丸山古墳(まるやまこふん・五条野丸山古墳)地図

 全長310m(330mの可能性がある)、全国6番目の大きさ、前方後円墳。立入禁止の後円部の中には、
国内最大級の全長28mの石室がある。墳丘と周壕の大部分が国史跡に指定されている。
 丸山古墳に葬られた人は、欽明天皇や蘇我稲目など当時の我国を治めた人物が有力視されている。
 丸山古墳の被葬者が稲目であれば、奥棺は推古20年(612)に欽明陵へ改葬された堅塩媛のものか。
なお欽明天皇陵とする説もあるが、丸山古墳の所在地は檜隈の範囲には含まれないことが問題となる。
  候補古墳 
稲目  都塚古墳/丸山古墳 
馬子  石舞台古墳 
蝦夷・入鹿  五条野宮ケ原1号/五条野宮ケ原2号墳/菖蒲池古墳 
 
 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館展示より
 
 
 西側より撮影
 古墳時代後期(六世紀後半頃)に築かれた、最後の前方後円墳である。
巨大な前方後円墳。その前長は奈良県下で最大、国内でも6番目の規模を誇る。
 前方部中央に下つ道(169号線)が見える。

墳丘の全長 約310m(330m))
前方部の先端端 約210m
前方部の高さ 約15m
後円部の直径 約150m(173m)
後円部の高さ 約21m(25m)
 前方後円墳の築造が終焉を迎えるのは、ちょうど蘇我馬子が飛鳥寺の造営に着手した
時期にあたる。古墳から寺院・宮殿へと転換していく時期であった。
 その後、前方後円墳は築かれなくなり、古墳の規模も急激に縮小して行く。
 植山古墳石舞台古墳都古塚古墳のように、飛鳥の有力者の奥津城(おくつき・
神道のお墓のこと)に次々と方墳がが採用されるようになる。
 下つ道から南を見ると、丸山古墳の前方部から後円部にかけての高まりがよくわかる。
国道をすこし南にいくと古墳入口の看板があり、左手に小道がある。
昭和四十五年(1970)に史跡指定。
 前方部に登っていくとさらに細い道となる。急な道を登り終えると、前方部の頂部に出る。
 
   
 石棺は二つあり、奥に7世紀前半、手前に6世紀後半とみられる。年代は石棺の蓋ににつく縄掛け突起の形から判断される。
 欽明天皇(570年頃)、妃・堅塩媛(612年に合葬、蘇我馬子の妹)に見合う特徴となっている。
 新しい棺がなぜ奥にあるのかということが残る。 
 幕末以来、「天武・持統天皇合葬陵」とされたが、1881年に当時の宮内省が野口王墓古墳(明日香村)に変更。
その後、丸山古墳については後円部上段の一部が宮内庁管理の陵墓参考地となった。1991年に市民の撮影した写真を
契機に横穴式石室の内部が明らかになった。欽明天皇の陵墓説が有力視される。 
 2013−9−6朝日新聞
石室の全長 約28.4m
羨道の全長 約20m
羨道の幅   約1.4〜2.5m
羨道の高さ 約1.3m以上
玄室の全長 約8.3m
玄室の幅  約3.6〜4m
玄室の高さ 約3.9m以上
 墳丘部の構造は、前方部3段、後円部は上段を「上段上」「上段下」に分けた4段とみられる。
 丸山古墳には葺石がない。
小山田古墳 丸山古墳 下ツ道 中ッ道 上ッ道 
太子道(筋違道) 横大路 竹ノ内街道
奈良盆地の古道と都  古墳(奈良) 蘇我四代
飛鳥の古墳 「日本国」誕生の舞台  欽明天皇陵 
軽のチマタ   合葬 古墳の構造  
鑵子塚古墳 巨大古墳の謎   宣化天皇陵 
 
 聖蹟図志で紹介されている
五条野丸山古墳。
右上に家形石棺が二つ描かれている。
 

 英国人技師のウィリアム ゴーランドは、

五条野丸山古墳の実地調査にあたり、幕末の山陵絵図「聖

蹟図志」を参考にします。横穴式石室の部分図に、玄室の

奥に横向きに置いた家形石棺(奥棺)と、その前に東側壁

に沿って縦向きに置いた家形石棺(前棺)が描かれていま

す。少なくともこの古墳には2人が葬られていたことにな

ります。

聖蹟図志の墳丘図には「武天皇/持統天皇 合葬」と

あります。当時は天武・持統天皇陵と考えられていまし

た。ご存じの方が多いかもしれませんが、この考えは明治

維新後に見つかった中世の史料をもとに変更されることに

なります。その後、陵墓参考地になったため、ゴーランド

が見た横穴式石室も閉ざされてしまいました。もはや現代

人が見る機会はないと思っていました。

ところが、1991年12月、テレビで古墳の石室内の

写真が報道されました。宮内庁の厳重な管理下にあり、起

きるはずがないことです。でも、その年の春ごろから、予

期せず石室の入り口が崩壊して、開いていたようです。報

道によれば、その部分から石室内に入った近所の小学生が

家族に伝え、父親が内部を撮影し、朝日放送に提供したそ

うです。

宮内庁は直ちに入り口をふさぎました。翌年、本格的に

閉鎖する前に、石室と石棺の現況を調査しました。土砂の

流入で床面(石室の底面)は明らかになりほせんでした

が、石室全長は28.4m (玄室長8.3m 、羨道長20.1m

)に及びます。巨石を用いたことで有名な明日香村の

舞台古墳の石室(全長19.4m)をはるかにしのぐ、日本

列島で一番の大きさです。

家形石棺は 棺の棺蓋が全長2. 64m幅1. 44m、

前棺の棺蓋が全長2.89m幅1.41mです。ともに兵庫

県の加古川流域でとれる竜山石をくりぬいて作られていま

す。須恵器の杯(つき)や高杯の一部も採集されました。

ほかにも様々なことが分かりました。横穴式石室の規模

と壁面の構成、石室内に漆喰が使われていたこと。奥棺は

特徴から7世紀初めごろに作られ、前棺は6世紀後葉から

末葉に作られたと考えられること。須恵器が示す年代観は

6世紀後半にあたることなどです。

1960年代以降、学界で被葬者論争が起こりました。

森浩一氏は6世紀代に築かれた最大の前方後円墳であるた

め、欽明大王(天皇)がふさわしいと考えました。斎藤忠

氏は蘇我氏の本拠地に近いことから、蘇我稲目か蝦夷の墓

と主張しぼす。和田萃氏は場所が、古代の地名「身狭(むさ)」の

範囲にあることなどから、化天皇陵とする説を出しま

す。一方、網千善教氏は南に位置する明日香村の梅山古墳

が欽明天皇陵にふさわしいと考えました。

石室の開口を契機とする調査で、新たな情報が加わり被

葬者についての論争が再燃します。築かれた時期が6世紀

末葉ごろだとすると、宣化大王(天皇)や蘇我蝦夷は候補か

ら外れることになります。では、蘇我稲目か欽明大王でし

ようか。今後、飛鳥の古墳を取り上げていくなかで改めて

考えることにしましょう。

2017−10−27  朝日新聞

(関西大非常勤講師今尾文昭)

 
橿原考古学研究所展示より 
 ここから北方をのぞむと遠く奈良市の若草山までが一望でき、奈良県第一の墳丘規模を誇る丸山古墳にふさわしい立地である。
勿論、北には瓦屋根の陰にかくれて上街道、つまり古代の下つ道がある。丸山古墳は、見瀬丸山古墳(みせまるやま)といわれてきたが、
その大部分が五条野町であり、見瀬町にはない。
 写真では見難いが、169号線が中央に位置する。前方部より撮影。 
 丸山古墳が築造された時期には、水田や未墾地の中を走る人工の線――下つ道が、この古墳から北へ、
逆に北からは参詣道のような道が前方部までいたっていた。
東南には法輪寺が輪奐を競い、軽(かる)の衢(ちまた)の雑踏もあったようである。
  前方部より後円部を望む 。
 後円部頂上の木々が茂っている場所は陵墓参考地(畝傍陵墓参考地)となって宮内庁が管理し、そのほかは国の指定史跡となっている。
五条野町(ごじょうの)・大軽町(おおかる)そして見瀬町(みせ)に亘る丘を削ったり、土を盛り上げて造ったと考えられている。
後円部上には南に開く横穴式石室があり、その全長は石舞台古墳よりも約9m長く造られていることも特徴の一つ。
 玄室内には2基の刳抜式家型石棺があり、奥にある石棺と手前にある石棺が逆L字形に配置されている。 
 西方をみると生駒山から金鋼山にいたる奈良
(大和)と大阪(河内)をかぎる山地が
黒々と横たわっている。
 法輪寺という小庵ふうの寺があり、
鎌倉時代の十三重塔がある。
二上山を中央やや左に望む。 左に畝傍山、右に耳成山を望む。
丸山古墳⇒蘇我稲目
丸山古墳(江戸時代)⇒天武・持統天皇陵
石舞台⇒蘇我馬子
欽明天皇陵⇒欽明天皇陵
都塚古墳が蘇我稲目となると難しい問題が残る。 


















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