第34代 舒明天皇(じょめい)地図
父…押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとおおえのみこ)(第一皇子) 大兄⇒⇒⇒ 母…糠手姫皇女(ぬかてひめ) 誕生…593年(推古天皇元年) 御名.異称…田村・息長足日広額尊(おきながたらしひひろぬか) 皇后…宝皇女(後の皇極・齋明天皇) 立太子…━━ 即位…629年(舒明天皇元年)1.4 在位年数…12年 崩御…641年(舒明天皇13年)10.9 年令…49才 皇居…飛鳥岡本宮 年号…━━ ○推古天皇が聖徳太子の薨去後、皇太子を立てなかったことから、天皇の崩御にともない皇位継承をめぐる紛議が起こった。皇位継承者に推されたのは、田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)である。結果田村皇子が即位した。 ○第一子は天智天皇となった葛城皇子(中大兄皇子なかのおおえのおうじ)で、第二子は天武天皇となった大海人皇子(おおあまのみこ)である。 ○630年(舒明2年)10月に飛鳥岡のそばの岡本宮に遷り、636年(舒明8年)6月に岡本宮が焼失、近くの田中宮に遷り、639年(舒明11年)に西の民が百済宮を造り、東の民は百済大寺を造り、書直懸(ふみのあたいあがた)を技師長にあたる大匠とした。 ○舒明天皇は再三有馬温泉に行幸、晩年には聖徳太子も行った道後温泉にも行き、リゾートを楽しまれた。 ○外交に於いても、犬上御田鋤(いぬがみのたすき),薬師恵日を大唐に遣わし、初の遣唐使の派遣となり、以後の端緒を開いた。 ○朝鮮三韓との交渉も密に行なわれ、難波にあった三韓の舘(むろつみ客舎)を修理している。 ○朝鮮半島、唐との直接交渉のほかに屋久島など南島列島への関心を持っていた。 ○遣唐使を初めて派遣し、日本最古の国家寺院、百済大寺(くだらおおじ)を発願した。 ○舒明天皇から、八角墳の造営がスタートした。 ○それまでの都塚古墳は大型方墳であり、その後の推古天皇などの大王墓に方墳が採用されていた。 ○舒明天皇は、天皇中心の新しい国造りを目指すが、志半ばで倒れる。妻の皇極天皇が後を継ぐ。段塚古墳 は、皇極天皇が造った可能性が高いと思われ、蘇我氏に対抗する意味でも夫の出自や系譜を示そうと、 蘇我系の方墳の四隅を切り取った形の八角形を新たに見出した。 ○ ○奈良県明日香村川原の小山田遺跡で、約50mにわたって石材を張り付けた巨大な掘割が見つかった。橿原考古学研究所が2015−1−15発表した。 7世紀中頃に飛鳥に築かれた未知の古墳の一部とみて、規模や立地、特異な構造から、舒明天皇が最初に葬られた場所との見方を明らかにした。 地図 陵墓…押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)(忍阪段塚古墳) 上円下方墳 所在地…奈良県桜井市大字忍阪字段ノ塚 ○兆域は東西九町、南北六町であるので、御陵の所在する谷全体を兆域としている。 ○陵墓要覧によると、墳形は上円下方墳となっている。八角墳の前面方形の段々を設けていると考えられ、天皇陵の最初の八角墳と考えられている。兆域内に舒明天皇皇女押坂内墓と藤原鎌足夫人鏡女王押坂墓が治定されている。 ○一説によると、昔、陵の正面が崩壊して、羨道が発見され、中に石棺が二棺あり、奥棺は横置き、手前棺は縦置きに安置されていたという。このことから横穴式石室でおそらく刳抜式家型石棺が安置されていると思われる。 追加⇒⇒⇒ |
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八角形墳3基の天皇陵と牽午子塚他 |
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舒明天皇は、7世紀前半に厩戸王(聖徳太子)や蘇我馬子と政治を進めた推古天皇の死後に即位。蘇我氏が権力を握る中、飛鳥の中心から離れた地に百済宮や百済大寺を築く。蘇我氏とは距離を置き、天皇中心の中央集権国家づくりを目指した。 |
日本書紀 舒明天皇の遺体は 642年12月に滑谷岡(なめはざまのおか) に葬られ、その9か月後に押坂陵 (おしさかのみささぎ)に改装された。 |
舒明天皇陵は、古墳時代の終末期にあたる7世紀中頃に造られ現在「舒明天皇陵」として、宮 内庁で管理されています。舒明天皇は、忍阪ゆかりの押坂彦人大兄皇子の息子で、初めて遣唐 使を派遣し、また、我が国初の国家寺院である百済大寺を建てた天皇として知られています。 皇后は、斉明天皇で、二人の間の子供たちは、後の天智天皇、天武天皇、孝徳天皇妃となった 間人皇女、と飛鳥時代は舒明ファミリーが皇統の主流にのぼりつめた時代といえるでしょう。 日本書紀によると、舒明天皇は641年(舒明13年)に崩御し、その2年後にここ「押坂 内陵」に改葬されました。尚、母親の田村皇女はその20年後の天智3年に亡くなったことが 記されていますが、墓の所在は明らかにされていません 。平安時代に作られた「延喜式」には 今から約150年前の文久年間に墳丘の一部が崩壊し石室の一部が露出しました。 その際、2基の石棺がみられ、手前の石棺は縦に、奥の石棺は横に置かれていたという村人の 話が伝わっていることから、研究者の間でも被葬者は、舒明天皇と、母親の田村皇女ではない かといわれています。 この古墳の最大の特徴は、なんといっても我が国初の八角墳であることです。それは八角形を した天皇の玉座「高御座」にも流れをみることができます。背景には諸説があり確定はできま せんが、万葉集巻1-3 間人連老(はしひとのむらじおゆ)の歌に舒明天皇を讃えた歌が詠 まれています。「八隅知之 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ…」とあり、我が大君にか かる「やすみしし」から、八角形は「国土の隅々迄おさめる」事の思想の表れであり、それは まさに八角墳の出現時期と重なる事から、国家統一的な形にしたのではという学説に興味をそそられます。 忍阪区 |
外鎌山から南の伸びる尾根の先端に古墳が築造されている。現在、舒明天皇押坂内 陵に指定されており、宮内庁により管理されている。墳丘内部には立ち入ることがで きないが、御拝所や周辺から墳丘を観察できる。また、段ノ塚古墳を通り過ぎてさら に谷間の奥へ進むと、鏡女王墓と大伴皇女押坂墓が存在する。 段ノ塚古墳の墳丘は、尾根を途中で切断して、尾根の末端の斜面地 に切土や盛土を行なって築かれている。両側にある谷部も整形されてお り、古墳に関わる造成は広範囲にわたって行なわれたのだろう。墳形は 台形状の方形壇の上に八角形の墳丘をのせるという上八角形下方墳とも いうべき姿をしている。 下部の方形壇は三段で築成されており、最下段の前面は幅約105 mを測る。方形壇 の各段の斜面には自然石を用いた貼石が存在している。上部の八角墳丘部は、上下二 段から成り、下段の対辺間距離は約42mの規模をもつ。宮内庁の調査により下段の 八角墳丘部は板石(榛原石)により墳丘が覆われていることがわかった。 この古墳の主体部は現在ではわからないが、幕末の山陵研究家の谷森善臣の『山陵考」 には石室内部に石棺が2基あったという村人の伝聞を紹介している。また、宮内庁の 調査において八角墳丘部の前面に羨道天井石らしきものが確認されている。仮に通常の 古墳にみられるように八角形の中心部を奥壁だと仮定すれ ば、全長20mを越える巨大な横穴式石室が想定されるだろう。 この忍坂の地に築かれた古墳としては卓越した規模を持っており、八角形という特 異な墳丘をもつことから、舒明天皇の押坂内陵である可能性は極めて高いといえるだ ろう。八角形墳は、前方後円墳廃絶後に皇族や有力豪族は採用していた大型方墳や円 墳に替わるものとして新たに創出された墳形である。段ノ塚古墳の墳丘は その嚆矢であり、天皇陵として初めて八角形という墳丘を採用した古墳と して意義深いものである。 |
鏡王女 奉和御歌一首 秋山之 樹下隠 逝水之 吾許曽益目 御念従者 巻2−92 鏡王女 |
鏡王女・万葉歌碑
鏡王女(かがみのおほきみ)の和(こた)へ奉(まつ)れる御歌一首 『秋山の樹の下隠り 逝く水の 吾こそ益さめ 御念(みおも)ひよりは』 秋山の樹の下に隠れて、流れていく水のように果てしなく、「吾こそ益さめ御念よりは」私こ そあなたさまが思ってくださる思いよりも、もっと深く思っております <犬養孝 『私の萬葉 百首 上善 1993年12月 潟vティカ社より』 この歌は、皇太子であった中大兄皇子(のちの天智天皇)が鏡王女に送った歌「妹が家も継ぎ て見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを」《巻2-91)に答えた一首であるといわれてい ます。 鏡王女は、天智天皇と藤原鎌足それぞれと相聞歌を取り交わしており、額田王との唱和の歌も 作っています。万葉集には5首を残していて、その一つがこの歌碑に詠われているものです。わ ずか三十一文字の中 内に秘めた女心を見事に詠いあげています。 桜井市の企画によって今から40年前の昭和47年(1972)に市内の由緒ある場所に万葉歌碑を建て ることになり、元・桜井市議。忍阪区長の杉本五良兵衛翁は、この歌碑は是非この場所に。 ということで、毎年生徒さんを引率されて女王墓を参られていた?時,大阪大学名誉教授の 犬養孝先生と面識があったことからこの歌の碑文は、ぜひとも犬養先生にと、なったと述べら れています。(昭和62年10月1日「かたらい」より) |
歌碑の石材探し、そして置かれているこの場所の選定は、杉本翁の熱き想いと鏡王女がこの歌
に託した想いとが重なって数多くある万葉歌碑の中でも、これほど歌詞と歌碑の佇まいが見事 に合っている歌碑はない.. と言われています 。小川のせせらぎの音を浴びながら、つつま しく佇んでいます。この歌碑あたりから谷に向っては視界が開け、小鳥の囀りだけの万葉の世 界にいざなわれます。その目の先には鏡王女墓がひっそりと佇んでいます。 鏡王女は黄泉の世界から、どんな思いでこの歌碑を眺めているのでしょうね。 忍阪区 |
夏四月の丁卯の朔壬午に、天皇、伊予より至りおはしまし、便に厩坂宮に居します。 伝えられる所で、従来しばしば皇居のおかれた高市郡軽の地のうち。 写真の場所は、橿原市石川町。 |
「日本書紀」舒明天皇十一年( 「今年 是を以て、西の民は宮を造り、東の民は寺を作る。 |
※1:十二年十月に田中宮より遷った百済宮をさす。 大和志に「十市郡百済宮。古蹟。飯高村。・・・故址今半入広瀬郡」とある。今、橿原市飯高町。 |
百済宮 | ||
舒明天皇 | 天皇の宮 | 年表639、641 |
飛鳥の範囲について | 百済大寺 | 大官大寺 |
小山田古墳 | 田中宮 |
百済寺 三重塔(重文) |
百済寺 本堂 |
百済寺 「日本書紀」舒明天皇十一年(六三九)十二月の条に「是の月百済川の側に九重塔を建つ」とあり 聖徳太子が平群郡熊凝に建てた熊 その後、火災にあうが皇極天皇の時に再建し、天武天皇の時に至つて伽藍を高市郡に移し 化財に指定されている。本堂は大織冠と呼ばれ、方三間単層、入母 がまつられている。 |
百済野の 萩の古枝に 春待つと 居りし鶯 鳴きにけむかも 山部赤人(巻8,1431) 百済野のハギの枯れ枝に春を待って 留まっていたウグイスは、もう鳴くようになった |
梵字池 重要文化財百済寺三重塔の側にある池を真上から見ると 弘仁14年(823) に弘法大師が歴代天皇の造営した百済寺の このほかに、広陵町広瀬の享楽寺旧境内には「ウン」と発 する梵字池と田原本町秦庄奏楽寺 「ア」と発する梵字池が あり、合わせて弘法大師の掘った三霊池と呼ばれています。 |