興福寺地図
猿沢の池 地図
采女神社 地図
菩提院大御堂 地図
率川地蔵 地図
東寺に次いで高い五重塔(国宝)。 ⇒⇒⇒ 国宝の仏塔一覧⇒⇒⇒ |
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初層には、塔が再建されて間もなく造られた、 薬師三尊像(国宝・東)・釈迦三尊像(国宝・南)・ 阿弥陀三尊像(国宝・西)・ 弥勒三尊像(国宝・北)が安置されている。 太い柱を囲むような配置は、奈良時代に四方仏の浄土変 (浄土の様子)があったのにならっている。 |
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室町時代に再建された6代目。 高さ50.8mで天平創建時の塔より約4m高い。 天平2年(730)4月28日に光明皇后(藤原不比等) の娘が発願し、同年内に壮大な塔が完成したという 驚くべき早さで完成した。 現在の塔は、5回の焼失・再建をへて、室町時代の 応永33年(1426)に、隣接する元興寺にあった奈良時代の 塔を参考に建立当時の姿を目指し再建された。 1998年世界遺産登録 奈良・世界遺産⇒⇒⇒ |
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建物中心部から屋根の四隅へ斜めに延びる垂木の上に、 上の階の柱を立ててある。古代建築の特徴。室町時代の 建築なのに新時代の技術を取り入れず、古代を守ろうとした。 初層は大きく重い構造物を支えるため、組み物ががっちり 組み込まれている。 |
伽藍配置図 |
北円堂(国宝) | 三重塔(国宝) 大法寺三重塔⇒ |
北円堂内 |
和銅3年(710)から造営された境内は、平城京三条大路から少し北に控えて南大門が達ち、北に中門、中金堂、講堂、 その左右前方に経蔵と鐘楼、また東、北、西の三方を僧房が囲んでいた。 さらに東側には南から南円堂、西金堂、北円堂が建ち並んでいた。 |
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北円堂 本尊弥勒菩薩坐像(国宝・運慶作)、四天王(国宝)を中心に無著・世親両菩薩(国宝)など9体の仏像が安置されている。 運慶の工房が仏像製作にあたった。静かにたたずみつつ今にも動き出しそうな迫力を兼ね備えた国宝中の国宝ともいえる仏像といわれる。 養老五年(721)興福寺を創建した。藤原不比等の一周忌に菩提を弔うため元明太上皇と元正天皇の命を受けた長屋王が創建した。 その後、二度の火災(永承4・1049、治承4年・1180の戦乱)で焼け、承元2年(1208)ごろ今の建物が再建された。 興福寺現存中最古の建物。日本に現存する八円堂の中でも最も美しいと言われ、広大な境内の西の角に位置する。 それは、天皇がいる平城京を最も見下しやすい場所である。 八角円堂は霊をなぐさめるための建物。 北円堂について⇒⇒⇒ |
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三重塔 平安時代の終盤の康治3年(1143)に建ったが、治承4年(1180)に平氏による南部焼き射ちで焼けた跡、再建された。優美な線を醸し出す平安時代の建築様式を伝える。 初層内部には、弁財天が安置されている他、千体仏が描かれてている。7月7日弁財天供(べんざいてんく・弁才天)の法要。知恵の神弁財天をたたえる。頭部には鳥居や宇賀神を載せている。周囲の壁には千体仏が描かれている。年に一日だけ三重塔が開扉される。 弁財天は17世紀、高さ38.5cm、8本の手に剣や矢を握る。ふっくらとした表情。北円堂の諸像の迫力と対照的。 屋根の重みを下支えする組み物である肘木(ひじき)と台座となる斗(ます)のセットは、2・3層が三段重ねなのに初層は一段だけ。仏塔は一般に人が中に立ち入らない建物だが、 ここでは初層内部を広くして法要などに利用するために組み物を減らした。 組み物が簡素なため、白壁がきれいに見え、軽やかな印象を与える。 |
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興福寺の起源は、天智天皇8年(669)に中臣鎌足の夫人鏡女王が、鎌足の病気平癒を願って建立した山背国、 現在の京都市山科区にあった山階寺にある。その後飛鳥に移されて廐坂寺、和銅3年(710)の平城遷都に際して、 鎌足の息子の不比等が左京三条七坊に移し、興福寺と称した。 やがて藤原氏の興隆にともなって、我が国の宗教界はもとより政治、経済、社会、文化に大きな影響を及ぼした。 長い歴史の中で度重なる罹災と復興を繰り返し、現在に至る。 最盛期には175もの建物が軒を並べ、多くの僧侶が教学し、また仏像や経典、工芸品などが盛んに造られ、文化の華が咲き誇ってきた。 伽藍配置比較⇒⇒⇒ |
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南大門の基壇の復元工事が進められている。(2009-9-26現在) 南大門は二重の瓦屋根を持つ建物で、東西に金剛力像(木造)が安置されていた。 南大門は710年創建後7回焼失し、6度再建された。7度目の大火は享保2年(1717)。 |
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治承4年(1180)東大寺・興福寺の反平氏勢力を抑えるため平清盛が命じた南都焼き打ちでは、大火災の末、奈良(南都)の多数の仏教寺院が消失した。 南都復興の中心になったのが、慶派と呼ばれる奈良仏師一門。慶派は鎌倉幕府の擁護を受け、仏像は奈良だけではなく日本各地に残ることになった。 |
東金堂(国宝) | 講堂 |
東金堂 薬師如来坐像(重文)日光・月光菩薩立像(重文)文殊菩薩坐像(国王)維摩居士坐像(ゆいまこじ・国宝) 十二神将立像(国宝)四天王立像(国宝) 後堂(裏正面) 正了知大将立像(しょうりょうち) 阿弥陀如来像の板絵 本尊の薬師如来を挟んで対象の位置に維摩居士、文殊菩薩の両坐像が安置されている。 向かって左が眼光鋭い老人の維摩居士で、激しい表情で語りかけている。文殊像は若く品格があり、話に耳を 傾けている。大乗仏教の重要な経典「維摩経」の中で、在家信者の維摩と英知にとむ文殊とが法論を戦わせて いる場面となっている。 |
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神亀3年(726)に聖武天皇が元正天皇の病気回復を願って造立された薬師三尊像を安置するお堂である。 創建以来6回の焼失の後、応永22年(1415)に再建された。 現在の本尊薬師如来坐像は、このとき新しく鋳造された。日光・月光菩薩立像は、もと山田寺の像である。 10月4日夜塔影能がある。塔影能は東金堂の薬師如来へ能を奉納する目的。 |
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治承4年(1180)源平争乱期に平重衡(しげひら)の南都焼き打ちによって興福寺はほぼ全焼し東金堂も 本尊薬師如来とともに焼失した。東金堂は数年後に復興したが本尊を山田寺から薬師三尊を持ちさり 新東金堂に据えた。 |
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東金堂最後の被災は室町時代応永18年(1411)に、五重塔に落雷があり類焼した。4年後に復興したのが 現在の東金堂である。本尊もこの時も破損し仏頭が残った。(銅造仏頭・国宝・高さ98cm、顔幅55cm、国宝館) この銅造仏頭は東金堂解体修理中本尊の台座内に正面向きに納めてあった。 現本尊の脇侍日光・月光菩薩旧山田寺の像。 |
国宝館安置仏像 阿修羅像(国宝) 金剛力士立像(国宝) 千手観音立像(国宝) 板彫十二神将立像(国宝) 龍燈鬼(国宝)天燈鬼(国宝) 銅造仏頭(山田寺から運ばれたもの。応永の火災で頭部だけが残った) 仏頭について⇒⇒⇒ |
不空羂索観音菩薩坐象(ふくうけんさく) 国宝ポスターより |
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南円堂(重文) |
南円堂 本尊 不空羂索観音菩薩坐像(国宝ふくうけんさく)本尊の四方に四天王立像(国宝) 広目天立像・多聞天立像・増長天立像・持国天立像、が安置されている。 当初安置されていた法相六祖像は今は国宝館にある。 10月17日には大般若経転読法要がある。転読は600巻ある大般若経を略読する作法。八角円堂は霊をなぐさめる建物であり、 弘仁4年(813)藤原冬嗣(ふゆつぐ775~826)が父内麻呂の追善のために建てた。和銅3年(710)に始まった寺の整備の最後を飾る建物である。 4度再建された。 |
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南円堂の本尊不空羂索観音菩薩坐象は、手に持つ羂索(網と綱)で衆生を救いあげるという。運慶の父康慶による再興像、 文治5年(1189)。四天王立像は、弟子の定慶か息子の運慶によるとされる。 像高336cm、木造。 康慶⇒⇒⇒ |
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南円堂は西国33観音霊場の第9番札所でもある。 | |||
概要と特徴 奈良公園の中に千年の歴史を持った興福寺の堂塔が点在する。南円堂ご本尊は網、糸を持ち万人を救い、願いを叶えてくれる。 |
中金堂 単層裳階付き寄棟造 桁行9間 梁行6間 創建:和銅3年(710) 再建:平成30年(2018) 中金堂は藤原不比等が興福寺の最初の堂宇とし 級であったと言われています。当初は藤原鎌 (721)に橘三千代が夫不比等の一周忌供養で造 創建より6回の焼失・再建を繰り返し、享保2年 その後は老朽化が進んだため、平成12年(2000) 年(2018)に再建落慶を迎え、創建当時の様式で |
柱には槍鉋の跡が見える |
木造 釈迦如来坐像 像高283. 赤尾右京作
桧材
寄木造
漆箔 文化8年1811) ・江戸時代 伝統ある興福寺本尊 中金堂創建当初の本尊は、藤原鎌足が蘇我入鹿 の打倒を祈願して造立した釈迦如来像と伝えま す。現在安置される像は5代目。平成30年の再建 にあわせ、修理されました。二重円光の透かし彫り の光背をつけ、宣字形(せんのじがた)の裳懸座 |
鴟尾(しび) | 風鐸(ふうたく) |
増長天 国宝 桂材
寄木造
彩色
彫眼 像高197.2~ 206.6㎝ 鎌倉時代 鎌倉再興期の傑作 いずれも沓を履いて岩座に立ち、力強くダイナミックな 動きが特徴です。近年の研究により、像の肉身色など から従来持国天と呼んでいた像は増長天、増長天 は広目天、広目天は持国天であることがわかりました。 かつて南円堂に安置されていた四天王像で、もとは北 円堂にあったという説がありますが、断定には至って おりません。 |
法相柱 高さ約6.8m 周囲約2.45m 岩絵具
紙本著色 祖師画完成: 祖師画貼上げ: 法相の教えを伝える 法相宗の祖師を描き、教義の系譜・伝灯を示しま す。創建堂宇の柱に描かれ、焼失と再建を繰り返す 中、後世まで引き継がれていた「礼拝の対象」です。 1無著菩薩(むじゃくぼさつ) 5玄奘三蔵(げんじょうさんぞう) 9玄昉僧正 10善珠僧正(ぜんしゅ) 11別当行賀 12真興上綱 13権別当蔵俊 14解脱上人 |
重要文化財 像高64.3㎝ 厨子高102. 寛慶作・命尊筆 桧材 一木造 彩色 彫眼 南北朝時代 極彩色の吉祥天曼荼羅 吉祥天はヒンドゥ教の女神で、仏教に取り入れられ てからは美と幸運、富と繁栄、財産と智恵を授ける 神として信仰されるようになります。彩色など表面 の仕上げが良く残っており、厨子の扉には梵天・帝 釈天、奥壁には七宝山図が極彩色で描かれます。 台座裏の墨書銘によると本像は暦応3年(1340)に 施入され、中金堂に安置したことが分かっています。 |
重要文化財 像高93.8㎝ 桧材一木造 彩色 彫眼 鎌倉時代 財宝神として信仰 通常、大黒天は「打ち出の小槌」を持ち、円満な顔 で俵の上に乗る姿を目にしますが、それは後世に流 行した容貌です。元々は大自在天の化身として、怒 りの顔をした厨房の守護神でした。本像は厳しい表 情を残し、頭巾をかぶり、短い袴をつけ、袋を左肩に 背負って直立します。表面には鑿跡(のみあと)が残り、 |
像高薬王菩薩像: 362.0㎝ 薬上菩薩像: 360.0㎝ 桧材
寄木造
漆箔
彫眼 建仁2年(1202) ・鎌倉時代 心と身の病を治す 良薬を人々に与え、心と身の病気を治した兄弟の 菩薩。釈迦の脇侍として薬王・薬上を置くのは古式 と言われています。画像は鎌倉再興期に建てられ た西金堂の本尊(釈迦如来:現存の木造仏頭)の 脇侍でしたが、享保2年(1717)の焼失後、中金堂 の本尊脇侍として迎えられました。豊かな肉づけ、 整然とした姿に、奈良時代の乾漆像を思わせます。 |
興福寺 中金堂⇒⇒⇒ | |
全動画⇒⇒⇒ |
中金堂 |
中心の金堂であを中金堂は、和銅3年(710)に藤原不比等 により創建されたが、享保2年(1717)に焼失した。 同じ場所に再建される。 |
中金堂は8世紀初めの建立。以来7度の火災に遭い、 江戸時代の炎上焼失以降平成に至るまで再建されずにきた。 今回は創建当時の、天平回帰のデザインという。 単層裳階付正面37m、側面23m、高さ21mの規模で 本瓦葺き。長さ10m、直径77cmの母屋柱は36本必要。 樹齢400年のアパの木をアフリカから調達。他に 直径62cmの柱30本も輸入材。 |
中門・回廊復元図 | 東回廊から、中央は南円堂 | 中金堂の柱 | |||
中央手前が中門、奥に中金堂、東面回廊(右)、西面回廊(左)、南面回廊(手前)、北面回廊(奥) 平成10年(1998)に策定された「興福寺境内整備構想」に基づいて実施された発掘調査や古絵図から、 中門は単層、屋根は切妻造り、東西5間23m、南北2間8.4mで、正面中央3間を扉とし、その南面と北面に階段をつける。 この基壇は東西27m、南北14mであった。 また、回廊は中門から東西に張り出し北に延びてそれぞれ中金堂に取り付くかたちで巡っており、基壇の規模は東西87m、 南北10mであった。
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猿沢の池 殺生を戒めるために興福寺が魚など放つ放生会(ほうじょうえ) の池として奈良時代に人工的に造られた。 猿沢の池は興福寺の広大な境内の表玄関に位置してきた。 帝の寵愛を失った采女が入水する際に柳に衣を掛けた伝説があり、 柳が名物。 澄まず濁らず出ず入らず蛙はわかず藻は生えず魚が七分に水三分。 龍が住むという伝説があり、芥川龍之介が短編小説「龍」の題材にした。 |
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2月3日節分行事として、病気平癒を願う れた後、東金堂前の特設舞台で3匹の鬼と毘沙門天が激しい戦いを繰り 広げる鬼追い式がある。 豆まきは安全を考えて手渡しで行われる。 |
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日本三大会(え)のひとつ維摩会(ゆいまえ)がある | |||
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衣掛柳碑 |
春日大社末社 采女神社 御祭神 采女命 御例祭 旧八月十五日(仲秋) 御由緒 奈良時代、天皇の寵愛が薄れた 事を嘆いた采女(女官)が猿沢の 池に身を投げ、この霊を慰める 為に祀られたのが采女神社で ある。なお室町時代に、この話に 創作した。また、入水した池を 見るのは忍びないと一夜のうちに 御殿が池に背を向けたと伝えら れる。例祭当日は采女神社本殿 にて祭典が執行され、仲秋の名月 の月明りが猿沢の池に映る頃、 龍頭船に花扇を移し鍋首船と 共に二隻の船は幽玄な雅楽の 調べの中、猿沢の池を巡る。 |
謡曲「采女」と采女への哀悼歌 諸国一見の旅僧が奈良春日明神に参詣する と、一人の里女が来て、当社の由来を語り、なお 僧を誘って猿沢の池へ行き、昔帝の寵愛を うけた采女が帝の御心変りを恨んてこの池に 入水した事を語り、自分はその幽霊であると いって、池の中に入る。僧は池の辺で読経回向 していると、采女が現れて、成仏を喜び、采女 についての逸話を語り、歌舞を奏して再び池に 消えた。という大和物語の筋である。 采女への哀悼歌 我妹子が寝くたれ髪を猿沢の 池の玉藻と見るぞかなしき(人麻呂) (あのいとしい乙女のみだれ髪を猿沢の池の凛と 見るのは悲しいことだ。) 猿沢の池もつらしな我妹子が 玉藻かつかば水もひなまし(帝) (猿沢の池を見るのは恨めしい。あのいとしい 乙女が池に沈んで藻の下になってるのなら、 いっそ水が乾いてしまへはよかったのに。)
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三作を石子詰之旧跡 |
菩提院大御堂(通称、十三鐘) 本院はふつう、奈良時代の高僧玄眆僧正( ?~七四六)の創建と伝えられるが、実際は むしろ、玄の菩提を弔う一院として造営さ れたものであろう。本尊は阿弥陀如来坐像( 鎌倉時代、重要文化財)で別に児観音立像(ちご) が安置される。 鐘楼に掛かる梵鐘は永享八年(一四三六) の鋳造で、かつて昼夜十二時(一時は今の二 時間)に加えて、早朝勤行時(明けの七ッと 六ツの間)にも打鐘されたところから、当院 は「十三鐘」の通称でも親しまれている。 なお、大御堂前庭には、春日神鹿をあやま って殺傷した少年三作を石子詰(いしこづめ) 法相宗大本山 興福寺 |
奈良の名所,猿沢池の南に率川が流れています。この小さな川にかかる どのお地蔵さんも高さ数十cmはど。頭や顔が欠けているものもありま 「護岸工事で掘り返すたびに出てきたのです。数十年前は30体か40 明治時代、神と仏をわけるため仏像などを壊す廃仏設釈が広まりまし 町内の人が8月と12月、よだれかけを手作りします。大雨で川の水が 「お地さんを残してきた人たちの思いを大切にしたい」と加納さん。 近鉄奈良駅から徒歩約10分。かつては地名から尾花谷地蔵尊と呼 |
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