郡山城地図

 石垣や復興した櫓を残すのみであるが、県史跡に指定されている。
秀長の居城。控えの城として高取城がある。
追手門(梅林門) 追手門櫓
 筒井順慶が織田信長の後援によって、松永弾正久秀を破り、宿願の大和統一の偉業をなし遂げて、元正8年(1580)11月12日郡山に入り、築城に着手している。しかし、本格的な郡山築城は、天正13年(1585)9月に、大和・和泉・紀伊三ヶ国の太守として豊臣秀長が知行高百万石をもって入城してからのことである。そのとき追手門もこの場所に築かれたものと思われる。秀長なきあと養子秀保、増田長森盛と受け継がれたが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦が起き、長盛は豊臣傘下として西軍に味方し大阪を守った。戦は西軍の敗北となり、郡山城は徳川方に接収されて、城は取り壊しとなり、建物すべては伏見城に移された。廃城となった郡山の地は、代官大久保石見長安、山口駿河守直友、筒井主殿頭定慶らが相次いで城番となり、預かっていた。
 慶長19年(1614)大阪冬の陣が起こり、藤堂高虎は10月25日郡山に着陣し、戦闘配置についたものの、東西の和議が整い事なきを得た。翌元和元年(1615)4月大阪夏の陣の際時の城番筒井主殿頭は大阪方の誘いを断り、徳川方に味方したので大阪方の攻撃に遇い、福住に逃れた。5月8日大阪落城を知った定慶は士道に恥じて切腹して果てたといわれている。
 戦後の論功において戦功第二となった水野日向守勝成6万石をもって郡山に封ぜられたけれど、城郭は全く荒れ果てていたので、石垣や堀の修築は幕府直轄事業とし、本丸御殿、家中屋敷などの家作は勝成の手で普請を進めた。しかし、在城わずか5年で備後福山城に移され、かわって戦功第一の論功を受けた大阪城主松平下総守忠明がが、元和4年(1618)10月、12万石をもって郡山城主となった。そのとき城には十分な建物はなく家康の命によって諸門を伏見城から再び郡山に移したので近世郡山城の偉業は整った。追手門もその一つで、当時はこの門を一庵丸門と呼んでいた。その後、本多内記政勝、政長、政利、松平日向守信之、本多下野守忠平、能登守忠常、信濃守忠直、唐之助忠村、喜十郎忠烈と続き、忠烈嗣なく本多家は断絶となった。
 享保9年(1724)3月11日禁裡守護の大任を帯びて15万石余をもって甲府城から郡山に移封となった柳沢甲斐守吉里は一庵丸門を梅林門と名を替え、城は美濃守信鴻、甲斐守保光、保泰、保興、保申と受け継がれ明治維新を迎えて廃城となり、すべての建物は取り払われてしまった。
 
天守台 城址会館
柳沢文庫
 この庭園は昭和初年柳沢邸の前庭として築造されたもので、当時堀之側別邸内にあった
柳沢養魚場から亭一棟を移し、周囲に菱形の金魚池を設けて金魚飼育法の研究がなされ、
広く内外からの養魚見学者の開放されていた。
 今日池は埋め立てられたが、引き続き城跡散策の市民の憩いのばとして開放されている。
大和郡山お城祭り
 この大数珠は築城以来この城にまつわる諸霊
並びに石垣に埋められた仏石を弔うもの。
永慶寺山門(えいけいじ)地図
 豊臣秀長の時代に郡山城の南御門として建築され、
安土桃山時代の城門の建築様式伝え、
当時の郡山城の遺構として当市に残る唯一の建築物。
 幕末に永慶寺山門として移築された。
 棟門形式(むなもん)の小形の門で、主柱に横木をわたし、
その上に桟瓦(さんがわら)を葺いた切妻屋根をのせ、
右側に脇戸がつけられている。
八双金物(はつそうかなもの)、
乳金物(ちちかなもの)がついた内開きの板扉を鉄製の脇壺で吊り、
戸締まりは木製の閂をもちいる。きわめて素朴な意匠である。
暗峠の名⇒⇒⇒
秀吉は二度、大地震に遭遇した⇒