難波宮跡(なにわのみやあと)地図

 難波宮は大化の改新(645)を機に飛鳥から遷都した前期と、聖武天皇が726年から造営を始めた後期の建物がある。
     
 大極殿後殿(北側)より  孝徳・天武・聖武天皇の宮都が営まれた。
大極殿基壇上に礎石を用いて構築された。
朝堂院より(南側)大極殿を望む。
かすかに大阪城が見える。 
 「大化改新(645)にともなう難波遷都以来八世紀末まで約150年間難波の宮は日本の首都として、また副都として、
日本の古代史上に大きな役割を果たした。
 昭和二九年(1954)以降長年にわたる発掘調査の結果、前期・後期二時期の難波宮跡が、
中央区法円坂(ほうえんざか)一帯の地に残っていることが明らかになった。
 現在内裏・朝堂院部分90、677uが、国の史跡に指定されている。」 
 「前期難波宮跡はすべて建物が掘立柱で、屋根に瓦を葺かない建物であった。
 七世紀の中頃、飛鳥で蘇我氏が亡ぼされて後、都が難波に遷されてつくられた難波長柄豊碕宮が
これにあたると考えられる。
 天武天皇朱鳥元年(686)に火災で全焼するまで続いたと考えられる。この宮殿は最初の本格的な
中国風の都といわれる大和の藤原宮に先行するものである。」 
  「後期難波宮は、奈良時代の神亀三年(726)聖武天皇の時代に造営された宮殿である。
 大極殿や朝堂院の中心建物には礎石が用いられ、屋根には蓮華文・唐草文・重圏文軒瓦などの瓦が
葺かれていた。
 天平十六年(744)に恭仁京からここ難波宮が首都と定められたが、翌年再び平城宮へと遷された。」
 
難波宮内裏東方遺跡
 
  「発掘された難波宮の建物は、
すべて柱を直接土中に埋め込む掘立柱式でしたが、
ここでは基壇を復原し、柱の位置に自然石を置いて
表現しています。」
 会所(排水施設=マンホール)
 外国使節をもてなした宮殿内に、迎賓館の機能があるとされる、周囲に回廊がある高床建物が
平成18年11月14日発表された。
 望楼では、生駒山や河内湖が望めた。 
  大化元年十二月に難波遷都の理由として、大化の新政を行うにあたって、交通が不便である飛鳥を去った。
 飛鳥の伝統的な名族が蕃居するところを離れて、難波の地に自由さを求める必要があった。
 640年代の朝鮮三国の激動にともなう東アジアの国際状況に対処するには、
外交上でもっとも適地であった難波が重視されたものであるとした等が考えられる。
 長柄豊碕宮が完成した翌年(653)、中大兄皇子孝徳天皇と意見が合わず、
皇極太上天皇大海人皇子らと飛鳥に移った。間人皇后のほか、官人もこれに従った。天皇は失意のうちに、
翌654年10月に長柄豊碕で亡くなった。
難波宮跡
 難波宮跡は、ほぼ同じ場所で時期と構造の異なる宮殿が確認されている。
 上層の後期難波宮は、聖武朝に造営された瓦葺きの宮殿である。一方下層の前期難波宮は瓦葺きではなく、、
難波長柄豊碕宮として孝徳朝に造営されたもので、天武朝には副都となり、朱鳥元年(686)に焼失した難波宮と
考えられている。
 前期難波宮の大きな特徴は、内裏空間の南に広大な朝堂院を備えていることである。宮殿の基本的な構造は、
同時代の飛鳥の宮殿にはないものであり、藤原京との高い類似性がある点で革新的な構造であった。
 難波宮は現在の大阪城付近にあった古代宮殿。
 中大兄皇子らが蘇我氏本宗家を打倒した「乙巳の変」(645)の後、飛鳥京から遷都した孝徳天皇
前期難波宮(645〜655、長柄豊碕宮・ながらとよさきのみや)を建設した。
後に都は飛鳥に戻ったが、天武天皇が683年に難波宮を「副都」とすることを決定。しかし686年に火災で焼失した。
 726年から聖武天皇が再び整備し、744年には一時都になった。後期難波宮の二時期の
宮跡(744〜745)がほぼ重なって存在する。前期は650年から始まり、652年に完成した。
 孝徳期の難波の小郡宮の構造は小墾田宮とほぼ同様であったと推定される。
これに続き、天武朝末期に焼失した難波の長柄豊碕宮とみられる前期難波宮の構造は、
藤原宮への発展過程にあるものとして注目される。
 前期難波宮はすべて掘立柱建築で、礎石や屋根瓦を使用していないが、
朝堂院や大極殿院の東西幅は藤原宮にほぼ等しい。
前期難波宮
 白雉2年(651)の大晦日、難波長柄豊碕宮への遷都に際して、宮殿では2100人もの僧尼が読経し、夜には2700もの
灯火が朝庭にともされ読経が行われた。これが天皇の宮殿で行われた最初の仏事である。翌年(652)の9月、
難波長柄豊崎宮の全体が完成し、日本書紀はその偉容について、ことごとくに論(い)ふべからず と讃なえている。
それまでの宮殿には例をみない広大な朝庭には14棟もの長大な朝堂がならび、内裏南門の東と西にはやはり例のない
八角殿が建てられた。
前期難波宮
 内裏前殿と内裏後殿は軒廊(こんろう)で繋がっており、前・後殿の間には東西塀があって区切られている。この東西塀
よりも北側には建て替えられた痕跡が確認されている。また、内裏前殿区の東西に並ぶ南北棟細殿も建て替えられて
いることから、前期難波宮の中院部分でも天武朝に増改築が行われた可能性がある。
前期難波宮の大蔵(おおくら)
 前期難波宮の北西には大規模な倉庫が整然と並ぶ。管理棟のあるこの官衙(かんが)は 難波大蔵 と考えられている。
朱鳥元年(686)正月14日、大蔵省に失火して、宮室悉くに焚けぬ とあり、難波宮を焼失させた火災はこの倉庫群の失火
であった。
難波宮関連⇒⇒⇒
最古の木簡⇒⇒⇒
天皇の宮⇒⇒⇒











近江大津宮地図
南滋賀町廃寺地図
崇福寺跡地図
穴太廃寺地図

(図および説明文は橿原考古学研究所付属博物館資料より)



大津宮

 
 
 天智称制6年(667)3月、都は大和を離れて近江に遷った。中大兄皇子は翌7年正月に天智天皇として即位する。
 白村江の戦いに大敗してから4年目のことであったが、この間、北部九州から大和に至るまでの防備強化行っており、
唐や新羅からの侵攻をいかに恐れていたかがうかがえる。近江遷都はそういった雰囲気の中で行われたものであったが、
当時の人々にとっても理解し難かったようであった。
 柿の本人麻呂は近江遷都について、いかさまに 思ほしめせか と詠っている。また、遷都した時のこととして、
日本書紀は天下の百姓、遷都すること願はずして、諷(そ)へ諫(あざむ)く者多し と伝え、火災が多く起こったという。

称制(しょうせい):君主が死亡した後、次代の君主となるもの(皇太子等)や先の君主の后が、即位せず政務を執ること
           中大兄皇子(天智天皇)とウ野讃良(持統天皇)が行った

 この大津宮跡は、滋賀県大津市に所在する錦織遺跡(にしごり)とする見解が有力である。大津宮を錦織の地に求める考えは
江戸時代からあったが、その根拠は「御所の内」という地名によっていた。その後、確定する根拠に欠いていたが、昭和49年
の錦織遺跡の発掘調査で、門とみられる遺構が検出され、大津宮との関係が注目されるようになった。
 そして、周辺の調査で次々と飛鳥時代の遺構が検出され、大津宮跡という見解が定着していった。
近江遷都⇒⇒⇒
白村江⇒⇒⇒
うま酒三輪の山⇒⇒⇒
太宰府⇒⇒⇒
高安山城⇒⇒⇒
 近江京という用語は、倭京と対比する形一件のみ日本書紀で確認できる。(天武紀元年・672 5月是月条)
歴史的用語ではないが、宮都研究の過程で、大津宮にも条坊制があると考えられるようになり、大津京と呼ばれるようになった。
 大津宮の段階にも条坊制があると考えられた理由は、大津宮を基準とした規格性のある地割や区画が存在しうるというもの。
この基準や区画については、明確な条坊道路が確認されているわけでもなく、現状の地割によるところが大きい。
実際には条坊道路のような区画が施工されていたかどうかは発掘調査で確認するほかない。しかし、大津宮の造営に伴って
地割に変更があったことが確認されている。
 大津宮は、検出された遺構を中心といて、改変されたとみられる地形や基盤となる土層の状況などから復原が試みられている。
その形状は、内裏の前面に広い朝堂院を備えるもので、前期難波宮を彷彿させる。
前期難波宮は孝徳朝の難波長柄豊碕宮とかんがえられているものであり、近江大津宮の構造を引き継いでいても問題はない。
近江の荒れた都を過ぐる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌 

 玉襷(たまだすき) 畝火(うねび)の山の 橿原の 日知(ひじり)の御代(みよ)ゆ 生(あ)まれしし
 神のことごと 樛(つが)の木の いやつぎつぎに
 天(あめ)の下 知らしめししを 
 天(そら)にみつ
 大和を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 
 天離(あまざか)る 夷(ひな)にはあれど
 石走(いはばし)る 淡海(あふみ)の国の
 楽浪(ささなみ)の
 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の
  神の尊(みこと)の 大宮は 此処と聞けども 大殿は
 此処と言へども
 春草の 繁く生(お)ひたる 霞立ち 春日(はるひ)の霧(き)れる
 ももしきの
 大宮処(おほみやどころ) 見れば悲しも

万葉集巻1−29








南滋賀町廃寺

 大津宮の北約500mに位置する。南滋賀町廃寺一帯には、周辺の条理とは異なる特殊条理があり、この特殊条理が南滋賀町廃寺の寺域を示していると考えられている。
 特殊条理は310〜315m四方である。寺域の西端にあたる榿木原遺跡(はんのきはら)では築地塀跡が検出されており、築地塀の西側には互窯が築かれていた。 
   
 南滋賀町廃寺の現況  南滋賀町廃寺の伽藍と寺域

崇福寺跡
 天智7年(668)正月、天智天皇は大津宮北西の山中に崇福寺を建立したという。塔心礎には舎利容器と鉄鏡が納められていた。大津宮には仏殿が備えられていたが、天智天皇は、都の守護を期待して寺院や仏殿を造営した。
 確認された伽藍は3本の尾根上にあるが、これらのうち、北側の弥勒堂跡と中央の小金堂跡、塔跡が崇福寺のもので、南側の金堂跡と講堂跡は、桓武天皇が創建した梵釈寺(ぼんしゃくじ)だと考えられている。 
 
崇福寺伽藍配置跡 青弥勒堂(上)、小金堂(左)、塔(右)
梵釈寺跡 橙金堂(左)、講堂(右)


穴太廃寺
 大津宮から北東に約3kmに位置する穴太廃寺では、当初、北で東に大きく振れる造営方式であったものが、7世紀後半になると同じ位置でほぼ正方位に再建されている。再建された時期から、穴太廃寺の再建は大津宮の造営にともなう都市計画に沿ったものだという指摘がある。
 現在に残る条理地割は、穴太廃寺よりも北側で斜交し、南側で正方位を向く。これが大津宮造営時の都市計画を反映していれば、穴太廃寺はその北端に位置することになる。
 再建寺院には講堂の南に塔と金堂が東西に配置されるが、これらを廻る回廊がないのが特徴である。
 穴太廃寺の金堂は、創建時と再建時ともに瓦積基壇であり、創建軒丸瓦は外縁に輻線文(ふくせんもん)のある単弁(素弁)蓮華文であるなど、渡来系氏族の寺院とされる要素が強い。なお、瓦の型式から、伽藍の確認された以前にも付近に寺院があったものと想定されている。