吉水神社(よしみずじんじゃ)地図
吉水神社(書院:重要文化財) 元は金峯山寺の僧坊で吉水院と呼ばれたところです が、明治の廃仏毀釈で神社となりました。後醍醐天 皇の行宮として使用され、源義経と静御前らが身を 隠したところでもあり、豊臣秀吉の花見の際には本陣 にもなったところです。単層入母屋造り檜皮葺きの書 院には南朝時代の古文書や秀吉の花見で使われた 楽器など100点以上を所蔵しています。. |
吉水神社 |
元は吉水院といい天武天皇の白鳳年間に役行者が創建したものと伝えられる。 明治8年寺号を廃して吉水神社と改め、後醍醐天皇・楠正成・吉水院宗信法印を 合祀している。 文治元年(1185)源義経が兄頼朝の迫害を逃れて静御前・弁慶らとともにここに 身を隠した。 延元元年(1336)後醍醐天皇が京の花山院を逃れて吉水院宗信の援護のもとに 行宮とされ、南朝の舞台となった。 文禄3年(1594)豊太閤が本陣として大花見の盛宴を催した。 |
奈良・世界遺産 |
役行者 |
弁慶力釘 | 蛭子神社 蛭子神 事代主命 恵比須神社 |
義経の馬の足跡 吉野山名所の吉水神社は、もとの吉水院である。その岩壁に、義経の馬の足跡というくぼみがいくつかで きている。義経が馬上で駆け登った時のものという。 また別に、地上にあらわれた石に、弁慶力試しの釘というのがある。義経が、ここに隠れていたころ、弁 慶が病気にかかって、しばらく引き寵っていたことがある。ようやく全快して、みずから力試しのために、 指先で石に押し込んでみた釘だという。大きな鉄の頭が二つ、石面にすれすれになって見えている。 神社の書院には、また「弁慶思案の間」というのがある。義経のことについて、智嚢をしぼったところだ という。 |
悲恋の逃避行 吉野町の世界遺産吉水神社に、源義経が恋人の静 御前や武蔵坊弁慶と約5日間隠れ住んだと伝わる「義 本桜」の舞台だ。 義経がここから山伏の姿に身を変え、女人禁制の大 峯山に逃げたのが、静御前との今生の別れ。同神社で 見学できる義経所用と伝わる甲胃や馬具の鎧ばこのと きのものと伝えられる。 義経を追討したのは同じ源氏の頼朝だ。「関東の東 国武士の棟梁でもある頼朝は、後白河法皇から平氏に とって代わる役割を求めら 氏軍と戦う機会があったのは富士川の戦いくらいで、 より織烈な『源源合戦』が鎌倉幕府の性格を決定づけ た」(外岡氏) 『吾妻鏡』によると、頼朝方につかまり鎌倉に送ら れた静御前は舞を命じられ、こう歌った。 《吉野山 峯の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡で恋しき》 義経を恋い慕う歌に頼朝は激怒したが、妻の政子は 心を打たれ、夫をとりなしたという。 |