30 うま酒 三輪の山
歌 額田王 巻1−1718 筆 中河与一 地図 |
長歌 味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠萬代 道隈 伊積流萬代ニ 委曲毛 見管行武雄 敷々毛 見放武八萬雄 情無 雲乃 隠障倍之也 反歌 三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉 |
うまさけ みわのやま あおによし ならのやまの やまのまに いかくるまでに みちのくま いさかるまでに つばらにも みつついかむを しばしまも みさけむやまを こころなく くもの かくさふべしや みわやまを しかもかくすか くもだにも こころあらなむ かくさふべしや |
長歌 うま酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の間に いかくるまで 道のくま いさかるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも みさけむ山を 心なく 雲の かくさふべしや 反歌 三輪山を しかもかくすか 雲だにも 心あらなむ かくさふべし也 |
美しい三輪の山、あの山が奈良の山の山の間にかくれるまで、長い道の幾曲りを重ねるまで、 しみじみとふりかえり見ながら行こうものを、幾度も幾度もふりさけて眺めてやろうと思う 山であるに、その山を、無情にも、雲がさへぎりかくすといふ事があるべきか。 三輪山をあんなにかくすのかナア。せめて雲だけでも思いやりがあってほしいものだ。 あんなにかくすといふ事もあるべきだろうか。 うま酒:三輪の枕詞 あおによし:奈良の枕詞 道のくま:道の曲がり角 いさかるまで:い積るまでに 道の曲がり角がいくつも重なるまでに 同じ歌として 歌碑11⇒、 歌碑13⇒
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朝鮮半島では、新羅の要請をうけた唐が 大軍を出して、日本の友好国百済攻撃し、 緊迫した情勢であった。 中大兄皇子は3万4千の大軍を出すが、 惨敗する。 日本軍は、朝鮮半島から撤退し、対馬・壱岐 ・筑紫に防人を配置し、烽台を設け、 防備を固める。 大宰府の水城、大和の高安城などの城を築 くが、中大兄皇子の不安はおさまらず、 飛鳥を捨てて近江大津へ都を遷すことになる。
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金剛山・葛城山・二上山・生駒山が広がり、まるで屏風のような 連山を背にしたように、奥に畝傍山、手前に耳成山が位置する。 右は第12代景行天皇陵で、陵の東側を歩くことになる。 この御陵を「山辺道上陵」というので、山の辺道がここに通じていた ことが信じられる。 |
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飛鳥から近江に向かう一行が、三輪山と,過ごした日々に、別れを告げる惜別の情で、こみ上げてくるものがあったに 違いない。 いつまでも見つづけることをせめてもの願望としつつ、一行は大和を去ったのである。歌碑の設置場所は良い位置にある。 碑から見る三輪山は美しく、北西方面からの眺めとなる。この位置からの眺めも美しい。 三輪山は笠置山系の終わろうとしているところにぽつんと置かれている山であるが、遠くから見ても、近くから仰いでも、 姿のいい気品のある山である。 |
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中大兄王子一行が実際に通った道は、耳成山東北の橿原市東竹田町付近から奈良市北之庄に至る中つ道か上つ道、 或いは、直線と考えられる新山の辺の道といってもよい(現在の169号線に近い)かもしれない。 中つ道は香具山からまっすぐ北にのびる道で、現在では断片的にしかたどることることができない。 近鉄天理線の前栽駅から南に1.5kmのところに山辺御縣坐神社があり、このあたりわずかに残っているにすぎないが、 地図でみると、町と町の境界線にこれらしいな残りをみることができる。 |
うま酒三輪の山⇒⇒⇒ | ||
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太宰府地図
7世紀に筑前国に設置された行政機関。九州全域の統括機関であるとともに、外交や防衛など国家機能も担った。遠(とお)の朝廷(みかど) と呼ばれ、奈良の都に似た都市整備がなされたともいわれる。太宰府政庁や大野城や基肄城(きい)、水城は特別史跡に指定されている。 |
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古代太宰府は国家の対外政策の要で、朝鮮半島の百済救援に向かった日本が唐・新羅連合軍に敗れた白村江の戦い(663)の直後、敵の 侵攻に備えて水城(みずき)や大野城、基肄城(きい)が平地や山上に急造された。 |
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福岡県筑紫野市の丘陵上で、長さ約500mに及ぶ大規模な7世紀土塁が見つかった。 古代九州を統括し国家外交の最前線だった太宰府を守る防塁とみられる。 太宰府都城の外郭線 とみられる。土塁は土を盛って壁のようにめぐらせた防御施設で、高さ1.5m、下部の幅は13.5m、2段構造で 東側急斜面になっている。標高49〜61mの尾根をほぼ南北方向に500mにわたって走る。土を何層もつき固める版築工法で造られている。 |
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