龍王山城跡(りゅうおうざん)

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  JR柳本駅車中より、龍王山を望む。
 龍王山城は、奈良盆地の東にそびえる竜王山頂上(標高585m)に築かれた山城である。城の範囲は、
北城と南城に分かれ、奈良県に残る城跡では最大級に含まれ、信貴山城に次ぐ規模である。中世・大和
の有力豪族である十市氏の山城として発達した。郭を尾根筋に沿って一列に築いた連郭式山城の形態を
もつ南城に比べて、北城は本丸の回りに郭を配置した環状式山城で、石垣の跡も各所に残すなど、城郭
の特徴では南城が古い形態を保ち、北城が後に築かれたものと考えられる。龍王城は、天正六年(1578)
に破却されたが、日本の中世に築かれた山城の原形を良く留めてている。

 この山城は当初、15世紀後半に 橿原市十市町に本拠を構えていた十市氏により開かれた山城である。

この後、永禄年間にかけて松永久秀の支配する山城となり、天正6年(1578)に織田信長の山城破却

令が出されるまで18年間存続した。

尾根を造成して階段状に作られている。
西斜面は
急な崖面であり、敵の侵入を防御するのにふさわしい地形である。

 この山城は、南・北二つの峰に別れていて、北の方が60mほど低いが、北城の方が大型規模である。
南北両城を合わせると、大和随一の中世城郭である。二ヶ所に別れてながら、互いに呼応しあって、一つ
の城を形づくっているのを別城一郭の構えという。北城(城台)は、標高521.7mの郭を中心に、太鼓ノ丸、
辰巳ノ櫓、時ノ丸、五人衆の郭、茶屋ノ屋敷、西ノ大手ノ丸、など郭が幾重にも重なり、土居や掘割、井戸、
それに「馬ヒヤシ」と称する水溜などもあって、中性城郭として原形をよく留めている。南北朝の頃、小さな砦
をつくられたのがはじめてで、天文年間(16世紀)十市遠忠が小さな砦をもとに一大城郭を築いた。遠忠は
大和武士として知られたのみならず歌人として、とくにすぐれていた。その子遠勝の時、永禄十一年(1568)
七月末ほとんど抵抗することもできずに、龍王山城を明け渡して十市平城(橿原市十市)へ退いてしまい、
華々しい籠城も行いえず、秋山氏の手に渡してしまったようである。大和一の名城の龍王山城50年の歴史は
終わった。いまも落城にまつわる幾多の悲しい物語を伝えている。
 登山道は北側の尾根筋を歩く長岳寺からのコースと、南側の谷川にに沿った祟神天皇陵コースがある。
 車で天理ダム方面から登るみちもある。
 

 
 南城本丸跡
 二等三角点・竜王山
北緯 34度33分29秒577
東経 135度52分38秒034
標高 585.73m
設置年 明治三十四年(1901)
国土地理院の案内板あり。

地図
天理ダム
南城本丸跡への登り口 南城本丸跡からの眺め
霞んでいるが祟神天皇陵が見える。
 本丸から一段下がった平地の全体から建物を建てる基礎石(礎石)が出土している。
建物の規模は南北13m、東西7mの長方形で建物の三方の礎石間隔は1mと細かい
柱間となっている。建物の内部は床張りであったようだが、生活のための台所などの設備
はなく、部屋を細かく仕切ることもない大広間的な部屋になっていた模様。少量ながら
瓦も13点出土した。
 建物は左図のように礎石立ちの瓦葺き建物であり、外観は南側を除いて蔵のような堅固
な造りであった。
 これまでは、戦国時代の山城の建物は掘立柱建物で、屋根には石を置いたり、樹木の
皮で葺いたりしていたが、織田信長が築いた安土城から石垣と瓦葺きの疎石立建物が
普及した。
 龍王山に、安土城の先駆をなす山城が建てられていた。 
龍王山城とその時代⇒⇒⇒
ジャンジャン火伝説

 龍王山城を築いた十市氏は、室町・戦国時代を通じて大和で活躍した豪族です。

天文年間(1532 〜 1555)、遠忠(とおただ)の時代にもっとも勢力を伸ばし、
龍王山城の完成

もこの時期だったと思われます。しかし隆盛は永く続かず、次の遠勝の代には大

和に進出した松永弾正に攻められ、永禄11年(1568)、ついに龍王山城は松永方の

手に落ちてしまいます。実際には華々しい戦闘もなく開城したのですが、地元に

は落城にまつわる幾多の悲話が今も伝えられています。そのひとつにジャンジャ

ン火伝説があります。

今にも雨が降りそうな夏の夜、龍王山にむかって「ホイホイ」と呼ぶと、城跡

の方から火の玉がジャンジャンとうなりをたてて飛んできて、その人を焼き殺し

てしまうとか……戦に敗れた十市氏の恨みが、今も残っているのかもしれません

ね。田井庄町には、ジャンジャン火に襲われた武士が誤って斬ったという首斬地

蔵が残っています。
MOTTO てんり より


 
 馬池
「馬と名の付く湧水地が北城には二ヶ所あります。
現在は池底にも植林されて池には見えませんが、
元々は水をたたえた重要な用水源でした。
今も池のすみから水が湧き出ており、
渇水期にも涸れたことがありません。
兵器や兵糧を背に急坂を登ってきた馬に、
ここで水を与えいたわったので、
馬池と名付けられたとも言われています。」 

 纏向山の十市遠忠の城を、信貴山の松永久秀が、水攻めにしようとして、十市城の水道を捜索して居た時

山辺の藤井まで来ると、一人の子守が居て、其水源を教へた。試みにレンゲの花を取って、其流れに浮かべ
てみると、果して纏向山に向って行くので、早速堰止めてしまった。十市城は、それで遂に落ちた。藤井では、
今もレンゲの花が咲かないが、是は彼の時以来、十市氏の怨みによることだという。(小島千夫也)(奈良県童話
連盟高田十郎『大和の伝説』昭和八(一九三三)年 大和史蹟研究会九一頁)

 

 遠忠は城の水源地を賢い猿に番せしめてゐたが、久秀はこれを絶たんとしたが容易に判らず困ってゐたところ、

藤井村の子守からその水源地を聞いた。喜んだ久秀は試みに蓮華草を流して其の方向を知り、直ちにこれを堰止

めて水の手を絶った。これがもとで落城した。今も尚この地だけは遠忠の怨で蓮華の花が咲かないと。

 水の手を切られた城中では、敵に苦しみを悟らせまいとして、馬の足を白米で洗ひ、如何にも余裕の程を示し

た。  

祟神天皇陵
北城本丸への登り口 北城本丸跡
土塁(どるい)や南虎口を通りる。
(みなみこぐち=戦闘用に出入り口を小さく築く)
地図

   
 竜王山古墳群
地図

「古墳時代後期から終末期(6〜7世紀)にかけて、奈良盆地の山麓には規模の小さい古墳が群集して
造られました。竜王山麓にある西門川の谷間にも、416基もの古墳が確認されています。石室を築いた
もの、素掘りで横穴を造ったもの、石室でも横穴式や竪穴式など様々で、小規模ながら変化に富んでい
ます。大きな前方後円墳が築かれた古墳時代前・中期(3〜5世紀・
祟神天皇陵垂仁天皇陵景行天皇陵等)とは時代性の異なる古墳群です。」
 竜王山古墳群は竜王山の西側斜面にあります。登山道を約2.5km登った標高150〜450mにかけ
た尾根の上や、その斜面、谷間など自然地形を利用し
た形で円墳や横穴もある。円墳は、谷の奥地の竜王山中腹に近い所に集中し、直径10〜15mの規模で、
横穴式石室を持ったものが大半を占めている
横穴は花崗岩の風化したもろい岩肌を掘ったもので、ほとんど半地下式の形態で4m前後のものが中心
となっている。
 古墳の成立は6世紀前半から7世紀後半までと考えられている。古墳時代前期の巨大古墳群を見下ろす
山中に、200年も遅れて、小規模な古墳が密集して
築かれている。 
 龍王山は戦略的な性格とは別に、盆地を潤す水がめの役割も担ってきた。その象徴が2座の龍王社である。
 龍王山の水は、ふもとの稲作や畑作の死活にかかわり、近世には度々水論争が起きた。
このため厳しい干ばつになると、村々は龍王山の龍王を祭神にして雨乞いをした。
その願いがかなうと、祠を新築して神威をたたえた。
 龍王山は奈良盆地の水田耕作に関わった水の信仰(龍~信仰)の中心であった。 
龍王は雨を降らせる~として仏教と共にその信仰が日本へ伝わっていった。
       
 龍王山の北或いは、北西側の藤井町や、
田町方面へ流れ下る布留川水系を守護し、
社殿はその谷筋に向かってかまえてある。
 直径5mほどの池があり、水を治める
祭祀場を形成している。
 石灯籠には安政の年号が刻まれている。
地図 
 西麓の柳本町方面を流域とする西門川系を守り、
祠はその源流に鎮座する。
 田社とは、分水嶺の尾根を挟んで直線で100m
程である。
 柳本社にも直径5mほどの池があり、田社の池よ
り深い。
地図 
   
 不動明王像
  龍王山への登山道途中に長岳寺奥の院と呼ばれる修行場がある。
 ここに火炎光背を負う厚肉彫り、高さ205cmの不動明王石造が立
っている。
頭頂部には火炎を吹く迦迦楼羅(かるら)が彫りこまれ、像全体も写実
的である。
鎌倉時代後期の遺品である。
地図




















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