誓願寺地図

 浄土宗西山草深派総本山
 天智天皇の勅願所として奈良に建てられた。のち一条通り小川(元誓願寺町)にあったが、
天正13年(1585)秀吉の町づくりによって移転させられ現地へ。
 更に明治の初め、「落語の祖」とされる第55世安楽庵策伝上人が、仏教説話の笑い話を集めた
「醒睡笑」を著した。教訓や風刺を交えた千余りの説教話が、後世落語のネタ本となる。
 我国最初の人体解剖を行った「山脇東洋」もここに眠る。
 清少納言、和泉式部らが帰依し、女人往生の寺として名高い。

天智天皇六年(六六七)、天皇の勅願により創建された。

本尊の阿弥陀如来坐像は賢問子・芥子国の作であった。元は

奈良にあったが、鎌倉初期に京都の一条小川(現・上京区元

誓願寺通小川西入)に移転し、その後天正十九年(一五九一)

に豊臣秀吉の寺町整備に際して現在地に移された

その当時は京都有数の巨刹の規模を有し、表門は寺町六角

に面し、裏門は三条通に北面し、境内地六千五百坪には多数

の伽藍を有し、十八ヶ寺の山内寺院を擁していた。

清少納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が帰依したこ

とにより、女人往生の寺としても名高い。また源信僧都は

当寺にて善財講を修し、一遍上人も念仏賦算を行った。浄土

宗元祖の法然上人が興福寺の蔵俊僧都より当寺を譲られて以

降、浄土宗になったという。現在は法然上人の高弟,西山上

人善恵房證空の流れを汲む浄土宗西山深草派の総本山である。法然⇒


誓願寺縁起絵

三幅からなる本縁起絵は、第一 ,第二幅に当寺の創建から

鎌倉初期に至るまでの由緒と霊験を描き、第三幅には鎌倉中

期から室町期にかけての霊験譚を描く。第三幅は近世になっ

てから追補されたもので、海北友雪筆と伝えられている。

各場面はおおむね第一幅では上から下へ、第二幅では下か

ら上に配されるが、両幅をまたいで進行する説話もある。
面の数の割に画面は大きく,鎌倉後期に宮廷絵所預であった。

高階隆兼の画風に似た丁寧な筆致で描かれている。

『宣胤卿記』の文亀二年(一五〇二)四月三日の条には、誓

願寺の僧が絵伝二幅を掛け縁起を読んだとする記事があり

おそらくこの絵伝の絵解きをしたものと考えられている。


誓願寺縁起絵(第一幅)

1、大和の仏師,賢問子、唐に渡って名を馳せる。身重の妻

を残し、木で作った鳥に乗って帰国する。

2、賢問子、唐より来た子,芥子国と共に天智天皇の命で誓

願寺本尊を作る。二人は毎夜、地蔵菩薩・観音菩薩と化して像

を刻む

3、延喜三年(九〇三)秋、醍醐天皇は亡き皇太后菩提のた

め『法華経』を書写し、誓願寺へ参詣し「無遮の大会」を営む。

4、源信僧都、誓願寺へ五十日こもり不断念仏を始め、善財

童子が五十余りの善知識に遇い、仏道を求めた絵相を自ら

五十余りの掛け軸に描き、これを内陣に掛け毎日讃嘆した。

5、清少納言,誓願寺への参詣を機に菩提心が起こり、髪を

落とし尼となる。臨終時には念仏を称え,誓願寺で往生を遂げる。

誓願寺縁起絵(第二遍

1、沙門圓能,頓死する。六地蔵に導かれて極楽の誓願寺本

尊や地獄の様子を見聞し、蘇生の後、往生を遂げる。

2、承元三年(一二〇九)四月九日かみ誓願寺本堂より出火

お堂を残らず焼失。三重県伊勢の権守為家は霊夢より鞍馬寺

の参詣を止め誓願寺に参詣。財産や幸福が願いの通りとな

り、報恩感謝の気持ちで誓願寺の再興を果たす。

3、西国の盗賊(後の常慶上人)、逮捕されるが肌身離さず

持ち歩いていた一寸八分の金銅仏に命を救われ道心を起こす。

4、西国の盗賊は、誓願寺への参詣を機に誓願寺で出家し常

慶上人となる。誓願寺の鐘を造立、また自身の人生を振り返

り貧苦救済のため、多聞天像を刻み、本堂外陣に安置する。

5、上東門院彰子は、父親の藤原道長公が亡くなった後、自ら

浄土三部経を書写し、誓願寺に1週間参籠し、夢告を受ける。

6、和泉式部、出離の志を起こし、書写山の性空上人を訪ね

る。その導きによりやがて誓願寺へ至り往生を遂げる。


誓願寺縁起絵(第三幅)

1、嘉禎二年(一二三六)春、九条道家公は誓願寺で西山證

空上人を導師として七日間の仏事を営む。證空上人の弟子

性達はその夜、お堂に現れた二人の老尼、一人は「青蓮」(中

将姫)、一人は「專意」(和泉式部)が西門へ去るのを見る。

2、一遍上人は熊野大権現のお告げをうける。すると十二、三

歳の子ども百人余りが、手を高く上げ「私たちにも念仏を授

けたまえ」と異口同音に念仏を称えてどこへともなく消えた。

この子どもたちは熊野大権現の使いかもしれない。

3、一遍上人は、お告げのままに六字の名号を拝書し、本堂

の寺額の横に並べ念仏を称えた。すると金色に輝く阿弥陀如

来が現れ、菩薩衆を引き連れた和泉式部が現れた。

4、後亀山天皇の皇子は、代々の天皇が誓願寺に詣で、感

応不思議の阿弥陀如来であると伝え-き、応永十七年

(一四一0)三十六歳の春、皇子は兄弟を誘い誓願寺へ詣で

髪を落とし墨染めの姿となり、真阿上人となる。

5、ある時、罪人の死刑執行を聞いた真阿上人は、将軍義教

に許しを請うた。すると真阿上人の頭の後に円光が現れた

6、真阿上人は永享十二年(一四四0)七月二日、六十六歳

で往生を遂げた。「我が屍を水葬して魚の餌食にして欲しい」

と遣言し門弟は下鳥羽の渕に屍を沈める。

7、嘉吉二年(一四四二)秋、郷の大夫貞氏は阿弥陀如来に

導かれ、肉体を捨てることなく西方に去り直ちに蓮台に生ま

れた(現身往生)。

拝観の手引 より