第60代 醍醐天皇(だいご)地図

即位に際し、宇多太上天皇から「寛平御遺誡」を賦与され、藤原時平と菅原道真の重用を促された。特に道真は親王擁立や譲位にも深く関与したこともあって、醍醐朝においても強い発言力を確保し、天皇への影響力は絶大であった。

時平ら藤原氏は道真を除くべく、道真の娘が天皇の弟である斉世親王のもとに嫁いでいることから、天皇を廃する策を弄していると讒言して道真の追い落としを狙った。その結果道真は太宰府に左遷されることになった。

時平に命じて「三代実録」、紀貫之に命じて「古今和歌集」を選ばさせた。さらに915年(延喜5年)から927年(延長5年)の12年間に全50巻の「延喜式」の完成にこぎつけた。

道真の死後、都では異変が立て続けに起こった。雷鳴が轟き多くの死者が発生した。都人は皆口々に道真の祟りに違いないと噂した。時平も若くして他界し、醍醐天皇はしきりに道真の左遷を悔いた。天皇はその霊を慰めようと贈位などを繰り返した。

天皇は朝廷の政策として、班田の励行や勅旨田の新規開墾の禁止などを打ち出して改革を断行するとともに、官人に対して国政に関する意見封事を行わせた。なかでも三善清行の意見封事十二箇条は有名である。

天皇の治世は後の村上天皇の治世と併せて「延喜・天歴の治」と呼ばれる。人格が円満でその政治は善政として後に高く評価された。摂政や関白を置かず、形の上では天皇による親政が行われ、儀式の整備や格式及び国史の編纂、地方政治の振興など一連の政治的文化的改革が遂行された。    

陵墓名 (のちの)山科(やましなの)(みささぎ)   円形

所在地 京都市伏見区醍醐古道町

「山陵考」によると、陵山は造らず、平地に穴を堀り(広さ方三丈、深さ九尺)、この中に校倉(方一丈、高さ三尺三寸)を収め、この中に御棺を蔵し、陵上に卒塔婆三基を御表に建てたといわれている。

御陵は南面、墳丘なく、径約13mの空隍がめぐる。土堤を築き生垣で囲む。天皇宣旨により、陵戸5烟、徭丁25人を置かれ、諸陵寮管理を停めて醍醐寺の奉祀を命じられ、毎年法会を修められた。