飛鳥川の左岸にある7世紀中頃の大型建物群の
遺跡である。昭和52年(1977)の発掘調査で、4棟の
抵立柱建物が見つかっている。南北にならぶ2棟
の主殿舎を中なにして、この東側に棟をそろえた
2棟の脇殿を配置している。
正殿は4面に庇をもった大型建物で、
推定規模は
正面24.6m、奥行10.2mである。後殿と脇殿も正殿
側に庇を設け、各建物に囲まれた中庭には、大形
の玉石を敷きつめるなど、極めて整った一画をして
いる。なお、未調査地の、正殿の各建西側にも対応
する脇殿が予想されることからコ字形の建物物配置
が復元できる。このような規格正しい配置の建物や
石敷は、宮殿の中心部と共通することから、天皇の
宮殿あるいは、皇族の廊宅と考えられる。
大化改新後の白 4年(653)に中大兄皇子らが難波
から飛鳥にもどって来た時に、一時期営んだ
飛鳥川辺行宮の有力な候補地である。
昭和54年3月20日史時指定、 昭和56年5月16日日、
平成16年2月27日追加指定
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