第30代 敏達天皇(びたつ)地図

欽明天皇(第二皇子)
石比売(姫)命    
誕生…538年(宣化天皇3年)
御名・異称訳語(おさ)(だの)淳中倉太珠敷(ぬなくらふとたましき)
皇后広姫・豊御食炊(とよみけかしき)()(ひめ)命(額田部皇女)
立太子…554年(欽明天皇15年)1.7
即位…572年(敏逹天皇元年)4.3  
在位年数
…13
崩御…585年(敏逹天皇148.15  年令48
皇居百済大井宮  年号━━

○「日本書紀」の冒頭において、敏逹天皇の性格について「天皇、仏法を()けたまはずして、文史(しるしふみ)(この)みたまふ」と載っている。しかし、仏教を信じなかったとする事実は全くない。ここで蘇我馬子が大臣として登場する。
○蘇我馬子は仏殿をつくり、塔を建て、盛大な法会を行った。しかし、物部守屋が塔・仏殿を焼き、仏像を難波の堀江に棄てるという荒行に出た。
○外交面においても技術者や宗教家の来日が多く、特に朝鮮との交渉は頻繁であった。
○天皇が崩御し、
(もがり)宮を大和の広瀬で建てた。刀を腰に差し、(しのひごと)をする馬子を見て、守屋があざけり笑ってその不格好が矢で 射たれた雀のようだと言った。次に誅をした守屋が手足をぶるぶるふるわせて行ったのを見た馬子は、笑いながら鈴をふっているようだと言い、二人に運命的なウラミが生まれたという。
天皇と宮の名⇒⇒⇒

 任那は欽明天皇23年(562)に新羅に滅亡された。敏達天皇は御父君の御遺詔(いしょう)である任那日本府の回復に執心されていた。 
 国内では、仏法をめぐり物部、蘇我両氏の間に抗争が絶えなかった時だある。
上記にあるように、蘇我馬子が石川精舎(いしかわのしょうじゃ・橿原市石川町・地図)を建てたり、大野ノ丘(橿原市和田町)の塔をつくったりしていた。
 たまたま疫病が流行して死亡する者がおびただしく出た。物部、中臣二氏はこれは蘇我氏が仏法を興したためであろうと天皇に奏上して仏法をやめさせた。仏をやき、やけ残った仏像を難波の堀江(明日香村豊浦)にすて、善信尼等の僧を捕らえて「つば市」の馬屋館にて鞭打ちの刑に処したりした。
 しかしそのころ、天皇、物部大連等が疱瘡にかかるということが起こった。これは仏を焼いたりした罪の報いだと蘇我馬子が主張したので、天皇は、馬子だけは仏をまっつてよろしいと許され、やがて仏法の復興をみるに至った。
 チマタ⇒⇒⇒
陵墓河内(かわちの)磯長(しながの)中尾(おの)陵  前方後円墳
所在地大阪府南河内郡太子町大字太子字奥広
○御陵は天王山と称されている。ほぼ西北面する三段築成の前方後円墳である。全長112m、後円部径52m、前方部幅67mで深い空濠   が囲る。歴代天皇陵の前方後円形を示す最後の御陵である。
一墳に陵名が二つある母子合葬墓といわれている。