第72代 白河天皇(しらかわ)地図

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後三条天皇(第一皇子)
贈皇太后藤原茂子(もし)(藤原公成の娘) 
誕生 …1053年(天喜元年) 
御名・異称 貞仁(サダヒト)・融観・六条帝
中宮 藤原(けん)()   女御 藤原道子
立太子 …1069(延久元年)4.28   
在位年数 …15年
崩御…1129年(大治4年)7.7 (年齢77才)
皇居 平安宮      
年号 (えん)(きゅう)(じょう)(ほう)(じょう)(りゃく)(えい)(ほう)(おう)(とく)

 父後三条天皇に似て、賢くやさしい天皇であったことを「今鏡」に記載されている。文学に興味を持ち、「後拾遺和歌集」等を撰集されている。

藤原氏対策として、門閥や能力のない者を排除するため、実力のある者しか上級官位に昇進出来ないようにした。

1086年(応徳3年)堀河天皇に譲位し、上皇として政治を行い、院政の開始となった。これまでの藤原氏による摂関政治が上皇に移ったにすぎないなど諸説はある。1096年(永長元年)、上皇は落飾して法皇と称し、院政を敷いた。

1107年(嘉承2年)鳥羽天皇が5才で即位すると、白河上皇による院政はさらに進展した。

鳥羽天皇に顕仁親王が生まれると、即位をはかり崇徳天皇とした。

関白藤原忠実が上皇の怒りにふれ失脚、摂関政治の後退は決定的となった。

堀河・鳥羽・崇徳の三代にわたり40年以上に及んだ白河院政は実に強力な政権で、加茂川の治水、双六の賽の目、比叡山の山法師をもって天下の三不如意とした。

仏事に熱心で六勝寺等を建立した。

○岡崎(白川)にたてた法勝寺の八角九重の塔がある。

陵墓名 (しょう)()提院(だいいんの)(みささぎ)   方形・堀   火葬塚 京都市北区衣笠西馬場町

所在地 京都市伏見区竹田浄菩提院町

香隆寺の西北の野、衣笠山の東麓で火葬に付され、御骨を香隆寺に奉安され、後、香隆寺から鳥羽の三層塔下に納められた。

塔下奉蔵については、地中深く、方4尺の石筒の中に骨壷を納め、蓋をし二重構造とし納められている。三重塔は1249年(建長元年)焼失している。


履中天皇襲われる   聖護院  大津市坂本比叡山 
平安時代後期  白河院並びに法勝寺跡