近鉄飛鳥駅前から東へ高取川と国道169号を横断します。周辺での発掘調査の成果 からみると、古代は一帯の谷間に水が滞り、沼のような状態になっていたようです。水 は高取川に流れ込みます。 支流の平田川が流れる谷間も沼状で、その北側に東西に長い丘陵があります。 明日香村野口にある7世紀末葉の終末期古墳で、江戸時代には「王墓」、「王墓山」 「皇ノ墓」などとよばれました。八角墳で墳丘裾の一辺15m前後、対辺間の距離37m 、 内部の様子を記した鎌倉時代の古文書があります。盗掘に対する実検記録の書写本 「阿不幾乃山陵記」です。1880 (明治13 )年に京都の高山寺で発見されました。 これによれば墓室は玄室とみられる「内陣」と羨道とみられる「外陣」に分かれます。 内陣の壁は朱塗りで、内陣と外陣は獅子の顔の取っ手が付いた両開きの金銅製扉 最高位の人物の墓所にふさわしい比類のない仕様です。 内陣には格狭間(こうざま)のある金銅製の棺台、その上に朱塗りの夾紵棺 こういった墓室内の様子は、「日本書紀」「続日本紀」の天武天皇と持統天皇の葬送 被葬者をほぼ確定できた数少ない古墳です。文久修陵では文武天皇陵でしたが,阿不 幾乃山陵記の発見により、1881 (明治14年2月天武持統陵として橿原市の また, 2012年に複数の報道機関が宮内庁に情報開示請求し、1959年、61年に、宮内庁 2014年には、学会要望による立ち入り観察がありました。調査で確認された八角墳の 鎌倉時代中期、北条泰時が執権にあった文曆2 (1235)年3月20、21日の夜のことです。 侵入後の実検記録の書写本が、京都市右京区にある高山寺の方便智院に所蔵されて 遺物の種類や数量を記します。また、遺存品の橘寺への移送や「御念珠」を多武峯の 法師が持ち帰ったことなども書かれています。 陵墓は国家によって厳重に守られていたはずが、まさかの侵入です。7、8世紀に律令 ただ、そこで思考を停止したのでは、盗人の侵入動機の背景にせほることはできませ ん。 「阿不幾乃山陵記」の前半には、「此の石門を盗人等纔(わずか)に人の一身の通る許切 後半には、「盗人取残物等」の紹介があります。石御帯、御枕、金銅桶、棺内に遺骨と 侵入事件の波紋を、ほかの同時代史料にもみることができます。歴史書「百練抄」は 侵入先を「天武天皇御陵」侵入者を「群盗」とします。年代記「帝王編年記」は、「盗人」が 京都の朝廷周辺の人々は、陵墓への侵入を盗掘行為とすることで一致しています。 一方、「帝王編年記」には南都ならびに京中の諸人が多く「陵中」に入って、御骨を 拝む多くの人々がいました。 これらの人は、朝廷社会の人とは異なる陵墓観を持ち合わ せていたようです。 「阿不幾乃山陵記」の冒頭には、陵の形が八角で「石壇一匝(めぐ)り丶 一町許欤」、 律宗の中興の祖、叡尊の自伝「感身学正記」には、西大寺(奈良市)の復興にあたって、 これらは偶然ではなく、一連の歴史事象ではないかと私は臆測しています。聖人の遺 骨を拝む中世の人々の登場です。これらの人々にとって「盗人乱入事」は、いわば聖地 インターネットの地図で藤原宮(橿原市)からまっすぐに北へたどります。奈良盆地北端 天智天皇の「山科陵」に治定されます。2段の方形壇の上に、対辺間距離42mの八角 形墳丘がのる八角墳です。明日香村の野口王墓古墳(天武持統天皇陵)と同じく被葬者 別の方法でも位置を確かめました。·国土地理院発行の地図をつないで物差しを当てる と、藤原宮のほぼ真北に御廟野古墳はあります。 今度は藤原宮からまっすぐ南へたどりぼす。南面中門から朱雀大路が延びます。藤原京 藤原京と天武天皇陵の関係は、早くに古代史の岸俊男氏が指摘しました。天武天皇 の「大内陵」の造営は、持統元(687)年10月に始まっていますから、少なくとも藤原京 藤原京の南北中軸線の延長上に、八角墳の天智天皇陵と天武天皇陵が築かれていま す。これが偶然だと言う研究者もいますが、私はここに歴史的な意味が込められている と思っています。 そこで八角墳の意味ですが、大王(天皇)の勢威が四方、八方にくまなく及ぶ飛鳥時代 元日の重要儀式や即位式で天皇の御座となる高御座です。文献史料をもとにした考証 いるでしょう。 つまり、この世の支配の中心が大極殿に置かれた高御座に座す天皇であるのに対 一方、藤原宮の西門中門からほぼ西に四条塚山古墳(現綏靖天皇陵)が存在します。 藤原京は持続天皇からみて、直接の先々王 (父·天智天皇)と先王(夫·天武天皇)の に築かれたと、私は推測しています。 都の人々が、このデザインの意味を認識していたのか。私の推論には、さらなる証明 が必要です。手掛かりとなる木簡などが出土しないものかと日々、心待ちにしています。 |
実名(諱・いみな)を「タカラ(宝)」という王女がいました。2度も大王の位につき、皇極大王 (天皇)として飛鳥板蓋宮で治政を執ります。 世は蘇我蝦夷・入鹿の全盛期でした。その極みに事件が起きます。645年の乙巳の変 女帝の人生には、度重なる国内外の緊迫した情勢がつきまといました。斉明7 (661)年に 殯は飛鳥川原で行われました。その後、子の間人王女(皇女)とともに小市岡上陵に合葬され、 宮内庁が斉明天皇陵とするのは高取町車木(くるまき)の丘陵頂上にある一古墳です。 です。その南側の中腹にある古墳が、大田皇女墓になっています。日本書紀の記述に沿った 車木に斉明天皇陵を考えたのは江戸時代の儒学者の蒲生君平です。「山陵志」(1808年)に、 斉明大王は皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)に民を憂いめぐむために、石槨の役 計3基の古墳の存在を認めたわけです。 現在の車木天皇山古墳は斉明天皇と間人皇女の「越智崗(おちのおかの)」と「建王墓」です。 谷森が慶応3 (1867)年に幕府と朝廷に献上した著書「山陵考」では、頂上を越智崗上陵、 藺笠のしづくを著してからの約10年間のうちに、建王墓の扱いを変えたのでしょう。 大田皇女墓となる古墳は、柵越しに見る限り円墳です。陵墓測量図によれば直径約20m です。「大和国御陵絵図」(末永雅雄旧蔵)には、頂上と中腹の2カ所に陵墓修復の目印の縄張 「斉明天皇陵説強まる」と新聞紙面をにぎわせたのは2010年9月のことでした。車木天皇山 横口式石槨を覆う壁部分は3段で築かれます。表面は二上山から運ばれてきた岩で飾られた 西側の外回りは川原石を主とする砂利敷きです。仕切りとなる石列をはさんで約10cmの段差 舒明天皇陵となる桜井市の段ノ塚古墳、天智天皇陵の京都市の御廟野古墳、天武·持統天皇陵 「斉明天皇陵」と考えられるようになりました。 では、西約2.5kmに位置する車木天皇山古墳は、どのように評価すればいいでしょうか。 江戸時代に訪れた谷森善臣は当初、車木天皇山古墳を含む3基の古墳について、丘陵頂上を みなすのが適当だと考えます。 それでも、牽牛子塚古墳を斉明天皇陵と考える上での課題は残っています。牽牛子塚古墳の 斉明大王と合葬された間人王女の葬送が667年以前ですから、牽牛子塚古墳の築造時期との 牽牛子塚古墳の横口式石槨は約45cmの厚みの壁を挟んで東西に2室が設けられています。 私は牽牛子塚古墳への改葬前に2人が葬られていた古墳は、明日香村越の岩屋山古墳と推測 段ノ塚古墳の横穴式石室は長さ24m前後になる可能性があります。一方、岩屋山古墳の石室は 斉明大王が薄葬を願った遺言がありました。「万民を憂いめぐむために、石槨の役(えだち)を 起こさず」は、岩屋山古墳のことではないでしょうか。 |
百済からの渡来人の末裔で河内国の船氏出身の僧,道昭は文武4(700)年に粟原に火葬されます。 続いて大宝3(703)年には持統天皇、慶雲4 (707)年には文武天皇がそれぞれ飛鳥岡に火葬されます。 火葬は仏教の葬法として広まった可能性があります。が、同時期の高松塚古墳やキトラ古墳の被葬 も火葬は、埋葬に大きな施設がいらない薄葬思想に合致した葬法です。奈良時代には広く採用されま 宮内庁が第42代文武天皇の「檜隈安古岡上陵」として管理するのは、明日香村の字「塚穴」にあり, 現在は、木が生い茂るため観察は容易ではありません。北側の丘陵を削り、南向きに墳丘が設けられ 宮内庁の専門官の石田茂輔氏は直径約15m 、高さ約3.5mの円丘があり,背面の北側丘陵は高さ 間違いないようです。 どの古墳を文武天皇陵に定めるかは、近世、近代を通じて流動的でした。元禄修陵時には高松塚 学界が長く文武天皇陵と考えているのは、中尾山古墳です。1974年の調査で、3段の墳丘(対辺間 埋葬施設の横口式石槨は側石と閉塞石が凝灰岩、天井石と底石は花崗岩を組み合わせ、内部は これでは成人を寝かせた状態で葬るには狭すぎます。石槨内には骨蔵器が収められていたのでし では、栗原塚穴古墳をどのように考えれば良いでしょうか。この古墳は中尾山古墳から南へ約400頃 もしか、高松塚古墳が元禄修陵時のまま現在も文武天皇陵と定められていたならば、1972年3月の |
天智天皇の近江遷都(667年)を物語る宮殿跡が琵琶湖のほとりの大津市錦織で見つかったのは、もう 30年も前のことだった。遺跡は「近江大津宮跡」として国の史跡となった。「大津京跡」とも呼ばれ、 「飛鳥京」も「大津京」も日本書紀など史料にみえず造語である。「飛鳥のミヤコ」「大津のミヤコ」という そこで、「大津京駅」への異議がとなえられたわけである。だが、この論理は学問的には厳密かもしれな いが、言葉の多義性への理解に欠けているように私は思う。言葉が学問的な厳密性にしばられると、生き ミヤコがおかれた飛鳥、大津を指して、日本書紀は「倭京(やまとのみやこ)」「近 京(おうみのみやこ)」と の宮都に限定すれば、適切でないかもしれないが古代人は条坊の整ったミヤコと、条坊ができる前のミヤ コを、一言葉で厳密に使い分けていたわけではない。 「京」と書けば、条坊があろうとなかろうと、奈良時代までは「ミヤコ」と読んだ。「平城京」は「ナラノミヤコ」 ミヤコの原義は、接頭語の[ミ」に「ヤ(屋)」から成る「ミヤ(宮)」に、場所を示す「コ」が付いたものだという (岸俊男『日좀代宮都の研究』)。ミヤコは「宮(皇居)のある土地」という意味で、「京」と書かれたのである。 「京」を条坊が整った宮都の意味に限定するのは、あまりに狭い理解だと思う。 滋賀県で「大津京駅」の名称の是非が論争になった時、たまたま直木孝次郎さんの近著『額田王』を読ん でいて、「大津京」と書かれていたので、オヤと思った。手元にある古代史関連の本に当たったら、井上光 貞監訳『日本書紀』(現代語訳·笹山晴生) 、門脇禎二著『新版飛鳥』、西郷信綱著『壬申紀を読む』も でも「大津京」の名称が案外、使われていたのだ。 県立橿原考古学研究所(橿考研)は、天武天皇の飛鳥浄御原宮など四つの宮跡が重複した明日香村岡に ある遺跡を「飛鳥京跡」と名付け、発掘している。だが、「飛鳥京」は適切でないと考え、あえてこの遺跡名 万葉集では、ミヤコは「京」のほか
「京師」「王都」「都」などと表記され、万葉仮名では
「美也古」などと書かれている。用例では「京」と「京
師」が一番多い。飛鳥京跡は60(昭和35)年から橿
考研が継続して発掘中,舒明天皇の飛鳥岡本宮、皇
極天皇の飛鳥板蓋宮、斉明天皇の後飛鳥岡本宮、
天武天皇の飛鳥浄御原宮の宮殿跡と判明し、古代
史研究に貴重な資料をもたらしている。 |
654年、難波宮(大阪市)で孝徳天皇が崩御すると、姉の皇極上皇が再び即位(重祚)します。 その背景の一つに、天皇が信仰する「道教」があります。飛鳥板蓋宮は斉明天皇の即位直 飛鳥川西岸の川原宮に移りましたが、翌年、火災の跡地に後岡本宮を造営します。飛鳥の 小盆地の中心である旧宮の場所にこだわりがあったのでしょう。水はけの悪い土地に川原石 これと同時に宮殿の東の丘陵を整形し、右で化粧した両槻宮(なみつきのみや)も造りまし これほどまでに事を強行した理由は両槻宮が天皇の居所ではなく、道教の神をまつる神殿 神殿が建つ丘の周囲には、花崗岩やれんが状の天理砂岩の護石で舗装しました。宮殿の 当時の東アジア情勢は緊迫していました。朝鮮半島の百済は、超大国の唐と新羅の連合軍 おそらく「吉」の託宣が出たのでしょう。福岡県の朝倉宮へ、皇室一家の大移動が始まります。 2014-5-30 朝日新聞(京都橘大名誉教授猪熊兼勝) |
飛鳥に点在する終末期古墳の中には、壁画を描いたものが2基あります。それが高松塚古墳とキトラ古墳で、「壁 画古墳」と呼ばれています。ともに、藤原京の南部にある7世紀後半の王陵域にあり、当時の皇族あるいは貴族の墓 と考えられています。 墓を絵画で飾る行為は中国では前2世紀ごろからみられます。湖南省の馬王堆漢墓(まおうたいかんぼ)では、 直接墓壁に描くことで始まったと考えられます。壁画墓は唐代には首都長安周辺の陵墓を中心に展開し、朝鮮半島 日本では5~6世紀を中心に、船·武器·武具などの絵や円·三角などの文様を描いたり、浮き彫りを施したりすること やがて7世紀末になると、石室内全面に漆喰を塗り、その上に極彩色の絵画を描く壁画古墳が現れます。 画古墳も装飾古墳の一種ですが、四神·十二支といったモチーフの思想的背景や、絵を描く技術がそれまでの装飾 高松塚古墳とキトラ古墳の墳丘は、ともに2段築成の円墳で、下段の直径は高松塚古墳が23m 、キトラ古墳が 一方、キトラ古墳の石室天井には屋根形の刳り込みが施してありますが、高松塚古墳の天井は平坦なままで、 石室内に描かれた壁画は、四神·天文図·日月像が両古墳に共通し、その他、キトラ古墳には十二支像が、高松塚 古墳には男女群像が描かれます。四神図は、両古墳とも構·図がそっくりで、同じ画師集団の関与が推測されます。 ご存じの通り、21世紀に入り、これらの壁画は石室内に置いておくと損壊してしまう恐れがあることが明らかとな りました。貴重な文化財を後世に伝えるため、壁画は古墳から取り出され、修理·保存されることになり、考古学保存 昭和58 (1983)年にキトラ古墳の石槨奥壁(北)の玄武が確認され、その後、東・清龍、南・朱雀、西・ 白虎と天井・ 昭和47 (1972)年に発見された高松塚古墳は、北.・東・西壁と天井石はよく保存され、漆喰下地に上質の絵の具で 高松塚古墳壁画にはやわらかい筆遣いの美しさがあります。真っ白い下地(漆喰に鉛白左混ぜる)に上質の岩絵具 で彩色し、また飛鳥美人の着衣には明るいエンジ色などの有機色料によるかとみられる発色もあり、絵の具の重ね すでに指摘されているように男女群像には蓋(きぬがさ)、柳筥(やないばこ)、大刀、円翿(かざし)など多種の持ち しかし、これは現実に依拠しながらも、そのまま写した写生画にはあらず同じパターンでうまく描き分け、図様 (型)の推敲を経たものと知られるのです。この中に進行方向とは違う向きに視線をやる人物がいますが、群像表現 としては進んだものと評価し、より発達した表現描写からみて、制作年を大宝2(702)年の遣唐使の帰朝後に置く考 この二つの古墳壁画は、キトラが高松塚に先行するとみるのが良いと思います。石槨の形式はキトラが古様(天井 をくり込み凹面を作る)、天文図もキトラの方が精細で、より整理整頓された高松塚に先行するように思います。 キトラの天文図は、元同志社大教授の宮島一彦さんによれば、北緯37.6度程の地点から観測された図である 四神図は、双方ともに同じ図像を使用していますが(朱雀は保留)、図の大きさが違うので紙型は異なり、高松塚 がより整斉に描かれます。青龍と白虎で、長い尾が後ろ足にからむ図様はともに新しい唐風がうかがえます。 かくして、高松塚古墳壁画の存在は、わが白鳳期から天平に移り変わるころの重要な転回点にあることが分かりま す。初唐末の新しい文化を受容しながら、はじめてこの世の事物(男女群像)に目がけられた、そういう意味で,記念 高松塚古墳とキトラ古墳の壁画には、共通するモチーフがあります。それが、四神と星宿図(天文図)です。四神 とは「青竜」「朱雀」「白虎」「玄武(亀と蛇) 」で、それぞれ東·南·西·北の守り神です。四神は方角だけでなく、季節や 四神は神獣ですが、単に地上に生きる獣を神格化したものではありません。四神の思想は、星と深い関係があり を選んでつくられた星座で、もともとは暦をつくる技術として、月の位置を知るために定められたものです。 これらの二十八宿は、七つずつ東西南北の四方にわけられますが、各方角の七宿からつくられたのが四神なので す。司馬遷が完成させた「史記」には、「二十八宿のうちの参宿(しんしゅく)は白虎で、外の四星が白虎の左右の肩 中国·漢代の鏡である方格規矩(きく)四神鏡には、「竜と虎は不吉なことを遠ざけ、朱雀と玄武は陰陽を順調にす る」という意味の銘文をもつ例が多くあります。四神は邪悪なものを退け、陰陽の調和を保つ存在でもあったのです。 中国で生まれた四神は大宝元年、日本の儀式に登場しています。「続日本紀」大宝元年条には元日朝賀の際に、 藤原宮大極殿の正門に烏(う・三本足のカラス) ·日·月像の幢(どう・儀式で使われた旗)とともに、四神の幡(ばん・同) 唐や高句麗では四神が描かれた墳墓が多く見られますが、日本では、高松塚古墳とキトラ古墳の2基しか見つっ 唐や高句麗の壁画墓と日本の壁画古墳では構図の似た4のもありますが描かれる場所や図の表現などに違いも ります。しかし、キトラ古墳の躍動的な朱雀図や、世界最古ともいわれる精緻な天文図は、東アジア世界でも類を ない貴重なものです。これら日本の古墳壁画は、狭く小さな石室内で、被葬者の安寧を願って懸命に絵を描いた
高松塚古墳やキトラ古墳は、極彩色の壁画をもつ古墳として有名です。これらの壁画は、石室の内面にうすく塗 られた白い下地の上に描かれています。キトラ古墳の四神図のひとつ「青竜」は,発見当初、この白い下地ごと石から 浮き上がり、今にもはがれ落ちそうな大変危険な状態でした。今回は白い下地の部分に着目してみたいと思います。 白い下地は、炭酸カルシウム、いわゆる「漆喰」という素材です。漆喰は建物の壁材などとして現在でも利用され ており、また天然には石灰岩や鍾乳洞などでみられます。 現在の漆喰の製法は 消石灰に水を加え、ひび割れの防止·補強のために麻·紙などの植物繊維や砂を、接着,増 粘材として、海藻が原料のフノリといった糊などを混ぜて作ります。古代もおそらく同じような材料を使用していた のではないでしょうか。 高松塚古墳壁画の発見当初におこなわれた分析では、炭酸カルシウムが約96 %と、非常に純度の高いことが報 さて、高松塚古墳とキトラ古墳の下地漆喰は、同じようにみえるのですが、実は成分的に違いがあります。それが 鉛の存在です。高松塚古墳の下地漆喰には鉛が含まれていますが、キトラ古墳には含まれていないのです。 X線を使って下地漆喰に含まれている元素の分布を調べたところ、高松塚古墳の下地漆喰全体から鉛が検出さ ころがあることもわかりました。一方で、キトラ古墳と同様に、鉛が含まれていない漆喰(同約0 01 %以下)も、高松 高松塚古墳で使われた漆喰には、鉛の有無により2種類あり、漆喰を使い分けていたことがわかります。余白部 と図像の周辺では、鉛の量が異なることもわかりました。 それではこの鉛、何の目的で使用されたのでしょうか。下地漆喰を早く乾燥させるため、または鉛が白色顔料の鉛 白であると仮定するならば、下地漆喰をより白くするため、など諸説あるようですが、残念ながら明確な理由はいま |
日本史の教科書で、古代の政治や外交、宗教など多方
面に活躍し、理想的な人物と位置付けられてきた「聖
徳太子 」の存在感が近年、確実に薄くなっています。.推古天皇(大王)の時代は「日本書紀」の記載を尊重し、「聖 徳太子の政治」とまとめられるのが一般的でした。推古天皇の「皇太子」だった「聖徳太子」は「摂政」に任命され、 ところが、最近、「聖徳太子はいなかった」という議論が注目されています。ある高校教科書には、「聖徳太子は 実在したか」という項目さえ設けられるほど位置付けが低下しています。 中学校の教科書でも、時代によって描かれる聖徳太子の人物像の変化を考えさせるページを設定しています。 一般の方からも「聖徳太子は本当にいたのか、いなかったのか」という質問が増えました。ですが、学問に対し その理由は、「聖徳太子はいなかった」とする議論でも、用明天皇の子である厩戸王(聖徳太子)の実在性まで は否定せず、斑鳩宮や法隆寺(若草伽藍)を造営した点は事実と認めるからです。厩戸王と、後世の追号(死後に 戦後、歴史学者の津田左右吉による「古事記」「日本書紀」の批判を通じ、戦前には「確実な史料」とされた「日 本書紀」に対する信頼性が揺らぎ、金石文や法隆寺系の史料が重視されるようになりました。その結果、「日本 近年の「虚像」としての「聖徳太子」を否定する議論は、戦後も十分に取り除かれなかった「日本書紀」の拡大 厩戸王 (聖徳太子)の内政における位置づけを考えたいと思います。「日本書紀」によれば、603年に人材登用 特に冠位十二階は、冠の種類により、個人の朝廷内での地位を示した最初の冠位制度として重要です。 重要なのは中国の「仁・義・礼・智・信」という徳目の順位と異なり、礼と信を強調している点で、十七条憲法と の思想的な関わりが指摘できます。従来の姓による世襲制の弊害を改めるため、氏ではなく個人に対して冠を与 冠位十二階が制定されたことは「隋書」に記載があります。さらに、外交儀礼において冠位が実際に用いられた 一方、「和を以て、貴(たっと)しとなす」という冒頭の文章が有名な十七条憲法は、日本最初の成文法で、内容 「日本書紀」によれば「皇太子,親ら肇めて憲法十七条を作る」とあり、聖徳太子による単独の事績として明らかに 当時のものなのか、起草者は聖徳太子なのか、という疑問が提起されてきぼした。 しかし、十七条憲法では「礼を以って本と為よ」「信は是義の本なり」のように、礼と信を重要視していることが 確認されます。こうした思想は冠位十二階においても、一般的な儒教の徳目の序列である「仁·義·礼·智·信」を、 斑鳩に移住した厩戸王(聖徳太子)の一族(上宮王家)について考えます。 「斑鳩宮」は「聖徳太子」の居住した宮殿として有名なのですが、その点だけが強調され、「宮」としての歴史的 位置づけや機構が十分明らかになっているとは言い難いと言えます。飛鳥では小墾田宮が推古天皇の宮殿とな 斑鳩宮を検討する意義として、①文献と発掘の両面から確認できる最も初期の宮②厩戸王・山背大兄王の二代 上宮王家とは、厩戸王と山背大兄王の父子を中心に斑鳩に住んだ用明天皇系の王族集団のことを 言います。 たと考えられます。必ずしも妃たちは、厩戸王と同居していたわけではなかったのです。おそらく、厩戸王が住ん だ狭義の斑鳩宮を中心として、周辺の宮に妃とその子女たちが分散居住していたと推定されます。 このような居住形態を採ることで、斑鳩地域の土地開発や在地支配を確実にすることができました。新興の蘇我 「上宮王」号の継承は厩戸王に始まり、山背大兄王と、異母妹にあたる舂米女王(つきしねのひめみこ)の夫妻 前半生の活躍に比べ、晩年の厩戸王の活動は、仏教の信仰に傾倒していったように記されていますが、仏教が |
660年代に朝鮮半島で展開
した唐帝国の軍事的侵攻の情勢
の中で、次の征服の対象が日本列島であったことは 明らかなこ とだったでしょう。滅亡した百済からは、今でいえば政治難民ともいうべき大勢の人々が、日本列島に逃 れてきました。万一唐が攻め込んでくれば,もはや 逃れるべき場所はありません。 当時の政権をになう人々は大変な危機感を抱いたに違いありません。 そこで侵略回避の施策が次々に講じられることになります。たとえ664年には対馬、壱岐、筑紫に防人と烽(とぶひ・ それとともに、朝鮮半島では三国に分裂していた状態の中で攻め入られたのでしたから、その轍を踏まないようにと 581年に即位した隋の文帝は、漢代以来の長安城を廃棄して、そのすぐ東南に、未曾有の大規模な都城である大興城 これまでになかった、まったく新しい都城をなぜ築く必要があったのかについては、様々な要因が指摘されています。 それとともに、ことさらに大規模に築かれた都城は、朝貢のために参内する諸蕃国の外交使節に対して、皇帝の権力 いずれにしても、7世紀後半代に、唐の軍事的脅威に直面していた日本が、その危機への対応策として、列島規模の 奈良市の平城宮跡にレストランやガイダンス施設を備えた平城宮跡歴史公園が開園して約2カ月。多くの人でにぎわ それではもったいないと、約30年も平城宮跡の発掘調査に携わる奈良文化財研究所(奈文研)の渡辺晃宏副所長( 58 ) 待ち合わせは、奈文研の仮庁舎近くにある平城宮跡の西の佐伯門跡。ここまでだと近鉄大和西大寺駅から徒歩10分 ほどで着く。 まずは第一次大柩殿の中に入った。中学生や外国人旅行者と一緒に並んで、南側の景色を眺める。目の前に大極殿 院の広大な空間が広がる。 「奈良時代、ここからの景色は天皇しか見られなかったんですよ」と渡辺さん。身分を表す色とりどりの官服を着た奈良 南側の朱雀門には向かわず、逆に大極殿の北側へ。道路を越えると、ツゲの木が規則正しく並んでいる。ここには食事 1961年、この近くのゴミ穴から木簡が初めてまとまった形で出土した。役所の記録や物資などが書かれており、昨年、 さらに近くの市庭古墳(現平城天皇陵)に立ち寄った。もともとは前方後円墳だったが、平城宮の造営時に前方部が削ら 削られた前方部を通る路地を抜け、平城宮の第二次大極殿へ向かった。建物が復元された第一次大種殿と違い、基 壇だけが復元され、柱の礎石が並ぶ。ここが、渡辺さんが一番好きな場所だという。 基壇に上ると、東に東大寺の大仏殿と二月堂が見えた。天気が良いと南側の吉野の山々も見える。「平城宮跡だけで 平城宮跡の発掘調査を終えて、ここから生駒山に夕日が沈むのを見るのが好きだったという。 第二次大極殿付近は、舗装されていない場所も多く、観光客の姿もまばらだ。そのおかげで、草の香りや虫の声を楽 1300年前、同じ場所を奈良時代の人が歩き、未調査の地面の下には、今も大量の木簡や遺構が眠っている。じつくり 1952年に特別史跡に指定され、広さは約130ha。平城宮を中心に築いた都の平城京は、中国.唐 出土した遺物が見られる平城宮跡資料館や遺構が見られる遺構展示館などがある。平城宮跡歴 |
飛鳥寺は蘇我馬子の寺院とされますが、完成するまでには長期間かかり、推古天皇や聖徳太子とも無関係ではあり
ませんでした。このころ、朝鮮半島の国々から仏教と先進技術の移入が盛んでした。崇峻元(588)年、飛鳥寺建立のた 『日本書紀』によると、飛鳥寺の仏堂は崇峻5(592)年に、五重塔は推古元(593)年に建ち、同4(596)年に寺は完成します。 ところが、その後の推古17(609)年に銅と繡(ぬい)の丈六釈迦仏が制作された記録も残っています。『日本書紀』は、 これを鞍作鳥(くらつくりのとり・止利仏師・とりぶっし)の仕事としています。1塔3金堂の伽藍配置を持つ飛鳥寺の中金堂 鞍作鳥は、法隆寺金堂の金銅釈迦三尊像の光背銘に「司馬鞍首止利綸」と記された人です。その家系は6世紀はじめ ところで飛鳥寺造建では、推古天皇は鞍作鳥から、事前に図面で仏像のかたちを示されています。仏師の側に「本 このころは、黄書画師、山背画師などの画師も定められたときで、こうした造形の制作者がすぐれて知的な作業維持 が大きく揺れ動きます。白雉4(653)年には道昭など学問僧13人が入唐するという画期的な出来事もありました。 道昭は長安 玄奘三蔵に師事します。しかし遣唐使は669年から702年までの約30年間途絶えます。ただ、この期間は先の この時代は飛鳥時代白鳳期とも呼ばれます。インド·西域風の雰囲気がある初唐美術が本格的に受け入れられ、わが 鈴木嘉吉·元奈良国立文化財研究所長は、現在の法隆寺金堂は670年ごろには造営されたはずだと主張されます。 壁画は天武天皇(在位673~686年)の末年ごろが制作の下限だと思いほす。表現、描写に新しい初唐のインド·西域風を受 金堂6号壁には阿弥陀浄土図が描かれぼした。図像の典拠は敦煌莫高窟の第332窟阿弥陀三尊五十菩薩図のような 建築史の福山敏男先生が説かれたように、天井に描かれた「蓮華文」を頼りに法隆寺の彩色荘厳を見ますと、 ①の天井画蓮華文に近い文様が、勧修寺繍帳の背障にありますが、その勧修寺繡帳を典拠の一つとする6号壁も金堂 内陣天井画と同じころに描かれたとみられます。 一方、6号壁阿弥陀如来像の背障にも蓮華文が描かれます。これは勧修寺繍帳の他に、ササン朝ペルシャ起源の モチーフを持つ法隆寺の四騎獅子狩文錦(初唐)や正倉院宝物の犀円文錦(隋)などの文様の影響をも受けているようです。 |
時代劇の舞台を思わせるような古い町並みが残る橿原市今井町に、ひときわ大きな瓦屋根がのぞく。今井
御坊と呼ばれた称念寺である。自治商都·堺とも深いつながりのあった寺内町・今井の中核となった寺院で、 近鉄橿原線の八木西口駅から南へ歩き、飛島川に架かった朱塗り欄干の蘇武橋を渡ると今井の町に入る。 東西、南北に通る街路を何度か折れながら進むと、次々に重要文化財の古民家が現れる。文化財に指定さ 称念寺は、この町の奥まった一角に北面して立地していた。門前から見ると、山門を挟んで右に鐘楼、左 に太鼓楼があり、境内には本堂(重文)と客殿、庫裏がたたずんでいる。 この一帯は今井庄と呼ばれて、古くは奈良·興福寺一条院の勢力下にあった。 ここへ天文年間(1532~ 55 )に、一向宗本願寺の今井兵部豊寿が道場を開き、寺域へ商人や浪人、門徒たち 今井の町は東西約600m、南北約300m 。広いとはいえないが、近世に入っても繁栄を続け、17世紀には 現在は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。 町内には、八棟造りと呼ばれる巨大民家·今西家住宅をはじめ、重文の近世町屋建築が8軒も集まっている。 町をひと回りして称念寺の門前に戻った。山門をくぐると、右側に近世一向宗寺院の特色を備えた本堂 の大屋根が迫ってくる。 縦横約20mもある大型の入り母屋造りで、その豪壮な風格は魅力いっぱいである。 この本堂が今、悲鳴を上げている。建物全体が左に傾き、側面には倒壊防止の支柱を設けてある。屋根の 本瓦葺きも緩み、瓦はあちこちで波打ったり垂れ下がったりしている。 寺は本格的な解体修理を目指して勧進活動を進めており、観光客の多い休日には寺の関係者が境内で瓦 |
「忍阪」と書いて「おっさか」と読む。「おしさか」「おさか」とも言う。桜井市忍阪は神武東征の伝 説や万葉集にも登場する古代からの地名である。 石位寺はその忍阪地区にある。森の重要文化財、石造浮彫伝薬師三尊像も白鳳から奈良時 三尊像は77年に出来た収蔵庫に安置されているが、普段は公開されていない。 桜井市の市民グループが企画した「第10回鎮守の森を観に行こうかい」の一行が同寺を訪ねる こぢんまりした境内に木造の礼堂と、その奥に本堂の収蔵庫がある。庫裏もあるが、今は無住だ。 収蔵庫の扉の間近から三尊像を拝観した。三尊像の石板は硬砂岩で、高さ1.15m、最大幅 真ん中の中尊(像高63cm)は如来がひざを開いて、いすに腰を掛け、両手をひざの前に重ねて 大和の古道でよく見るレリーフの石仏とは違い、りが厚く、力強い。如来がいすに腰を掛けたスタ 私はどこか異国風の印象を受けた。実際、地元では中国伝来との伝承があるそうで、石材に詳しい ともあれ立派な仏像である。満ち足りた気持ちで境内で一休みした。緑がすがすがしい。北東に 石位寺は東西に連なる丘陵の西縁に立地している。丘陵は北は初瀬川、南は粟原川(おうばら) 粟原川の西側には、これも山容の美しい鳥見山(とみ・245 m)がそびえる。外鎌山と鳥見山に挟 忍阪は、開けた平地の大和盆地から深く険しい山々の宇陀·吉野地方への入り口に当たる「長い <メモ>石位寺の本尊は今は忍阪区の所 有で、桜井市が管理している。拝観は3~ 5月と9~11月(午前10時~午後4時)に 限られる。予約制で、拝観の10日前までに 桜井市観光課(0744-42-9111)へ申し込 む。維持管理協力金として1人200円が必要。 |
法隆寺は7世紀初めに創建され、670年に火災に遭い、7世紀後半から8世紀初めにかけ再建
された。これは学界の定説だが、まだ解けない謎がある。一つは、五重塔の心柱が定説より約10 0年も古い594年に伐採されたヒノキを使っていること。年輪年代法で明らかになったこの事実 と矛盾しない解釈が求められている中、松浦正昭。東京国立博物館上席研究員(日本彫刻史)の新 説を紹介する。 松浦氏は法隆寺展の公開講座(5月15日)で新説を述べ、「日本の美術」455号(至文堂) でも詳しく論じている。 新説の骨子はこうだ。聖徳太子は598年に法華経を講義した際、丘陵の尾根だった現 若草伽藍(創建法隆寺)を造営した。同伽藍は日本書紀にある通り670年に焼けたが、 は五重塔の心柱に再利用された――。 相輪は九輪とも言い、五重塔や三重塔の屋根から上に突き出た部分。建物本体がなく、 松浦氏は法隆寺が皇室に献納した仏像の一つ、押出観音像(7世紀後半~8世紀初め、 して相輪塔の場所が選ばれたとみる。 心柱には別に「空洞の謎」があり、松浦氏はこれも「聖徳太子とのゆかり」で説明する。 心柱は地下約3mぷの心礎(心柱の礎石)の上に立っていたが、根元から長さ4.5m 一方、心礎の舎利納入穴に収められた舎利容器は一度取り出して収め直した跡があった。 松浦氏は心柱を補強する対策が五重塔に講じられていることを挙げ、根元の腐食は している。 |
694年から710年のわずか16年という短命の都であった藤原京は、日本で最初に条坊制を採り した。藤原宮の中心部でも、中世の集落が発掘調査で数多く見つかっています。 近世になると、幕藩体制下で国学が興隆し、古代の宮都への関心が吹第に高まっていきます。 このような状況のなか、国学者賀茂真淵が、後に定説となる高殿説(たかどの)を唱えます。 真淵は万葉集の研究を通じて、藤原宮は「香山(今の香县山)・耳成(今の耳成山)畝火(畝傍山)の 高殿説が有力視される中、大正2 (1913)年に歴史学者の喜田貞吉が醍醐説を唱えほす。 そこで史料にみえる「鷺栖坂」に注目し、大宮土壇の西南に鎮座する鷺栖神社付近を鷺栖と考え、 ちなみに「藤原京」は喜田が便宜的に用いた造語でした。中ツ道など古道と関連づけた喜田の京 諸説に決着をつけたのは発掘という考古学的手法でした。昭和8 (1933)年、大宮土壇の西方か その結果、大宮土壇は大規模な建物の基壇跡と判明します。足立は「この地を以て藤原宮址と 藤原宮の所在地をめぐる議論は紆余曲折を経きたが、現在では高殿を中心とした藤原宮の (1943)年には「藤原宮阯」として史蹟指定を受け、本格的な保存が開始されました。戦後、 このように、藤原宮跡は順風満帆に保存が進んでいったかのようにみえますが、その後、 この計画が表に出たのは昭和41 (1966)年のことです。当時の日本は高度経済成長期の真っ このバイパス計画に対しても、関連する学会や市民による大規模な反対運動が起こり、奈良県 66年の調査では北を限る北面大垣の遺構を、昭和43 (1968)年の調査では北面大垣の東端を、 発から守られることとなりました。 その後は、奈良国立文化財研究所(現奈良文化財研究所)が主体となって調査を進め、69年の 現在まで継続している発掘調査で、中枢部の建物配置など藤原宮跡内部の様子も次第に明 しかし、この50年近い調査で発掘された面積は藤原宮全体のわずか14 %余り。まだまだ不明な わが国初の中国式都城の中枢部である藤原宮の造営は、たやすい事業ではなかったことが しかし、天武天皇は完成を見ずして亡くなります。妻である持統天皇が遺志を継いで建設を進 藤原宮跡の発掘調査では宮の造営に関わる遺構が発見されています。その一つが「先行条坊」 面白いのは、この条坊道路が藤原宮の周囲のみならず宮の内部でも見つかっていることです。 藤原宮には、天皇が政務や儀式をとりおこなう大極殿院や朝堂院をはじめ様々な役所の建物 した。 また、藤原宮のほぼ中央を南北に走るような幅6~9m、深さ約2mの運河が見つかりました。 底から出土した木簡などの遺物は、天武天皇の時代の末年ごろに機能していたことを示してい 『万葉集』の「藤原宮役民の作る歌」によると、藤原宮の建物の木材は近江(現在の滋賀県) 泉の津(現在の木津)で陸揚げをしました。その後の経路は記されていませんが、おそらく陸路で 藤原京の建設に際し、持統天皇5(691)年に「新益京(あらましのみやこ)」(藤原京の意味)の地 鎮、翌年には「藤原宮地」の地鎮を行ったことが「日本書紀」に記載されています。2007年の これは藤原宮の末永い安寧と平安を願う地鎮具とみられぼすが、その願いもむなしく、藤原京 藤原宮の周りには、条坊道路によって碁盤目状に街割り された藤原京が広がっていま した。 藤原京の規模は平城京をしのぎ、大和三山をとりこむ東西5.3キロ、南北5.3キロ もの大きさだっ たといわれています。とはいえ、最初からこれほど大きな京域が復元され ていたわけではありま せん。 戦後20年ほどたったころ、発掘調査成果をもとにした藤原京の復元が本格的にはじまります。 南北3 . 2km面積にして平城京の3分の1の藤原京を描き出しました。 その後、岸が推定した通りの位置から条坊道路が次々と発見されたことで、この説は最有力案 しかし、盤石を誇った岸説も調査の進展とともに、やがて見直しを余儀なくされます。岸の推定 べてとり込んだ「大藤原京」説が次々と発表されました。 96年、折しも西と東の京極と思われる条坊道路の 字交差点(東西道路がそれ以上先に伸びず、 面白いことに『周礼(しゅらい)』という中国の古い書物にこの案と似た都の造り方が書かれてい ます。このことから、藤原京は当時国交を断絶していた唐の都,長安城をモデルとせず、書物から ただし、実際の藤原京が条坊を完備した正方形をしていたかというと、それはまだ分かりませ 藤原宮の瓦は大きく、文様もきれいでしっかりと焼き締めています. 6世紀末に始まった瓦生産 和銅3 (710)年の乎城京の遷都時に、藤原宮の瓦はどうなったのでしょうか。もちろん、多くの瓦 平城宮の発掘調査では興味深いことが明らかになっています。これまでに平城宮で出土した 新しい都を造るのに、なぜ古い瓦を利用したのでしようか。都の造営は大工事であり、彰大な 平城宮の第一次大極殿は藤原宮の大極殿を移築したものと考えられています。しかし、屋根の よって最新情報としてもたらされたのでしょう。宮内でもっとも重要な瓦葺き建物の大極殿には、 しかし、大柩殿の瓦を生産するのが精いっぱいで、ほかの建物の瓦までは手が回らなかったの 藤原宮の瓦の旅は、まだ続きます。長岡宮(京都府向日市)や平安宮(京都市)からも、少ない 現在平城宮内には、大極殿と朱雀門の復元建物が、南北に建っています。大極殿の屋根には |
1、下ツ道の誕生 ・6世紀末~7世紀前半説 『日本書紀』推古21(613)年11月条「自難波至京大道」(横大路設置記事)に前後して敷設 上ツ道、阿部·山田道の調査で、7世紀前半の敷設が考えられる調査例あり 下ツ道の調査(三条通り付近)で、側溝底面から6世紀末~7世紀初頭の土器が出土 7世紀前半以降、寺院の建物が正方位をとる ・7世紀中ごろ説 『日本書紀』白雉4 (653)年6月条「修治処々大道」に前後して敷設 石神遺跡(明日香村)で、7世紀中頃とみられる道路遺構(推定阿部·山田道) 道路整備の歴史的必然性・・・斉明朝の大規模土木工事、国際関係の緊張(新羅との関係悪化) 飛鳥板蓋宮(643~654年)以降の宮都建物が、 正方位をとる ・7世紀後半説 『日本書紀』壬申の乱(672年)記事に「上中下道」…壬申の乱直前に敷設 下ツ道側溝出土遺物は7世紀末~8世紀初頭のものが大半 横大路の路面から7世紀末ごろの地鎮具が出土 何のために作られたのか? ・外国使節の往来のため 推古16(608)年、隋使裴世清来朝(はいせいせい)…直接海石榴市へ上陸 隋の「御道」を模倣して道路整備? ・大和国内の 屯倉(みやけ)·屯田開発(みやた)のため・・・推古21年の道路敷設記事が、池の開削記事と併記 クラ地名、屯倉関係地名が横大路、南北三道、阿部·山田道などの沿線に分布 倭・山背・,河内の三国に池溝開発、屯田開墾→管理のために屯倉配置 屯倉相互間or屯倉ー中央間連絡のために交通路を整備 沿道の古墳時代遺跡…古墳時代後期以降に遺構密度が減少 飛鳥時代の遺構は八条遺跡のみ 岸俊男の研究( 1970) ・・・下ツ道=藤原京西京極=平城京朱雀大路 その後、藤原京は下ツ道以西に広がることが判明 藤原宮跡の保存⇒⇒⇒ 下ツ道を拡幅して平城京朱雀大路としたのは事実であることを確認 山陰·南海·山陽道(西海道)と接続orその一部となる…西日本の全ての官道が収束する国土軸 条里制の施行に当たり、下ツ道を中心線として割り付け(いわゆる京南条里) 沿道に官衙的施設が設けられる(南六条北ミノ遺跡)
道路両側に側溝を持ち、20m以上の道路幅を有する 稗田遺跡で、自然河川を渡る橋を検出 大半の区間で東側溝が幅広→運河機能があった?
4、平安~中世の下ッ道 <平安時代>
平安遷都(794)により、下ツ道の重要性は低下 延喜式(927成立)記載の南海道・・・山城ー河内ー和泉ー紀伊(東高野街道ルート)を通過→下ツ道を経由せず 国土軸の機能を失い、畿内を南北につなぐ地方幹線道路に ⓛ皇族.貴族等の私的旅行にたびたび利用 861(貞観3) 真如親王、池辺院(平城宮北方?).巨勢寺(御所市)経由で南海道方面へ 898(昌泰元)宇多上皇、法華寺·旧宮重閤門所·菅原道真山庄(大和高田市根成柿)経由で吉野へ 1007(寛弘4)藤原道長、法華寺·井外堂·軽寺·壺坂寺等経由し金峯山へ 1088(寛治2) 白河上皇、東大寺·葛上郡火打崎(御所市)経由で高野山へ 1250(建長2) 九条道家? 春日社·興福寺·高天寺経由で高野詣で・・・ 帰路は髙天寺·唐招提寺経由 1496(明応5)年『実隆公記』・・・法華寺·西大寺等巡拝後、「八木市場」経由で吉野へ →15世紀後半には、下ツ道と横大路の交点付近には市街地が成立 →室町期には高野参詣道としての認識が生まれている ②物資運送や戦乱に際して利用される 1236(嘉禎2) 盆地内各地の守護武士が、春日社への運上供物を抑留、庄園に乱入 ・・・「下津道守護人刑部左衛門尉」が春日社領庵治庄に乱入 春日社司から摂政九条道家へ供物運上路を注進した中に「下津道」 1333(元弘3) 鎌倉幕府軍の二階堂出羽入道道蘊の軍勢が上道·中道·下道を進軍、吉野(護良親王)・ 1470(文明2) 矢木座と符坂衆係良)が河内商人の油巡り相論 |
中平銘鉄刀と七支刀-ふたつの紀年銘資料- 天理市では、2010年、平城遷都1300年記念事業に協賛して,春には石上神宮に伝わる国宝·七支刀の 東大寺山古墳の中平銘鉄刀は、後漢の中平(184 ~ 190年)の年号を記す日本列島最古の紀年銘資料で 中平銘鉄刀を贈られたのは、倭国の女王として共立されて間もない邪馬台国の卑弥呼だった可能性が指摘 これに対して、石上神宮の七支刀は、金象嵌の銘文から、泰和4年(369年)、百済王が倭王に贈るために このように、中平銘鉄刀と七支刀は、魏志倭人伝が詳細に伝える3世紀の倭と魏の交渉の時代をはさんで、 纒向遺跡から東大寺山古墳へ それでは、この時代、奈良盆地の考古学的な状況はどのようになっているだろうか。2世紀末から4世紀 れる地域へと変貌する。纒向遺跡やオオヤマト古墳群は弥生時代から古墳時代への変化を象徴する遺跡 中平銘鉄刀が製作された2世紀末は、ちょうど山の辺地域の南縁、三輪山の麓で纒向遺跡の形成が開始 山の辺地域では、このあと、3世紀中頃から4世紀にかけて、オオヤマト古墳群が集中的に形成されるが、 などの王墓クラスの古墳を軸に、4世紀後半から末と想定される櫛山古墳(4期前半) まで、古墳の築造が 桜井市の箸墓古墳(全長280 m)を卑弥呼の墓と考える説は近年ますます有力であり、天理市の西殿塚古墳、 このように、王墓クラスの大型古墳を核として、他地域であれば首長墓クラスの規模となる100 m前後の これに対して、中平名鉄刀を副葬した東大寺山古墳は4世紀半ばの築造であり、その築造を契機として、 たちは、本貫地ではなく、連合政権の一員として、オオヤマト古墳群に参集する形で墓所を営んでいた可能 つまり、東大寺山古墳の被葬者は、連合的な性格を持つ倭政権のなかで一定の地位を占めていた集団 注 (1) 2世紀末から4世紀後半の約200年間は、東アジアの激動の 時代であり、中国では、後漢末の混乱期(184~220年)を経て、
群、乙木·佐保庄遺跡など、オオヤマト古墳群と重なるように
(3)かつては、箸中古墳群(纒向古墳群) 、柳本古墳群、大和 「オオヤマト古墳群」などとして、大きく一体的に捉えることが
―東大寺山古墳と謎の鉄刀―』創立80周年記念特別展から 中平銘鉄刀(青銅製環頭大刀3) この大刀は刀身部分が5片に折れており、全体としてやや内湾するものの、どの程度の内湾かは正確には 棟部に金象嵌で文字が刻まれており、24字中の20文字が確認できる。 「中平□〔年、五月丙午、造作文刀、百練清釖、上應星宿、〔下]辟不〔祥〕」と読める。 銘文の大意は「中平□年五月丙午の日に銘文を入れた刀を製作した。良い鉄を鍛えた刀であるから、 天上では神の御意に叶い、下界では災いを避けることができる」となる。 文字は蹴彫りされており、その窪みに金線を埋め込んである。中国で出土した象嵌銘のある長い刀剣類は3例 (山内) |
当社案内より 周りの環境 和爾下神社は東大寺山古墳(古墳時代前期)の上に所在します。この地域 和爾下神社の境内には有名な柿本人麻呂の柿本寺跡があり、その跡から は奈良時代の古瓦が出土、円型礎石四基が現在も散在している。柿本寺 は、和爾下神社の神宮寺であろうと推測される。 『東大寺要録』には、神護景雲3年(769)、東大寺領の櫟庄に水を引くため に、高瀬川の水路を て移し、道も改修したとあり、和爾下神社の参道が登
1070年前の「延喜式神名帳」に記載される古い神社です。もとは「和爾氏」 と「櫟井臣」の祖神とされる孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命(あまたちひ こくにのおしひと)と日本(やまと)帯彦国押人命が祀られていたそうで すが、現在は本社大己貴命(おおなむらのみこと別名大国主命(おおくに ぬしのみこと)、素盞鳴命(すさのおのみこと)、稲田姫命が祀られていま す。 「延喜式」によると、和爾下神社は二坐有り、天理市櫟本町宮山と大和郡山 市横田に鎮座している。二つの和爾下神社は、東西線上に走る竜田道沿 いに2.5kmほどの距離で鎮座している。櫟本町の神社を上治道天王 横田町の神社を、下治道天王という。 古墳が治道山と呼ばれていたところから、治道祇春道社)や牛頭天王社、 さらに西隣に建てられた柿本寺との関係で柿本上宮とも呼ばれていまし た。しかし、明治初年に延喜式内の和爾下神社に当るとの考証から、和爾 下神社と定められ、今日に至っています。
ポイント 本殿は、桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、向拝一間、檜皮葺で桃山
櫟本の町中を流れている高瀬川に沿った長い参道があって、東の治道山に鎮座、寿永二年 (一一八三)藤原清輔の弟顕昭が著わした『柿本朝臣勘文』によると、「清輔が語っていうに、 墓という」意味の記事があり、この記事により石上村の付近に治道の森があり、治道社(春道社) 『東大寺要録』には、神護景雲三年(七六九)東大寺領の櫟庄に水を引くために、高瀬川の水路 この社は東大寺山丘陵の西に位置する古墳の上に祀られていて櫟本地方にいた豪族の氏神 御祭神は素盞鳴命を祀っているので牛頭天王社ともいわれ、ここに建てられた柿本寺との関係 今の本殿は、桁行三間,梁二1間、一重、切妻造、向拝一間、檜皮葺、桃山時代の様式をそなえ、 古建築として昭和十三年国宝に指定、現在重要文化財に指定されている。例祭は七月十四日
柿本寺跡と歌塚ところ櫟本町人丸
治道山柿本寺は、治道の森のほとりにあって柿本氏の氏寺であった。ここに柿本氏の出である 「藤原清輔家集」に「大和国石上柿本寺という所の前に人磨呂の塚ありと聞きて卒都婆(そとば) 世を経てもあふべかりける契こそ 苔の下にもくちせざりけれ」 柿本寺は出土の古瓦から奈良時代に創建されたと考えられる。 |
1、万葉集第二期の代表歌人 万葉第二期期は、壬申の乱(672)終結以後から奈良遷都(710)までのほぼ四十年間をさします。 大乱収束後の安定と繁栄が享受された活気溢れる時代でありまして、人麻呂の活躍の時代で もありました。 人麻呂の伝記にかんしては不明な点がはなはだ多く、生没年未詳と、ほとんどの 研究書に記載されています。 柿本氏は昔、第三十代敏達天皇の代に家の門に柿の木があったところに由来するらしいのです。 柿本朝臣。大春日朝臣と同祖·天足彦国押人命の後(すえ)なり。 敏逹天皇の御世、家の門(かど)に柿の樹有るに依りて、柿本氏。 また『古事記』の第五代孝昭天皇の第一皇子、天押帯日子命を祖先とし、春日臣以下十六氏の また『日本書記』の孝昭紀に、 天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひとのみこと)は、和珥臣等が始祖なり。 しかし『古事記』には和珥氏がない。これは、「一祖多氏」の『古事記』と「一祖一氏」の形式的原則 と改姓したあとに分枝した氏であったようです。人麻呂に関しては次の見解を参考にしておきます。 ではこのあまり聞きなれぬ和珥氏とはいかなる豪族であったのか。それは歌人人麻呂を考える上
で大きな意味をもつと考えられる。 和珥氏は五世紀から六世紀前半にかけて、大和朝廷において活躍した有力豪族として奈良盆地 2、和珥氏について 和珥氏とのこのような血族関係は、人麻呂の成長期にとって有意義な刺激を与えることとなった やがて彼の努力によって実を結んだ結果ではなかったかと思う。 しかし、宮廷歌人と最初から決めつけることはできない。それは父母や兄弟のことさえも不明確な 人麻呂の経歴を考えた最初の研究者、武田祐吉先生は「天漢の歌」(人麻呂歌集)の左注「庚辰 この頃の年齢を二十三歳と仮定して、その姿が消えた奈良遷都の頃和銅三年を歿年とすると、 さて人麻呂歌集(370首) 、人麻呂作歌(94首)もともに、八色の姓のうち一般民では最高の「朝臣」 柿本氏が名門和珥氏の流れに属するとは言え、既にいくつかに分枝した小豪族にすぎない。ただ
3、柿本朝臣人麻呂作歌について 「柿本人麻呂全歌集」(桜楓社)によって,人麻呂作歌のみについて、部立別に分類し、整理をして 宮廷歌人として活動に関係のある作品のみを選んでみよう。 ところで挽歌群のなかで最も秀逸なのが「高市皇子尊の城上の殯 宮の時の柿本朝臣人麻呂の作れる歌」です。いわゆる『高市皇子挽歌』なのですが、その荘重な調
1.二十九 玉襷(たまだすき) 畝火の山の 橿原の 日知(ひじり)の御代ゆ
ごと櫂(つが)の木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを〔或は云ふ、めしける〕 天(そら) にみつ 大和を置きて あをによし 奈良 山を越え〔或は云ふ、:そらみつ 大和を置き あをこよし 奈良山越えて] いかさまに 思ほしめせか〔或は云ふ、思ほしけめか] 天(あま) 離(ざか)る 夷(ひな)にはあれど 石走る 淡海(あふみ)の国の 楽浪(さざなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめ しけむ 天皇(すめろき)の 神の尊の 大宮は 此処 と聞けども 大殿は 此処と言へども 春 草の 繁く生(お)ひたる 霞立つ 春日の霧れ る〔或は云ふ、霞立つ 春日か霧れる 夏草か 繁くなりぬるももしきの大宮処(おおみやどころ) 見ればさぶしも〔或は云ふ、見ればさぶしも〕
近江の(荒廃した都に立ち寄った時、柿本朝臣人麻呂が作った歌 美しいたすきをかけるうなじ、畝火の山のふも と橿原の地に即位された天皇の御代からずっと 〔或いは、いう宮からずっと〕、お生まれになった現人神 お治めなさったのに〔或いはいう、お治めなさったという〕、 天に満ちるその大和を捨てて、青丹のよい 奈良山を越え〔或いはいう、そらみつ大和を捨て、青丹のよ い奈良山を越えて〕、どのように思われてか〔或いはいう、 思われたのだろうか〕都から遠い田舎ではあるけれ ど、石走る近江の国の楽浪の大津の宮に、天下 をお治めなさったという尊い天皇の大宮はここ だと聞くけれど、大殿はここだというけれど、 春草が生い繁っている、霞立つ春の日がかすん でいる〔或いはいう、霞立つ春の日がかすんでいるのか、夏草 が繁くなっているのか〕、ももしきの大宮のあったと ころを見ると悲しいことよ〔或いはいう、見るとさびし いよ〕。 反歌
1・三〇 ささなみの志賀の辛崎幸(からさきさき)くあれど大宮人(おおみやびと)の 船待ちかねつ わだ淀(よど)むとも昔の人にまたも逢はめやも 〔一に云ふ、逢はむと思へや〕 反歌
楽浪の志賀の辛崎は昔と変わらずにあるけれど、
持統女帝は、「深沈にして大度あり」と伝えられています。 天武帝が崩御(686)されて後、二年二ヶ月の長い殯宮儀礼が終って、いよいよ草壁皇太子の天皇
吉野の宮にきし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌 1· 三六 やすみしし わご大君の 聞(きこ)し食(を)す 天(あめ)の 下に 国はしも 多(さわ)にあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散(はなぢ)ら ふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば 百磯城(ももしき)の 大宮人は 船並(ふなな)めて 朝川渡る 舟競(ふなぎほ)ひ
夕河渡る この川の 絶ゆるこ 滝の都は 見れど飽かぬかも
国のすみずみまで統治しておられるわが大君が お治めなさる天下に、国はほんにたくさんある けれど、山も川も清らかな河内として大君が御 心をよしとされる吉野の国の、花の散っている 秋津の野辺に、宮殿の柱をしっかりとお建てに なると、ももしきの大宮人は、舟を並べて朝の 川を渡り、舟を漕ぎ競って夕方の川を渡る、こ の川のように絶えることなく、この山のように いよいよ高くお治めになる、水の激しく流れる 滝の離宮は、いくら見ても見飽きることがないよ。
反歌
1・三七 見れど飽かぬ吉野の河の常滑(とこなめの)の絶ゆること なくまた還り見む せすと 吉野川 激(たぎ)つ河内に 高殿を 高 知りまして 登り立ち 国見をせせば 畳(たたな) はる 青垣山 山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と 春へ は 花かざし持ち 秋立てば 黄葉(もみち)かざせ り〔一に云ふ、黄葉(もみちば)かざし〕 行き沿ふ川 の神も 大御食おほみけ)に 仕(つか)へ奉(まつ)ると 上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも
反歌 見ても見飽きることがない吉野の川の常滑のよ うに, いつまでも絶えることなく,また立ちか えって見よう。 安らかに国土を統治しておられるわが大君、神 として神らしくふるまわれるとて、吉野川の流 れ激しい河内に高殿を高々と造営されて、登り 立って国見をなさると、幾重にも重なる青い垣 のように高殿をとり囲む山々は、山の神の大君 に奉る貢物として、春の頃は花を頂にかぎり持 ち、秋になると色づいた木の葉をかざっている 〔一つにはいう、、色づいた木の葉をかざり〕、高殿に沿って 流れる吉野川の川の神も、大君のお食事に奉仕 するとて、上の瀬に鵜飼いを催し、下の瀬に小 網を張り渡している、山や川も心服してお仕え する神の御代であるよ。 |
山の辺文化会議 国際日本文化研究センター教授千田稔 中国でも皇帝の祖先を祭っているのが神宮で、中国には神社はない。
① 飛鳥時代には神社があったが、その後石上神宮となり、その後石上坐布留御魂神社「延喜式」へ変化した。 ②神武伝承の師霊(ふつみたま)「この刀は石上神宮に座す」-古事記-
<石上神宮と飛鳥> 日本という名前や天皇という称号ができたのは、おそらく飛鳥の頃と思う。それ以前 が水に係わっているのではないか。 しかし、飛鳥は狭いというので天武天皇の時代に大和三山(耳成山、香具山、畝傍山) 八角形は世界を現している。天皇家の中に奥深く入っていた道教(その骨格は不老長 ・舒明、斎明と息長氏との繋がり ・三品彰英説『古事記』息長のミズヨリヒメの系譜伝承 ・『日本書紀』神功皇后 ・折口信夫「水の女」 ・舒明の父、押坂彦人大兄皇子は皇祖大兄 ・『日本書紀』皇極が飛鳥川の上流で雨乞い 結論―『日本書紀』による― |
<櫟本東大寺山古墳の発掘調査>
1961~62にかけて天理大学附属参考館の発掘調査した東大寺山古墳では、棺を覆う粘土に これらのうち1ふりの鉄刀の刀背には、この刀が中平年間 (184~189年) に作られたとを示す 卑弥呼が派遣した使節を通じてこの刀が与えられ、刀の威力によって国内の平和を保ったの 平成18年度 山の辺文化会議 総会記念講演 |
奈良盆とりまく青垣の山々で、とりわけ優れた山容をもつのが三輪山と二上山。この二つの山は、 <折口信夫と飛鳥> 折口信夫の祖父、造酒ノ介は飛鳥村岡の岡本家の出身で、飛鳥坐神社神主の飛鳥家の養子となり、 <折口信夫の『死者の書』をめぐって> 二上山が印象深く語られている背景としては、折口信夫(1887~1953)著の『死者の書』(中公文庫) 印象のある音で二上山に葬られていたシラツヒコ (大津皇子)がよみがえる場面から始まる。 新しい資料として安藤礼二編『初稿 死者の書』(2004年図書刊行会)によると、平城京の家で浄土教 <三輪山祭祀> 『日本書紀』の崇神天皇の夢占いの伝承から、三輪山の祭祀は元来大和王権の王が自ら行っていた <二上山をめぐる諸問題> 二上山は中臣寿詞(なかとみのよごと)に「天二上(あめのふたがみ)」と呼ばれ、天の・・・ と冠される また二上山とその周辺の火山群(大坂山)の岩で、箸基古墳や下池山.黒塚、中山大塚古墳の石室が 4月23日に行われる「ダケ登り」という習俗は、雄岳に祀られる龍神に雨乞いをするためのものであり、 <カミナリ線> 大和には雷がよく落ちる「カミナリ線」というものがあり、三輪山と(雷丘、畝傍山) 大和高田の龍王宮、 気流の流れが感じられる。 <国中論> 奈良盆地の中央部を「国中」と呼ぶが、二上山の雄岳の間に夕日が沈む感動的な情景を見る事が <まとめ> 三輪山と二上山が東西に向かい合っているのは偶然とは言い難く、三輪山は神体山として二上山は 京都教育大学名誉教授 和田萃 講演より抜粋 |
石上神宮の現本殿は大正2 (1913)年に完成したもので、それ以前
は本殿はなく拝殿背後の禁足地のみ であった。『石上大明神縁起』には、「本社ノ後ニ禁足ト名付ケル処アリ、廻ラスニ石籬ヲ以テス、社氏ノ説ニ 神釵韴霊、霊崇アルニ仍テ、石ノ櫃ニ安鎮シ此処ニ斎埋ス」と記している。 禁足地には「松樹雑木草等茂レリ」(石見見聞誌) という状態で『和州山辺郡布留社頭并山内絵図』にその 明治6(1873)年大宮司に任ぜられた菅政友は教部省の許可を得て翌7年8月20~22日、禁足地の発掘を 石上神宮は大神神社とともにもとから本殿のない神社として著聞(ちょぶん)している。確かに中世以降、 自余の正殿ならびに伴·佐伯の二殿の匙各一口は同じく庫に納めて輙く開くことを得ず」とある。これにより、 |
「邪馬台国とはどのような国だったのか」
平成18年度 山の辺文化会議総会記念講演 大阪府立弥生文化博物館館長 金関恕 弥生時代の終わりごろ、倭人の国々のなかで覇権を握ったのは、女王卑弥呼を戴く邪馬台国である。この国名は これは265~270年間に完成したと推定されるが、原本が失われ、書に引かれた文書を張鵬が集成した「魏略輯本」 <倭人伝以前> 倭について最も古い記録は周、秦の間(前10~3世紀)につくられ、後人が補筆したとされる神話·地理書の「山海経」 つまり、倭は朝鮮半島所在の穢の南にあることを示している。後漢の思想家であった王充(27~101年)の「論衡」に「周 鬯酒などと呼ばれるカクテルを祖霊に供えた。儀式のたびに多量のウコン草が必要であった。温暖な土地でしか育た 前漢時代には、百余国の倭人の国から年ごと季節ごとに貢物を持って皇帝に拝謁にやってきたことが伝えられている <金印の下賜と倭国の乱> 「漢書」に次いで、中国の史書に倭国が登場するのは「5 7年 倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫(大臣) と称す。 倭人伝は朝鮮半島の狗邪韓国から海を渡り対馬国、壱岐、松浦、糸島、奴国、不弥国、投馬国などを経て邪馬台国 |
『日本書紀』によると、7世紀後半壬申の乱の折、大海人皇子により倭
京将軍に任命された大伴連吹負は「軍を分りて、 各上中下の道當て屯む」唯し吹負のみ親ら中つ道に当たれり。「ここに近江の将犬養逴五十君、中つ道よりいたりて村屋 (田原本町伊与戸)に留りて・・・.」とあり、河内から大和に入る道として竜田道、大坂道、石手道の3つがあり、大和盆地に は南北の道として上中下道があったことがわかる。中つ道はおそらくそれ以前から存在した道であろう。 中ツ道は平城京の東から国道旧24号線に沿い、今の奈良市池田町と郡山美濃庄·井戸野町の境、穂積(前栽)、長屋庄 ら稗田を通って藤原京の西端へと通じる道であった。 平城京、長岡京出土の告知木簡からは、中ツ道は奈良に都がなくなってからも多くの人が往来利用した道であった事が |
藤原京は、わずか16年で廃棄され、和銅3(710)年3月10日、新都平城京に遷都します。 藤原京を捨てる理由は、 平城京との違いを明らかにすることによって理解することができます。相違点をあげますと、 ①平城京では都城形態が南北に長い長方形になる ②宮室(平城宮) が都城北端の中央に設定される ③藤原京になかった羅城門と羅城が造営される 一部を指摘したにすぎませんが、こうした平城京の特徴はいずれも明らかに唐の長安城を指向しています。さらに、 平城京は長安城を長さにして正確に2分の1に縮小した形で90度回転させたもので、面積は4分の1となります。 平城京の羅城門も長安城の正門である明徳門と同じ数と幅をもった通路を備えるという共通点があり、平城京の こうしたことから、平城京は長安城を強く意識して設計されたことがわかりますが、同時に唐に対して恭順の意を 藤原京を放棄し、長安城に倣った新都の建設を決断させたのは、702年に33年ぶりに派遣された第7次遣唐使の 国家の経綸をになう枢要な人物の実際の見聞に基づく判断です。藤原京では国の権威が保てないとの危機感を抱き、 704年に帰国した粟田真人は中納言に昇進し、慶雲4(707)年2月、五位以上の諸王臣に遷都のことを議する詔勅が 出されます。 このように、平城京もまた,藤原京同様に、対外的に天皇の権威を誇示し、国家統一を象徴的に表現するという、国 |
奈良盆地南部の奈良県御所市石張りの堀に囲ほれた5世紀前半(古墳時代中期)の巨大な建物跡が出土した。 農地整備に伴い調査した。敷地面積は約1500平方mで、北と東が谷に面し、南と西の二方に堀(幅約13m、 主要な建物の中心部分の柱は直径約45cmで、太さや並び方などから2階建てと推測される。ひさしを支えた柱 建物や塀などすべての柱跡からは、焼けた土や灰が見つかった。日本書紀では大王(天皇)と姻戚関係にあった 同研究所は「居住場所ではなく、祭祀や政務を執り行った行政管理センター的な施設だった」とみている。 極楽寺ヒビキ遺跡の北東約400mにある南郷安田遺跡では95年、17m四方の建物跡が見つかり、葛城氏の祭祀
葛城氏 朝鮮半島に出兵した将軍襲津彦(そつひこ) (4世紀末から5世紀前半ごろ) が始祖。当時の日本は、讃、珍、済、興、武の「倭の五王」が中国に盛んに使者を 日本書紀によると、襲津彦の娘磐之媛が仁徳天皇の皇后になって履中(りちゅら) 、 基盤を固めていったが、五王のうち「武」とされる雄略天皇が登場すると、天皇の政敵と
葛城氏は、葛城襲津彦(そつひこを)始祖とし、「古事記」には孝元天皇の曾孫武内宿禰
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『古事記』中巻と『日本書紀』巻第六に、次のような物語が記されています。垂仁天皇
が田道間守に命じて常世国に遣わし、 「時じくの香(かく)の木の実」を捜し求めさせました。木の実を採って帰国しましたが、天皇はすでに亡くなっていました。田道間守 は陵にそれを捧げ、悲しみのあまり絶叫して自死したというのです。『古事記』は「時じくの香の木の実は、是れ今の橘なり」と説明 しています。断定はしがたいのですが、このタチバナは現在のヤマトタチバナとする説があります。ヤマトタチバナは高くても3mほど の木に直径約3cmの黄色い果実をつけます。果実は酸味が強く香り高いのが特徴です。 海南市の橘本神社(きつもと)は田道間守がタチバナを植えたとする伝説があり、現在は菓子の神様になっています。 天平8(736)年11月17日、葛城王は臣籍降下して母方の橘宿禰を名告,橘宿禰諸兄となりました。 聖武天皇は寿ぎの歌を詠みました. 橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝(え)に霜降れど いや常葉の木 (巻6-1009) また、大伴家持の「橘の歌一首并せて短歌」には、万葉人のタチバナに寄せる思いがよく表現されていほす。 かけまくも あやに恐(かしこ)し 天皇(すめろき)の 神の大御代に 田道間守 常世に渡り 八桙持ち 参ゐ出来し時 時じくの 香の木の実を恐くも 残したまへれ 国も狭(せ)に 生ひ立ち栄え 春されば 孫枝(ひこえ)萌いつつ ほどとぎす 鳴く五月に は 初花を 枝に手(た)折りて 娘子(をとめ)らに つとにも遣(や)りみ 白たへの 袖に扱(こき)き入れ かぐはしみ 置きて枯らしみ 落(あ)ゆる実は 玉に貫きつつ, 手に巻きて 見れども飽かず 秋付けば しぐれの雨降り あしひきの 山の木末(こぬれ)は 紅に にほひ散れども 橘の 成れるその実は ひた照りに いや見が欲しく み雪降る 冬に至れば 霜置けども その葉も枯れず 常磐(ときは)なす いや盛映(さかえ)えに 然れこそ 神の御代より 宜(よろ)しなヘ この橘を 時じくの 香の木の実 と 名付けけらしも (巻18-4111)
反歌一首 橘は 花にも実にも 見つれども いや時じくに なほし見が欲し (巻18-4112) まさに「時じくの香の木の実」、時を定めない霊妙な木の実なのです
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「ヨーイヨーイパャーナ イーケノ ハータノ クイチロガ セートーキッテ ハーニャーター」
但馬国一の宮、出石神社(兵庫県豊岡市出石町)で5月5日に行われる神事「幟(のぼり)まわし」で、古代衣装 「全体の意味は不明ですが、『セートーキッテ、ハーニャータ-』は、御祭神の天日槍(あめのひぼこ)が瀬戸を 同神社の長尾家典宮司はそう話す。主祭神のヒポコは、11代垂仁天皇の時代に朝鮮半島の新羅国から来た と記紀に記される渡来人。 社伝によると、円山川河口の岩山(瀬戸の切戸)を切り開いて濁流を日本海に流し、肥沃な但馬平野を現出さ 幟まわしは、開削に成功したヒポコが意気揚々と出石へ戻る様子を再現したものだという。幟には戦国武将 「汝(いまし)は誰人ぞ。旦何(またいづこ)の国の人ぞ」 「僕(やっこ)は新羅国主(ここきし)の子なり」 日本書紀は、垂仁天皇の使者が、播磨国に渡来したヒポコに素性を尋ねる場面をそう記す。ヒポコは自分は 赤石珠(あかしのたま)、小刀、槍(ほこ)、日鏡など8種の神宝を献上し、帰属を申し出る。天皇は、播磨国か <但馬国に到り、則ち住処を定む> 日本書紀がそう書く定住地が、出石神社の周辺だ。出石は海から約15キロ離れた内陸地だが、豊岡市立 「古代の但馬平野には入り海が存在し、出石のすぐ手前まで入り込んでいた」 ヒポコは海の近くに住居を構えたのである。 <天之日矛持ち帰り来つる物は、玉津宝と云ひて、珠二貫、また浪振る比礼.浪切る比礼,風振る比 礼風切る比礼、また奥津鏡.辺津鏡,併せて八種なり> 古事記も、ヒポコの神宝を列挙する。日本書紀の神宝とかなり異なるが、石原氏はそこにヒポコの特性を見 「比礼は古代のスカーフで、呪具でもあった。それをうち振ることで波風を操るのです。奥津と辺津は海 の沖と陸ですから、鏡は海神の神威を招く呪具でしょう。海を自在に操る能力を神宝は象徴しています」 平成15出石神社の北600mの袴狭遺跡(はかぜ)から出土した4世紀の木製品に、16隻の船が線刻されて 「ひときわ大きな船を小さな準構造船が取り囲む配置で描かれ、当時の船団構成を知る国内随一の資料と いえる。ヒポコの伝承地が外洋に開かれていたことを推測させます」 ヒポコの登場は、渡来人が活躍する古代日本の幕開けを示している。 逃げた妻を追ったヒポコ 古事記は15代応神天皇の段で、新羅国の沼のほとりで昼寝をしていた女が日の光で赤い玉を身ごもった伝 妻はヒポコに尽くすが、思い上がったヒポコに罵られ、「祖先の国に行く」と海を渡る。逃げた妻を追ったのが 妻は難波にとどまるが、ヒポコは難波の渡の神に遮られて但馬国に至る。古事記は、妻は比売碁曽社に
<天日槍、菟道河よりさかのぼり、北近江国の吾名邑に入りて、暫く住む。復更(また)近江より若狭国を 日本書紀は、垂仁天皇から諸国を巡ることを許されたヒポコが、但馬国に定住するまでの経路をそう記す。 近江国の「吾名邑」は坂田郡阿那郷(現滋賀県米原市)、同県竜王町の苗村神社付近、同県草津市穴村町 <天日槍の旅人党類の人々が命の故国に因縁の深い名称を残したのであろう> <近江国の鏡村の谷の陶人(すえびと)は、則ち天日槍の従人なり> 経路の記述に続けて日本書紀はこう書く。 「前後の文脈に関係のない一文の印象だが、垂仁紀には他にも祖先伝承が挿入されることもあり、その一 例です」 京都市芸術大の畑中英二准教授はそう話す。鏡村は現在の竜王町の鏡山周辺を指す。麓の鏡神社(同町 この地方には、6世紀から8世紀に操業された須恵器の古窯址群(こようし)が数多く残る。一方、その2キロ 「鏡山で作られた須恵器は、古代の西河原に集められ、琵琶湖の水運で各地に拡散していったのだろう。 日本書紀に近江の国の話が挿入されている意味は、東アジア外交に揺れた当時、新羅にルーツを持つヒポコ の存在を軽視できなかったからではないか」 ヒボコは、定住地の但馬などにも製鉄技術をもたらした出石神社(兵庫県豊岡市)の長尾家典宮司は社伝を 「ヒボコは、但馬と丹波の国境の鉄鈷山(かなとこやま)で砂鉄を取り、麓の集落で工具を鍛造したと 言い伝 しかし、日本で製鉄が始まるのは6世紀以降とされ、それまでは鉄器の素材を朝鮮半島から輸入して加工し 「新しい製鉄技術を持った人物が実際に但馬にいたのかもしれない。ヒポコの神話には、まだまだ歴史的 な何かがありそうです」 兵庫県立考古博物館の石野博信元館長はそう話す。渡来人から神になったヒポコは謎にも満ちている。 鏡神社 ご祭神は天日槍命。本殿は室町中期に建立され、国の重要文化財に指定されている。 神社周辺には、古墳時代後期から飛鳥奈良時代にかけて焼かれた須恵器の窯跡が 現在、鏡地区は、源義経元服の地として情報発信をしている。鏡神社の参道にも、 天日槍が渡来神として、在地の神と土地の争奪戦を繰り広げる「国占め」神話を伝えるのが播磨国風土記 「汝(なむち)は国主為り。吾が宿る所を得まく欲りす」 風土記は播磨国(現兵庫県)の揖保川の河口に現れたヒポコが、在地の神の葦原の志許乎(しこを)に宿営 上陸を拒まれたヒポコは、剣で海水をぐるぐるとかき回し、そこに居座ったと続く。 「海をかき回したのは自らの勢いを誇示したということ。伝承はヒポコを祭る但馬勢力が播磨に進出し在地 神戸大の古市晃准教授はそう解説する。 「6世紀になると大和王権による支配秩序が確立しますが、それ以前は地方の支配は不安定で、争いがあり <主の神、すなはち客神の盛りなる行を畏みて、先に国を占めむと欲ひ 巡り上りて粒丘に到りて、 風土記は、ヒポコを脅威に感じたシコヲが先に国の支配を固めるため北上し、(兵庫県たつの市)で食事をした 「高い場所でご飯を食べるのは見渡す範囲をテリトリーとして支配権を確認したことを表しています」 たつの市教委歴史文化財譟の岸本道昭課長は、そう説明する。 <この谷を相奪ひたまひき。故(か)れ、奪谷ち日う> 風土記は、「奪谷」「粳岡」「八チ軍野」など多くの地名由来を通して、ヒポコと、伊和大神とも呼ばれるシコヲ <各、黒葛三条(くろづらみかた)を以ちて、み足に着けて投げたまひき> 風土記は、ヒポコとシコヲの争いは御方(同県宍粟市)の山上から、3つずつ黒葛の輪を足で蹴上げたことで 古市准教授は「播磨で地元勢力が勢威を示し,但馬勢力を撃退したことを意味します」と指摘する。宍粟市教 実際には武力行使の結果でしょうが、支配の正当性を示すには神の意思で国境が定まったという伝承が必 いいぼおか 粒丘 の場所 粒丘の比定地については諸説ある。明治以降、兵庫県たつの市揖保町の中臣印達神社のある 山頂近くには米粒にまつわる縁起を持つ粒坐天照神社(同市龍野町) の奥宮があり、泉がある 天日槍(あめのひぼこ)の子孫で、後に菓子の神や「菓祖」として信仰されるようになったのが田道間守だ。 日本書紀ではヒボコの孫の孫、つまり玄孫とされ、11代垂天皇の条にこう記されている。 <九十年の春二月の庚子の朔に、天皇、田道間守に命せて常世国に遣し、非時香菓(ときじくのかくのみ) 垂仁天皇の90年2月1日、天皇はタヂマモリを常世国に派遣し、今は橘という果実を探させた。タヂマモリ 「万里に浪を蹈み、遥に弱水 (崑崙山の下にあるという川)を度る。是の常世国は、則ち神仙の秘区にして、 とても俗人が行けるところではなかったというのである。 <非時香菓、八竿八縵やほこやかげ)なり> 日本書紀は、タヂマモリが持ち帰った「非時香菓」についてそう書く。串に刺したものが8本、葉が付いたも しかし,タヂマモリの労苦は報われなかった。帰国の前年に天皇は崩御していたからである。 「今し天皇既に崩(かむあが)りまし,復命かへりことまを)すこと得ず。,臣生(やっこ)けりと雖(いふと)も、 そう嘆くと、タヂマモリは天皇の陵に行って自殺し左タヂマモリが死に場所としたのは菅原伏見陵。 タヂマモリは、兵庫県豊岡市の中嶋神社に祭られている 33代推古天皇の時代創建と伝わり、平安時代の 延喜式神名帳にも記載されている古社だ。 「但馬や丹後半島にはタヂマモリ伝説が多く残っていますが、大陸や朝鮮半島とのつながりを示すもので しょう」 古代丹波歴史研究所(滋賀県近江八幡市)の伴とし子所長はそう話す。 <非時香菓(橘)は当時としては菓子の最も優れたものとして珍重され、やがて菓子の神様、菓祖神として お祭りするようになった> 中嶋神社の由緒にはそう書かれている。京都市左京区の吉田神社境内にある菓祖神社は、タヂマモリと 父の嘉一郎氏が創建に尽力した、嘉楽本舗「たにぐち」(京都市上京区)の谷囗容造会長の自宅には「菓 祖神田道間守公と書かれた木箱が残る。中は素焼きに彩色が施され、手に橘の枝を持つタヂマモリの人 形。大正12年に設立された大手菓子メーカー販売会社が特約店などに配ったもので、説明書にはこう書か 〈我菓子会の祖神として(略)祭祀の神霊として茲(ここ)に業祖の尊像を頒(わか)つ次第なり> 菓祖への篤い信仰がうかがえる。 タヂマモリ信仰 古事記、日本書紀ともにタヂマモリはアメノヒボコの玄孫とする。その名から、但馬国(現兵庫県)の国守 タヂマモリを祭神とする中嶋神社では毎年4月、「菓子祭」が開かれる。 佐賀県伊万里市の伊萬里神社内にも中嶋神社があり、タヂマモリが橘の木を植えたとの伝承が残る。
非時香菓(いつも香り輝く果実) 」を探せとの11代垂仁天皇の命を帯び常世国に遣わされた田道間守。 ついでのような形で簡略に記すのみだ。 <是三宅連が始祖なり> 「実は、ここが記録としては最も重要なのです」 神戸大の古市晃准教授はそう話す。諸氏の系譜を記す平安時代の新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)に よると、兵庫県北部の但馬に定着した渡来人、天日槍の子孫が三宅連である。 「三宅連が自らの祖先の働きを誇らしく語っているようでしょう。つまりタヂマモリ伝承とは三宅連に伝わっ 大和政権が、進んだ知識と技術を持つ渡来人、ヒポコの子孫を優遇していたという指摘である。 <今し橘と謂ふは是なり> 日本書紀は、タヂマモリ.が持ち帰った非時香菓が、今では皆が知るあの橘だと記す。万葉集には橘を 〈常世物 この橘の いや照りに わご大君は 今も見るごと> タヂマモリの伝承を踏まえた大伴家持の歌は、照り輝く果実を天皇にたとえて言祝(ことほ)いでいる。 平安時代の延喜式には各地で栽培された果実が宮廷に奉納された記録がある。香りのいい果汁を酒に 搾って飲むため、酒席にも添えられていたという。 「橘は常世国から来たとの考えと、体によく、長寿の効用があるとの認識が古代人にあったのではないでし ようか。そんな思いは、正月の鏡餅に同じ柑橘類のダイダイを載せる慣習として今も受け継がれています」 奈良県立図書情報館の千田稔館長はそう話す。 和歌山県海南市下津町橘本(きつ)の橘本神社。かつて都の貴人らも歩いた熊野街道に面した同神社は、 「橘を絶やしてはいけないと考えた周囲の人たちが、温暖で生育に適したこの地を選んだのだと思います」 前山和範宮司はそう言う。江戸時代、紀伊国屋左衛門が江戸に向けて、嵐の中をミカンを積んで船出した 平安末期,後白河法皇が熊野御幸の途中にここで詠んだと伝わる歌がある。 <橘の本に 一夜の旅寝して 入佐の山の 月を見るかな> タヂマモリがもたらした柑橘類はその後の日本で、豊かな実りとして息づいている。 橘は一般には、ミカンやダイダイ、キンカンなどの総称として使われる。 日本書紀が書く橘は、ヤマトタチパナと考えられ、白い花が咲き、酸味が強い直径2~3cmの果実をつける。 農業·食品産業技術総合研究機構の清水徳朗上級研究員は「果物の種類が少ない時代、その香りのよさも |
飛鳥時代の有力豪族の墓とみられる橿原市の菖蒲池古墳(国史跡、7世紀中ごろ)について、墳丘の外側
の「外堤」を含めると、東西67 ~ 90mの大規模な方墳だった可能性のあることが分かった。市教委がこの 報告書によれば、菖蒲池古墳は640年代~660年代に築造され、堀が埋め立てられたのは藤原京に遷 都された時代(694~710年)とされる。 墳丘の構造は1辺約30m高さ約7. 5mの2段重ねの方墳。墳丘の北·東·西にそれぞれ堀をつくり、堀は北 堀を挟んで高さ3 . 3m以上の土を盛った「外堤」も築かれ、東西に外堤が対照的に存在したとすれば、 東西約90 m、南北約82mの墓域を誇った。墳丘と外堤の築造技術には土を何層にも突き固める「版築 調査した歴史に憩う橿原博物館学芸員の松井一晃一さんは、堀を埋めた土中から出土した「榛原石」を 菖蒲池古墳の一帯は有力豪族、蘇我氏の本拠地とされる。石室内に石棺2基が置かれ、専門家の間で 松井さんは「菖蒲池古墳は飛鳥の中枢部につながるルートの入り口に立地し、非常に立派な古墳だった 一方、隣接する小山田遺跡からも荷札木簡が見つかり、同じ藤原京の時代には公的施設があった可能性 報告書は非売品。県内の公立図書館や歴史に憩ろ橿原市博物館(橿原市川西町)で閲覧できる。 |
飛鳥は古墳の宝庫です。お寺や宮殿遺跡、謎に満ちた石像物に目を奪われがちですが、観光スポットの石舞台古墳(明日香村)、 壁画古墳で有名な高松塚古墳やキトラ古墳、斉明天皇陵であることが有力視される牽牛子塚古墳など枚挙にいとまがありません。 鬼が通行人を捕らえて「俎」で調理し、「雪隠」で用を足したとの伝承が残る鬼俎·雪隠も、もとは二つが組み合わさって古墳の石室 をなしていたものです。 飛鳥の古墳には、様々な形があります。五条野丸山古墳(橿原市)や平田梅山古墳(明日香村、現・欽 明天皇陵)は、3世紀から続く 研究者の多くは、飛鳥時代の古墳を「終末期古墳」と呼びます。その名称は、1972年の高松塚古墳の壁画発見をきっかけに広まり 古墳が小規模になる背景に「薄葬化」という現象がありぼす。飛鳥時代後半には墳丘や埋葬施設、副葬品の内容が簡素になります。 飛鳥の諸宮殿や藤原京を見下ろす南側の丘陵部に、集中的に築かれる点も飛鳥の古墳の特徴です。都の郊外に天皇皇族クラス 大小さまざまな谷が入り組む京郊外の丘陵部は、谷の奥まった場所を好んで古墳をつくる、中国伝統の風水思想にもマッチしてい 飛鳥の古墳の最大の魅力は、「日本書紀」に名を残した人物を被葬者に思い浮かべることができる点です。日本の古墳で墓誌が残
の形や大きさ、埋葬施設の構造、棺の形態、副葬品の内容などが、それまでとは大きく変化します。古墳の形で は前方後円墳が消滅し、方墳や円墳が主流となります。3世紀後半から300年以上の歴史をもった「前方後円」形 からの転換は一大画期でした。 古墳の大きさは、6世紀後半に築かれた橿原市の五条野丸山古墳が、奈良県下最大の前方後円墳で墳長が 7世紀になると、「横口式石槨(よこぐち)」と呼ばれる埋葬施設が新たに登場します。6世紀に主体的だった横穴 横口式石槨は、7世紀後半には畿内の古墳の埋葬施設の主流となり、皇族や貴族の古墳に採用されほす。 が登場します。それまでは巨石を用いた家形石棺などの大きく、重い棺でした。新たな棺の採用で遺体を棺に納 終末期古墳の薄葬化に関連した文献史料には、「日本書紀」大化2(646)年3月条の喪葬について規定した詔が あります。身分によって墳丘の大きさや葬送方法などを定め、「大化薄葬令」として知られます。成立時期や実効 薄葬化の背景には埋葬に膨大なエネルギーを費やす古い葬送観からの脱却という側面があります。7世紀の 大化薄葬令の冒頭には「西国(もろこし)の君主」の一言葉として「魏志」の文章が引用されています。従来の埋葬 近鉄飛鳥駅の北西にある岩屋山古墳(明日香村)を訪ねると、石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん・通称·飛鳥石) が平らで、なめらかに加工されています。こうした人工的に加工された石材を「切石(きりいし)」と呼んでいます。 一方、高松塚古墳(同)やキトラ古墳(同)の横口式石槨(よこぐちしきせっかく)は、二上山で産出する凝灰岩(ぎょ 二上山の凝灰岩の切石は野口王墓古墳(明日香村、天武・持統天皇陵)や牽牛子塚古墳(同)からも出土してい ます。凝灰岩の切石をタイルのように大量に使い、古墳の表面を飾り立てていたようです。二上山の凝灰岩は飛 飛鳥の古墳には、「版築」と呼ばれる中国大陸から伝わった土木工法も使われました。版築とは一層ごとに杵の ような棒で突き固めながら土を積み上げていく方法で、コンクリートのような硬い土質を得ることができます。 高松塚古墳の石槨の周りからは、測量用の杭の跡も見っかりました。杭は床石が設置された段階で床石を取り しかし、飛鳥の古墳にみる構築技術は古墳特有のものではありません。飛鳥石や凝灰岩の切石は、礎石や基 飛鳥時代は新しい文化の流入とそれを支える技術や手工業が花開いた時代でした。古墳にも海を渡ってきた最 墓誌がない場合でも、発掘調査で得られる考古学的情報が役に立つことがあります。埋葬施設の構造や副葬品、 「日本書紀」や「続日本紀」には、皇族や有力氏族について、墓の位置や埋葬の様子が記され、重要な手掛かり 藤原京の南方には、7世紀の皇族や貴族が眠る古墳が集中して築かれます。その中心が、明日香村野口にある 製の骨蔵器が置かれていたことなどが分かります。その様子が「日本書紀」や「続日本紀」の内容と合致し、天武・ 持統の両天皇の合葬陵であることが確実視されています。 近年の発掘調査でも、古墳の被葬者に迫る新たな発見がありました。明日香村越にある牽牛子塚古墳の調査 野口王墓古墳の近くにある中尾山古墳は、慶雲4( 707)年、飛鳥岡で火葬に付された文武天皇の墓と考えられ、 する説が有力です。 橿原市 野町の植山古墳は、推古天皇36 (628)年に亡くなった推古天皇が最初に葬られた、竹田皇子との合葬 墓である可能性が高いと考えられます。明日香村島庄の石舞台古墳は、「嶋大臣」と呼ばれ、推古天皇34 (626)年 に亡くなった蘇我馬子の「桃原墓」とされていほす。 このように、多くの古墳で文献史料をもとに被葬者の推定が可能となるのは、「日本書紀」に描かれた当時の都 飛鳥だからこそで、これほど集中して存在する地域は他にありません。これからも飛鳥の終末期古墳の調査は続 |
佐紀御陵山古墳の西側に並ぶのが、佐紀石塚山古墳です。よく見ると佐紀石塚山古墳の周濠は東側がとても狭く なっています。すでに築かれていた佐紀御陵山古墳の周濠のために十分なスペースがとれなかったためと考えられま す。先人に「遠慮」したのでしょうか。 佐紀石塚山古墳は、第13代の成務天皇の「狭城盾列池後陵」として管理される天皇陵古墳です。墳長218m、佐紀 御陵山古墳に続く古墳時代前期末葉(4世紀中ごろから後半)に造られました。宮内庁書陵部の1995年の発掘調査で、 山辺·磯城地域でも真ん中の円丘から2方向に方丘が延びる双方中円墳として有名な櫛山古墳に、早い時期とみら れる柵形埴輪の出土例があります。柵形埴輪とはその名の通り、ある範囲を区画して、周囲から遮蔽する施設をかた どった形象埴輪です。現代風にいえばパーティションの埴輪が、新たに登場しました。 古墳時代後期前葉(6世紀前半)の大阪府高槻市の今城塚古墳の内堤上では、さまざまな形象埴輪が立てられ、重 要儀礼をいくつかの場面に分けて表現しています。ここでも、場面を区切る役目の埴輪がありました。横断面は隅丸 長方形で、複数につないだ埴輪です。調査者はとくに塀形埴輪と名付けました。さらに、全体を「埴輪祭祀場」と呼び、 どのような儀礼を表現したものか。多くの解釈があり、定ぼってはいませんが、遮蔽施設をかたどる形象埴輪の存 在は、実際にあった王権のさまざまな儀礼場面を埴輪に置き換えて、古墳で表現するようになったことを暗示してい るのではないでしょうか。その早い例が佐紀石塚山古墳で見つかりました。 重要なことは、ほかにもあります。佐紀石塚山古墳と佐齧陵山古墳の間の散策路を北へ向かって歩くと、佐紀石塚 佐紀石塚山古墳の陪塚とみでいいでしょう。つまり、お供となる小規模な古墳が存在しています。これらは調査され 塚は古墳時代中期を特徴づける事柄です。その初期の例として注目できます。 なお成務天皇ですが、「古事記」「日本書紀」に在位中に行った業績の具体的記述が乏しいことや、死後に贈られ た美称である和風諡号のワカタラシヒコが、飛鳥時代の舒明大王(天皇)のオキナガタラシヒヒロヌカ、皇極大王(天皇) 「タンス長持ち、どの子がほしい」などと歌われる「花いちもんめ」の歌詞に出てくる「長持ち」ですが、もはや使われ はじめ、古墳時代前期の大型前方後円墳の棺には、木棺が使われていました。たとえは、桜井市の桜井茶臼山古墳 では直径1m以上に復元できるコウヤマキの大木をくりぬいた木棺が竪穴式石槨のなかに据えられていました。 九州や山陰などの墓では弥生時代から石棺が使われていますが、古墳時代前期後葉(4世紀中ごろ)になって大阪 木棺でも、石棺でも、製作に大きな労力を割くことになりますが、ここに出現した石棺は遠くからわざわざ運んできた 佐紀石塚山古墳の被葬者の棺は長持形石棺です。なぜ、そんなことがわかるのか。以前の回にも出た盗掘の話 し、勾玉50個を取り出します。続いて嘉永元(1848)年9月にも朱(赤色顔料) 4.5kg、管玉数十個を取り出したと、捕ま 石棺のかたちは「覆ハ亀之形ニ相成」(「帝陵発掘一件」)と記録されています。屋根形でもなく、箱形でもない、亀の 山陵絵図では、しばしば6枚分の石材が後円部頂上に描かれています。江戸時代後期の文化年間作製の絵図にも 石材は最長のもので1.8m賀嘉永元年に盗掘された石棺とは別物だと考えられます。 それに六つに分かれているという情報も重要です。なぜなら、長持形石棺は一つの石の内部をくりぬいて棺身とす る石棺ではなく、底石、左右の長側石、合板とも呼ばれる前後の短側有蓋石の六つの部分からなる組合式の石棺だ 長持形石棺の多くは兵庫県の加古川流域で採取される「竜山石」と呼ばれる凝灰岩製です。佐紀石塚山古墳の長 持形石棺は、その先駆けとなる事例でしょう。 古墳時代中期(4世紀末から5世紀)の巨大前方後円墳によく採用されたことから「大王の棺」と形容されることもあ 前期古墳から中期古墳への移行期にも造営がつづく佐紀古墳群の歴史性を、よく示す資料だと思います。 |
ヒシャゲないしはヒシヤゲという名で呼ばれる前方後円墳があります。奈良市佐紀町にあり、コナベ古墳とウワナベ古墳 江戸時代中期の幕府による元禄の陵墓修築では、平城天皇の「楊梅陵(やまもも)」とされました。その後、1875 (明治 8)年に仁徳天皇の皇后で「日本書紀」仁徳三十七年条に「乃羅山(ならやま)」に葬られたと記された磐之媛命の「平城坂 ヒシャゲとは、なんとも不思議な名です。日本の古墳の名付けはさまざまで、江戸時代やそれ以前から、その土地の人々 大きさから大塚と称す場合、具体的形状から瓢箪山、茶臼塚、行燈山とする場合。狐や猫のねぐらとなっていたのか狐塚、 ヒシャゲは、池となった古墳の周濠から菱の実が採れることを「ひし」の「あがり」と表現して「ひしあげ」と呼び、それが転じ ですが、おそらくは前方後円の形状を柄杓(ひしゃく)と見立てたことに発する呼び名ではないかと今では思っています。 史資料としても大切です。 ヒシャゲ古墳は、北から延びる丘陵を利用して南向きに墳丘を築いています。墳長219m、後円部直径125mに対して もないます。 周濠は二重です。水が入っていますので、二重の盾形周濠の様子がよくわかります。前方部中央付近南側で内濠幅30m、 市庭古墳、コナベ古墳、ウワナベ古墳は外堤を画する溝という意味で外周溝とも呼ばれますが、ヒシャゲ古墳の二重目 文化5 (1808)年完成した文化山陵絵図の「廟陵記」には、前方部側が二重周濠に描かれ、「池廻リ土砂為シ壺伏セ」と添 学研究所が調査し、円筒埴輪が列をなして見つかりました。外濠を横断する渡土堤の存在も確認されました。 調査地は、県の風致保全整備事業の公園となり、一部は遺構復元がなされ、複製の円筒埴輪が立っています。静かな住 奈良盆地北部では、奈良市の菅原東遺跡埴輪窯が知られていますが、操業の中心は古墳時代後期(6世紀代)です。 ヒシャゲ古墳の円筒埴輪は、大阪府の古市古墳群る墳長230げの大型前方後円墳、市野山古墳(現·允恭天皇陵、 大きさは底部の口縁部の直径が約38cmが標準で、バケツのようにまっすぐ上に開きます。途中に段となる粘土の 埴輪を形づくる最終段階に、外側の表面を、薄板の木口部分を使って横方向に埴輪から離さず、整えていく ヒシャゲ古墳と市野山古墳は、ほぼ同じ頃に築かれほした。その後、古市古墳群では、墳長242mの大阪府藤井寺市 範囲を広げると、市野山古墳が造られた時期に淀川北岸の三島地域では、墳長226mの大阪府茨木市の太田茶臼 山古墳(現·継体天皇陵)が築かれます。直後に続く大型前方後円墳はありませんが、6世紀前半に北東へ約1キロ離 れて、真のオホド王(継体大王)墓とされる大阪府高槻市の今城塚古墳が出現しぼす。 改めて、ヒシャゲ古墳が築かれた前後をみると、大山墳の墳丘規模が断トツであることがわかります。それに次ぐの つまり、これは政権内ナパー2が複数、存在したことを表していると考えられませんか。それぞれ職務を分担て政権運 古墳時代前期と異なり、百舌鳥·古市古墳群の巨大前方後円墳の被葬者が際立つ権力を掌中に収めていたのでしょ う。
当時は、443年に中国朝の宋に使いを出し、安東将軍倭国王に任命された「済・せい」、462年の安東将軍倭国王の 「興・こう」といった「倭の五王」の時代の後半にあたりぼす。ヒシャゲ古墳の被葬者は、こうした大王を助け、市野山古 太田茶臼山古墳の被葬と共に古墳時代中期のヤマ政権を中枢で支えた人物のひとりではなかったかと私は推定してい |
青山四方にめぐれる奈良盆地の山々のなかでも、北側の丘陵はなだらかです。標高100m前後で、東側を佐保丘 陵、西側を佐紀丘陵、総じて平城山丘陵(ならやま・表記は那羅山など多数)と呼ばれてきました。 佐紀丘陵の南側上空から手前が平城宮、北へのびるのが歌姫越え、東端の前方後円墳の東側をぬけるのが そこに山から切りだされた木材が到着します。出土の木簡からわかることですが、奈良時代にはこの泉津でおろさ れた荷が都へ運ばれていきました。数年前、ウワナベ越えを歩きました。高低差が少ない平らな道でした。 古代にも、これらのルートを使って奈良盆地に物資がもたらされたことでしょう。木津川を東にさかのぼると名張盆 淀川を経て大阪湾、そして瀬戸内海です。 このように佐紀古墳群が営まれた奈良盆地北部は、多方面に開かれた地理的条件にありぼす。情報と物資の集散地 というわけです。この点が奈良盆地東南部の山辺·磯城地域とは異なり、4世紀中ごろから5世紀後半までの約150年間 佐紀古墳群には、墳長200mを超える大型前方後円墳が8基も存在します。 佐紀御陵山古墳(現·日葉酢媛命陵) 佐紀石塚山古墳(現成務天皇陵)五社神古墳(現·神功皇后陵)、宝来山古墳(現·垂仁天皇陵)、コナベ古墳(陵墓参考地)、 それ以外に中型前方後円墳として佐紀高塚古墳(現·称徳天皇陵)、大和15号墳や陪塚となる円墳、兵庫山古墳とい 「古事記」「日本書紀」に登場する「皇后たち」の奥津城(墓の意味)が含ほれています。伝説上の人物の陵墓もあります。 伝説の魅力に引き込まれて先入観をもって接することには注意が必要ですが、だかと一言って、最初から史実のか けらもないと断定すること禁物です。被葬者の名前が記された墓誌などがない中、当時の動向をどうやって知るか。 百舌鳥·古市古墳群(大阪府)にある墳長300m以上の超大型前方後円墳に準じる規模の古墳が、佐紀古墳群では 5世紀代の倭国が中国王朝に官位を求めて使者を送った、いわゆる「倭の五王」の時代にも、佐紀古墳群の被葬者 でも、人が住んでいなければ話になりほせん。3世紀の奈良盆地東南部では、纏向遺跡が発展を重ね、箸墓古墳が 出現します。次いで、西殿塚古墳、寺川支流左岸に桜井茶臼山古墳がほぼ同時期に築かれます。さらに行燈山古墳、 寺川左岸にメスリ山古墳、そして渋谷向山古墳と山辺·磯城の古墳群は続きます。 纏向遺跡以外の集落も現われます。天理市の乙木·佐保遺跡,成願寺遺跡、柳本遺跡、桜井市の城島遺跡、脇本遺跡 佐紀古墳群を造る基盤となった集落はあるのでしょうか。その前に、考えなければならないことがあります。 「大王」の古墳が山辺·磯城から佐紀に移るという考え方です。 山辺·磯城の大型前方後円墳は渋谷向山古墳が最後で、後続が佐紀古墳群の五社神古墳という編年観です。また、 「古事記」「日本書紀」が記す歴代天皇·皇后の陵墓は、佐紀に移っていきます。 しかし、政権中枢がどこにあったかについては考えが分かれます。そのまま纏向遺跡の周辺にあり、「大王」の古墳 ただ、近年の調査成果と編年研究から、佐紀古墳群で最も古いとみられていた五社神古墳の築造時期が新しくなる 集落についても考えてみましょう。平城宮と重複する佐紀池遺跡(奈良市佐紀町)の在在は古くから知られていほしたが、 一辺約50mの方形区画や南側外郭に相当する溝、それより古い長さ120m以上の直線の溝などが見つかりました。 佐紀古墳群を築いた勢力の基盤となる集落の存在は、「大王」の古墳だけが移ったという考え方に再考を促すものと 私は、こうした古墳時代前期の政権における諸勢力の存在を認め、これを「諸王の割拠」と表現しています。 |
佐紀古墳群で最初に築かれたとみられる大型前方後円墳は、佐紀御陵山古墳です。古墳時代前期後葉(4世紀中ごろ) のことだと考えています。佐紀丘陵西側の奈良市山陵町にあります。 墳長は207mとされていますが、後世の改変などのため墳長の確定した数値を示すのは難しいです。やや短めの前方部 近鉄大和西大寺駅から東に秋篠川を越えて、奈良市佐紀町から続く家並みが途切れた丘陵先端にあります。宮内庁は、 平安時代の陵墓リストが載る「延喜式」にはなく、「古事記」のみに陵名があります。明治政府による陵墓決定の年月を示 こうした事情とも関係することだと思いますが、明治8年の決定前は、神功皇后陵として信仰をあつめていました。 今でも付近には白い小石が落ちているそうです。持ち帰れば子供が安らかに生まれるという安産祈願の「護符」になった 江戸時代には地域信仰や里山としても利用されていた天皇陵古墳ですが、近代には国家によって厳重に管理されること 図面を見ると、後円部頂上では一辺約16mの方形壇が築かれ、最大級となる竪穴式石槨が墳丘の主軸に平行する南北 「屋根形石」と称された石材もありました。長さ2 . 6m、幅1m、高さ45cm。棺だとすると、石槨の間尺に合いません。 今のところ謎ですが、形状は刳抜式(くりぬきしき)の舟形石棺の蓋石のようです。私は阿蘇山の溶岩(阿蘇ピンク石)を 墳丘の全長が190mを超す大型前方後円墳は、奈良県と大阪府で36基あります。207mの佐紀御陵山古墳は25位前後 今回は「前方後円墳」というについて考えます。 前方後円墳は「Keyhole-shaped tomb」と英訳されることが多いです。「鍵穴」の形をした墓という意味です。ただ、 形の起源は何か。多くの仮説があります。丘陵の尾根先端を切断した形という説や、埋葬施設がある墳丘への墓道 (通路)が大きくなったという説,埋葬された円丘を祭る場所として方丘をつけたという説などです。 中国皇帝が天を祭った施設である天壇(円丘)と、大地の神を祭った施設である地壇(方位)を、倭の使者が現地で見て、 「前方後円」という言葉は、江戸時代後期の尊王論者、蒲生君平の説がもとになっています。思想家の林子平、 宮車とは身分が高い人が屋形に乗り、牛馬がひいた車のことです。蒲生は屋形を円丘、車を牛馬とつなぐ2本の棒の 蒲生の説は宮車模倣説と言われています。ただ、古墳時代に牛馬が牽引する宮車が一般的に使われていたとは考え られぼせん。宮車模倣説は認められないまま、前方と後円という言葉だけが定着しほした。 鍵穴の形をイメージさせる前方後円墳ですが、きれいな鍵穴形ではありません。周濠を横切って外堤と墳丘をつなぐ ほかにも前方後円墳に付く施設があります。馬見古墳群の巣山古墳(広陵町、4世紀末から5世紀初め)では、前方部西 佐紀御陵山古墳(4世紀中ごろ)では、くびれ部西側の周濠に突き出すように、東西8m、南北4mの四角い部分がありま 最古の前方後円墳とされる箸墓古墳(桜井市、3世紀中ごろS後半)にも後円部の周濠に墳丘と外をつなぐ土堤がありま 鍵穴形の意味などは数多くの解釈が発表されていますが、有年原田中1号墓の事例を見ると、前方後円墳の形の起源 馬形の埴輪は、たてがみが表され、耳はまっすぐに立ち、目元はキリッと開いています。人を表した埴輪には、ふんどしを 博物館では多くの人をさまざまな埴輪が楽しませてくれます。これらは、円筒埴輪に対して、形象埴輪と呼ばれます。 佐紀御陵山古墳にも形象埴輪があります。以前の回で記した盗掘とその復旧工事で多くの情報を知ることになりました。 出土後は、宮内省諸陵寮(当時)に保管されていましたが、1923 (大正12 )年の関東大震災で現物は失われたと言われて 盾形埴輪の盾面は、厚みのある外縁で縁取られた長方形です。中を横方向に三つに区切ります。すると漢字でいえば 横方向からみた断面に注目です。盾形部分はひと昔でいえば「ぺらぺら」の印象です。上端は少し前のめり気味,下端も内 古墳時代の盾には、木製と革製、鉄製の3種類があります。使い方で分けると、置いて弓矢からの防護に用いる置盾と、 佐紀御陵山古墳の盾形埴輪の、曲線で構成された断面形をみると、モデルとなった盾の本体は木枠に皮革を貼ったもの 埴輪の方は、時代が新しくなるほどに、文様の細かい表現は省略され、断面も平板にかわります。この盾形埴輪は、 さて、埋葬施設がある後円部の上にある方形壇の様子を表した復元図面が作製されています。それによると、両手いっぱ これも実物は関東大震災でなくなったと言われています。図を元にしたレプリカが、県立橿原考古学研究所付属博物館 |
佐紀御陵山古墳と佐紀石塚山古墳の間から北に向かい近鉄平城駅東側の踏切を越えて丘陵の裾を回り込むと、ひときわ 大きな前方後円墳が見えてきます。五社神古墳です。墳長267 m、鍵穴形の周濠が備わります。奈良市山陵町にあり、現在 は神功皇后の狭城盾列池上陵になっ ています。 江戸時代には孝謙(称徳)天皇陵説もありましたが、文久3 (1863)年に神功皇后陵に決定しました。「神功皇后山陵」に寄進 陵墓の変更は幕末のことでしたが、ここ10年ばかりの間に、古墳の造られた順番、すなわち編年上の位置づけが変わった 五社神古墳には、佐紀丘陵四端の一群(西支群)のなかの奥まった位置にあることや、測量図をみると前方部の側面の等高 墳群のなかでも最初に築かれた古墳時代前期後葉(4世紀前半から中ごろ)の大型前方後円墳と考えられてきました。 見直しの結果、今は佐紀陵山古墳·佐紀高塚古墳-佐紀石塚山古墳-五社神古墳の順番で築かれたと考えられます。 さて、神功皇后といえば「日本書紀」ではおなかに子どもを宿したまま朝鮮に出兵した後に、筑紫で出産したと記された人物 4世紀の古墳時代の政権が、玄界灘を越えて軍事力を行使したとは思えないからです。そこまで、内政を支える諸制度が また、神功皇后の夫の仲哀天皇の陵は、河内国の「長野陵 だとされますが、皇統譜の上でも、陵墓所在地の上でも、 これは、大型前方後円墳が大阪府の百舌鳥·古市古墳群に築かれた背景として、大和から河内へ政権の中心地が移動した なお、神功皇后陵への変更は、幕末に陵墓を決める参考にされた「大和国添下郡京北班田図」(京北一条と二条の蒝図は、 古代の律令国家は、史実性の有無に関わらず二つの大型前方後円墳を「陵墓」として国家管理していたと評してよいでしょう。 もう、この日だけは忘れることができません2008年2月22日、初めて天皇陵古墳への立ち入り観察が認められました。 許可人数に制限があり、墳丘を自由に歩き回れるわけではありません。墳丘最下段の宮内庁職員の巡回路までに限られ また、立ち入りに抗議された方もいらっしゃいました。発掘調査が始まると誤解されたのでしょう。 私は、国民感情への配慮のない学問至上主義は厳に慎むべきものだと思っています。 なにより、陵墓は国有財産とはいえ、皇室用財産ですから広範な国民の理解がなければ、安易な方針転換は将来に悔いること 五社神古墳への立ち入りは大勢の報道陣と学会関係者、市民が注視するなかを拝所脇の細い渡土堤を通って墳丘内部へと 前方部西側から反時計回りに、宮内庁職員の先導で歩きます。08年の墳丘裾護岸工事にともなう宮内庁の調査では、葺石や くびれ部にかけての広い平坦面では、過去には供え物を盛るための笊形土器(ざるがた)やミニチュア土器が採集されました。 儀礼行為の存在を思わせる遺物の出土と、それを行うのに十分な広場となっていほす。 これらは中期古墳に顕著となる特徴です。 後円部北側に回り込むと間近に丘陵が迫ってきます。墳丘下半が正円形でどこまで仕上げられたのか。これは一度の観察で その水面をつい本来の墳丘裾だと思ってしまうのです。 東側にも造り出しがあるのか、あるいはここが本来の墳丘最下段平坦面だとすると前方部裾は従来の認識より開く形状になる 前回に説明したように、五社神古墳は古墳時代前期後葉につくられたと考えてきましたが、前期末葉から中期初葉(4世紀中 |
延べ板というと「金」のと付けたくなりますが、古墳時代には鉄の延べ板があります。両端を撥形(ばち)に広げた薄い
板になったもので、鉄鋌(てってい)と呼んでいます。一般的には、鉄製品をつくるための地金だと考えられています。 ウワナベ古墳のお供となる北側の陪塚(ばいつか)のひとつ、直径25mの円墳の大和6号墳(旧陪冢ろ号・ばいちょう) それというのも、弥生時代後期ごろから道具の鉄器化が進みますが、砂鉄や鉄鉱石から鉄を生み出す技術は、6世紀 鉄は農具や開墾用具の刃先となりますから、農業生産や土地開発には欠かせほせん。もちろん、刀剣やヤリ·矛甲冑 大和6号墳の発掘調査は、敗戦から半年も経たない1945年12月26日から46年1月8日の間のことでした。コナべ古墳と 調査者のひとりに、のちに同志社大学で考古学を教えることになる森浩一先生がいました。著書で次のように記してい 「先輩たちは米軍に気をつかつて、写真もとらず図面作りもしないという。戦争中,陸海軍の要塞など軍の施設で写真 墳丘頂上部中央の表土直下で、大形鉄鋌(長さ30 ~ 48cm、幅5~10 cm) 282枚、小形鉄鋌(長さ8~ 18cm、 朝鮮半島南部の新羅や加耶の古墳からも鉄鋌は出土しています。本場での多さには圧倒されます。新羅の都慶州に 大和6号墳は地上から姿を消しほしたが、切迫した状況のなかで記録が取られ、回収された大和6号墳の鉄鋌は、 |
平城京から東方の山あい約10キロにある田原も天皇や高位の官人の葬地に選ばれています。 天智天皇の孫、第49代の光仁天皇の田原東陵は、奈良市日笠町の小さな谷間にあります。江戸中期の元禄の修陵以 来,田原塚ノ本古墳に定められてきました。 測量図をみると、直径約50m、高さ約8mの円丘に幅約7mの空濠がめぐり、外堤があります。この数値が正しいならば、 近世の複数の史料で、この場所は塚ノ本、王ノ塚など一貫して「塚」と呼ばれてきました。また、文化年間(1804S~18年) 「続日本紀」によれば、光仁天皇は天応元(781)年12月に亡くなり、翌年正月に広岡山陵に葬られます。しかし、桓武天皇 田原には、もうひとり奈良時代の皇族が葬られています。万葉歌人としても有名な光仁天皇の父、志貴皇子です。 後に春日宮天皇と追尊(没後に贈られた天皇号)されました。陵墓とされる田原西陵は現在、鉢伏峠に近い奈良市 奈良時代は目立つ墓を造るより、自然と一体化した葬地をめざす時代に変わっていした。志貴皇子と光仁天皇の二陵も、 二陵の本当の姿を考える上で参考になるのが、太安万侶墓ではないでしょうか。太万侶は奈良時代初期の高位官人 大きな話題となり、当時現地を見に行った人もいるでしょう。ただちに考古学調査がなされぼした。直径約4.5mの円形 平安時代の「延喜式」では、光仁天皇の田原東陵、志貴皇子の田原西陵と東西関係で表記していほす。父子の一陵が 奈良時代の天皇陵の多くが見晴らしのいい場所に造られています。太安万侶墓の立地を踏まえ、東西に二陵が並ぶよう |
古代からひんぱんに使われた飛鳥の道は「阿部山田道」
ではないでしょうか。近鉄橿原神宮前駅から東へ、 明日香村豊浦を経て飛鳥川を越え、雷、香具山を北に見て奈良文 化財研究所飛鳥資料館の前を通り、 桜井市阿部から「上ツ 道」につながる。と 言えば 思い浮かぶ人もいるでしょう。 1969年に発表された古代史の岸俊男氏の藤原京(新益京)の復元案では、京域の南限が阿部山田道でした。 阿部山田道をもう一度、駅から東へ歩いてみます。最初の大きな交差点が「丈六」、しばらく行くと家並みが切れ 視界が広がり、南東に大きな池があらわれます。石川池です。万葉集に歌われた「剣池」として案内板に表示され ることが多いので、こちらの方が有名かもしれません。 池のなかに浮かぶ島のように見えるところがあります。その上に石川中山塚古墳群があります。橿原市石川町 池の堤に沿って西から南へ回り込んでみましょう。島に見えましたが、東側の奥では丘陵とつながっています。 東南の1基について、谷森善臣は「西面に、後円く、前方に造り給ひし」と幕末の「山陵考」に記し、前方後円墳 陵墓地形図の等高線も参考に私も前方後円墳だと思います。図上計測で墳丘の長さが約30mになります。 時期を知る直接の資料はありません。同様の小規模な古墳群は、奈良盆地東南部では古墳時代中期や後期 評価はこれで終わりではありません。石川中山塚古墳群の不思議は墳丘があることです。「それは当たり前だろ う」という人がいるかもしれません。が、石川中山塚古墳群は藤原京内に意図的に残された可能性があるのです。 それというのも、中国の隋や唐の律令は都から離れた場所に人を葬ることがきほりでした。日本律令もそれら 持統7(693)年2月の詔が「日本書紀」に記されています。造京司(藤原京造営の官)の衣縫王(きぬぬいのおおきみ) 都づくりで藤原京内の古墳の多くが潰される運命にありました。実際、発掘調査により京内では、50基以上の 一方、石川中山塚古墳群に墳丘が残るのは、律令国家が皇統譜上の初期王陵に擬したからではないか、 |
記録にある天武天皇の皇子は10人,皇女は7人いました。なかでも草壁皇子は、大津皇子とならんで人気があり ます。即位を前にした持統3(689)年に病に倒れたとされる不運が人々をひきつけるのでしょうか。 「万葉集」には、柿本人麻呂や皇子に仕えた舎人らによる草壁皇子への挽歌があり、悲嘆に満ちた想いが伝わ もっとも、過去の人類のつくりだしたモノ(物質)を対象とする考古学は、鑑賞といっても、歌われた「真弓(檀)の岡」 飛鳥時代の終末期古墳が発掘調査されるたびに、被葬者候補に草壁皇子の名が出るのも学問の性格上、 1984, 86年に発掘調査れた高取町佐田の丘陵上にある束明神古墳は、その最有力候補です。凝灰岩の切石を 組み上げた見事な横口式石槨です。県立橿原考古学研究所付属博物館の前庭に復元展示されています。一方 「続日本紀」には天平宝字2 (758)年、草壁皇子に対して「岡宮御宇天皇」が追尊(没後に贈られる称号)されたこと 天皇は行幸に従っていた者たち全員を下馬させ、儀衛は「旗幟」を巻くように命じたとあります。現在の歴代には 数えられませんが、「延喜式」には陵名「真弓丘陵」として載せられました。 その後、所在不明となった「真弓丘陵」を探そうとしたのは、文久修陵の中心人物の谷森善臣(よしおみ)です。 弓丘陵にあてました。そして、この案が採用されて現陵墓になったとみられます。 森王墓古墳とは、初めて聞く名前かと思いますが、この連載では遺跡命名の原則にのっとり、地域社会の呼称で 森王墓古墳を、紀路が通っていたと想定される付近から望んだ写真を載せています。丘陵の斜面に南向きに造 陵墓測量図に約15mの円形の墳丘が示されています。過去に調査された記録がなく、本来の姿はわかりません。 称徳天皇の一行が拝礼したのは、どちらでしょうか。それともまったく別の場所でしようか。何か手掛かりがない かと探るのは、私だけではないでしょう。 |
奈良盆地の西南部に位置する葛城地域は、5世紀以降、天皇家と姻戚関係を結び隆盛を極めた古代有力氏族「葛城氏」 特に、室宮山古墳(前方後円全長238 m)は、4世紀末~5世紀にかけて「古事記」や「日本書紀」に登場する「葛城襲津彦 また、四面庇付(ひさしつき)の大型掘立柱建物が検出された極楽寺ヒビキ遺跡、朝鮮半島の影響を受けた韓式系の遺物 この葛城の地に計画された京奈和自動車道建設に伴う事前調査によって、古墳時代前期の秋津遺跡が発見された。 秋津遺跡は、まさにこの時期に存在した遺跡で、河川や濠(ほり)、溝によって区画された広大な範囲内に「方形区画施設」 古墳から出土する埴輪に、導水施設形埴輪がある。家形埴輪とその外側に囲形埴輪を設置したもので、それと秋津遺跡で また、この施設は短期間に複数回建て替えられ、そのたびに整地される点や、施設周辺には破棄された遺物がほとんど存 しかも、その一方で遺構群の北端にあたる濠には、大量の土器や木材などが廃棄されていた。それは、あたかも方形区画 施設一帯を特別な祭祀空間とし、その空間の外側と区分しているようである。さらに、秋津遺跡の中心部の北側と南側には 竪穴住居の集落が併存しており、明らかに遺跡の性格の違いを見て取れる。 |
飛鳥時代の日本と東アジア諸国との交流は、文献史料だけではなく、さまざまな文物によっても知ることができます。 新羅産土器は飛鳥寺(明日香村)、豊浦寺(同),飛鳥池工房遺跡(同)、石神遺跡(同) 、古宮遺跡(ふるみや・同)や 石神遺跡は明治時代に石人像(せきじん)や須弥山石(しゅみせんせき)が出土したところで、奈良国立文化財研究所 でしょう。三角形文と半円点文を交互に配するなどし、手の込んだ意匠を施しています。 これによく似たつぼの破片が豊浦寺からも出土していますが、そちらは緑色の釉薬がかかった鉛釉陶器(えんゆうと 新羅産土器は、いつ誰が、何のために運んできたのでしようか。新羅産のつぼを持ち込んだのは、貢進物(こうしん 一方、百済との交流を物語る土器の実例は、いまひとつはっきりしませんが、飛鳥時代後半の須恵器(高温焼成の しかし奈良時代になり、みやこが平城京に移ると、日本は唐からの文物摂取をより重視するようになります。そのせい 奈良時代の舶来の陶器はといえば、それは唐三彩が中心になります。このように、舶来の陶器はたとえ小さな破片で |
蘇我馬子をはじめとする当時の政権中枢にあった人たちによって,飛鳥寺(法興寺)の建立が発願されたのは、用明 崇峻天皇元(588)年、馬子は飛鳥の真神原(まがみのはら)の地を選び、長らく友好的な関係にあった朝鮮半島の 1956年から飛鳥寺の発掘調査が始まります。発掘の前には、寺の伽藍配置は、五重塔、金堂、講堂が一直線に 並ぶ四天王寺式の配置と考えられていましたが調査が進むにしたがい、金堂が五重塔の北側のみならず、東西にも 1棟ずつ建つ特異な形式の伽藍配置だったことが分かりました。中国や高句麗、新羅の要素を百済風に織り交ぜ、変 容させた配置と考えられており、一塔三金堂形式と呼ばれています。 中央の金堂(中金堂)には、仏像づくりの名人である渡来人、鞍作止利(くらつくりのとり)が作った釈如来座像(飛鳥 す。飛鳥大仏は当初の姿をよくとどめ、1400年前に据えられた位置を動いていないことが分かっています。今飛鳥大仏 残念ながら、創建時の建物は中世までにすべて失われ、今は残っていません。15世紀には野原の中に大仏だけが たたずんでいた様子が記録されています。でも、創建時の飛鳥寺の姿を断片的ながらも現在に伝えるものがありぼす。 さらに、建物の基壇をつき固める版築の工法や基礎工事,礎石を据える方法など、随所に百済から導入された最先 これ以降、日本各地に次々と寺院が建立されます。寺院の建設にたずさわる知識人や技術者が各地に生まれたこと を意味しています。飛鳥寺の建立は、日本で最初の本格的寺院の建設にとどまらず、国内の仏教思想、文化、建築技 術が開花する一大契機となっのです。 |
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島根県出雲市の出雲大社の隣に07年3月、県立古代出雲歴史博物館がオープンした。荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡 出雲大社近くから日本海へ抜けて、島根半島の猪目洞窟を訪れた。 浜から洞窟の入り口ほでは、小さな漁船の陸揚げ場になっている。戦後間もない1948年、揚げ場の拡張工事で取り 除いた土砂の中から縄文·弥生期の土器や人骨が出てきた。 奈良時代に編さんされた『出雲国風土記』の出雲郡宇賀の郷の条に「岩窟があって、そこに行った夢を見た人は必ず 凝灰岩の絶壁のすそに斜めに開口した洞窟に入ってみた。天井から滴り落ちる水滴で足元は滑りやすい。入り口に なぜここに黄泉の国の入り口があるのか。風土記を中心に日本古代史を研究してきた瀧音能之氏は、大和から見た なるほど。「死者の国」は古代日本と出雲内部に二重にあったというわけだ。 変わり果てた姿の伊弉冉尊に追いかけられた伊奘諾尊は、この世と黄泉の国の境の黄泉比良坂に大岩を据えて道 島根県東出雲町にある揖夜神社は、その古伝により伊奘冉を祀る。神社近くに「黄泉比良坂伝説地」があるという。 が神話の国だ。 石碑の左手に大きな岩が三つ。これが伊奘諾が据えた「千引の石(ちびきのいわ)」だろうか。花束や百円玉が置か つぎは、出雲国と伯耆国(鳥取県西部)の境にある比婆の山に葬られたと『古事記』がいう伊奘冉の墓だ。島根県 東部にはその候補地があちこちにある。 「水平」から「垂直」へヤマト王権の世界観を転換させるために、出雲を「死者の国」に仕立てた。だから伊奘冉の墓 も出雲にもってきた。私はそう考えている。このあたり、「熊野の有馬村に葬る」という説があることを紹介した『日本書紀』 しかし出雲の人たちは、それぞれ自分のところこそ伊奘冉が永眠する地と信じているだろう。その気持ちに思いを致し ながら2カ所の候補地を訪れた。 ひとつは、明治33 (1900)年に宮内省が伊奘冉の陵墓伝説地とした「岩坂陵墓参考地」だ。 それは松江市の南部、神魂神社から熊野大社に向かう国道沿いにあった。椎の大木が茂った小山で、鉄門の前には 「古事記にある比婆山はこの地で、伊耶那美命の御神陵と伝えられている。古くから子授け安産の守護神として広く 陵墓参考地近くに住むお年寄りに、この墓所の由来を聞いた。「祖父以来、私が3代目の守部です」という。宮内庁か ら陵墓参考地の管理を頼まれ、「普段は生け垣の手入れや、樹木を傷めるツルを切る、といった仕事をしている」そろ だ。次のような話もしてくれた。 ここは旧岩坂村の神納(かんな)というところ。小山の名は「比婆山」で「神納の御陵さん」と呼ばれてきた。陵墓参考地 「比婆山」「神納」といった地名が陵墓参考地に選ばれた理由のひとつだろう。「子授け安産の守護神」といわれてきた もう1カ所訪れたのは、鳥取との県境に近い安来市伯太町である。山間のこの町にも伊奘冉のお墓があると聞いたが、 どこかわからない。 「比婆山久米神社」がそれらしいと当たりをつけ、訪ねたら、案内板に「高さ320mの比婆山山頂に御神陵と奥宮がある」 車で行けるのは途中まで。あいにくの雨で足元はぬかるんでいた。でもせっかくここまで来たのだから、と傘をさして 登った。山道に頭を出したタケノコを靴で蹴り取った跡が、あちこちにある。参道を確保するためだろう。 約30分で頂上に到着。久米神社の奥宮の後ろに木塀で囲った一角があり「伊邪那美大神御神陵」と書いた木柱が立つ。 裏を見たら「平成4( 92 )年、井尻公民館建立」とあった。 あわただしく、またときにすさんだ世の中にあって、地元の人たちの歴史心に触れるとほっとする。 |
大阪市の中心を東西に貫く阪神高速東大阪線を走っていると、大阪府庁に近い「法円坂」
という場所でしばらく,道路は高架から下りて地上を走る。その南に広がる公園は、「難波」が 645年、蘇我蝦夷·入鹿父子を「乙巳の変」で打倒した中大兄皇子(後の天智天皇)と孝徳天皇 683年に副都として再整備されたが, 3年後に失火で全焼。 726年、聖武天皇が「難波宮(後期難波宮)」を再建し、一時は再び首都となった。 難波宮はどこにあったのか。長い論争に終止符を打つため、元大阪市立大教授の山根徳 山根らは発掘調査を重ねて建物の配置を推定し、61年の第13次調査で、ついに聖武天皇 山根が難波宮に関心を持っきっかけは、戦前の19年、法円坂の陸軍施設に勤務する建築 終戦後、山根は50年から文部省(当時)に難波宮発掘の研究費を申請、3年目にようやく承 「戦時中に1年間、中国に留学して都城への関心が高まったこともあるでしょう。しかし、20歳 その後、難波宮跡は何度も開発による破壊の危機に遭い、そのたびに反対運動の先頭に |
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