菩提山 正暦寺(しょうりゃくじ)地図

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本堂及び鐘楼
本尊 薬師如来
81段の石段  石仏  日本清酒発祥之地 
 かって存在した多数の坊跡から出てきた石仏が集められ、
ひな壇に並んだように密集している。
 1月9日「菩提酛(ぼだいもと)清酒祭」がある。
県内の蔵元有志らが乳酸発酵させた米を蒸し、当年の酒造りにむけて酒母を仕込む。
20日ごろに出来る酒母を蔵元が持ち帰り、酒を造る。
 正暦寺では室町時代、僧侶が酒を造っていた。原料処理、大量仕込み、殺菌といった
今につながる技術を確立し、全国に普及したと伝えられる。 

正暦寺の酒が、中世の日本の最高ブランド

●菩提山正暦寺とは、 正暦3年(992年) 一条天皇、 兼俊僧正の開基。 嘉吉 ( 1441-44)
の時代には坊舎86舎の巨大な寺院。 後、興福寺大乗院(公家が住職の寺)の末寺となる。

●公家の日記 (『建内記』)に1417年 (正月24日) に興福寺から贈られた奈良の

酒が「名酒」として出てくるのが初出。

●その中で、 正暦寺の酒が特出。 奈良酒の名声を高めていた。

・正暦寺の酒は、 「菩提泉」とも称されて全国に知られていた ( 「結城家新法度」 「佐竹

文書」 など関東の守護大名)。 「菩提泉」 がおそらく、 最古の酒ブランド名。

・ 「多聞院日記」 (永禄9年)には「山樽」とも称されている。 「南樽」 「南酒」などの名称も。

・興福寺大乗院経尋 (きょうじん : 関白の子) (1498-1526) などは、 1522年の日記に「無上

之酒山樽」とか、 「名酒山樽」 など。

・15世紀初頭から17世紀初めまで約200年間にわたり最高級の酒としての評価。

福寿院客殿(重文・龍華樹院りゅうげじゅいん)
 正暦3年(992)一条天皇の勅命を受けて、藤原氏北家の氏の長者、藤原兼家の子
兼俊僧正(けんしゅん)が創建したので、その年号をとって寺の名とした。
 真言密教の道場として栄え、谷に沿って堂塔、僧坊が建ち並んでいたという。
 治承4年(1180)平重衡が東大寺、興福寺などを焼いた南都焼き打ちで兵火にかかり、
一時は廃虚と化した。
 建保6年(1218)興福寺一条院大乗院住職信円僧正が法相宗の学問所として再興。
15世紀ごろの最盛期には86坊もあったと絵巻に記録されている。
 ところが、たびたび火災にかかり、また明治維新後の廃仏毀釈で、すっかり荒廃した。 
今は86坊の一つ福寿院だけが残った。
 客殿には孔雀明王、千体地蔵菩薩を祀る。
万葉歌碑と百日紅
 經(たて)もなく緯(ぬき)も定めずをとめらが
 織れる黄葉(もみじ)に霜な降りそね
  大津皇子 巻8 1512
  甫田鵄川 書

やまと百景  2014年 初冬号
 作家 中島史子 

正暦寺の歴史

 菩提山龍華寿院と号される正暦寺は正曆三

年(九九二) 一条天皇の勅願によって創建さ

れた古寺です。

菩提山というのは春日山の周囲一帯を、

迦が修行した聖地と見立てて、鹿野園、誓多

林、大慈山、忍辱山、菩提山と名付けられた

地名です。

かつてはそれぞれに寺院があったようです

が、今残っているのは忍辱山円成寺と正暦寺

だけ。いつ名づけられたのははっきりとは分

かりませんが、平安時代頃のようです。

一条天皇の時代は王朝文化が華麗に花開い

た頃です。関白藤原道長、中宮(後に皇后)

定子、中宮彰子、清少納言、紫式部が生きて

いた時代です。

正暦二年に成人式をあげられた一条天皇の

勅願ですから、その規模はどれほどのことだ

ったでしょう。往時は堂塔、伽藍が八十六坊

も立ち並び、威容を誇っていたとか。

しかし、治承四年(一一八0)の南都焼

き討ちに遭い、焼失しました。建保六年

(一二一六)には興福寺別当の信円僧正が法

相宗の学問所として再興させ、以後は興福寺

の別院としての歴史を刻んだのでした。

再びの苦難は明治時代の神仏分離令と廃仏

毀釈の嵐です。

与えられていた朱印地が無くなり、多くの

堂塔も失ってしまったのです。かろうじて国

の重要文化財指定の福寿院客殿、本堂、鐘楼

が残りました。ただ、広い境内のそこここに

は古い石垣が残り、かつての威容が思われます。

本尊は国の重要文化財に指定されている金

銅薬師如来倚像で奈良時代の作と伝えられて

います。福寿院客殿の 孔雀明王 は鎌倉時代の

作。

正暦寺本堂への石段横にはたくさんの石仏
が並んでいますが、これは
正暦寺でなくなられた
僧侶の墓石を集めたものだそうです。

石段は観世音菩薩の誓願の数にちなんだ三十三

と阿弥陀如来の誓願の数四十八、合計八十一

段になっていますから上る時に数えてみて

ください。なお、,上りきると観音様と如来様

のご加護がうけられると伝えられています。

本堂は大正五年( 一九一六)の再建ですが、

二六年二月の大雪による倒木で損壊、今修復

中。かつての伽藍は消失してしまいましたが、

深い山のたたずまいと豊かな自然は変わら

ず、祈りの日々が刻まれ続けているのです。


清酒発祥の地

 その昔、仏様へ献上するお酒として、荘園

からあがる米を用いて寺院で自家製造されて

いたようです。僧侶が醸造するお酒は「僧坊

酒」と呼ばれていました。

正暦寺は寺院の規模から、大量の「僧坊酒」

を作る筆頭格の大寺院であったようです。

仕込みを三回に分けて行う「三段仕込み」

や麹と掛米の両方に白米を使用する「諸白も

ろはく造り」、酒母の原型である「菩提酛(ぼ

だいもと)造り」から腐敗を防ぐための火入

れ作業行うなど、近代醸造法の基礎となる酒

造技術が確立されていました。

こういった酒造技術は先端の酒造法とし

て、室町時代の古文書「御酒之日記』や江戸

時代初期の「童蒙酒造記』にも記されている

そうです。

正暦寺での酒造技術は非常に高く天下第

一と評される「南都諸白(なんともろはく)

に受け継がれ、この「諸白」こそが、現代に

おいて行われている清酒製法の祖とされるの

です。それまでの濁り酒から清酒となったの

は正暦寺だったのですね。

毎年1月には酒母の仕込みを行い、「奈良

県菩提酛(ぼだいもと)による清酒製造研究

会」に所属する奈良県の蔵元がその酒母を持

ち帰り、その酒母を用いて醸造しています。

そういえば、唐時代の詩の一節に「林間温

酒焼紅葉」がありました。林の中で紅葉の落

葉を集めて燃やし、酒を温めるなんて風流で

すね。一条天皇や当時の貴族はそれにならっ

て楽しもうとここを紅葉の里にしたのかもし

れませんね。