蘇我氏陰謀の挫折

聖徳太子の後ろに見える蘇我氏の影

 大化改新 中臣鎌足藤原氏繁栄の計画と、ほとんど同じ内容の陰謀をたくらんだ者が、以前にもいた。

 それは蘇我氏である。蘇我馬子は天皇権を利用し、政略結婚によって天皇家との血縁を 深め、一方
では仏教政策によって、天皇家の財力を消耗させ、実質的な権力を蘇我氏が握
っていく計画をみごとに
成功させた男である。だが、その計画によって得た権力の座は
山背大兄王を殺害するという入鹿の犯し
た過ちによって、一瞬のうちに崩れ去った。だが、中臣鎌足は、蘇我馬子·蝦夷父子の政治の方法から、
おそらく彼の計画のヒントをつかんだにちがいない。

 蘇我馬子の政治的才能の、もっともよく現われているのが聖徳太子の新政である。

 聖徳太子は、古くは『日本書紀の伝記から、中世の『元亨釈書』をへて、近世にいたるまで、完全人格
の理想的人物として描かれている。
とくに奈良時代末から出はじめた太子讚仰の書物は多く、年とともに
その偶像化ははなはだしく、
どこまでが実像で、どこまでが虚像かわからなくなった。

 だが、四歳にして仏典を読めたとか、10人の訴えを同時に聞き分けたというような超人的な伝説は別に
して、聖徳太子の功績として信じられているものは、推古天皇の摂政と
して行なった政治に関するもので
ある。

 それは、十七条憲法の「詔ヲ承リテハ必ズ慎メ」に 見られるような天皇の権威の強調であり、冠位十二階
による官僚政治の推進であり、仏寺の建立や仏教興隆であり、
隋使の派遣である。しかし、これらの事柄
は、すべて聖徳太子の功績なのだろうか。

 太子が推古天皇の摂政になる二〇年も前から、蘇我馬子は大臣の地位にあり、政治に練達しているば
かりでなく、朝廷では比類ない実権を握っていた。この地位は太子在世中
も、もちろん継続していた。しかも、
馬子は太子の叔父であるし、太子の妃のひとり(刀
自古郎女)は馬子の娘である。

 さらにいえば、崇峻天皇を弑逆した馬子にだれ一人抗議する者がなく、大臣の地位もゆるがなかったこと
を考えれば、自分の姪である推古天皇を即位させ、娘婿の聖徳太子を摂政の地位につけたのも馬子である
ことはあきらかである。

 これらのことを考えれば、推古天皇のときの政治が、すべて聖徳太子と天皇の意志のみで動いていたと考
えるほうがおかしい。むしろ、逆に馬子の意志や思惑が聖徳太子を左右し、その意志を政治上実施するとき
に、太子の名で行なわれたと考えるべきである。 
 蘇我馬子は、天皇や太子の意のままに動くような男ではない。自分の権力と自分の政治能力とで、推古天皇
を即位させ、娘婿の太子を摂政の地位に就けたのである。

なぜ、天皇権を馬子は強調したのか

 ここで疑問が一つ残る。

 では、なぜ馬子は、天皇権を強調するような十七条憲法を、聖徳太子に発布させたのだろうか。蘇我氏の
遠大な陰謀と逆行するではないか、という疑問である。解答のヒント
は、ここでもやはり、天皇家と蘇我氏との
血のつながりである。

 馬子の妹の堅塩媛と小姉君は、ともに欽明天皇の妃である。同じく妹の石寸名は用明天の妃であった。
また、馬子の娘の法提郎女は舒明天皇の妃、河上媛は崇峻天皇の妃、刀
自古郎女は聖徳太子の妃である。
ちょうど、藤原摂関政治の全盛期をささえた藤原道長の
場合がそうであったように、天皇の外戚としての
蘇我馬子の地位は、まさにゆるぎないも
のであった。

 こうなれば、天皇の権威が、大王からすめらみことへと、超越的な地位に上がったほうが蘇我氏にとっては
利がある。天皇が絶対化されればされるほど、外戚としての大臣·蘇
我氏の地位は安泰になる。馬子は、蘇我氏
が皇位を簒奪することによって、他の豪族から
抵抗を受けるよりは、天皇権に寄生することによって権力を保
持することを選んだのである。

 聖徳太子が仏教の興隆を図り、仏寺を多く建立したのにも、蘇我馬子の意図が考えられる。聖徳太子建立
二七ヵ寺院といって、太子は四天王寺法隆寺をはじめ二七の寺院を
造営した。

 これらの寺院建立の目的は二つあった。

 一つは、奈良朝の光明皇后の時代に藤原氏がその ま踏襲した方法である。つまり、皇室の財産をどんどん
消耗させることを狙ったのである。神権族長的な天皇の祭祀権は絶対化するが、
皇室の経済力を、仏寺建立
という手口で奪ったわけである。

 もう一つの目的は、蘇我氏の防衛拠点を築くということであった。たとえば難波に四天王寺を、大和平野の入
口には、それぞれ法隆寺·法起寺·法輪寺を、飛鳥には飛鳥寺(法
興寺)・川原 (弘福寺)・橘寺などを建立した。
つまり、宮殿のまわりをぐるりと堅固
な寺院で取り囲んだのである。当時の寺院は泥壁で、瓦屋根の不燃性建
造物だったから
防御の両用の陣地としても、充分に機能したのである。

 また、遣隋使の派遣にも馬子の思惑がある。進歩的な知識人である彼は、隋の文化や政治制度を日本に採
り入れ、官僚的な中央集権国家を築きあげていこうという意図をいち

はやく持っていたのではないだろうか。おそらく、冠位十二階の制定は、そのような馬子の意志のあらわれである。
 このように、蘇我氏は、律令制政治や仏教文化の先駆者であった。
 しかし、稲目―馬子―蝦夷と、しだいにふらんでいった陰謀は、若い入鹿の驕慢によって、一瞬のうちに崩れ
去るのである。

 そして、蘇我氏の陰謀は、皮肉なことに、蘇我氏を打ち倒した中臣(藤原)氏によって継承されることになった。
まず、蘇我氏の陰謀をヒントに、中臣鎌足は公地公民制という
大胆な構想を立てて大化改新を断行し、その子·
不比等が大宝律令によって、公地公民制
と私地私民制という、政治と経済にまたがる権力の二重構造を作り
出したのである。

  逆・日本史  樋口清之





蘇我氏は失敗し中臣氏は成功した

中臣氏を打ち倒す豪族が出現しなかった理由
 鹿島から移住した中臣氏は、河内の製鉄業者を支配すると、大和朝廷の中枢に伸し上がっていった。天皇家と、
中臣氏の鉄の文化との結合である。しかし、中臣氏が権力を握
るには、あまりに多くの強大な敵がいた。敵とは
蘇我氏であり、物部氏であり、その他も
ろもろの有力豪族たちである。中臣氏は物部氏と組んで、最大の強敵·
蘇我氏にあたった
が、その結果、物部氏は滅亡し、中臣氏は辛うじて生き残ったのである。

 鎌足は、このことから貴重な教訓を得た。

 蘇我氏を排除して、中臣氏が権力の中枢の座につくのは容易なことではない。万一、中臣氏が蘇我氏を打ち倒
すことができても、それは蘇我氏から中臣氏へ権力が移行しただけ
で、やがて中臣氏の権力の座を狙う他の豪族
が出てくるにちがいない。それは一時的な繁
栄にすぎず、やがて中臣氏滅亡のときが訪れるに決まっている。

 永遠に中臣氏が繁栄する方法はないのだろうか。それには、たった一つだけ方法がある。それは、唐の律令制を
まねて、天皇絶対主義の中央集権国家をつくることである。天
皇家と中臣氏の結合からいって、天皇の絶対的権威
を背景に、中臣氏が中央集権国家の権
力の中枢の座にすわることは、力で蘇我氏をはじめ有力豪族を打ち倒して
権力を得るよ
り、はるかにたやすいことである。

 幸いなことに、聖徳太子の新政以来、天皇はたんなる大王ではなく、すめらみことであるという意識がしだいに浸
透してきた。大王とは現実的な政治権力者を指すが、すめらみ
ことは、宗教的な超越者、神権族長的権威者を指す
のである。この天皇の超越的地位をさ
らに絶対化し、人民は豪族から一般庶民に至るよで、すべて御民(天皇の屯田
・みた・を耕す民)
として、天皇に従属させる。こうしておいて、唐の律令政治の班田収授を行なうのである。

 公地公民制を実施するということは、豪族の私有の部民や私有地を天皇の民、天皇の土地にして、その経済的基
盤を奪い、豪族たちを無力化することである。つまり、中臣氏の
ライバルであった有力豪族たちは、鎌足が直接に手
を下さずとも、経済力のない、ただの
官僚になり下がるのである。


中臣氏はなぜ成功したのか

 やがて、有力豪族の経済的基盤を奪うという役割を果たした公地公民主義は、農民の土地所有意識によって失敗
するだろう。しかし、失敗したといっても、大化改新以前の
もとの状態にもどるわけではない。おそらく、中央集権的な
律令政治と官僚体制だけは残
るにちがいない。

 このときこそが、中臣氏のチャンスである。中臣氏の子孫(つまり藤原氏)が律令政治の中枢の座にすわりつづけて
いれば、私有制にもどった土地や人民を、その権力によって
ほしいままにすることができる。また、そのように律令
をつくりかえればいい。

 では、どうしたら藤原氏の子孫が権力の中枢にすわりつづけることができるか。それには天皇家と藤原氏との血縁
を、政略結婚によって無限に濃くしていくことが必要である。

天皇権を絶対化し、天皇家の外戚として権力の座にすわりつづける。また、天皇権な絶対化する一方では、天皇家
の財力を消耗させ、藤原氏が実質的な権力支配を行なっていく。

 中臣鎌足は天智天皇の下で大化改新を断行し、その子·藤原不比等は、天武天皇系の天皇の下で大宝律令の制
定や私地私民化の実現に努力を傾ける――その底には、
こんな遠大な計画が潜んでいたのではないだろうか。
そして歴史は、
鎌足の意図したとおりに展開していったのである。


なぜ、鎌足は息子を敵側につけたのか

 中大兄皇子は純粋な理想主義者であった。天皇中心主義の理想から、蘇我氏打倒のクーデターを起こし、中央
集権国家を築くために大化改新を行なったことは、
その人柄から、むしろ当然であった。

 だが疑問が残るのは、中臣鎌足である。中臣氏は、鹿島神宮の祭祀者であり鉄の支配者であったが、同時に鹿島
においてはすぐれた農業指導者であった。しかも、鎌足は聡明な進歩的知識人で、南淵請安や僧·旻(みん)に学ぶ
者の中では、右に並ぶもののないほどの秀才だった。 
 この鎌足が、日本の農民の土地に対する強い所有意識を知らないはずはなかった。それにもかかわらず、なぜ
天智天皇を助けて、公地公民制や班田収授を推し進めたのか。 
 じつは中臣鎌足は、天智天皇の大化改新が失敗することを知っていたと、私は思うので
ある。失敗を予見していた
にもかかわらず、彼は蘇我氏打倒のクーデターを中大兄皇子に
すすめ、皇子が天智天皇となってからは,内臣になっ
て公地公民制を強力に推進していった。
 失敗を予見していたと思われる証拠は、鎌足がわが子·藤原不比等を天武天皇側につけたことである。なぜ鎌足は、
自分の後継者である不比等を、天智天皇の公地公民主義に批批判的な大海人皇子の側に残しておいたのか。

 親子が互いに刃を向け合うという不幸な図式が当然予測されるにもかかわらず、権力闘争の渦中にある"家“は、
よくこのような方法を採る。
 "武門"
といわれ、伝統ある家を守ることを至上命令とした戦国時代の武将の家にものケースが見られる。

 もっとも有名なのが、信州の真田家であろう。真田幸村の父である真田昌幸は、関ヶ原合戦を前に、長男·信之
を東軍(徳川方)にやり、自分は次男·幸村とともに西軍(豊
臣方)についた。これは、東軍·西軍のいずれが勝っても真田
家が存続するようにとい
昌幸の武門の智恵であった。

 鎌足は天智·天武を両天秤にかけることによって藤原家存続を図るために、不比等を大海人皇子側に残しておい
たとも考えられる。だがおそらく、藤原家の延命を図るというよ
うな消極策ではなく、半永久的に藤原氏を権力の座
につけ、一門の繁栄を図るという積極的な計画が、
彼の行動には秘められていたと、私は考えたい。

 さらに言えば、鎌足が天智天皇について大化改新を行なったのは、彼の遠大な計画の第一段階にすぎなかった。
そして天智天皇が、猛烈に公地公民主義を展開した結果、地方豪
族や民衆の心が離れ、反革命が起こるであろう
ことも、彼は計算していた。彼の計算どお
りに大化改新は挫折する。そこで不比等が反革命側に残って、第二段階
の計画の実行に着
手するというのが筋書きだったのではなかろうか。


  逆・日本史  樋口清之






公地公民制とは

 公地公民制とは、日本全国の土地や人民は国家のものであり、原則としていっさいの

私有を許さないという思想にもとづいだ政治制変である(功田や賜田など私有を許す例外

もある)。班田収授法とば、国家土地、つまり公地を公民に均等に配分し,その私有を

防ぐだめに公民にいったん 給付した土地を何年かごとに国家が取り上げ、 また再配分する

という制度ある。

 そして、この公地公民制や班田収授をもとに、租庸調の税制や兵役を課し、中央政府

の支配によって地方行政をととのえ、律令によって統制管理するという、唐の政治制度を

そっくり真似したのが日本の律令制国家であった。

 大化改新に始まった古代日本の律令制は、近江令や飛鳥浄原律令などの発展段階を

経て、大宝律令や養老律令が施行されたときに完成した。この律令制をもとに、その中に

認められた土地私有の例外のだめ 奈良·平安時代を通じて、藤原氏を筆頭とする貴族

の私財(収入が増えていった。

武士の登場が貴族制度を発展させた

 ところが人口が増加するにつれて"公民に配分すべき口分田が不足してきた。そこで耕

地を増やすため三世一身法や墾田永世私財法などの特例を設け、開墾を奨励するととも

に、新しく開墾した土地にかぎって私有を認めることになった。

 そのため、私有地である荘園が発達し、武士が発生した。そこで、通説では武士が荘園

経営をとおして力を貯え、律令制を崩壊させ、貴族階級に圧迫を加えていき、ついには貴

族政治がほろび、武家時代が訪れた、とされるのである。

 だが、これは日本史の一面でしかない。先述したように 藤原氏栄華の頂点に立った藤

原道長は、日本最大の荘園の所有者だ つまり、公地公民制が建前である律令制国

家の最高政治責任者が最大の秘有地を持っていたのである。そして平将門の乱など、

武士が台頭してから、貴族政治はむしろ発展していった。

 実は律令制国家の土台を公地公民制に置いたというのは、” 建て前”であり、この政

治体制の根本·実状は私地私民制にこそあった。 
 それも、
大化改新以前のような豪族よる小規模な私有制でなくはるかに大きな土地

と人民とを囲い込む大土地私有のための政治制度だっだ。
  逆・日本史  樋口清之



坂上田村麻呂の目的

坂上田村麻呂の東北平定、もう一つの意味
 現在、東北地方には、佐藤、斎藤など"藤"こののつく姓が多い。藤のつく姓と、
平安時代、
藤原氏が長期政権を担当したこととは関係が深い。

 坂上田村麻呂(七五八~八一一)が、平安初期に征夷大将軍に任命され、東北平定に行
て築いたのが胆沢城(いざわ)である。この胆沢城の城柵(じようさく・とりで)の跡は、現在の岩
手県水沢市
にある。東には北上川が流れ、北に胆沢川が流れる台地に、一辺六五〇メートル
の正方形
に造られた平城である。

 昭和三十(一九五五)年に、この城のあったところを発掘調査したところ、なんと城の中に、
みごとな農事試験場が作られていた。

 学校で教える日本史では、坂上田村麻呂の東北平定は、田村麻呂の兵団が蝦夷を武力だ
けで押さえつけたような表現で述べられている。

 だが、実際はそうではなかった。 坂上田村麻呂は将軍だが、戦闘はほとんどしなかった。
していない証拠に、彼の兵団が持っている刀は蕨手(わらびて)の刀といって、
ほとんど実用に
らない武器だった。

 現在でも東北地方から発見されるが、幅の広い短い刀で、粗悪な鉄を材料とし、鍛えてまくり
がしていない。当時でも、武器としての日本刀は、軟鉄を芯にして鋼で巻き、刃が
焼いてあるの
で、きわめて鋭利だった。これにくらべると、蕨手の刀は打ちっぱなしの鉄
片にすぎない。こん
なもので闘ったら、たちまち折れるに決まっているので、これは蝦夷
を脅すための偽装の用具
にすぎなかった。

  そのかわり彼らは、鍬・鋤・鎌・斧・火打金などを持っていった。もちろん、近畿から東北地方
束で百姓一揆をやりに行ったわけではない。 
 坂上田村麻呂は、なぜ胆沢城にりっぱな農事試験場をつくったのか。彼の兵団は、なぜ農具
を持って出かけたのか。ここに、日本史の真相を知る大きな鍵がかくされているとい農具を持っ
て出かけたのか。ここに、日本史の真相を知る大きな鍵がかくされているといってよい。


田村麻呂の第一目的は農業指導にあった

 結論から言えば、この坂上田村麻呂にしても、のちの文室綿麻呂にしても、彼らの軍隊
農業開拓のための派遣団だったのである。そして、田村麻呂を派遣したのが藤原氏だっ
た。
だから、軍事による征討とだけ考えると大きな誤りを犯す。軍事征討でなく、農業技
術指導の
開拓団だからこそ、蝦夷から受け入れられ信頼されて、
そのために成功した。

 なお蝦夷とは、当時まだ農耕民ではなくて、原始的な生活をつづけていた東北日本人のこと
である。

 稲は本来、亜熱帯性の植物である。それまでの稲作の北限は仙台平野までであった。ま
稲を知らない現地人に稲作を教えるには、まず自分が作ってみせなければならない。寒
冷地
の東北地方に、はたして稲が定着するかどうか、農事試験場をつくって稲の品種改良
や作付
け時期を研究したのである。そして、それまでの暖地性米を、耐寒性の米にみごと
に品種改
良したのだった。

 東北地方に"藤"のつく姓が多いのは、このとき藤原氏の人々が稲作農業の指導者として、
あるいは移植者として、開拓団にまじって近畿から東北地方へ出かけていき、定着した名残り
なのかもしれない。

 いま東北地方の人々が話している東北弁は、じつは平安時代の標準語に近い言葉である。
現代日本の標準語は四六音しかないが、東北弁は六〇音あまりもある。東北弁は『万葉集』や

古事記』の音数に近い。

 また、東北型美人が京美人に近いタイプなのも、このとき近畿の人々が東北に定着し、畿内
型体質が東北人の血に残ったためであるという説がある。
 さて、坂上田村麻呂や藤原氏の人たちが、わざわざ東北地方まで農業指導に出かけて行った
目的は二つあった。

 一つは東北を開拓することで、近畿の余剰人口を移植させることである。先述したよう

に、租庸調の重税から逃れた農民が、浮浪人となって都に流れこみ、平安京は余剰人口を

貴族が浪費生活をしているから、その貴族に寄生することによって、なんとか暮らしが成り立
つのである。そのため、平安京は四〇万と
いう、当時世界一の人口をかかえていた。そこで
都に集中した遊休労働力を拡散し、生産力をもどすために行なった。
すべて藤原氏のものとなった
 もう一つの目的は、租税の増収をはかることだった。当時の蝦夷は律令制国家の範囲外に
あった。律令国家の支配下にある土地や人々を王土王民といったが、東北地方と蝦夷を王化
の土地、王化の民にし、租税を納めさせるために、東北開発を行なったのである。

そして、武力による征討などよりは、米を知らない彼らに稲作を教えるほうが、田租を納めさ
せるうえからいっても、はるかに効果的だった。

 このように、東北開拓は一挙両得の成功を収め た藤原氏ゆかりの人々がこの地方に根を
おろしたことによって、律令制をもとにした藤原氏の中央支配を可能にしたのだっ
た。

 しかし、日本は平安時代後期に寒冷期に入る。彼らが成功した稲は、この寒冷期の東北
方にも充分に育つほど完全な耐寒性ではなかった。何度も冷害が起こり、減収に減収を
重ね
ることになってしまた。けれども、京都に残った藤原氏本家の貴族たちは、地方で
がんばってい
藤原氏末裔の人々の苦労も知らず、容赦なく税を取りたてる。それに反抗
して起こったのが、
安倍貞任。宗任兄弟の反乱、つまり前九年の役(一〇五一~六二年)
である。もちろん平安貴
族にこの乱を平定するだけの力はない。出羽の豪族·清原武則と源義家が平定したのである。
こうして、東北は清原一族の支配するところとなった。
 しかし、この清原氏も同じ理由から反乱を起こす。これが後三年の役(一〇八三~八七)であ
る。そして同じように源義家の力を借りて、藤原一族が平定した。平泉の奥州
藤原氏である。

 これらの内乱の延長線上に、保元·平治の乱(一一五六,一一五九年)が近畿に起こる。

そうして時代は武家の時代に入っていったわけである。

このように、平安時代の藤原氏の栄枯盛衰の裏側には米の歴史があった。稲の品種や栽
技術の改良につとめ、東北地方にまで稲作を広めたり、政治的に米を支配している間
は、藤原
氏は長期間にわたって政権を担当することができたが、寒冷期が訪れ、米の支配
に失敗した
ころ、彼らに衰退のときがやってきたのである。

  逆・日本史  樋口清之





藤原氏が権力者になれた理由

  藤原氏は、大化改新に功のあった中臣鎌足が、藤原の姓を天智天皇から賜わったのが始·
まりだが、中臣氏は、もともと二流の豪族にすぎなかった。この二流の地位を一流に押し上げ
たのは鎌足だが、それをさらに発展逢たのは鎌足の子·不比等だった。不比等は、大宝律令
や養老律令を編纂し、律令制を作り上げた中心人物である。彼はまた、娘·宮子を文武天皇
夫人にもう一人の娘·光明子を宮子の産んだ皇太子,首皇子(のちの聖武天皇)の妃にして、天皇
の外戚としての地位を固めた。
 やがて光明子が光明皇后になり、不比等の子武智麻呂(南家)房前(北家)・宇合(式家)麻呂
(京家)の四兄弟が、それぞれ藤原四家を興して、藤原氏は奈良 平安時代の
貴族社会をリード
していく。

 しかし、藤原氏が完全に政権を握るのは、延喜元(九〇一)年、藤原時,平(左大臣)が右大臣
·菅原道真を大宰,権帥に追い落としてからである。ちょうどその翌年、醍醐天皇によって最初
の荘園整理令が出されている。この天皇の命令は、整理令を出さなければならないほど、荘
園(無税,私有地)が増大したということで、その荘園の経済力を背景にした藤原氏の力を抑え
るという意味もふくまれている。ところが、藤原氏はこのような天皇の抵抗を撥ねのけて権力
を握っていく。そして、その権力掌握の方法が摂関政治だった。
 摂関とは、摂政と関白のことである。摂政とは、天皇が主だ幼い場合、天皇に代わって政治
をする天皇権の代行者である。関白とは、関(かかわ)り白(もう)すという意味から出た言葉で、
皇の意思のもとに相談を受け、天皇の代わに発言する槂限を持つ位のことである。
日本
が模倣した唐の律令制には、摂政とか関白とかいう役はないが、藤原氏自身の地位と発
力を強めるために、勝手にこういう役をつくって官僚制にはめこんでしまったのである。

 天皇の命令に関連するということは、いっさいの人事権を握ることと同じである。役人を任命
するときも、藤原氏の意思にそむくものを退けられる。結局、政治のすべてを自分
の意思どお
りに動かすということなのだ。

 そして、摂政や関白になるには、天皇の外戚になる必要があった。藤原氏が娘を天皇の
にしたのはそのような理由からで、道長が三后冊立に成功したときに、藤原氏にあらざ
る者は
人にあらず、という社会が現出した。
  逆・日本史  樋口清之





大化改新の反革命であった壬申の乱

天智天皇の革命は失敗したのか

 なぜ壬申の乱によって、近江朝廷は滅んだのだろうか。

 それは天智天皇の猛烈な公地公民主義のせいである。班田収授とは、土地を計画的に区
分し、それを分け与え、六年に一度それを取り上げて、また与え直すやり方である。その
ように
与え直して、なんとか土地の所有意識を消すことに努力したのである。
 

日本人の土地観が壬申の乱を生んだ

 日本では、自分の開墾した土地は自分のものという意識が古くからある。それは、シャマニズ
ムから、日本人がこぞって脱却するような形での新宗教導入の歴史がなかったこ
ととも無縁で
はない。つまり、中国とはちがって土地は自分たちの先祖の霊の宿る場所で
あり、自分たちの
魂の発生地だ、心のふるさとだという、強い考え方がはぐくまれてきた
からである。

 だから、日本人の土地に対する意識は、たんに政府の命令で土地の交換をやってみたりする
ことぐらいでは、けっして変わることがない。土地に密着して生きていた古代ではな
おさらである。
私有地の完全否定であり、土地を取りあげたり授けたりするという、大化
改新の規制は、この
日本人の根本精神を無視したものであり、そのため、まったく成功す
る見込みがないものだった。
つまり、すぐそのあとに、壬申の乱という反革命をやり、私
有権を承認する制度に返さなければ、
日本の社会は安定しなかったのである。

 大海人皇子は、飛鳥に帰って飛鳥浄御原で即位し、天皇になった。天武天皇である。

 天武天皇は、急進主義的な近江令の内容を修正し、漸新的な政治制度を始めた。もとの姓

の制度を採り入れて、真人·朝臣·宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の八色(やくさ)りの姓をつくり、
氏族の身分制度を定める。天智天皇の純粋な公地公民主義からみれば、あきらかに修正主
義的な反動政治である。大化改新を革命とすれば、壬申の乱は反革命ともいえる。

 これがかえって律令制政治を発展させたのは、歴史の皮肉である。天武天皇の政治制度は
次の持統天皇(天武天皇の皇后)によって、飛鳥浄御原律令として成文化し、やがて藤原不比等
の大宝律令で集大成されるのである。

  逆・日本史  樋口清之





長岡京造営をなぜ中止したか

 奈良の平城京から山城国葛野郡宇太野の平安京に都を遷したのには、どのような理由が

あったのだろうか。また、平城京から平安京に遷る途中、なぜ長岡京造営が中止されただろ
うか。

 一般的に考えられる遷都の理由としては、奈良時代後期には私有地が増え、貴族と寺院
勢力争いが激化したことにあった。とくに、奈良には寺院が多く集まって、仏教政治が
行なわ
れたため、国家の財政が仏教の保護にほとんど費やされ、その弊害は目にあよるも
のになっ
てきた。 
 仏教政治をあらため、国家の財政をひきしめるには、これらの寺院から離れることが望まし
かった。たしかにこれも理由の一つに相違ない。
 また、平城京は、大和川の支流の佐保川の流城にいとなよれていた。昔は、物資の大量
送が可能な唯一の交通機関は船であった。平安京が陸内港であったように、平城京もこ
の水
上交通の便を条件として成り立っていたのである。ところが、奈良時代の中ごろか
ら、土地の
隆起がいちじるしくなって、佐保川の川幅がせまくなったために、船の航行が
不便になった。

 そのうえ、人口の増加がいちじるしく、都が大きいわりに、その近くに都の消費生活を支える
生産地が不足していた。飲料水も足りず、陸上交通も、各地との連絡に不便な点があった。
 このような理由が重なりあって、桓武天皇は延暦三(七八四)年、遷都の詔勅を出し、山城国
乙訓郡長岡の地に都を造営することが決定したのである。この遷都に力のあったのは、
藤原不比等の四人の子、のうち、宇合の孫にあたる藤原種継であった。

 しかし、長岡京の造営はなかなか進まず、たびたび洪水に見舞われ、しかも遷都の翌年、
藤原種継の暗殺事件が起きた。この事件によって、都の造営はさらに困難をきわめ、
平城京
の宮殿の諸門をこわして運んでくるようなありさまだった。

 そのたぬ和気清麻呂の建言によって、同じ山城平野の、長岡京よりも東北にあたる葛野郡
字太野に、新たに都をつくることが計画された。そして、延暦十三(七九四)年、ふたたび遷都し、

この新しい都を唐の長安にならって平安京と名づけたのである。

 以上が、奈良の平城京から長岡京をへて、平安京に遷った経緯の概略である。しかし、この
遷都の裏側には、大きな陰謀が渦巻いていた。それは、律令制国家の裏面にあるカラ
クリと同
じ性質のものだった。

 一般の常識では、日本人は淡白な民族で、中世ヨーロッパや古代支那に見るようなドロドロ
した権謀術数は、日本社会とは無縁だと信じられている。

 律令制国家時代の日本の裏面に流れていた一大カラクリは、世界史にもめずらしいくらいの
大陰謀だった。それも手を変え品を変え、じつに執拗で、けっしてポキリと折れる類
のものでは
なかった。

 とくに平城京には、律令制政治の苛斂誅,求(かれんちゅうきゅう)によってはじき出された浮
浪民が多く集ま
り、人口は二〇万人にもふくれ上がった。しかも、その膨大な消費生活を支え
る食料も飲
料水も乏しく,混乱と貧困と闘争とが渦巻いていたのである。そこへ寒冷期が重なっ
て飢餓
となり、天然痘や疫病が大流行し、民衆はバタバタ死んでいった。

 ちょうど十八世紀中ごろのフランスが同じで、それが大革命につながったように、奈良時代末
期の平城京は、民衆の欲求不満が爆発寸前にまで高まって、革命前夜の様相を呈し
ていた。

 平城京のこの不穏な様相は、気候風土や地理的な条件、社会経済的な矛盾などによって
き起こされたものだが、裏の一面では、なかば計画的に工作された社会的混乱によるも
ので
もあった。そして、この混乱につけこんで遷都を計画し、結果的にそれを成功させた
者がいた。

 道鏡という、悪逆非道で名高い坊さんがいる。そして一般には、この道鏡が平安遷都の直接
的原因をつくったとされている。

なぜ、道鏡の死と平安遷都が重なるのか

 「我ガ国開:闢ョリ以来、君臣定マリヌ。臣ヲ以テ君トナスコト未ダ有ラザルナリ。天ッ日嗣
必ズ皇儲ヲ立テヨ。無道ノ人ハ宜シク掃除スベシ」

 というのは、和気清麻呂が朝廷に報告した宇佐八幡の有名な託宣である。この託宣によって、
道鏡は天皇になろうという野望を打ちくだかれ、やがて下野国(栃木県)に流さ
れてしまたので
ある(七七〇年)。

 道鏡は、一二〇〇年余り前に称徳天皇(聖武天皇の皇女、孝謙女帝の重祚。)から愛されて
太政大臣禅師から法王となった(七六六
年)。由義宮に住み、衣食住から儀礼制度まで、すべ
て天皇と同じ待遇にされ、その住
んでいる宮を西京と呼ぶよう命ぜられた。称徳天皇は三度も
ここに行幸され、歌垣の宴
を催されたという。

  乙女らに 男立ち添ひ 踏みならす     
     西の都は  よろず代の宮

 というのは、このとき道鏡に媚びた者の作った歌だ。

 神護景雲三(七六九)年、大宰主神習宜阿曽麻呂という男が、「道鏡を天皇にすれば天下が
太平になるだろう」という宇佐八幡の託宣があったと、朝廷に報告してきた。そのた
め、独身で
世嗣のない称徳天皇の次に、道鏡が天皇になるらしいという噂が流れた。
 天皇はその翌月、
近衛将監·和気清麻呂を託宣の確認に宇佐八幡までおもむかせた。

ところが清麻呂は、前にあげたように、まったく反対のことを復命したのだった。天皇と道鏡の
怒りに触れた清麻呂は、大隅国(鹿児島県)に流されて、その名も別部穢麻呂と変
えさせられ
た。その巻き添えで、姉の広虫女(法均尼)までが備後国(広島県)に流され、
名を狭虫女と変え
させられたのである。

 清かった者をきたなくしたり、広かった者を狭くしたりして、何だか子どもの遊びのようである
が、これはちゃんと『続日本紀』に書いてある 話である。

 ところが、この事件から一年とたたない宝亀元(七七〇)年に称徳天皇が崩御されると、道鏡
の運命は急転直下して、天皇の死後わずか一五日で下野国(栃木県)薬師寺に流
され、二年
後にここで死んだ。一方、和気清麻呂は、罪を許されて、山城国(京都府)を
支配するようにな
る。そこにちょうど都合よく、桓武天皇の平安遷都の問題が起きるの
ある。

 『続日本紀』は、天武天皇系とは仲が悪かった桓武天皇のときに作られているから、反対派
の称徳天皇の私行について必ず
しもよく書いていない。しかも、桓武天皇と和気清麻呂とは密
接な関係にある。道鏡が悪
役に仕立てられたとしても不思議はない。

 また、孝謙上皇と道鏡との仲があやしいと言い出したのは、かねて上皇を失脚させようとね
らっていた藤原仲麻呂(孝謙上皇の従兄弟で、恵美押勝という名をもらっていた)だっ
た。
仲麻呂こそ、上皇から特別に愛され、別名までもらっていたくらいだから、これは、

自分への愛情が道鏡に移っだと思いこんだ嫉妬から出た言葉で、とうてい信ずるにたりない。

  逆・日本史  樋口清之



道鏡について

 奈良時代の仏教は南都六宗といい、三論・成実・法相・俱舎・華厳・律と、日本への渡来順に
数えられているが、これらはみな小乗仏教である。しかも、本来の教えが歪められ、人間が悟
りを開くことより現世の利益や修養を説く宗教で、そのために病気を癒やす加持祈禱に長じた
医僧といわれる僧侶がもてはやされた。道鏡はその代表的な人物だった。
 彼の素性を洗って
みると、元明天皇の和銅元(七〇八)年、物部氏の同族で、石上氏な
どとともに武器製造に関係
のある弓削氏の一人として生まれた。弓削氏は、朝鮮から渡来した工業技術者の集団で、河内
国(大阪府)石川の沿岸に住んでいた部族の一つである。
  この石川は金剛山葛城山の西麓を流れ、大和川に注ぐ川で、沿岸には船のふ史と呼ば
れる、朝鮮半島からの渡来人が古くから住んでいた。彼らは大和川の水運を支配する運輸業
者で、文字を知っているインテリ集団である。その船史の一部が大和の飛鳥(遠飛鳥)に移住し
て、蘇我氏などの豪族となるのだが、彼らが東史(やまとのふひと)とと呼ばれたのに対して、こ
の石川沿岸に居残った船史は西史(かわちのふひと)と呼ばれていた。
 その西史の一部族に
弓削一族がいた。いまでも河内国若江郡には弓削神社があり、弓削
寺址(由義宮と同所)も残っ
ているが、弓削氏は古代氏姓制では、「連」とあるから第七
階級で、六位以下、すなわち五位
以上には進めない一族だった。要するに低い身分なのである。

 しかし、かつての仲間であった東史たちは大化改新で滅ぼされた蘇我氏を除いては、飛鳥に
移って繁栄している。これに対して、西史たちのなかで、いつかまた、朝廷の権力
を利用して中
央の座に上ろうという動きがあった。

 道鏡は、青年のころから、たいへんな秀才だった。おそらく弓削一族の期待を一身に担ってい
たにちがいない。しかし、こんな低い身分では官吏は絶対にだめである。もっぱら
学問·宗教·医
術·芸術などの方面で名をなすよりいたしかたなかった。とくに宗教は
権力と直接結びついている。
ここに道鏡が仏門に入る理由があった。

 彼は若い時分に学問を修め、遣唐使について中国に渡り、唐の新しい仏教を学んで帰ってくる。
とくに彼の専門は、加持祈禱によって病気を治療する呪術僧、すなわち巫医で
あった。

 彼が郷里·河内の智識寺(現·大阪府柏原市)に入っているときに、またとないチャンスが訪れた。

聖武天皇光明皇后の行幸があったのである。

 智識寺の本尊は毘盧遮那仏であるが、彼はこの金色燦然たる大仏の前で、天皇と皇后に
『大日経』の教理を弁舌巧みに説明する。なんと説明したかというと、毘盧遮那仏とは大日如来
のことで、この仏は太陽の化身であり,天地宇宙の支配者である。日本の天皇も日の御子であり、
太陽であるから、毘盧遮那仏こそ天皇の象徴で、守護仏である、
と説いたわけである。

 これを聞いて聖武天皇は、すっかり感激された。聖武天皇は気の弱い方で、光明皇后や、
皇后の両親である藤原不比等とた橘三千代に対して、たえずビクビクしている。こ
れは相手の
一族があまりに権力を持ちすぎるからで、とうとう三度まで都から家出をして
いる。皇后が恐くて
家出をした天皇は、聖武天皇が最初で最後である。

 道鏡の説明を聞いて、聖武天皇は自信を回復された。というより、自信喪失を、せめて毘盧遮
那仏の威光によって補おうという願望をお持ちになった。道鏡はその心理を見抜い
て、天皇家
の絶大な経済力を消費させようと巧みに誘導したのではなかろうか。

 毘盧遮那仏は座高五三尺五寸(約一六・二m)と『大日経』に書いてある。そこで聖武天皇は、
そのとおりの大きさの金銅仏を、天皇権の象徴として造ろうと発願された
のだった。

 これが東大寺大仏殿建立の発端であるが、同時に道鏡の立身出世の端緒になった。

 岡寺(竜蓋寺)の義淵僧正のもとにいたころの相弟子玄昉(聖武天皇に重んぜられた)が、天平
十七(七四五)年に、観世音寺を造らせるという名目で筑紫(福岡県)に左遷さ
れると、玄昉に代
わって道鏡が宮中に入ることになった。

天平宝字五(七六一)年八月、淳仁天皇が先帝・孝謙上皇と近江国(滋賀県)保良宮に行幸され
たとき、孝謙上皇ご病気のため道鏡が加持に招かれた。彼は、内道場を造って、如意輪観自
在法というむずかしい秘伝を駆使し、日夜、上皇のそばにつきしたがった。

 このありさまを見て嫉妬した藤原仲麻呂は、上皇と道鏡の仲がおかしいと、淳仁天皇に讒訴
ざんそ)したのである。これを聞いた上皇は怒って、急に奈良に帰り、法華寺(その母光明皇

の寺)で頭を剃って隆基という尼名になられた。それなのに、「国家ノ大事、賞罰二柄
ハ朕行ハ
ン」と、国政の大権を天皇から取り上げ、 太上天皇(讓位後の天皇の称号)優位
を宣言された
のである。このへんから上皇の行動も常軌を逸しはじめた。
 とうとう天平宝字八(七六四)年九
月、藤原仲麻呂は、勝手に太政官印を濫用して兵を
集め、塩焼王を天皇として戴き、近江国
で反乱を起こしたが、たちまち吉備真備の計略で
捕えられ、殺されてしまった。上皇は淳仁天
皇を親王の位に落とし、淡路島に幽閉する。

上皇が天皇を処罰して流罪にするという、日本史上未曾有の事件となった。しかも、この廃帝
は、翌年、垣をこえて逃げようとして捕えられ、淡路守佐伯助らに殺された。

 こうして上皇は再び帝位について称徳天皇となり、道鏡は大臣禅師から左大臣に昇進する。
さすがに道鏡は仏門の身だからとこれを辞退するが、称徳天皇は辞退を許さず、彼を
その上
の位の太政大臣禅師に任命。天平神護二(七六 )年には、法華寺にある隅寺の彫
沙門天から
仏舎利四個が出たという奇瑞(めでたい前兆現象)によって、道鏡を法王に任
命して天皇待遇に
した。これは、興福寺の僧・基真の謀略によるものだが,まったく狂気
の沙汰としか言いようがな
い。
 称徳天皇の常軌を逸した行動はさらに続く。舎人親王の孫、和気王は天皇を呪ったとい

って殺されるし、命婦姉女は、塩焼王の子を帝位につけようと図ったとして罰せられる。

聖武天皇の子という石上志斐弖は、天一坊の元祖みたいに名乗り出て殺される。とにかく世の
中が混乱してきたのである。

 こんなときに、和気清麻呂が登場する。清麻呂の背景を考えてみよう。

道鏡の出世によって渡来人の弓削氏一族は思いがかなって中央に勢力を得た。これをおもし
ろく思わない者たちがいた。同じ渡来人で、山城国(京都府)
に勢力をもつ秦氏である。秦氏は、
弓削氏と利害が相反する関係にあったから、
いつか道鏡を追い落とそうと虎視眈々とその機会
を狙っていた。その秦氏と姻戚関係にあり、利害をともにしていたのが和気清麻呂である。

道鏡が弓削氏一族の期待を一身に担っていたように、清麻呂も秦氏一族の利益代表であった。

 宇佐八幡の託宣そのものが、そもそも問題なのである。古代にはシャーマニズム信仰が根強
いから、人間が憑依という一種の昂奮状態に陥って、神の意志を口走るということの
正当性が
信じられ、その内容が社会的に重要視されたということは認めなければならない
が、この託宣
はあまりに話ができすぎていた。おそらく、清麻呂がこの使命を受けたとき
に、秦一族はチャン
ス到来と思ったにちがいない。というよりは、清麻呂にこの役が回る
ように何らかの裏面工作が
行なわれたのではないだろうか。そして、彼は宇佐八幡まで出
かけなくても、その答えはわかっ
ていたはずである。ただ、行かなければ恰好がつかない
から出かけたにすぎない。

 もちろん、これらのことは私の推測であるから、和気清麻呂の名誉(?)を不当に傷つけること
になるかもしれないが、それ以後の清麻呂の行動をたどると、彼が忠臣であったという定説に、

やはり疑念を抱かざるをえないのである。

 道鏡の左遷後、清麻呂は罪を許されて大隅から召還されると、山城国を領するようになった。
一方、天武系である称徳天皇が崩徇されると、いったん天智系で老齢(六二歳)
の白壁王が即
位して光仁天皇となるが、つぎに正腹の山部親王を皇太子に立てた。壬申の
乱で、天武系に
天皇を独占されていた天智系が政権を握ったのである。

 この山部親王が桓武天皇である。桓武天皇は渡来人との関係が深かったわけだが、なかでも、
もっとも関係が深かったのは山城の秦氏であった。つまり、秦氏を背景にして、桓
武天皇と和気
清麻呂は深く結びついていた。


  逆・日本史  樋口清之




律令国家の二重構造

土地所有の二重構造は何をもたらしたか!

 律令制国家とは、建て前は公地公民制、実質は私地私民制の二重構造を持った巨大で複雑
な機構であった。それでは、実質的には私地私民制である
にもかかわらず、表向きは公地公民
制を採った。

 まず、公地公民制や班田収授法の第一の目的は、大化改新以前、地方の豪族はもちろん、各
農民が小規模に持っていた私有地を公有地として収奪し、
国家管理の下に移すことにあった。
そして、あらためて口分田として班給し(分け与え)、租庸調などの税や兵役などな課した。
 だが、その結果どんなことが起こったか。租庸調や兵役の負担は、江戸時代の年貢以上で、
まさに苛斂誅求(かれんちゅうきゆう)というにふさわしく、山上憶良の「貧窮問答歌(ひんきゅう
もんどうか)」は、律令制時代の貧しい農民の赤裸々な姿をとらえたものである。その結果重い
負担に耐えかねた農民は、割り当てられた口分田を捨てて逃げ出してしまった。私有地なら農
民はなかなか土地を捨てることはしないが、自分の土地でない公有地を捨てることはたやすか
ったからだ。かくして、第一の目的はみごとに失敗したのである。
 けれども、公地公民制は仮の目的にすぎず、しかも、この目的が失敗することを、律令制をは
じめた首謀者にはわかっていたのではないか。ことわっておくが、その首謀者は中大兄皇子
はない。皇子は純粋な理想主義者で、むしろ利用される側だった。
 公地に住み、口分田を耕作することを義務づけられた農民は、土地を捨ててどこへ行ったの
か。逃亡農民たちの中には、浮浪人や私度僧(官許を得ないで,ひそかに得度した僧)になる者
も少なくなかったが、多くの者は、私営田経営者のもとに逃げこんで、そこで使
役される作人や
奴婢になった。

 私営田経営者とは、三世ー身法や墾田永世私財法によって..自分が開墾土地の私有を許さ
れた豪族や受領階級·貴族・寺社などである。ひとくちに土地を開墾して水田にす
るといっても
それには大がかりな水利工事が必要だったから、 結局、土地を私有するこ
とができたのは、
これらの資力のある階級にかぎられていた。

 そして、私営田経営者は、逃亡農民が自分の土地に逃げこんでくるのを歓迎した。私営田が
大きくなればなるほど、耕作や開墾にあたる農民が必要だったからである。

 つまり、公地公民制の真の目的は、大土地所有の私地私民制を飛躍的に発達させることに
あった。
しかも、建て前はあくまで公地公民制だから、中央政府は国衙 (こくが・国司の役所)を
通じて、
私営田経営をコントロールしたり、干渉したりすることができる。また、私営田とはいっ
ても、
公有地と同じように税を収める義務が課せられていた。開墾によって新しく私有地が増え
れば増えるほど、
国家の税収もまた増加したのである。おそらく、この国衙による私墾田認可と
干渉によって、
律令制国家の機構が巨大化していったのではなかろうか。

 また、浮浪人や私度僧となって都会になだれこんできた農民のために、畿内には人口過剩問
題が起きたが、
中央政府はこの問題なたくみに処理した。

 だが、私営田が発達してくると大土地所有者は田租を収めたり、国衙の役人からなにかと干
渉を受けたりするのをいやがるようになる。
税の滞納やごまかしが増え、国の認可を受けない
私営田が作られるようになる。
この力学は、万古不変といってよい。

藤原氏が大荘園地主になったカラクリ

 このような傾向は、税の減収をもたらすうえに、中央政府の支配力が弱まるから、当然,、国衙
は私営田経営に干渉し、
圧迫を加えていく。

そして、国衙のとの干渉・圧迫に対抗して立ち上がったのが平将門の乱であった。
 しかし、
このあたりのこともたくみに計算に入れて、律令制国家というものはつくられていた。
なぜなら、
このことが逆に、中央貴族である藤原氏繁栄の原因をつくるからである。

 平将門は例外として、この時代には一私人である私営田領主の力は、中央政府の地方出張
機関である国司に対抗できるほどに育ってはいない。

そこで彼らは、中央貴族や寺社に名義上自分の私営田を寄進して.その庇護を求めたのである
そして中央貴族や寺社の田地には不輸租権(ふゆそ・田租を収めない権利)が許されていた。

 とくに藤原氏は、天皇の命令の代理者である摂関家であり、 国司の任命権を持つ。その藤原
氏に寄進された私営田となれば、国衙もうかつに手が出せない。

 こうして、藤原道長は「天下の地ことごとく摂関家の領となる」と言われるほどの寄進地系荘園
を持つことになり、その莫大な財力が藤原氏の繁栄を支えたのだった。

 こう考えてみると、律令制国家を公地公民と私地私民の二重構造を持った機構にしたことによ
って、そこから最大の利益を受けたのは藤原氏であることに気づく。しかも、藤原
氏も私営田領
主である武士も、ともに私地私民の受益者で,その受益関係のバランスが崩れないかぎり、律令
制国家も藤原氏も滅びなかった。
 そして、平将門の誤算はここにあった。彼は国司さえやっつければ彼の野望は遂げられると考
えたが、彼の味方であるはずの私営田領主の一人·藤原秀郷に滅ぼされてしまった
のである。

 平安時代が約四〇〇年、平将門の乱の後も約二〇〇年間続いたのは、このような理由か
だった。
ただ、武士と貴族と根本的な相違は、武士が生産者代表であったのに対して、貴族は
非生産者で、一方的な受益者、つまり寄生階級であったという点にある。いつ
の時代でもそうだ
が、かりに年月は長くかかっても、生産者の力が、やがて非生産者の力
を追い越すのは歴史的
必然だといえる。

  逆・日本史  樋口清之


  
長岡京と陰謀

長岡京を見捨てて一番トクをしたのは誰か

 和気清麻呂の献言によって、桓武天皇が平安遷都を行なったことは、よく知られている事実
である。

その理由は、最初、奈良から長岡京への遷都が計画実行されたが、十年近くたっても長岡京
への造営が遅々として進まなかったためとされて
いる。その間、長岡京遷都の中心人物であ
る藤原式家の藤原種継が暗殺され、その犯人として皇太子·早良親王以下数十人が捕えられ
る事件が起こった。
 ところが親王は、それを冤罪としてみずから絶食して自殺してしまった。そのため早良親王の
怨霊が長岡京造営の妨害をした、
というのである。
 しかし、この長岡京遷都は、はじめから怪しい計画なのである。
長岡京は現在の京都府長岡
京市·向日市·乙訓郡大山崎町にまたがり、京都と大阪の境にあたる。

地図を見るとわかるが、淀川が大阪平野に流れる出口で、桂川と合流している。当然、氾濫が
起こる。

また、平城京の四分の一も敷地面積がない。こんなところに都を造営しても失敗するに定(き)
まっている。土地の専門家が調べれば、
失敗が必然的に予想されるところに、なぜ都を造
しようとしたのか。

 これも陰謀なのである。
 おそらく和気清麻呂は、
はじめから平安遷都を考えていた。けれども自分の思うところへは、
最初から持っていかない。藤原種継の言い出した長岡京遷都を黙って見過ごしておく。どうせ
失敗することがわかっていたからである。

 はたして、長岡京ではいくら造営しても、氾濫が起きて大極殿が流された。十年近くも造営が
長びけば、付近の民衆にかかる負担は大きく、怨嗟の声が起きる。そこで、造営
が長びくのは
早良親王の亡霊の祟りであるとして、ここで、はじめて平安遷都を献言したのだった。
 平安遷都は、清麻呂の描いた筋書どおりにみごとに成功した。だが、彼は山城国葛野(かど
の)
つまり現在の京都に都を遷すことによって、どのような利益を得たのか。

 じつは、この土地はすべて和気氏の所領地だったのである。そして、そこは王城の地とする
のに最適の条件をそなえていた。

 おそらく彼は、 あらかじめ遷都のことを計算に入れて、 この土地を選び、自分の所領地とし
て開拓しておいたにちがいない。しかも葛野は、古くから秦氏が住みついている土地であった。
 いずれにしても、現在の土地ブローカー、
地上げ屋の元祖みたいなもので、とかの国の元首
相の土地ころがしなど、
足もとにもおよばないほどスケールの大きい策謀だった。

 以上が"忠臣"和気清麻呂の正体ではなかろうか。

忠臣·清麻呂と妖僧·道鏡との微妙な差
 しかし、
平安遷都を和気清麻呂や秦氏の策謀とだけ片づけてしまうわけにはいかない。なぜ
なら、
この遷都による最大の受益者は、清麻呂でも秦氏でもなく、背後から強大な意志をもっ
て、
彼らを操り人形のように動かしていた者がいたからである。

 和気清麻呂の、平安遷都後の行動を見てみよう。
 清麻呂は、遷都の功労者として官位を上げてもらうことはしなかった。そのかわり彼は、京都
高尾の神護寺によって、寺の勢力を強めていく。神護寺は、
清麻呂の姉の広虫女(法均尼)が
開いた寺で、和気氏の氏寺である。この神護寺の所領として土地をどんどん拡大した。また一
方、この寺で有名な最澄(伝教大師)・空海(弘法大師)が養成される。そして、やがて彼らの開い
天台·真言密教が平安時代の宗教の主流をなしていく。
 これもまた一種の策謀なのである。平安遷都のときに、奈良の都で栄えていた三論·法相·華厳·
律・成実・俱舎などの南都六宗の寺院の移転を禁じた。
つまり、奈良の宗教を全部ここで切り
捨てて、
天台·真言の新しい宗教を起こし、和気氏はその護持者、いわゆるパトロンになって繁
栄するという構想を持ち、
それを実践したのである。

 このように彼の行動の軌跡を眺めてみると、そこに一貫した流れのあることに気づく。道鏡の
排斥、
平安遷都の献言、神護寺による平安宗教の育成は、すべてひとつの目的から出たもの
で、
彼は自分に与えられた役割を忠実に果たしたにすぎなかった。そして、その役割を果たし
ていく途中で、
土地ブローカー的なことをやり、氏寺の勢威を固めたのではなかろうか。

 それでは、和気清麻呂の果たした役割とは何か。

 それは、南都六宗に代表される仏教の大勢力を抑えるという役割である。奈良時代、教寺
院の勢力は、
経済的にも政治的にも貴族を圧倒するほどの巨大なものに成長していた。そし
て、巨大な仏教寺院勢力の代表者が道鏡だったのである。この南都六宗を抑える
唯一の手段
が、道鏡を皇位簒奪者に仕立てあげることだった。

 道鏡を皇位簒奪者にしておいて、南都六宗を沈黙させ、政治の場から僧侶を追放する。そし
て、
思い切って遷都を行ない、みごとに奈良の小乗仏教を切り捨てたのである。

また、天台·真言の平安仏教は、比叡山や高野山など山中に置き、僧侶の政治介入を防いだ
のだった。

  逆・日本史  樋口清之


藤原氏の大陰謀

 奈良仏教追放劇も、奈良時代から平安時代にかけて行なわれた大陰謀の一幕にしかすぎず、
和気清麻呂秦氏は、いわば脇役を忠実につとめただけだった。

この大陰謀の主役は誰だったのか。 その主役は、藤原氏連合グループである。南家·北家.式
家.京家の四卿の人々が、
世紀にわたって仕組んだ大芝居だった。

 聖武天皇は晩年、出家して皇女の阿倍内親王に皇位を譲られたため、内親王は孝謙天皇
となり、光明皇后は当時の習慣にしたがって太上皇后と呼ばれた。

このとき、光明太上皇后のために、法華寺の中におかれたのが令外官の紫微 中台である。
この紫微中台の長官に藤原仲麻呂をすえ、光明太上皇后はここを執政府として活躍された。
こんな奇妙な執要するに孝謙天皇と並立して政治をするための機関で、政府はこのときだけ
のものだが、
娘の天皇政治と母の太上皇后政治の二つが並び立っている状態であった。


光明皇后が藤原グループの利益代表となった謎

 光明皇后の伝説は、意識的に作られたものが多い。歴史のうえで、光明皇后の慈悲深い行
動や、目覚しい活躍を伝えている『統日本紀
は、平安初期、藤原氏による編纂で、藤原氏の
功績を強調するため、光明皇后の
功績を誇大に粉飾しているフシが強いのである。

 であるとすれば、藤原氏の寺である法華寺の十一面観音伝説も、やはり藤原氏によって
識的に作りあげられた話と考えても不自然ではない。
 では、光明皇后そのものが藤原氏の手によって人為的に作られた皇后だったからである。
そして、人臣から出たこの最初の皇后は、藤原氏の防波堤の役割を果たしたのだった。


天平時代は光明皇后とともに始まる

 養老四(七二〇)年、すべての財産を安宿媛に残して父親の不比等が死ぬ。太政大臣だった
不比等は天皇に次ぐ資産家で、
広大な荘園と三〇〇〇人の労働力、それに立派な邸宅を所
有していた。

 これを相続した安宿媛は、将来の布石のために邸あとに法華寺を創建した。彼女には、この
ときから、将来わが子が天皇になったとき、自分は法華寺に入って政治を執ろうと計
画していた
フシがうかがわれる。

 やがて、養老八(七二四)年二月首皇子は即位して聖武天皇になり、年号を神亀と改めた。
ところが、ここに一人
安宿媛を皇后として承認しない者が現われるのである。

 当時、太政大臣がいなかったから左大臣が最高官位であったが、その左大臣の長屋王
人臣から皇后が出た前例がないと主張して、自説を曲げようとしない。

これはどういう意味かというと、当時の習憤として天皇が急に崩徇されて皇太子がいないような
場合、
皇后が女帝として天皇の位につくことが多かったからである。だから、皇后は天皇家の
血筋から選ぶのが慣例になっていた。ところが、万一、聖武天皇がなくなって、光明皇后が天皇
になると、人臣である藤原氏から天皇が出ることになる。
それで長屋王は反対したのだった。

 長屋王は、一世の秀才で、その主張には筋が通っていた。しかも高市皇子(天武天皇の子)の
子で、天武天皇家の最後の血縁者だから、
さすがの藤原氏もこれには勝てない。目の上のタン
コブをなんとか取り除こうと思っていたところ、神亀四(七二七)年に聖武天皇と光明皇后の間に
生まれた皇太子・基立王が、
翌年に病いでなくなった。
 この皇太子の死を利用して、藤原氏は聖武天皇をそそのかし、「長屋王、最近、左道を好み
給う。自ら縊るべし」という勅使を出させた。

「左道」とは、よこしまな道という意味で、呪術のことである。お前は、よこしまな呪術を学んで
基王を呪い殺したから、
をくくって自殺をせよ、と命じた。勅使が到着した朝、藤原氏のつか
わした兵士が長屋王
の邸宅を十重二十重に取り囲んでいた。

長屋王は、とうとう妻子眷族とともに首をくくって死んでいった。神亀六(七二九)年二月十二日
のことである。

 長屋王の変の半年後に年号を天平と改め、夫人·安宿媛を皇后とする詔勅が出されて、正式
に光明皇后が誕生する。長屋王はまじめな政治家だったが、その一族郎党をことごとく殺して
しまうといった、
反対勢力へのフレームアップと血なまぐさい叩きつぶしによって、人為的に光
明皇后が誕生したのだった。

 天平十五(七四三)年、河内の智識寺の毘廬舎那仏を見た聖武天皇は、 大仏建立を発願。
当時としては、大仏建立は国が生産·保有する銅の大半を消費するかと思われるほどの国家
的大事業であった。しかも、発願者の聖武天皇は病気がちで、出家まで実行した天皇である。
これを助けて、光明皇后は八面六臂の活躍をする。
 この大仏建立期は光明皇后の最高の活動期であった。皇后が公私ともに忙しかったころ、
玄昉を近づけすぎたため、人々は誤解して、皇后と玄昉は変な関係だ晦が立った。
 玄昉は、のちの道鏡と同じように加持祈禱をよくする呪術僧で、聖武天皇の母であり光明皇
后の異母姉である宮子の病気を治したのが出世の端緒だった。玄昉の取り入り方は巧みで、
聖武天皇や光明皇后の病気もよく治したため、皇后の信頼も厚くなり、足繁く皇后のもとに出
入りするようになった。しかも、玄昉はアンチ藤原派であるた橘諸兄派の中心人物の一人でも
あった。


玄昉が道鏡ほどの権力者になれなかった理由

 しかし、孝謙天皇と道鏡の場合とちがって、光明皇后はさすがに聡明であった。玄昉との変
な噂が立つと、甥の藤原仲麻呂と組んで、玄昉の追い落としを図り、九州の筑紫観世
音寺の
別当に左遷することに成功した。
 玄昉左遷が藤原氏の権威回復ののろしであるかのように、これ以後、藤原仲麻呂が台頭し、
右大臣·橘諸兄派を追いつめていく。そして、諸兄は右大臣を辞せせざるをえなくなり、その死
後、これを怨んだ諸兄の子橘奈良麻呂が仲麻呂打倒の計画を立てると、藤原グループは事
前にこれをキャッチし、一網打尽に彼らを捕えてしまった。
 その政変の途上,世情が騒然としている中で、
大仏が完成する。天平勝宝四(七五二)年、
東大寺で壮大な大仏開眼供養が行なわれ、聖武天皇は宿願を達成したのである。

宿願がかなって安心したのか、病気がちだった聖武天皇は、開眼供養の二年後、崩御された。

天皇の遺品や、開眼供養に使った衣料·食器,文具類、旗や幕など四千数百点が東大寺に寄付
されたが、これが今日伝わっている正倉院の宝物である。
 そして聖武天皇なきあと、橘派を完全に打ち倒した藤原仲麻呂と光明皇后は、紫微中台をも
とに専制体制を築きあげていくのである。

なぜ、大仏特別税を徴収しなかったのか

 東大寺は大仏殿ばかりではない。裏に講堂、横に経蔵がある。正面には南大門,中門。昔は
東西二つの七重の塔がそびえていた。
このほか、二月堂・.三月堂など、十二ヶ月の行事をす
る堂や多くの僧坊·食堂·鐘楼など、
五○町(三八五〇万平方メートル)の広大な寺域には七堂
伽藍がひしめいていた。

 しかも後方には、正倉といって東大寺所領からの米を納める倉が三六棟あったそのうちの一
棟を聖武天皇奉納の遺物保管にあてたのが正倉院である)。寺院運営には莫大な
費用がかか
るので、
これだけの米倉が必要なのである。

 以上は聖武天皇の造営した東大寺の全容のごく一端である。これだけでも、東大寺建設がい
かに国費を費やし、
庶民を疲弊させたかを、 うかがい知ることができるだろう。

 しかも、国費といっても、東大寺建設は農民から徴発したり、増税したりせず、天皇家の私領
からの収入や、
知識(在俗の仏教帰衣者)からの寄付や篤志家の自発的奉仕を経済的基盤に
することを建て前とした。

 この点がヨーロッパあたりの、直接に人民を搾取することによって出来上がった寺院建築とは
異なるのだが、そのためにこの時期を転機として天皇家の経済は急速に傾いていく。

そして、天皇家の私財や寄付を基盤にしたとはいっても、実際には一般民衆の労働と奉仕によ
らなければ大仏は出来上がらないのだから、
民衆の負担はあまりにも大きかった。
 事実、鎌倉時代の東大寺再興の記録である『東大寺要録』には、「材木知識五万一五九〇人、

役夫一六六万五〇七一人」と書かれているように、
材木関係だけでも、一七〇万人以上の人員
が動員され、のちに乱を起こした橘奈良麻呂は、東大寺造営によって「人民苦辛す」
と、反乱理
由を述べているほどである。

何が天皇政府弱体化の引き金となったか

 ここで、次のような疑問が起こる。

 聖武天皇はともかく、光明皇后はきわめて聡明な方であった。東大寺を造営し、大仏を造り、
さらに全国六十数ヶ国にそのミニチュアである国分寺を置けば当然、天皇家の財政は傾き、人
民が辛苦することは火を見るより、明らかだったはずである。なぜ、この結果を光明皇后ともあ
ろう方が見通せなかったのだろうか。それどころか、光明皇后が率先して国分寺や国分尼寺の
設置や東大寺造営を聖武天皇にすすめた気配さえあるのである。
 この光明皇后の行動は何を意味するかというと、東大寺や国分寺·国分尼寺を造営することに
よって大量消費を促し、天皇政府の弱体化を図るという藤原氏の一貫した方針がその裏側にあ
った。また、
一般庶民が困窮し、律令社会が混乱すればするほど、藤原氏の思う壺にはまって
いった。
そして、藤原氏の策謀を具現化する役割が、光明皇后には課せられていたのである。

なぜ、傭われ官僚の藤原氏が実権を握れたのか

 藤原氏は、なぜ天皇政府が弱体化し、社会混乱によって一般庶民が困窮することを望んだの
だろうか。
 律令制社会の建て前は、天皇を頂点とした公地公民制による中央集権体制である。天皇だけ
は強い権力を持つことはできるが、公地公民制が生きているかぎり、

原則として土地の所有は許されない。その体制の下で、藤原氏が太政大臣や左大臣の高位高
官に登ったとしても、
しょせんは経済的実力を持たない、傭われ官僚にすぎない当時は土地経
済が基本であるから、財力·政治力を持って名実ともに権力の座つくためには、個人が広大な土
地を所有支配することが必須条件であった。

それには、天皇の権力を弱体化し、公地公民制を有名無実化して、私地私民制を採り入れる
ことがどうしても必要だったのである。そして、私地私民化した土地や人民を、
藤原氏が実質的
に所有支配し、名実ともに権カの座にすわりつづけるというのが藤原鎌足以来の遠大な計画だ
ったと思われる。
 律令社会の私地私民化の産物である荘園を、どのような手段で藤原氏の支配下においたか
は、律令国家の二重構造で述べた。⇒⇒⇒

 その結果、「天下の地ことごとく摂関家の領となるとい われるほどの藤原氏全盛時代が訪
れたのである。
 このような目的のために、公有地を基本とする土地制度を実質的には私有地化してしう。また、
公有地に縛りつけられている公民をいったん社会混乱を起こして困窮させ、公有地から引き離
して私営田耕作に取りこんでいく。それが、聖武天皇に国分寺や東大寺を造営させた光明皇后
と藤原連合グループの真のねらいだった。

奈良の僧侶が公地公民制を、まず崩壊させた

 国分寺·国分尼寺の規模と数を考えてみよう。

 当時の日本には六六ヶ国があって、それぞれの国に国分寺·国分尼寺を創建すると、全部で
一三二の官立寺院が出来上がることになる。大部分の国分寺は七七〇年代に完成しいまも寺
址を残すが、辺境の小国では奈良朝末になった例もある。

 武蔵国の国分寺(現·東京都国分寺市)の遺跡は現在、畑になっているが、ここを調べると七堂
伽藍をそなえた、
かなり大きな寺であることがわかる。南大門·中門·塔·金堂·講堂·経蔵·鐘楼の七
つを七堂伽藍というが、その国分寺·国分尼寺も、
これらをそなえた大寺院だったのである。

とくに国分寺の塔は七重塔で、五重塔よりも高く、壮大なものだった。そして、その最後の仕上
げは総国分寺である東大寺の造営だったのである。

 またこのほかにも、官立寺院として、奈良の都の周辺には、西大寺·大安寺·薬師寺.唐招提寺·
元興寺紀寺·飛鳥寺·岡寺などの十大寺があった。

 こんな贅沢な寺をたくさん造って、そこに無税の非生産者である多数の僧尼を生活させた。これ
らの僧尼の生活を支え、
寺院を運営していくには莫大な費用が必要である。そこで寺院に広大
な水田の所有を許した。
公地公民の原則を破って、私地私民化を最初に行なったのが寺社で
ある。
 しかも、
寺院の勢力が増すと消費が高まるので、寺院は政府に経費を要求する。国の収入の
半ばがそのために費やされるようになる。
必然的に天皇政府の財政は貧窮し、国家財政の収支
バランスが破綻していく。

 そこへタイミングよく墾田永世私財法(七四三年)が公布される。

 墾田永世私財法とは、新しく開墾した土地は、子々孫々永代にわたって私有してもよいという
法律である。

しかも、寺社ばかりでなく貴族から庶民にいたるまで、墾田を私有してよいというのである。

 それより二〇年前(七二三年)、土地私有制度の布石として三世一身法が制定されていた。

 これは、これまで班田収授による公地公民制であった原則を、新しく開墾した土地にかぎって
私人の占有を認めるという法律である。
すなわち、新しく溝や池を開発したうえで 土地を開墾し
た場合には子·孫·曾孫の三世にわたって占有を許し、
旧来の溝や池の水利を使って開墾した
場合は、本人一身(一代)にかぎって占有してよいというものであった。

 しかしこの法律では、せっかく開墾した土地も占有期間が切れて国家への返却時期が近づく
と、耕作も放棄されてしまい、もとの荒廃地にもどってしまった。そこで思い切っ
て、子孫々にい
たるまで永代の私有を認めようというのが、墾田永世私財法である。


藤原氏と徳川家康に共通する"ある戦略"

 法律によって墾田の私有を認めるということは、建て前のうえからも半ば公地公民制を放棄
するということである。公地公民の原則を破ってこの法律が施行された裏側には、奈良時代の
人口増加によって班給、つまり分け与えるべき口分田が不足するという事態に陥ったこともあ
るが、仏教寺院造営の大量消費によって大赤字になった国家財政を救うと
いう意図もはたらい
ていた。

 すなわち、私営田も課税の対象になるのだから、新しく開墾した土地が増えれば増えるほど、
国家収入も増加することになる。この収入で、寺院造営による赤字を補填すればよ
というのが
この法律の趣旨であろう。

 しかし、逆に言えば、人のよい聖武天皇をおだてて、国分寺や東大寺をどんどん造営させ、
大量消費によって国家財政を赤字に導く。
そうしておいて、かねて用意しておいた墾田永世私
財法を持ち出し、
聖武天皇に制定させたとも考えられるのである。これは、方広寺を造らせ、膨
大な金や銀や銅を消費させ、
豊臣家の弱体化を図った徳川家康の戦略と酷似しているともい
える。

 ともかく、こうして光明皇后·藤原氏連合グループは、大土地私有の途を切り開いた。
 しかも、この法律での墾田私有面積の限度は庶民から初位(もっとも低い官位)の官人までは
一〇町であるのに対して、
一品の親王、一位の諸王諸臣は五〇〇町も許されていた。これは
藤原氏のような官位の高い貴族には有利な法律である。

そして、この高い地位を利用して、五〇〇町の限度を超えるほどの、大土地囲い込みに突進し
たのである。
 一方、光明皇后は天皇家と藤原氏の血縁をさらに濃くするため、さまざまな陰謀を用いて、
藤原氏の血を引いていない皇族をつぎつぎに亡ぼしてしまう。また、亡ぼさなかった皇族からは
禄を召し上げてしまう。奈良時代には、生活難を訴えた皇族が二百三十数名もいて、天皇家が
米一石と塩数升を与えたという記録が残っているほどである。

米一石、塩数升に困るようでは、皇族の生活も窮民に近い苦境といえるだろう。

 光明皇后は、慈悲の皇后といわれる反面、その名前は、この時代に起こった各種の悲劇
陰にも登場するのである。


  逆・日本史  樋口清之


風鐸(ふうたく・金銅鎮鐸こんどうのちんたく)

金銅鎮鐸正倉院の小型釣り鐘 三つの製作集団存在か

 正倉院に伝わる19点の釣鐘「金銅鎮鐸」は、三つの製作集団がつくったとみられることがわ
かった。鎮鐸は形から2種類に分類され、うち1種類は
二つの製作集団がつくり、もう1種類は別
の製作集団がつくったとされる。宮内
庁正倉院事務所の細川晋太郎·保存課調査室員が18日
発表の「正倉院紀要第41
号」で明らかにした。

 金銅鎮鐸は、一般に風鐸と呼ばれる。内側につりげられた金属の飾り板「風招」が風を受け
ると、鐘の
中にある吊り金具「舌」が、笠状の「鐸身(たくしん)」に当たって音を出す。お堂や塔
軒先に取り付けられることが多い

 正倉院には19点あり、「第1号」( 11点)は鐸身の断面が円形、「第2号」(8点)はひし形。いずれ

も8世紀中ごろにつくられたとみられ、高さ約16 ~ 18cm重さ約1~2kg。

 細川調査室員によると、第2号は、鐸身の形と風招のつくりは統一されていた。このため、
第2号は、
1つの製作集団がつくったと判断できるという。第1号はさらに二つのタイプに分類さ
れた。鐸身に
帯状の突起があるAタイプ( 10点)と、突起のないイプ(1点)だ。Aタイプは、天平
勝宝9(757)年
の銘文があり、東大寺大仏を造立した聖武天皇の一周忌に用いられたとされる。

 調査の結果、ABそれぞれ異なる工程で鋳型を製作していたことがわかった。

風招のつくりもABで違い、それぞれ異なる製作技術が用いられたと指摘。第1号は、二つの製
作集団が
つくったと判断されるという。

細川調査室員は「古代の鋳造技術の伝達状況を明らかにするための一助になる」と話した。

 紀要は正倉院のホームページ(http://shosoin.kunaicho.go.jp/)でも公開されている。
 2019-4-19 朝日新聞 (根本晃)

 
平城宮跡⇒⇒⇒風鐸の動画




空也上人

 

藤田美術館の空也上人立像 英王室の写真にルーツ

 大阪市の藤田美術館が所蔵する木造の「空也上人立像」(高さ96.7 cm, 14~15世紀)につい
て、明治時代には奈
良市の古刹、隔夜寺(中田定慧住職)に安置されていた可能性の高いこと

が、奈良国立博物館(奈良市)の調査で新たに分かった。英国王室が所蔵する明治期に撮影
された古写真をきっか
けに、出自をたどる過程で判明した。

 空也上人立像は、奈良国立博物館で13日に始まった特別展「国宝の殿堂藤田美術館展--曜
変天目茶碗と仏教美
術のきらめき-」(朝日新聞社など主催)で公開されている。

 空也(903~972)は平安時代中期の僧。「南無阿弥陀仏」と唱える念仏を広め、浄土教の普
及に貢献した。

鎌倉時代の仏師、運慶の子である康勝が造り、口から6体の小さな仏が出てくる姿の京都·
六波羅蜜寺の立像(国
重要文化財、13世紀)も知られる。

 奈良国立博物館によれば、英王室のコレクションを管理する「ロイヤル·コレクション·トラスト」
から今年3
月初め、同博物館に「日本の仏像などを写した古い写真がある。詳しい来歴などを
知りたい」という問い合わせが
あった。同博物館の山口隆介主任研究員がコレクションのホー
ムページで公
開されている写真を検索し、その1枚が藤田美術館を調査したときに見た空也上
人立像に、そっくりなことに気づ
いた。

 コレクションは、1879~82年に世界旅行をした2人の王子らが持ち帰ったもので、旅行記によ
れば、空也上
人立像にそっくりな写真は81 (明治14 )年秋に東大寺で撮影されたとみられる。
75 (明治8)年春に東大寺で開
かれた第1次の「奈良博覧大会」に、空中上人立像が出展された
こともわか
り、81年の第6次奈良博覧大会前後にも公開されていたらしい。

 山口さんの調べで、81年撮影らしいコレクションの写真と同じ像が写る写真が東大寺と同じ
華厳宗の隔夜寺に残
されていると判明。東大寺や博物館の近くにある隔夜寺は空也上人を
慕う
庶民らの信仰の拠点とされた寺だ。写真は、大正期に複写されたものだった。

 山口さんは、隔夜寺にあった空也像が明治期に寺を離れ、最終的に藤田美術館に収まった
可能性が高いとみて、
「特別展での公開は、百数十年ぶりに実現した奈良への里帰りとも言え、
慨深い」と話す。
 2019-4-13 朝日新聞
(編集委員·小滝ちひろ)





一遍

 全国を旅して念仏の教えを説いた鎌倉時代の僧、一 遍(1239~89 )は、時宗の開祖と敬われ
ている。時宗の総
本山である神奈川県藤沢市の清浄光寺(遊行寺)が所蔵する全12巻の国宝
絵巻「一遍聖絵」
をはじめ、ゆかりの約130件を紹介する「国宝 一遍聖絵と時宗の名宝」展が13
日、京
都国立博物館(京都市)で始ほる。一遍の跡を継いだ二祖真教(1237~1319)の700回忌
の記念展でもある。

 「一切を捨離すべし」。すべてを捨てなさいと諭す一遍の言葉は、不要な物を持たない生活ス
イルの勧めのようだが、そうではない。あえて意訳すれば「心の中の壁をみな取り払いなさい」
だろ
うか

 長澤昌幸·大正大学専任講師(時宗学)によると、一遍の教えは「すべて平等」に行き着く。思
や信仰、貧富、身分、性差など
にかかわらず、だれもが阿弥陀仏に救われることはすでに決ま
って
いる。阿弥陀仏から見ればみんな平等なのだから、我を張って、人と比べ、敵か味方かと色
分けして
も意味はない。

 こうした境地に一遍が至ったのは数え36歳。「-遍聖絵」が伝えるところでは、「教えを信じる人、
信じない人、身分や男女など
を区別しないで布教せよ」と熊野で神託を受けた。それから全国を

巡り、その地の人たちに教えを説いた。聖絵は一遍の旅の記録である。

 絵と文章からなる12巻の絵巻をすべて広げると長さは約130mに。展覧会ではその全巻を、前
と後期に巻き替えて展示する。

 絵巻の近くで目をこらすと、各地の風景の中にたくさんの人が描き込まれている。老いも若きも、

女も男も。京の都には牛車に乗った貴族がいて、裸同然で体が不自由そうな人もいる。高僧だ
からと
いって、一遍は高貴に描かれていない。

 亡くなる2週間ほど前に持っていた経文を譲り、書物は自ら焼き捨てた。「葬儀はするな」と生前

に弟子たちに 残し、静かに息を引き取ったと絵巻は伝える。11巻と12巻は一遍のみとりの記録
もある。

 没後10年たった1299年に一遍聖絵」は完成した。高弟で絵巻にも登場する聖戒が文を起草し、
円伊という絵師が描いたと伝
わる。「千年後の人々の道しるべにもなるだろう」。こう絵巻は結
れている。
2019-4-4  朝日新聞 (森本俊司)


一遍と真義

 一遍がふるさと伊予国を出て、遊行の旅を始めたのは数え36歳の年。現在の岩手県から鹿
児島県までを歩いて「南
無阿弥陀仏」と書かれた念仏札を配り、数え51歳で生涯を閉じた。一遍
の生涯を紹介す
る一遍聖絵」には、念仏に合わせて激しく体を動かす踊り念仏に熱狂する各地
の老若
男女も描かれている。

 真教は数え53歳で教えを継承。甲信越を中心に遊行し、教団の基盤を固め、数え83歳で他界
した。足跡は10巻の絵
巻「遊行上人縁起絵」(国重要文化財)に描かれている。




新しい年号

 新しい年号が『万葉集』から採られた。それは、年号の歴史にとって、新しい第一歩を踏み
したことになる。というの
は、中国の皇帝制度から生まれた年号が、日本文化のなかに根付い
て、ついには和歌集の漢文
序文から採用されることになったからだ。

 時は、天平2(730)年正月13日のこと。九州·大宰府大伴旅人の邸宅で、花見の宴が催され
た。梅の花見の宴である。
梅は、当時、外来植物で、珍しい植物であった。大宰府は、大陸との
交流の玄関にあたる地で
あり、この地に赴任をした役人たちは、梅の花の白さに、魅了された
のである。旅人宅に集ま
った客人たちは、次々に歌をうたった。

 その歌々を束ねる序文の書き出しには、こうあるのである。


 時に、初春の令月じて、気淑(よ)く風和ぐ。梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披ひら)き、蘭は珮
後(はいご)の香を薫(かお)らす

 これを原文で示せば、「于時,初春令月、気淑風和。梅披鑧前之粉、蘭薫珮後之香」となる。
正月良き時に集えば、天気に恵まれ、風もやわらかで、梅の花は鏡の前にある白粉のように白
く、その匂いといったら、
まるで匂い袋のようだ、と宴の日を讃えている部分だ。

 
良き時に、良き友と宴を共に
する。それが人生の最良の時ではないか、とは、かの王羲之(30
3?~61? )の蘭亭の序
にみえる思想なのだが、大宰府に集まった役人たちは、自分たちを、
あこがれの中国文人にな
ぞらえて、漢詩ならぬ和歌を作って、披露しあう宴を催したのである。

 天平の時代は、決して良い時代ではなかった 政変と飢饉は、人びとの生活を苦しめたし、疫
病も蔓延した時代であ
る。ところが、世界の美術史にも特筆すべき、すばらしい仏像を造り、
『万葉集』の歌々は、
その後の日本の文学の源流となってゆく。

 どんな時代にも、人びとは平和な時を求め、新しい芸術と文化を模索していたのである。

「令和」という年号には、そういった平和への思いが込められている、と思う。と同時に、天平文
化へのあこがれも内包され
ているのではなかろうか。万葉学徒のひとりとして、今、私はそんな
ことを考えている。

 『万葉集』とは、いったいどんな歌集なのだろうか。

 8世紀の中葉に出来た現存する最古の歌集で、その編纂者のひとりが大伴家持である。大伴

家持の父が大伴旅人であり、大伴家持は、父と父の盟友ともいうべき山上憶良にあこがれて、

歌を作り続けたのである。

 『万葉集』に収められている4500首あまりの歌々は、後の時代の範となって、和歌の歴史を作
ってゆくことになる。つ
まり、『万葉集』こそ、和歌始まりの歌集なのである。外来の文字である
漢字を使って、自分
たちの言葉であるヤマト誉葉を、いかに表すか。そこから日本文学の歴史
は始まるのである。

 『万葉集』の生まれた奈良時代ほど、日本が世界に開かれた時代はなかった。漢字·儒教.
教·律令という中国文化を受
け入れて、それをいかに自分たちのものにするのか。万葉びとは、
悪戦苦闘した人びとでもあ
るのだ。

 一方、万葉びとは、常に自分たちの足元を見つめる人びとでもあった。漢文で書けば意味は

分かっても、そのニュアンスが伝わらない。和歌は理ではなく、情を伝えるもので,それは、自分
たちの言葉で情を伝え
るということなのである。

 日本人は、歌で恋をすることを学び、人と人との絆を確かめた。『万葉集』は、その始まりの歌
集ということができる。

今、新しい時代が始まる――。

  2019-4-4  朝日新聞  寄稿 奈良大学教授  上野 誠


元号「令和は追加委嘱案 有識者懇、唯一全員が賛成


 政府が決定した新元号「令和」は、3月中旬に文化勲章受章者で国際日本文化研究センター
名誉教授の
中西進氏らに追加委嘱した案だったことが2日、分かった。決定前に意見を聴く
識者懇談会には「令和
と、専門家が事前に考案した「英弘」 「久化」「広至」「万和」「万保」案を
合わせた計6つの原案
を提示。有識者9人全員が賛成したのが令和だけだったことも明らかに
なった。

 複数の政府関係者によると、政府は平成29年12月1日の皇室会議で5月1日の皇太子さまの
ご即位が決ま
ると新元号の選定作業を本格化させた。国文学、漢文学、日本史学、東洋史学
分野の専門家が考案し、歴代政権が極秘に受け継いできた60 ~70の元号案から菅義偉官
房長官らが20程度に
絞った上、3月上旬に最終案として5案を含む1桁台に絞り込んだ。

 この時点で、安倍晋三首相は「英弘を気に入っていた」(官邸筋)とされる。ただ、英弘が「栄光」

など他の文字を想起させることもあり、国書(日本古典)由来の案をさらに出すよう中西氏らに
追加依頼した。

 追加依頼した専門家は新たに3案を提示。3月最終週になって、首相がそこに含まれていた
「令和」のみ
を、それまでの選定作業で残っていた5案に加え、計6案が4月1日の有識者懇談会
に示された。

 首相が追加3案から令和を選んだのは「世界に誇る日本文学である万葉集からの引用であり、
1億総活躍
社会という政権の考えも反映している」(関係者)ためだった。

 ただ、有識者懇談会では令和以外の案が選ばれる可能性があり、あらかじめ令和を含め複
数の首相談話を
用意していた。実際には、2人の有識者が令和のみに賛成し、他の有識者は
数の案についても意見を述べたが、全員が一致して贊成したのは令和だけだった。

 その後に開かれた全閣僚会議では、河野太郎外相が真っ先に挙手し「国書からとるのが正し
い」と発言し
た。その後、複数の閣僚が国書由来を求めた。最後に首相が「『令和』で決めす」と
述べ、令和の新元号
が確定した。


新元号6原案
英弘 えいこう
 古事記

久化 きゅうか 中国古典

広至 こうし 日本書紀 中国古典「詩経」

万和 ぱんな 中国古典「文選」

万保 ぱんぽう 中国古典

令和 れいわ 万葉集
 産経新聞


「令和」想定外ながら感服

 平成の次の時代を表す新元号が「令和」に決まった。大化から数えて248番目となる元号は日
本最古の歌集『万葉集』から引
用されたが、「令」という漢字は初めて採用された。「令和」は
ぜ選ばれたのか。

 4月1日、今上陛下の「高齢讓位」による皇位継承に先立って公表された新しい元号は「令和」
、その出典は『万葉集』で
ある。これは画期的な意義を有する。「令和」という2文字は、共に漢
音で「れいわ」と読
む(令は呉音なら「りょう」)。その和訓は人名で「よしかず」とも「のりやす」とも
称する例
がある。この,「令」という字は、「令息」とか「令嬢」のように「よい」や「美しい」という意
味があり、また「法令」
訓令」のように「のり」(規範の意味もある。

国書の出典は初

 一方、「和」はよく知られている通り、「和合」や「平和」のように「やわらぐ」「なごむ」「くわえる」
という意味があり
古来「大和」(大いに和する)と称する日本の特性を最もよく表す。それゆえ、
日本の「大
化」から「平成」に至る247の公年号では、「和」が19回使われ(「和銅」~「昭和」)「令
和」で20回になる。それに
対して「令ほ、幕末の「文久」完治」改元の際「令徳」という案で候補
に上ったが幕府の反
対により採用されず、今回が初めてとなった。

 ちなみに、このような組み合わせは珍しくない。例えば昭和」「平成」の「和」や「平」は多く使わ
れてきたが、「昭」
「成」はこの時が初めてである。古来の用例を尊重しながら、新例も取り入れ
たことになる。

 この「令和」について、安倍晋三首相は発表後の談話で「人々が美しく心を寄せ合う」と説明さ
れた。確かに、現在も今後
も「国民の理想としてふさわしい」在り方は、美しく穏やかな心を持ち、
互いに助け合うこと
であろう。

 その出典として、従来は専ら漢籍(中国の古典)が使用されてきたが、今回は年号史上で初
て国書(日本の古典)が採用された。しかも、歴史書の『古事記』や『日本書紀』でなく、
和歌(やま
とうた)を集成した
万葉集』が典拠されたことは、想定外ながら感服するほかない。

 この『万葉集』巻五に、九州の大宰府で, 天平2 (730)年正月13日に開かれた梅花を賞でる宴
会において、32人の官人
たちが詠んだ和歌と、冒頭に序文が収められている。

 その序文は、太宰師(だざいのそち・長官)大伴旅人か筑前守(知事)山上憶良の作とみられる。
そこに
「初春(正月)の 令月(よき月) 、気淑く風和ぎ(穏やかで)、梅は鏡前の粉を披き(おしろい
のように白く咲き) 、蘭
は珮後の香を薫らす(匂い袋のように香っている) 」などと宴会の状況が
的確に描かれてい
る(括弧内の注釈は中西進氏『万葉集』全注釈参照)

理念は「美しい日本」

 この文中にある「令」と「和」を組み合わせて「令和」という元号ができたのである。しかも、その
背景として、唐風文化
の開花期である天平時代に、大宰府という中国大陸や朝鮮半島との外交
を統括する公館におけ
る梅花宴で、教養の高い官人たちが、漢詩でなく和歌を詠んでいること
に思いを致すと、なお
さら味わい深い。

 梅というのは、中国伝来ながら、日本各地で旧暦1月の春先に花が咲き、何より香りが芳しい。

 昔から「梅は寒苦を経て清香を発す」といわれるが、天災などの苦難をみんなの助け合いで

乗り越えてきた平成の日本人が、さらに今後も心を寄せ合い助け合って、本当に美しい平和
日本を花咲かせよう、という
理念を表明したことにもなろう。

 今や国際化·グローバル化の加速するわが国で必要なことは、日本人としてのアイデンティテ
ィーを再認識した上で、可
能な限り国内外のために貢献することではないかと思われる。

そんな新時代への展望と期待をこめて、「令和」元号の誕生を言祝(ことほ)ぎたい。
  2019-4-8  産経新聞  所功   


まだある「令和」の出典

 ご即位も成り,令和時代が始まった。慶祝慶祝。

 もっとも、元号「令和」についての議論が消えつつある点、中国哲学中国古典学研究者の老
生、それは
不承知。

 令和の出典は『万葉集』の或る序と公表された。早速,その序は中国の『文選』中の帰田賦(き
でんのふ)を踏んでいる
ので『文選』を出典とすべしとの意見が現れた。妥当である、そこまでは。
しかし中国古典学的には、もう
一歩の踏み込みが欲しい。

 借問す。出典とされた帰田賦の言葉に、さらなる出典はないと断言できるのか、と。

 現代における古典学は、修養のためではなくて、広く優れた古典一般の実証的研究である。

 しかし近代までの伝統的古典学はそれと異なり、聖人(人格·識見ともに完成された人物)が集
めたり発
した言葉を<述べる.祖述する>ことであった。多くは注解の形。そしてその教養の下、己
の表す詩文にお
いて聖人の言葉をできるだけ多く鏤(ちりば)めてきた。

 心ある人は聖人の文献(『詩経』『書経』などの経書・けいしょ)を学習し暗誦してきた。だから後
世の詩文には経書
の言葉が至る所に見えるのである。

 例えば経書の『儀礼(ぎらい)』士冠礼(しかんれい)に「令月吉日、始めて元服を加ふ」とあり、
大注釈家の鄭玄は「令・吉み
な善」と注する。また経書の『周礼(らい)』保章氏に「十有二( 12カ
月)の
(各)風を以て、天地の和を察す」とある。

 すなわち「令月」や「―風…和」という対語はすでに存在しており、「文選』帰田賦の作者はそれ
らを引
き、踏んだのであろう。正統的詩文である。

 となると、令和は『万葉集』を出典とし、同箇所は『文選』を出典とし、それはさらに経書の『儀
礼』
『周礼』などを出典とするという話になってゆく。というような理屈を捏(こ)ねるのが、老生ら
中国哲学·中国
古典学者であるから、世人から嫌われるのも、宜(むべ)なるかな。

 そういえば思い出した。朝日·毎日新聞それぞれが、今回の年号案作成者に中国哲学系の人
物が一人もい
なかったのは中国哲学研究の衰落を示すという趣旨の記事を載せて貶していた。

 ご心配下さり感謝いたします。われら中国哲学·中国古典学者は、昔から少数精鋭で人知れ
ず深く研究し
ております。では腕試しに"御用学者殿"に剛速球を一つ。打ち返せるかな。

 経書の『礼記』月令は、政治(かっては天子が代表者)の在り方を月毎に述べている重要な必
読文献で
る。その年始の1月において、民に対して「徳を布(し)き、令(禁令·法令)を和らげ、慶
(賞)を行ひ、恵
(物)を施しめ」とある。原文中の「和令」を取り出して訓読すると「令を和らぐ」す
なわち「令和ら
ぐ」、すなわち「令和」ではないか

 さらに踏み込めば、税の軽減、近くは消費増税先送り論に通じ、民の暮らしに配慮する御代
の出発となろ
う。斯(か)く眼光紙背に徹するのが中国古典学者。

 『詩経』小旻(しょうびん)に曰く,人(小人・御用学者は)一を知るのみにして、その他を知るな
し、と。
   2019-5-12  産経新聞 大阪大名誉教授 加地伸行



光格天皇らの時代さぐる国立公文書館展

 
 桜町殿行幸図」より、光格天皇が乗る鳳輦(ほうれん)の部分
国立公文書館蔵
 
 東山天皇の即位の際に行われた大嘗祭を描いた「大嘗会祭図」

国立公文書館蔵

 近代史上初の譲位が行われた。前回は約200年前の光格天皇

の代に行われたが、当時の天皇はどのような存在だったのだろう

か古文書や絵図で江戸時代の朝廷や天皇のあり方をさぐる特別

展「江戸時代の天皇」が、東京都千代田区の国立公文書館で開か

れている。

(磨井慎吾)


信長の朝廷認識は

 約260年間続いた江戸時代。その初期と末期とでは、天皇の持つ存在感は大きく異なる。

 江戸時代初期は、安土桃山時代からの流れをくむ。そもそも 統一の道筋を最初に作った織
田信長は、
朝廷に対しどうしたいと考えていたのか。本能寺の変の直前にあたる天正10 (1582)
年4~5月にかけ
て、信長を太政大臣か関白か征夷大将軍かのいずれかに任官させたい(三職
任)という正親町天皇の意向に対し、信長側が返答を保留しだことを記した公家の勧修寺晴
豊の日記「日々
記」は、未完に終わった信長の政権構想や対朝廷政策をめぐって、今も続く論
の根本となる重要史料だ。

 信長の後を継いだ豊臣秀吉の没後、天下人となった徳川家康はたびたび朝廷に介入して統
制を進め、天皇
にも厳しい態度で臨んだ。

2代将軍秀忠の娘を中宮に迎えた後水尾天皇は幕府に反発し、抗議の意図を込めて5度にわ
たる譲位の意思
表明を行った。そのうち5度目の譲位表明について、当時の公家の日記が、
天皇
は「御うしろ(背中もしくは腰)」を悪くしているが、在位中では "玉体“にお灸などによる傷
を付けら
れず、治療に専念するため譲位を望んでいる…と理由を記しているのが面白い。

 5代将軍綱吉あたりから江戸中期にかけて朝幕の協調が進む。室町時代から200年以上に
わたり途絶え
ていた大嘗祭も、経費の都合で縮小した形ながら貞享4 (1687)年の東山天
位の際に再興。展示の
「大嘗会祭図」は、紫宸殿の南庭に設けられた大嘗祭のための仮設殿
舎が克明に
描かれている。

寛永は憂さ永し?

 天皇代替わりの際の慣例である改元についても、関連資料が豊富に展示されている。林羅
山の息子の儒
者、林鵞峰(がほう)の『改元物語』は、自身が関わった正保から延宝までの改
元の経緯を
記した書物だが、興味深いのは元号に対する世間の評判を収録しているところ。

 たとえば21年も続いた「寛永」は、字を分解すれば「ウサ(憂さ)見ル事永シ」となる。「正保」は

「焼亡」と音が似ている、「正」の字を分解すれば一ニシテ止ム」となる、「正保元年」と書くと「正

二保元ノ年」と読めてしまい、天皇方と上皇方が武士勢力を動員して戦った保元の乱(1156年)
のよう
な大乱の兆しである…などと元号に対しての同時代人の非難が記録されている。

タフな交渉者

 今回の展示の目玉となるのが、幕藩体制が行き詰まりを見せ始めた江戸後期に即位した
光格天皇(在位1
780~1817年)に関する絵図類。明治天皇の曾祖父にあたる光格天皇は、長ら
く途絶えていた朝廷儀
式の再興などで朝廷の権威を高め、近代天皇制の礎を作ったと評される。

 その事績の中でもよく知られているのが、天明の大火(1788年)で焼失した内裏を平安時代の
様式に
基づく形で再建させたことだ。展示を担当した同館の長坂良宏·公文書専門官は「当時
の幕府老中首座であ
る松平定信は経費面で難色を示した。しかし交渉を重ねた末、紫宸殿や
清涼殿な
どを復古的な様式で建てる代わりに日常住居にあたる部分は簡素な作りとするなど、
おおむね朝廷の意向が
通る形で決着した」と解説する。光格天皇は幕府との対立を辞さないタ
フな交渉
者でもあった。
 2019-5-6  産経新聞





蘭亭序

蘭亭序

 永和九年、歳在癸丑、暮春之初、會于會稽山陰之蘭亭、修禊事也。羣賢畢至、少長咸集。

 此地有崇山峻嶺、茂林修竹、又有清流激湍、映帶左右、引以為流觴曲水、列坐其次。雖無

 絲竹管絃之盛、一觴一詠、 亦足以暢敘幽情。 是日也、天朗氣清、惠風和暢、 仰觀宇宙之大、

  俯察品類之盛、所以游目騁懷、足以極視聽之娛、信可樂也。夫人之相與、俯仰一世、或取

 諸懷抱、悟言一室之内、或因寄所託、放浪形骸之外。雖趣舍萬殊、靜躁不同、當其欣於所

 遇、暫得於己、快然自足、不知老之將至。及其所之既倦、情隨事遷、感慨係之矣。向之所

 欣、俛仰之間、已為陳跡、猶不能不以之興懷。況修短隨化、終期於盡。古人云、死生亦大

 矣、豈不痛哉。每覽昔人興感之由、若合一契、未嘗不臨文嗟悼、不能喻之於懷。固知一死

 生為虚誕、齊彭殤為妄作、後之視今、亦猶今之視昔、悲夫。故列敘時人、録其所述、雖世

 殊事異、所以興懷、其致一也。後之覽者、亦將有感於斯文。

 (『晋書』巻第八十列伝第五十、王羲之)


【現代語訳】『蘭亭詩集』の序

 永和九年(三五三)葵丑の年、晩春三月の初め、会稽郡山陰県(浙江省紹興),の蘭亭

に集まった。禊の行事をおこなうためである。すぐれた人物たちはすべて着き、老いも若

きもみな集まった。この地には、高い山、けわしい峰、茂った林、丈高い竹があり、また

清らかな流れに激しい早瀬があって、あたりに照り映えている。この流れを引いて、觴を

流す曲水とし、人々は順次ならんで岸に坐る。琴や笛のにぎわいはないが、一杯の酒ごと

に一首の詩と、自然をめでる情をのびのびと示すには十分である。

 この日、空は晴れわたり空気は澄んで、そよ風はなごやかにのどかであった。宇宙の広

大さをふり仰ぎ、万物のにぎわいを見おろす。自由に見わたし、心をときはなつこの眺め

は、耳目のよろこびを存分に味わわせてくれる。まことに楽しいかぎりである。

 そもそも人がお互い一生を送るについては、胸に抱く思いを大切にして、一室の中で友

と語り合う人もあれば、この身は仮りのものというわけで、東縛をはなれて奔放に生きる

人もある。その選択はさまざまで、静と動とのちがいはあれ、境遇によろこびを感じ、暫

時おのれの意にかなったときには、心楽しくひとり満足し、老いが訪れようとしているこ

とにも全く気づかぬ。やがてその気持ちも倦み疲れ、感情が事の推移とともに変化してゆ

けば、それにつれて感慨をもよおすようになるのだ。以前のよろこびは、またたくまに古

びた記憶のあとと化す。人はこれしきのことでさえ、物思いにふけらずにはおられぬ。ま

してや長寿短命の別なく、造化の意のままに、さいごは必ず滅びてしまうことを思えば、

なおさらである。古人はいった、「死と生とはまこと人生の一大事なり」と。何と心痛む

ことではないか。

 昔の人々が感懐をもよおしたそのわけを知るたびに、それらがまるで符牒をあわせたよ

うに同じなので、私は古人の文章を前に してはいつも嘆き痛まずにおれず、胸の中で悟り

すますわけにもゆかぬ。もちろん死と生とを同一視するのはうそであり、不老の仙人と若別

死にした者とを同じに扱うのがでたらめなことは私も知っているし、後世の人の今に対す

る見方は、やはり今の人の昔に対する見方と同じであろう。悲しいことよ。かくて今の世

の人々の名を列記して、その心をのべた詩を書きとどめる。 世を異にし事態は変わっても、

個人が感懐をもよおす理由は、結局一つである。後世 これを見る人々は、やはりこれらの作業

品にこころ動かされるであろう。

(伊藤正文·一海知義『中国古典文学大系第23巻 漢·魏·六朝·唐·宋散文選』 平凡社)
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文選

文選
 遊都邑以永久、無明略以佐時。徒臨川以羨魚、俟河清乎未期。感蔡子之慷慨、從唐生以決

 疑。諒天道之微昧、追漁父以同嬉。超埃塵以遐逝、與世事平長辭。於是仲春令月、時和氣

 清。原隰鬱茂、百草滋榮。王雎鼓翼、鶴鶊哀鳴。交頸頡頏、關關嘤嚶。於焉逍遙、聊以娛

 情。 爾乃龍吟方澤、虎嘯山丘。仰飛纖繳、 俯釣長流。觸矢而斃、貪餌吞鉤。 落雲間之逸禽、

 懸淵沈之魦鰡。于時曜靈俄景、係以望舒。極般遊之至樂、雖日夕而忘劬。感老氏之遺誡、

 將迴駕乎蓬廬。彈五絃之妙指、詠周孔之圖書。揮翰墨以奮藻、陳三皇之軌模。苟縱心於物」

 外、安知榮辱之所如。

(『文選』巻第十五・志)


【通釈】
 私は都に出てきてから、すでに長くなるが、時の君主を助けるほどの優れた政策

を抱いていたわけでもなく、ひたすら河辺に立ちつくして魚を欲しがるような有様で、む

なしく出世の到来を待っていた。昔、蔡沢は身の不遇を嘆き、人相見の唐挙に判断しても

らったというが、私も同じ気持ちだ。しかし、まことに天道は微かで見定めがたいもので

ある以上、いっそかの漁夫を追って隠棲し、彼の楽しみを見習おうと思う。塵の如き俗界

を離れて遠く立ち去り、世間の雑事とは永久に別れることとしよう。さて、仲春の佳い時

節ともなれば、気候は穏やか、大気は清々しい。野原や湿原に植物は生い茂り、多くの草

が一面に花をつける。ミサゴは羽ばたき、コウライウグイスは悲しげに鳴く。首をすり寄

せて昇り降り、さまざまな鳴き声を立てている。そんな中をさまよっては、いささかなり

とも我が心を楽しませるのだ。 かくして、沢辺では竜の如く吟じ、山野では虎の如く嘯く。

空高く射ぐるみを飛ばし、大きな川に釣り糸を垂れる。鳥は矢に当たって落ち、魚は餌を

食って針にかかる。雲間に飛ぶ鳥を射止め、淵の底に潜む魚を釣り上げる。さるほどに火

は傾き、月が昇って来る。遊びまわって楽しみを極め、夕暮れになっても疲れを知らなか

った。老子が残した教えをふと思い出し、狩りが人の心を狂わせるという戒めに従って、

我が家に車を戻そうとした。帰ってからは、五弦の琴を巧みにつま弾き、周公と孔子の経

典を朗読した。筆を振るって詩文を作り、三皇の教えを述べる。心を外物から解き放つこ

とができさえすれば、この世の栄辱の行方など、感知することではなくなるのだ。

(高橋忠彦『新釈漢文大系第81巻 文選(賦篇)下』明治書院)
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