多武峯(とうのみね)・談山神社(だんざんじんじゃ)地図

   
 御破裂山より二上山大和三山藤原京跡飛鳥を望む  談山にある御相談所の石碑
 多武峯の御破裂山(ごはれつやま、607.7m)の南復に鎮座。
御破裂山は国に事変があるとき鳴動(めいどう)したという。
 
 鎌足を祭神とする談山神社には、高貴な神が多武峯に天降り、
尾根筋をゆっくり下って天香具山に至った、という言い伝えがある。
 天孫降臨の神話は、多武峯の神が里に下ってゆくイメージを物語にしたといわれ、
天香具山は畝傍山耳成山と異なり、多武峯からいくつかの尾根を経て続きの山となっている。
 裏山を10分ほど登った山中に「御相談所」という石碑がる。 
 中大兄皇子と藤原鎌足が大化改新の秘策をねられたところとされていて、談山(かたらいやま)と伝わる場所で、社名
の由来となった。
 木立に囲まれた一角は密談にふさわしい所といえる。

 舒明皇極二代の天皇の世に、 国の政治を欲しいままにしていた蘇我蝦夷入鹿の親子を討伐し、政治を改革しよう

とした中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が、 西暦645年の5月に藤の咲き乱れる多武峰に登って
大化改新」 の談合を行ったことから、 後にこの山を談山、談所ヶ森と呼ばれるようになった。 御談所の碑がある。
 この山から、さらに奥へ約5分ほど行くと御破裂山に着く。 自然林の茂る山上には墓があり、藤原鎌足の墓と伝え

られる。 (一説には、 鎌足の子・定慧の墓とも言われている。

現地は眺望絶景で、大和平野が一望でき、大和三山や遠くは葛城連峰が望まれる。

 舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていた。この時、

鎌足公は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていた。たまたま飛鳥の法興寺(今の飛島寺)で蹴鞠の会があっ

たとき、聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)にま見えることが出来、西暦六四五年の五月、

二人は藤の花の咲き乱れる多武峯(今の談山神社本殿裏山)に密かに登って、「大化改新」の談合を行なったのである。
後にこの山を 談い山・談所ヶ森,と呼び、また神社の社号の起こりとなった。|ここに鎌足公は真の日本国を

発想し、そして日本が世界に誇る国家と成るため、一生涯を国政に尽くしたのであった。天智天皇八年(六六九)十

月鎌足公の病重しと知った天皇は、みずから病床を見舞い、後日、大織冠を授け内大臣に任じ、藤原の姓を賜わった。

藤原氏はここに始まるのである。
 その没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐の国より帰国、父の由縁深い多武峯に墓を移し、十三重塔を建立した。
大宝元年(七〇一)には神殿が創建され、御神像をお祭りして今日に到る。

 旧・別格官幣社。

 

〔建造物〕

本殿 大宝元年(七〇一) の創建、以後、兵火にかかるなどで十一度の造替。

現存は嘉永三年(一八五〇) のもの。朱塗り極彩色の様式は世に名高く、
日光東照宮のお手本となったことは特に著名。前面亀甲の石畳は、勅使

の間"と呼ばれている。
拝殿・楼門・東西透廊 永正十七年(一五二〇)創建の拝殿は朱塗りの舞台造り。
中央天井には唐より渡来の香木伽羅を用

いて、千畳敷のキャラの間と呼び現在は宝物殿をかねている。楼門・透

廊によって本殿を囲む特異な形式は壮麗を極める。
十三重塔 白鳳七年(六七八)創建の鎌足公供養塔。
唐の清涼山宝池院にあった十三層の塔を

模したと伝えられ、現存唯一の木造十三重塔。旧・国宝。
権殿 天禄元年(九七O)に藤原伊升の立願により創建したもとの常行堂。
旧・国宝。
総社本殿・拝殿

八百神と共に、大和七福神の福禄寿神をお祭りするわが国最古の総社

で、延長四年(九二六)の創建。本殿は旧本社本殿を移築。壁面に狩野永納

の絵が見られる。前面の庭はけまりの庭。と呼び、春秋のけまりの

;事をする場として知られる。
神廟拝所 白鳳八年(六七九)創建の旧講堂。
東殿 江戸初期造替の旧本社

本殿を移築した、もとの本願堂。鎌足公

の夫人、鏡女王を祭り、えんむすびの

神・恋の神"として有名。
闘伽井屋 御神供のための井戸屋形。屋根はこけら

葺きでめずらしい。
東・西宝庫 校倉造りで、神社に伝わる宝物を収めて来た。

本殿をはさみ同形式のものが二棟立つ。江戸初期の建立。
後醍醐天皇御寄進石燈龍 南北朝動乱の始まった年、元徳三

年(二三三)の銘を持つ。この地を通称 燈龍ヶ辻,と呼び、背後には紀州徳川家奉

納の燈龍が二十余基立つ。
摩尼輪塔 摩尼とは宝珠のことで、他に類を見ないここ独自の石塔。乾元二年(一三〇三)の銘を持つ。

以上、重要文化財。

飛鳥の地名 寺川と飛鳥川流域  蘇我氏陰謀の挫折
壬申の乱の決戦地にもなった 寺院の信仰的道標 蘇我氏は失敗し中臣氏は成功した
藤原氏が権力者になれた理由 藤原氏の大陰謀  藤原不比等
日本書紀の編纂目的 両槻宮   大和三山と藤原京 
仮面芸能  乙巳の変の飛鳥   
 
  末社 総社拝殿(重文)
 
  十三重の塔
   高さ17m檜皮葺き。平成19年40年ぶりに屋根
を葺き替えられた。
屋根と屋根の間隔が狭くそのたびに足場の位置を
変えなければならず手間がかかった。
 このように、二重目から上が狭い間隔で積み重ね
たものを、層塔と区別して簷塔(えんとう)と呼ばれるが、
現存するのは、ここ談山神社(旧妙楽寺)の十三重塔
だけである。檜皮葺、相輪の輪が7つ。層塔は9つの
輪の上に水煙があり、最も上に宝珠が載る。
 初層の大きな屋根は反り返り、2層目から上は狭い
間隔で積み重なっている。
  境内には、江戸時代建てられた、朱塗りの本殿
や舞台造りの拝殿がたたずむ。
11月3日には大正時代から続く「蹴鞠(けまり)祭」
貴族の遊びを再現する。衣装は袖が地面につく水干
(すいかん)、袴(はかま)、烏帽子。大化の改新(645
)を成し遂げた中大兄皇子と中臣鎌足がけまりで知り
合ったとされる故事にちなんだ行事。
 鞠は直径約20cm、重さ120gの鹿革製品。13m
四方庭に8人が入り、地面におとさないように蹴り上げる。
右足の甲だけ使い、裏側をみせず、鞠に回転をかけな
がら華麗に周りに渡しながらけり続けることをたのしむ。
かけ声の3種類「アリ」「ヤ」「オウ」を順番に繰り返し鞠を
落とさずにけり合う。
鞠はけるたびに空気が抜けてへこみ、けるのが難しくな
ってくる。
  天智天皇八年(669)に没した藤原鎌足の遺骸は、摂津国三島郡阿威山(あいやま)に葬られたが、
鎌足の長男定慧(じょうえ)が唐から帰朝後、多武峯御破裂山に改葬し、天武7年(678)に十三重塔婆
を建立して鎌足の遺骸をその塔婆の礎に安置したと伝える。のち塔の南に堂を造立し妙楽寺と号した。
その後、弟不比等が、大宝元年(701)塔の東に聖霊院(しょうりょう)を造立し鎌足の木造を祀る。これ
が当社の起源で、総称して多武峯社といった。ところが、塔婆の信仰を中心とする妙楽寺と鎌足の尊像を
まつる聖霊院との対立が生じたので、延長四年(926)に天神地祇(てんじんちぎ)・八百万の神をまつり、
鎌足の尊像を合祀した惣社が建てられ、談山権現と称した。
 現存する木造十三重の塔は、鎌足の墓であり、室町時代天文3年(1532)の再建。
 のち比叡山の末寺となって多数の憎兵を擁し、しばしば興福寺僧兵の焼き討ちを受けた。 
 
別格官幣社談山神社の碑
 藤原氏の祖、藤原鎌足を祀る談山神社は、旧別格官幣社。大織冠社・多武峯社ともいう。
多武峯寺と一体で神仏混淆の霊場であつたが、明治二年(1869)になつて分離、談山神社
として独立し、妙楽寺の名は消滅した。

 妙楽寺は、神仏習合の時代には、現在の多武峰(とうのみね)のここ談山神社(だんざん)と
同一だった寺で、廃仏棄釈後は神社だけになっている。境内にある、その美しさで有名な十三重
の木造の塔は、本来、妙楽寺の建築物であり仏式の様相が色濃く残っている。妙楽寺は、南北
時代、吉野に本拠置いていた南朝側勢力の最北端に位置していたので、ここが狙われた。
金 お金 手形⇒⇒⇒ 
 
 大鳥居
  御破裂山の山腹に南面して鎮座する。
 享保9年(1724)に建てられ、参拝者たちはこの鳥居
をくぐり談山神社への参拝にむかい、談山神社の桜井
側の入口として繁栄した。
しかし現在は、約200m東に県道ができ参拝者たちを乗
せたバスや車が走る。
大鳥居は石製で、高さ約8.5m、長さ約11.5mであるが、
隣地の火災の際、西側の石材の端部が落ちてしまった。
 石材は花崗岩(かこうがん)で、御破裂山の山腹から切
り出されている。
   
東大門 下乗石
 享和3年(1803に建てられた。門をくぐり正面
突き当りに右の下乗石があり、
ここで馬やかごを降りることを伝えている。
 手前左方には「女人堂道」の石標、内側右手には
尊円法親王(伏見天皇の第6皇子で御家流書道の
始祖)筆の下乗石がある。
町石  参道には串こんにゃく・よもぎ餅などが売られる。
 旧多武峯街道に談山神社の鳥居があり、その前に江戸時代初期に建立された
町石が立っている。
町石は鳥居から談山神社の摩尼輪塔(まにりん、重文)までの参道にそって、一町
ごとに52基あった。
 52基の町石は、因位(まよい)から仏界(さとり)に至る仏道修行を表している。
 摩尼輪塔は8角形の石柱で、正面の円形に梵字があり、乾元二年(1303)の
銘がある。
十三重石塔婆(重文、室町時代)や元徳三年(1331)の銘のある石燈籠がある。
 桜井市から五十二丁上にあるといわれている。しかし、実測は二十町もない。
南北朝時代、丁石が下の鳥居から上の摩尼輪塔まで、五十二本立てられ、
その上に談山神社(妙楽寺)があった。
発心から解脱までの修行の段階を象徴していたからである。
 この一丁を実距離と考えてはならない。
仏法では、弥陀の世界へは、発心門(ほっしんもん)から解脱門(げだつもん)
まで行かなければならないが、その間に、五十二の階段がある。
この意識から、ある基点から寺院までを、実際の距離とは関係なく五十二に分け、
その一区間を一丁と称したりする。
 高野山にも町石があり、慈尊院から、高野山根本大塔まで百八十本の町石が
あった。慈尊院から第一番目の町石がある。
現存最古のもので、鎌倉末期の道標である。現在はハイキングコースとなっている。
 高野口から高野山まで、三里ぐらいである。しかし、同じように五十二に分けてあ
るので、
一区間(一丁)の距離は一町より長い。これも象徴であり、実距離を示すものではない。  
 浄瑠璃寺への道にも丁石がある。
     
 神廟拝所(しんびょうはいしょ・
重文・旧講堂)
 拝殿  十三重塔(重文)
 後ろ権殿
 定慧和尚が白鳳8年(679)父・鎌足公供養のため創建した妙楽寺の講堂で、
塔の正面に仏堂をつくる伽藍の特色をもち
、内部壁面には羅漢と天女の像が描かれている。現存のものは寛文8年(1668)の再建である。
塔の南面にあり、塔に向かって拝むことになる。
 朱塗舞台造拝殿は永正17年(1520)の造営、中央の天井は伽羅(きゃら)香木でつくられている。
折れ曲がる東西透廊は本殿を囲む特異な形態をもつ。
 また、皇極4年(645)蘇我入鹿が中大兄皇子らによって暗殺された場面の絵等がある。⇒⇒⇒
 談山神社には神社権殿(重文)があるが、中世、観世流の源流・結崎座など「大和猿楽四座」の奉納を受け、
能楽の成り立ちに深くかかわった。 
 藤原鎌足公長子・定慧和尚が、父の供養のために白鳳7年(678)に創建した塔婆で、
現存ものは享禄5年(1532)の再建である。
 木造十三重塔としては現存世界唯一の建造物である。
談山神社本殿(重文)
 藤原鎌足公をまつる旧・別格官幣社。大宝元年(701)の創建で、聖霊院、多武峯社とも号す。
現在の本殿は嘉永3年(1850)造替の三間社隅木入春日造、朱塗極彩色の様式。
祭神 藤原鎌足
 藤原鎌足は、推古天皇22年(613)中臣御食子卿の長子として大和国高市郡大原に生誕し、幼名を鎌子と称した。
中臣氏の祖は天児屋根命にて代々神事を司る家柄であり、公はその22代孫にあたる。
皇極天皇の御代に中大兄皇子と共に当神社本殿裏山の談山に於いて国家革新の大業を計り、
ついに大化元年(645)「大化改新」を成しとげ、更に近江大津遷都など国家事業に尽くした。
 天智天皇8年(669)内大臣に任ぜられ藤原の姓を賜わり人臣最高位大織冠を授けられ同年10月16日薨ぜられた。
 白鳳7年(679)公の長子定恵は、もの多武峯の山頂に父の墓を造り十三重の塔を建て父の御霊を弔った。
のちの大宝元年(701)方三丈の神殿を建立し神像を奉安したのが当神社創祀である。
末社 総社拝殿(重文) 正面 楼門(重文) 左 西宝庫 西宝庫(重文)
 寛文8年(1668)の造営。談山神社拝殿を縮小し簡略化した様式で、
正面・背面ともに唐破風をもつ美麗な建造物。
内外部小壁には狩野永納筆の壁画が残り、「山静」の落款も見られる。
本殿に向かって左右(西宝庫、東宝庫)に位置する同形式の二つの宝庫は、
校署倉造りで元和5年(1619)の造営である。談山神社古来の名宝を収蔵して来た。
粟原寺跡⇒
後醍醐天皇寄進
石燈籠(重文)
談山神社西門跡の石仏 女人禁制石柱 西門跡  鳥居参考 御香宮⇒⇒⇒ 摩尼輪塔(重文)
 竿に、南北朝動乱の始まった年元徳3年(1331)の刻銘をもつ雄大かつ
装性豊かな造りといわれ、天皇の寄進と伝えられている。
 西大門跡の北側、石垣の上に置かれた石仏で、花崗岩の自然石で作られている。
像座高0.88m。一石造り出し、半肉彫り、左手は甲を表にした弥勒触地印で、
後背部左右に文永3年8月8日(1266)奉造立。
全体おだやかな表情と姿で、細身の石仏の系統に入る。
 この地は、旧多武峯妙楽寺の西門の跡地で女性の立ち入りを禁じた境界地であった。
旧多武峯妙楽時寺では中世から近世まで仏教や修験道の影響を受けこの石柱から
女性に立ち入りを禁じた。
 明治元年の廃仏棄釈により妙楽寺は談山神社となり、同時に女人禁制も解かれた。
摩尼輪塔(まにりんとう)摩尼とは宝珠のこと。八角柱には乾元2年(1303)の銘がある。円盤には大日如来の梵字を刻む。
屋形橋、 橋に屋根がある。地図
 街道と吉野方面へ続く道との分岐点にあるのが屋形橋で、
徒歩専用となっており、形が屋形船のようになっていることから、
この名前がついた。
 橋の上に屋根がある珍しいもの。今の橋は1979年に建て替えられたが、
かっては、吉野へ旅をした本居宣長もここへより「うるはしき橋あるを渡り」
(菅笠日記)と記した。松尾芭蕉もこの橋を渡ったとされる。
展望台(地図)から、正面手前が畝傍山、後ろが二上山
 談山神社から鎌足の里大原の里への途中、現在は展望台が
整備されている。
 
 ここを談山といい、多武峰という。
伝説によると、鎌足が中大兄皇子と蘇我氏討伐の談合をしたので、この山をカタライ(語らい)の峰といい、
中国ふうに談山というといわれる。
不比等と兄の僧定慧(じょうえ)が相談し、藤原鎌足記念の談山に改葬し、その上に十三重塔を建てた。
それで塔の峰とよんだが、奈良時代の地名を二字で書く制度によって、多武(たむ)の二字に書き、多武峰
となったという。
多武峰について
 私は、史実から言うと、定慧の方が先に死んでいるのであって、結局子が親を祀るのが普通で、親が子を
弔うのは異常ですから、神社の縁起は定慧が鎌足を祀ったことになっているが、ほんとうは、鎌足が定慧へ
の愛惜やみがたく、この神社、もとはお寺ですが、これを建てたんだと思われる。功を成し遂げた大政治家
の悲劇で、政治家・革命家の宿命である。さらに定慧⇒⇒⇒
梅原猛 日本史探訪3より