白河院並びに法勝寺跡地図
法勝寺は1077年に白河天皇によって建てられた。高さ82mの八角九重塔は、 当時最大の高層建築だったとみられ、白河天皇の絶大な権力を示した。 |
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白河の地域が大きく浮かび上がった院政時代には、文化のあらゆる面で顕著な事実に接する。その一つに巨大な土木事業の遂行というのがある。たとえば白河天皇勅願の法勝寺をはじめとする六勝寺の創建、あるいは院御所としての鳥羽離宮などがそれである。しかしこれらはこんにちほとんど遺産をのこしていないために、美術史の研究対象にならず、ややもすると文化的意義も軽視されがちであった。 さてこの院政時代を代表する法勝寺は、承暦元年(1077)12月18日建立供養を行ったが、それは院政に先立つ時期の白河天皇の勅願にもとづくものであった。すでに宇多天皇の御室仁和寺やそのあたりに建てられた四円寺と総称される寺々のように、このあと近衛天皇にいたる五代(白河天皇・堀河天皇・鳥羽天皇・祟徳天皇・)と待賢門院によってつくられる六勝寺のはじめとなった点でも、注目される事績であったと思う。しかしここでとくに主張したいのは、この寺が具現しようとしたものが、何であったかということである。まずこの寺の規模は、二条大路を川東に延長した正面に西大門をひらき、白河との間に二町四方を領して、南面して建てられた。「扶桑略記」によってその姿をうかがうと、金堂は・・・ われわれは法勝寺の当初の姿が、さすが壮大であることにおどろく。その構想は、のちに塔が完成すると、南大門・塔・金堂・講堂が南北に一直線に並ぶのであって、実に飛鳥時代の四天王寺式の伽藍配置が、若干の変化を示しながら精神的にうけつがれていることが知られてるのである。 ・・・ その基本はまさしく四天王寺式なのである。 ・・・ ・・・ そこには阿弥陀堂もあって、従来の浄土信仰をうけついでいるが、しかし基本的には前代の宗教的動向に対する反省的要素が現されていることはおそらく否定できないであろう。つまり法成寺と対比すると、道長は寺院は寺院として最重要である金堂を後回しにし、まず阿弥陀堂を建立し、その御堂で生涯を終えた。しかし白河院の法勝寺にあっては、本尊毘盧遮那如来像を安置する金堂こそその中心であり、阿弥陀堂は寺院の西南隅におかれた付属建築物でしかなかったのである。 京都 林屋辰三郎 より |