真弓鑵子塚古墳(まゆみかんすづか)地図

 巨石と巨大石室で知られる石舞台古墳の玄室と比べ、奥行きは石舞台古墳の方が長いが、幅と高さは上回っている。
持ち送り形式のため石舞台古墳のように巨大な天井石を必要としない。
持ち送り方式で幅の広い空間を確保できる。
 明日香村南西部から高取町にかけての地域は檜隈と呼ばれ、東漢氏が多数居住していた。この地域の古墳は、ドーム形の天井の横穴式石室
でミニチュア竈を副葬品に含む特徴があり、渡来系氏族の墓と考えられている。その代表的なものが真弓鑵子塚古墳、与楽カンジョ古墳
与楽鑵子塚古墳である。
牽午子塚古墳     

   
 自然石を6、7段に積み、3段目までほぼ垂直で
あるが、4段目から上は、上の石ほど前方にせり
出す、持ち送りの技法がつかわれている。
持ち送りの石室は天井が狭まってドーム状に
なっている。

 持ち送りはアーチと形態は似ているが、
持ち送りが発展して出来たのがアーチと言われ
ている。
持ち送りは上方から荷重がそのまま垂直に伝わる
が、アーチは円弧に沿った横向きの力となって
伝わる。
アーチの方が構造的に堅固で安定していると
される。
 
 
明日香真弓丘陵の谷間にある。
 屋根端部(おねたんぶ)の瘤状(こぶじょう)の地形を利用して造られた、直径約25m、高さ約5m程の円墳で構築年代は6世紀の中頃と考えられている。
くの字に通り抜け出来る、長さ16m程の横穴式石室があり、中央がやや広い玄室(死者を葬る室)で、南側と北側に羨道(せんどう:玄室に通る道)が取り付いている。こうした例は極めてまれで、石室の幅が両手を拡げるほど広く、石壁の上部の積石がアーチ状に積まれていること等あいまって、非常に特色のある内部構造をした、後期横穴式石室墳である。 
 2008−2−9の現地見学の資料及び発表記事(朝日新聞2008−2−8)より。
 蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳をしのぐ国内最大級の規模であることがわかった。石室は1〜3トンの約400個の石をドーム状に組み上げ、遺体を安置する中心部の玄室とは別に奥室を持つ国内では例のない構造だった。
 直径約40mの円墳とみられ、玄室(奥行き6.5m、幅4.4m、高さ4.7m)だったことが分かった。玄室の床面積(約28u)は石舞台(約26u)より大きく、欽明天皇陵とされる丸山古墳の約34uに次2番目。
 複数の死者を葬るために広く造ったとみられ、少なくとも家形石棺2基と木棺1基が置かれていたらしい。
 
 今回の調査は真弓鑵子塚古墳の本格的な調査となり、以下、調査成果をまとめると@墳丘は北西に延びる丘陵を大規模に造成して築かれた直径約40m、高さ約8mの二段築成の円墳です。A埋葬施設は石英閃緑岩の巨石を使用した穹窿状の横穴式石室です。築造年代については石室内から出土した土器などから6世紀中頃と考えられます。C墳丘と石室部分には南海地震の影響と考えられる亀裂や大規模な地滑りも明らかとなりました。

 被葬者は蘇我氏に近づいて勢力を伸ばした渡来系氏族、東漢氏(やまとのあやうじ)の墓ではないかとも云われている。
 東漢氏は朝鮮半島の先端技術を伝えた集団で、崇峻天皇暗殺などでも暗躍したとされる。巨石を積み上げたドーム状の石室は朝鮮半島には多くみられる。

鑵子塚古墳

鐘子塚古墳(かんすうづかこふん)

 真弓の丘陵の西側の谷間の小さな丘の上にあり、直径23mほどの円墳である。墳丘

の調査はされていないが、見かけの墳丘はもう少し大きい。主体部の横穴式石室は19

62年(昭和37)に発掘調査された。片袖形の石室で、奥壁側にも羨道ふうの奥室が

つけられていて他に例を見ない形である。

 急な階段を登り詰めると石室の入口があいている。 地下におりる形で石室に滑り込む

内部は畳16枚の広さを持つ。 凹凸のある石を上手に積んでいる。北側にも入口状のも

のがあり、上部の石が抜けている。このようなことから入口が2か所ある横穴式石室と

紹介されているが、石が丁寧に積み上げられていることから、奥室として構築されたの

であろうとみられている。

 鎌子塚古墳の石室の高さ4.8mは、石舞台古墳にほぼ等しく、4.23m という幅は丸山古墳

(五条野町)についで大きい。 今日みることのできる最大級の石室とされている。出

土品は陶棺片、須恵器、土師器破片と、 獣面を彫刻した一辺1.2 センチの金銅製金具1

個、金銅装の馬見1点のみで、 過去の盗掘の激しさを物語っている。

 古墳の年代は、出土した須恵器や石室の石材が巨大化していない点などから、6世紀

中ごろ過ぎに築造されたようである。石室のルーツはよくわからないが、獣面の金銅製

金具が朝鮮半島の伽耶 (かや) ・百済 (くだら ) の獣面に類似している点も注意しておく必

要があるとされている。 





与楽乾城古墳
与楽鑵子塚古墳
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与楽乾城古墳

○乾城古墳(かんじょうこふん) カンジョ古墳

 墳丘は竹林となっているが、 採土や開墾がはげしく、原状がうかがえないばかりか、

墳丘の裾線も明瞭でない。部分的に段築の痕跡らしいところがみられ、2段築成とも考

えられる。径17メートルの円墳に推定復元されているが、判然とせず、規模はさらに

大きく30メートル、高さも10メートルになるのではないかといわれている。

 墳丘の改変がいちじるしい割に、 石室はさほど原状を損なっていない。玄室は現状で

長さ5.75m、幅3.48m 、高さ5mである。この玄室には現存長2.9m、幅1.6mの羨道がつき

両袖式となっている。玄室内の天井は高く、この天井を1枚岩ですませるため、4壁と

もかなり急な持ち送りをおこなっている。玄室の高さ5m以上という数値は、大和最大級

で、全国的にも5指にはいろうか。 鑵子塚古墳の4.8m、与楽雑子塚古墳(ようらくかんすづか)

の現高4.5mと、いずれも背の高いことが、越智岡東南麓の石室群の共通点である。乾城

古墳の築造時期は、鐘子塚よりやや後出の6世紀後半と推定されている。 





与楽鑵子塚古墳

○与楽鍵子塚古墳 (ようらくかんすづかこふん)

 乾城古墳の西北200メートル、貝吹山から南に派生する屋根からまたのびだす小さ

な屋根の端部に、与楽雑子塚古墳がある。現状は竹林と雑木林で、墳丘は比較的原状を

のこしている。径24m、高さ7mの円墳であり、南に開口する石室は、使用石材が小

型化しているものの、形態的には乾城古墳に類似している。異なるのは乾城古墳が両袖

式であるのに対し片袖式であり、石室の規模がやや小さいことくらいだとされている。

 出土遺物は報じられていない。石室の形態と構造からみると、 その築造は乾城古墳と

同時期か前後微妙な時期差があるくらいだろうといわれている。