智積院(ちしゃくいん)地図

障壁画 楓図と桜図(模写)
総門
山号 仏頭山
宗派  真言宗智山派総本山
開基 玄宥法師
 真言宗智山派総本山として全国に末寺3千カ寺を擁し、
その中には成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院の大本山を始め、
高幡山金剛寺、大須観音宝生院の別格本山があり檀信徒数は30万人にのぼる。
 東山三十六峰の阿弥陀ヶ峰を背にし、東大路通りに面して総門が開かれ、
7条通りの突き当たりに位置し、高い石積みをもった厳格な塀をめぐらす。
この総門を使用するのは管長就任のときだけとなっている。
 (京都では、他に通りの突き当たりにあるのは4条通りに八坂神社がある)
 利休好みの庭と伝えられ、四季折々の美しさを見せる庭園がある。
中国の廬山を模したものと云われている。
庭には歩く庭、立見の庭、座っての庭とあるが、
この庭は座って見る庭と云われている。
冠木門 金堂 本尊 金剛界大日如来
 もと豊臣秀吉がその子棄丸(すてまる)の菩提のために建てられた。
祥雲寺がその後一時廃絶していたのを、
紀州根来(ねごろ)の学頭智積院の名を移して再興したものという。
 唐門・大書院・開山堂・鐘楼・大師堂・講堂・金堂・その他があり、
大書院および宸殿の襖画は絢爛豪華な桃山時代芸術の粋で京都にたくさんある寺院の
障壁画でも豪華で美しいことで有名。
唐門 唐門内部より 講堂
 唐門をくぐり講堂、障壁画(模写)、名勝庭園を鑑賞できる。
講堂本尊 阿弥陀如来
大寺院の重要な機能である教室を意味するもの。
智積院では真言密教の儀式である潅頂(かんじょう)の道場や檀信徒の
回向道場として使用している。
本尊の阿弥陀如来はもとは金堂に安置されていたものを移したもので
平安時代後期の造立である。
 講堂は平成7年の落慶。
智積院会館 仏足石
障壁画 楓図 長谷川等伯(とうはく) 模写 障壁画 桜図 長谷川久蔵(きゅうぞう・等伯の長男) 模写
 「桃山時代に全盛期であった狩野派に対抗し、独自の画風を確立した長谷川等伯。
その一派によって描かれた祥雲禅寺の障壁画のうち、智積院に現存する絵は、楓図(かえでず)、桜図、松に秋草図、
松に黄蜀葵図(とろろあおいず)、雪松図、松に立葵図等です。
 このうち特に桜図と楓図は、日本の障壁画を代表するものとして世に知られています。
 松図は長谷川久蔵25歳の作で、二本の桜を中心に、八重の花を蒔き散らし、画面は大胆な構図のもと、春爛漫の景を描きだしています。
 作者久蔵が26歳の若さで急逝した翌年、父等伯が無常の感を振り切り、自己の生命力を画面一杯に傾けて楓図を描きだした。
画面中央に描きだされた幹や枝の激しい動き、紅葉や秋草の写実性、空や池の抽象的な表現、それらが全てが和合し生き生きと絢爛豪華にかかれています。」
 真言宗は弘法大師空海上人に依り開宗されたが、平安末期になると宗風は衰微してしまう。
その時鳥羽上皇の信任を得た興教大師覚鑁上人(こうぎょうだいしかくばん)が高野山に登り真言教学を再興した。
晩年覚鑁が移り住んだ紀州根来寺は、最盛期の戦国時代には坊舎2千7百、住侶6千、所領70万石を数えるまでに勢力が拡大し、
なかでも智積院は真言教学を学ぶ学問所として隆盛した。
 天正13年(1585)、根来寺は豊臣秀吉に一山ことごとく焼払われてしまうが、智積院の学頭玄宥僧正(げんゆう)は、
多くの学僧と共に高野山、京都と難を逃れた。
 元和元年(1615)、家康は秀吉が鶴松の菩提を弔う為に建立した祥雲禅寺を智積院能化(のうげ・住職)に寄進、
以来「五百仏山(いおぶさん)根来寺智積院」と称し、学山としての伝統を保ち、法灯絶えることなく今日に至っている。