祇園祭

 日本三大祭の一つにも数えられる祇園祭は八坂神社の祭礼で、およそ1100年前に疫病退散を祈願して御霊会を行ったのが始まりと伝えられている。約1ヶ月にわたり多彩な神事や行事があり、17日には32基の豪壮華麗な山鉾の巡礼が行われる。
 祇園祭は、7月17日の山鉾巡行(やまぼこじゅんこう)の一日と、遠い地方からの見物の人たちは、思いがちであるかもしれない。せいぜい、16日の夜の宵山(よいやま)に来る。
 しかし、祇園祭のじっさいの祭事は、まず7月いっぱいつづいているのである。
 7月1日にそれぞれの山鉾町で、「吉符入り(きっぷいり)」、そして、はやしがはじまる。
 生き稚児(ちご)の乗る、長刀鉾(なぎなたぼこ)は、毎年、巡行の先頭であるが、そのほかの山鉾の順序をきめるのに、7月2日か3日、市長によって、くじ取り式が行われる。
 鉾は前の日あたりにたてるが、7月10日の「御輿洗い(みこしあらい)」が、祭りの本序であろうか。鴨川四条大橋で、御輿を洗う。洗うといっても、神官がさかきを水にひたして、御輿にそそぐわけである。
 そして、11日には、稚児が祇園社にまいる。長刀鉾に乗る稚児である。馬にまたがり、立烏帽子(たてえぼし)、水干(すいかん)の姿で、供をしたがえ、五位の位を授かりにゆくのである。五位より上は殿上人というわけである。
 むかしは、神仏が入りまじっていたから、稚児の左右の供の子供を、観音、勢至の二ぼさつに、なぞらえたこともあった。また、稚児が神に位をさずかるのを、稚児が神と婚礼にたとえたこともあった。
 「そんなん、けったいや。男やんか。」と、水木真一も稚児にされた時、言ったものだった。
 また稚児は「別火」である。つまり、家族と別の火で、煮たきしたものを、食べさせられる。浄(きよめ)である。しかし、今はそれも略して、ただ、稚児の食べ物に切り火を打つだけだともいう。

 7月17日の山鉾巡行よりも、京の人は、16日の宵山に、むしろ情趣を味わうようである。


  古都   川端康成  より
 京都の夏の風物詩に、活気にみちたいろどりをせるのは祇園祭である。最も早く成立した都市のまつりの代表的なそれが京の祇園祭であって、御霊会を出発点としてうけつがれ、変革期にも不死身のようによみがえって、町衆の伝統と創造のシンボルともなった。宵山のにぎわい、豪華絢爛の山鉾巡行など、その歴程の内実は、京に住む人々のエネルギーを照射する。
 祇園ばやしがはじまると、血はおどり胸もたかまる。
祇園祭はたんなる京都三大祭のひとつではない。山鉾緞通のそれぞれにも、国際性がきわだつ。国際化の社会も対応しうるまつりであって、あらたな寄合の場ともなりうる条件をもつ。さらなる昇華に期待する。

 京住記から  上田正昭  より
勅板(ちょくばん)について
 京都の祇園祭で、神輿の前を狩衣姿(かりぎぬ)の氏子が捧げ持って歩く神宝「勅板」は、祇園祭の歴史を知る上で重要な史料の一つ。
勅板は、錦の袋に入れられ、直接中身を見ることが出来ない。勅板は江戸時代中期のものとみられ、先端が山の形をしていて、縦183.4cm、幅20.7cm、厚さ約1cm。
上部に「感神院政所(かんしんいんまんどころ)」、その下に3行109文字が墨で書かれ、裏面中央に「天延二年六月七日」とある。
 内容は、平安時代、円融天皇の治世、天延2年(974)5月下旬、「高辻東洞院」の「秦助正(はたすけまさ)」という人物の「居宅」を「御旅所」とし、そこへ祇園の神輿が「神幸」
するようにとお告げがあった。さらに居宅の裏庭からクモの糸が祇園社(八坂神社)までつながり、祇園社の役人が糸をたどると助正宅にたどり着いたので、円融天皇に申し上げた
ところ、助正を神主とし、居宅を御旅所とするように命令が下った。
 勅板は御旅所が守り伝えてきたが、明治14年(1881)、八坂神社に奉納された。