石舞台 地図

 大きな石でできた舞台のようだが、周りの土が流れ横穴式石室がむき出しとなった古墳である。
 巨石を積み上げた、日本最大級の横穴式石室をもつ古墳。昔キツネがここで舞ったため「石舞台」の名がついたと伝説はいう。
その他、石舞台古墳を巨大な岩石の意味である「石太屋(いしぶとや)」から「石舞台」に変化したとも言われる。
30数個の巨石を積み上げて作られたこの古墳は飛鳥のシンボル的存在である。
 ここはもと島ノ庄といわれ、島の大臣蘇我馬子の邸宅があったことから蘇我馬子の墓といわれている。
日本書紀には、推古天皇三十四年(626)に「桃原墓に葬られた」と記されている。
桃源の墓については、明日香村島庄の石舞台古墳であることがほぼ確定している。
 蝦夷・入鹿の墓は今来(大和国高市郡)に造営された大小の双墓であることが記事にみえるが、古墳の比定については諸説があり
いまだ結論がでていない。稲目の墓は史料に一切みえないものの、その候補となる古墳が複数挙げられ、なお議論が続いている。
 
  候補古墳 
稲目  都塚古墳/丸山古墳 
馬子  石舞台古墳 
蝦夷・入鹿  五条野宮ケ原1号/五条野宮ケ原2号墳/菖蒲池古墳 
 玄室より天上石を見上げると、
巨大な石材を用いていることがわかる。
大小30数個の花崗岩が使用されている。

開口部より玄室を見る。
横穴式石室。
広さは約8坪。
玄室には巾30cm程の排水溝をめぐらす。
 たまった水は羨道中央部の溝を
通って出て行く。


 奈良時代の一辺50mの上円下方墳で、巨石を積み上げた横穴式石室は日本最大級である。もとはこの巨石群をおおう封土があって、
周囲に空湟(からぼり)と外堤をめぐらす壮大な古墳であった。
 権力を誇示した蘇我氏に反発した後世の人達が、封土を剥がしたという説がある。
 玄室左側天井石の重さは約66t、右側は77t、約30個の石の総重量は約2300tという日本最大級の古墳である。
構造は羨道(せんどう・えんどう)(全長2.4m)・玄室(奧行7.5m 巾3.3m 高さ4.8m)・周湟(湟の一辺5.1m 巾7.8m)・
外堤(高さ1.2m 上面巾6.9m)であった。

羨道:横穴式古墳の入口(羨門から玄室に至るまでの部分
 石舞台古墳は、古くから水田に露出しており、飛鳥路の道すじにあった得体の知れない巨石を用いた石室であったので、
飛鳥を経て吉野や多武峰に詣でる人々の記録に、「石太屋(いしぶとや)」「大きい石」「石屋形(いしやがた)」などとでてくる。
 石舞台古墳の築造年代は、石室が完全な両袖型石室で巨石墳であること、側壁は石材を三段積み、奧壁は二段積みにしていること、
出土遺物のしめす年代が七世紀前半のものであること、方墳であることなどから、七世紀前半の中頃以前のものと編年できる。
 この年代は、一般にこの古墳の被葬者としている蘇我馬子(?~626)の死亡した年にくらべるとやや古い傾向にあるが、
生前に自身の墓をつくる、「寿墓(じゅぼ)」であったとみると、この矛盾はなくなる。
 日本の古代遺跡 奈良飛鳥 より
 石舞台古墳近く(北60m)の島庄遺跡7世紀前半に造られた石組がある。
蘇我馬子や草壁皇子の宮殿「嶋の宮」があったとされるところで、邸宅や池に関連する遺構とみられている。
 
石舞台古墳の復元石棺 

 この発掘調査では、石棺は発見できませんでしたが、
石室からは
平らに加工した凝灰岩の破片が見つかりました。

このような発掘調査の成果と、飛鳥時代の古墳に施されて
いる石
棺の資料を基にして石舞台古墳の石棺を復元致しました。

一辺約五〇mの方墳です。墳丘の上部が失わ

れていますが、二段に築かれていたと考えられま

す。古墳の周囲には、幅八m程の溝とその外側に

堤がめぐり、墳丘と外堤斜面には貼石がみられま

埋葬施設は南西方向に開口する横穴式石室で

す。石室は両袖式で、石室長一九.一m、玄室の長

さ七..五m、幅三.四五m、高さ四.七m、羨道の長

さ一一..五m、幅二.五m、、高さ二.四m の大きさを

誇ります。天井石には、七〇トンを超える巨大な

石材が使用されています。

古墳は盗掘されていましたが、凝灰岩の破片の

ほか、須恵器・土師器、鉄鏃一本、若干の金銅製

金具が出土しました。凝灰岩の破片から、石棺が

安置されていたことがうかがえます。古墳の造ら

れた時期は、石室と土器の特徴から七世紀前葉と

考えられます。石舞台古墳は、六二六年に亡くなっ

蘇我馬子の桃原墓とする説が有力です。なお『日

本書紀』舒明即位前記(六二八年)に、「蘇我氏の

諸族等悉に集ひて、嶋大臣の為に墓を造りて墓所

に次れり」とあることから、この時点で馬子の墓

の造営が続いていたことがうかがえます。

一九七五年の調査では、外堤西側で小古墳が七

基みつかりました。これらの小古墳は、出土した

須恵器から六世紀末を中心に築かれたと考えられ

ます。このうち二号墳は石舞台古墳の築造にとも

なって破壊されたことが分かりました。小古墳を

破壊してまでこの地に石舞台古墳を築造した理由

とはいったいどのようなものだったのでしょうか。

歴史ウォーク「大和のなかのヤマト」第1回
   高松塚壁画館 泉武 氏  より

 
 動画      飛鳥の石舞台⇒⇒⇒ 
全動画⇒⇒⇒ 

古墳⇒⇒⇒
丸山(見瀬)古墳⇒⇒⇒
古墳(奈良)⇒⇒⇒




















小山田古墳地図

 飛鳥時代で最大級の方形の古墳(方墳
 新しい国造り目指した舒明天皇か、天皇をしのぐ権勢を誇ったとされる豪族の蘇我蝦夷か。
 なぜか古墳は短期間で壊されている。 
 近畿では最大級の方墳は聖徳太子の父、用明天皇陵墓とされる春日向山古墳(東西66m南北60m)や、
推古天皇陵とされる山田高塚古墳(東西66m、南北58m)だが、一辺70mの小山田古墳の規模はこれらを
上回る。是だけの規模は天皇の墓とも考えられ、舒明天皇の墓との見方もある。
 小山田古墳は、掘割の斜面に緑色の結晶片岩(緑泥片岩・りょくでい)と榛原石と呼ばれる板石が階段状
に積み上げられた異例の構造である。その構造が段ノ塚古墳で確認された石積に似ている。
 舒明天皇が最初に葬られた初葬地の可能性が高い。
 

小山田古墳が完成した頃のできごと


611年 舒明天皇没す

642年 皇極天皇が即位

     舒明天皇を「滑谷岡」に葬る

     蘇我蝦夷人鹿が「双墓」をつくる

643年 舒明天皇の墓を「押坂陵」に改葬

645年 乙巳の変(大化改新の発端)で、蝦夷人鹿が討たれる


 
 謎として、小山田古墳は7世紀後半のわずかな期間内に埋められた可能性が強い。
 蘇我蝦夷と入鹿の親子が権力を誇り、生前に双墓(ならびのはか)をつくり、大陵(おおみささぎ)を蝦夷の
墓、小陵(こみささぎ)を入鹿の墓にしたと伝える。だが、親子は舒明天皇の没後の645年、乙巳の変(大化の改新の発端)で
舒明天皇の息子、中大兄皇子らに滅ぼされ、時代は天皇を中心とする中央集権国家づくりへと転換する。
 この大陵を小山田古墳とも考えられる。大化改新で蘇我氏が滅んだ後、古墳は意図的に壊されたとすれば説明がつく。
 小山田古墳を、大陵、隣接する菖蒲池古墳を小陵とみる。天皇陵なら取り壊す必要はない。推古天皇が初めに葬られたと
みられる植山古墳には石室が残り、天皇陵が改葬後も石室を残す事例ではないか考えられる。
 蝦夷の墓ならば、古墳が小規模化する時代に逆行しても巨大古墳をつくれるほど蘇我氏が大きな権力を持ったことを示す。
 
2017-3-2 朝日新聞より
古墳の変遷⇒ 
段の塚古墳(舒明天皇陵)追加⇒⇒⇒

『小山田遺跡第5.6次調査現地説明会資料』

 検出した掘り割りの長さは、約48mになる。東西方向に直線で延びており、古墳にともな

うものとなる可能性が高いと考えられる。北面に貼石、底面には敷石が施され、南面の板

石積みは、古墳の墳丘下段北辺にあたると考えられる。

『日本書紀』皇極紀元年12月 息長足日廣額天皇を滑谷岡に葬りまつる。

             2年9月 息長足日廣額天皇を押坂陵に葬りまつる。(改葬)

『高市郡古墳誌』(書紀通証)滑谷岡在冬野。翌年改葬于押坂陵。

*2015年1月県立明日香養護学校の敷地内から発見され、世間の注目を浴びた。

舒明天皇の改葬前の墓「滑谷岡陵」とも、蘇我蝦夷の墓だとも云われている。また、

古墳以外の遺跡の可能性も指摘されていて、実態の解明は、今後の調査を待たねばならない。

2017-8-25 朝日新聞 
小山田古墳石室大規模の可能性

 飛鳥時代で最大級の古墳とみられる奈良県明日香村の小山田古墳(7世紀中ご

ろ)で、横穴式石室の通路(羨道)の遺構が確認された。
県立橿原考古学研究所
が24日発表した。
専門家は
「羨道の幅などから、石室もかなり大きかった可能性が高い」と指摘する。
方、古墳の中心にあるとみられていた、石棺を収める玄室は見つからなかった。

橿考研は今年3月、墳丘南端部で通路(幅約2.6m)の側壁の石を抜き取ったと
みられる2個の穴の一
部が見つかったと発表。
力豪族 蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(明日香村)の一辺約50mを上回る

一辺約70mの方墳とみられることがわかった。

今回、さらに6個の穴が出土し、遺構が通路であることがはっきりした。
木下
正史・東京学芸大名誉教授(考古学)は「石室は石舞台古墳と同規模か、
それ以上
になるだろう」と話す。

玄室について、橿考研の鈴木一議・主任研究員は「いつの時代かわからない

がすでに削られてしまったようだ」と推測する。

この古墳の被葬者については,7世紀前半に即位した舒明天皇や蘇我馬子の子

蝦夷などの見方が示されている。

(田中祐也)

 新しい国づくりを目指した舒明天皇か、天皇をしのぐ権力を持った

とされる大豪族の蘇我蝦夷なのか。新たに見つかった奈良県明日

香村の小山田古墳(7世紀中ごろ)の被葬者をめぐり、前園実知雄

奈良芸術短大教授と今尾文昭·関西大非常勤講師の2人の考古学者

が、大阪市北区の朝日カルチャーセンター中之島教室で対談した。


 小山田古墳は2014年、養護学校の校舎建て替えに伴い、県立橿原考古学研究所

(橿考研)が発掘調査し、想定外の巨大な石張りの掘割(濠・ほり)が出土した。その後の

調査で石室の痕跡が見つかり、飛鳥時代で最大級の方墳の可能性が高まった。

 冒頭、両氏は小山田古墳の被葬者について、それぞれの立場を鮮明にした。橿考研

の調査課長として最初の調査を指揮した今尾さんは、推古天皇の死後に即位した舒明

天皇(593~641)が最初に葬られた初葬地」と考える。小山田古墳は掘割の

斜面に緑色の結晶片岩と「榛原石」と呼ばれる板石を階段状に積み上げた特殊な構造

を持つ。「日本書紀」は、舒明天皇は642年に「滑谷岡」に葬られたが、9カ月後

小山田古墳は2014年、養護学校の校舎建て替えに伴い、県立橿原考古学研究所

(橿考研)が発掘調査し、想定外の巨大な石張りの掘割(濠)が出土した。その後の

調査で石室の痕跡が見つかり、飛鳥時代で最大級の方墳の可能性が高まった。

冒頭、両氏は小山田古墳の被葬者について、それぞれの立場を鮮明にした。橿考研

の調査課長として最初の調査を指揮した今尾さんは、推古天皇の死後に即位した舒明

天皇(598~641)が最初に葬られた初葬地」と考える。小山田古墳は掘割の

斜面に緑色の結晶片岩と「榛原石」と呼ばれる板石を階段状に積み上げた特殊な構造

を持つ。「日本書紀」は、舒明天皇は642年に「滑谷岡」に葬られたが、9カ月後

に「押坂陵」に改葬されたと記す。押坂陵は今、宮内庁が「舒明天皇押坂内陵」とす

る段ノ塚古墳(奈良県桜井市)とみられ、小山田古墳と似た榛原石の石積み構造が確

認されている点を根拠の一つに挙げた。

 一方、前園さんは蘇我蝦夷の墓との考えだ。「書紀」は蝦夷が乙巳の変(大化改

新)で滅ぼされる直前の642年に双墓」をつくり、「大陵」を蝦夷、「小陵」

を息子の入鹿の墓にしたと記す。隣接する一辺約30mの方墳、菖蒲池古墳(同県橿原

市)と関連づけ、「小山田が大陵、菖蒲池が小陵では」とみる。

 対談では、小山田、菖蒲池の両古墳の築造年代をめぐって激論があった。前園さん

は「両古墳で出土した土器の年代はどちらも7世紀中ごろ」と主張したが、今尾さん

は「土器の年代観は640~660年と幅があり、同時に造られたかどうかは決めに

くい」と反論した。

 前園さんは「小山田古墳と段ノ塚古墳との共通性は榛原石を使っていることだけ。

むしろ、石舞台古墳の張り石との共通性を感じる」と主張した。舒明天皇は、飛鳥の

中心部から離れた桜井市内に、新たな宮(百済宮)と国内最古の国家寺院(百済大

きを築いたとみられる。「舒明天皇が百済宮で亡くなったのであれば、初葬地も百

済宮の近くではないか」

 前園さんは、小山田古墳の地政学的な位置づけについても 言及した。古墳北側の甘

樫丘に蝦夷と入鹿の邸宅が、西側には蝦夷の父・馬子(?~.626)の拠点があった

と指摘。近年ピラミッドのような階段状に石を積み上げた構造が明らかになった都塚

古墳が馬子の父・稲目(?~570?)の墓とすれば、飛鳥の南東エリアにも馬子の

邸宅とされる島庄遺跡、馬子の墓の説がある石舞台古墳があり、蘇我氏は飛鳥の各エ

リアの出入り口を押さえ、絶大な権力を握ったことが分かるとした。

 一方、今尾さんは6世紀忠ろに在位した欽明天皇の墓との説もある県内最大の前

方後円墳、丸山古墳(同県橿原市)が築造された後、古墳の墳形が方形に変化し、規

模も縮小する傾向があると指摘。だが、小山田古墳は先に完成した石舞台古墳より規

模も大きく、明らかに縮小化の流れに逆行する。その理由について「天皇の場合は、

豪族とは異なり、大きさを維持した可能性がある」と分析した。

「書紀」の信頼性についても議論が及んだ。今尾さんは舒明天皇が百済宮と百済大

寺を造営したときの「西の民は宮をつくり、東の民は寺をつくった」という表現に

注目。「舒明天皇には国家的な動員ができていた」とみる。前園さんは「この時代の

蘇我氏は、(奈良~ 平安時代に権力を握った)藤原氏より力を持っていた。舒明天皇

はその後の天智、天武両天皇に始まる王朝の始祖みたいな人で、のちの時代にプラス

アルファされた部分もあるのでは」と反論した。

天皇家と蘇我氏の関連年表

629年舒明天皇即位

630年  第1次遣唐使派遣。飛鳥岡本宮にうつる

639年  百済宮と百済大寺の造営開始

641年  舒明天皇、百済宮で没す

642年  皇極天皇即位。舒明天皇を「滑谷岡」に葬る。蘇我蝦夷が「双墓」(大陵、小陵)を造る

643年  飛鳥板蓋宮にうつる。舒明天皇の墓を「押坂陵」に改葬

645年  乙巳の変。中大兄皇子ら蝦夷·入鹿を滅ぼす

2017-11-9 朝日新聞 夕刊
 (渡義人)