難波宮跡(なにわのみやあと)地図

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 難波宮は大化の改新(645)を機に飛鳥から遷都した前期と、聖武天皇が726年から造営を始めた後期の建物がある。
     
 大極殿後殿(北側)より  孝徳・天武・聖武天皇の宮都が営まれた。
大極殿基壇上に礎石を用いて構築された。
朝堂院より(南側)大極殿を望む。
かすかに大阪城が見える。 
 「大化改新(645)にともなう難波遷都以来八世紀末まで約150年間難波の宮は日本の首都として、また副都として、
日本の古代史上に大きな役割を果たした。
 昭和二九年(1954)以降長年にわたる発掘調査の結果、前期・後期二時期の難波宮跡が、
中央区法円坂(ほうえんざか)一帯の地に残っていることが明らかになった。
 現在内裏・朝堂院部分90、677㎡が、国の史跡に指定されている。」 
 「前期難波宮跡はすべて建物が掘立柱で、屋根に瓦を葺かない建物であった。
 七世紀の中頃、飛鳥で蘇我氏が亡ぼされて後、都が難波に遷されてつくられた難波長柄豊碕宮が
これにあたると考えられる。
 天武天皇朱鳥元年(686)に火災で全焼するまで続いたと考えられる。この宮殿は最初の本格的な
中国風の都といわれる大和の藤原宮に先行するものである。」 
  「後期難波宮は、奈良時代の神亀三年(726)聖武天皇の時代に造営された宮殿である。
 大極殿や朝堂院の中心建物には礎石が用いられ、屋根には蓮華文・唐草文・重圏文軒瓦などの瓦が
葺かれていた。
 天平十六年(744)に恭仁京からここ難波宮が首都と定められたが、翌年再び平城宮へと遷された。」
 
難波宮内裏東方遺跡
 
  「発掘された難波宮の建物は、
すべて柱を直接土中に埋め込む掘立柱式でしたが、
ここでは基壇を復原し、柱の位置に自然石を置いて
表現しています。」
 会所(排水施設=マンホール)
 外国使節をもてなした宮殿内に、迎賓館の機能があるとされる、周囲に回廊がある高床建物が
平成18年11月14日発表された。
 望楼では、生駒山や河内湖が望めた。 
  大化元年十二月に難波遷都の理由として、大化の新政を行うにあたって、交通が不便である飛鳥を去った。
 飛鳥の伝統的な名族が蕃居するところを離れて、難波の地に自由さを求める必要があった。
 640年代の朝鮮三国の激動にともなう東アジアの国際状況に対処するには、
外交上でもっとも適地であった難波が重視されたものであるとした等が考えられる。
 長柄豊碕宮が完成した翌年(653)、中大兄皇子孝徳天皇と意見が合わず、
皇極太上天皇大海人皇子らと飛鳥に移った。間人皇后のほか、官人もこれに従った。天皇は失意のうちに、
翌654年10月に長柄豊碕で亡くなった。
難波宮跡
 難波宮跡は、ほぼ同じ場所で時期と構造の異なる宮殿が確認されている。
 上層の後期難波宮は、聖武朝に造営された瓦葺きの宮殿である。一方下層の前期難波宮は瓦葺きではなく、、
難波長柄豊碕宮として孝徳朝に造営されたもので、天武朝には副都となり、朱鳥元年(686)に焼失した難波宮と
考えられている。
 前期難波宮の大きな特徴は、内裏空間の南に広大な朝堂院を備えていることである。宮殿の基本的な構造は、
同時代の飛鳥の宮殿にはないものであり、藤原京との高い類似性がある点で革新的な構造であった。
 難波宮は現在の大阪城付近にあった古代宮殿。
 中大兄皇子らが蘇我氏本宗家を打倒した「乙巳の変」(645)の後、飛鳥京から遷都した孝徳天皇
前期難波宮(645~655、長柄豊碕宮・ながらとよさきのみや)を建設した。
後に都は飛鳥に戻ったが、天武天皇が683年に難波宮を「副都」とすることを決定。しかし686年に火災で焼失した。
 726年から聖武天皇が再び整備し、744年には一時都になった。後期難波宮の二時期の
宮跡(744~745)がほぼ重なって存在する。前期は650年から始まり、652年に完成した。
 孝徳期の難波の小郡宮の構造は小墾田宮とほぼ同様であったと推定される。
これに続き、天武朝末期に焼失した難波の長柄豊碕宮とみられる前期難波宮の構造は、
藤原宮への発展過程にあるものとして注目される。
 前期難波宮はすべて掘立柱建築で、礎石や屋根瓦を使用していないが、
朝堂院や大極殿院の東西幅は藤原宮にほぼ等しい。
前期難波宮
 白雉2年(651)の大晦日、難波長柄豊碕宮への遷都に際して、宮殿では2100人もの僧尼が読経し、夜には2700もの
灯火が朝庭にともされ読経が行われた。これが天皇の宮殿で行われた最初の仏事である。翌年(652)の9月、
難波長柄豊崎宮の全体が完成し、日本書紀はその偉容について、ことごとくに論(い)ふべからず と讃なえている。
それまでの宮殿には例をみない広大な朝庭には14棟もの長大な朝堂がならび、内裏南門の東と西にはやはり例のない
八角殿が建てられた。
前期難波宮
 内裏前殿と内裏後殿は軒廊(こんろう)で繋がっており、前・後殿の間には東西塀があって区切られている。この東西塀
よりも北側には建て替えられた痕跡が確認されている。また、内裏前殿区の東西に並ぶ南北棟細殿も建て替えられて
いることから、前期難波宮の中院部分でも天武朝に増改築が行われた可能性がある。
前期難波宮の大蔵(おおくら)
 前期難波宮の北西には大規模な倉庫が整然と並ぶ。管理棟のあるこの官衙(かんが)は 難波大蔵 と考えられている。
朱鳥元年(686)正月14日、大蔵省に失火して、宮室悉くに焚けぬ とあり、難波宮を焼失させた火災はこの倉庫群の失火
であった。
難波宮関連  天皇大友 最古の木簡 飛鳥河辺行宮  
天皇の宮 難波宮と大化改新 律令制と天皇 安積親王の急死  
石の女帝 難波の宮跡(幻の大極殿)  法隆寺の謎 仁徳天皇 
恭仁京 亀形石造物 竹之内街道   鏡王女に賜った歌  
飛鳥時代とは  万葉賛歌 大化の明暗 長岡京  
推古大道  吉野への道(芋峠越え)  狂心渠   遅咲きの天皇「光仁天皇」  
両槻宮  称徳天皇と道鏡③   聖武天皇 重ねた遷都   聖武天皇像解釈が覆る  









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南滋賀廃寺跡⇒⇒⇒ 
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近江大津宮地図
 場   所  よみかた 地  図 
百穴古墳群 ひゃくけつ 百穴古墳群 
滋賀大仏  しがだいぶつ  滋賀大仏
崇福寺跡南  すうふくじ  崇福寺跡南
崇福寺跡中  すうふくじ 崇福寺跡中
崇福寺跡北  すうふくじ  崇福寺跡北
金仙滝  きんせんたき 金仙の滝
南滋賀町廃寺  みなみしが  南滋賀町廃寺
近江神宮  おうみじんぐう  近江神宮
錦織遺跡  にしごり  錦織遺跡
皇子山古墳  おうじやま  皇子山古墳
穴太廃寺  あのうはいじ 穴太廃寺

(図および説明文は橿原考古学研究所付属博物館資料より)

大津宮

 

天皇の居所の内裏と、政務をとる朝堂院からなる大津宮を

中心に、北には穴太廃寺・崇福寺・南滋賀町廃寺、南には園城

寺前身寺院がある、仏教色の濃い都であった。この4ヵ寺は、
宮の防衛拠点でもあったと考えられている。

 

大津宮(667~672年)の復原
 天皇の住まいである内裏と、政務をとる朝堂院からなる大津宮を
中心に、北には穴太廃寺·崇福寺·南滋賀廃寺、南には園城寺の前
身寺院がある。この4カ寺は、宮の防衛拠点であっとも考えられてい
る。

中西立太原画  

 
 天智称制6年(667)3月、都は大和を離れて近江に遷った。中大兄皇子は翌7年正月に天智天皇として即位する。
 白村江の戦いに大敗してから4年目のことであったが、この間、北部九州から大和に至るまでの防備強化行っており、
    (金田城(地図)・大野城(地図)・屋嶋城(地図)・鬼ノ城(地図)・高安城等の城を造る)
唐や新羅からの侵攻をいかに恐れていたかがうかがえる。近江遷都はそういった雰囲気の中で行われたものであったが、
当時の人々にとっても理解し難かったようであった。
 柿の本人麻呂は近江遷都について、いかさまに 思ほしめせか と詠っている。また、遷都した時のこととして、
日本書紀は天下の百姓、遷都すること願はずして、諷(そ)へ諫(あざむ)く者多し と伝え、火災が多く起こったという。

称制(しょうせい):君主が死亡した後、次代の君主となるもの(皇太子等)や先の君主の后が、即位せず政務を執ること
           中大兄皇子(天智天皇)とウ野讃良(持統天皇)が行った

 この大津宮跡は、滋賀県大津市に所在する錦織遺跡(にしごり)とする見解が有力である。大津宮を錦織の地に求める考えは
江戸時代からあったが、その根拠は「御所の内」という地名によっていた。その後、確定する根拠に欠いていたが、昭和49年
の錦織遺跡の発掘調査で、門とみられる遺構が検出され、大津宮との関係が注目されるようになった。
 そして、周辺の調査で次々と飛鳥時代の遺構が検出され、大津宮跡という見解が定着していった。

風水説による都城  近江遷都  白村江
うま酒三輪の山 太宰府 高安山城
八角形の大王墓 なぜ  法隆寺の謎 壬申の乱の決戦地にもなった 
和同銭 近江京の址 政争と陰謀で増えた墓 
吉野の鮎 徹夜の行軍  古事記の成立 
飛鳥時代とは 藤原不比等  悲劇の皇子たち
天武の宮廷に生きた天智の皇子 河嶋皇子  新羅 古事記の成立 
法隆寺の謎 大化改新の反革命であった壬申の乱  近江大津宮錦織遺跡について
天武天皇の政治  志賀・大津宮  志賀・大津宮   
鏡王女に賜った歌   吉野への道   山高み河雄大  
国栖奏   近江荒都歌  水落遺跡  
漏刻      
 近江京という用語は、倭京と対比する形一件のみ日本書紀で確認できる。(天武紀元年・672 5月是月条)
歴史的用語ではないが、宮都研究の過程で、大津宮にも条坊制があると考えられるようになり、大津京と呼ばれるようになった。
 大津宮の段階にも条坊制があると考えられた理由は、大津宮を基準とした規格性のある地割や区画が存在しうるというもの。
この基準や区画については、明確な条坊道路が確認されているわけでもなく、現状の地割によるところが大きい。
実際には条坊道路のような区画が施工されていたかどうかは発掘調査で確認するほかない。しかし、大津宮の造営に伴って
地割に変更があったことが確認されている。
 近江(おうみ)の地名は、近淡海(ちかつおうみ)から「二次化令」2字、良い字にすることにより、近江(おうみ)に変更と
なった。
 ニ字化令は幕末まで続いた。
 大津宮は、検出された遺構を中心といて、改変されたとみられる地形や基盤となる土層の状況などから復原が試みられている。
その形状は、内裏の前面に広い朝堂院を備えるもので、前期難波宮を彷彿させる。
前期難波宮は孝徳朝の難波長柄豊碕宮とかんがえられているものであり、近江大津宮の構造を引き継いでいても問題はない。
近江の荒れた都を過ぐる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌 

 玉襷(たまだすき) 畝火(うねび)の山の 橿原の 日知(ひじり)の御代(みよ)ゆ 生(あ)まれしし
 神のことごと 樛(つが)の木の いやつぎつぎに
 天(あめ)の下 知らしめししを 
 天(そら)にみつ
 大和を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 
 天離(あまざか)る 夷(ひな)にはあれど
 石走(いはばし)る 淡海(あふみ)の国の
 楽浪(ささなみ)の
 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の
  神の尊(みこと)の 大宮は 此処と聞けども 大殿は
 此処と言へども
 春草の 繁く生(お)ひたる 霞立ち 春日(はるひ)の霧(き)れる
 ももしきの
 大宮処(おほみやどころ) 見れば悲しも

万葉集巻1-29

柿本人麻呂  柿本人麻呂・万葉集第二期の代表歌人 万葉集 
近江荒都歌     

 柿本朝臣人麻呂の近江の国より上り来し時、宇治河の辺に至りて作れる歌一首
3・二六四  もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行くへ知らずも
 
 柿本朝臣人麻呂の歌一首
3・二六六  近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ


南滋賀町廃寺

     
 南滋賀町廃寺  南滋賀町廃寺の伽藍と寺域 
  大津宮の北約500mに位置する。南滋賀町廃寺一帯には、周辺の条理とは異なる特殊条理があり、
この特殊条理が南滋賀町廃寺の寺域を示していると考えられている。
 特殊条理は310~315m四方である。寺域の西端にあたる榿木原遺跡(はんのきはら)では築地
塀跡が検出されており、築地塀の西側には互窯が築かれていた。  
 

 7世紀は大津京域内で寺院が多く建立された。南滋賀町廃寺もその一つで川原寺式の伽藍配置の大規
模な寺院であった。ここから大陸から伝わった蓮華模様の方形軒瓦が出土している。

法隆寺の謎⇒⇒⇒

   
   

南滋賀町廃寺跡 (大津市南志賀二丁目)
 南志賀の地は昔から古瓦が出土することが知られていました。
昭和三年
(一九二八)と昭和一三年から一五年にかけての二度にわたる発掘調査によって、
·金堂.僧房跡等が見つかり、この地に寺院が存在していたことが明らかにされました。また、
その後の調査によって、この寺院跡の伽藍配置は塔と西金堂が東西に対置し、
これらをとりまいて回廊がめぐる「川原寺式伽藍配置」であることがわかりました。このうち
,西金堂,金堂の基壇は瓦積みで仕上げられていました。
 この寺院は天智天皇建立の崇福寺とも桓武天皇建立の梵釈寺とも考えられていましたが
『扶桑略記』に崇福寺が大津宮の乾
(北西)の方向に建てられたという記事があり、
この南志賀の地の寺院跡と同時に調査された滋賀里山中にも寺院跡が発見されていることから、
そこが崇福寺跡として妥当性が高く、また
,『日本後紀』には崇福寺と梵釈寺が近接した
位置にあったことが見られることから、この南志賀に位置す
る寺院跡は逸名の寺院、
南滋賀町廃寺ということになっています。

 調査の際には多数の瓦や土器が出土しており、その中にはこの地でしか見られない、
蓮華を横から見た紋様で飾った方形軒瓦もあります。これらの遺物等から、白鳳時代から
平安時代末頃までこの寺院が存在していたことが明らかになりました。
 
 この廃寺跡から約三〇〇m西の地点で、この寺で使用した瓦を焼いた瓦窯群(榿木原遺跡)
が見つかっており、瓦を手がかりにして生産、需要
,供給といった流通関係が明らかにされて
います。

     昭和三二年(一九五七)一〇月に国の史跡に指定されました。
        大津市教育委員会 平成九年(一九九七)三月






崇福寺跡
 天智7年(668)正月、天智天皇は大津宮北西の山中に崇福寺を建立したという。塔心礎には舎利容器と鉄鏡が納められていた。
大津宮には仏殿が備えられていたが、天智天皇は、都の守護を期待して寺院や仏殿を造営した。
 確認された伽藍は3本の尾根上にあるが、これらのうち、北側の弥勒堂跡と中央の小金堂跡、塔跡が崇福寺のもので、南側の
金堂跡と講堂跡は、桓武天皇が創建した梵釈寺(ぼんしゃくじ)だと考えられている。
 

 大津京の北北西の方角にあり比叡山から続く尾根上に立つ。天皇の勅願によって668年(天智7)に建てられた舎利容器,銅鏡,和同開珎
など多く出土している。

崇福寺は天智天皇7(668)の大津遷都の翌年に建立された寺です。寺跡は三条の尾根の上に残り 北尾根は弥勒堂跡。
の尾根は小金堂·塔跡、南尾根は金堂,講堂跡です。
塔跡の心礎から国宝舎利容器が発掘され近江神宮に保管されています。金堂跡には記念碑が立てられ桜や楓ず植えられています。
参道には百穴古墳や石仏があります。

近江京の址  法隆寺の謎  當麻寺西塔

 
   
  崇福寺南(金堂・講堂)、崇福寺中(小金堂・塔跡)、崇福寺北(金堂・弥勒堂) 

崇福寺南 金堂・講堂
 崇福寺は、天智天皇の勅願によって、天智七(六六八)年に創建された寺院で、志賀寺とも志賀山寺とも呼ばれて
いました。

昭和三年と昭和一三· 一四年の調査によって、三つの尾根上に礎石建物が建てられていたことが明らかになりまし た。
ここ南の尾根上には、西側に約五·五メートル四方の基壇を設けた金堂跡と考えられている五間四間の南面する建物跡
があります。その東側には、同じく五間四間の南面する建物があり、講堂跡と考えられています。さらに、講堂跡の北に
も三間二間くらいの小さな建物跡があります。
この南の尾根上の建物と北·中の尾根上の建物群とでは、建物の方位や
礎石の形状が異なることや南の尾根上の建物群周辺から白鳳時代の遺物が出土しないことから現在、南の尾根の建物
群を桓武天皇によって建立された梵釈寺に、北
·中の尾根上の建物群を崇福寺にあてる説が有力視されています。
崇福寺は、壬申の乱によって大津宮が廃都になった後も、繁栄を続け、平安時代には十大寺のひとつに数えられるほど
になります。しかし、平安時代末期の山門
(延暦寺)と寺門(園城寺)の争いに巻き込まれ衰退の一途をたどり、鎌倉時代
後半頃には、ついに廃絶してしまったようです。

  昭和一六(一九四一)年一月、国指定の史跡となりました。
   大津市教育委員会 平成四(一九九二)年三月  
   
   


崇福寺中 小金堂・塔跡
 崇福寺は、天智天皇の勅願によって,天智七(六六八)年に創建された寺院で、志賀寺とも志賀山寺ともよ呼ばれていました。
昭和三年と昭和一三・一四年の調査によって、三つの尾根上に礎石建物が建てられていたことが明らかになりました。
ここ中の尾根上には、東西に二つの基壇があります。西側の建物は小金堂と考えられています。東側の建物は塔跡で、
基壇中央部の地下一メートル余りのところ
に塔心礎がありました。この塔心礎の側面にあけられた舎利孔から、舎利容器
一具と荘厳具が発見されました。

 その舎利容器は、金銅製外箱、銀製中箱、金製内箱金製の蓋を持った瑠璃(ガラス)壺からなっておりこの瑠璃壺の中に
は水晶の舎利三粒が納められていました。また、舎利容器の中からは、紫水晶二粒、ガラス玉一四個も発見されています。
さらに、舎利孔の中には、舎利容器の他に、無文銀銭二枚、金銅背鉄鏡一面、銅鈴二個、硬玉製丸玉三個、木片などが納
められていました。
和同銭⇒⇒⇒
 また、塔跡や小金堂跡の周辺からは、塼仏や塑像の破片なども出土しています。
     昭和一六(一九四一)年一月、国指定の史跡となりました。
       大津市教育委員会  平成四(一九九二)年三月
   
 小金堂跡(左)、塔跡(右)
   
 小金堂跡 瓦 

  

崇福寺北 弥勒堂跡
 崇福寺は天智天皇の勅願によって、天智七年(,六八)に創建された寺院で:志賀寺とも志賀山寺とも.呼ばれていました。
昭和三年と昭和十三・十四年の調査によって、三つの尾根上に礎石建物が建てられていたことが明らかになりました。
ここ北の尾根上には、弥勒堂跡と呼ばれている建物跡があります。弥勒堂跡は瓦積み基壇を設けた建物で、礎石の配置
から五間三間の建物であったと考えられています。
また、弥勒堂跡の東側で、瓦積み基壇の一部や石垣の一部が見つかっていますが、どのような建物であったかは、
よくわかっていません。

 また、この弥勒堂跡の西の谷筋には、崇福寺建立にまつわる伝説を持つ金仙滝と霊窟があります。ある日宮の (北西)
の方向に霊窟があるという不思議な夢を見た天智天皇は、その夢でいわれたとおりに、翌朝この地に探しにきたところ、一人
の僧侶と出会い、この地が仙人の住む霊窟であるという話を聞きました。

このことが崇福寺建立のきっかけとなったということです。
 昭和一六年(一九四一)一月、国指定の史跡となりました。
         大津市教育委員会 平成二〇年(二〇〇八)三月
     
 図 右下山から土が崩れている。写真は奥に当たる。





錦織遺跡

史跡近江大津宮錦織遺跡
 西暦六六七年、天智天皇は新羅·唐の連合軍と対戦した白村江の戦いが敗北に終わった後、
突然都を飛鳥から近江に移しました。この近江に営まれた宮が大津宮です。天智天皇は律令制
基づいた天皇を中心とする統一国家を作ろうとしましたが、遷都後わずか五年でこの世を去り、
その後に起きた壬申の乱によって大津宮自体も廃墟となってしまいました。わずか五年五カ月の
短命の都でした。

 大津宮の位置については錦織説、南志賀説、滋賀里説等があり、その位置については容易に
明確にすることができませんでしたが、昭和四九年にここ錦織二丁目で行われた発掘調査により、
東西南北に整然と並ぶ大型の柱穴が十三基発見されました。この遺構は東西に細長い建物跡と
推定され、発見された地層や建物の規模などから、宮に関連するものとしか考えられず、ここが
大津宮の有力な候補地として注目されるようになりました。その後、昭和五三年に、この建物跡の
続きの部分を発掘調査したところ、さらに東に延びる柱列が発見されたことにより、この部分は、
内裏南門と宮の中心を囲う回廊とこれにつながる柵の跡と判断され、この部分が大津宮のまさに
中心部分であることが明らかになりました。

 ここに、長年追い求め続けられてきた大津宮の位置が確定され、昭和五四年に建物跡の見つ
かった部分が国の史跡に指定されました。その後に発見された宮関連の建物跡などの遺構がある
場所も順次史跡に
指定されています。

   
 

  玉襷 畝火の山の 橿原の 日知の卸代ゆ 生れましし

  神のことごと 樛の木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを

  天にみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか

  天離る 夷にはあれど 石走る 淡海の国の

  楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめ けむ 天皇の

  神の尊の 大宮は 此処く聞けども 大殿は

  此処と言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる

  ももしきの 大宮処 見れば悲しも
        巻1-29  柿本人麻呂

  

畝傍の山の、橿原の聖なる神武天皇の御代から、お生まれになった歴代の天皇が、次々にそ

こで天下を治められたのに、その大和を捨てて、奈良山を越え、どのようにお思いになってか、天

智天皇は遠く離れた田舎であるのに、近江の国の楽浪の大津の宮で、天下をお治めになった

そうである。その天皇の神の命の大宮はここだと開くけれど、大殿はここだと言うけれど、春

の草がいっぱい生えている、霞が立って春の日が霞んでる大宮の跡どころを見ると悲しい。


壬申の乱(六七二年)により灰燼に帰した近江京の跡を訪ねた柿本人麻呂のよんだ歌。

初代神武天皇以来、都があった大和を離れ、近江の大津に都をおいた天智天皇の都と

宮殿が、今はもう草に埋もれ、霞に覆われて見えないことが悲しまれている。

     
     
史跡近江大津宮錦織遺跡(第一地点) 昭和六二年三月二五日追加指定
 この場所は、大津宮の中心である内裏の東南隅にあたります。
右手に見える二列に並ぶ柱は、内裏の入り口の門から東に延びる回廊の
一部と考えられています。また、左手に見える一列に並ぶ柱は、回廊から
北に延びる塀の一部と考えられています。
 ここから北に約八〇メートルの地点では、内裏正殿の跡が見つかってい
ます(第二地点)
 おそらく、正殿の南側は広場になっていて、第一地点と第二地点の間は
 儀式などに使われる重要な場所だったと考えられます。
   滋賀県教育委員会

史跡近江大津宮錦織遺跡(第二地点)  昭和六二年三月二五日追加指定
 大津宮は六六七年から五年五カ月という短い期間ですが、天智天皇により営まれた都です。
この時期は、我が国が国家としての体裁を整えた重要な時期にあたります。

 この場所は,内喬門推定地(第一地点)の真北約八〇メートルの場所にあり、天智天天皇が
政(まつりごと)を執り行った内裏正殿のあった場所
,つまり大津宮の中心的位置だったと推定
されています。

 昭和五七年(一九八二)の発掘調査では、建物の東南部分と考え,られる10基の柱跡が
見っかっています。建物の規模は
,桁行五間,梁行ニ間の身舎(もや)の四面に廂が付く格式の
高い大型建物で
,東西七間,南北四間,東西が二一.三メートル,南北が一〇.四メートルを測ります。
 この内裏正殿の建物は、道を挟んだ第七地点と第九地点まで広がっていたと考えられます。
      滋賀県教育委員会 

 
 推定内裏正殿復元図

近江大津宮錦織遺跡(第七地点)  昭和五九年七月三日追加指定
 大津宮はわが国が律令国家として歩み出した頃、六六七年から約五年間天智天皇
により営まれた都です。

 大津宮の構造は、内裏正殿・内裏南門·回廊··倉などの内裏と朝堂院とで構成され
ていたと推定されています

 この場所は、まだ発掘調査が行われていませんが、県道を挟んだ東側からは東西七間·
南北四間
(二一.三〇メートル×一〇.四〇メートル)の四方に廂を持つ、建物と推定され
る遺構の一部が見つかっています。この遺構は、その位置
·規模から、天智天皇が直接政
治を行った内裏正殿の跡と考えられており、建物西南部分はこの場所まで延びていると考
えられます。

     滋賀県教育委員会  

史跡近江大津宮錦織遺跡第八地点  平成11114日追加指定

大津宮は西暦六六七年に、天智天皇が飛鳥から近江へ宮を移して造営したものです。
昭和四九年の発掘調査により、この第八地点の北に隣接する第一地点で内裏南門跡
が発見され、ここ大津市錦織の地に大津宮があったことが確認されました。第八地点は、
まだ発掘査は実施されていませんが、その位置関係から内裏南門の一部が存在するも
のと考えられます。まさに大津宮中枢の入口にあたる重要な地点です。

 この第八地点の西を南北に走っている道路は、大津宮の南北中軸線にほぼ相当し、
後世には西近江路と呼ばれた重要な交通路でした。この道を北へ辿ると、大津宮と
同時代の遺跡である南滋賀町廃寺跡や崇福寺跡といった史跡を訪れることができます。

      滋賀県教育  平成133

 
 第九地点

史跡近江大津宮錦織遺跡(第九地点)  昭和五九年七月三日追加指定

大津宮が錦織地区に所在すると判断されたのは、昭和四九年(一九七四年)に第一地点の
発掘調査で内裏南門跡と、これに続く回廊の一部が発見されたことがきっかけで、それまでは
ここ錦織説のほかに南滋賀説
,滋賀里説などと、さまざまな所在地についての論争がありました。

その後、第一 ·第四地点および第三地点で回廊に直交および並行する塀跡が発見され、
推定内裏南門の東西両側に区画が設けられていたことが明らかとなりました。さらに第二地点で、
内裏南門の真北約八〇メートルの位置に、四面に廂を持つ内裏正殿とみられる建物跡が発見
されました。

これらのことから、内裏南門と正殿を結ぶ宮の中軸線が想定できるようになり、宮の構造が北
に内裏
,南に朝堂院を配する孝徳朝期の難波宮に近いものではないかと推定されるようになりま
した。

推定内裏正殿は,桁行七間(二一. 三〇メートル) ·梁行四間(一〇.四〇メートル)と想定されて
おり、その西側の廂部分がこの場所と、南側の第七地点におよんでいると考えられています。

滋賀県教育委員会







穴太廃寺
 大津宮から北東に約3kmに位置する穴太廃寺では、当初、北で東に大きく振れる造営方式であったものが、
7世紀後半になると同じ位置でほぼ正方位に再建されている。再建された時期から、穴太廃寺の再建は大津宮
の造営にともなう都市計画に沿ったものだという指摘がある。
 現在に残る条理地割は、穴太廃寺よりも北側で斜交し、南側で正方位を向く。これが大津宮造営時の都市計画
を反映していれば、穴太廃寺はその北端に位置することになる。
 再建寺院には講堂の南に塔と金堂が東西に配置されるが、これらを廻る回廊がないのが特徴である。
 穴太廃寺の金堂は、創建時と再建時ともに瓦積基壇であり、創建軒丸瓦は外縁に輻線文(ふくせんもん)のある
単弁(素弁)蓮華文であるなど、渡来系氏族の寺院とされる要素が強い。なお、瓦の型式から、伽藍の確認された
以前にも付近に寺院があったものと想定されている。