長岡京地図

 
 天平12年(740)聖武天皇平城京から離れ、恭仁京難波宮 紫香楽宮を経て再び平城京に
戻った後、延暦3年(784)に 桓武天皇は現在の乙訓地方(向日市、長岡京市、大山崎町、京都市

の一部)に都を移した。それが長岡京である。その後延暦13年(794)に平安京に遷都が行われる
までのおよそ10年間、長岡京は朱雀大路を中心に規則正しく整備され、東西約4.3km、
南北約5.3kmに及ぶ広大な都として作り上げられた。

 この地に都を移した理由としては、付近に桂川や宇治川などの大きな川が流れていることから、
水上交通が大変便利であったことが考えられている。 しかし、 長岡京造営の最高責任者である

藤原種継が暗殺され、また水害による復旧作業の負担が増えるなど政治的にも経済的にも不安定
な状況に陥るにつれて、ついに天皇は都の造営を断念。都は平安京に移されることになった。   

   
 長岡京  長岡宮(ながおかきゅう)
 長岡京は、今から1200年前の日本の
首都であった。延暦3年(784)から延暦
13年(794)までの10年間であったが
日本の中心がこの町にあった。
 長岡京の規模は、東西4.3km・南北
5.3kmを測り、現在の向日市・長岡京市
・大山崎町・京都市の一部にあたる。
 長岡宮の内部は、いくつかの区画
に分けられる。政治・儀式の場である
大極殿や朝堂院・天皇の住まいである
内裏・役所の日常的業務を行う曹司・
宴会を行う庭園などである。
 大極殿は天皇が政治を行うところ、
宝幢(ほうどう)は元旦の儀式の時に立
てる旗、閤門(ごうもん)は大極殿の正面入
口にあたる。
   
 宝幢(ほうどう)  大極殿祭り
  国家の制度が整えられた奈良時代以来、
大極殿及び朝堂院では元旦の「朝賀の
儀式」が盛大のとり行われた。この時、
大極殿の前に7本の宝幢が建てられている。
宝幢とは、古代中国伝来の儀式用旗飾りで、
長さ約9mの大柱の上に、青龍・朱雀・白虎・
玄武
の四神の絵がはためき、鳥・日・月飾り
物が華やかに揺れていた。
 宝幢は大極殿の中軸線上を中心に左右
に計7本建てられていた。
宝幢は天皇の権威を象徴し、即位式と元旦
にのみ建てられる特別な装飾具である。
  長岡京遷都を記念して毎年11月11日
に行われる大極殿祭

長岡宮の大極殿・朝堂院

 2005年(平成17)に行われた3度の朝堂院南方の発掘調査で、南門の両側には回

廊が続き、やがて築地塀となることがわかった。また回廊は南へと折れ曲がって

延び、その先から楼閣建物跡が発見された。平安宮では「翔鸞楼(しょうちんろう)」

と呼ばれた建物が長岡宮にすでに設けられていたことが初めて確認された。それまで、

長岡宮の大極殿,朝堂院の建物は、故小林清氏の瓦の研究や発掘調査での遺構確認
によって、後期難波宮から移築されたことが確かめられており、

朝堂院は他の都に多い十二堂ではなく八堂形式で、建物の姿も単層の簡素な復元

が考えられてきた。

「翔鸞楼」のような楼閣をともなう門は、中国では闕(けつ)と呼ばれ、皇帝の

権威と人民への恩徳を示す象徴と考えられている。そこで、長岡京遷都を断行し

た桓武天皇が、自らの皇統の正統性と権威を高めるため、唐の長安城にあった闕

を模して、新たな都で朝堂院の南に楼閣を建設したとみられている。大極殿や朝

堂院の建物復元も、より装飾性が高い重層の屋根が考えられるようになってきた。

長岡宮大極殿跡・小安殿跡(ながおかきゅうだいごくでんあと・しょうあんでんあと)

 向日市鶏冠井町に1200年以上も前の建物の名前「大極殿(だいごくでん)」が今も
地名として残っています。

桓武天皇が政治を司ったところが「大極殿」で都の中で最も重要な場所です。
「小安殿」(しょうあんでん)
は、大極殿の後ろの建物を意味し「後殿」(こうでん)とも
呼ばれています。
昭和39年(1964)に国
の史跡に指定され、現在、大極殿公園として市民の憩いの場
となっています。毎年、11月11日には長岡京
遷都を記念して「大極殿祭」が行われます。

恭仁京 海住山寺 藤原宮跡の保存 
田原塚ノ本古墳 藤原野宮跡 幢幡の配置 
時代まつり 時代祭について
長岡京造営をなぜ中止したか 長岡京と陰謀
吉野宮(吉野離宮) 祟道神社 御所 
   
天皇、大極殿で朝賀を受ける

 「丁酉の朔。天皇、大極殿に御して朝を受く。」

続日本紀』延暦4年(785)正月1日条

長岡京に遷都してはじめて迎える新年元旦の朝賛の儀式

がおこなわれるようすを大極殿背後の上空から望む。

大極殿の前に7本の宝幢がそびえン閤門の向こうの朝堂院

はまだ建設途上その前のON庭に官人か整列している。

完成まぢかの築地

 「庚子。西宮より移って、はじめて東宮に御す。」

『続日本紀』延暦8年(789) 2月27日条

遷都して3年ほどたつと、長岡宮の中心部で早くも大きな

改造がはじまる。

内裏か東のほうへ移されたのと同じ頃、朝堂院東第四堂の

すぐ東側に築地塀が築かれる。突貫工事のため、女性や子供

も、土を突き固めたり、板を運んだりと大忙しの現場。

長岡宮 朝堂院 内裏 右京 左京 宝幢(ほうどう 大極殿 閤門(ごうもん)
長岡宮跡
 長岡京の遷都にともなって、複都制としての難波宮、難波京が廃止されることになった。
これは桓武天皇が財政再建をはかるために、経費節減、緊縮政策を採用したことに
あるといわれる。
 長岡京は平城京からの遷都と難波京からの遷都をあわせて行うことによって、
都を一つにまとめるようとした。その際に難波宮の中心部建物を選んで長岡京の造営が
進められたのは、平城宮の社殿を運ぶよりも難波宮の方が難波堀江、淀川を経由することによって、
運びやすい条件をいかしたものといえる。
 その他に考えられることとして、遣唐使船が難波の江口で座礁したこともあり難波津に
浅瀬が多くなり、難波津が機能低下したことがうかがわせるものである。
 長岡京遷都直後に和気清麻呂が瀬戸内海交通に便利な三国川(現在の神崎川)に通
ずるようにした。
 藤原種継らが造長岡京使に任命され、遷都後も大工事が継続されていた。
延暦4年(785)9月、桓武天皇が平城京に行幸した留守中、種継は、大伴継人竹良に討たれ、
翌日亡くなった。
 そこで桓武天皇は種継暗さつに加担したという理由で、皇太子の早良親王を廃することにした。
このような状況下で工事は停滞した中で、延暦13年(794)10月には平安京に遷都された。
   
 築地跡(ついじあと)  築地跡(ついじあと)
 築地塀というのは、土をたたきしめて積み上げた土塀のことで、古代から、都城・地方の
役所・寺院等では、敷地の囲いとしてさかんに造られてきた。しかし、古代の築地が現在ま
で残ることはまれで、平城宮や多賀城(たがじょう)・法隆寺等にあるだけである。
 本築地跡は、長岡京の朝堂院の東100m、内裏の南140mに位置し特に内裏の西面内
郭築地回廊とは南北に一直線に並ぶ。
 築地の構造は二つの部分からなっており、まず、塀全体を高くするため、基底に幅10m
高さ1.7mの土塁を構築する。築地はこの土塁の上に築かれ、幅2.1m、現在残ってい
る高さ1.0m〜1.2mを計る。かっては南北にさらにのびていたようであるが、現在は82m
しか残っていない。

戦国時代の村の城 開田城(かいでんじょう)跡の土塁  地図
 長岡京市天神1丁目 (旧字開田城ノ内)

 開田城(かいでんじょう)は、 戦国時代 (15世紀後半〜16世紀)に活躍した国衆(くにしゅう)

の一人である中小路(なかこうじ)氏の居館(居城)である。

 乙訓・西岡地域の土豪(どごう)地侍(じざむらい)たちはそれぞれの村のリーダーとして

活動し、また国衆として、 地域の自治的運営を目指す国一揆 (くにいっき)を結んだことで全

国的にも著名。国衆の居館は彼らの活動の基地として重要な役割をはたしたが、開田城はそ

うした居館の遺構が残る貴重な事例である。

 開田城の発掘調査は、 昭和53〜56 (1978〜81) 年と平成8(1996) 年、平成15(2003)

年におこなわれ、開田城が一辺約70mの方形の居館で、周囲に幅約6.5m、 高さ約2mの土塁

(どるい=土で築いた城壁)と、 幅約8m、 深さ約1mの堀をめぐらす、典型的な構造であるこ

とが明らかになった。南西部に推定される主要な出入口は、 南へ張り出す特徴をもつ。城内

からは、東西・南北が3間(9m)以上の大規模な掘立柱建物 (ほったてばしらたてもの)や石組

みの井戸、焼けた土や炭がつまった竈(かまど)とみられる遺構などが発見された。

 現在、地権者などの努力によって、西辺(この案内板背後の高まり)と南東隅の土塁が残さ

れている(一部は復元)。地域の中世の歴史をとどめ、 国一挨の拠点として全国的にも貴重な

歴史遺産として保存されている。

 平成17年9月 長岡京市教育委員会  

竹の径 竹の径 竹の径
 

竹の径

 竹の径は向日市特産の「孟宗竹」

を使った竹垣の散策道です。第

6向陽小学校から寺戸大塚古墳、

竹林公園、そして回生病院まで

竹垣が目を楽しませてくれてい

ます。平成14年から毎年秋には

「竹の径・かぐやの夕べ」が開

催され、4000本の水ロウソク

が夕闇の竹林を照らし、幻想的

な雰囲気をかもし出しています。


長岡天満宮地図

 
   
  八条ヶ池
 

菅原道真(845年〜903年) と長岡天満宮の由緒

 長岡天満宮周辺は、もともと普原道真の所領でした。道真

は当時、在原薬平(平安時代前期六歌仙の一人)らと共に、こ

の地でしばしば詩歌管弦を楽しんだと伝えられています。

 道真は、幼くして学問に優れ、 その聡明さと政治的手腕から

宇多天皇の信任を受けます。以後も政府の要職を歴任し、

宇田天皇が法皇となったのち醍醐天皇のときに右大臣まで昇

りつめました。しかし、時の権力者・藤原氏は、道真の出世を快

く思っていませんでした。

 昌泰4年(901年)、左大臣の藤原時平は、醍醐天皇に「道

真が娘を斉世親王(宇多法皇の息子・醍醐天皇の弟)に嫁が

せ、醍醐天皇を失脚させようとしている」と虚偽の報告をしま

す。宇多法皇の政治的影響力を疎ましく感じていた醍醐天皇

は、この讒言(ざんげん)を聞き入れ、 道真に九州・太宰府へ
の左遷を命じます。

 無実の罪により平安京を追われることとなった道真。道中、
この地を訪れ、「我が魂長くこの地にとどまるべし」と都を想った
そうです(このことから長岡天満宮は「見返り天神」とも呼ばれます)。

 その後、道真は九州に向かいますが、その時にお供したのが
乙訓郡開田村(このあたりの旧地名)の中小路宗則らでした。道真
は宗則らと別れる際、自身の姿を模した6センチ余りの木像を贈り、
名残を惜しみます。

 左遷から2年後の延喜3年(903年)、道真は配流先の太宰府で
亡くなります。これを聞いた宗則らは、道真から贈

られた木像を御神体として祀りました。これが長岡天満宮の始ま
りです。  

  動画    長岡天神ツツジ⇒⇒⇒ 
猿まわし 於長岡天神⇒⇒⇒ 
全動画⇒⇒⇒ 




離宮八幡宮地図

   




関戸明神地図

   




妙喜庵地図

   

宗派 臨済宗東福寺派

開基 春嶽禅師

文化財 (国宝)茶室・(重文)書院

 庵は江戸時代末期までこの地にあった地蔵寺の塔頭であったといい、
明応年間(一四九二〜一五〇〇)に俳人であり連歌師でもあった
山崎宗鑑が隠居所として建立したと伝える。

 同庵には二棟の国指定文化財があり、一つは千利休が山崎合戦
(一五八二)直後に建立した草庵風茶室の代表的な遺構の待庵(たいあ
ん)である。その規模は二帖で隅に炉を切り、塗りまわしの洞床を用い、
それぞれ異った大きさの連子窓、下地窓を開くという変化に富んだ

構成を見せている。我国の数奇建築の根本と言われる建物で、後の
数々の茶屋に多大な影響を与えた。

 今一つの建物は、茶室から続く書院で、室町末期の文明年間(一四六九
〜ハ七)頃に建立されたものと思われ、桁行二間、梁問三間、一重切妻造、
こけら葺という宝室町室期の優美さが漂う建造物である。

     昭和六十一年三月 大山崎町教育委員会  




弟国宮(継体天皇)推定地 
乙訓寺 地図
角宮神社 地図

 

弟国宮(継体天皇) 推定地
 「長岡京史跡を訪ねて」NPO法人 長岡京ふるさとガイドの会より

  角宮神社から南東に乙訓寺までの広域

 継体12 (518) 年に、第26代継体天皇が造営したと言われる、「弟国宮」
の場所についてはまだ確定はしていません。 しかし今、最も有力視され
ている場所は、北は、京都市との境、 上里遺跡のあった辺りから、南は
乙訓寺の間の範囲で、幅は約 300mの楕円形の中と推定されています。

 この位置と推定したのには、4つの理由があります。 

 第1の理由は、長岡京を発掘発見した故中山修一先生の発掘報告書の

記載です。 市立第三小学校建設に際して、 開発前調査として「乙訓寺」

の時代確認と寺域確認の発掘を実施しました。 結果は、 乙訓寺の講堂が

あったと伝承されていた第三小学校の運動場予定地から、白鳳時代と認

定された柱の根石群と雨だれ落が発掘されて、 乙訓寺は伝承のとおり 

白鳳時代の建造と確定されました。 この時、 白鳳より古いと推定される

「柱穴列が、運動場全域に散在して発見された」と報告されています。

 この柱列は、尺度・方角・遺物の年代、柱跡の拡がりとを考えると、大

世紀前後の有力者の住居跡とも考えられるとの報告です。

 この頃は、まだ発掘よりも開発が優先される時代であったため、それ

以上の発掘は続けられず、柱列の遺構は地中に埋め戻されました。時期

と規模を考えると、 日本書紀に書かれた記事と一致します。

 第2の理由は、この土地を囲むように、5〜6世紀の古墳が多数発見され
ています。この古墳群の様子から、「弟国宮」の宮域が想像されます。

 第3の理由は、この地域に広がる上里遺跡から、 「弟国」と墨書され

た墨書土器が発掘されており、この地域が当時 「弟国」 と呼ばれてい

と考えられます。

 第4の理由は、 角宮神社の社伝に、 「第二十六代継体天皇六 (512)

年、五月、朔、勅し、 造営し給い、 火雷 神を鎮め給う」 という記事があ
ります。

 「(弟国に遷都するので、社を造営しこの土地にいます火雷神を鎮めら
れた」という伝えです。

 以上が、この場所が「弟国宮」と考えられる理由です。

 弟国の名前の起源は2説があります。

 隣の葛野郡(かどの)から分かれて新しい郡となった為、葛野郡を「兄

国」とし、 新しい郡を 「弟国郡」と呼んだ。

 第2は日本書紀の第11代垂仁天皇紀に記載されています。

竹野媛が輿から堕ちた場所として 「堕国」と言われそれが訛って「弟国」
となった。

継体天皇母方の墓     

乙訓寺
 
本 堂(附宮殿・つけたりくうでん)

概要  正面三間 側面五間 一重 宝形造 本瓦葺 前拝一間
     後門一間 元禄八年(一六九五)

沿革 元禄八年五、六月に竣工し、当初は大師堂と呼ばれていた。
    宮殿には本尊の合体大師像が安置されている。

  長岡京市教育委員会

 早良親王(桓武天皇の弟)が幽閉されたことで知られる乙訓寺

は、長岡京造営以前から、かなりの規模の寺院であったことが寺

院北側一帯の発掘調査によって判明している。弘仁二年(八一一)

唐から帰朝した空海(弘法大師)は、同年十一月に乙訓寺別当に

任じられ、その修理造営を命じられた。空海は、 弘仁三年十月、

高雄寺に移ったが、 ここに真言宗に由緒の寺としての歴史に印さ

れた。

 中世には足利義満がこの寺を南禅寺の白英徳俊(応永十年寂)

に与え、 禅宗寺院として再出発した。 法皇寺の寺号も称した。 五

代将軍綱吉およびその生母桂昌院の信任の篤かった護持院隆光
は、真言寺院としての乙訓寺再興を計画した。
 当時、乙訓寺は南禅寺金地院の兼帯地であったので、
東山豊国神社辺にあった文殊院屋敷を拝領し、金地院と交換して
乙訓寺の地を入手した。
工事は元禄七年(一六九四)十二月八日に起工、翌八年五月二十
一日竣工し、六月十五日に供養した。 造営後は宝永二年(一七〇
五) 八月まで隆光の直接支配下にあったが、この年に長谷寺の
芳運房元貞が入山して一世となり翌三年十一月に護摩堂が建立
された。
 近世中期の寺観は都名所図会により窺うことができる。

 平成二年二月 長岡京市教育委員会

 
   
 表門 裏門 

表門
概要 一間一戸 四脚門  切妻造 本瓦葺 元禄八年(一六九五)

沿革  大棟端の鬼瓦にも元禄八年の銘があり、様式上からも元禄
の建立であることは確かである。仕様覚は惣門と記し、金三十両ば
かりと見積もっている。 赤門とも称されている。

長岡京市教育委員会  

裏門
概要 一間一?: .高麗門 切妻造 本瓦葺 両脇練塀付 元禄八年
    (一六九五)

沿革 棟札に裏高麗門と記し、間九尺とする。 仕様覚は裏門「黒門」
作りとしている。

長岡京市教育委員会

   

鐘楼

概要 方一間 入母屋造 本瓦葺

(江戸中期(年不詳)

沿革 牧野成貞の寄進による建立と伝えるが記録を欠き建立年代は不明である。

鐘は戦時に供出され、昭和四十一年に鋳造された。前の鐘銘を再刻していて

元禄九年(一六九六)十月に精海が三条釜座の信州大掾藤原国次に造らせた

ことが判る。

 長岡京市教育委員会

   
 八幡社
鎮守八幡社

 一間社  流造  銅板葺  元禄八年(一六九五)

 享保八年(一七二三)の修理により桧皮葺(ひわだ)から柿葺(こけら)
に替えている。その後、棧瓦葺(さんがわら)に替えたのは明治以降と
考えられる。平成元年に修理し、 軒の一部を柿葺し、その上に銅板を
葺いている。

  長岡京市教育委員会

 
  太子堂
 
 早良親王の供養塔

早良親王(750年〜785年)

 平城京から長岡京に遷都して間もない延暦4年(785年)、 造長岡

宮使 (造営の最高責任者) 藤原種継が、 当時の桓武天皇留守中
に暗殺されてしまいます。 事件に激怒した桓武天皇は、首謀者で
ある大伴継人らをはじめ、関係者数十名を処刑しました。

 桓武天皇の実弟・早良親王も、 事件への関与を疑われ、乙訓寺
に幽閉されてしまいます (※暗殺に早良親王が関与していたかどう
かは不明)。 親王は身の潔白を訴え、 抗議のために断食しますが、
淡路島へ流罪となり、途中、恨みを抱きながら絶命したといわれて
います。

 早良親王の死後、桓武天皇の身の回りには不幸が相次ぎます
(生母・高野新笠の病死や皇后 ・藤原乙牟漏(おとむろ) の突然死、
第1皇子・安殿親王(後の平城天皇) の原因不明の重病の発病など)。
また、日照りによる飢饉・疫病 大流行、小畑川の氾濫による大
規模な洪水被害など、天災にも苦しめられました。

 延暦13年 (794年)、 和気清麻呂の建議もあり、桓武天皇は

平安京への遷都を決意します。 「長岡京」が廃都になった理由

は定かではありませんが、桓武天皇が早良親王の祟りを恐れて

いたとする説もあります。

 延暦19年(800年)、桓武天皇は早良親王に「崇道天皇」の諡号

を贈り、 淡路島から大和国に遺骸を移しました。

     

 推古天皇の勅願寺として聖徳太子が建立したといわれる乙訓地方最古の

寺。嵯峨天皇から別当に任命された弘法大師が在住した真言宗の古利であ
ることから、「今里の弘法さん」とも呼ばれている。

 4月下旬〜5月上旬には、約2000株のぼたんが大輪の花を咲かせることで
有名である。  

桓武天皇 崇道神社  崇道神社 
崇道天皇    

京都・乙訓寺の像

 京都府長岡京市の乙訓等の「十一面観音立像」を解体修理

したところ、仏像内部から大量の紙片が見つかった。紙片に

は、鎌倉時代に民衆が願をか」け、仏師が1日で彫った経緯が

記されていた。調査した府文化財保護誤は14日、史料で裏付け

られた国内3例の「一日造立仏」にあたると発表した。

 1日造立仏は雨乞いや疫病退散を願い、仏師が1日で彫り上

げる。香をたき、僧侶が真言(仏の言葉)を唱えるなかでつくら

れ、造形や表面の仕上げが簡素なことなどが特徴だ。これまで

に、奈良県宇陀市の西方寺所蔵「薬師如来立像」(国重要文化

財)と、川合京都仏教美術財団所蔵の「不空羂索観音立像」の

計2例が確認されている。 

 今回の仏像は木造で高さ約180cm。内部から200枚以上

の紙片が出てきた。民衆の名前とともに、文永5(1268)年

7月17〜18日、まる1日かけて作られたと書かれていた。仏像

制作のために寄進し、仏と縁を結んだ者を記録する名簿「結縁

交名」とみられる。結縁交名による仏像制作は平安~鎌倉期に

多く見られるとされる。

 文化庁の奥健夫主任調査官によると、紙片に興福寺と関係が

深い小寺院の名前が記されていたことなどから「興福寺で作ら

れた一日造立仏の可能性が高い」という。奥調査官は「当時

は2枚の曼茶羅を1日で描き、『早筆』と呼ばれた絵師がい

た。早く作ることの御利益が重視された時代だ。当時の仏師は

相当な技量があったとみるべきだ」と説明する。 
   2021−10−15  朝日新聞(小松万希子)



角宮神社
     

角宮神社

 式内社 。乙訓坐火雷神社(ほのいかずちのかみやしろ)、
略して乙訓社とも言う。
  祭神は、本殿向かって左に主神火雷神 玉依姫、
建角身命(たけつぬみのみこと)、活目入彦五十狭茅尊
(いくめいりひこいさちのみこと)の四神を右に春日神(三神)
を祀る。

 乙訓坐火雷神は、玉依姫の夫神で「山城風土記逸文」の賀茂
伝説に丹塗矢の古事として見え、その御子別雷神を祭神とする
上賀茂社、玉依姫と建角身命を祭神とする下鴨社と共に国の
大弊にあずかる名神大社として社格の高い社であった。 初見は
「続日本紀」 の大宝二年(七〇二) の条で、殊に祈雨神として平
安中期までは国史に度々出ている。 承久の変(三三)で灰燼に帰
し安易に復興を許されなかった。

 旧社地は井ノ内の西部(宮山)にあったが、文明十六年(一四四)
今の地に再興され、井ノ内のうぶすながみ産土神として祀られて
いる。

  長岡京市観光協会

  京都府観光連盟

   
 舞殿式拝殿  八幡宮 大神宮 稲荷神社 向日神社
 
 井戸屋形
   
 
   
 長岡市立長岡第三小学校 地図   長岡市立長岡第十小学校 地図


赤根天神社 地図
   

赤根神社

 当神社は赤根天神社と称し、祭神は伊弉諾尊
伊弉冉尊を祀っている。
 古い昔より、その神徳を願し、地域住民は家内安全、
五穀豊穣を祈願して参り、古い書物や今里自治会館

に保管してある古文書にも色々と記録されている。
 古老の話などでは、その昔、今里には神興が一基
あって向日神社のお旅所でもあった。

 年間の行事には元旦祭を初め、お節会祭・向日神社
還行祭・お千度参りなどがある。その他、五穀豊穣にま
つわる祭も盛大に行われている。

 現在、神社のお守りは今里区民が一年交替で毎月
一日と十五日に本殿や参道を掃き清め、御神酒をお供
えし、鎮守の神として区民の安全を祈願している。近年
は、近郷の人々の参拝もとみに多い。

 長岡京市観光協会

 京都府観光連盟

 詳しく⇒

 



大峰山参拝禊ぎ場 地図
 
 大峰山行場西ののぞき

大峰山参拝 禊ぎ場

所在地 今里四丁目地内(旧小字天神下)
赤根天神社領地

 かつて絶え間なく清らかな水が湧き出た当

地は、今里地区で大峰山(奈良県吉野郡にあ

る修験道の根本霊場)に参る若衆が、道中安

全と修行成就を願って身を清めた所である。

昭和四〇年ごろまで使われ、古来から神聖な

地として守られ、女人禁制の地であった。

 毎年九月ごろ、成人に達するまでの若衆が

先達の引率で大峰山に入り、行場できびしい

修行を行った。これは「行者はん」とか「行

者講」と言われ、大人に仲間入りする節目の

一つで、行かないものは男でないとまで言わ

れた。
 詳しく⇒

 



















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