第32代 崇峻天皇(すしゅん)地図

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欽明天皇(第十二皇子)
小姉君(そがのおあねのきみ)
誕生…520年(継体天皇14年)
御名.異称…泊瀬部(はつせべ)・長谷部尊(わかさざき)
皇妃大伴小手子(おおとものこてし)
立太子━━
即位587年(用明天皇2年)8.2  在位年数5
崩御592年(祟峻天皇5年)11.3  年令72
皇居  年号━━

用明天皇が崩御すると、皇位を狙う穂部皇子(あなほべ)を押し立てて物部守屋は狩猟を名目に軍を動かそうとした。この謀をみてとった蘇我馬子は炊屋(かしきや)を奉じて、穴穂部皇子を討った。そして、泊瀬部皇子、竹田皇子、厩皇子(聖徳太子)らとともに物部守屋を討つことにした。守屋の必死の防戦に苦戦を強いられた。ところが聖徳太子は仏に祈り、勝利したら寺を建立すると誓った物部守屋を蘇我馬子が滅ぼした。この乱が平定してから聖徳太子の祈願で四天王寺を建立した。

○炊屋姫尊と群臣らが瀬部皇子(祟峻天皇)に即位することを強く求め、即位した。政治の実権は大臣となった蘇我馬子によって握られた。  そして、現在の倉橋にある倉梯に宮を造営した。
○王権を軽視し政治をほしいままにしていた馬子に対し、天皇は次第に反感を抱くようになった。
○天皇に猪を奉る者があり、これを指して、この猪の首を切るように自分の嫌いな奴をいつか切ってしまいたいと言ったことを聞いた馬子は驚いて、東漢(やまとのあやのあたいこま)を使って天皇を殺害した。任那(みまな)再興のため新羅を討つべく大軍を筑紫に向かわせた留守を狙った犯行であった。
天皇と宮の名 崇仏・排仏 倉梯(くらはし)  
寺川と飛鳥川流域 法隆寺の謎 欠史八代 
蘇我氏陰謀の挫折  赤坂天王山(1号)古墳  推古大道 
東漢の凋落   とゆら「豊浦」    
陵墓岡上  円形
所在地奈良県桜井市大字倉橋
○「打墨縄」は天皇屋敷観音堂説を採り、金福寺をこれにあて、現陵となっている。15m前後の小円墳が1889年(明治22年)に治定された。
○他に赤坂天王山古墳を御陵とする説もある。一辺約50m、三段築成の大方墳である主体部は巨石使用の横穴式石室で、全長約17mあり、有数の規模である。六突起形の刳抜(りぬき)式家形石棺が玄室中央に安置され、墳丘中心点と石棺中心点が一致する。突起は水平で古いタイプである。
 母は蘇我稲目の娘。兄の穴穂部皇子が馬子に殺害された後、炊屋媛(かしきやひめ・推古天皇)や群臣に推されて587年に即位した。
しかし、飛鳥寺の建設に冷たかったことなどから馬子らとの距離が広がり、ついに暗殺という強硬手段で排除された。(592年)
 崇峻の寵愛が衰えたことを恨んだ妃が「天皇の馬子への憎しみ」を密告したという説もある。
 臣下が現職の天皇をあやめる。血なまぐさい古代史の中でも、馬子による崇峻天皇弑逆(しぎゃく)事件は異様であった。 
 母は蘇我稲目の娘。兄の穴穂部皇子が馬子に殺害された後、炊屋媛(かしきやひめ・推古天皇)や群臣に推されて587年に即位した。
しかし、飛鳥寺の建設に冷たかったことなどから馬子らとの距離が広がり、ついに暗殺という強硬手段で排除された。(592年)
 崇峻の寵愛が衰えたことを恨んだ妃が「天皇の馬子への憎しみ」を密告したという説もある。
 臣下が現職の天皇をあやめる。血なまぐさい古代史の中でも、馬子による崇峻天皇弑逆(しぎゃく)事件は異様であった。 

崇峻天皇相関関係

  崇峻天皇  守屋ー穴穂部ラインに近く馬子とは対立する立場にあったが、穴穂部の死後寝返った。
その為皇位に推されたが馬子とは感情的対立は続いた。 
欽明天皇  欽明には五人の妃があったが、二人は皇后の妹、一人は春日臣の子で、他の二人は
稲目の娘、小姉君・堅塩媛。
小姉君  蘇我稲目の娘・子に崇峻・穴穂部、姉に堅塩媛。
おじ 蘇我馬子  稲目の子。東漢直駒に命じ崇峻を葬った。その後駒も殺した。
兄弟  穴穂部皇子  崇峻とは同母兄弟、敏達天皇殯宮事件で馬子に殺された。
伯母  堅塩媛  稲目の娘、小姉君とは姉妹、馬子とは兄妹、用明推古を生む。 


倉梯地図
   
桜井市高齢者総合福祉センター 地図 
 桜井市高齢者総合福祉センター登り口に
倉梯柴垣宮伝承地の説明版が設置してある

倉梯柴垣宮伝承地(クラハシシバガ)

 倉梯柴垣宮は、第三十二代崇峻天皇が営んだ宮です。

記紀には、崇峻天皇の時、かねてより仏教の礼拝などをめぐる

蘇我氏物部氏との対立がついに戦となり、物部守屋が戦死

して廃仏派の物部氏が敗れ、丁未の乱(物部守屋の変)

といわれる事件が記されています。

 後に聖徳太子となる厩戸皇子も崇仏派の蘇我馬子の側につき

戦に加わったとされていますが、この事件の後、仏教は我が国

に厚く受け入れられるようになり、寺院の建も盛んに行わ

れるようになりました。また、この結果、蘇我氏が大きな

植力を得ることとなり、徒に崇峻天皇が暗殺される要因に

なったとされています。

 
  崇峻天皇の暗殺
 
   

 
 金福寺地図
 この付近が倉梯宮(日本書紀)跡といわれている。
 金福寺は民家風の建物、隣は崇峻天皇陵。
   


倉橋神社 地図
   
   
 
 愛宕山 金比羅大権現
   



等彌神社(とみじんじゃ)地図

 

上津尾社社殿

御祭神は、大日靈貴尊 (天照皇大神)。

本殿は、 元鳥見山中にあり、天永3年(1112)、現在地に遷されました。
拝殿は、大正13年に新設されました。

     

御由緒

 鳥見山の西麓に鎮座する当社の歴史は古く、十世紀前半に制定せられた
『延喜式』の神名帳にすでに記載があります。千数百年の悠久の歴史と伝
統を有するとともに、昭和十五年の紀元二千六百年当時には、旧村社から
県社に列せられ、爾来、地元桜井は元より、全国的な崇敬に預かる県下有
数の古社にして名社です。

 一の鳥居は平成二十七年伊勢神宮より拝受したのもです。

 境内には、百六十余基の石燈籠が並立し、参道を進むと上社「上津尾社」
に至り、裏参道を下ると下社「下津尾社」  に至ります。御祭神は、上社が
天照皇大神、下社には八幡大神・春日大神をお祀りするとともに、その他八社
(弓張・恵比須・金毘羅・黒龍・稲荷・猿田彦・愛宕・桃神)の境内社及び桜井

市護國神社が鎮座されています。

 近年では、秩父宮勢津子妃殿下、鷹司和子神宮祭主様のご参拝を始めとし

て、神宮大宮司徳川宗敬様、同じく二條弼基様、作家佐藤春夫先生、詩人堀

口大學先生、評論家で地元出身の保田與重郎先生など多くの文化人が参拝さ

れました。境内には万葉歌碑やこれら諸氏の句碑・歌碑が十三基建立されて

おり、一大文学の森を形成しています。 

 
 神饌所・参集所
 
下津尾社社殿

右殿、八幡社 御祭神は、磐余明神(神武天皇)、品陀和気命。

左殿、 春日社 御祭神は、高皇産靈神、天児屋根命。

 

御参拝記念碑
 秩父宮妃殿下
 鷹司神宮祭主

 徳川大宮司
 二條大宮司

平成の御大典事業並びに神社本庁神社振

興対策事業の一環として建碑されました。 

 
社務所(崇敬講本部)

大正時代に建設され、 昭和15年の県社昇格に
際し、「知事の間」 等が増築されました。

全国崇敬者の本部が併設されています。

   

猿田彦大神社

昭和55年に、 伊勢市鎮座の猿田彦神社より勧請されました。

猿田彦大神は、みちひらきの神として、交通安全の御神徳が発揚されます。

 

 この歌碑は『令和』の元となる万葉集の序文を記した
『大伴旅人』の妹『大伴坂上郎女』が跡見田庄(とみの
たどころ)で詠んだ万葉歌です。

  妹が目を始見(はつみ)の崎の秋萩は

  此月ごろは散りこすなゆめ

        (巻八〜一五六〇) 服部慶太郎 筆 

 
保田與重郎歌碑

鳥見山の此の面かの面をまたかくし

時雨(しぐれ) はよるの雨となりけり

保田與重郎歌 棟方志功画

(平成十一年五月五日除幕)

「鳥見山のこちら側やあちら側を一再なら

ず雲でかくして降ったりやんだりしてい

た時雨は、夜に入ってとうとう本降りの雨

になってしまった。」

   

友情句歌碑

  大和にはみささき(陵)多し草もみぢ

 佐藤春夫(昭和四十七年十一月四日除幕)

等彌神社々頭のかの春夫兄の句碑の脇に、老生の歌碑を
お建て下さるとのこと、これは願ってもない幸せ、よろこんで
お受けいたします。(以下省略)

 昭和四十八年七月二十一日大學老詩生

  さきに来て等彌のおん神おろがみし

  友につづきてわれも拝む(おろがむ)

 堀口大學(昭和四十八年十一月二十三日除幕)

文学の森探訪

神域に印される万葉びと文化人の足跡、 等彌神社境内は、
こんもりとした木々に包まれ、石燈籠の並ぶ参道のあちこち
には、歌碑や句碑が建てられています。

 昭和を代表する作家・佐藤春夫と詩人・堀口大學のうるわ
しい友情を偲ぶ句歌碑や万葉歌碑(三基)などを目にしなが
ら歩く境内は、文学の香りが漂います。

 
鳥見山霊畤拝所

  (大正十四年五月二十六日建設)

上津尾社より鳥見山の頂上に向かう一〇〇m

この拝所から東一キロの山中に神籬(ひも

ろぎ)がありました。神武天皇の霊時(まつ

りのにわ)として伝えられています。 左方

に左記の万葉歌碑が建っています。


万葉歌碑

   うかねらふ跡見山雪のいちしろく

   恋ひば妹が名人知らむかも

      万葉集 巻十二三四六 作者不詳

    筆神宮大宮司 徳川宗敬

「鳥見山に降り積もった白雪のようにはっ

きりと人目につくような恋の態度を示し

たら、人々は私の恋人の名を知ってしまう

だろうか。」

 
 子宝石
 神武天皇が鳥見山に霊畤を立て、皇祖天津神を祀り大孝をのべられたところ

(日本書紀) と伝えられている。この故事を顕彰する鳥見山中霊畤春季大祭が
5月13日に行われる。
  木々に囲まれた境内には、 万葉歌碑や佐藤春夫・堀口大学などの18基もの
句碑がある。 毎年8月18日には、 堀口大学ゆかりの百合にちなんで大学百合
祭りを行う。 秋の紅葉も見事である。  

 
  茂岡(鳥見山)に

 神さび立ちて栄えたる

 千代松の木の歳乃知らなく

    (万葉集巻六〜九九〇 紀朝臣鹿人)

 

 聖地鳥見山は、桜井駅の南東に位置しております。標

高二四五メートルのなだらかな山容を誇るこの聖地は、

橿原宮で即位されました初代天皇である神武天皇が、

霊畤(まつりにわ)を設けられました。霊畤は、国で採れ

た新穀及び産物を供えられ、天皇御自ら皇祖天津神々
を祭られ、大和平定と建国の大孝を申べ給うた大嘗会
の初の舞台です。



鳥見山地図
墨坂神社  降臨  石位寺 
舞谷古墳 等彌神社   











































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