長岡京地図
天平12年(740)聖武天皇が平城京から離れ、恭仁京、難波宮、 戻った後、延暦3年(784)に の一部)に都を移した。それが長岡京である。その後延暦13年(794)に平安京に遷都が行われる この地に都を移した理由としては、付近に桂川や宇治川などの大きな川が流れていることから、 藤原種継が暗殺され、また水害による復旧作業の負担が増えるなど政治的にも経済的にも不安定 |
長岡京 | 長岡宮(ながおかきゅう) |
長岡京は、今から1200年前の日本の 首都であった。延暦3年(784)から延暦 13年(794)までの10年間であったが 日本の中心がこの町にあった。 長岡京の規模は、東西4.3km・南北 5.3kmを測り、現在の向日市・長岡京市 ・大山崎町・京都市の一部にあたる。 |
長岡宮の内部は、いくつかの区画 に分けられる。政治・儀式の場である 大極殿や朝堂院・天皇の住まいである 内裏・役所の日常的業務を行う曹司・ 宴会を行う庭園などである。 大極殿は天皇が政治を行うところ、 宝幢(ほうどう)は元旦の儀式の時に立 てる旗、閤門(ごうもん)は大極殿の正面入 口にあたる。 |
宝幢(ほうどう) | 大極殿祭り |
国家の制度が整えられた奈良時代以来、 大極殿及び朝堂院では元旦の「朝賀の 儀式」が盛大のとり行われた。この時、 大極殿の前に7本の宝幢が建てられている。 宝幢とは、古代中国伝来の儀式用旗飾りで、 長さ約9mの大柱の上に、青龍・朱雀・白虎・ 玄武の四神の絵がはためき、鳥・日・月飾り 物が華やかに揺れていた。 宝幢は大極殿の中軸線上を中心に左右 に計7本建てられていた。 宝幢は天皇の権威を象徴し、即位式と元旦 にのみ建てられる特別な装飾具である。 |
長岡京遷都を記念して毎年11月11日 に行われる大極殿祭 |
長岡宮の大極殿・朝堂院 2005年(平成17)に行われた3度の朝堂院南方の発掘調査で、南門の両側には回 廊が続き、やがて築地塀となることがわかった。また回廊は南へと折れ曲がって 延び、その先から楼閣建物跡が発見された。平安宮では「翔鸞楼(しょうちんろう)」 と呼ばれた建物が長岡宮にすでに設けられていたことが初めて確認された。それまで、 長岡宮の大極殿,朝堂院の建物は、故小林清氏の瓦の研究や発掘調査での遺構確認 朝堂院は他の都に多い十二堂ではなく八堂形式で、建物の姿も単層の簡素な復元 が考えられてきた。 「翔鸞楼」のような楼閣をともなう門は、中国では闕(けつ)と呼ばれ、皇帝の 権威と人民への恩徳を示す象徴と考えられている。そこで、長岡京遷都を断行し た桓武天皇が、自らの皇統の正統性と権威を高めるため、唐の長安城にあった闕 を模して、新たな都で朝堂院の南に楼閣を建設したとみられている。大極殿や朝 堂院の建物復元も、より装飾性が高い重層の屋根が考えられるようになってきた。 |
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長岡宮大極殿跡・小安殿跡(ながおかきゅうだいごくでんあと・しょうあんでんあと) 向日市鶏冠井町に1200年以上も前の建物の名前「大極殿(だいごくでん)」が今も 桓武天皇が政治を司ったところが「大極殿」で都の中で最も重要な場所です。 |
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天皇、大極殿で朝賀を受ける
「丁酉の朔。天皇、大極殿に御して朝を受く。」 『続日本紀』延暦4年(785)正月1日条 長岡京に遷都してはじめて迎える新年元旦の朝賛の儀式 がおこなわれるようすを大極殿背後の上空から望む。 大極殿の前に7本の宝幢がそびえン閤門の向こうの朝堂院 はまだ建設途上その前のON庭に官人か整列している。 |
完成まぢかの築地
「庚子。西宮より移って、はじめて東宮に御す。」 『続日本紀』延暦8年(789) 2月27日条 遷都して3年ほどたつと、長岡宮の中心部で早くも大きな 改造がはじまる。 内裏か東のほうへ移されたのと同じ頃、朝堂院東第四堂の すぐ東側に築地塀が築かれる。突貫工事のため、女性や子供 も、土を突き固めたり、板を運んだりと大忙しの現場。 |
長岡宮跡 | |
長岡京の遷都にともなって、複都制としての難波宮、難波京が廃止されることになった。 これは桓武天皇が財政再建をはかるために、経費節減、緊縮政策を採用したことに あるといわれる。 長岡京は平城京からの遷都と難波京からの遷都をあわせて行うことによって、 都を一つにまとめるようとした。その際に難波宮の中心部建物を選んで長岡京の造営が 進められたのは、平城宮の社殿を運ぶよりも難波宮の方が難波堀江、淀川を経由することによって、 運びやすい条件をいかしたものといえる。 その他に考えられることとして、遣唐使船が難波の江口で座礁したこともあり難波津に 浅瀬が多くなり、難波津が機能低下したことがうかがわせるものである。 長岡京遷都直後に和気清麻呂が瀬戸内海交通に便利な三国川(現在の神崎川)に通 ずるようにした。 |
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藤原種継らが造長岡京使に任命され、遷都後も大工事が継続されていた。 延暦4年(785)9月、桓武天皇が平城京に行幸した留守中、種継は、大伴継人竹良に討たれ、 翌日亡くなった。 そこで桓武天皇は種継暗さつに加担したという理由で、皇太子の早良親王を廃することにした。 このような状況下で工事は停滞した中で、延暦13年(794)10月には平安京に遷都された。 |
築地跡(ついじあと) | 築地跡(ついじあと) |
築地塀というのは、土をたたきしめて積み上げた土塀のことで、古代から、都城・地方の 役所・寺院等では、敷地の囲いとしてさかんに造られてきた。しかし、古代の築地が現在ま で残ることはまれで、平城宮や多賀城(たがじょう)・法隆寺等にあるだけである。 本築地跡は、長岡京の朝堂院の東100m、内裏の南140mに位置し特に内裏の西面内 郭築地回廊とは南北に一直線に並ぶ。 築地の構造は二つの部分からなっており、まず、塀全体を高くするため、基底に幅10m 高さ1.7mの土塁を構築する。築地はこの土塁の上に築かれ、幅2.1m、現在残ってい る高さ1.0m〜1.2mを計る。かっては南北にさらにのびていたようであるが、現在は82m しか残っていない。 |
戦国時代の村の城 開田城(かいでんじょう)跡の土塁 地図 開田城(かいでんじょう)は、 戦国時代 (15世紀後半〜16世紀)に活躍した国衆(くにしゅう) の一人である中小路(なかこうじ)氏の居館(居城)である。 乙訓・西岡地域の土豪(どごう)地侍(じざむらい)たちはそれぞれの村のリーダーとして 活動し、また国衆として、 地域の自治的運営を目指す国一揆 (くにいっき)を結んだことで全 国的にも著名。国衆の居館は彼らの活動の基地として重要な役割をはたしたが、開田城はそ うした居館の遺構が残る貴重な事例である。 開田城の発掘調査は、 昭和53〜56 (1978〜81) 年と平成8(1996) 年、平成15(2003) 年におこなわれ、開田城が一辺約70mの方形の居館で、周囲に幅約6.5m、 高さ約2mの土塁 (どるい=土で築いた城壁)と、 幅約8m、 深さ約1mの堀をめぐらす、典型的な構造であるこ とが明らかになった。南西部に推定される主要な出入口は、 南へ張り出す特徴をもつ。城内 からは、東西・南北が3間(9m)以上の大規模な掘立柱建物 (ほったてばしらたてもの)や石組 みの井戸、焼けた土や炭がつまった竈(かまど)とみられる遺構などが発見された。 現在、地権者などの努力によって、西辺(この案内板背後の高まり)と南東隅の土塁が残さ れている(一部は復元)。地域の中世の歴史をとどめ、 国一挨の拠点として全国的にも貴重な 歴史遺産として保存されている。 平成17年9月 長岡京市教育委員会 |
竹の径 | 竹の径 | 竹の径 |
竹の径 竹の径は向日市特産の「孟宗竹」 を使った竹垣の散策道です。第 6向陽小学校から寺戸大塚古墳、 竹林公園、そして回生病院まで 竹垣が目を楽しませてくれてい ます。平成14年から毎年秋には 「竹の径・かぐやの夕べ」が開 催され、4000本の水ロウソク が夕闇の竹林を照らし、幻想的 な雰囲気をかもし出しています。 |
長岡天満宮地図
八条ヶ池 |
菅原道真(845年〜903年) と長岡天満宮の由緒 長岡天満宮周辺は、もともと普原道真の所領でした。道真 の地でしばしば詩歌管弦を楽しんだと伝えられています。 道真は、幼くして学問に優れ、 その聡明さと政治的手腕から 宇多天皇の信任を受けます。以後も政府の要職を歴任し、 宇田天皇が法皇となったのち醍醐天皇のときに右大臣まで昇 りつめました。しかし、時の権力者・藤原氏は、道真の出世を快 く思っていませんでした。 昌泰4年(901年)、左大臣の藤原時平は、醍醐天皇に「道 真が娘を斉世親王(宇多法皇の息子・醍醐天皇の弟)に嫁が せ、醍醐天皇を失脚させようとしている」と虚偽の報告をしま す。宇多法皇の政治的影響力を疎ましく感じていた醍醐天皇 は、この讒言(ざんげん)を聞き入れ、 道真に九州・太宰府へ 無実の罪により平安京を追われることとなった道真。道中、 その後、道真は九州に向かいますが、その時にお供したのが 左遷から2年後の延喜3年(903年)、道真は配流先の太宰府で られた木像を御神体として祀りました。これが長岡天満宮の始ま |
離宮八幡宮地図
関戸明神地図
妙喜庵地図
宗派 臨済宗東福寺派 開基 春嶽禅師 文化財 (国宝)茶室・(重文)書院 庵は江戸時代末期までこの地にあった地蔵寺の塔頭であったといい、 同庵には二棟の国指定文化財があり、一つは千利休が山崎合戦 構成を見せている。我国の数奇建築の根本と言われる建物で、後の 今一つの建物は、茶室から続く書院で、室町末期の文明年間(一四六九 昭和六十一年三月 大山崎町教育委員会 |
弟国宮(継体天皇) 推定地 角宮神社から南東に乙訓寺までの広域 継体12 (518) 年に、第26代継体天皇が造営したと言われる、「弟国宮」 この位置と推定したのには、4つの理由があります。 第1の理由は、長岡京を発掘発見した故中山修一先生の発掘報告書の 記載です。 市立第三小学校建設に際して、 開発前調査として「乙訓寺」 の時代確認と寺域確認の発掘を実施しました。 結果は、 乙訓寺の講堂が あったと伝承されていた第三小学校の運動場予定地から、白鳳時代と認 定された柱の根石群と雨だれ落が発掘されて、 乙訓寺は伝承のとおり 白鳳時代の建造と確定されました。 この時、 白鳳より古いと推定される 「柱穴列が、運動場全域に散在して発見された」と報告されています。 この柱列は、尺度・方角・遺物の年代、柱跡の拡がりとを考えると、大 世紀前後の有力者の住居跡とも考えられるとの報告です。 この頃は、まだ発掘よりも開発が優先される時代であったため、それ 以上の発掘は続けられず、柱列の遺構は地中に埋め戻されました。時期 と規模を考えると、 日本書紀に書かれた記事と一致します。 第2の理由は、この土地を囲むように、5〜6世紀の古墳が多数発見され 第3の理由は、この地域に広がる上里遺跡から、 「弟国」と墨書され た墨書土器が発掘されており、この地域が当時 「弟国」 と呼ばれてい と考えられます。 第4の理由は、 角宮神社の社伝に、 「第二十六代継体天皇六 (512) 年、五月、朔、勅し、 造営し給い、 火雷 神を鎮め給う」 という記 「(弟国に遷都するので、社を造営しこの土地にいます火雷神を鎮めら 以上が、この場所が「弟国宮」と考えられる理由です。 弟国の名前の起源は2説があります。 隣の葛野郡(かどの)から分かれて新しい郡となった為、葛野郡を「兄 国」とし、 新しい郡を 「弟国 第2は日本書紀の第11代垂仁天皇紀に記載されています。 竹野媛が輿から堕ちた場所として 「堕国」と言われそれが |
継体天皇母方の墓 |
本 堂(附宮殿・つけたりくうでん) 概要 沿革 元禄八年五、六月に竣工し、当初は大師堂と呼ばれていた。 長岡京市教育委員会 |
は、長岡京造営以前から、かなりの規模の寺院であったことが寺 院北側一帯の発掘調査によって判明している。弘仁二年(八一一) 唐から帰朝した空海(弘法大師)は、同年十一月に乙訓寺別当に 任じられ、その修理造営を命じられた。空海は、 弘仁三年十月、 高雄寺に移ったが、 ここに真言宗に由緒の寺としての歴史に印さ れた。 中世には足利義満がこの寺を南禅寺の白英徳俊(応永十年寂) に与え、 禅宗寺院として再出発した。 法皇寺の寺号も称した。 五 代将軍綱吉およびその生母桂昌院の信任の篤かった護持院隆光 平成二年二月 長岡京市教育委員会 |
表門 | 裏門 |
表門 沿革 大棟端の鬼瓦にも元禄八年の銘があり、様式上からも元禄 長岡京市教育委員会 |
裏門 概要 一間一?: .高麗門 切妻造 本瓦葺 両脇練塀付 元禄八年 (一六九五) 沿革 棟札に裏高麗門と記し、間九尺とする。 仕様覚は裏門「黒門」 長岡京市教育委員会 |
鐘楼 概要 方一間 入母屋造 本瓦葺 (江戸中期(年不詳) 沿革 牧野成貞の寄進による建立と伝えるが記録を欠き建立年代は不明である。 鐘は戦時に供出され、昭和四十一年に鋳造された。前の鐘銘を再刻していて 元禄九年(一六九六)十月に精海が三条釜座の信州大掾藤原国次に造らせた ことが判る。 長岡京市教育委員会 |
八幡社 |
鎮守八幡社 一間社 享保八年(一七二三)の修理により桧皮葺(ひわだ)から柿葺(こけら) 長岡京市教育委員会 |
太子堂 |
早良親王の供養塔 |
早良親王(750年〜785年) 平城京から長岡京に遷都して間もない延暦4年(785年)、 造長岡 宮使 (造営の最高責任者) 藤原種継が、 当時の桓武天皇留守中 桓武天皇の実弟・早良親王も、 事件への関与を疑われ、乙訓寺 楽 早良親王の死後、桓武天皇の身の回りには不幸が相次ぎます 延暦13年 (794年)、 和気清麻呂の建議もあり、桓武天皇は 平安京への遷都を決意します。 「長岡京」が廃都になった理由 は定かではありませんが、桓武天皇が早良親王の祟りを恐れて いたとする説もあります。 延暦19年(800年)、桓武天皇は早良親王に「崇道天皇」の諡号 を贈り、 淡路島から大和国に遺骸を移しました。 |
推古天皇の勅願寺として聖徳太子が建立したといわれる乙訓地方最古の 寺。嵯峨天皇から別当に任命された弘法大師が在住した真言宗の古利であ 4月下旬〜5月上旬には、約2000株のぼたんが大輪の花を咲かせることで |
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京都・乙訓寺の像 京都府長岡京市の乙訓等の「十一面観音立像」を解体修理 したところ、仏像内部から大量の紙片が見つかった。紙片に は、鎌倉時代に民衆が願をか」け、仏師が1日で彫った経緯が 記されていた。調査した府文化財保護誤は14日、史料で裏付け られた国内3例の「一日造立仏」にあたると発表した。 1日造立仏は雨乞いや疫病退散を願い、仏師が1日で彫り上 げる。香をたき、僧侶が真言(仏の言葉)を唱えるなかでつくら れ、造形や表面の仕上げが簡素なことなどが特徴だ。これまで に、奈良県宇陀市の西方寺所蔵「薬師如来立像」(国重要文化 財)と、川合京都仏教美術財団所蔵の「不空羂索観音立像」の 計2例が確認されている。 今回の仏像は木造で高さ約180cm。内部から200枚以上 の紙片が出てきた。民衆の名前とともに、文永5(1268)年 7月17〜18日、まる1日かけて作られたと書かれていた。仏像 制作のために寄進し、仏と縁を結んだ者を記録する名簿「結縁 交名」とみられる。結縁交名による仏像制作は平安~鎌倉期に 多く見られるとされる。 文化庁の奥健夫主任調査官によると、紙片に興福寺と関係が 深い小寺院の名前が記されていたことなどから「興福寺で作ら れた一日造立仏の可能性が高い」という。奥調査官は「当時 は2枚の曼茶羅を1日で描き、『早筆』と呼ばれた絵師がい た。早く作ることの御利益が重視された時代だ。当時の仏師は 相当な技量があったとみるべきだ」と説明する。 |
角宮神社 式内社 乙訓坐火雷神は、玉依姫の夫神で「山城風土記逸文」の賀茂 旧社地は井ノ内の西部(宮山)にあったが、文明十六年(一四四) 長岡京市観光協会 京都府観光連盟 |
舞殿式拝殿 | 八幡宮 大神宮 稲荷神社 向日神社 |
井戸屋形 |
長岡市立長岡第三小学校 地図 | 長岡市立長岡第十小学校 地図 |
赤根神社 当神社は赤根天神社と称し、祭神は伊弉諾尊 に保管してある古文書にも色々と記録されている。 年間の行事には元旦祭を初め、お節会祭・向日神社 現在、神社のお守りは今里区民が一年交替で毎月 長岡京市観光協会 京都府観光連盟 |
大峰山行場西ののぞき |
大峰山参拝 禊ぎ場 所在地 今里四丁目地内(旧小字天神下) かつて絶え間なく清らかな水が湧き出た当 地は、今里地区で大峰山(奈良県吉野郡にあ る修験道の根本霊場)に参る若衆が、道中安 全と修行成就を願って身を清めた所である。 昭和四〇年ごろまで使われ、古来から神聖な 地として守られ、女人禁制の地であった。 毎年九月ごろ、成人に達するまでの若衆が 先達の引率で大峰山に入り、行場できびしい 修行を行った。これは「行者はん」とか「行 者講」と言われ、大人に仲間入りする節目の 一つで、行かないものは男でないとまで言わ れた。 |
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