第38代 天智天皇 (てんじ)地図

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天皇(第二皇子)
皇女(皇極・斉明天皇)
誕生 …626年(推古34年)
御名・異称 葛城・中大兄・天命・近江天皇
皇后 倭姫王
越智娘・蘇我姪娘
采女
宅子

立太子 …645年(皇極天皇4年)6.14
即位 …668年(天智天皇7年)1.
在位年数 …3年(称制7年)
崩御 …671年(天智天皇10年)12.3(年齢46才)
皇居 近江大津宮 
年号 … ―――
大化改新以前においては有名な蹴鞠の会で知り合った中臣鎌足(大原の里⇒)を右腕と頼み蘇我氏本宗家討滅計画の推進や隋に渡った南淵請安僧旻から大陸、半島情勢を学び、高句百済の動向、さらには唐の覇権拡大などを十分認識して皇室を中心とする中央集権国家の樹立に邁進した。
斉明天皇が崩御した後も中大兄皇子は皇太子の地位にとどまり称制のまま、対朝鮮戦略の指揮をとった。阿倍比羅夫らを派遣したが白村江の戦いで唐・新羅の大軍に大敗北を喫した。この敗北で朝廷の立場は脆弱化し、中大兄皇子は即位を当面見合わせた。
唐・新羅の威力を思い知った我が国は国防の強化に乗り出し、壱岐・対馬、筑紫に烽(ススミ)や防人を設置し、筑紫に水城を造った。
667年(天智天皇6年)、人心の一新を図る上から、中大兄皇子は都を大和の飛鳥から近江に遷都した。しかし、民衆の間では歓迎されなかった。
668年(天智天皇7年)皇太子はようやく即位し、天智天皇となった。
国内では、冠位を増やして二十六階とした。漏剋を台に置いて時を打たせた。さらに全国的戸籍のも作られた。
陵墓名 (山科御廟野山古墳) 上円下方墳
所在地 京都市東山区山科御陵上御陵廟野町
陵は南向きの傾斜面に立地する。墳丘は対角径約40mで、高さ8mの規模である。
墳丘東南の隅石が発見されているので、墳丘基底部は方形と思われる。上円下方墳の形態を基本的に採り、上円部は上八角下方墳ともいえる特殊な平面形態を示す古墳といわれる。
八角形墳3基の天皇陵と牽午子塚
 
八角墳⇒⇒⇒
 
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