第96代 後醍醐天皇(ごだいご)地図
如意輪寺は、後醍醐天皇の勅 願寺で、延喜年間(901〜90 2) 楠木正成の辞世の歌「かえらじ とかねて思えば梓弓なき数に入 る名こそとどむる」と記した扉 が宝物殿に納められており、裏 山には天皇の御遺骨をそのまま 葬られた塔尾陵がある。 |
|
如意輪寺 如意輪堂 |
父…後宇多天皇(第二皇子) 母…藤原忠子 誕生…1288年(正応元年)11.2 御名・異称…尊治 中宮…西國寺禧子・c子内親王 女院…阿野廉子(皇太后) 立太子…1308年(徳治3年)9.19 即位…1318年(文保2年)2.26 在位年数…21年 崩御…1339年(延元4年)8.16 年令…52才 皇居…吉野行宮 年号…文保、元応、元亨、正中、嘉磨、元徳、元弘、建武、延元 ○後醍醐天皇は持明院統の花園天皇のあとを受けて、大覚寺統から立った。 院政や摂関政治の廃止を願っており、後宇多法皇が後醍醐天皇の親政に同意して、これまで長く続いていた院政が停止された。 ○鎌倉幕府の討幕も企てたが、土岐頼貞に密告され、勅使を派遣して難を逃れられた。(正中の変) ○後醍醐天皇は、大覚寺統の後二条天皇の皇子邦良親王を皇太子に立てたが、間もなく崩じ、自分の皇子をかわりに立てようとしたが、幕府は後伏見天皇の皇子量仁親王を皇太子に立てたため、後醍醐天皇の討幕の意志は高まる一方であった。 ○1331年(元弘元年)、今度は信任のあった吉田貞房に密告され、幕府から出家を迫られたこれをこばみ、翌年隠岐に流された。この時量仁親王、つまり後の光厳天皇が幕府の奉請によって即位されたが、偽りの神器を光厳天皇に渡し、皇位はあくまでも譲っていない。1333年(元弘3年)、後醍醐天皇は隠岐を脱して、伯耆の名和長年を頼られた。つまり南・北二朝の並立のきっかけとなった。 ○1334年(元弘4年)、年号を建武と改めてから、わずか3年で飛鳥時代以降政治組織が確立され、以後足利氏が摂政・関白となり、政治の腐敗を招き、専横を極めた。しかし天皇中心の政治は続き、院政が行なわれた。つまり天皇は飾りとなったのである。中興の業とは天皇親政という意味で、この時点から院政が廃止され、摂政・関白・幕府もない新しい政治が生まれた。(建武の中興) ○足利尊氏は1335年(延元元年)、光厳天皇を奉じて入京、ついで尊氏の奏請により、光厳天皇は、弟の豊仁親王を踐祚して、北朝二代目の光明天皇とした。さらに、尊氏は後醍醐天皇と和解し、京都に天皇は遷幸されたが、花山院に幽閉され、光明天皇に神器を渡すよう強要され、渡したが後に偽物であることがわかった。しかし、嫡流の天皇であることは立証された。こののち、後醍醐天皇は譲位したとされ、太上天皇の尊号を受けたが、不満であり、ひそかに花山院から真の神器を奉じて、吉野に遷幸した。吉野朝廷が成立した。すなわち南朝である。ここに南北朝が並立した。
所在地…奈良県吉野町吉野山 ○御陵は、如意輪寺の後山にあり、北面した円墳で、径約27m、高さ5.5mの規模である。内外に二重の石柵が設けられ、内側の石柵は八角形に構築されている。遺により、棺槨を厚く葬られている。 ○正面には石門があり、元治の補修の時に設けられた。外周石柵は矩形で、1 868年〜1912年(明治年間)の修補のものである。戦乱であっても御陵守護人がいて、奉祀は絶えていない。元禄の検討以前からは、石柵・鳥居・石灯篭があり、1864年(元治元年)、1865年(慶応元年)に修補工事が行われ、峻工した。 |