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蘇我氏陰謀の挫折
聖徳太子の後ろに見える蘇我氏の影
大化改新 中臣鎌足の藤原氏繁栄の計画と、ほとんど同じ内容の陰謀をたくらんだ者が、以前にもいた。 それは蘇我氏である。蘇我馬子は天皇権を利用し、政略結婚によって天皇家との血縁を 深め、一方では仏教政策によって、天皇家の財力を消耗させ、実質的な権力を蘇我氏が握 っていく計画をみごとに 成功させた男である。だが、その計画によって得た権力の座は山背大兄王を殺害するという入鹿の犯し た過ちによって、一瞬のうちに崩れ去った。だが、中臣鎌足は、蘇我馬子·蝦夷父子の政治の方法から、 おそらく彼の計画のヒントをつかんだにちがいない。 蘇我馬子の政治的才能の、もっともよく現われているのが聖徳太子の新政である。 聖徳太子は、古くは『日本書紀』の伝記から、中世の『元亨釈書』をへて、近世にいたるまで、完全人格 だが、四歳にして仏典を読めたとか、10人の訴えを同時に聞き分けたというような超人的な伝説は別に それは、十七条憲法の「詔ヲ承リテハ必ズ慎メ」に 見られるような天皇の権威の強調であり、冠位十二階 太子が推古天皇の摂政になる二〇年も前から、蘇我馬子は大臣の地位にあり、政治に練達しているば さらにいえば、崇峻天皇を弑逆した馬子にだれ一人抗議する者がなく、大臣の地位もゆるがなかったこと これらのことを考えれば、推古天皇のときの政治が、すべて聖徳太子と天皇の意志のみで動いていたと考 なぜ、天皇権を馬子は強調したのか ここで疑問が一つ残る。 では、なぜ馬子は、天皇権を強調するような十七条憲法を、聖徳太子に発布させたのだろうか。蘇我氏の 馬子の妹の堅塩媛と小姉君は、ともに欽明天皇の妃である。同じく妹の石寸名は用明天皇の妃であった。 こうなれば、天皇の権威が、大王からすめらみことへと、超越的な地位に上がったほうが蘇我氏にとっては 聖徳太子が仏教の興隆を図り、仏寺を多く建立したのにも、蘇我馬子の意図が考えられる。聖徳太子建立 これらの寺院建立の目的は二つあった。 一つは、奈良朝の光明皇后の時代に藤原氏がその ま踏襲した方法である。つまり、皇室の財産をどんどん もう一つの目的は、蘇我氏の防衛拠点を築くということであった。たとえば難波に四天王寺を、大和平野の入 また、遣隋使の派遣にも馬子の思惑がある。進歩的な知識人である彼は、隋の文化や政治制度を日本に採 はやく持っていたのではないだろうか。おそらく、冠位十二階の制定は、そのような馬子の意志のあらわれである。 そして、蘇我氏の陰謀は、皮肉なことに、蘇我氏を打ち倒した中臣(藤原)氏によって継承されることになった。 |
中臣氏を打ち倒す豪族が出現しなかった理由
鹿島から移住した中臣氏は、河内の製鉄業者を支配すると、大和朝廷の中枢に伸し上がっていった。天皇家と、 中臣氏の鉄の文化との結合である。しかし、中臣氏が権力を握るには、あまりに多くの強大な敵がいた。敵とは 蘇我氏であり、物部氏であり、その他もろもろの有力豪族たちである。中臣氏は物部氏と組んで、最大の強敵· 蘇我氏にあたったが、その結果、物部氏は滅亡し、中臣氏は辛うじて生き残ったのである。 鎌足は、このことから貴重な教訓を得た。 蘇我氏を排除して、中臣氏が権力の中枢の座につくのは容易なことではない。万一、中臣氏が蘇我氏を打ち倒 永遠に中臣氏が繁栄する方法はないのだろうか。それには、たった一つだけ方法がある。それは、唐の律令制を 幸いなことに、聖徳太子の新政以来、天皇はたんなる大王ではなく、すめらみことであるという意識がしだいに浸 公地公民制を実施するということは、豪族の私有の部民や私有地を天皇の民、天皇の土地にして、その経済的基 中臣氏はなぜ成功したのか やがて、有力豪族の経済的基盤を奪うという役割を果たした公地公民主義は、農民の土地所有意識によって失敗するだろう。しかし、失敗したといっても、大化改新以前のもとの状態にもどるわけではない。おそらく、中央集権的な 律令政治と官僚体制だけは残るにちがいない。 このときこそが、中臣氏のチャンスである。中臣氏の子孫(つまり藤原氏)が律令政治の中枢の座にすわりつづけて では、どうしたら藤原氏の子孫が権力の中枢にすわりつづけることができるか。それには天皇家と藤原氏との血縁 天皇権を絶対化し、天皇家の外戚として権力の座にすわりつづける。また、天皇権な絶対化する一方では、天皇家 中臣鎌足は天智天皇の下で大化改新を断行し、その子·藤原不比等は、天武天皇系の天皇の下で大宝律令の制 なぜ、鎌足は息子を敵側につけたのか 中大兄皇子は純粋な理想主義者であった。天皇中心主義の理想から、蘇我氏打倒のクーデターを起こし、中央 だが疑問が残るのは、中臣鎌足である。中臣氏は、鹿島神宮の祭祀者であり鉄の支配者であったが、同時に鹿島 親子が互いに刃を向け合うという不幸な図式が当然予測されるにもかかわらず、権力闘争の渦中にある"家“は、 を東軍(徳川方)にやり、自分は次男·幸村とともに西軍(豊臣方)についた。これは、東軍·西軍のいずれが勝っても真田 家が存続するようにとい昌幸の武門の智恵であった。 鎌足は天智·天武を両天秤にかけることによって藤原家存続を図るために、不比等を大海人皇子側に残しておい さらに言えば、鎌足が天智天皇について大化改新を行なったのは、彼の遠大な計画の第一段階にすぎなかった。 逆・日本史 樋口清之 |
公地公民制とは、日本全国の土地や人民は国家のものであり、原則としていっさいの
私有を許さないという思想にもとづいだ政治制変である(功田や賜田など私有を許す例外 もある)。班田収授法とば、国家土地、つまり公地を公民に均等に配分し,その私有を 防ぐだめに公民にいったん 給付した土地を何年かごとに国家が取り上げ、 また再配分する という制度ある。 そして、この公地公民制や班田収授をもとに、租庸調の税制や兵役を課し、中央政府の支配によって地方行政をととのえ、律令によって統制管理するという、唐の政治制度を そっくり真似したのが日本の律令制国家であった。 大化改新に始まった古代日本の律令制は、近江令や飛鳥浄原律令などの発展段階を 経て、大宝律令や養老律令が施行されたときに完成した。この律令制をもとに、その中に 認められた土地私有の例外のだめ 奈良·平安時代を通じて、藤原氏を筆頭とする貴族 の私財(収入が増えていった。 武士の登場が貴族制度を発展させた ところが人口が増加するにつれて"公民に配分すべき口分田が不足してきた。そこで耕 地を増やすため三世一身法や墾田永世私財法などの特例を設け、開墾を奨励するととも に、新しく開墾した土地にかぎって私有を認めることになった。 そのため、私有地である荘園が発達し、武士が発生した。そこで、通説では武士が荘園 経営をとおして力を貯え、律令制を崩壊させ、貴族階級に圧迫を加えていき、ついには貴 族政治がほろび、武家時代が訪れた、とされるのである。 だが、これは日本史の一面でしかない。先述したように 藤原氏栄華の頂点に立った藤 原道長は、日本最大の荘園の所有者だ つまり、公地公民制が建前である律令制国 家の最高政治責任者が最大の秘有地を持っていたのである。そして平将門の乱など、 武士が台頭してから、貴族政治はむしろ発展していった。 実は律令制国家の土台を公地公民制に置いたというのは、” 建て前”であり、この政 治体制の根本·実状は私地私民制にこそあった。 と人民とを囲い込む大土地私有のための政治制度だっだ。 |
坂上田村麻呂の東北平定、もう一つの意味 坂上田村麻呂(七五八~八一一)が、平安初期に征夷大将軍に任命され、東北平定に行っ みごとな農事試験場が作られていた。 学校で教える日本史では、坂上田村麻呂の東北平定は、田村麻呂の兵団が蝦夷を武力だ していない証拠に、彼の兵団が持っている刀は蕨手(わらびて)の刀といって、ほとんど実用に ならない武器だった。 現在でも東北地方から発見されるが、幅の広い短い刀で、粗悪な鉄を材料とし、鍛えてまくり 束で百姓一揆をやりに行ったわけではない。 坂上田村麻呂は、なぜ胆沢城にりっぱな農事試験場をつくったのか。彼の兵団は、なぜ農具 を持って出かけたのか。ここに、日本史の真相を知る大きな鍵がかくされているとい農具を持っ て出かけたのか。ここに、日本史の真相を知る大きな鍵がかくされているといってよい。 田村麻呂の第一目的は農業指導にあった 結論から言えば、この坂上田村麻呂にしても、のちの文室綿麻呂にしても、彼らの軍隊は農業開拓のための派遣団だったのである。そして、田村麻呂を派遣したのが藤原氏だっ た。 だから、軍事による征討とだけ考えると大きな誤りを犯す。軍事征討でなく、農業技術指導の 開拓団だからこそ、蝦夷から受け入れられ信頼されて、そのために成功した。 なお蝦夷とは、当時まだ農耕民ではなくて、原始的な生活をつづけていた東北日本人のこと 稲は本来、亜熱帯性の植物である。それまでの稲作の北限は仙台平野までであった。まだ 東北地方に"藤"のつく姓が多いのは、このとき藤原氏の人々が稲作農業の指導者として、 現代日本の標準語は四六音しかないが、東北弁は六〇音あまりもある。東北弁は『万葉集』や 『古事記』の音数に近い。 また、東北型美人が京美人に近いタイプなのも、このとき近畿の人々が東北に定着し、畿内 一つは東北を開拓することで、近畿の余剰人口を移植させることである。先述したよう に、租庸調の重税から逃れた農民が、浮浪人となって都に流れこみ、平安京は余剰人口を 貴族が浪費生活をしているから、その貴族に寄生することによって、なんとか暮らしが成り立 せるうえからいっても、はるかに効果的だった。 このように、東北開拓は一挙両得の成功を収め た藤原氏ゆかりの人々がこの地方に根を しかし、日本は平安時代後期に寒冷期に入る。彼らが成功した稲は、この寒冷期の東北地 そうして時代は武家の時代に入っていったわけである。 このように、平安時代の藤原氏の栄枯盛衰の裏側には米の歴史があった。稲の品種や栽培 |
藤原氏は、大化改新に功のあった中臣鎌足が、藤原の姓を天智天皇から賜わったのが始· まりだが、中臣氏は、もともと二流の豪族にすぎなかった。この二流の地位を一流に押し上げ たのは鎌足だが、それをさらに発展逢たのは鎌足の子·不比等だった。不比等は、大宝律令 や養老律令を編纂し、律令制を作り上げた中心人物である。彼はまた、娘·宮子を文武天皇の 夫人にもう一人の娘·光明子を宮子の産んだ皇太子,首皇子(のちの聖武天皇)の妃にして、天皇 の外戚としての地位を固めた。 やがて光明子が光明皇后になり、不比等の子武智麻呂(南家)房前(北家)・宇合(式家)麻呂 (京家)の四兄弟が、それぞれ藤原四家を興して、藤原氏は奈良 平安時代の貴族社会をリード していく。 しかし、藤原氏が完全に政権を握るのは、延喜元(九〇一)年、藤原時,平(左大臣)が右大臣 天皇の命令に関連するということは、いっさいの人事権を握ることと同じである。役人を任命 そして、摂政や関白になるには、天皇の外戚になる必要があった。藤原氏が娘を天皇の妃 |
天智天皇の革命は失敗したのか
それは天智天皇の猛烈な公地公民主義のせいである。班田収授とは、土地を計画的に区 日本人の土地観が壬申の乱を生んだ 日本では、自分の開墾した土地は自分のものという意識が古くからある。それは、シャマニズ だから、日本人の土地に対する意識は、たんに政府の命令で土地の交換をやってみたりする 天武天皇は、急進主義的な近江令の内容を修正し、漸新的な政治制度を始めた。もとの姓 の制度を採り入れて、真人·朝臣·宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の八色(やくさ)りの姓をつくり、 これがかえって律令制政治を発展させたのは、歴史の皮肉である。天武天皇の政治制度は 逆・日本史 樋口清之 |
奈良の平城京から山城国葛野郡宇太野の平安京に都を遷したのには、どのような理由が あったのだろうか。また、平城京から平安京に遷る途中、なぜ長岡京造営が中止されただろ 一般的に考えられる遷都の理由としては、奈良時代後期には私有地が増え、貴族と寺院の そのうえ、人口の増加がいちじるしく、都が大きいわりに、その近くに都の消費生活を支える しかし、長岡京の造営はなかなか進まず、たびたび洪水に見舞われ、しかも遷都の翌年、 字太野に、新たに都をつくることが計画された。そして、延暦十三(七九四)年、ふたたび遷都し、 この新しい都を唐の長安にならって平安京と名づけたのである。 以上が、奈良の平城京から長岡京をへて、平安京に遷った経緯の概略である。しかし、この 一般の常識では、日本人は淡白な民族で、中世ヨーロッパや古代支那に見るようなドロドロ 律令制国家時代の日本の裏面に流れていた一大カラクリは、世界史にもめずらしいくらいの とくに平城京には、律令制政治の苛斂誅,求(かれんちゅうきゅう)によってはじき出された浮 ちょうど十八世紀中ごろのフランスが同じで、それが大革命につながったように、奈良時代末 平城京のこの不穏な様相は、気候風土や地理的な条件、社会経済的な矛盾などによって惹 道鏡という、悪逆非道で名高い坊さんがいる。そして一般には、この道鏡が平安遷都の直接 なぜ、道鏡の死と平安遷都が重なるのか 「我ガ国開闢ヨリ以来、君臣定マリヌ。臣ヲ以テ君トナスコト未ダ有ラザルナリ。天ッ日嗣ハ というのは、和気清麻呂が朝廷に報告した宇佐八幡の有名な託宣である。この託宣によって、 道鏡は、一二〇〇年余り前に称徳天皇(聖武天皇の皇女、孝謙女帝の重祚。)から愛されて
乙女らに 男立ち添ひ 踏みならす というのは、このとき道鏡に媚びた者の作った歌だ。 神護景雲三(七六九)年、大宰主神習宜阿曽麻呂という男が、「道鏡を天皇にすれば天下が太平になるだろう」という宇佐八幡の託宣があったと、朝廷に報告してきた。そのため、独身で 世嗣のない称徳天皇の次に、道鏡が天皇になるらしいという噂が流れた。 天皇はその翌月、 近衛将監·和気清麻呂を託宣の確認に宇佐八幡までおもむかせた。 ところが清麻呂は、前にあげたように、まったく反対のことを復命したのだった。天皇と道鏡の 清かった者をきたなくしたり、広かった者を狭くしたりして、何だか子どもの遊びのようである の運命は急転直下して、天皇の死後わずか一五日で下野国(栃木県)薬師寺に流され、二年 後にここで死んだ。一方、和気清麻呂は、罪を許されて、山城国(京都府)を支配するようにな る。そこにちょうど都合よく、桓武天皇の平安遷都の問題が起きるのある。 |
奈良時代の仏教は南都六宗といい、三論・成実・法相・俱舎・華厳・律と、日本への渡来順に 数えられているが、これらはみな小乗仏教である。しかも、本来の教えが歪められ、人間が悟 りを開くことより現世の利益や修養を説く宗教で、そのために病気を癒やす加持祈禱に長じた 医僧といわれる僧侶がもてはやされた。道鏡はその代表的な人物だった。 彼の素性を洗って みると、元明天皇の和銅元(七〇八)年、物部氏の同族で、石上氏などとともに武器製造に関係 のある弓削氏の一人として生まれた。弓削氏は、朝鮮から渡来した工業技術者の集団で、河内 国(大阪府)石川の沿岸に住んでいた部族の一つである。 この石川は金剛山、葛城山の西麓を流れ、大和川に注ぐ川で、沿岸には船の船史と呼ば れる、朝鮮半島からの渡来人が古くから住んでいた。彼らは大和川の水運を支配する運輸業 者で、文字を知っているインテリ集団である。その船史の一部が大和の飛鳥(遠飛鳥)に移住し て、蘇我氏などの豪族となるのだが、彼らが東史(やまとのふひと)とと呼ばれたのに対して、こ の石川沿岸に居残った船史は西史(かわちのふひと)と呼ばれていた。 その西史の一部族に 弓削一族がいた。いまでも河内国若江郡には弓削神社があり、弓削寺址(由義宮と同所)も残っ ているが、弓削氏は古代氏姓制では、「連」とあるから第七階級で、六位以下、すなわち五位 以上には進めない一族だった。要するに低い身分なのである。 しかし、かつての仲間であった東史たちは大化改新で滅ぼされた蘇我氏を除いては、飛鳥に 道鏡は、青年のころから、たいへんな秀才だった。おそらく弓削一族の期待を一身に担ってい 彼は若い時分に学問を修め、遣唐使について中国に渡り、唐の新しい仏教を学んで帰ってくる。 彼が郷里·河内の智識寺(現·大阪府柏原市)に入っているときに、またとないチャンスが訪れた。 智識寺の本尊は毘盧遮那仏であるが、彼はこの金色燦然たる大仏の前で、天皇と皇后に これを聞いて聖武天皇は、すっかり感激された。聖武天皇は気の弱い方で、光明皇后や、
道鏡の説明を聞いて、聖武天皇は自信を回復された。というより、自信喪失を、せめて毘盧遮 毘盧遮那仏は座高五三尺五寸(約一六・二m)と『大日経』に書いてある。そこで聖武天皇は、 岡寺(竜蓋寺)の義淵僧正のもとにいたころの相弟子玄昉(聖武天皇に重んぜられた)が、天平 天平宝字五(七六一)年八月、淳仁天皇が先帝・孝謙上皇と近江国(滋賀県)保良宮に行幸され ざんそ)したのである。これを聞いた上皇は怒って、急に奈良に帰り、法華寺(その母光明皇后 の寺)で頭を剃って隆基という尼名になられた。それなのに、「国家ノ大事、賞罰二柄ハ朕行ハ ン」と、国政の大権を天皇から取り上げ、 太上天皇(讓位後の天皇の称号)優位を宣言された のである。このへんから上皇の行動も常軌を逸しはじめた。 とうとう天平宝字八(七六四)年九 月、藤原仲麻呂は、勝手に太政官印を濫用して兵を集め、塩焼王を天皇として戴き、近江国 で反乱を起こしたが、たちまち吉備真備の計略で捕えられ、殺されてしまった。上皇は淳仁天 皇を親王の位に落とし、淡路島に幽閉する。 上皇が天皇を処罰して流罪にするという、日本史上未曾有の事件となった。しかも、この廃帝 こうして上皇は再び帝位について称徳天皇となり、道鏡は大臣禅師から左大臣に昇進する。
さすがに道鏡は仏門の身だからとこれを辞退するが、称徳天皇は辞退を許さず、彼をその上 の位の太政大臣禅師に任命。天平神護二(七六 )年には、法華寺にある隅寺の彫沙門天から 仏舎利四個が出たという奇瑞(めでたい前兆現象)によって、道鏡を法王に任命して天皇待遇に した。これは、興福寺の僧・基真の謀略によるものだが,まったく狂気の沙汰としか言いようがな い。 称徳天皇の常軌を逸した行動はさらに続く。舎人親王の孫、和気王は天皇を呪ったとい って殺されるし、命婦姉女は、塩焼王の子を帝位につけようと図ったとして罰せられる。 聖武天皇の子という石上志斐弖は、天一坊の元祖みたいに名乗り出て殺される。とにかく世の 道鏡の出世によって渡来人の弓削氏一族は思いがかなって中央に勢力を得た。これをおもし 道鏡が弓削氏一族の期待を一身に担っていたように、清麻呂も秦氏一族の利益代表であった。 宇佐八幡の託宣そのものが、そもそも問題なのである。古代にはシャーマニズム信仰が根強 もちろん、これらのことは私の推測であるから、和気清麻呂の名誉(?)を不当に傷つけること |
土地所有の二重構造は何をもたらしたか! 律令制国家とは、建て前は公地公民制、実質は私地私民制の二重構造を持った巨大で複雑 まず、公地公民制や班田収授法の第一の目的は、大化改新以前、地方の豪族はもちろん、各 私営田経営者とは、三世一身法や墾田永世私財法によって..自分が開墾土地の私有を許さ そして、私営田経営者は、逃亡農民が自分の土地に逃げこんでくるのを歓迎した。私営田が あった。しかも、建て前はあくまで公地公民制だから、中央政府は国衙 (こくが・国司の役所)を 通じて、私営田経営をコントロールしたり、干渉したりすることができる。また、私営田とはいっ ても、公有地と同じように税を収める義務が課せられていた。開墾によって新しく私有地が増え れば増えるほど、国家の税収もまた増加したのである。おそらく、この国衙による私墾田認可と 干渉によって、律令制国家の機構が巨大化していったのではなかろうか。 また、浮浪人や私度僧となって都会になだれこんできた農民のために、畿内には人口過剩問 渉を受けたりするのをいやがるようになる。税の滞納やごまかしが増え、国の認可を受けない 私営田が作られるようになる。 この力学は、万古不変といってよい。 藤原氏が大荘園地主になったカラクリ このような傾向は、税の減収をもたらすうえに、中央政府の支配力が弱まるから、当然,、国衙 そして、国衙のとの干渉・圧迫に対抗して立ち上がったのが平将門の乱であった。 平将門は例外として、この時代には一私人である私営田領主の力は、中央政府の地方出張 そこで彼らは、中央貴族や寺社に名義上自分の私営田を寄進して.その庇護を求めたのである。 とくに藤原氏は、天皇の命令の代理者である摂関家であり、 国司の任命権を持つ。その藤原 こうして、藤原道長は「天下の地ことごとく摂関家の領となる」と言われるほどの寄進地系荘園 こう考えてみると、律令制国家を公地公民と私地私民の二重構造を持った機構にしたことによ 平安時代が約四〇〇年、平将門の乱の後も約二〇〇年間続いたのは、このような理由から |
長岡京を見捨てて一番トクをしたのは誰か 和気清麻呂の献言によって、桓武天皇が平安遷都を行なったことは、よく知られている事実 その理由は、最初、奈良から長岡京への遷都が計画実行されたが、十年近くたっても長岡京 地図を見るとわかるが、淀川が大阪平野に流れる出口で、桂川と合流している。当然、氾濫が また、平城京の四分の一も敷地面積がない。こんなところに都を造営しても失敗するに定(き) これも陰謀なのである。 はたして、長岡京ではいくら造営しても、氾濫が起きて大極殿が流された。十年近くも造営が じつは、この土地はすべて和気氏の所領地だったのである。そして、そこは王城の地とする て開拓しておいたにちがいない。しかも葛野は、古くから秦氏が住みついている土地であった。 いずれにしても、現在の土地ブローカー、地上げ屋の元祖みたいなもので、とこかの国の元首 相の土地ころがしなど、足もとにもおよばないほどスケールの大きい策謀だった。 以上が"忠臣"和気清麻呂の正体ではなかろうか。 忠臣·清麻呂と妖僧·道鏡との微妙な差 和気清麻呂の、平安遷都後の行動を見てみよう。 このように彼の行動の軌跡を眺めてみると、そこに一貫した流れのあることに気づく。道鏡の それでは、和気清麻呂の果たした役割とは何か。 それは、南都六宗に代表される仏教の大勢力を抑えるという役割である。奈良時代、仏教寺 道鏡を皇位簒奪者にしておいて、南都六宗を沈黙させ、政治の場から僧侶を追放する。そし また、天台·真言の平安仏教は、比叡山や高野山など山中に置き、僧侶の政治介入を防いだ |
藤原氏の大陰謀
奈良仏教追放劇も、奈良時代から平安時代にかけて行なわれた大陰謀の一幕にしかすぎず、 和気清麻呂や秦氏は、いわば脇役を忠実につとめただけだった。 この大陰謀の主役は誰だったのか。 その主役は、藤原氏連合グループである。南家·北家.式 となり、光明皇后は当時の習慣にしたがって太上皇后と呼ばれた。 このとき、光明太上皇后のために、法華寺の中におかれたのが令外官の紫微 中台である。 光明皇后が藤原グループの利益代表となった謎 光明皇后の伝説は、意識的に作られたものが多い。歴史のうえで、光明皇后の慈悲深い行 であるとすれば、藤原氏の寺である法華寺の十一面観音伝説も、やはり藤原氏によって意 天平時代は光明皇后とともに始まる 養老四(七二〇)年、すべての財産を安宿媛に残して父親の不比等が死ぬ。太政大臣だった これを相続した安宿媛は、将来の布石のために邸あとに法華寺を創建した。彼女には、この やがて、養老八(七二四)年二月首皇子は即位して聖武天皇になり、年号を神亀と改めた。 当時、太政大臣がいなかったから左大臣が最高官位であったが、その左大臣の長屋王が これはどういう意味かというと、当時の習憤として天皇が急に崩徇されて皇太子がいないような 長屋王は、一世の秀才で、その主張には筋が通っていた。しかも高市皇子(天武天皇の子)の 「左道」とは、よこしまな道という意味で、呪術のことである。お前は、よこしまな呪術を学んで 長屋王は、とうとう妻子眷族とともに首をくくって死んでいった。神亀六(七二九)年二月十二日 長屋王の変の半年後に年号を天平と改め、夫人·安宿媛を皇后とする詔勅が出されて、正式 天平十五(七四三)年、河内の智識寺の毘廬舎那仏を見た聖武天皇は、 大仏建立を発願。
当時としては、大仏建立は国が生産·保有する銅の大半を消費するかと思われるほどの国家 的大事業であった。しかも、発願者の聖武天皇は病気がちで、出家まで実行した天皇である。 これを助けて、光明皇后は八面六臂の活躍をする。 この大仏建立期は光明皇后の最高の活動期であった。皇后が公私ともに忙しかったころ、 玄昉を近づけすぎたため、人々は誤解して、皇后と玄昉は変な関係だ晦が立った。 玄昉は、のちの道鏡と同じように加持祈禱をよくする呪術僧で、聖武天皇の母であり光明皇 后の異母姉である宮子の病気を治したのが出世の端緒だった。玄昉の取り入り方は巧みで、 聖武天皇や光明皇后の病気もよく治したため、皇后の信頼も厚くなり、足繁く皇后のもとに出 入りするようになった。しかも、玄昉はアンチ藤原派であるた橘諸兄派の中心人物の一人でも あった。 玄昉が道鏡ほどの権力者になれなかった理由 しかし、孝謙天皇と道鏡の場合とちがって、光明皇后はさすがに聡明であった。玄昉との変 宿願がかなって安心したのか、病気がちだった聖武天皇は、開眼供養の二年後、崩御された。 天皇の遺品や、開眼供養に使った衣料·食器,文具類、旗や幕など四千数百点が東大寺に寄付 なぜ、大仏特別税を徴収しなかったのか 東大寺は大仏殿ばかりではない。裏に講堂、横に経蔵がある。正面には南大門,中門。昔は しかも後方には、正倉といって東大寺所領からの米を納める倉が三六棟あったそのうちの一 以上は聖武天皇の造営した東大寺の全容のごく一端である。これだけでも、東大寺建設がい しかも、国費といっても、東大寺建設は農民から徴発したり、増税したりせず、天皇家の私領 この点がヨーロッパあたりの、直接に人民を搾取することによって出来上がった寺院建築とは そして、天皇家の私財や寄付を基盤にしたとはいっても、実際には一般民衆の労働と奉仕によ
何が天皇政府弱体化の引き金となったか ここで、次のような疑問が起こる。 聖武天皇はともかく、光明皇后はきわめて聡明な方であった。東大寺を造営し、大仏を造り、 なぜ、傭われ官僚の藤原氏が実権を握れたのか 藤原氏は、なぜ天皇政府が弱体化し、社会混乱によって一般庶民が困窮することを望んだの 原則として土地の所有は許されない。その体制の下で、藤原氏が太政大臣や左大臣の高位高 それには、天皇の権力を弱体化し、公地公民制を有名無実化して、私地私民制を採り入れる れたのである。 このような目的のために、公有地を基本とする土地制度を実質的には私有地化してしう。また、 公有地に縛りつけられている公民をいったん社会混乱を起こして困窮させ、公有地から引き離 して私営田耕作に取りこんでいく。それが、聖武天皇に国分寺や東大寺を造営させた光明皇后 と藤原連合グループの真のねらいだった。
奈良の僧侶が公地公民制を、まず崩壊させた 国分寺·国分尼寺の規模と数を考えてみよう。 当時の日本には六六ヶ国があって、それぞれの国に国分寺·国分尼寺を創建すると、全部で 武蔵国の国分寺(現·東京都国分寺市)の遺跡は現在、畑になっているが、ここを調べると七堂 とくに国分寺の塔は七重塔で、五重塔よりも高く、壮大なものだった。そして、その最後の仕上 またこのほかにも、官立寺院として、奈良の都の周辺には、西大寺·大安寺·薬師寺.唐招提寺· こんな贅沢な寺をたくさん造って、そこに無税の非生産者である多数の僧尼を生活させた。これ 墾田永世私財法とは、新しく開墾した土地は、子々孫々永代にわたって私有してもよいという しかも、寺社ばかりでなく貴族から庶民にいたるまで、墾田を私有してよいというのである。 それより二〇年前(七二三年)、土地私有制度の布石として三世一身法が制定されていた。 これは、これまで班田収授による公地公民制であった原則を、新しく開墾した土地にかぎって私人の占有を認めるという法律である。すなわち、新しく溝や池を開発したうえで 土地を開墾し た場合には子·孫·曾孫の三世にわたって占有を許し、旧来の溝や池の水利を使って開墾した 場合は、本人一身(一代)にかぎって占有してよいというものであった。 しかしこの法律では、せっかく開墾した土地も占有期間が切れて国家への返却時期が近づく 藤原氏と徳川家康に共通する"ある戦略" 法律によって墾田の私有を認めるということは、建て前のうえからも半ば公地公民制を放棄 すなわち、私営田も課税の対象になるのだから、新しく開墾した土地が増えれば増えるほど、 しかし、逆に言えば、人のよい聖武天皇をおだてて、国分寺や東大寺をどんどん造営させ、 ともかく、こうして光明皇后·藤原氏連合グループは、大土地私有の途を切り開いた。 そして、この高い地位を利用して、五〇〇町の限度を超えるほどの、大土地囲い込みに突進し 米一石、塩数升に困るようでは、皇族の生活も窮民に近い苦境といえるだろう。 光明皇后は、慈悲の皇后といわれる反面、その名前は、この時代に起こった各種の悲劇の |
風鐸(ふうたく・金銅鎮鐸こんどうのちんたく)
金銅鎮鐸正倉院の小型釣り鐘 三つの製作集団存在か 正倉院に伝わる19点の釣鐘「金銅鎮鐸」は、三つの製作集団がつくったとみられることがわかった。鎮鐸は形から2種類に分類され、うち1種類は二つの製作集団がつくり、もう1種類は別 の製作集団がつくったとされる。宮内庁正倉院事務所の細川晋太郎·保存課調査室員が18日 発表の「正倉院紀要第41号」で明らかにした。 金銅鎮鐸は、一般に風鐸と呼ばれる。内側につりげられた金属の飾り板「風招」が風を受け 正倉院には19点あり、「第1号」( 11点)は鐸身の断面が円形、「第2号」(8点)はひし形。いずれ も8世紀中ごろにつくられたとみられ、高さ約16 ~ 18cm重さ約1~2kg。 細川調査室員によると、第2号は、鐸身の形と風招のつくりは統一されていた。このため、 調査の結果、ABそれぞれ異なる工程で鋳型を製作していたことがわかった。 風招のつくりもABで違い、それぞれ異なる製作技術が用いられたと指摘。第1号は、二つの製 細川調査室員は「古代の鋳造技術の伝達状況を明らかにするための一助になる」と話した。 紀要は正倉院のホームページ(http://shosoin.kunaicho.go.jp/)でも公開されている。 |
藤田美術館の空也上人立像 英王室の写真にルーツ 大阪市の藤田美術館が所蔵する木造の「空也上人立像」(高さ96.7 cm, 14~15世紀)につい が、奈良国立博物館(奈良市)の調査で新たに分かった。英国王室が所蔵する明治期に撮影 空也上人立像は、奈良国立博物館で13日に始まった特別展「国宝の殿堂藤田美術館展--曜 空也(903~972)は平安時代中期の僧。「南無阿弥陀仏」と唱える念仏を広め、浄土教の普 鎌倉時代の仏師、運慶の子である康勝が造り、口から6体の小さな仏が出てくる姿の京都· 奈良国立博物館によれば、英王室のコレクションを管理する「ロイヤル·コレクション·トラスト」 コレクションは、1879~82年に世界旅行をした2人の王子らが持ち帰ったもので、旅行記によ 山口さんの調べで、81年撮影らしいコレクションの写真と同じ像が写る写真が東大寺と同じ 山口さんは、隔夜寺にあった空也像が明治期に寺を離れ、最終的に藤田美術館に収まった |
全国を旅して念仏の教えを説いた鎌倉時代の僧、一 遍(1239~89 )は、時宗の開祖と敬われ 「一切を捨離すべし」。すべてを捨てなさいと諭す一遍の言葉は、不要な物を持たない生活ス 長澤昌幸·大正大学専任講師(時宗学)によると、一遍の教えは「すべて平等」に行き着く。思想 こうした境地に一遍が至ったのは数え36歳。「-遍聖絵」が伝えるところでは、「教えを信じる人、 巡り、その地の人たちに教えを説いた。聖絵は一遍の旅の記録である。 絵と文章からなる12巻の絵巻をすべて広げると長さは約130mに。展覧会ではその全巻を、前 絵巻の近くで目をこらすと、各地の風景の中にたくさんの人が描き込まれている。老いも若きも、 女も男も。京の都には牛車に乗った貴族がいて、裸同然で体が不自由そうな人もいる。高僧だ 亡くなる2週間ほど前に持っていた経文を譲り、書物は自ら焼き捨てた。「葬儀はするな」と生前 に弟子たちに 残し、静かに息を引き取ったと絵巻は伝える。11巻と12巻は一遍のみとりの記録 没後10年たった1299年に一遍聖絵」は完成した。高弟で絵巻にも登場する聖戒が文を起草し、 一遍と真義 一遍がふるさと伊予国を出て、遊行の旅を始めたのは数え36歳の年。現在の岩手県から鹿 真教は数え53歳で教えを継承。甲信越を中心に遊行し、教団の基盤を固め、数え83歳で他界 |
聖絵の一遍 国宝への旅 杉本苑子 流浪の一遍集団 その出離から入 寂まで、ほとんど生涯にわたる行 状を追ったも のだけに、『一遍上人絵伝』はたいへん長尺な絵巻物である。場面が 多く、登場人物もおびただしい。克明にかぞえていったら、何百人 にも及ぶのではあるまいか。 しかし、どこにいても、また、どれほどたくきんな人数のなかに 混じっていても、一遍上人がどれか、絵巻ではすぐわかる。背が高 く、体躯は痩せて、ごつごつと骨ばった感じだし、容貌もいかつい。 秀でた眉の下に、鋭い眼が光り、鼻梁は高く、ロが大きい。庶民に 弥陀への帰依を説き、念仏をすすめて回ったお坊さまよりは、血槍 をひっさげて、戦場を疾駆するほうが似合いそうな、精悼な顔だち に描かれているのである。 この絵巻は、一遍の門弟であり、弟ともいわれている聖戒が、師 の没後、まださほど年月を経過しないうちに制作に着手したものだ から、絵師にアドヴァイスできたであろうし、絵師自身、生前の一 遍に接していたとも考えられる。画中の顔や体型は、そっくりでは ないまでも、一遍の実像に迫ったリアルなものと受けとめてよさそ うだ。 水軍で鳴らした伊子の河野氏の出だと聞けば、それもうなずける もともと武人の血筋なら、武張っていて当然なわけて、お公家さんる 風になよなよなどしていては、かえっておかしいかもしれない。 しかも見慣れてくると、はじめ少しこわかった一遍の風貌が、だ んだん頼もしく、好もしいものに思えてくる。僧形のせいもあろう けれど、なにより人々への愛と布教への熱意、そして集団をひきい る責任感が、彼の表情に真剣な、純なきらめきを添えていることに気づ かれるからである。 つねに一遍の周辺を、数多くの僧俗が取り巻き、困難な遍歴にも 屈せず従っていったのは、マッスの指導者としてのその性情に、民 衆を心底なつかせ、心服させる魅力があったからて、必ずやそれは、 一見いかつげな外容にも、内側から白玉を輝かせる光のように、温 かく優しく、にじみ出ていたであろうと想像される。 ただし、一遍の統率力がどれほどすぐれていても、異形ともいえ る集団の移動を、好意的に見る者ばかりとは限らなかった。念仏踊 りの悦惚状態も、醒めた目には一種の集団催眠と映ったのではなか ろうか。 根なし草の生活を同情されながらも、ジプシーの流浪が、通りす ぎてゆく村々の住民につねに警戒きれ、忌まれもしたのは、物がか すめ盗られる、風紀を乱す、野営のあとを汚してゆくなどの、マイ ナス面が伴っていたからである。 僧や尼、時には俗体の男や女、子供まで加わった一遍の集団も、 この手の誤解を免れなかったのだろう。当時の副首都だった鎌倉で、 町へ入ろうとする一行が執権に追い返されるようすが、絵巻にも描 写されている。 しかたなく彼らは、片瀬の浜辺に退去し、そこで踊 念仏を興行す るのだが、ジプシーのような芸人の群れと違って、宗教を奉じる信 徒たちだけに、規律はさすがに厳格だったらしい。たとえ野に臥し、 辻の破れ堂に泊まりもする旅であっても、両性は峻 別されて、淫ら がましい混乱は生じなかったという。 弱者の暮·らーぶりを活写 絵巻というものはどれもそうだが、描かれた時代の風俗を知るこ とができるという点で、実に得がたい資料だし、興味をそそられも する。『一遍上人絵伝』も決して例外ではない。それどころか、庶民 の暮らしぶりが活写されているという意味では、群を抜く優秀な絵 巻の一つてはあるまいか。 見てゆくうちにまず気づかされるのは、乞食と犬の多きである。 ノラ犬が減り、飼い犬がつながれ、浮浪者·乙食といった階層が激 減した現代から見ると、不思議なくらいこの絵巻にはそれらが多出 する。 犬どもはむろん、耳の立った日本犬で、どれも首輪などしていな い。あちこち自由に走り回ったり寝そべったりしているし、物乞い たちは人の行き来する道ばたにたむろして、恵みを受けるチャンス を待っている。市の開かれない日、掘っ立て柱にわらぶき屋根をの せただけのがらんと空虚な市場の店棚に、彼らが這い込んで、そこ を一時しのぎの住み家にしている図も、「なるほど、ありそうなこと だ」とうなずけるが、中にはキャンピングカーさながら、車付きの 小屋を持っていて、適宜に好きな場所へ移り歩く乞食もいた。 布で覆面しているのは、業 病に犯きれて家族から捨てられたり みずから我が身を棄民してのけた病者たちである。脇に女がしゃが んで、食事を食べさせている図もある。これは絆を断ち切れずに 毎日そっと食物を運んで、もと家族の一員だった病者を、その妻か 娘が養っているわけだろう。 病気が重くなってこと切れた者を、仲間の乞食が見守り、はやく も死臭を喫ぎつけたのか、烏が数羽、集まって来ている場面もある けれど、病苦と貧困とそれによる疎外者の存在は、古代から近世初 頭まで、日本の社会ではごく日常的な属目にすぎなかった。 『一遍上人絵伝』の背景となっている鎌倉中期は、政治の中枢にあ った北条家の執権たちが、為政者のなかでも稀に見るクリーンな 人々だったせいか、政治的配慮はそれでも末端にまで比較的ゆきと どいていた。もっとひどい時代は、いくらでもあったし、飢饉や疫病 置されるような惨状が繰り返されれば、なかば野性化した犬の群れ が、やたら出没する姿も珍しくなくなってしまう。乞食と犬のいる 風景は、いわば昔の暮らしには密着したものだったから、疎外しつ つも、「いつ何どき自分もまた、仲間入りするから判らぬ」という恐 れと親近感を抱きながら、人々は彼らに接していたといえよう。 女性が袿(うちき)や小袖の裾をぐいっと高くたくしあげて、左右の足を 脚絆(きゃはん)わらじてしっかり固めている旅姿も『一遍上人絵伝」で私 までは、各時代を通じてせいぜい腰ぐらいの丈だと、思い込んでい たのである。彼女らが座っている図を見ると、長い垂衣に全身を包 まれ、まるで市女笠を屋根にした小型の簡易テントにでも入ったよ うだ。これならある程度、風や寒きを防げるし、夏の野宿では虫よ けの役も果たしたであろう。宿泊や交通の便が、ほとんど整ってい なかった時代、旅をする女たちの、自衛のためのさきやかな工夫は 面白い。 毛鞘(けざや)を愛用する武士が多いのにも、目を惹かれた。美麗な獣の毛 皮で太刀の鞘の部分をくるむのである。これも狩りや儀式など、特 別なはれの日にやることだと思っていたのに、絵巻では普通の寺詣 でにも外出にも、武士たちは毛鞘を用いている。当時のファッショ ンだったともいえそうである。 踊念仏による救済 元寇の真っただ中でいながら「一遍上人絵伝」が一言半句、この 未曽有の国難に言及していないのも、注目すべき点であろう。実際 に元軍を目の当たりにした壱岐対馬,北九州沿岸の住民以外は、 噂にすら聞かず、よしんば風の便りに耳にしても、一向にピンとこ ないほど一般の認識は疎かった。情報の伝わり方自体おばつかない 状況だったわけだが、元がどこか博多がどこか、ろくに知りもしな い民衆にすれば、異国との合戦にもまして切実なのは、むしろ今日 あすの糧の算段であり、つねにつねに脅かされてきた病苦や貧窮、 老いや死の恐怖であったはずである。 現代人があたりまえと思っている国の福祉行政、政府機関による 保護救済が、ほとんど望めなかった当時は、人々の不安を少しても 取りのぞく手段は、宗教しかなかった。 踊念仏による没我のエクスタシーは、彼らを現実の苦悩から逃避 せしめ、病苦すら忘れさせる効力をも、場合によっては期待できた。 しかもその行為には、極楽往生というすばらしい付帯効果まで約束 されている。信じた者たちがどれほど安心し、生きぬく上での活力 を与えられたか、計り知れない。 一遍という人物は、庶民層に踊念仏をすすめて回ることで、現在 行われているあらゆる分野でのケア活動を、独力でやってのけた人 といえる。人により苦悩の質により、効果はまちまちであったろう けれども、宗教に根ざした集団行為、それによってもたらされる歓 喜勇躍のエクスタシー状態が、トランキライザーや雀の涙ほどの年 金にもまして、精神面での安定に寄与したことは否めない。 それほど深刻なケースでなくても、念仏しつつ踊るという動作は、 自己解放につながる。スクエアダンスやカルチャーセンターに通う 今の奥さん方と同じような気分で、踊りの輪に加わった女性も多か ったはずである。 集団の上に君臨した単なるカリスマではなく、一遍は生涯を通じ てあらゆる執着の対象を捨てに捨てつづけ、たった一つ残った肉体 さえも「獣のえじきに供養してくれ」と遺言して果てた偉大な『捨 て聖』だった。ついには弥陀の救済をも求めず、極楽往生をも期待 せず、ただただ「念仏を念仏する」という透徹した境地にまで至り 得た人だが、その影響力によって、たとえ一時的にもせよ救われた 人々の、喜びは大きい。「一遍上人絵伝」は、それを余すところなく 私たちに伝えてくれている貴重な遺品である。 (すぎもと·そのこ 作家) |
新しい年号が『万葉集』から採られた。それは、年号の歴史にとって、新しい第一歩を踏み出 時は、天平2(730)年正月13日のこと。九州·大宰府の大伴旅人の邸宅で、花見の宴が催され その歌々を束ねる序文の書き出しには、こうあるのである。
これを原文で示せば、「于時,初春令月、気淑風和。梅披鑧前之粉、蘭薫珮後之香」となる。 天平の時代は、決して良い時代ではなかった 政変と飢饉は、人びとの生活を苦しめたし、疫病 どんな時代にも、人びとは平和な時を求め、新しい芸術と文化を模索していたのである。 「令和」という年号には、そういった平和への思いが込められている、と思う。と同時に、天平文 『万葉集』とは、いったいどんな歌集なのだろうか。 8世紀の中葉に出来た現存する最古の歌集で、その編纂者のひとりが大伴家持である。大伴 家持の父が大伴旅人であり、大伴家持は、父と父の盟友ともいうべき山上憶良にあこがれて、 歌を作り続けたのである。 『万葉集』に収められている4500首あまりの歌々は、後の時代の範となって、和歌の歴史を作 『万葉集』の生まれた奈良時代ほど、日本が世界に開かれた時代はなかった。漢字·儒教.仏 一方、万葉びとは、常に自分たちの足元を見つめる人びとでもあった。漢文で書けば意味は 分かっても、そのニュアンスが伝わらない。和歌は理ではなく、情を伝えるもので,それは、自分 日本人は、歌で恋をすることを学び、人と人との絆を確かめた。『万葉集』は、その始まりの歌 今、新しい時代が始まる――。 新元号「令和は追加委嘱案 有識者懇、唯一全員が賛成 政府が決定した新元号「令和」は、3月中旬に文化勲章受章者で国際日本文化研究センター 複数の政府関係者によると、政府は平成29年12月1日の皇室会議で5月1日の皇太子さまの この時点で、安倍晋三首相は「英弘を気に入っていた」(官邸筋)とされる。ただ、英弘が「栄光」 など他の文字を想起させることもあり、国書(日本古典)由来の案をさらに出すよう中西氏らに 追加依頼した専門家は新たに3案を提示。3月最終週になって、首相がそこに含まれていた 首相が追加3案から令和を選んだのは「世界に誇る日本文学である万葉集からの引用であり、 ただ、有識者懇談会では令和以外の案が選ばれる可能性があり、あらかじめ令和を含め複 その後に開かれた全閣僚会議では、河野太郎外相が真っ先に挙手し「国書からとるのが正し 新元号6原案 久化 きゅうか 中国古典 広至 こうし 日本書紀 中国古典「詩経」 万和 ぱんな 中国古典「文選」 万保 ぱんぽう 中国古典 令和 れいわ 万葉集
「令和」想定外ながら感服 本最古の歌集『万葉集』から引用されたが、「令」という漢字は初めて採用された。「令和」はな ぜ選ばれたのか。 4月1日、今上陛下の「高齢讓位」による皇位継承に先立って公表された新しい元号は「令和」 国書の出典は初 一方、「和」はよく知られている通り、「和合」や「平和」のように「やわらぐ」「なごむ」「くわえる」 ちなみに、このような組み合わせは珍しくない。例えば昭和」「平成」の「和」や「平」は多く使わ この「令和」について、安倍晋三首相は発表後の談話で「人々が美しく心を寄せ合う」と説明さ その出典として、従来は専ら漢籍(中国の古典)が使用されてきたが、今回は年号史上で初め この『万葉集』巻五に、九州の大宰府で, 天平2 (730)年正月13日に開かれた梅花を賞でる宴 その序文は、太宰師(だざいのそち・長官)大伴旅人か筑前守(知事)山上憶良の作とみられる。 理念は「美しい日本」 この文中にある「令」と「和」を組み合わせて「令和」という元号ができたのである。しかも、その 梅というのは、中国伝来ながら、日本各地で旧暦1月の春先に花が咲き、何より香りが芳しい。 昔から「梅は寒苦を経て清香を発す」といわれるが、天災などの苦難をみんなの助け合いで 乗り越えてきた平成の日本人が、さらに今後も心を寄せ合い助け合って、本当に美しい平和な 今や国際化·グローバル化の加速するわが国で必要なことは、日本人としてのアイデンティテ そんな新時代への展望と期待をこめて、「令和」元号の誕生を言祝(ことほ)ぎたい。 ご即位も成り,令和時代が始まった。慶祝慶祝。 もっとも、元号「令和」についての議論が消えつつある点、中国哲学・中国古典学研究者の老 令和の出典は『万葉集』の或る序と公表された。早速,その序は中国の『文選』中の帰田賦(き 借問す。出典とされた帰田賦の言葉に、さらなる出典はないと断言できるのか、と。 現代における古典学は、修養のためではなくて、広く優れた古典一般の実証的研究である。 しかし近代までの伝統的古典学はそれと異なり、聖人(人格·識見ともに完成された人物)が集 心ある人は聖人の文献(『詩経』『書経』などの経書・けいしょ)を学習し暗誦してきた。だから後 例えば経書の『儀礼(ぎらい)』士冠礼(しかんれい)に「令月吉日、始めて元服を加ふ」とあり、 すなわち「令月」や「―風…和」という対語はすでに存在しており、「文選』帰田賦の作者はそれ となると、令和は『万葉集』を出典とし、同箇所は『文選』を出典とし、それはさらに経書の『儀 そういえば思い出した。朝日·毎日新聞それぞれが、今回の年号案作成者に中国哲学系の人 ご心配下さり感謝いたします。われら中国哲学·中国古典学者は、昔から少数精鋭で人知れ 経書の『礼記』月令は、政治(かっては天子が代表者)の在り方を月毎に述べている重要な必 さらに踏み込めば、税の軽減、近くは消費増税先送り論に通じ、民の暮らしに配慮する御代 『詩経』小旻(しょうびん)に曰く,人(小人・御用学者は)一を知るのみにして、その他を知るな
の代に行われたが、当時の天皇はどのような存在だったのだろう か古文書や絵図で江戸時代の朝廷や天皇のあり方をさぐる特別 展「江戸時代の天皇」が、東京都千代田区の国立公文書館で開か れている。 (磨井慎吾) 信長の朝廷認識は 約260年間続いた江戸時代。その初期と末期とでは、天皇の持つ存在感は大きく異なる。 江戸時代初期は、安土桃山時代からの流れをくむ。そもそも 統一の道筋を最初に作った織 信長の後を継いだ豊臣秀吉の没後、天下人となった徳川家康はたびたび朝廷に介入して統 2代将軍秀忠の娘を中宮に迎えた後水尾天皇は幕府に反発し、抗議の意図を込めて5度にわ 5代将軍綱吉あたりから江戸中期にかけて朝幕の協調が進む。室町時代から200年以上に 寛永は憂さ永し? 天皇代替わりの際の慣例である改元についても、関連資料が豊富に展示されている。林羅 たとえば21年も続いた「寛永」は、字を分解すれば「ウサ(憂さ)見ル事永シ」となる。「正保」は 「焼亡」と音が似ている、「正」の字を分解すれば「一ニシテ止ム」となる、「正保元年」と書くと「正 二保元ノ年」と読めてしまい、天皇方と上皇方が武士勢力を動員して戦った保元の乱(1156年) タフな交渉者 今回の展示の目玉となるのが、幕藩体制が行き詰まりを見せ始めた江戸後期に即位した その事績の中でもよく知られているのが、天明の大火(1788年)で焼失した内裏を平安時代の |
蘭亭序 永和九年、歳在癸丑、暮春之初、會于會稽山陰之蘭亭、修禊事也。羣賢畢至、少長咸集。 此地有崇山峻嶺、茂林修竹、又有清流激湍、映帶左右、引以為流觴曲水、列坐其次。雖無 絲竹管絃之盛、一觴一詠、 亦足以暢敘幽情。 是日也、天朗氣清、惠風和暢、 仰觀宇宙之大、 俯察品類之盛、所以游目騁懷、足以極視聽之娛、信可樂也。夫人之相與、俯仰一世、或取 諸懷抱、悟言一室之内、或因寄所託、放浪形骸之外。雖趣舍萬殊、靜躁不同、當其欣於所 遇、暫得於己、快然自足、不知老之將至。及其所之既倦、情隨事遷、感慨係之矣。向之所 欣、俛仰之間、已為陳跡、猶不能不以之興懷。況修短隨化、終期於盡。古人云、死生亦大 矣、豈不痛哉。每覽昔人興感之由、若合一契、未嘗不臨文嗟悼、不能喻之於懷。固知一死 生為虚誕、齊彭殤為妄作、後之視今、亦猶今之視昔、悲夫。故列敘時人、録其所述、雖世 殊事異、所以興懷、其致一也。後之覽者、亦將有感於斯文。 (『晋書』巻第八十列伝第五十、王羲之) 【現代語訳】『蘭亭詩集』の序 永和九年(三五三)葵丑の年、晩春三月の初め、会稽郡山陰県(浙江省紹興),の蘭亭 に集まった。禊の行事をおこなうためである。すぐれた人物たちはすべて着き、老いも若 きもみな集まった。この地には、高い山、けわしい峰、茂った林、丈高い竹があり、また 清らかな流れに激しい早瀬があって、あたりに照り映えている。この流れを引いて、觴を 流す曲水とし、人々は順次ならんで岸に坐る。琴や笛のにぎわいはないが、一杯の酒ごと に一首の詩と、自然をめでる情をのびのびと示すには十分である。 この日、空は晴れわたり空気は澄んで、そよ風はなごやかにのどかであった。宇宙の広 大さをふり仰ぎ、万物のにぎわいを見おろす。自由に見わたし、心をときはなつこの眺め は、耳目のよろこびを存分に味わわせてくれる。まことに楽しいかぎりである。 そもそも人がお互い一生を送るについては、胸に抱く思いを大切にして、一室の中で友 と語り合う人もあれば、この身は仮りのものというわけで、東縛をはなれて奔放に生きる 人もある。その選択はさまざまで、静と動とのちがいはあれ、境遇によろこびを感じ、暫 時おのれの意にかなったときには、心楽しくひとり満足し、老いが訪れようとしているこ とにも全く気づかぬ。やがてその気持ちも倦み疲れ、感情が事の推移とともに変化してゆ けば、それにつれて感慨をもよおすようになるのだ。以前のよろこびは、またたくまに古 びた記憶のあとと化す。人はこれしきのことでさえ、物思いにふけらずにはおられぬ。ま してや長寿短命の別なく、造化の意のままに、さいごは必ず滅びてしまうことを思えば、 なおさらである。古人はいった、「死と生とはまこと人生の一大事なり」と。何と心痛む ことではないか。 昔の人々が感懐をもよおしたそのわけを知るたびに、それらがまるで符牒をあわせたよ うに同じなので、私は古人の文章を前に してはいつも嘆き痛まずにおれず、胸の中で悟り すますわけにもゆかぬ。もちろん死と生とを同一視するのはうそであり、不老の仙人と若別 死にした者とを同じに扱うのがでたらめなことは私も知っているし、後世の人の今に対す る見方は、やはり今の人の昔に対する見方と同じであろう。悲しいことよ。かくて今の世 の人々の名を列記して、その心をのべた詩を書きとどめる。 世を異にし事態は変わっても、 個人が感懐をもよおす理由は、結局一つである。後世 これを見る人々は、やはりこれらの作業 品にこころ動かされるであろう。
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文選 疑。諒天道之微昧、追漁父以同嬉。超埃塵以遐逝、與世事平長辭。於是仲春令月、時和氣 清。原隰鬱茂、百草滋榮。王雎鼓翼、鶴鶊哀鳴。交頸頡頏、關關嘤嚶。於焉逍遙、聊以娛 情。 爾乃龍吟方澤、虎嘯山丘。仰飛纖繳、 俯釣長流。觸矢而斃、貪餌吞鉤。 落雲間之逸禽、 懸淵沈之魦鰡。于時曜靈俄景、係以望舒。極般遊之至樂、雖日夕而忘劬。感老氏之遺誡、 將迴駕乎蓬廬。彈五絃之妙指、詠周孔之圖書。揮翰墨以奮藻、陳三皇之軌模。苟縱心於物」 外、安知榮辱之所如。 (『文選』巻第十五・志) 【通釈】 を抱いていたわけでもなく、ひたすら河辺に立ちつくして魚を欲しがるような有様で、む なしく出世の到来を待っていた。昔、蔡沢は身の不遇を嘆き、人相見の唐挙に判断しても らったというが、私も同じ気持ちだ。しかし、まことに天道は微かで見定めがたいもので ある以上、いっそかの漁夫を追って隠棲し、彼の楽しみを見習おうと思う。塵の如き俗界 を離れて遠く立ち去り、世間の雑事とは永久に別れることとしよう。さて、仲春の佳い時 節ともなれば、気候は穏やか、大気は清々しい。野原や湿原に植物は生い茂り、多くの草 が一面に花をつける。ミサゴは羽ばたき、コウライウグイスは悲しげに鳴く。首をすり寄 せて昇り降り、さまざまな鳴き声を立てている。そんな中をさまよっては、いささかなり とも我が心を楽しませるのだ。 かくして、沢辺では竜の如く吟じ、山野では虎の如く嘯く。 空高く射ぐるみを飛ばし、大きな川に釣り糸を垂れる。鳥は矢に当たって落ち、魚は餌を 食って針にかかる。雲間に飛ぶ鳥を射止め、淵の底に潜む魚を釣り上げる。さるほどに火 は傾き、月が昇って来る。遊びまわって楽しみを極め、夕暮れになっても疲れを知らなか った。老子が残した教えをふと思い出し、狩りが人の心を狂わせるという戒めに従って、 我が家に車を戻そうとした。帰ってからは、五弦の琴を巧みにつま弾き、周公と孔子の経 典を朗読した。筆を振るって詩文を作り、三皇の教えを述べる。心を外物から解き放つこ とができさえすれば、この世の栄辱の行方など、感知することではなくなるのだ。 |
終末期古墳が築かれた7世紀は、古墳時代と律令 期をつなぐ飛鳥時代と重なる。モノである この時代、政治の中心となった奈良県明日香村周辺には終末期古墳が密集する。前代まで それまでにない特徴を持つ。『日本書紀』にきら星のごとく登場する歴代天皇や重要人物と関連 国営飛鳥歴史公園内の中尾山古墳では昨秋、同村と関西大学が調査成果を公表し、文武天皇 で、壁画で有名な高松塚古墳とは目と鼻の先だ。「飛鳥・,藤原の宮都とその関連資産群」として かになった。 埋葬主体の石槨内部は遺体をそのまま納めるには狭すぎるため、火葬骨を入れる骨蔵器が はなく、関西大の米田文孝教授は「古墳自体は小さいが、手がかかっている。 基壇も造っていて 一方、仕上がりに甘さを認めるのは、文献が専門の西本昌弘·関西大教授。西本さんがみる 粗略で簡略、やや丁寧さを欠き、「手抜き感がある」。理由は、平城遷都にあたって文武の墓が 文武は母の元明天皇や姉の元正天皇より早くこの世を去る。都が藤原京から北の平城京へ 西本さんは母子3人が平城京の北に眠るとある『東大寺要録』(12世紀)の記述を引き、「母の なるほど推古や斉明といった女帝が子や孫らと一緒に眠ることを望んだ例,は多い。元明もまた、 一方、明日香村西部に位置する牽牛子塚古墳でも、新たな発見が記憶に新しい。 古くより斉明天皇の墓と見られてきたものの断定するには時期尚早だとの声もあったが、2009年 明日香村教育委員会文化財課調整員の西光慎治さんは「牽牛子塚から野口王墓、中尾山へ 成、終焉を飾るものだろう」という。 終末期古墳の被葬者について、宮内庁と学界の見解が食い違う例は珍しくない。 墓誌を入れる 西光さんによれば、終末期古墳の概念が一般化したのは高松塚古墳の壁画発見が話題を呼ん たとえば、天武・特統天皇陵が通説となった野口王墓古墳もかつては文武陵との見方があったし、 地元では実在に賛否のある武烈天皇の墓とも認識されていたようだ。いまの見解が定まったのは、 近代になって、その傍証となる『阿不幾乃山陵記』が確認されてからだ。 中尾山古墳もかつて欽明陵と見なされていた節がある。隣接する高松塚古墳も文武陵と考えら いま考古学の進歩を通して多くの古墳の築造年代が固まりつつあり、被葬者の絞り込みも可能 一昨年、5世紀の中期古墳を中心とした「百舌鳥·古市古墳群」(大阪府)が世界遺産登録され、 学術的に確証のない特定天皇の名を冠する名称が複数の学会に問題視された。だが、宮内庁に 被葬者をめぐって再考の余地を残していた「可変」的な近世。対して現代は、その余地のない「不 変」的な時代のようにも見える。陵墓をめぐる悩ましい状況が解消される日は、まだまだ遠そうだ。 |
突如、変事がおこった。弘安七年(一二八四)三月の末、床に臥した時宗が、わずか数日病んだのみで、 御家人と御内人、泰盛と頼綱の対立の頂点に立って、その激発をどうやらおさえてきた要はまったく 失われた。時宗の死因はさだかでない。しかしすくなくともその背景に、精神的疲労の蓄積があったこ とはまちがいなかろう。わずか一八歳にして執権となって以来、外敵の重圧と幕閣内のはげしい葛藤の なかにもみぬかれて、時宗の心身はともに完全にすりへっていたのではなかろうか。 時宗には一四歳になる子息貞時がいた。そのほかの子供は知られていない。得宗の血筋はわずかに |
遠征失敗後、元ば日本 の反攻にそなえて、朝鮮·中国南部沿岸の警備を固め、一二八二年 (弘安五年) にあった高麗で は、逃亡者が続出、国王は怨嗟の的になっていた。江南でも中国人の騒動がひんぴんとお こったが、そ れでも世祖は遠征を強行しようとした。江南の騒動がついに叛乱に発展、軍隊が出動するとい う事態になるにおよんで、五月、世祖はやっと出兵を中止したのである。 だがそれも一時のことだった。八月、またも元は徴兵・建艦を開始、海南島の住民を動員して日本遠 如智に招論の詔書をあたえ、日本に遣わした。しかしこの二人は八か月も出発せず、出発したとたんに 嵐にあったといって引きかえした。 すでにそのころ広東・·福建に大叛乱がおこり、征東行省の軍も出動する情況だったが、世祖は一二八 四年(弘安七年)、ふたたび国信使王積翁と如智を使いとして出発させた。この使いは七月一四日、対馬 に到着したが、一行のなかで騒動がおこり、王積翁は殺され、如智も命からがら逃げ帰った。日本に行 けば斬られるにきまっている。だれも死にに行くのはいやだったのである。 南中国の叛乱はその間にいよいよ広範な地域にひろがっていた。それだけでなく、南ベトナムの占城 も元の支配に反抗し、この年、世祖は日本遠征軍の司令官阿塔海に兵一万五千、船二百艘をあたえ、 二八四年五月、世祖は征東行省を廃止した。それでも世祖は執念を燃やしつづけていたが、こうした元 の活発な動きが、日本にもさまざまなかたちで伝えられたことはいうまでもない。 |
たしかにこの偶然の大暴風は、元軍の大挙上陸によっておこったであろう甚大な犠牲から、日本人を救っ た。神の加護を信ずる当時の人々がそれを「神風」と考えても無理ない情況はあった。しかし元軍の壊滅の 原因は、一夜の暴風のみにあったのではない。 それはきわめて根深いものとみなくてはならない。 究極的には、その原因を征服者によって組織された異民族のよせあつめの大軍の弱さにもとめること ができよう。世祖のいだいた不安はそのまま現実となったのである。すでに農業的な中国帝国の覇者と 変質した蒙古、勇敢な高麗の海上勢力を完全に壊滅させた蒙古が、征服者として組織した軍は、いかに 量が巨大でも、最初から往年の迫力を欠いていた。そのうえ、専制的な強制によって建造された船、と くに江南軍の船は、中国人の船大工が手をぬいたといわれるほど弱かった。加えて、宿敵の間柄のもの をふくむ大将たちの行動には、最初から統一が 欠けていた。東路軍の奇妙な動き、全軍集合のいちじるし 台風の季節到来前に上陸する計画は、こうして機を逸していったのである。元軍の侵攻は、失敗すべくし しかし日本の側も矛盾だらけ で あった。「拳国一致」などとはお世辞にもいえない。たしかによく戦った しかし軍役の過重をきらい、戦わぬ武士たちはあとを絶たず、また武家も公家も深刻な対立を内にかか も、これは逆に内部の対立をさらにいっそう鋭くする性質のものだったのである。もしも外からの力が もう少し強く作用したならば、矛盾はたちまち表面に露呈したであろう。 それゆえ、時宗を「偉大で英雄的な青年執権」などと考えるのも、まったく事実に反している。 うのか。時宗は伯父経時の子、鶴岡八幡宮別当頼助に命じ、しきりに異国降伏の祈檎を行なわせ、みず から血をだして経文を書写し、無学祖元に供養させたという。実際、時宗にはそのくらいなことしかで きなかったのかもしれぬ。いずれにせよかれの心中の混乱と分裂はきわめて深いものがあったにちがい ない。時宗の力量をもし評価するとすれば、偶然にもささえられっつそれに耐え、蒙古襲来中には、ど うやら二人の対立を表面化させないですんだことにもとめられる程度と考えらる。 |
江南軍と東路軍が壱岐でおちあうのは六月一五日ときまっていた。
四月一八日、忠烈王は、折都·洪茶丘のひきいる元軍と、金方慶のひきいる高麗軍を 閲兵した。四万、九百艘の大艦隊である。ここで、忠烈王は大元皇帝の女婿としての正式の資格(附馬 高麗王)を も つ、征日本行省の長官として、元将たちに対していた。洪茶丘も折都も、その前に頭をた れざるをえなかった。高麗の人々にとって、これは胸のすく思いであったろう。 しかし、宿敵同士ともいうべき金方慶と洪茶丘とにひきいられるこの東路軍の行動は、最初からすこ し狂っていた。江南軍とおちあう予定日より一か月半も早く、五月三日に東路軍は合浦を出発して巨 済島についた。それか ら 約半月間、この大艦隊はここに碇泊していたらしい。なぜこのような無駄 をしたのか。その理由が、まずわからない。 五月二一日にいたって、東路軍は対馬沖にその姿をあらわす。高麗軍の一部は「世界村大明浦」に 上陸し、武士たちと戦った。高麗軍はみつけたものをうち殺し、人人は妻子をつれて山に隠れた。 なかには、赤子の泣き声を聞かれまいと、これを刺し殺すものもあったという。この「世界村」がどこで その後、東路軍は五月二六日ころに暴風にあい、若干の犠牲者をだしつつも、壱岐にむかった。壱岐 も襲われたようであるがその日はわかっていない。ただ、東路軍が待ち合わせの予定日より、半月もま えに壱岐周辺に到着したことはまちがいない。そのうえ、東路軍は江南軍を待たずに、主力はそのまま 博多湾へ、一部は長門へと突っ込んでいったのである。なぜこのようなことがおこったのか。それもわ からない。ふつうこれは、東路軍が江南軍をだしぬいて、功名をあげようとしたのだといわれている。 たしかにそれも考えられる。しかし、この艦隊がたがいに宿敵としてにくみ合う大将たちにひきいられ 長門に元軍が襲来したのは、六月四、五日ごろであった。ここにも防塁は築かれており、大きな戦闘 もなく、元軍は退いたようである。そして六月六日、東路軍の主力が博多湾に姿をあらわした。 待ち合わせの予定日一五日は近づき、船中には暑熱のなかで疫病 も 発生した。戦死者もたくさん出た。東路軍はやむなく壱岐にひき返した。しかし江 南軍はまだ到着していない。船体もくさり、糧食も乏し くなってきた。洪茶丘·忻都はそれを理由に軍 を返して引きあげよう、といいだした。最初の会議のとき、 この提案に対して金方慶は黙して答えなかった。さらに一〇日たって、この議論がむしかえされたとき、 金方慶は断乎として反対した。「われわれは三か月分の食糧をもってきている。まだ一か月分は十分の こっているはずだ。江南軍の来るのを待とう。そうすればかならずや日本をほろぼせるだろう」。この正論 のまえに洪茶丘は沈黙した。文永のときとは異なり、金方慶は元将と対等の立場にあり、みずからの主張 を通したのである。 そのころ五十艘ほどの江南軍の先発隊は、六月一四、五日ごろに対馬につき、六月下旬にはこの東路 軍の碇泊する壱岐に到着したと思われる。先発隊は江南軍の遅延および予定変更を東路軍に伝えた。 三月ごろ、日本の漂着船から北九州の事情をくわしく聞いた江南軍の将たちは、待ち合わせ地点を平 戸に変更し、世祖の承認を得ていた。壱岐よりも、本土に近い平戸のほうが進攻に有利であることがわ かったのである。しかも出発のまえ、総司令官阿刺罕が急病になり、やむなく、六月二二日、阿塔海が これにかわるという変事があり、江南軍の出発はまったく遅れてしまっていた。先発隊はおそらくこの ことを東路軍に伝えたのであろう。こうして、大きく予定を狂わせながら、阿塔海,范文虎のひきいる十万、 壱岐にしばらく碇泊していた東路軍に対して、武士たちは本土から船で攻撃をかけた。六月二九日に は薩摩の武士が、七月二日には肥前の松浦党などの武士たちが、海をわたって波状攻撃を行なった。 七月初句、江南軍の船団はつぎつぎに、平戸から五島の沿海に到着しはじめた。予定より遅れること 全面的な本土攻撃は、まさに開始されんとしていた。 |
志賀島の戦い 地図
すでに京都には、六月一日に大宰府からの急報がとどいていた。四日、二十二社に異 国降伏の祈祷を行なうことが命ぜられ、寺院での祈祷も開始される。ついで一四日に 長門への襲来の報が到着し、京都は騒然となった。すでに九州は打ち落とされた。まもなく敵は攻めの ぼってくるだろう。流言がとびかい、人々は恐怖におののいた。そのなかで一八日に亀山、一九日に 予想された四月襲来からは、すこし遅れはしたが、武士たちの準備は、こんどは完全にととのえられ ていた。この年正月(前年五月にも)、「倭賊」が高麗にあらわれたといわれるが、情報はこのような方法 でも早くから伝わっていたのであろう。東路軍が博多湾にあらわれたとき、すでに防塁には楯が用意さ れ、多くの武士たちによって固められていた。船が近づくとみるや、武士たちは石築地にかけのぼり、 はげしく矢を浴びせかけた。上陸はたやすからず、とみた東路軍は、手うすな志賀島。能古島に近づ き、そこに碇泊した。 これに対し、六月六日(あるいは七日)の夜、筑後国御家人草野経永が二艘の小舟に手の者を分乗 た。しかし元軍は船を鎖でつなぎ、寄せ手に対して石弓で応戦、小舟はつぎつぎに打ち破られたという。 あまり犠牲者が出るので、夜討ちはおさえられたが、功をはやる武士たちは、制止も聞かずに攻めか ける。「十年のうちに蒙古がこなかったら、かならずこちらから異国にわたって合戦する」と起請文を 書いて三島社 (伊予の一宮)にささげ、焼いて灰にしたものを呑んで国を出てきたという伊予国御家人河 野通有も、その一人である。二艘の兵船で押しよせた通有は、傷をうけつつも、帆柱を倒し て橋をか け、敵船に乗り移って大将軍とおぼしきものを捕えて引きあげた。 この話を聞いて闘志を燃やしたのが、例の竹崎季長である。季長は河野通有の館を訪れ、傷を見舞う とともに、敵船のようすをくわしく聞き、肥後国の警固所である生の松原からさっそく出陣した。六月 八日の夕刻であろう。文永の合戦で功をあげた菊池武房が固めている役所の石築地の前を通りつつ、 この間、東路軍は志賀島に上陸しており、こうした小舟による先駆をめざした夜襲とともに、陸上で |
七月三○日、風が吹きだした。夜になるとともにそれは暴風雨となり、翌閏七月一日も一日中、吹き荒 「屍 は潮汐にしたがって浦に入り、浦これがために塞がり、践み行くをえたり」。累々たる死骸が西北九州 もちろんすべての船が破壊されたわけではない。鷹島にはのこった船が集結しており、平戸にいて、なお 上、鷹島付近に漂蕩(ひようとう)する船は、はげしく攻撃された。のこった船に、われさきに乗ろうとする兵 この知らせを、竹崎季長は御厨辺の浜で聞いた。つぎつぎに武士たちは船に乗って追撃に出かけてい くのに、生(いき)の松原を出発しているはずの季長の船は、いっこう姿をみせない。功を逸しては、と季長 東から軍奉行として現地にきていた得宗被官合田五郎、安東左衛門二郎が使いをだそうとしている。 しかし乗りこんだ船は、盛宗の手の者が乗る船、季長の乗る余地はないとして、季長は船からおろさ れてしまう。やむなく端舟に乗って季長は戦場に急いだが、船足がおそく、とうてい、まにあいそうも ない。あたかも近くを通る船をみつけ、季長は、ここには守護殿が乗っておら れる、船を寄せよ、とまたも 兜は若党にもたせてあったので、季長は脛当(すねあて)をむすんで兜のかわりとした。 「たかまさ」は自分の若党の兜を貸そうといったが、季長は「自分のた め に若党にもしものことがあってはい 翌六日、この経過を報告した季長に対し、軍奉行合田五郎は「一度ならずいつわりまでいって船に乗り、 武士たちの攻撃は七日にも行 なわれ た。豊後国御家人都甲惟親、薩摩国御家人比志島時範などは、 九日、これらの捕虜を博多に連行した武士たちは、蒙古人·高麗人,漢人(北中国に住む中国人·女真人)を、 こうして奴隷とされた「唐人」のなかで、于閶(うしょう)などの三人は隙をみて逃げ帰り、戦況を報告した。 |
飛鳥から檜隅にかけての地域は、古墳時代終末期の6世紀後半以降に古墳が多く築造された。 6世紀後半から7世紀にかけて飛鳥の東の山中に八釣·東山古墳群や細川谷古墳群などの円墳 7世紀後半になると牽牛子塚古墳や野口王墓古墳 (天武 持統陵)東明神古墳といった八角形 変化している。 8世紀初めには、高松塚古墳やキトラ古墳といった壁画を伴うものや、中尾山古墳の様に石槨 奈良県の歴史散歩 下 奈良県南部 (山川出版社)より |
日本最大級の石造水路橋で、豪快な放水で知られる通潤橋(熊本県山都町)が、橋とし て初めて国宝に指定される見通しになった。文化審議会が23日、同橋を国宝に、 真宗本廟東本願寺内事(京都市 下京区)など8件の建造物を重要文化財に新たに指定する よう、文部科学相に答申した。 通潤橋は、幕末の1854(嘉永7)年に築かれた石造アーチの水路橋(長さ78m、 高さ21.3m)。アーチ部分の径間26.5mは当時最大級で、水源に乏しい台地に農業 用水を通すため、谷間に架け 成度の極めて高い近世石橋の傑作と評価された。 真宗本廟東本願寺内事は、真宗大谷派の本山である同寺の宗主とその子弟のための ほかの重文の新規指定は次の通り。 旧矢中家住宅(茨城県つくば市) ▽天満宮 ( 群馬県桐生しちか市) ▽手取川七ケ用水 |
京の夏といえば「鴨川納涼床」。二条 大橋から五条大橋までの鴨川西岸約2km
にわたり、約90軒の飲食店が仮設の高床式の席を並べる。400年の歴史を持つ 風物詩だが、近年は店の多様化も進む。 日暮れの岸辺に灯がともった「床」が連なる。四条大橋西詰。享保年間に創 業した老舗「京料理ちもと」では、座敷 席で季節の懐石料理を味わえる。夜風に 川の音を聞きながら。 コロナ下の制限がない床の営業は3年ぶりだ。 「本当に苦しかった。今年になってなじみのお客様方が戻ってきました」と 女将の松井薫さん。「入ってすぐコロナ禍に見舞われた板前は、初めての忙しさ に目を白黒させていました」 今年の床の期間は5~10月。昼は3千円程度から、夜は5千円程度からが目安 だ。 懐石料理は1万円以上が多い。 京都鴨川納涼床協同組合によると、その歴史は江戸初期にさかのぼる。 戦続き で荒廃していた河原は、出雲の阿国が始めた歌舞伎芝居や物売りでにぎわっ た。商人が見物席を設け、江戸中期には約400軒の茶屋が床机を並べたという。 明治時代に琵琶湖疏水の鴨川運河が東岸に開削されるなどして、床は西岸だけ に。 1990年代までは料亭や旅館の座敷が主だった。99年から昼の営業が始ま り、イタリアンやフレンチ、カフェなどテーブルを並べる店も増えた。 2006 年にはスターバックスの床が登場した。 朝から床を体験できる店も現れた。団栗橋(どんぐりばし)たもとの「Kacto」は、 開店は朝8時。 床の30席は30分ほどで埋まる日もある。北出久雄マネージャー は「観光前や一日の始まりに、リバサイドでゆっくり朝食をとる。そんな スタイルを提案したい」と話す。 南隣には床では初めてというジェラート店。18種類を提供する「BABBIGELATERIA 店の多様化が進む一方、70年制定の京都府鴨川条例に基づき、各店は京都らし い雰囲気を守り続けている。床がきれいに連なる景観を保つため、隣り合う店の 床の段差は50cm以内。床は原則木製で、鉄などの場合は木材の色に。 照明の 納涼床協同組合の田中博理事長は「東山の山並みからのぼる月を眺めなが ら食事をし、静かな夜を堪能する。 そんな京都の風情を今後も大切にしていきた い」と語る。 |
日高山瓦窯 窯跡3基発見地図
日本初の本格的な都とされる藤原京(橿原市、94~710年)の中枢・藤原宮跡(特別史跡)で
使われた瓦の窯跡が、宮のすぐ南にある日高山瓦窯(同市)で新たに3基見つかった。 藤原宮の造営過程を考えるうえで重要として、今年5月から約200平方を調べている。 見つかったのは、瓦を焼く焼成部の空間が傾斜したあな窯2基と、空間が平らな平窯とみ いう。 窯が藤原宮の造営以前からあった古いタイプなのに対し、平窯は熱効率が高く、れんがを 藤原宮は、当時寺院でしか使っていなかった瓦を、初めて宮殿で使用したことで知られる。 窯がつくられるなどした。 日高山瓦窯もその一つで、都の造営が始まった初 藤原宮の造瓦に詳しい京都国立博物館の石田由紀子・考古室長は「窯と平窯が複数あり、 立命館大の木立雅朗教授 (窯業考古学)は、「平城 宮の瓦窯でも、最初は窯と平窯が共 |
国内初の瓦ぶき宮殿だった藤原宮 (694~710年)に瓦を供給していた日高山瓦窯(奈
良県橿原市)で、7世紀後半の窯跡が新たに3基(全長1 ~3m、最大幅1・2~2・5m) 見つかり、 日高山瓦窯は、藤原宮の朱雀門跡から南に約300mの丘陵地帯に設けられ、藤原宮の瓦を 製造した瓦窯の中で最も宮に近い。昭和35年からの発掘調査で3基の窯跡が確認されていた が、令和3年11月に同研究所が磁気探査をしたところ、他にも複数の窯跡が存在する可能性 窯は、瓦を焼くための焼成室と、薪などの燃料を燃やす燃焼室などからなる。今回、日高山 丘陵の北側斜面から、焼成室の床面が傾斜した「穴窯」跡2基と、焼成室が比較的平らな「平 窯」跡1基が出土した。ほかの場所からも磁気反応があり、窯跡はさらに増える可能性がある という。 生産は6世紀に日本に伝わったとされる。穴窯が一般的だったが、7世紀後半ごろから大 量生産に適した平窯が登場し、日高山瓦窯は最初期の事例と考えられている。今回の調査 チで生産を進めたことがうかがえる」と話している。 |
大阪の夏の風物詩として知られる「愛染まつり」が30日、 初日に行われたパレードでは、浴衣姿の「愛染娘」9人が 4基の華やかな「宝恵(ほえ)かご」に交代で乗り、 雀おどり 参拝者らでにぎわう境内に愛染娘らが入ると「あいぜんさ |
奈良時代の政治家。 恵美押勝。慶雲3 (706)年生まれ。 藤原不比等 の孫で、藤原南家の祖・武智麻呂の次男。 光明皇后の皇后宮職を拡充し しびちゅうだい た紫微中台の長官となって権勢を強化。光明皇后や孝謙天皇の信任を得 て、大仏の造立や平城還都を推進した。 養老律令の施行を強行し、軍事 権を掌握して独裁体制を築いた。 が、 自ら擁立した淳仁天皇が政治権力を奪われ、孝謙上皇が道鏡と結ん で政治力を発揮するようになると、謀反(藤原仲麻呂の乱)を企図。近江に |
地農による大規横な地滑り跡。 境丘(奥)から周濠に向かって黒色と黄灰色の盛り上がり土が崩れ落ちて 湾曲していた。大阪府高槻市の今城塚古填 2024-7-11 産経新聞 夕刊 |
豊臣秀吉のいた伏見城が倒壊するなど、京阪神を中心に甚大な被害を及ぼした 1 5 9 6年の伏見地震。直下型地震のすさまじさを現代人に見せつけたのが、大阪 府高槻市の今城塚古墳 (6世紀前半)だ。 大規模な墳丘の地滑り跡が平成 12年に 発掘された。その 5年前には阪神大宝災が発生伏見地震を起こした 「有馬ー高槻断層帯」に近接する「六甲・淡路島断層帯」が動いたため、関連性も指 摘された。「真の継体天皇陵」といわれる同古墳は、地震列島の歴史的証言者でも あった。• (小畑三秋 ) 「墳丘の土が、もんどり打つたようにひっくり返っていた」。同古墳を発掘した 市立今城塚古代歴史館の森田克行元特別館長 ( 73 )は、地滑り跡について振り返 った。 前方部から周濠にかけて発掘したところ、整然と積み上げられたはずの墳丘の盛 り土が、大きくうねっていた。「まるで葛飾北斎の『富嶽三十六景』のようだった』。 富士山を背に荒波にもまれる小舟を描いた浮世絵に例えた。 地震学者も注目し、発掘した地層を通じて地震発生時の状況が生々しく再現された。 1 5 9 6年 9月 5日午前0時ごろ、大きな揺れが襲った。墳丘の土は一気に崩落して 幅約25mの周濠に流れ込み、さらに外側の堤にぶつかってはね返った。この間わ ずか 4〜 5秒。墳丘の土は 50mも動いたという。 「もんどり打った」という表現はまさにこの状況。森田さんは「地滑りの瞬間がストップ モーションのように古墳に残っていた」と解説する。 「墳丘が低すぎる」 地震痕跡について森田さんは、高校生のころに〃足〃で感じていたようだ。地元の 高校の地理歴史部•考古班に所属し、今城塚古墳を測量。松がまばらに生えていた 墳丘を巻き尺をもって歩き回った。 「ここはへこんでいる。出っ張った所もある。ここはくぼみが…」。いびつな形の変化 に気付いていた。「まさかこの時、地震による崩れとは思ってもみなかった」と振り返る。 同古墳の本格的な発掘は平成9年から始まり、森田さんらが担当した。墳丘の長さ は181m、後円部の高さ 12m、前方部の先端が剣のように突き出した、「剣菱形」と されていた。 森田さんが疑問に思ったのは、墳丘が低いことだった。 「全長が 200m近いにもかかわらず、なぜ高さが10mほどしかないのか」。剣菱形も、 学界では後期古墳の特徴とされたが、詳細な構造を確認する 必要を感じた。 疑問は、地滑り跡の発見によって一気に解決された。伏見地震で墳丘が大規模に 崩壊したために低くなり、前方部の剣菱形も地滑りが原因だった。「現在の墳丘には 高さ 12〜 13m木が生えているが、築造当初は木の高さまで墳丘があったと」と話す。 今城塚古墳の西側には、有馬ー高槻断膚帯に含まれる安威断層帯が延びる。同 古墳の発掘で、安威断層帯が古墳直下まで及ぶ可能性も 指摘された。 断層の位置で明暗 一方、今城塚古墳から約 1.5km西に築かれた宮内指定の継体天皇陵は、地滑り がみられないへ安威断層の少し南に位置し、断層上ではなく強固な地盤に築かれたた め難を逃れた。 活断層が真下に走っているか否かでこれほど違うとは。直下型地震の恐ろしを見せ つけられた」と森田さんは語る。 伏見地震はマグニチュード ( M ) 7〜8程度と推定、死者は千人を超えたという。伏景 にいた豊臣秀吉は避難して助かったが、伏景は天守も含めて大半が倒壊した。 秀吉は以前から、地震を警戒していたようだ。伏見城の建築に際して、「ふしみのふ しんなまつ 大事にて候 (伏見城の普請に際しては地震対策を怠るな )」と通知した。 それでも被害は免れなかった。 今城塚古墳に隣接する古代歴史館では、地滑り跡の一部が展示されている。 |
京都市の中心を流れる賀茂川 (鴨川 )。平安時代後期の権力者、白河上皇が”制御不 能”として頭を悩ませたほどの暴れ川だが、貴族の庭にはなくてはならない存在でもあった。 紫式部の「源氏物語」にも登場する雲林院跡 (京都市北区 )では昨年の発掘調査で 式部時代の溝跡が出土。賀茂川の水を市街地に引き込んだ水路から取水していた可能性 が浮上した。 賀茂川の水を庭園に引くこと自体は珍しいことではない。今年の大河ドラマで秋山竜次さん が演じる藤原実資(さねすけ)が住む邸宅「小野宮」も、賀茂川から東京極大路 (現・寺町通 ) 沿いに流れた中川からの水を庭池に利用していたという。 二条城前を流れる堀川も、かっては賀茂川の水を引く運河だった。江戸時代から昭和時代 にかけ、賀茂川から京都御所と周辺の公家屋敷に水を運んだ石組み水路跡が相国寺 (京 都市上京区 )北隣で実施した発掘調査で出土している。 平安京の庭園に詳しい京都産業大の鈴木久男元教授は「賀茂川 (鴨川 )は厄介な存在で ある一方、平安文化の創出になくてはならない存在だった」と話す。 2024-8-15 産経新聞• (園田和 洋 ) |
京都に水を運び、市民生活を支える琵琶湖疏水。明治期に完成した人工運河だが、当時 のトンネルや橋は今も残り、歴史ある風景が観光客を楽しませている。 明治維新による東京遷都に伴い、人口減少や産業衰退などの課題が突きつけられた京都 に活力を呼び戻すため建設された。明治 23 ( 1 8 9 0 )年の完成後は水力発電にも利用され、 観光都市の経済や産業発展に貢献してきた。 今も水道用水などに使われる「現役」。南禅寺境内にある「水路閣」や傾斜鉄萱の下を通行 できるトンネ••••ルの、「ねじりまんぽ」など、明治期に造られたレト口な建造物が残す風景は、 ウォーキングルートや写真スポットとしても人気を集めている。 訪れる人がより楽しめるよう、地元協議会は疏水沿線を歩く計 3コースのマップを作った。 平成元年にオ—プンした「琵琶湖疏水記念館」 (京都市左京区 )では建設当時の資料など計 約 1 0 0点を展示。疏水の歩みを伝えている。 運営する京都市上下水道局の担当者は「楽しみながら、琵琶湖疏水の歴史を学んでもら いたい」と話している。 2024-8-15 産経新聞 (堀口明里 ) |
八坂神社の疫病退散の祭礼、祇園祭。神輿渡御や山錄巡行などさまざまな神事•行事で用 いられるのが「青龍神水」だ。京都には多くの名水があるが、青龍神水は飲むためではなく、 祈りのための水といえる。 神社本殿地下には龍穴(りゅうけつ)と呼ばれる大きな池がある。深さは「 50丈 (約 ! 5 0m) にをよびてなお底なし」との記録が残る。池は,漆喰の蓋で固められているが水脈は生きており、 水をくみ上げることができる。 水脈は祇園祭発祥の地である神泉苑 (京都市中京区 )につながり、龍神が行き来すると伝 わる。 令和 4年、神仏習合の儀式を執り行って、八坂神社の神水と神泉苑の聖水、閼伽水が交換 された。両者を混ぜて生まれたのが青龍神水だ。疫病を鎮めるために行われていたころの祭 りに戻そうと、八坂神社の野村明義宮司が発案し始まつた。 青龍神水は、山桙巡行の際の清め水や神輿渡御の担ぎ手の給水などに使われる。野村宮 司は「青龍神水をもって都を浄化したい」と話す。 2024-8-15 産経新聞 (田中幸美 ) |
少将の「百夜通」 奥義抄・歌論議 (梗概 ) 深草の四位少将は小野小町に恋いをする。小町は「百夜」我が家に通えば、望みを叶えようと 云う。小町の「百夜通」の言葉に従って、少将は雨の日も風の日も毎夜通う、いよいよ九十九日目 になって身体の具合が悪くなる。 それでも推して行く、小町の家の前にたどり着く、しかしそこで力尽き、悶死する。 謡曲『通小町』『卒都婆小町』 前シテ 深草の四位少将の霊。 前ツレ 里の姥 後ツレ 小野小町の霊 ワキ 八瀬の里に住む僧 八瀬里で夏安居の僧の所へ薪を運ぶ女がいる、名前を尋ねると「小野とは云わじ、薄生たる 市原野辺に住む姥ぞ」と云って消える。 市原野へ出向いて弔うと、小野小町の霊が現れて、僧の弔を喜ぶ。あとを追ってやつれ果てた 四位少将の霊が現れて、小町の成仏を妨げようとする。かって少将は、小町の「百夜通」の言葉 に従って通い続けたが、あと一夜を 残して死ぬ。死後も地獄で苦しんでいる。 『通小町』 〃思ひもよらぬ車の榻(しじ)に百夜通へと偽りしを、誠と思ひ君を思へば徒歩裸足(かちは だし)。さてその姿は笠に蓑、身の浮世とや竹の杖、月には行くも闇からず。扨雪には袖を打払ひ、 扨雨の夜は目に見えぬ鬼一 口も恐ろしや :・・ 榻の数々よみて見れば九十九やなり。いまは一夜 よ嬉やと・・・・笠も見苦し風烏帽子、蓑をも脱ぎ捨て云々 〃 『卒都婆小町』 〃一夜二夜三夜四夜、七夜八夜九夜、豊かな明の節夜にも逢はでぞ通ふ鶏の、時ともいへず 暁の、 榻の端書き百夜までと、通ひ行きて、九十九夜になりたり。あら苦し、めまいや、胸苦しやと 悲しびて、一夜を待たで死したりし” 申楽談義 (世阿弥作 ) 「四位少将はは根本、山と (大和 )に唱導ありしが書きて、金春権守 (禅竹の祖父 )多武峰にて せしを、後、書き直されしと - .なり」 昌導師=説教師芸能。「大和」の唱聞師 (素朴な能 )。『唱導文学会』 山辺文化講座 近江昌司 24・9・14 ) |
東大寺 (奈良市 )の大仏を造立したことで知られる聖武天皇 (在位 7 2 4〜 49年 )の即位から、 今年で 1 3 0 0年。奈良時代の天皇を代表する人物である一方、行幸や遷都を繰り返した「彷徨 五年」と呼ばれる謎の時期があり従来はマイナスイメージもあった。だが近年は「計画的で彷徨 ではない」との見方も有力となり、人物像は見直されつつある。 2024-10-24 産経新聞(夕刊) (岩口利一 ) 災害や政争に苦悩 聖武天皇は文武天皇を父、藤原宮子を母に生まれ、平城京遷都を導いた藤原不比等の孫に当 たる。治世は天平文化が花開いたが、災害や政争が相次ぐ中で聖武は思い悩み、専門家らの間 では「ひ弱で優柔不断な天皇」という印象もあった。 神亀 6 ( 7 2 9 )年には左大臣、長屋王が藤原氏の陰謀で自害する変が発生。藤原氏政権が樹 立されるが、数年間にわたり天然痘が大流行、藤原氏の四兄弟が相次いで死んだ。 天平12 ( 7 4 0 )年 9月には四兄弟のうち宇合の息子で、九州・大宰府に左遷された藤原弘嗣が乱 を起こした。 一方、聖武天皇の「彷徨五年」は伊勢、美濃、近江を回って山背 .恭仁宮に入る東国行幸 (天平 12年 10月〜 )に始まり、かつては「逃げるように東国へ向かった」と説明がされることがあった.。 遷都は「計画的行動」 これに対し、異を唱えるのが、大阪市立大名誉教授で東大寺史研究長の栄原永遠男氏 (古代史 ) だ。「聖武天皇には広嗣の乱以前に、清浄な都に移ろうという意識があった。政界の人間もばたば たと亡くなる中、仏教による国の救済を考え、東国に行こうとしていた」と指摘する。 最大の根拠は平成 14年に滋賀県が大津市で行った調査の成果だ。出土した大型建物跡は聖武 が行幸で滞在した禾津 頓宮(あわづとんぐう)の中心の可能性があることに注目し、栄原氏は 「 (続日本紀にあるように ) 12月に禾津に入るには 9月の広嗣挙兵より前に着工していないと間に合 わない」と推測。さらに「伊勢神宮に遷都を奉告した上で恭仁 (京都府木津川市 )に都を移す計画が あり、たまたま乱が起こった。元旦は恭仁宮で迎えようと準備を進めたと思われ、『彷徨』ではない」と 語る。 •その後、聖武天皇は恭仁宮から紫香楽宮 (滋賀県甲賀市 )への行幸を繰り返し、天平 15 ( 7 4 3 )年に紫香楽で盧舎那仏 (大仏 )造立の詔を発布した。恭仁宮造営はやめ、難波を皇都とす る一方、翌年に紫香楽に遷都。だが山火事や地震が相次ぐ中、平城京へ都を戻すことを決め、「彷 徨五年」は終わった。 未来考え大仏造立 国の一大 事業として大仏造立を再開した地は、天逝した子の菩提を弔うため平城京東側に建てた 金鐘寺だった。後の東大寺だ。 東大寺の橋村公英別当は「当時は仏教でいう釈迦滅後三時期のうち、生身の仏がいない『像法』 (前後は正法、末法 )に当たり、大仏造立はこれを意識したためでしょう。平安時代に末法を気にした ことが行われたように、聖武天皇は国を守るため像法にやるべきことを強い意志をもって進めた」と 説明する。 その上で橋村別当は大仏造立の詔にある «万代の福業 »に注目し、「後に損なわれることがあって も修復が繰り返され、善の循環が永遠に続く肇ということ。聖武天皇は遠い未来のことも考えておら れた」と語った。 |
「真の継体天皇陵」といわれ、巫女や武人など国内最多の 2 3 0体以上の埴輪が 当時の状態で見つかった大阪府高槻市の今城塚古墳 ( 6世紀前半、墳丘長 1 8 1m )。埴輪群は、先帝崩御に伴い大王権を継承する大規模な「殖宮儀礼(もがり のみや」の再現とみるのが、森田克行・今城塚古代歴史館元特別館長 ( 73 )。「ヤマト 王権で絶対的地位を固めた継体大王 (天皇 )が、後継体制を確立したことを埴輪に よって誇示した」とみる。権力掌握の背景には磐井の乱 ( 527〜 28年 )の勝利があ った。 2024-10-24 産経新聞 (小畑 三秋 ) 墳丘北側の内堤には現在、長さ 65m、幅 10mの区画に190体の埴輪が復元されて いる。詳細に見ると、塀を模した埴輪で 4区画に分けられている。 埴輪群の先頭は「四区」と呼ばれ、甲冑で身を固めた武人、大地の神を鎮める力士、 豪華な馬具の飾馬などがあり、儀式の警護などの役割があったとされる。続く「三区」は、 高さ 1mを超える複数の大型家形埴輪が並び、周囲には大勢の巫女、鎮魂祭祀を行 ったとされる猿 (=獣脚埴輪 )やニワトリなどが配され、ひときわにぎやかな空間だ。 「埴輪祭祀のクライマックスといえるのがこの三区」と森田さん。国内最大の高さ171 cmの家形埴輪の雇根には天に突き出すような「千木」があり、伊勢神宮など現在の 神社建築につながる構造だ。「千木は天から神様が降りてくる目印。王と神様が酒食を ともにした祭殿」とし、周囲には杯(さかずき)をささげたり両手を広げて踊ったりする 巫女などが置かれ、歌舞飲酒を表現した。 冠をかぶった人物埴輪もあり、皇位継承の際に「しのびごと」を奏上する人物という。 先帝の死を悼み、新たな王に忠誠を誓う重要な役割があったと想定する。 , ' 「研究者によっては、この埴輪こそ継体本人とする説もあるが、冠は大王のような豪華 さはない。さらに大王はすでに亡くなっており、遺体は別の場所に安置された」と話す。 その遺体の安置場所が、埴輪群の最も奥の「一区」と指摘。二〜四区と比べて埴輪が 極端に少なく、ひときわ小さい家形埴輪 (高さ 55cm )が 1棟置かれている。屋根の傾斜 が片方だけの「片流れ」という他の家形埴輪にはない特異な構造だ。 「小さい窓と入り口だけの極めて閉鎖的な建物。埴輪群の最も奥に 1棟しかないとい うのは、まさに被葬者である継体 1人の遺体を納めた喪屋(もや)にふさわしい」 政権の盤石ぶり示す 埴輪全体が奇跡的に残っていたことで明らかになっ1500年前の大王権継承儀礼。しか しこの時代、皇位継承は決して容易ではなか.った。日本書紀によると、仁徳天皇即位の 際には兄弟間で熾烈な争いも繰り広•げられた。 「埴輪群にみられるような大規模な大王権継承儀礼ができたのは、継体 ( 26代 )だか らこそ」と森田さん。後継の天皇は安閑 ( 27代 )、宣化 ( 28代 )ヽ欽明 ( 29代 )といずれ も継体の子が即位している。「ヤマト王権内で絶大な力をもった継体は、確実に息子に引 き継ぐ体制を作り上げた。埴輪群は、政権の盤石ぶりを示す政治的パフォ—マンスだっ た」と話す。 朝鮮への制海権握る 近江 (滋賀 )出身で当時の政治の中心•大和 (奈良 )とは縁遠かった継体天皇が、なぜ 強大な権力を掌握できたのか。その理由が磐井の乱だ。 5277年、継体天皇は朝鮮半島南部の任那救援と新羅征討へ兵を送ったが、北部九州 を拠点にした筑紫国造磐井が新羅と組んで阻止。翌年、継体は磐井を制圧した。「この 勝利は磐井打倒にとどまらなかった」と森田さん。ヤマト王権が畿内から瀬戸内海を経て、 九州の玄界灘を渡り朝鮮半島への制海権を握ることを意味したからだ。 「磐井の乱以前、ヤマト王権の制海権は九州北東部の宗像から沖ノ島まで。その西方 の福岡•博多から壱岐•対馬ルートは磐井を中心とした九州の豪族が押さえていた」と指摘。 「ヤマ卜王権といえども九州勢の合意なくして朝鮮半島には安全に行けず、制海権の確保 が喫緊の課題だった」と説く。 磐井の排除で大陸へのルートを完全に掌握した継体天皇は、名実ともにヤマト王権の 覇者となった。今でこそ素朴で牧歌的に見える今城塚古墳の「埴輪ワ—ルド」は、政治家• 継体の壮大な野望の集大成ともいえる。では、権力の源泉はどこにあったのか一。そこ には、天皇即位 ( 5 0 7年 )前から思い描いていた綿密な国家戦略があった。 |
古墳時代最大の内乱といわれる磐井の乱 ( 5 2 7〜 28年 )を平定し、絶対的権力を 握った継体天皇。北部九州の〃ドン〃筑紫国造(みやつこ)磐井を押さえたことで、畿内 から九州、朝鮮半島への制海権を完全に掌握し、ヤマト王権にとっての「国家百年の計」 成し遂げた。力の背景には、出身が琵琶湖に面した近江 (滋賀県高島市 )という継体の 特異性があった。水運を重視した政治政略で大船団を作り上げ、列島支配へ地歩を固 めた。 文字資料がほとんど残っていない古墳時代、為政者の国家運営や外交方針をたどるこ とは容易ではない。ただ、真の継体天皇陵といわれ大阪阪府高槻市の今城塚古墳 の発 掘が、「見えない真実」を浮き彫りにした。 同古墳近くにある今城塚歴史館には、埴輪が並んでいる。目をこらすと、船の絵の線刻 があり 2本のマストといかり綱が表現されている。「帆を降ろし、港に停泊する大船団を描 いた」との見解を示すのが森田克行・元特別館長 ( 73 )。 同古墳の後円部ではかって、円筒埴輪が並んだ状態で見っかり、大半に船が描かれて いた。周濠の発掘でも同様の円筒埴輪が出土した。「今城塚古墳は、他の古墳と比べて 船の描かれた埴輪が際立って多い。これこそ継体の国家戦略を象徴する」と話す。 大船団といえば「海」•のイメ—ジがあるが、京都との府境寄りに位置する同古墳は大阪湾 まではるかに遠い。森田さんが着目するのは約 5キロ南方を流れる淀川だ。西に下れば 大阪湾から瀬戸内海、さらに九州から朝鮮半島へ大陸との海上交通の起点ともなる。 さすらいの天皇 継体が 5 0 7年に即位した地は、首都の大和 (奈良盆地 )ではなく樟葉宮 (大阪府枚方 市 )。続いて筒木宮 (京都府京田辺市 )や弟国宮 (同府長岡京市 )へ移り、大和の 磐余玉穂宮 (奈良県桜井市 )に入ったのは 20年近くのちの526年だった。 「さすらいの天皇」とも呼ばれ、近江という地方出身の継体だけに大和入りが許されなかっ たともいわれる。 しかし、この「漂流説」に森田さんは異を唱える。「樟葉、筒木、弟国の宮はいずれも大阪 湾につながる淀川や木津川水系。継体にとってこれらの地に王宮を築くことが最重要だっ た」とする。琵琶湖を拠点に水運の重要性を熟知していた継体は、即位前から大船団構想 を胸に秘め、淀川や木津川沿いに港を整備して大型船を建造し、兵の訓練を想定していた とみる。「継体は、大和に腰下ろして政治をする従来型の大王ではなく、淀川・木津川べり の最前線で軍備増強のため陣頭指揮をとった。地方出身の大王だからこそ実利重視の発 想が可能だった」と指摘する。 継体は、大船団整備にじつくり 20年近くをかけ、勝利を確信した段階で大和に宮を置き、 翌年に磐井の乱愛へ向かったと説く。 ピンク色の石棺 継体肝いりの大船団を示すのが円筒埴輪の船の絵とすれば、勝利後の九州制圧の証 しが今塚古墳出土の大型家形石棺といえる。ピンク色をした独特の石材で、阿蘇溶結凝灰岩 と呼ばれる。 9万年前の阿蘇山噴火の火砕流が冷えて固まったもので、通常は灰色や黒っぽい色が多 いなか、熊本県宇土市の馬門地方産はピンク色で「ピンク石」と呼ばれる。 今城塚古墳のピンク石の石棺は破片しか見つかっていないが、復元すれば本体 (身 )の 重さが推定 4トン、蓋は 3トンで船でしか運べない。有明海から長崎沖をまわって福岡、瀬戸 内海から大阪湾という海上ルートとともに、淀川をさかのぼったのち同古墳までは陸路とい うルートが想定される。 「もし九州に磐井のような反額力がいたら、ピンク石の大型石棺は運べなかった」と森田 さん。 6世紀の継体朝以降、畿内の古墳ではピンク石の石棺が大型化したと指摘し、「ヤマト 王権が制海権を掌握し、王権直属の大型船で運んだことを裏付ける」と話す。 さらに、王権の直轄地「屯倉」も北部九州では継体朝以降に相次いで設けられた。常に大和 や和泉・河内に拠点を置いたヤマト王権の中で、伝統的な首都を避けて異端ともいえる政治 姿勢を貫いた継体天皇。大陸外交を見据えたダイナミックな戦略のもとで大船団を整備し、 新しい国家へと飛躍させた。 2024-11-14 産経新聞 (小畑三秋 ) |
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