人伝>

 弥生時代の終わりごろ、倭人の国々のなかで覇権を握ったのは、女王弥呼を戴く邪馬台国である。この国名は
晋の官吏であった陳寿が285年
ごろ著した「三国志」魏書の東夷伝に登場する。陳寿はその末尾の2008字を割き、
日本列島に居住していた倭人とその土地について記録を残し
た。これが一般に「魏志」の倭人伝といわれるものである。
陳寿の魏志倭
人伝より前にも倭人について述べた史書に魚豢が書いた「魏略」である。

これは265~270年間に完成したと推定されるが、原本が失われ、書に引かれた文書を張鵬が集成した「魏略輯本」
(1924年)が広く使
われている。現在では、「魏志」も「魏略」も基本的には王沈の「魏書」に基づいて書かれたとされてい
る。ただし、王沈の「魏書」に東夷伝があっ
たかどうかについては明らかでない。

<倭人伝以前>

 倭について最も古い記録は周、秦の間(前10~3世紀)につくられ、後人が補筆したとされる神話·地理書の「山海経」
である。その海内北経
に「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す。」と記されている。

つまり、倭は朝鮮半島所在の穢の南にあることを示している。後漢の思想家であった王充(27~101年)の「論衡」に「周
の成王のとき、天下
太平越裳(今のベトナム南部) は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢ず。」と記されている。倭人が貢納した
鬯草も暢草も鬱金草のことである。先秦のこ
ろにクロキビを醸して造った酒にウコン草を煎じた汁を加え、香りの高い

鬯酒などと呼ばれるカクテルを祖霊に供えた。儀式のたびに多量のウコン草が必要であった。温暖な土地でしか育た
ないウコン草は南方からの貴重
な貢納物であった。魏志倭人伝では朝鮮半島の南からさらに南に横たわる土地を思い
描いていたことが察せられる。後漢の班固が76~88年の間
に著した「漢書」の地理志の燕地の条には「楽浪の海中に
倭人有り、分か
れて百余国となる。歳時を以って来たり、献見したと云う。」と書き残されている。

 前漢時代には、百余国の倭人の国から年ごと季節ごとに貢物を持って皇帝に拝謁にやってきたことが伝えられている
のである。前108年に武
帝が楽浪など4郡を設置したころから北部九州を中心とする倭人の国々の王、首長たちに鏡や
壁などの賜り物としてもたらされたことは考古学的に
認められている。

<金印の下賜と倭国の乱>

 「漢書」に次いで、中国の史書に倭国が登場するのは「5 7年 倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫(大臣) と称す。
倭国の極南界なり。光武
賜るに印綬を以ってす。」という有名な志賀島出土の金印は、天明年間に百姓が溝を掘ってい
ると金色に光るものを見つけた物が金印で「倭奴国王
印」と彫られていた。黒田藩に納められた国宝第1号となった。
福岡市立
博物館に所蔵されている。

 倭人伝は朝鮮半島の狗邪韓国から海を渡り対馬国、壱岐、松浦、糸島、奴国、不弥国、投馬国などを経て邪馬台国
に至るといい、この国に女王が
都をおいていると述べている。邪馬台国を含む国々が戦乱の時代を迎え、邪馬台国の
中で卑弥呼が選ばれ女王となり戦乱
が終息した。おそらくは倭の国々の中で邪馬台国が政治上の主導的地位を獲得
したと解釈でき
る。








中ッ道

 日本書紀』によると、7世紀後半壬申の乱の折、大海人皇子により倭 京将軍に任命された大伴連吹負は「軍を分りて、
各上中下の道當て屯む」唯し吹負のみ親ら中つ道に当たれり。「ここに近江の将犬養逴五十君、中つ道よりいたりて村屋
(田原本町伊与戸)に留りて・・・.」とあり、河内から大和に入る道として竜田道、大坂道、石手道の3つがあり、大和盆地に

は南北の道として上中下道があったことがわかる。中つ道はおそらくそれ以前から存在した道であろう。

 中ツ道は平城京の東から国道旧24号線に沿い、今の奈良市池田町と郡山美濃庄·井戸野町の境、穂積(前栽)、長屋庄
(西井戸堂
と合場町辺)を通り、藤原の東端から吉野へと続く道であり、下ツ道は平城京の朱雀大路南端の羅生門か

ら稗田を通って藤原京の西端へと通じる道であった。

 平城京、長岡京出土の告知木簡からは、中ツ道は奈良に都がなくなってからも多くの人が往来利用した道であった事が
うかがえる。また藤原道長
自筆の日記『御堂関白記』に「井外堂に宿る」とあり、道長は大峰へ行くのに中ッ道を通り、
大安寺、井戸堂に宿した。また当時の女性が長谷へ観
音参りするのに使われた道でもあった。また、法蓮寺は石上寺と
も呼ばれ
(石上寺と呼ばれる寺はいくつか存在する)正確な場所は特定されていないが、田村の厳島神社のあたりではな
いかと推測される。10世紀になる
と、中ツ道は以前ほど使われなくなるが、7,8世紀における中ツ道は大和盆地を南北に貫
くメインストリートとして、関白さえも通る重要な道で
あり、井戸堂、法蓮寺はその重要な拠 点の一つだったといえる。


山の辺文化会議 歴史講座(第31号:平成21年度)天理大学名誉教授 近江昌司






平城京と藤原京

 藤原京は、わずか16年で廃棄され、和銅3(710)年3月10日、新都平城京に遷都します。 藤原京を捨てる理由は、
平城との違いを明らかにすることによって理解することができます。相違点をあげますと、
①平
城京では都城形態が南北に長い長方形になる
②宮室(平城宮)
が都城北端の中央に設定される

③藤原京になかった羅城門と羅城が造営される
④平城京の朱雀
大路は藤原京朱雀大路の3倍の広さであり、平城京内でもきわだった規模である
などです。

 一部を指摘したにすぎませんが、こうした平城京の特徴はいずれも明らかに唐の長安城を指向しています。さらに、
平城京
の朱雀大路は幅が75mですが、長安城の同じ位置にある朱雀大街は幅が150mで、平城京朱雀大路はその
2分の1です。ま
た平城京は縦長の形です。長安城が東西9721m南北8651.7mであり、横長の方形であるのとは逆
です。

 平城京は長安城を長さにして正確に2分の1に縮小した形で90度回転させたもので、面積は4分の1となります。
平城京では、それに外京域
を付加した、明解な設計の原理だったのです。

 平城京の羅城門も長安城の正門である明徳門と同じ数と幅をもった通路を備えるという共通点があり、平城京の
京域の南面
に確認される羅城は、一部が単廊で他は高さが5m前後に復元される築地塀ですが、長安城の羅城が
高さ5.4mでしたの
で、外観の上では遜色のない規模であったといえます。

 こうしたことから、平城京は長安城を強く意識して設計されたことがわかりますが、同時に唐に対して恭順の意を
明確に表
現したものであったことも理解できるでしょう。また長安城の詳しい情報について国家間レベルでの授受が
あったことも確か
です。ちなみに、平城京を縦長にしたのは、朱雀大路をできるだけ壮大にみせるという意図があった
ものとみています。

 藤原京を放棄し、長安城に倣った新都の建設を決断させたのは、702年に33年ぶりに派遣された第7次遣唐使の
長安城で
の経験であったと考えています。遣唐使の長官は民部卿であった粟田朝臣真人でした。せっかく完成させた
理想の都城、藤
原京ですが、長安城と見比べてあまりにも貧弱で、帝国の都城としての要件に多くの側面で欠けてい
る実情を思い知らされた
のでしょう。

 国家の経綸をになう枢要な人物の実際の見聞に基づく判断です。藤原京では国の権威が保てないとの危機感を抱き、
長安滞
在中に、藤原京の廃替と新都建設が必要と判断して、その実現にむけて必要な情報収集などの行動を起こした
に違いありません。

 704年に帰国した粟田真人は中納言に昇進し、慶雲4(707)年2月、五位以上の諸王臣に遷都のことを議する詔勅が

出されます。

 このように、平城京もまた,藤原京同様に、対外的に天皇の権威を誇示し、国家統一を象徴的に表現するという、国
維持
するために必要不可欠な装置として建設事業が強行されたのでした。
  2008-8-22  朝日新聞 
奈良文化財研究所国際遺跡研究室長 井上和人





葛城氏

 奈良盆地南部の奈良県御所市石張りの堀に囲ほれた5世紀前半(古墳時代中期)の巨大な建物跡が出土した。
古墳時代としては最大級
の規模で、県立橿原考古学研究所が21日、極楽寺ヒビキ遺跡と命名すると発表した。
盆地を見下ろす標高約
240mの丘陵にあり、大豪族葛城氏が治めた一帯の「王宮」のような施設だったらしい。
火災で全焼した痕
跡があり、葛城氏が雄略天皇に焼き打ちされた日本書紀の記述を裏付ける可能性もある。

 農地整備に伴い調査した。敷地面積は約1500平方mで、北と東が谷に面し、南と西の二方に堀(幅約13m、
深さ約2
m)があった。西側に主要な掘っ立て柱建物跡(約15m四方)があり、東側は約500平方mの広場。塀の
跡や、物見台
らしい小規模の建物跡も見つかった。

 主要な建物の中心部分の柱は直径約45cmで、太さや並び方などから2階建てと推測される。ひさしを支えた柱
もあり、西
面と南面には縁側があったらしい1階部分の床面積約225平方mは,古代の代表的な豪族居館跡とされ
る群馬県群馬町
の三ツ寺1遺跡の大型建物(約170平方m)を上回る。

 建物や塀などすべての柱跡からは、焼けた土や灰が見つかった。日本書紀では大王(天皇)と姻戚関係にあった
葛城氏
は、皇位継承をめぐる争いから雄略天皇に攻められたとされ、当時の権力闘争を知る手がかりになりそ
うだ。
遺跡からは祭祀儀礼で使う高坏(たかつき)が見つかったが、日常生活で使う土器などは出土しなかった。

同研究所は「居住場所ではなく、祭祀や政務を執り行った行政管理センター的な施設だった」とみている。 

 極楽寺ヒビキ遺跡の北東約400mにある南郷安田遺跡では95年、17m四方の建物跡が見つかり、葛城氏の祭祀
施設と
された。今回の建物跡はやや小さいが、同遺跡を見下ろす高台にあることから、別の機能を持つ帯の中心
施設とみられる。
  2005-2-22  朝日新聞

葛城氏 朝鮮半島に出兵した将軍襲津彦(そつひこ) (4世紀末から5世紀前半ごろ)

が始祖。当時の日本は、讃、珍、済、興、武の「倭の五王」が中国に盛んに使者を
送って国際的地位を高
めようとしていた。

 日本書紀によると、津彦の娘磐之媛仁徳天皇の皇后になって履中(りちゅら) 、
反正(はんぜい) 、允恭(いんぎょう)の3天皇を産むなど、仁徳から仁賢まで9代の天皇
のうち8人が葛城氏出身者を妃や母としている。天皇(大王)家との深い結びつきで政治

基盤を固めていったが、五王のうち「武」とされる雄略天皇が登場すると、天皇の政敵と
目された皇子らとともに攻められ、勢力を失ったという。


 奈良盆地の南西部に位置する
葛城は、古代有数の豪族であった葛城氏の勢力圏であ
ったと考
れている。

 葛城氏は、葛城襲津彦(そつひこを)始祖とし、「古事記」には孝元天皇の曾孫武内宿禰
の子の一人
といわれる。五世紀には、婚姻関係で大王家と深く結びつき、面頭政権であ
ったとする考え方もある。
また、高天原はここであると言れる説もあり、雄略天皇が狩り
の際、
葛城山中で一言主神に出会ったという。 いにしえの伝承が息づく葛城には、そこ
かしこに神々の足跡
が残されている。




橘(時じく香の木の実)

 古事記』中巻と『日本書紀』巻第六に、次のような物語が記されています。垂仁天 田道間守に命じて常世国に遣わし、
「時じくの香(かく)の木の実」を捜し求めさせました。木の実を採って帰国しましたが、天皇はすでに亡くなっていました。田道間守
は陵にそれを捧げ、悲しみのあまり絶叫して自死したというのです。『古事記』は「時じくの香の木の実は、是れ今の橘なり」と説明
しています。断定はしがたいのですが、このタチバナは現在のヤマトタチバナとする説があります。ヤマトタチバナは高くても3mほど
の木に直径約3cmの黄色い果実をつけます。果実は酸味が強く香り高いのが特徴です。

 海南市の橘本神社(きつもと)は田道間守がタチバナを植えたとする伝説があり、現在は菓子の神様になっています。

 天平8(736)年11月17日、葛城王は臣籍降下して母方の橘宿禰を名告,橘宿禰諸兄となりました。

聖武天皇は寿ぎの歌を詠みました.

   橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝(え)に霜降れど いや常葉の木    (巻6-1009)


 また、大伴家持の「橘の歌一首并せて短歌」には、万葉人のタチバナに寄せる思いがよく表現されていほす。

   かけまくも あやに恐(かしこ)し  天皇(すめろき)の 神の大御代に  田道間守 常世に渡り  八桙持ち  参ゐ出来し時 時じくの

   香の木の実を恐くも 残したまへれ 国も狭(せ)に  生ひ立ち栄え  春されば 孫枝(ひこえ)萌いつつ ほどとぎす 鳴く五月に

   は  初花を  枝に手(た)折りて 娘子(をとめ)らに  つとにも遣(や)りみ  白たへの 袖に扱(こき)き入れ  かぐはしみ  置きて枯らしみ

   落(あ)ゆる実は  玉に貫きつつ, 手に巻きて  見れども飽かず 秋付けば  しぐれの雨降り  あしひきの 山の木末(こぬれ)は

   紅に  にほひ散れども  橘の 成れるその実は  ひた照りに  いや見が欲しく  み雪降る  冬に至れば 霜置けども

   その葉も枯れず  常磐(ときは)なす  いや盛映(さかえ)えに  然れこそ  神の御代より  宜(よろ)しなヘ  この橘を  時じくの 香の木の実

と  名付けけらしも    (巻18-4111)

 反歌一首

   橘は 花にも実にも 見つれども いや時じくに なほし見が欲し   (巻18-4112)
 冬になって霜が降りても葉は緑、実は黄色く照り輝いています。
見るからに生命力に溢れています

まさに「時じくの香の木の実」、時を定めない霊妙な木の実なのです


  ガット ネロ  第25号(2018-6)犬養万葉記念会に協力する会 代表 山内英正 より

橘寺
穴師はみかん   







田道間守と天日槍(あめのひぼこ)

 「ヨーイヨーイパャーナ イーケノ  ハータノ クイチロガ セートーキッテ ハーニャーター」

 但馬国一の宮、出石神社(兵庫県豊岡市出石町)で5月5日に行われる神事「幟(のぼり)まわし」で、古代衣装
の男たちは、特大の幟を上
下させながら,そう謡う。

 「全体の意味は不明ですが、『セートーキッテ、ハーニャータ-』は、御祭神の天日槍(あめのひぼこ)が瀬戸を
切って離
したとの意味と考えられます」

 同神社の長尾家典宮司はそう話す。主祭神のヒポコは、11代垂仁天皇の時代に朝鮮半島の新羅国から来た

と記紀に記される渡来人。

社伝によると、円山川河口の岩山(瀬戸の切戸)を切り開いて濁流を日本海に流し、肥沃な但馬平野を現出
せた

 幟まわしは、開削に成功したヒポコが意気揚々と出石へ戻る様子を再現したものだという。幟には戦国武
が描かれ、現在は初節句
を迎えた子供たちの家々を巡り、健やかな成長を祈る恒例行事になっている。

 「汝(いまし)は誰人ぞ。旦何(またいづこ)の国の人ぞ」

 「僕(やっこ)は新羅国主(ここきし)の子なり」

 日本書紀は、垂仁天皇の使者が、播磨国に渡来したヒポコに素性を尋ねる場面をそう記す。ヒポコは自分
新羅の王子と答え、

赤石珠(あかしのたま)、小刀、槍(ほこ)、日鏡など8種の神宝を献上し、帰属を申し出る。天皇は、播磨国
淡路島での居住を勧める
が、ヒポコは自分の心にかなった地を賜りたいと申し上げ、許される。

 <但馬国に到り、則ち住処を定む>

 日本書紀がそう書く定住地が、出石神社の周辺だ。出石は海から約15キロ離れた内陸地だが、豊岡市立
歴史
博物館の石原由美子氏はこう話す。

 「古代の但馬平野には入り海が存在し、出石のすぐ手前まで入り込んでいた」

 ヒポコは海の近くに住居を構えたのである。

 <天之日矛持ち帰り来つる物は、玉津宝と云ひて、珠二貫、また浪振る比礼.浪切る比礼,風振る比

礼風切る比礼、また奥津鏡.辺津鏡,併せて八種なり>

 古事記も、ヒポコの神宝を列挙する。日本書紀の神宝とかなり異なるが、石原氏はそこにヒポコの特性を
る。

 「比礼は古代のスカーフで、呪具でもあった。それをうち振ることで波風を操るのです。奥津と辺津は海

の沖と陸ですから、鏡は海神の神威を招く呪具でしょう。海を自在に操る能力を神宝は象徴しています」

 平成15出石神社の北600mの袴狭遺跡(はかぜ)から出土した4世紀の木製品に、16隻の船が線刻されて
いる
のが発見された。兵庫県教委文化財課の中村弘主幹はこう説明する。

 「ひときわ大きな船を小さな準構造船が取り囲む配置で描かれ、当時の船団構成を知る国内随一の資料と

いえる。ヒポコの伝承地が外洋に開かれていたことを推測させます」

 ヒポコの登場は、渡来人が活躍する古代日本の幕開けを示している。

逃げた妻を追ったヒポコ

 古事記は15代応神天皇の段で、新羅国の沼のほとりで昼寝をしていた女が日の光で赤い玉を身ごもった伝
承を記
している。玉は美しい乙女の姿となり、ヒポコの妻になる。

 妻はヒポコに尽くすが、思い上がったヒポコに罵られ、「祖先の国に行く」と海を渡る。逃げた妻を追ったの
ヒボコの渡来だ。

 妻は難波にとどまるが、ヒポコは難波の渡の神に遮られて但馬国に至る。古事記は、妻は比売碁曽社に
鎮座する。
向加流比売神だとも記す。その社は、大阪市東成区の比売許曽神社などと推測される。
   2018-5-29   産経新聞

 <天日槍、菟道河よりさかのぼり、北近江国の吾名邑に入りて、暫く住む。復更(また)近江より若狭国を
経て、西但馬
国に到り、則ち住処を定む>

 日本書紀は、垂仁天皇ら諸国を巡ることを許されたヒポコが、但馬国に定住するまでの経路をそう記す。
航海術にたけたヒポコ
は、大阪湾から淀川、宇治川とさかのぼって琵琶湖に出るのである

 近江国の「吾名邑」は坂田郡阿那郷(現滋賀県米原市)、同県竜王町の苗村神社付近、同県草津市穴村
のヒポコを祭る安羅神社(やすら)
付近が候補地。同神社の名は古代朝鮮南部の安羅国が由来ともいわれ、
神社の
由緒にはこう書かれている。

 <天日槍の旅人党類の人々が命の故国に因縁の深い名称を残したのであろう>

 <近江国の鏡村の谷の陶人(すえびと)は、則ち天日槍の従人なり>

 経路の記述に続けて日本書紀はこう書く。

 「前後の文脈に関係のない一文の印象だが、垂仁紀には他にも祖先伝承が挿入されることもあり、その一

例です」

 京都市芸術大の畑中英二准教授はそう話す。鏡村は現在の竜王町の鏡山周辺を指す。麓の鏡神社(同町
鏡)
は、祭神のヒポコが神宝の日鏡をこの地に納めたのが地名の由来と伝える。

 この地方には、6世紀から8世紀に操業された須恵器の古窯址群(こようし)が数多く残る。一方、その2キロ
ほど離
れた同県野洲市の西河原遺跡群では「三宅連」と墨書された土器や木簡が出土し、ここに居住していた
族の名前が推測できるが、その三宅連は平安初期の古代氏族名鑑「新撰姓氏録などでヒポコに伴われ
て渡来した人の後裔と書かれている。また、西河原遺跡群からは、歪んだり割れたりした須恵器が多く出土し
ており、鏡山窯の土器が選別されていたこともわかる。

 「鏡山で作られた須恵器は、古代の西河原に集められ、琵琶湖の水運で各地に拡散していったのだろう。

日本書紀に近江の国の話が挿入されている意味は、東アジア外交に揺れた当時、新羅にルーツを持つヒポコ

の存在を軽視できなかったからではないか」

ヒボコは、定住地の但馬などにも製鉄技術をもたらした出石神社(兵庫県豊岡市)の長尾家典宮司は社伝を
基にこう語る。

 「ヒボコは、但馬と丹波の国境の鉄鈷山(かなとこやま)で砂鉄を取り、麓の集落で工具を鍛造したと 言い伝
えられていま
す。この時の従者の子孫もおられます」

 しかし、日本で製鉄が始まるのは6世紀以降とされ、それまでは鉄器の素材を朝鮮半島から輸入して加工し
ていた。ヒポコが活躍
する垂仁天皇の時代は4世紀ごろなので、伝承は考古学の常識と矛盾する。ただ、出石
神社近くの古墳で
は製鉄の可能性を示す砂鉄が出土している。

 「新しい製鉄技術を持った人物が実際に但馬にいたのかもしれない。ヒポコの神話には、まだまだ歴史的

な何かがありそうです」

 兵庫県立考古博物館の石野博信元館長はそう話す。渡来人から神になったヒポコは謎にも満ちている。


鏡神社

 ご祭神は天日槍命。本殿は室町中期に建立され、国の重要文化財に指定されている。

 神社周辺には、古墳時代後期から飛鳥奈良時代にかけて焼かれた須恵器の窯跡が
数多く残されており、「日本書紀」の
垂仁紀にあるアメノヒボコ伝承との深い関わりが推
測されている。

 現在、鏡地区は、源義経元服の地として情報発信をしている。鏡神社の参道にも、
義経が武運長久を祈るために参拝し
た際、烏帽子をかけたとされる松の一部が保存さ
れている。
   2018-5-30   産経新聞


  天日槍が渡来神として、在地の神と土地の争奪戦を繰り広げる「国占め」神話を伝えるのが播磨国風土記

 「汝(なむち)は国主為り。吾が宿る所を得まく欲りす」

 風土記は播磨国(現兵庫県)の揖保川の河口に現れたヒポコが、在地の神の葦原の志許乎(しこを)に宿営
地の確保を求めたと書く。
 <客神、剣以て海水を撹きて宿る>

 上陸を拒まれたヒポコは、剣で海水をぐるぐるとかき回し、そこに居座ったと続く。

 「海をかき回したのは自らの勢いを誇示したということ。伝承はヒポコを祭る但馬勢力が播磨に進出し在地
勢力と対立した5世紀
ごろの歴史的事実を反映しています」

 神戸大の古市晃准教授はそう解説する。

 「6世紀になると大和王権による支配秩序が確立しますが、それ以前は地方の支配は不安定で、争いがあ
ました。畿内の玄関口に
あり、土地が豊かで、モノや情報が行き交う要衝の播磨には、さまざまな地域の勢力
が入り込もうとしてい
たのです」

 <主の神、すなはち客神の盛りなる行を畏みて、先に国を占めむと欲ひ 巡り上りて粒丘に到りて、
みをし(氵+食)し
たまふ。ここに、口より粒落ちき>

 風土記は、ヒポコを脅威に感じたシコヲが先に国の支配を固めるため北上し、(兵庫県たつの市)で食事をした
と書く。その
時、口から米粒がぽろぽろこぼれた。これが「粒(揖保)丘」の地名由来だ。

 「高い場所でご飯を食べるのは見渡す範囲をテリトリーとして支配権を確認したことを表しています」

 たつの市教委歴史文化財譟の岸本道昭課長は、そう説明する。

 <この谷を相奪ひたまひき。故(か)れ、奪谷ち日う>
 
 <各軍を発(おのもおのもいくさおこ)して相戦ひましき。そのとき 大神の軍(いくさ)、集(つど)ひて稲を舂(つ)
き。その糠、聚(あつま)りて丘と為りき>

 <命(ひぼこ)の軍、八
千在りき。故れ、八千軍野と曰ふ>

 風土記は、「奪谷」「粳岡」「八チ軍野」など多くの地名由来を通して、ヒポコと、伊和大神とも呼ばれるシコヲ
の戦いの激しさを
物語る。

 <各、黒葛三条(くろづらみかた)を以ちて、み足に着けて投げたまひき>

 風土記は、ヒポコとシコヲの争いは御方(同県宍粟市)の山上から、3つずつ黒葛の輪を足で蹴上げたこと
決着したと書くシコヲ
の黒葛は、但馬の気多同県豊岡市)と夜夫(同県養父市)、残る1つが播磨側の御方に落ち
た。対するヒポコ
はすべての黒葛が但馬側に落ちたため播磨を出て但馬に落ち着くことになった。

 古市准教授は「播磨で地元勢力が勢威を示し,但馬勢力を撃退したことを意味します」と指摘する。宍粟市教
委教育部の田路正幸次
長はこう話す。

 実際には武力行使の結果でしょうが、支配の正当性を示すには神の意思で国境が定まったという伝承が
要だったのでしょう」


いいぼおか

粒丘 の場所

粒丘の比定地については諸説ある。明治以降、兵庫県たつの市揖保町の中臣印達神社のある
中臣山が定説化し、
同神社境内に「粒丘」の石碑もあるが、同市教委の岸本道昭課長は「登る
旧揖保郡の大半を見渡せる的場山が
有力」と指摘する。

 山頂近くには米粒にまつわる縁起を持つ粒坐天照神社(同市龍野町) の奥宮があり、泉がある
ことも風土記の
「泉湧く」の記述と整合することなどが根拠。奥宮の近くは石英閃緑岩が転がり、
岸本氏は「古代人には岩が巨大な神の口からこぼれた飯粒に見えたのではないか」と話す。  
2018-5-31   産経新聞



 天日槍(あめのひぼこ)の子孫で、後に菓子の神や「菓祖」として信仰されるようになったのが田道間守だ。
日本書紀ではヒボコの孫の孫、つまり玄孫とされ、11代垂天皇の条にこう記されている。

 <九十年の春二月の庚子の朔に、天皇、田道間守に命せて常世国に遣し、非時香菓(ときじくのかくのみ)
を求めしめたまふ。今し橘と謂ふは是なり>

 垂仁天皇の90年2月1日、天皇はタヂマモリを常世国に派遣し、今は橘という果実を探させた。タヂマモリ
は10年後、ようやく帰
るが、旅は苦難の連続だった。その様子をタヂマモリはこう語る。

 「万里に浪を蹈み、遥に弱水 (崑崙山の下にあるという川)を度る。是の常世国は、則ち神仙の秘区にして、
俗の臻(いた)らむ所に非
ず」

 とても俗人が行けるところではなかったというのである。

 <非時香菓、八竿八縵やほこやかげ)なり>

 日本書紀は、タヂマモリが持ち帰った「非時香菓」についてそう書く。串に刺したものが8本、葉が付いたも
のが8本だったのだ。

しかし,タヂマモリの労苦は報われなかった。帰国の前年に天皇は崩御していたからである。

 「今し天皇既に崩(かむあが)りまし,復命かへりことまを)すこと得ず。,臣生(やっこ)けりと雖(いふと)も、
亦何の益(しるし)かあ
らむ」

 そう嘆くと、タヂマモリは天皇の陵に行って自殺し左タヂマモリが死に場所としたのは菅原伏見陵。
在の菅原伏見東陵(奈良市)に治定されている宝来山古墳と考えられる。

 タヂマモリは、兵庫県豊岡市の中嶋神社に祭られている 33代推古天皇の時代創建と伝わり、平安時代の

延喜式神名帳にも記載されている古社だ。

「但馬や丹後半島にはタヂマモリ伝説が多く残っていますが、大陸や朝鮮半島とのつながりを示すもので

しょう」

古代丹波歴史研究所(滋賀県近江八幡市)の伴とし子所長はそう話す。

<非時香菓(橘)は当時としては菓子の最も優れたものとして珍重され、やがて菓子の神様、菓祖神として

お祭りするようになった>

 中嶋神社の由緒にはそう書かれている。京都市左京区の吉田神社境内にある菓祖神社は、タヂマモリと
わせて、日本で最初にまんじゅうを作ったという林浄因命を祭る。菓子業界の尊崇を受けて昭和32年に
創建
された。

 父の嘉一郎氏が創建に尽力した、嘉楽本舗「たにぐち」(京都市上京区)の谷囗容造会長の自宅には「菓

祖神田道間守公と書かれた木箱が残る。中は素焼きに彩色が施され、手に橘の枝を持つタヂマモリの人

形。大正12年に設立された大手菓子メーカー販売会社が特約店などに配ったもので、説明書にはこう書か
ている。

 〈我菓子会の祖神として(略)祭祀の神霊として茲(ここ)に業祖の尊像を頒(わか)つ次第なり>

 菓祖への篤い信仰がうかがえる。


タヂマモリ信仰

 古事記、日本書紀ともにタヂマモリはアメノヒボコの玄孫とする。その名から、但馬国(現兵庫県)の国守
では
ないかとの説もある。常世国に赴き不老不死の実を持ち帰ったという物語には神仙思想の影響が見
られ、後に橘
の実を菓子のルーツとし、「菓子の神」「菓祖神」と信仰を集めた。

 タヂマモリを祭神とする中嶋神社では毎年4月、「菓子祭」が開かれる。

佐賀県伊万里市の伊萬里神社内にも中嶋神社があり、タヂマモリが橘の木を植えたとの伝承が残る。
   2018-6-1  産経新聞

田道間守 橘寺
吉田神社 大伴家持 後白河法皇
京都御所    

 非時香菓(いつも香り輝く果実) 」を探せとの11代垂仁天皇の命を帯び常世国に遣わされた田道間守。
日本書紀は、その困難
な旅を文学的な修辞を駆使して描き出しているが、その系譜については、まるで

ついでのような形で簡略に記すのみだ。

 <是三宅連が始祖なり>

 「実は、ここが記録としては最も重要なのです」

 神戸大の古市晃准教授はそう話す。諸氏の系譜を記す平安時代の新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)に

よると、兵庫県北部の但馬に定着した渡来人、天日槍の子孫が三宅連である。

 「三宅連が自らの祖先の働きを誇らしく語っているようでしょう。つまりタヂマモリ伝承とは三宅連に伝わっ
ていた話が、大和政権
によって日本書紀に採用されたと考えられるのです」

 大和政権が、進んだ知識と技術を持つ渡来人、ヒポコの子孫を優遇していたという指摘である。

 <今し橘と謂ふは是なり>

 日本書紀は、タヂマモリ.が持ち帰った非時香菓が、今では皆が知るあの橘だと記す。万葉集には橘を
詠ん
だ歌が約70首もあり、橘は古代の人々には身近な植物だったことがうかがえる。

 〈常世物 この橘の いや照りに わご大君は 今も見るごと>

 タヂマモリの伝承を踏まえた大伴家持の歌は、照り輝く果実を天皇にたとえて言祝(ことほ)いでいる。
青々とした
葉を絶やさず、黄金色の果実をつける橘は、長寿や繁栄を象徴する植物として人々の間に定着
していっ
た。

 平安時代の延喜式には各地で栽培された果実が宮廷に奉納された記録がある。香りのいい果汁を酒に

搾って飲むため、酒席にも添えられていたという。

 「橘は常世国から来たとの考えと、体によく、長寿の効用があるとの認識が古代人にあったのではないでし

ようか。そんな思いは、正月の鏡餅に同じ柑橘類のダイダイを載せる慣習として今も受け継がれています」

 奈良県立図書情報館の千田稔館長はそう話す。

 和歌山県海南市下津町橘本(きつ)の橘本神社。かつて都の貴人らも歩いた熊野街道に面した同神社は、
タヂマモ
リをご祭神としている。常世国から持ち帰った橘のうち6本が植えられたと伝わり、境内近くのその
場所は
「六本樹の丘」と呼ばれている。

 「橘を絶やしてはいけないと考えた周囲の人たちが、温暖で生育に適したこの地を選んだのだと思います」

 前山和範宮司はそう言う。江戸時代、紀伊国屋左衛門が江戸に向けて、嵐の中をミカンを積んで船出した
との碑がある同町は、
古くからのミカンの産地。神社付近の山の斜面にも見事な段々畑が広がっている。

 平安末期,後白河法皇が熊野御幸の途中にここで詠んだと伝わる歌がある。

  <橘の本に 一夜の旅寝して 入佐の山の 月を見るかな>

 タヂマモリがもたらした柑橘類はその後の日本で、豊かな実りとして息づいている。

 橘は一般には、ミカンやダイダイ、キンカンなどの総称として使われる。

 日本書紀が書く橘は、ヤマトタチパナと考えられ、白い花が咲き、酸味が強い直径2~3cmの果実をつける。
岡以西に分布し、今は商業的な栽培はほとんど行われていない。京都御所紫宸殿の「右近の橘」が知られ、
文化勲
章のデザインにも使われている。

 農業·食品産業技術総合研究機構の清水徳朗上級研究員は「果物の種類が少ない時代、その香りのよさも
貴族ら
に珍重された理由でしょう」と話す。
  2018-6-2  産経新聞




菖蒲池古墳

 飛鳥時代の有力豪族の墓とみられる橿原市の菖蒲池古墳(国史跡、7世紀中ごろ)について、墳丘の外側

の「外堤」を含めると、東西67 ~ 90mの大規模な方墳だった可能性のあることが分かった。市教委がこの
どまとめた発掘調査報告書で明らかにした。

 報告書によれば、菖蒲池古墳は640年代~660年代に築造され、堀が埋め立てられたのは藤原京に遷

都された時代(694~710年)とされる。

 墳丘の構造は1辺約30m高さ約7. 5mの2段重ねの方墳。墳丘の北·東·西にそれぞれ堀をつくり、堀は北
から南に向けて
幅が0 . 2から4 . 3mへと広がっていた。労働力を減らし、奥行きの大きさを見せる視覚的
効果を狙っ
たとみられる。

 堀を挟んで高さ3 . 3m以上の土を盛った「外堤」も築かれ、東西に外堤が対照的に存在したとすれば、

東西約90 m、南北約82mの墓域を誇った。墳丘と外堤の築造技術には土を何層にも突き固める「版築
工法」
や土囊工法を併用。外堤の外側に石敷きを施し、平坦面を美しく飾ったようだ。

 調査した歴史に憩う橿原博物館学芸員の松井一晃一さんは、堀を埋めた土中から出土した「榛原石」を
加工した磚(せん・れんが)に注目する。墳丘側から捨てられた形跡があり、古墳の頂上部を榛原石で飾っ
た可能性を指摘。ただ、堀の外から捨てられたとみられる破片もあった。飛鳥最大級の方墳だった可能性
も浮上した明日香村の小山田遺跡(7世紀中ごろ)が東に隣接し、同遺跡でも榛原石が出土したことが判明。
その一部が菖蒲池古墳に投棄された可能性もあるとみる。

 菖蒲池古墳の一帯は有力豪族、蘇我氏の本拠地とされる。石室内に石棺2基が置かれ、専門家の間で
は被
葬者像を645年の乙巳の変で討たれた蘇我蝦夷入鹿の父子とする説や、乙巳の変に加担した蘇我
倉山
田石川麻呂
の説などがある。

 松井さんは「菖蒲池古墳は飛鳥の中枢部につながるルートの入り口に立地し、非常に立派な古墳だった
からも古墳を造った氏族の権力の大きさがうかがえる」と話す。菖蒲池古墳は築造後、長くても半世紀
には埋め戻され、のちの藤原京の時代には掘立柱建物が建てられたとみられる。

一方、隣接する小山田遺跡からも荷札木簡が見つかり、同じ藤原京の時代には公的施設があった可能性
ある。「両遺跡の跡地には役所のような公的施設がつくられた可能性があり、藤原京に遷都後も政治的
機能
を有していたのかもしれない土地の利用方法が時代の要請とともに変わったのでは」と分析する。

 報告書は非売品。県内の公立図書館や歴史に憩ろ橿原市博物館(橿原市川西町)で閲覧できる。
  2015-4-17  朝日新聞 塚本和人






飛鳥の古墳

 飛鳥は古墳の宝庫です。お寺や宮殿遺跡、謎に満ちた石像物に目を奪われがちですが、観光スポットの石舞台古墳(明日香村)、
壁画古墳で有名な高松塚古墳
キトラ古墳斉明天皇陵であることが有力視される牽牛子塚古墳など枚挙にいとまがありません。
鬼が通行人を捕らえて「俎」で調理し、「雪隠」で用を足したとの伝承が残る
鬼俎·雪隠も、もとは二つが組み合わさって古墳の石室
をなしていたものです。

 飛鳥の古墳には、様々な形があります。五条野丸山古墳(橿原市)や平田梅山古墳(明日香村、現・欽 明天皇陵)は、3世紀から続く
鍵穴形をした前方後円墳です。両古墳とも王権中枢部で築かれた最後の前方後円墳とみられます。飛鳥時代に入るとともに前方後
円墳は築かれなくなりますが、その後も古墳は、方墳や円墳、八角墳に形を変え、規模を縮小させながらも築造は続きました。

 研究者の多くは、飛鳥時代の古墳を「終末期古墳」と呼びます。その名称は、1972年の高松塚古墳の壁画発見をきっかけに広まり
ました。規模は小さくとも、歴史的意義を古代国家が完成に向かう過程の中で正しく評価しょうとする意図が込められていました。

 古墳が小規模になる背景に「薄葬化」という現象がありぼす。飛鳥時代後半には墳丘や埋葬施設、副葬品の内容が簡素になります。
日本書紀」に記されている「大化薄葬令」との関係が読み取られてきました。この法令自体の存在や実効性を疑う意見もありますが、
飛鳥時代に葬送の観念や方法に大きな変化が生じたことは間違いありません。

 飛鳥の諸宮殿や藤原京を見下ろす南側の丘陵部に、集中的に築かれる点も飛鳥の古墳の特徴です。都の郊外に天皇皇族クラス
の古墳を計画的に配置する点は、中国の皇帝陵にならった可能性があります。天武持統両天皇が合葬された野口王墓古墳は、
藤原京の朱雀大路の南の延長線上に正確に築かれています。古墳づくりが、藤原京の設計と一体的に計画された証拠です。

 大小さまざまな谷が入り組む京郊外の丘陵部は、谷の奥まった場所を好んで古墳をつくる、中国伝統の風水思想にもマッチしてい
ます。近年の発掘調査では、古墳づくりに大陸由来の高度な技術が用いられた様子も鮮明になっていぼす。海を越えて渡ってきた
最先端の知識や技術が投入されたのです。

 飛鳥の古墳の最大の魅力は、「日本書紀」に名を残した人物を被葬者に思い浮かべることができる点です。日本の古墳で墓誌が残
されることはまれで、被葬者を特定できるケースは多くありませんが、飛鳥の古墳には古墳の特徴と文献の内容を整合的に読み解く
ことで被葬者がほぼ確実になった例がいくつか存在します。7世紀の中心舞台だった飛鳥の古墳ならではです。
  2013-10-4  朝日新聞
 奈良文化財研究所都城発掘調査部研究員 廣瀬覚



 「薄葬」とは、葬送の行為を簡素にすることで、これが飛鳥時代の古墳の特徴の一つです。飛鳥時代には古墳

の形や大きさ、埋葬施設の構造、棺の形態、副葬品の内容などが、それまでとは大きく変化します。古墳の形で

は前方後円墳が消滅し、方墳や円墳が主流となります。3世紀後半から300年以上の歴史をもった「前方後円」形

からの転換は一大画期でした。

 古墳の大きさは、6世紀後半に築かれた橿原市の五条野丸山古墳が、奈良県下最大の前方後円墳で墳長が
300
以上もあるのに対し、その約100年後に築かれた明日香村の野口王墓舌墳(持統天皇陵)は、八角
の対辺長が40mで、丸山
古墳と比べると、非常に小さい古墳です。終末期古墳には天皇や大豪族の墓でも一辺
の長さや直径が100
を超えるものはなく、古墳づくりにかける労働力が大幅に縮小されたことが分かります。

 7世紀になると、「横口式石槨(よこぐち)」と呼ばれる埋葬施設が新たに登場します。6世紀に主体的だった横穴
式石室は、先に亡くなった人の遺体や遺骨を安置した場所に、あとから亡くなった人を埋葬する「追葬」が可能と
なる空間を内部に持ちます。一方、横口式石槨は内部空間が押し入れの一段分ほどと狭く、基本的には一つの
棺を設置するスペースしかありません。

 横口式石槨は、7世紀後半には畿内の古墳の埋葬施設の主流となり、皇族や貴族の古墳に採用されほす。
遺体を納
める棺にも、何枚もの布を漆で塗り固めた夾紵棺(きょうちょかん)や、漆塗り木棺など、小さく、軽い棺

が登場します。それまでは巨石を用いた家形石棺などの大きく、重い棺でした。新たな棺の採用で遺体を棺に納
めて
墓に運ぶ習慣が始まります。副葬品は7世紀にも6世紀と同様、鏡、玉類、大刀などが納められほすが、
6世紀にみ
られた、武器·武具や馬具などを含んだ多量の副葬品に比べると、質·量ともに簡素になります。

 終末期古墳の薄葬化に関連した文献史料には、「日本書紀」大化2(646)年3月条の喪葬について規定した詔が

あります。身分によって墳丘の大きさや葬送方法などを定め、「大化薄葬令」として知られます。成立時期や実効
について現在も議論があり、決着はついていませんが、飛鳥時代が薄葬化の時代だったことは考古学的成果
からみて
も明らかです。

 薄葬化の背景には埋葬に膨大なエネルギーを費やす古い葬送観からの脱却という側面があります。7世紀の
日本は
律令体制確立への道を走っていぼした。中国大陸では唐の第2代皇帝、太宗(在位626~649年)の時代
以降、
薄葬への動きがありました。

大化薄葬令の冒頭には「西国(もろこし)の君主」の一言葉として「」の文章が引用されています。従来の埋葬
方法を改め、
大国·唐の習俗や思想を取り入れることは東アジア世界の一員として律令国家の完成を目指した、
当時の社会改革を
反映した動きと考えられます。
  2013-10-11  朝日新聞
 奈良文化財研究所都城発掘調査部研究員 若杉智宏


 近鉄飛鳥駅の北西にある屋山古墳(明日香村)を訪ねると、石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん・通称·飛鳥石)
を組み上げた巨大な横穴式石室が大きな口を開けて出迎えてくれます。この古墳の石室に使われた石材は表面

が平らで、なめらかに加工されています。こうした人工的に加工された石材を「切石(きりいし)」と呼んでいます。
飛鳥石のよ
うな硬い石材を加工する技術は、飛鳥時代になって朝鮮半島から導入されたと考えられています。

 一方、高松塚古墳(同)やキトラ古墳(同)の横口式石槨(よこぐちしきせっかく)は、二上山で産出する凝灰(ぎょ
うかいがん)の切石を16 ~ 18枚組み合わ
せて構築されています。発掘調査の際に、石材のコーナー部分に赤い
顔料で引いた基準
線が見つかりました。中国唐由来の基準尺(1尺29.7cm)を用いて直線を引き、それを目安に
石材が規格的に加
工されていました。

 二上山の凝灰岩の切石は野口王墓古墳(明日香村、天武・持統天皇陵)や牽牛子塚古墳(同)からも出土してい

ます。凝灰岩の切石をタイルのように大量に使い、古墳の表面を飾り立てていたようです。二上山の凝灰岩は飛
鳥石
よりもやわらく、加工が比較的容易な石材です。しかし、大きさや形状のそろった切石を大量に用意するに
は、
熟練した技術と多くの労力が要でした。石材の加工技術は、飛鳥時代に飛躍的に発達をとげたのです。

 飛鳥の古墳には、「版築」と呼ばれる中国大陸から伝わった土木工法も使われました。版築とは一層ごとに杵の

ような棒で突き固めながら土を積み上げていく方法で、コンクリートのような硬い土質を得ることができます。
高松
塚古墳の発掘調査では、版築層の表面からムシロ状の編み物の跡や凝灰岩の粉末が見つかりました。土
を突き固める
には水分も必要ですが、編み物や凝灰岩の粉末は土の表面から湿気を抜き取る、あるいは、上に
積まれる土が滑り落
ちるのを防ぐために使われたとみられぼす。

 高松塚古墳の石槨の周りからは、測量用の杭の跡も見っかりました。杭は床石が設置された段階で床石を取り
囲む
ように、版築に打ち込まれていました。おそらく水槽に貯めた水で水平面を確認しながら杭に結んだ縄を水平
に張
り、これを基準に床石の上面を水平に加工したのでしょう。建築用語で「準縄」と呼ばれる高度な技術が飛鳥
時代
に存在していたのです。

 しかし、飛鳥の古墳にみる構築技術は古墳特有のものではありません。飛鳥石や凝灰岩の切石は、礎石や基
壇の表
面を飾る化粧石として、版築は基壇そのものを造成する工法として、寺院の造営でも使われました。
飛鳥の古墳にみ
られる技術革新は、飛鳥時代に始まった寺院の造営でも密接に関わっていたのです。

 飛鳥時代は新しい文化の流入とそれを支える技術や手工業が花開いた時代でした。古墳にも海を渡ってきた最
先端
の知識や技術が投入されましたが、古墳づくりが技術革新をリードする時代は終わりを迎えました。そして、
飛鳥時
代が終わるころ、7世紀末世紀初めのキトラ古墳や高は姿を消していきます。
  2013-10-18  朝日新聞
 奈良と財研究所都城発掘調査部研究員 廣瀬覚

 
 古墳に葬られた人物を考える際には、様々な判断材料があります。死者の事跡を記した「墓誌」や、火葬した遺
を収納,埋葬する容器器」に刻ほれた銘文が残る場合は、被葬者の名前の特定が可能です。1979年には平
京の東方約10キロに位置する
奈良市此瀬町で、「古事記の編纂者として有名な太安万の墓誌が見つかり、大
きな
二ユースとなりました。

 墓誌がない場合でも、発掘調査で得られる考古学的情報が役に立つことがあります。埋葬施設の構造や副葬品、
器の特徴から古墳の築造年代が分かり、骨や歯の分析から被葬者の死亡年齢が推定できぼす。墳丘の形から
被葬者の
身分が推測できる場合もあります。

 「日本書紀」や「続日本紀には、皇族や有力氏族について、墓の位置や埋葬の様子が記され、重要な手掛かり
にな
ります。飛鳥の古墳では墓誌などは出土していませんが、考古学的成果と文献史料の記述を頼りに、被葬者
を類推で
きるものが数多くあります。

 藤原京の南方には、7世紀の皇族や貴族が眠る古墳が集中して築かれます。その中心が、明日香村野口にある
野口
王墓古墳です。鎌倉時代の文歴2(1238)年に盗掘を受けましたが、その時の調書の「阿不幾乃山陵記(あお
きのさんりょうき)」という
記録が伝わっていほす。その記述から、石室内部に朱塗りの布張りの棺とともに、金銅

製の骨蔵器が置かれていたことなどが分かります。その様子が「日本書紀」や「続日本紀」の内容と合致し、天武・

持統の両天皇の合葬陵であることが確実視されています。

 近年の発掘調査でも、古墳の被葬者に迫る新たな発見がありました。明日香村越にある牽牛子塚古墳の調査
です。
古墳のすぐ前面に、もう一基の別の古墳(越塚御門古墳)が存在することが判明したのです。斉明天皇の墓
に関する
「日本書紀」の天智天皇6(667)年条の記述と見事に一致し、牽牛子塚古墳が斉明天皇と間人皇女の合
葬墓であ
ることがほぼ確実となりました。

 野口王墓古墳の近くにある中尾山古墳は、慶雲4( 707)年、飛鳥岡で火葬に付された文武天皇の墓と考えられ、
近鉄飛鳥駅の南西、高取
町佐田にある束明神古墳地元に伝わる伝承もあり,文武天皇の父·草壁 皇子の墓と

する説が有力です。

 橿原市 野町の植山古墳は、推古天皇36 (628)年に亡くなった推古天皇が最初に葬られた、竹田皇子との合葬

墓である可能性が高いと考えられます。明日香村島庄の舞台古墳は、「嶋大臣」と呼ばれ、推古天皇34 (626)年

に亡くなった蘇我馬子の「桃原墓」とされていほす。

 このように、多くの古墳で文献史料をもとに被葬者の推定が可能となるのは、「日本書紀」に描かれた当時の都

飛鳥だからこそで、これほど集中して存在する地域は他にありません。これからも飛鳥の終末期古墳の調査は続
きま
す、新たな調査成果で、「日本書紀」などに登場する人物の眠る奥津城(おくつき・墓所)が明らかになるかもし
れません。
  2013-10-25  朝日新聞
 奈良文化財研究所都城発掘調査部研究員 若杉智宏








佐紀石塚山古墳

 佐紀御陵山古墳の西側に並ぶのが、佐紀石塚山古墳です。よく見ると佐紀石塚山古墳の周濠は東側がとても狭く

なっています。すでに築かれていた佐紀御陵山古墳の周濠のために十分なスペースがとれなかったためと考えられま

す。先人に「遠慮」したのでしょうか。

 佐紀石塚山古墳は、第13代成務天皇の「狭城盾列池後陵」として管理される天皇陵古墳です。墳長218m、佐紀

御陵山古墳に続く古墳時代前期末葉(4世紀中ごろから後半)に造られました。宮内庁書陵部の1995年の発掘調査で、
北側にある渡土堤(わたりどて)が
後円部の墳丘にとりつくところに、変わった埴輪が並んでいることがわかりました。
端に三角形の突起をもつ柵形埴輪と底径15m前後の小型円筒埴輪、ほかに家形、蓋形埴(きぬがさ)輪の出土も
ありました。

 山辺·磯城地域でも真ん中の円丘から2方向に方丘が延びる双方中円墳として有名な櫛山古墳に、早い時期とみら

れる柵形埴輪の出土例があります。柵形埴輪とはその名の通り、ある範囲を区画して、周囲から遮蔽する施設をかた

どった形象埴輪です。現代風にいえばパーティションの埴輪が、新たに登場しました。

 古墳時代後期前葉(6世紀前半)の大阪府高槻市の今城塚古墳の内堤上では、さまざまな形象埴輪が立てられ、重

要儀礼をいくつかの場面に分けて表現しています。ここでも、場面を区切る役目の埴輪がありました。横断面は隅丸

長方形で、複数につないだ埴輪です。調査者はとくに塀形埴輪と名付けました。さらに、全体を「埴輪祭祀場」と呼び、
大王の葬儀の宮殿(殯
宮)で行った儀礼を埴輪で再現したのではないかと考えられていほす。

 どのような儀礼を表現したものか。多くの解釈があり、定ぼってはいませんが、遮蔽施設をかたどる形象埴輪の存

在は、実際にあった王権のさまざまな儀礼場面を埴輪に置き換えて、古墳で表現するようになったことを暗示してい

るのではないでしょうか。その早い例が佐紀石塚山古墳で見つかりました。

 重要なことは、ほかにもあります。佐紀石塚山古墳と佐齧陵山古墳の間の散策路を北へ向かって歩くと、佐紀石
山古墳の後円部に沿って道
が曲がります。道が外堤そのものなのです。道沿いに3基の方墳が見えます。それぞれ、
宮内庁の飛地い号(一辺
35m)、飛地ろ号の東側(一辺30 m)、飛地ろ号の西側(一辺30 m)にあたります。

 佐紀石塚山古墳の陪塚とみでいいでしょう。つまり、お供となる小規模な古墳が存在しています。これらは調査さ
ていないため詳細は不明で
すが、別の古墳の陪塚の場合は、副葬品の埋納だけで、埋葬がない場合もあります。陪

塚は古墳時代中期を特徴づける事柄です。その初期の例として注目できます。

 なお成務天皇ですが、「事記」「日本書紀」に在位中に行った業績の具体的記述が乏しいことや、死後に贈られ

た美称である和風諡号のワカタラシヒコが、飛鳥時代の舒明大王(天皇)のオキナガタラシヒヒロヌカ、皇極大王(天皇)
のアメトヨタカライ
カシヒタラシヒメの「タラシ」に由来するという推定から、非実在説があります。つまり、皇統譜を整え
るため
に、後から歴代に加えられた「天皇」ではないかという論です。でも、律令国家は「成務天皇陵」として祭祀と管
理を行っています。
  2016-10-21  朝日新聞(関西大非常勤講師 今尾文昭)


 「タンス長持ち、どの子がほしい」などと歌われる「花いちもんめ」の歌詞に出てくる「長持ち」ですが、もはや使われ
なくなって久しいもの
かもしれません。衣類や調度品を入れた蓋付きの長方形の箱である「長持ち」の形のようだとい
うので名付けられた
石棺があります。長持形石棺です。

 はじめ、古墳時代前期の大型前方後円墳の棺には、木棺が使われていました。たとえは、桜井市の桜井茶臼山古墳

では直径1m以上に復元できるコウヤマキの大木をくりぬいた木棺が竪穴式石槨のなかに据えられていました。

 九州や山陰などの墓では生時代から石棺が使われていますが、古墳時代前期後葉(4世紀中ごろ)になって大
や奈良の古墳にも石棺が使
われだしほす。

 木棺でも、石棺でも、製作に大きな労力を割くことになりますが、ここに出現した石棺は遠くからわざわざ運んできた
ものです。これが、王者
の新たな力の見せどころになったのでしょう。

 佐紀石塚山古墳の被葬者の棺は長持形石棺です。なぜ、そんなことがわかるのか。以前の回にも出た盗掘の話
です
が、江戸時代の終わりも近い天保15 (1844)年9月のこと、墓盗人が侵入して、地面の下90cmから石棺を掘り出

し、勾玉50個を取り出します。続いて嘉永元(1848)年9月にも朱(赤色顔料) 4.5kg、管玉数十個を取り出したと、捕ま
ったのち
に奈良奉行所の取り調べに対して供述しています。

 石棺のかたちは「覆ハ亀之形ニ相成」(「帝陵発掘一件」)と記録されています。屋根形でもなく、箱形でもない、亀の
甲羅のような形とい
うことならば、掘り出した石棺は長持形石棺の可能性が大きいということです。寸法を換算すると、
棺身の大きさは
全長2 . 1 m、幅1 . 2m棺蓋は全長2 . 4m 、幅1 .5mになります。

 山陵絵図では、しばしば6枚分の石材が後円部頂上に描かれています。江戸時代後期の文化年間作製の絵図にも
場していますから、嘉永年間の盗掘以前から埋葬施設が大きく損壊していたことがわかります。6枚の石材は幕末
文久·慶応年間に作製された絵図にも描かれています。茶色に着色されています。いくつかの絵図にあたりますと、

石材は最長のもので1.8賀嘉永元年に盗掘された石棺とは別物だと考えられます。

 それに六つに分かれているという情報も重要です。なぜなら、長持形石棺は一つの石の内部をくりぬいて棺身とす

る石棺ではなく、底石、左右の長側石、合板とも呼ばれる前後の短側有蓋石の六つの部分からなる組合式の石棺だ
からです。どうやら佐紀
石塚山古墳には長持形石棺が2基以上、備わっていたらしいというのが、私の推測です。

 長持形石棺の多くは兵庫県の加古川流域で採取される「竜山石」と呼ばれる凝灰岩製です。佐紀石塚山古墳の長

持形石棺は、その先駆けとなる事例でしょう。

 古墳時代中期(4世紀末から5世紀)の巨大前方後円墳によく採用されたことから「大王の棺」と形容されることもあ
ります。実際、堺市の
大山古墳(現·仁徳天皇陵)は最大の前方後円墳として有名ですが、明治5 (1872)年9月に現れた
前方部の
埋葬施設に置かれていたのは、全長2 . 4~2 . 7 m、幅1 . 4mの長持形石棺でした。大きさは佐紀石塚山
古墳
の嘉永元年に盗掘された石棺とほぼ同じ大きさです。

 前期古墳から中期古墳への移行期にも造営がつづく佐紀古墳群の歴史性を、よく示す資料だと思います。
  2016-10-28  朝日新聞
(関西大非常勤講師今尾文昭)





ヒシャゲ古墳

 ヒシャゲないしはヒシヤゲという名で呼ばれる前方後円墳があります。奈良市佐紀町にあり、コナベ古墳ウワナベ古墳
の北西に築かれまし
た。佐紀古墳群の中で最後に造られた古墳時代中期後葉(5世紀後半)の大型前方後円墳です。

 江戸時代中期の幕府による元禄の陵墓修築では、平城天皇の「楊梅陵(やまもも)」とされました。その後、1875 (明治

8)年に仁徳天皇の皇后で日本書紀」仁徳三十七年条に「乃羅山(ならやま)」に葬られたと記された磐之媛命の「平城坂
陵(ならさかのえ)」となりほした。

 ヒシャゲとは、なんとも不思議な名です。日本の古墳の名付けはさまざまで、江戸時代やそれ以前から、その土地の人々
が呼んできた名前があ
ります。

 大きさから大塚と称す場合、具体的形状から瓢箪山、茶臼塚、行燈山とする場合。狐や猫のねぐらとなっていたのか狐塚、
猫塚、被葬者のこ
とを思ったのか王塚、将軍塚、侍塚もありぼす。天理市の渋谷向山古墳(現·景行天皇陵)では、陵として
の呼び
名ではなく、単に山と記されました。江戸時代の土地利用によるものでしょう。名付けの由来はさまざまですが、考
学による遺跡の命名は地元
の伝統ある呼称を第一としてきました。

 ヒシャゲは、池となった古墳の周濠から菱の実が採れることを「ひし」の「あがり」と表現して「ひしあげ」と呼び、それが転じ
てヒシャゲと
なったものと、かつて私は勝手に思い込んでおりました。

ですが、おそらくは前方後円の形状を柄杓(ひしゃく)と見立てたことに発する呼び名ではないかと今では思っています。
いずれ
にせよ、名付けは昔の人が村の傍らに古墳があることをどのように思っていたのかを知る手がかかりですから、歴

史資料としても大切です。

 ヒシャゲ古墳は、北から延びる丘陵を利用して南向きに墳丘を築いています。墳長219m、後円部直径125mに対して
前方部幅145m
と、前方部は開き気味です。段々となる段築は3段で造られたようですが、現在の測量図を見る限り、等高線
に乱れ
があって不明瞭です。東側のくびれ部には造り出しがあります。陪塚として北側に円墳2基、北東側に方墳2基がと

もないます。

 周濠は二重です。水が入っていますので、二重の盾形周濠の様子がよくわかります。前方部中央付近南側で内濠幅30m、
内堤幅20m外濠幅20m
外堤幅12mがになります。

 市庭古墳、コナベ古墳、ウワナベ古墳は外堤を画する溝という意味で外周溝とも呼ばれますが、ヒシャゲ古墳の二重目
の規模は立派です。外濠
と解釈してもよいでしょう。

 文化5 (1808)年完成した文化山陵絵図の「廟陵記」には、前方部側が二重周濠に描かれ、「池廻リ土砂為シ壺伏セ」と添
えられていま
す。これは堤上の埴輪列のことでしょう。1993年には、後円部東側くびれ部あたりの内堤部分を県立橿原考古

学研究所が調査し、円筒埴輪が列をなして見つかりました。外濠を横断する渡土堤の存在も確認されました。

 調査地は、県の風致保全整備事業の公園となり、一部は遺構復元がなされ、複製の円筒埴輪が立っています。静かな住
宅地の一角にあります。
説明板も備えられていますので、ぜひとも訪れてみてください。古代との対話の回路が通じるかもし
れほせん。
  2017-2-24  朝日新聞
(関西大非常勤講師今尾文昭)

 ヒシャゲ古墳出土の円筒埴輪は、丘陵の斜面をトンネル状に掘り、温度を高くした(あな・窖窯)で焼かれたものです。
これで規格のそろった埴輪が大量に生産されるようになりました。須恵器づくりの工人の技術が背景にあったと考えら
れています。古墳時代中期中葉以降に多く用いられました。

 奈良盆地北部では、奈良市の菅原東遺跡埴輪窯が知られていますが、操業の中心は古墳時代後期(6世紀代)です。
ヒシャゲ古墳が造られた
中期後葉(5世紀後半)とは時期差があります。どこか別の場所だとすれば、佐紀丘陵北方が
製作地の候補ですが、
よくわかっていません。

 ヒシャゲ古墳の円筒埴輪は、大阪府の古市古墳群る墳長230げの大型前方後円墳、市野山古墳(現·允恭天皇陵
藤井寺市)の外堤から
出土した円筒埴輪との共通点が多いと指摘されています。

 大きさは底部の口縁部の直径が約38cmが標準で、バケツのようにまっすぐ上に開きます。途中に段となる粘土の
が貼り付けられていますがこれはタガ(箍)や突带(凸帯)と呼んでいます。底から数えると7段の規格品です。

 埴輪を形づくる最終段階に、外側の表面を、薄板の木口部分を使って横方向に埴輪から離さず、整えていく
ヨコハケと名付けられた技法で仕上げています。円筒埴輪の型式学研究は、形の変化もポイントですが、このよう
技法上の変化にも重点が置
かれます。

 ヒシャゲ古墳と市野山古墳は、ほぼ同じ頃に築かれほした。その後、古市古墳群では、墳長242mの大阪府藤井寺市
の岡ミサンザイ古墳
(現·仲哀天皇陵)が築かれます。さらに後期の前方後円墳が続きますが、規模は小さくなります。
百舌鳥古墳群で
も、墳長486mの堺市の大山古墳(現·仁徳天皇陵)の築造が終わると、次は墳長300mの堺市の土師
(はぜ)ニサンザ
イ古墳(東百舌鳥陵墓参考地)で、これで大型前方後円墳の造営は終わります。

 範囲を広げると、市野山古墳が造られた時期に淀川北岸の三島地域では、墳長226mの大阪府茨木市の太田茶臼

山古墳(現·継体天皇陵)が築かれます。直後に続く大型前方後円墳はありませんが、6世紀前半に北東へ約1キロ離

れて、真のオホド王(継体大王)墓とされる大阪府高槻市今城塚古墳が出現しぼす。

 改めて、ヒシャゲ古墳が築かれた前後をみると、大山墳の墳丘規模が断トツであることがわかります。それに次ぐの
がほぼ似た規模のヒシ
ゲ古墳、市野山古墳、太田臼山古墳で、いずれも墳長00m超となります。

 つまり、これは政権内ナパー2が複数、存在したことを表していると考えられませんか。それぞれ職務を分担て政権運
営にたずさわったこ
とを示すのではないでしょうか。

 古墳時代前期と異なり、百舌鳥·古市古墳群の巨大前方後円墳の被葬者が際立つ権力を掌中に収めていたのでしょ

う。

 当時は、443年に中国朝の宋に使いを出し、安東将軍倭国王に任命された「済・せい」、462年の安東将軍倭国王の

「興・こう」といった「倭の五王の時代の後半にあたりぼす。ヒシャゲ古墳の被葬者は、こうした大王を助け、市野山古

太田茶臼山古墳の被葬と共に古墳時代中期のヤマ政権を中枢で支えた人物のひとりではなかったかと私は推定してい
ます。
  2017-3-3  朝日新聞 (関西大非常勤講師 今尾文昭)





佐紀古墳群

 青山四方にめぐれる奈良盆地の山々のなかでも、北側の丘陵はなだらかです。標高100m前後で、東側を佐保丘

陵、西側を佐紀丘陵、総じて平城山丘陵(ならやま・表記は那羅山など多数)と呼ばれてきました。

 佐紀丘陵の南側上空から手前が平城宮、北へのびるのが歌姫越え、東端の前方後円墳の東側をぬけるのが
ウワナベ越え
その先は山城国(今の京都府南東部)で、かなたに東西に流れるのが木津川、一帯に「泉津(いずみのつ) 」
と呼ばれた港があり
ました。

 そこに山から切りだされた木材が到着します。出土の木簡からわかることですが、奈良時代にはこの泉津でおろさ

れた荷が都へ運ばれていきました。数年前、ウワナベ越えを歩きました。高低差が少ない平らな道でした。

 古代にも、これらのルートを使って奈良盆地に物資がもたらされたことでしょう。木津川を東にさかのぼると名張
地北に行くと巨椋池(おぐら)
さらに北へさかのぼれば宇治川を経て琵琶湖、その先は北陸、日本海です。西へ下れば

淀川を経て大阪湾、そして瀬戸内海です。

 このように佐紀古墳群が営まれた奈良盆地北部は、多方面に開かれた地理的条件にありぼす。情報と物資の集散地

というわけです。この点が奈良盆地東南部の山辺·磯城地域とは異なり、4世紀中ごろから5世紀後半までの約150年間
にわたって、前方後円
墳20基以上、大型円墳3基以上の大古墳群を造ることができた理由ではないかと思っています。

 佐紀古墳群には、墳長200mを超える大型前方後円墳が8基も存在します。 佐紀御陵山古墳(現·日葉酢媛命陵)

佐紀石塚山古墳(現成務天皇陵)五社神古墳(現·神功皇后陵)、宝来山古墳(現·垂仁天皇陵)、コナベ古墳(陵墓参考地)、
橿古墳(後円部側が
現 平城天皇陵)、ウワナベ古墳(陵墓参考地)、ヒシャゲ古墳(現·磐之媛命陵)です。

 それ以外に中型前方後円墳として佐紀高塚古墳(現·称徳天皇陵)、大和15号墳や陪塚となる円墳、兵庫山古墳とい
った天皇陵古墳もあります。

 「古事記」「日本書紀」に登場する「皇后たち」の奥津城(墓の意味)が含ほれています。伝説上の人物の陵墓もあります。
確かな資料にもと
づいて被葬者の名前を特定することは、以前に紹介した墓古墳西殿塚古墳などと同じく難しい
ことです。

 伝説の魅力に引き込まれて先入観をもって接することには注意が必要ですが、だかと一言って、最初から史実のか

けらもないと断定すること禁物です。被葬者の名前が記された墓誌などがない中、当時の動向をどうやって知るか。
そんな時こそ、考古学の
出番です。
   2016-9-2  朝日新聞
(関西大非常勤講師今尾文昭)



 百舌鳥·古市古墳群(大阪府)にある墳長300m以上の超大型前方後円墳に準じる規模の古墳が、佐紀古墳群で
次々に造られました。これ
が佐紀古墳群の最大の特徴でしょう。

 5世紀代の倭国が中国王朝に官位を求めて使者を送った、いわゆる「倭の五王」の時代にも、佐紀古墳群の被葬者
たちは活躍しました。
「ヤマト政権の一大勢力」として、大王に次ぐ職位にあった人物たちが造りあげた大古墳群と考え
ています。

 でも、人が住んでいなければ話になりほせん。3世紀の奈良盆地東南部では、纏向遺が発展を重ね、箸墓古墳

出現します。次いで、西殿塚古墳、寺川支流左岸に桜井茶臼山古墳がほぼ同時期に築かれます。さらに行燈山古墳

寺川左岸にメスリ山古墳、そして渋谷向山古墳と山辺·磯城の古墳群は続きます。

 纏向遺跡以外の集落も現われます。天理市の乙木·佐保遺跡,成願寺遺跡、柳本遺跡、桜井市の城島遺跡、脇本遺跡
などです。

 佐紀古墳群を造る基盤となった集落はあるのでしょうか。その前に、考えなければならないことがあります。

「大王」の古墳が山辺·磯城から佐紀に移るという考え方です。

 山辺·磯城の大型前方後円墳は渋谷向山古墳が最後で、後続が佐紀古墳群の五社神古という編年観です。また、

「古事記」「日本書紀」が記す歴代天皇·皇后の陵墓は、佐紀に移っていきます。

 しかし、政権中枢がどこにあったかについては考えが分かれます。そのまま纏向遺跡の周辺にあり、「大王」の古
だけが佐紀に営まれたとい
う見解と、奈良盆地北部に勢力があり、その代表者が代わって中枢の「大王」の地位に就い
たという見解です。後者
は、5世紀に大阪平野の勢力が政権中枢を担うという「河内政権論」につながりぼす。

 ただ、近年の調査成果と編年研究から、佐紀古墳群で最も古いとみられていた五社神古墳の築造時期が新しくな
可能性が出てきました。ま
た、前後関係でとらえてきた渋谷向山古墳と佐紀御陵山古墳(さきみさきやま)、佐紀石塚山
古墳
の築造時
期に明確な差が指摘できなくなっています。古墳時代前期後葉から末葉(4世紀中ごろ)に、二つの地域で
同時並
行的に大型前方後円墳の造営事業が進められた可能性が出てきたのです。

 集落についても考えてみましょう。平城宮と重複する佐紀池遺跡(奈良市佐紀町)の在在は古くから知られていほしたが、
それ以外に、菅原東遺跡
(奈良市横領町·菅原町一帯)の様子がわかってきました。

 一辺約50mの方形区画や南側外郭に相当する溝、それより古い長さ120m以上の直線の溝などが見つかりました。
一帯は「王」の居住や政
務、祭祀を行う場所となる4世紀の「首長居館」と考えられます。

 佐紀古墳群を築いた勢力の基盤となる集落の存在は、「大王」の古墳だけが移ったという考え方に再考を促すものと
なるでしょう。山辺·磯
城の勢力と佐紀の勢力は連携しながらも、個別であったからこそ、その後の古墳の営みが異なるもの
になったのでは
ないでしょうか。

 私は、こうした古墳時代前期の政権における諸勢力の存在を認め、これを「諸王の割拠」と表現しています。
  2016-9-9  朝日新聞
関西大非常勤講師  今尾文昭)
佐紀石塚山古墳⇒⇒⇒

佐紀御陵山古墳⇒⇒⇒





佐紀御陵山古墳

 佐紀古墳群で最初に築かれたとみられる大型前方後円墳は、佐紀御陵山古墳です。古墳時代前期後葉(4世紀中ごろ)
のことだと考えていま
す。佐紀丘陵西側の奈良市山陵町にあります。

 墳長は207mとされていますが、後世の改変などのため墳長の確定した数値を示すのは難しいです。やや短めの前方部
を南に向け、周囲には
盾形の周濠がめぐります。

 近鉄大和西大寺駅から東に秋篠川を越えて、奈良市佐紀町から続く家並みが途切れた丘陵先端にあります。宮内庁は、
垂仁天皇の皇后となる
葉酢媛命の狭木之寺間陵として管理しています。

 平安時代の陵墓リストが載る「延喜式」にはなく、「事記」のみに陵名があります。明治政府による陵墓決定の年月を示
した「陵墓録」
(国立公文書館所蔵)には、1875 (明治8)年11月に決定とあります。どうして延喜式のリストから漏れたので
ょうか。

 こうした事情とも関係することだと思いますが、明治8年の決定前は、神功皇后陵して信仰をあつめていました。
江戸時代中期の元禄年間
以降、数多く作られた神功皇后山陵の絵図を見ますと、今とは反対の北側を正面に鳥居が建
てられています。周濠を
渡り、後円部頂上に向かう参道があり、上に建物が設けられています。参道両側には段築ごとに
石燈籠が並ぶ情景が
描かれていほす。

 今でも付近には白い小石が落ちているそうです。持ち帰れば子供が安らかに生まれるという安産祈願の「護符」になった
ようです。神功皇后が
懐妊したまま戦に出て、帰還後に海辺で応神天皇を産んだという伝説にちなんでのことでしょう。
しかし、幕末に神
功皇后陵は北に位置する五社神古墳に変更されてしまいます。これにも根拠がありますので、次回以降に
紹介しまし
ょう。

 江戸時代には地域信仰や里山としても利用されていた天皇陵古墳ですが、近代には国家によって厳重に管理されること
になります。ところが1
916 (大正5)年、佐紀陵山古墳の後円部の埋葬施設が盗掘されました。皮肉なことに、復旧作業の
中で実測図
面や復元図面が作られたことによってわかったことが数多くあります。

 図面を見ると、後円部頂上では一辺約16mの方形壇が築かれ、最大級となる竪穴式石槨が墳丘の主軸に平行する南
方向に設けられていまし
た。石槨を覆い、密封する天井石が5、6枚あり、「縄掛突起」と呼ぶ出っ張りが、短側部分に造り
出されていま
す。石槨の大きさは長さ8.55m、幅1 . 09m高さ1 .48mと書かれています。

 「屋根形石」と称された石材もありました。長さ2 . 6m、幅1m、高さ45cm。棺だとすると、石槨の間尺に合いません。
小さめの埋葬施設が
ほかにあるのでしょうか。

 今のところ謎ですが、形状は刳抜式(くりぬきしき)の舟形石棺の蓋石のようです。私は阿蘇山の溶岩を加工した石棺で、
九州から
瀬戸内海を船で運ばれてきたのではないかと想像しています。石槨と副葬品は翌年には埋め戻されました。
  2016-9-16  朝日新聞
(関西大非常勤講師今尾文昭)


 墳丘の全長が190mを超す大型前方後円墳は、奈良県と大阪府で36基あります。207mの佐紀御陵山古墳は25位前後
の大きさになりぼす。

今回は「前方後円墳」というについて考えます。

 前方後円墳は「Keyhole-shaped tomb」と英訳されることが多いです。「鍵穴」の形をした墓という意味です。ただ、
これだけでは外
国人には伝わりません。そもそも、前方後円墳は西洋の扉の鍵穴を模したものではありません。

 形の起源は何か。多くの仮説があります。丘陵の尾根先端を切断した形という説や、埋葬施設がある墳丘への墓道

(通路)が大きくなったという説,埋葬された円丘を祭る場所として方丘をつけたという説などです。

 中国皇帝が天を祭った施設である天壇(円丘)と、大地の神を祭った施設である地壇(方位)を、倭の使者が現地で見て、
合体するように考案
したという説もあります。ほかに酒や収穫物を収めたつぽの形、司祭となる女性の姿を写した形では
ないかとも指摘
されています。

 「前方後円」という言葉は、江戸時代後期の尊王論者、蒲生君平の説がもとになっています。思想家の林子平、
高山彦九郎と共に「寛政の三奇人」と呼ばれた人物です。蒲生は歴代天皇の陵墓をまとめた著書「山陵志」(1808年)の中で
「その制を
なすや必ず宮車を象(かたど)りて前方後円となさしめ」と記しています。

 宮車とは身分が高い人が屋形に乗り、牛馬がひいた車のことです。蒲生は屋形を円丘、車を牛馬とつなぐ2本の棒の
轅(ながえ)とその先で牛馬の首に
かける軛(くびき)を方丘部に見立てました。両輪は古墳のくびれ部分にみられる方形
の突出部分
「造り出し」と考えました。その上で、宮車が進む方向に合わせて方丘を「前方」、円丘を「後円」としました。

 蒲生の説は宮車模倣説と言われています。ただ、古墳時代に牛馬が牽引する宮車が一般的に使われていたとは考え

られぼせん。宮車模倣説は認められないまま、前方と後円という言葉だけが定着しほした。

 鍵穴の形をイメージさせる前方後円墳ですが、きれいな鍵穴形ではありません。周濠を横切って外堤と墳丘をつな
渡土堤や、造り出しがあり
ます。

 ほかにも前方後円墳に付く施設があります。馬見古墳群の巣山古墳(広陵町、4世紀末から5世紀初め)では、前方部西
側から渡土堤が
延び、その先に出島のような四角い部分があり、島状施設と呼ばれます。ここには水鳥形埴輪が立てられ
ていまし
た。さらに周濠のなかにひょうたん形の島状施設もありました。

 佐紀御陵山古墳(4世紀中ごろ)では、くびれ部西側の周濠に突き出すように、東西8m、南北4mの四角い部分がありま
す。濠の底からの高
さは1 . 5mで、この部分に板状の石材や白い小石がたさんあるそうです。島状施のさきがけと考えて
よいでし
ょう。

 最古の前方後円墳とされる箸墓古墳(桜井市、3世紀中ごろS後半)にも後円部の周濠に墳丘と外をつなぐ土堤がありま
した。箸墓古墳より古
い兵庫県赤穂市の有年原(うねはら)田中1号墓(弥生時代後期)には、円丘部への通路と考えら
る陸橋があり、その反対側
には突出部があります。

 鍵穴形の意味などは数多くの解釈が発表されていますが、有年原田中1号墓の事例を見ると、前方後円墳の形の起源
を解く鍵は、やはり弥生
時代の墓の形にあるのではないでしょうか。
  2016-10-7  朝日新聞
(関西大非常勤講師今尾文昭)

 

 馬形の埴輪は、たてがみが表され、耳はまっすぐに立ち、目元はキリッと開いています。人を表した埴輪には、ふんどしを
締め
た力士がいたり、甲冑をまとった武人がいたりとにぎやかです。

 博物館では多くの人をさまざまな埴輪が楽しませてくれます。これらは、円筒埴輪に対して、形象埴輪と呼ばれます。
古墳時代前期後半ごろに
現れました。高杯(たかつき)や武具や家、中期になると人物や動物などを写した埴輪が登場し
ます。

 佐紀御陵山古墳にも形象埴輪があります。以前の回で記した盗掘とその復旧工事で多くの情報を知ることになりました。
その中で写真の高さ1
08 cm、最大幅80cmの盾形埴輪が見つかりました。盾形埴輪とは、円筒部分の側面に盾形を貼り
付けた形をしています。

 出土後は、宮内省諸陵寮(当時)に保管されていましたが、1923 (大正12 )年の関東大震災で現物は失われたと言われて
いほす。幸い
にも実物大の石膏模型が残っており、東京国立博物館に所蔵されています。ほかに高さ118cm、最大幅87cm
のもの
も見つかっていぼしたが、こちらは図のみが残っています。

 盾形埴輪の盾面は、厚みのある外縁で縁取られた長方形です。中を横方向に三つに区切ります。すると漢字でいえ
「目」の字形になります。
外縁と横の区切りには、直線と弧を描く線を組み合わせた文様、直弧文が施されていました。
実際の盾も同様の文様
で飾られていたことでしょう。

 横方向からみた断面に注目です。盾形部分はひと昔でいえば「ぺらぺら」の印象です。上端は少し前のめり気味,下端も内
に緩く曲がって
いきます。その分、中央は膨らみます。まるでスルメイカをあぶったように、盾面は弓なりに反っています。

 古墳時代の盾には、木製と革製、鉄製の3種類があります。使い方で分けると、置いて弓矢からの防護に用いる置盾と、
手で持って槍や矛、ま
た刀剣の攻撃から身を守る持盾の二つがあります。発掘調査で出土する革製や木製の盾の文様は、
表面に刺し縫いで
刺繍がなされ、漆が塗られています。だから、本体が腐って消滅しても、残った漆部分から形状や文様を
たどること
ができます。

 佐紀御陵山古墳の盾形埴輪の、曲線で構成された断面形をみると、モデルとなった盾の本体は木枠に皮革を貼ったもの
だったのではないでしょ
うか。

 埴輪の方は、時代が新しくなるほどに、文様の細かい表現は省略され、断面も平板にかわります。この盾形埴輪は、
実物の盾を忠実に写そう
としていることから、製作初期のものと考えていいでしょう。

 さて、埋葬施設がある後円部の上にある方形壇の様子を表した復元図面が作製されています。それによると、両手いっぱ
い開いても届かない直径約2mの大きな蓋形埴輪(きぬがさ)が
7、8点あります。蓋とは高位の人物に差し掛ける傘のこ
です。

 これも実物は関東大震災でなくなったと言われています。図を元にしたレプリカが、県立橿原考古学研究所付属博物館
(橿原市畝傍町)に
常設展示されています。
  2016-10-14  朝日新聞
(関西大非常勤講師今尾文昭)









五社神古墳

 佐紀御陵山古墳佐紀石塚山古墳の間から北に向かい近鉄平城駅東側の踏切を越えて丘陵の裾を回り込むと、ひときわ
大きな前方後円墳が見
えてきます。五社神古墳す。墳長267 m、鍵穴形の周濠が備わります。奈良市山陵町にあり、現在
は神功皇后の狭城盾列池上陵になっ
ています。

 江戸時代には孝謙(称徳)天皇陵説もありましたが、文久3 (1863)年に神功皇后陵に決定しました。「神功皇后山陵」に寄進
された江戸
時代の石灯籠8基が、拝所の西端に一列にならんでいます。それまで神功皇后陵とされていた佐紀御陵山古墳か
移築したものです。

 陵墓の変更は幕末のことでしたが、ここ10年ばかりの間に、古墳の造られた順番、すなわち編年上の位置づけが変わった
古墳の代表がこの五社
神古墳です。築造時期の見直しは、宮内庁の発掘調査で新資料が得られたこと、埴輪や墳丘形態
の研究が進んだこと
によります。

 五社神古墳には、佐紀丘陵四端の一群(西支群)のなかの奥まった位置にあることや、測量図をみると前方部の側面の等高
線が少し弧状を示
して開いていく点。また、段差のある周濠の存在や、薄く突出度のある突帯(タガ)をもつ円筒埴輪が備わる
などの
特徴があります。これは天理市の行燈山古墳の特徴などを引き継いでいると考えられたことから、これまでは佐紀古

墳群のなかでも最初に築かれた古墳時代前期後葉(4世紀前半から中ごろ)の大型前方後円墳と考えられてきました。

 見直しの結果、今は佐紀陵山古墳·佐紀高塚古墳-佐紀石塚山古墳-五社神古墳の順番で築かれたと考えられます。
大阪平野では、藤井寺市津堂城山古墳(墳長208m)が築かれた頃でしょうか。前期末葉から中期初葉(4世紀中ごろから末)
に築かれた最大規模の前方後円墳だと言ってもいいでしょう。

 さて、神功皇后といえば日本書紀」ではおなかに子どもを宿したまま朝鮮に出兵した後に、筑紫で出産したと記された人物
です。この子が
ホムタワケノミコ、のちの神天皇です。もっとも、記事をそのまま歴史上の事実とするには無理があると私は
考え
ています。

 4世紀の古墳時代の政権が、玄界灘を越えて軍事力を行使したとは思えないからです。そこまで、内政を支える諸制度が
成熟していた証拠が
なく、また海外派遣の必然性が見当たらないからです。ただ、「鉄素材」の確保は重要です。これは以降
の連載で取り上げます。

 また、神功皇后の夫の仲哀天皇の陵は、河内国の「長野陵 だとされますが、皇統譜の上でも、陵墓所在地の上でも、
神功皇后と仲哀天皇の関
係が「大和」と「河内」をっなぐ糸のような役割で史料に記されます。史実の一部を反映したものか、
創作か、古墳
時代中期の政権の中心を大阪に求める「河内政権論」にもかかわる問題です。

 これは、大型前方後円墳が大阪府の百舌鳥·古市古墳群に築かれた背景として、大和から河内へ政権の中心地が移動した
と考えるものです。そ
して、ここに政権交代があったと考える論です。史料批判と考古学成果の双方を見据えて考えなくては
なりません。

 なお、神功皇后陵への変更は、幕末に陵墓を決める参考にされた「大和国添下郡京北班田図」(京北一条と二条の蒝図は、
延暦年間<782~
 806>以降の作製とみられる) への書き込みによっています。京北一条二里楯烈里の欄外に「神功(天)皇后
山陵
敷地」と書かれていました。この場所が五社神古墳です。京北一条一里楯烈里の欄外には「成務天皇山陵敷地」の書
込みがあり、ここは佐紀石
塚山古墳に当たります。

 古代の律令国家は、史実性の有無に関わらず二つの大型前方後円墳を「陵墓」として国家管理していたと評してよいでしょう。
  2016-11-18  朝日新聞
(関西大非常勤講師今尾文昭)


 もう、この日だけは忘れることができません2008年2月22日、初めて天皇陵古墳への立ち入り観察が認められました。
日本考古学協会な
どの歴史学·考古学関連の15団体が2005年に陵墓の墳丘への立ち入りを求めて、宮内庁書陵部長にあてて、
望書を提出しました。宮内庁が、内部規則を変更してそれに応えたものです。五社神古墳は、その第1回となりました。

 許可人数に制限があり、墳丘を自由に歩き回れるわけではありません。墳丘最下段の宮内庁職員の巡回路までに限られ
ます。計測や埴輪などの
表面採集はできません。墳丘の裾周りを歩いたぐらいで十分な成果は期待できないという懸念もあり
ました。

また、立ち入りに抗議された方もいらっしゃいました。発掘調査が始まると誤解されたのでしょう。

 私は、国民感情への配慮のない学問至上主義は厳に慎むべきものだと思っています。

なにより、陵墓は国有財産とはいえ、皇室用財産ですから広範な国民の理解がなければ、安易な方針転換は将来に悔いること
になるでしょう。
それでも、今よりはもう少し開かれて、陵墓に備わる歴史的、文化的価値を多くの人が享受できる日が来ないか
と願
っています。

 五社神古墳への立ち入りは大勢の報道陣と学会関係者、市民が注視するなかを拝所脇の細い渡土堤を通って墳丘内部へと
進みました。下草は丁
寧に刈られ、樹木の下枝も払われていて、とても見通しが良いものでした。陵墓の「静安と尊厳」の維持が
原則非公
開の理由とされますが、宮内庁による維持管理の実際を見ることができました。

 前方部西側から反時計回りに、宮内庁職員の先導で歩きます。08年の墳丘裾護岸工事にともなう宮内庁の調査では、葺石や
基底部の石列、当
初の平坦面の一部が見つかりました。つなぐと、「みかけ」よりも西側へ前方部が張り出すことになり、「造り
出し」
の存在が指摘されています。

 くびれ部にかけての広い平坦面では、過去には供え物を盛るための笊形土器(ざるがた)やミニチュア土器が採集されました。

儀礼行為の存在を思わせる遺物の出土と、それを行うのに十分な広場となっていほす。

これらは中期古墳に顕著となる特徴です。

 後円部北側に回り込むと間近に丘陵が迫ってきます。墳丘下半が正円形でどこまで仕上げられたのか。これは一度の観察で
はわかりません。く
びれ部東側では周濠底に円筒埴輪列の思わぬ確認がありました。多くの目でみると,今まで知られていなかっ
た新事
実がわかります。円筒埴輪列は「みかけ」の墳丘裾の外側にありました。現況、周濠には水がためられていますから、

その水面をつい本来の墳丘裾だと思ってしまうのです。

 東側にも造り出しがあるのか、あるいはここが本来の墳丘最下段平坦面だとすると前方部裾は従来の認識より開く形状になる
のか、課題が出
てきました。

 前回に説明したように、五社神古墳は古墳時代前期後葉につくられたと考えてきましたが、前期末葉から中期初葉(4世紀中
ごろから末)の古
墳となる条件が整ってきました。立ち入り観察することで、ようやく、それを実感することができました。
  2016-11-25  朝日新聞
(関西大非常勤講師今尾文昭)






ウワナベ古墳

 延べ板というと「金」のと付けたくなりますが、古墳時代には鉄の延べ板があります。両端を撥形(ばち)に広げた薄い

板になったもので、鉄鋌(てってい)と呼んでいます。一般的には、鉄製品をつくるための地金だと考えられています。

 ウワナベ古墳のお供となる北側の陪塚(ばいつか)のひとつ、直径25mの円墳の大和6号墳(旧陪冢ろ号・ばいちょう)
では、鉄鋌が埋納さ
れたままの状態で見つかりました。近畿中部の古墳時代中期の巨大前方後円墳の陪塚には時折、
人体埋葬がな
く、副葬遺物だけの大量出土が見られます。大和6号墳の場合は、鉄鋌がその中心でした。しかも、日本
列島内でつ
くられたものではありません。

 それというのも、弥生時代後期ごろから道具の鉄器化が進みますが、砂鉄や鉄鉱石から鉄を生み出す技術は、6世
ごろまで待たなければなら
なかったようです。それまでは、おもに朝鮮半島南部の地域との交渉によって、鉄を得なけれ
ばならなかったと考え
られています。

 鉄は農具や開墾用具の刃先となりますから、農業生産や土地開発には欠かせほせん。もちろん、刀剣やヤリ·矛甲冑
といった武器、武具にも
なります。古墳時代の王者にとって鉄の確保は、力の見せどころであったに違いありません。

 大和6号墳の発掘調査は、敗戦から半年も経たない1945年12月26日から46年1月8日の間のことでした。コナべ古墳
ウワナベ古墳の北方
は、今は航空自衛隊奈良基地ですが、この時期には占領米軍のキャンプとなります。もともと軍用
地だったところに
米軍がやってきて大和6号墳を削って施設を建設しようというのです。

 調査者のひとりに、のちに同志社大学で考古学を教えることになる森浩一先生がいました。著書で次のように記してい
ます。

 「先輩たちは米軍に気をつかつて、写真もとらず図面作りもしないという。戦争中,陸海軍の要塞など軍の施設で写真
をとるなど考えられない
ことで、その延長として配慮してのことであろう。だがせめて図面はとりたい。僕は自力で実測図
のもとになるよう
にスケッチを描きだした。プルドーザーが作業を始めてもスケッチをつづけたら、兵士は埋納個所をあと
にして古墳
のはしから取りこわしをしてくれた」

 墳丘頂上部中央の表土直下で、大形鉄鋌(長さ30 ~ 48cm、幅5~10 cm) 282枚、小形鉄鋌(長さ8~ 18cm、
1~2. 5cm ) 590枚が出土しました。大形鉄鋌はひもで束ねられて、積み上げられていました。総重量は140キロ。
日本列島で最大の出土数
量です。

 朝鮮半島南部の新羅や加耶の古墳からも鉄鋌は出土しています。本場での多さには圧倒されます。新羅の都慶州に
ある皇
南大塚南墳では1332枚も出土しました。大和6号墳の鉄鋌は、形態的な類似性から洛東江下流域の加耶諸国に
たる釜山、金海の地から供給されたという考え方が有力です。

 大和6号墳は地上から姿を消しほしたが、切迫した状況のなかで記録が取られ、回収された大和6号墳の鉄鋌は、
倭の五王」の時代と
なる5世紀中葉のヤマト政権と加耶との交流、それがもたらした鉄の安定供給の証拠ともいえる
資料となりました。
  2017-2-17  朝日新聞
(関西大非常勤講師今尾文昭)
古墳は語る⇒⇒⇒





田原塚ノ本古墳

 平城京から東方の山あい約10キロにある田原も天皇や高位の官人の葬地に選ばれています。

 天智天皇の孫、第49代の仁天皇の田原東陵は、奈良市日笠町の小さな谷間にあります。江戸中期の元禄の修陵以

来,田原塚ノ本古墳に定められてきました。

 測量図をみると、直径約50m、高さ約8mの円丘に幅約7mの空濠がめぐり、外堤があります。この数値が正しいならば、
県内で約30基ある大
型円墳のひとつとなります。三段で築かれたといわれていぼすが、実際の様子を生け垣の外から見
ることは難しいです。

 近世の複数の史料で、この場所は塚ノ本、王ノ塚など一貫して「塚」と呼ばれてきました。また、文化年間(1804S~18年)
に墳丘の西側
で、横穴式石室の入り口が開いたと解釈できる伝聞があります。これらが、田原塚ノ本古墳と呼ばれる理由
です。

続日本紀」によれば、光仁天皇は天応元(781)年12月に亡くなり、翌年正月に広岡山陵に葬られます。しかし、桓武天皇
長岡京遷都後
の延暦5(786)年10月には大和国田原陵に改葬されます。

 田原には、もうひとり奈良時代の皇族が葬られています。万葉歌人としても有名な光仁天皇の父、志貴皇子す。
霊亀2(716)年に亡く
なり、高円山の麓を行く葬列を歌った挽歌が「万葉集」に収められています。

 後に春日宮天皇と追尊(没後に贈られた天皇号)されました。陵墓とされる田原西陵は現在、鉢伏峠に近い奈良市
矢田原町にあります。

 奈良時代は目立つ墓を造るより、自然と一体化した葬地をめざす時代に変わっていした。志貴皇子と光仁天皇の二陵も、
大きな墓を築いたわ
けではないと思います。

 二陵の本当の姿を考える上で参考になるのが、太安万侶ではないでしょうか。太万侶は奈良時代初期の高位官人
です。その墓が1979
年1月、田原塚ノ本古墳から西へ約500M 離れた急峻な南向き斜面の茶畑の中で発見されぼした。

 大きな話題となり、当時現地を見に行った人もいるでしょう。ただちに考古学調査がなされぼした。直径約4.5mの円形
の墳丘が備わって
いたと考えられています。

 平安時代の「延喜式」では、光仁天皇の田原東陵、志貴皇子の田原西陵と東西関係で表記していほす。父子の一陵が
近接した場所にあり、地
理上の位置関係を明示するとで、区別したと考えられます。ところが、今の二陵は約2キロ離れて
おり、東西に並ん
ではいません。

 奈良時代の天皇陵の多くが見晴らしのいい場所に造られています。太安万侶墓の立地を踏まえ、東西に二陵が並ぶよう
な場所を考えると、田原
盆地の真ん中、郵便局がある茗荷周辺の丘陵を探したくなります。
  2017-4-14  朝日新聞
(関西大非常勤講師今尾文昭)






石川中山塚古墳群

 古代からひんぱんに使われた飛鳥の道は「阿部山田道 ではないでしょうか。近鉄橿原神宮前駅から東へ、
明日香
村豊浦を経て飛鳥川を越え、香具山を北に見て奈良文 化財研究所飛鳥資料館の前を通り、
桜井市阿部から「
上ツ 」につながる。と 言えば 思い浮かぶ人もいるでしょう。

 1969年に発表された古代史の岸俊男氏の藤原京(新益京)の復元案では、京域の南限が阿部山田道でした。
その後、周辺での発掘調査が進み、今では藤原京はより南に京域が広がるものと考えられるようになっています。

 阿部山田道をもう一度、駅から東へ歩いてみます。最初の大きな交差点が「丈六しばらく行くと家並みが切れ

視界が広がり、南東に大きな池があらわれます。石川池です。万葉集に歌われた「」として案内板に表示され

ることが多いので、こちらの方が有名かもしれません。

 池のなかに浮かぶ島のように見えるところがあります。その上に石川中山塚古墳群があります。橿原市石川町
にあ
り、現在、第8代孝元天皇剣池嶋上陵」に治定されています。藤原京内にある天皇陵古墳です。

 池の堤に沿って西から南へ回り込んでみましょう。島に見えましたが、東側の奥では丘陵とつながっています。
近には住宅地が広がりぼすが、本来は、北西に延び出た丘陵で、その先端の尾根上に古墳群が築かれた
ことがわか
ります。3基の古墳があります。

 東南の1基について、谷森善臣は「西面に、後円く、前方に造り給ひし」と幕末の「山陵考」に記し、前方後円
とみました。石柵の外側か
らの観察では心もとないのですが二つの高まりがつながっているように見えます。

 陵墓地形図の等高線も参考に私も前方後円墳だと思います。図上計測で墳丘の長さが約30mになります。
また北東
の1基が円墳ならば直径約10m、西側の1基も円墳ならぱ直径約16mになります。

 時期を知る直接の資料はありません。同様の小規模な古墳群は、奈良盆地東南部では古墳時代中期や後期
にあたる
5、6世紀によく見られるので、石川中山塚古墳群もそのうちのひとつだと思います。

 評価はこれで終わりではありません。石川中山塚古墳群の不思議は墳丘があることです。「それは当たり前だろ

う」という人がいるかもしれません。が、石川中山塚古墳群は藤原京内に意図的に残された可能性があるのです。

 それというのも、中国の隋や唐の律令は都から離れた場所に人を葬ることがきほりでした。日本律令もそれら
に倣
い、天皇が居住する都城内や周辺、大路の近辺に墓を営むことを禁じます。

持統7(693)年2月の詔が「日本書紀」に記されています。造京司(藤原京造営の官)の衣縫王(きぬぬいのおおきみ)
に、掘り出した「尸(かばね)」
を収めるようにとあります。これは京域内にある古墳を削った時に、改葬するように
命じたものと解釈されます。

 都づくりで藤原京内の古墳の多くが潰される運命にありました。実際、発掘調査により京内では、50基以上の
古墳
が都づくりで墳丘を削られ、周溝を残すばかりの状態で見つかっています。

 一方、石川中山塚古墳群に墳丘が残るのは、律令国家が皇統譜上の初期王陵に擬したからではないか、
それで「都
市開発」から外されたのではないかと考えます。
  2018-2-16  朝日新聞
(関西大非常勤講師今尾文昭)





森王墓古墳

 記録にある天武天皇の皇子は10人,皇女は7人いました。なかでも草壁皇子は、津皇子とならんで人気があり

ます。即位を前にした持統3(689)年に病に倒れたとされる不運が人々をひきつけるのでしょうか。

 万葉集」には、柿本人麻や皇子に仕えた舎人らによる草壁皇子への挽歌があり、悲嘆に満ちた想いが伝わ
って
きます。

 もっとも、過去の人類のつくりだしたモノ(物質)を対象とする考古学は、鑑賞といっても、歌われた「真弓(檀)の岡」
「佐太の岡辺」を特定
して、周辺にどのような古墳があるのかに関心を向けてきほした。

 飛鳥時代の終末期古墳が発掘調査されるたびに、被葬者候補に草壁皇子の名が出るのも学問の性格上、
具体的に示
したいということだと、私は思います。

 1984, 86年に発掘調査れた高取町佐田の丘陵上にある束明神古墳は、その最有力候補です。凝灰岩の切石を

組み上げた見事な横口式石槨です。県立橿原考古学研究所付属博物館の前庭に復元展示されています。一方
宮内庁
は佐田集落の手前の森王墓古墳を草壁皇子の「真弓丘陵」にあてています。

 続日本紀」には天平宝字2 (758)年、草壁皇子に対して「岡宮御宇天皇」が追尊(没後に贈られる称号)されたこと
が書かれています。ま
た天平神護元(765)年,徳天皇の一行は紀伊国への行幸のため、飛鳥川のほとりの
小治田宮から紀路を南下します。その途中、草壁皇子の「檀山陵(まゆみ)」を通過する時に拝礼したことが記され
ています。

 天皇は行幸に従っていた者たち全員を下馬させ、儀衛は「旗幟」を巻くように命じたとあります。現在の歴代には

数えられませんが、「延喜」には陵名「真弓丘陵」として載せられました。

 その後、所在不明となった「真弓丘陵」を探そうとしたのは、文久修陵の中心人物の谷森善臣(よしおみ)です。
享保21 (17
36)年刊の「大和志」は被葬者の伝えがない墓をまとめて荒墳として載せています。高市郡の荒墳のうち、
森村に
「王墓」とあります。谷森はこの記事に目をつけ、著書「山陵考」(1867年)で、高取町森にある「王之墓」を真

弓丘陵にあてました。そして、この案が採用されて現陵墓になったとみられます。

 森王墓古墳とは、初めて聞く名前かと思いますが、この連載では遺跡命名の原則にのっとり、地域社会の呼称で
る王墓に大字の森を冠して古墳名としました。

 森王墓古墳を、紀路が通っていたと想定される付近から望んだ写真を載せています。丘陵の斜面に南向きに造
られ
ています。素盞鳴命神社(もとは牛頭天王社)が東側に隣接します。境内地からみると、木立の隙間に墳丘を
確認できます。北側の背後の丘陵斜面を切り込んで造られたいわゆる山寄せの終末期古墳でしょう。

 陵墓測量図に約15mの円形の墳丘が示されています。過去に調査された記録がなく、本来の姿はわかりません。
り北側の奥まった位置にある束明神古墳も、同様の立地環境が造り出されていほすが、森王墓古墳よりもはる
かに大
きな規模です。

 称徳天皇の一行が拝礼したのは、どちらでしょうか。それともまったく別の場所でしようか。何か手掛かりがない

かと探るのは、私だけではないでしょう。
  2018-2-2  朝日新聞
(関西大非常勤講師今尾文昭)







秋津遺跡

 奈良盆地の西南部に位置する葛城地域は、5世紀以降、天皇家と姻戚関係を結び隆盛を極めた古代有力氏族「葛城氏
の拠
点として知られた場所である。

 特に、室宮山古墳(前方後円全長238 m)は、4世紀末~5世紀にかけて「古事記や「日本書紀」に登場する「葛城襲津彦
(そつひこ)」の墓とも言われている。

 また、四面庇付(ひさしつき)の大型掘立柱建物が検出された極楽寺ヒビキ遺跡、朝鮮半島の影響を受けた韓式系の遺物
や広範囲に様々な
施設が確認された南郷遺跡群など、葛城氏と関係の深い古墳時代中期の遺跡が多く存在している地域で
もある。

 この葛城の地に計画された京奈和自動車道建設に伴う事前調査によって、古墳時代前期の秋津遺跡が発見された。
ちょうど
3世紀中頃に桜井市の纒向遺跡を中心に成立したヤマト政権が、大和古墳群から佐紀盾列古墳群へと墳墓を営む
場所を移し
ていった時期にあたる。ただし、墳墓の変遷は徐々に解明されつつあるが、政治·経済の中心となった拠点(宮殿)
的な遺
跡の解明はいほだに不十分であり、いわゆる「空白の4世紀」と 言われる時期でもある。

 秋津遺跡は、まさにこの時期に存在した遺跡で、河川や濠(ほり)、溝によって区画された広大な範囲内に「方形区画施設」
と命名
された塀で囲まれた空間と、その中に掘立柱建物を配置した施設が設けられていた。

 古墳から出土する埴輪に、導水施設形埴輪がある。家形埴輪とその外側に囲形埴輪を設置したもので、それと秋津遺跡で
出された遺構の配置とはよく似ており、この囲形埴輪が方形区画施設に該当するものと考えられる。

 また、この施設は短期間に複数回建て替えられ、そのたびに整地される点や、施設周辺には破棄された遺物がほとんど存
しない点など、特殊な空間として利用された痕跡が多数見られる。

 しかも、その一方で遺構群の北端にあたる濠には、大量の土器や木材などが廃棄されていた。それは、あたかも方形区画

施設一帯を特別な祭祀空間とし、その空間の外側と区分しているようである。さらに、秋津遺跡の中心部の北側と南側には

竪穴住居の集落が併存しており、明らかに遺跡の性格の違いを見て取れる。
  2011-4-22  朝日新聞
(県立橿原考古学研究所(総括研究員米川仁一)




東アジアとの交流

 飛鳥時代の日本と東アジア諸国との交流は、文献史料だけではなく、さまざまな文物によっても知ることができます。
朝鮮半島の新羅
の文物交流を物語る資料が当時、みやこがおかれていた飛鳥·藤原地域の遺跡からみつかること
があります。そ
のひとつが新羅産の土器です。

 新羅産土器は飛鳥寺(明日香村)、豊浦寺(同),飛鳥池工房遺跡(同)、石神遺跡(同) 、古宮遺跡(ふるみや・同)や
原宮跡(橿原市)などから出土しています。多くは小さな破片ですが、「印花文(いんかもん)」という独特の文様や特徴
ある器
形から、それらが新羅でつくられたのは間違いありません。ここではほず、石神遺跡の土器を紹介しておきま
しょう。

 石神遺跡は明治時代に石人像(せきじん)や須弥山石(しゅみせんせき)が出土したところで、奈良国立文化財研究所
が1981年から継続的な発掘調査をおこない、7世紀の中ごろには迎賓館としての役割があったとも言われています。
これまでに14点の新羅産土器が出土していますが、代表例は、ほぼ完全状態に復元できた「細頸壺(さいけいこ)」

でしょう。三角形文と半円点文を交互に配するなどし、手の込んだ意匠を施しています。

 これによく似たつぼの破片が豊浦寺からも出土していますが、そちらは緑色の釉薬がかかった鉛釉陶器(えんゆうと
うき)で、石神遺
跡のつぼによく似た文様で表面を飾っています。このほか、飛鳥池工房遺跡や藤原宮で出土した蓋
(ふた)は、その文様か
ら統一新羅(676年成立)の時代につくられたものでしよう。こうした新羅産土器は、製品だけでは
なく,その
技術も伝わりました。それをもとに、飛鳥池工房遺跡にあった工房では、国産初の釉(うわぐすり)をかけた陶
器がつくられていた
ことが出土土器から明らかになっています。

 新羅産土器は、いつ誰が、何のために運んできたのでしようか。新羅産のつぼを持ち込んだのは、貢進物(こうしん
もつ)をたずさ
えた新羅からの使者だったのかもしれません。そしてその場合は、つぽそのものでなく、その中身のほ
うが贈
り物であったと考えることもできます。

 一方、百済との交流を物語る土器の実例は、いまひとつはっきりしませんが、飛鳥時代後半の須恵器(高温焼成の
硬質の土
器)の形やセット関係は、明らかに百済の土器の影響下にあります。その様式は飛鳥時代の須恵器に溶け込
んでいる
といえるかもしれません。

 しかし奈良時代になり、みやこが平城京に移ると、日本は唐からの文物摂取をより重視するようになります。そのせい
か、平城京では新羅産土
器の出土例が少なく、発掘調査が進んだ平城宮で2例、平城京で7例を数えるにすぎまん。

奈良時代の舶来の陶器はといえば、それは唐三彩が中心になります。このように、舶来の陶器はたとえ小さな破片で
あっても、古代の国
際関係を考える上で重要な手がかりをもたらしてくれるのです。
  2014-3-21  朝日新聞
(奈良文化財研究所都城発掘調査部主任研究員森川実)





仏教のはじまり

 蘇我馬子をはじめとする当時の政権中枢にあった人たちによって,飛鳥寺(法興寺)の建立が発願されたのは、用
天皇 2(587)年のことで
した。仏教はそれより少し前に伝わっていましたが、蘇我氏が政治の実権をにぎると社会の
安定をはかるために
積極的に仏教を受容しました。

 崇峻天皇元(588)年、馬子は飛鳥の真神原(まがみのはら)の地を選び、長らく友好的な関係にあった朝鮮半島の
百済に技術的
支援を求め、わが国初の本格的な寺院の造営に着手しました。百済からは、僧侶とともに仏舎利
(釈迦の遺骨)がもたらされ、瓦博士、寺工(てらたくみ)、画
工(えかき)などの技術者がやってきました。
日本書紀」は、飛鳥
寺の完成を推古天皇4(596)年と記しますが、完成の時期については諸説あり、本尊の飛鳥大仏
ができあがった
推古17 (609)年とみる説が有力です。いずれにせよ、初めて挑んだ大伽藍(寺院の建築物)の建立は
百済の指導を
仰ぎ、国の総力をあげての一大プロジェクトでした。

 1956年から飛鳥寺の発掘調査が始まります。発掘の前には、寺の伽藍配置は、五重塔、金堂、講堂が一直線に

並ぶ四天王寺式の配置と考えられていましたが調査が進むにしたがい、金堂が五重塔の北側のみならず、東西にも

1棟ずつ建つ特異な形式の伽藍配置だったことが分かりました。中国や高句麗新羅の要素を百済風に織り交ぜ、変

容させた配置と考えられており、一塔三金堂形式と呼ばれています。

 中央の金堂(中金堂)には、仏像づくりの名人である渡来人、鞍作止利(くらつくりのとり)が作った釈如来座像(飛鳥
大仏)が安
置されました。その際のエピソードが日本書紀に記されています。完成した大仏を金堂に納めようとすると、
入り口
よりも大仏の方が大きかったのです。これでは、完成したばかりの金堂の入り口を壊さなければなりませんが
止利
の工夫で金堂を壊さずに中に納めることができたようで

す。飛鳥大仏は当初の姿をよくとどめ、1400年前に据えられた位置を動いていないことが分かっています。今飛鳥大仏
のある場所が創建時
の中金堂にあたることになります。

 残念ながら、創建時の建物は中世までにすべて失われ、今は残っていません。15世紀には野原の中に大仏だけが

たたずんでいた様子が記録されています。でも、創建時の飛鳥寺の姿を断片的ながらも現在に伝えるものがありぼす。
瓦や創建当初の建築部
材です。平城京への遷都とともに奈良に移った元興寺で、今も現役で用いられています。

 さらに、建物の基壇をつき固める版築の工法や基礎工事,礎石を据える方法など、随所に百済から導入された最
端技術を垣間見ることがで
きます。巨大な瓦葺きの木造建築、天高くそびえる五重塔、金色に輝く釈迦三尊像,朱塗り
の柱や緑の連子窓(れんじ)な
ど、完成した飛鳥寺は、人々の目に、異国情緒あふれる別世界として映ったことでしょう。

 これ以降、日本各地に次々と寺院が建立されます。寺院の建設にたずさわる知識人や技術者が各地に生まれたこと

を意味しています。飛鳥寺の建立は、日本で最初の本格的寺院の建設にとどまらず、国内の仏教思想、文化、建築技

術が開花する一大契機となっのです。
  2013-12-6  朝日新聞
(奈良文化財研究所企画調整部任期付研究員成田聖)








イザナミの墓

 
比婆之山   地図
黄泉の国の入り口  大和と出雲  光明と暗黒  神々の生成 
香具山  イザナギ・イザナミ  佐太神社 黄泉の国の入り口 

 島根県出雲市の出雲大社の隣に07年3月、県立古代出雲歴史博物館がオープンした。荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡
から出
土した銅剣,銅鐸、出雲大社の境内から発掘された巨大な宇豆柱(うずばしら)、古代出雲大社の復元模型など、
見どころがたっぷりある。

 出雲大社近くから日本海へ抜けて、島根半島の猪目洞窟を訪れた。

 浜から洞窟の入り口ほでは、小さな漁船の陸揚げ場になっている。戦後間もない1948年、揚げ場の拡張工事で取り

除いた土砂の中から縄文·弥生期の土器や人骨が出てきた。

 奈良時代に編さんされた『出雲国風土記』の出雲郡宇賀の郷の条に「岩窟があって、そこに行った夢を見た人は必ず
ぬ。だから『黄泉の坂·黄泉の穴』と呼ばれてきた」というくだりがある。それが猪目洞窟だ、と伝えられる。

 凝灰岩の絶壁のすそに斜めに開口した洞窟に入ってみた。天井から滴り落ちる水滴で足元は滑りやすい。入り口に
立つ
案内板によると、幅も奥行きも30mあるそうだ。懐中電灯で奥を照らしたが、薄気味悪くなって引き返した。

 なぜここに黄泉の国の入り口があるのか。風土記を中心に日本古代史を研究してきた瀧音能之氏は、大和から見た
出雲
が死者の国のあるところと考えられていた :(北西)の方角にあたるように、古代出雲の中心地だった意宇郡(おう)
から見て、
猪目洞窟のあたりが乾の方角だった、という見解を述べている(『古代出雲の世界』歴研)。

 なるほど。「死者の国」は古代日本と出雲内部に二重にあったというわけだ。

 変わり果てた姿の伊弉冉尊に追いかけられた伊奘諾尊は、この世と黄泉の国の境の黄泉比良坂に大岩を据えて道
をふさ
ぎ、妻と離別する。『古事記』は「今の出雲国にある伊賦夜坂(いふや)という」坂がそこだとしている。

 島根県東出雲町にある揖夜神社は、その古伝により伊奘冉を祀る。神社近くに黄泉比良坂伝説地」があるという。
していたら、山陰線の踏切を渡ったところの倉庫の壁に「黄泉の国への入り口直進300 m」と大書してあった。 さす

が神話の国だ。

 石碑の左手に大きな岩が三つ。これが伊奘諾が据えた「千引の石(ちびきのいわ)」だろうか。花束や百円玉が置か
れていた。

 つぎは、出雲国と伯耆国(鳥取県西部)の境にある比婆の山に葬られたと『古事記』がいう伊奘冉の墓だ。島根県

東部にはその候補地があちこちにある。

 「水平」から「垂直」へヤマト王権の世界観を転換させるために、出雲を「死者の国」に仕立てた。だから伊奘冉の墓

も出雲にもってきた。私はそう考えている。このあたり、「熊野の有馬村に葬る」という説があることを紹介した『本書紀
より、『古事記』のほうに「政
治」のにおいを感じる。

 しかし出雲の人たちは、それぞれ自分のところこそ伊奘冉が永眠する地と信じているだろう。その気持ちに思いを致し

ながら2カ所の候補地を訪れた。

 ひとつは、明治33 (1900)年に宮内省が伊奘冉の陵墓伝説地とした「岩坂陵墓参考地」だ。

 それは松江市の南部、神魂神社から熊野大社に向かう国道沿いにあった。椎の大木が茂った小山で、鉄門の前には
松江
市教育委員会がつくった看板が立つ。

「古事記にある比婆山はこの地で、伊耶那美命の御神陵と伝えられている。古くから子授け安産の守護神として広く
崇敬
された」と書かれている。

 陵墓参考地近くに住むお年寄りに、この墓所の由来を聞いた。「祖父以来、私が3代目の守部です」という。宮内庁か

ら陵墓参考地の管理を頼まれ、「普段は生け垣の手入れや、樹木を傷めるツルを切る、といった仕事をしている」そろ

だ。次のような話もしてくれた。

 ここは旧岩坂村の神納(かんな)というところ。小山の名は「比婆山」で「神納の御陵さん」と呼ばれてきた。陵墓参考地
になる
までは荒神さんを祀っていた。江戸時代、峠を越した集落に世継ぎのできない長者がいた。ここに願を掛ければ子
が授
かるという夢をみて日参し、望みがかなった。そのお礼に立てた石の祠が今も頂上にある。円墳といわれるが、方墳
とい
う人もおり、よくわからない。

 「比婆山」「神納」といった地名が陵墓参考地に選ばれた理由のひとつだろう。「子授け安産の守護神」といわれてきた
背景もわかった。

 もう1カ所訪れたのは、鳥取との県境に近い安来市伯太町である。山間のこの町にも伊奘冉のお墓があると聞いたが、

どこかわからない。

 「比婆山久米神社」がそれらしいと当たりをつけ、訪ねたら、案内板に「高さ320mの比婆山山頂に御神陵と奥宮がある」
と書いてあった。

 車で行けるのは途中まで。あいにくの雨で足元はぬかるんでいた。でもせっかくここまで来たのだから、と傘をさして

登った。山道に頭を出したタケノコを靴で蹴り取った跡が、あちこちにある。参道を確保するためだろう。

 約30分で頂上に到着。久米神社の奥宮の後ろに木塀で囲った一角があり「伊邪那美大神御神陵」と書いた木柱が立つ。

裏を見たら「平成4( 92 )年、井尻公民館建立」とあった。

 あわただしく、またときにすさんだ世の中にあって、地元の人たちの歴史心に触れるとほっとする。
  2008ー9ー22  朝日新聞  桐村英一郎






難波の宮跡(幻の大極殿)

 大阪市の中心を東西に貫く阪神高速東大阪線を走っていると、大阪府庁に近い「法円坂」

という場所でしばらく,道路は高架から下りて地上を走る。その南に広がる公園は、「難波」
日本の首都だったころ、中心
となる宮殿があった場所だ。

 645年、蘇我蝦夷·入鹿子を「乙巳の変」で打倒した中大兄皇子(後の天智天皇)と孝徳天
は、飛鳥から難波への遷都を
敢行。新たに「難波長柄豊碕宮(前期難波宮) 」が築かれた。

683年に副都として再整備されたが, 3年後に失火で全焼。

726年、聖武天皇が「難波宮(後期難波宮)」を再建し、一時は再び首都となった。

 難波宮はどこにあったのか。長い論争に終止符を打つため、元大阪市立大教授の山根徳
太郎
らは、1954年から法円坂での発掘調査を始めた。大量の瓦が出土したが、中心的な建
物跡
はなかなか見つからない。「前期と後期の宮の遺構が同じ場所に重なり、全容解明が難
しかっ
た」と、60~ 80年代に難波宮調査に携わった中尾芳治·元帝塚山学院大教授は振り返
る。

 山根らは発掘調査を重ねて建物の配置を推定し、61年の第13次調査で、ついに聖武天皇
が儀
式を行った後期難波宮の中心的施設「大極殿」の基壇跡を探し当てた。山根は後に著書
「難波
の宮」(学生社刊)で、この時の心境を「まさに『われ幻の大極殿を見たり』という気持ちで
った」と記している。

 山根が難波宮に関心を持っきっかけは、戦前の19年、法円坂の陸軍施設に勤務する建築
技師
の置塩章から、工事で出土した古代の瓦を見せられたことだった 元大阪歴史博物館学
芸員の
伊藤純は「置塩の文章から、彼に建築史の知識があり、瓦が奈良時代のものと理解し
ていたこ
とがわかる。山根以前に難波宮は法円坂にあったと推定した人物だった」と指摘する。
しかし
当時、陸軍施設のある地区を調査することは不可能だった。

 終戦後、山根は50年から文部省(当時)に難波宮発掘の研究費を申請、3年目にようやく承
認された。古代史ではなく文化史が専門の山根が、なぜそこまで難波宮に情熱を傾けたのか。

「戦時中に1年間、中国に留学して都城への関心が高まったこともあるでしょう。しかし、20
で戦死した長男の分も、何か
を成し遂げたいという思いが強かったのでは」らとわ歴史博
館館長の栄原永遠男はいう。

 その後、難波宮跡は何度も開発による破壊の危機に遭い、そのたびに反対運動の先頭に
立つ
山根の姿が報道された。73年、彼の死去を伝える記事は「文化財保存に後半生を捧げ
た」と締
めくくられた。
  2018-7-12  朝日新聞(夕刊)
=敬称略(編集委員·今井邦彦)