牧野古墳地図

 1960~70年代広陵町と香芝市で真美ケ丘ニュータウンの開発が始まった。計画

地に国史跡の古墳があった。馬見丘陵の尾根の先端を利用して作られた牧野古
墳(円
墳、6世紀末)だ。

 広陵町教育委員会文化財保存課の名倉聡課長補佐( 46 )に案内してもらった。
ずっと昔
から、古墳の横穴式石室の入り口が少し開いていたという。
「子どもの探検ごっこの
格好の遊び場になっていたそうです」と名倉さん。横穴式

石室を持つ円墳として、1957年に国史跡に指定された。

 83、84年に古墳の発掘調査が行われた。石室の規模は全長17 . 1m、高さ4 . 5m
巨大石室だったことが判明した。石棺は盗掘で壊されていたが、周囲から武器や
馬具、
ガラス玉など、2万点以上の遺物が見つかったという。

 石室の中に入ると、真っ暗で少しひんやりした。懐中電灯で足元を照らすと、小さ
石が転がっている。石室の入り口をふさいでいた石とのこと。

 名倉さんによると、石室は、明日香村の石舞台古墳り一回り小さいが「全国で

も有数の規模」。石室内を見渡すと、構成する石の大きさに改めて驚かされる。
約60トン
の巨石が使われているものもあるそうだ。

 周辺では石が採れないだけに、被葬者のためにどこかから巨石を運んできたこと
にな
る。どれほどの権力を持っていたのか。敏達天皇の皇子で、舒明天皇の父の
押坂彦
人大兄皇子の「成相墓(ならいのはか)」とする説が有力なのもうなずける。

 玄室に通じる羨道の先に家形石棺が置かれている。石棺のすぐ近くまで行くことが
き、触ることも可能だ。石棺のそばで懐中電灯を消した。

静寂の中、天井を見上げていると、被葬者の気持ちになったような気がした。
 外に出て、公園となってい る墳丘の周りを歩いてみる。草はきちんと刈られ、ゴミ
つ落ちていない。墳丘にも登ることができた。「それは広 陵古文化会のおかげ
ですね」
と名倉さんが教えてくれた。

 広陵古文化会は、63年に地元の歴史ファンが中心となって発足。牧野古墳の発掘
調査
も、同会が県立橿原考古学研究所に働きかけて実現した。

発掘時は、多くの会員がポランティアで作業を手伝ったという。

 現在も約650人の会員がおり、毎月、牧野古墳の周囲のゴミ拾いや草刈りをしてい

る。石井保雄会長( 77 )は「行政の目が届かないところの世話は自分たちの役目。
地元の
財産ですから、次世代にきちんと引き継いでいきたい」と話す。
  2018-4-20  朝日新聞
(田中祐也)


 墳丘の直径は48~60 。高さは約13mの三段築成。出土品の一部は
橿原市の県立橿原考古学研究所付
属博物館や広陵町役場の敷地内
にある町文化
財保存センターで見学できる。