政争と陰謀で増えた墓

 大化改新(六四五年)は、飛鳥地方にいた文化人に対する、反動勢力の非常に大きな戦いだ
った。しかもその中心は、中大兄皇子である。

 中大兄皇子が、なぜそのようなことをやったのか。

 蘇我氏聖徳太子を利用して法隆寺をつくっておきながら、聖徳太子の子、山背大兄王を殺

してしまう。中大兄皇子はそれらの実情を見聞し、対立意識を強めるようになった。蘇我氏の勢

力はいずれ天皇家を滅ぼしてしまうだろう。いつか機会があれば、蘇我氏の勢力を弾圧しなけれ

ばいけない。それが動機になって、

ついにあの大化改新を断行したのだろう。

 しかし、大化改新は成功したものの、困ったことになってしまった。その大立者である中大兄

皇子は、天皇になれないのだ。うっかりその位につくと、中心は滅びたといっても、飛鳥地方は

まだ蘇我氏の勢力圏だから、みんなの恨みが集まってやられてしまう。そこで彼はまず、天皇を

つれて九州へいってしまう。名目は、大陸から改めてくるかもしれない、というのだが、実は飛

鳥にいては危ないからである。

 中大兄皇子が天皇になるのは、斉明天皇がなくなってからだ。しかも、奈良県の飛鳥が本拠

で、そこであの改新主でやったにもかかわらず、なんと近江の国へ都を移すのである。それは飛

鳥の残存勢力による攻撃をさけるためと、大陸からの敵を防ぐためだった。近江にいれば、もし

大陸から敵が来襲しても、大阪の入口でまず防ぎ、つぎに逢坂山で守るという二重の砦を得ると
ができる。

 こうして中大兄皇子は、近江の大津宮で即位して天智天皇になった。天皇は藤原鎌足によって
強力に保護されていたが、その地位はけっして安泰なものではなかった。問題は、皇太子にたて
た、弟の大海人皇子である。

 天智天皇は大海人皇子と、額田王という女性をはさんで三角関係にあった。その恨みでいつか
大海人皇子が兵を挙げるのではないかと、恐れていたのだ。そのために天皇は、大海人皇子に
自分の娘を后にさせる。その后が鸕野皇后という方で、のちの持統天皇である。そうまでしてお

きながら天智天皇は、相変わらず安心することができない。そこでとうとう死ぬ前になって、大

海人皇子を皇太子からはずしてしまった。皇太子というのはつぎの天皇にするという予約である。

勝手にその約束を破って、実子である大友皇子を天皇に指名してしまった。

 在位わずか七年で天智天皇が死ぬと、すぐ大友皇子は即位して弘文天皇になる。そうすると、

大和飛鳥に近い吉野にいた大海人皇子が兵辜げ、壬申の乱を起こして近江の宮を滅ぼしてしま

った。天智天皇と蘇我氏の関係を考えれば、壬申の乱の成功のかげには当然、飛鳥の人々の
援助
があったにちがいない。この時代、政争の背景にはいつも飛鳥があり、またその舞台になっ
てい
る。そして飛鳥の勢力の向背が、戦争の勝敗を決めるのである。

 こうして勝利をおさめた大海人皇子は、飛鳥に入って即位し天武天皇になる。兄の天智天皇が

飛鳥をさけたのは、みなの恨みが集まっているからだ。その天智天皇を滅ぼしたのだからと安心

して、飛鳥浄御原宮を営む。そして天武天皇がなくなると、人気のあった皇后が即位して持統天皇
になった。この二代が、

飛鳥の天皇として最後までその地にいるのである。

 ところが持統天皇が即位すると、新しい問題が起こった。天武天皇には、持統天皇が皇后時代

に生んだ子のほか皇子がたくさんいたが、つぎの皇太子を誰にするか、ということだ。この皇位

継承は、当時は経済問題や自分のかかえている家臣団の生活と関係があるので、非常に神経
質に
争うのである。

 その結果、大津皇子などという人は罪もないのに犠牲になった。あまりに秀才であったこと

と、ひそかに剣術を練習していたのを理由に自殺させられてしまう。しかも懲罰のために、大和

からすぐ見える、近つ飛鳥遠っ飛鳥の真ん中にある二上山の頂上に埋められたのである。
それ
は、近つ飛鳥という向こう側の勢力と縁を切る、といった意味からなのだろうか。

 持統天皇はそのようなことまでして、自分が生んだのではない男の子たちを、つぎつぎに左遷

したり殺したりする。そうしているうちに自身の健康も悪化したため、いよいよ心が不安定にな

り、みそぎをしに絶えず飛鳥川をさかのぼって吉野へいく、というような非常に動揺の多い生活

を続ける。その間にも皇族がどんどん死んで、飛鳥付近一帯の丘陵の上が墓で埋まっていくので

ある。

 天武天皇はなくなるとき、皇后との合葬陵にするように遺言していた。そこで死後は遺言どお

り墓には大理石の部屋をつくり、遺体は棺に入れて葬られてある。皇后の持統天皇のほうは火葬

にされ、メッキされた銅の器に遺骨が入っている。そのなかには七宝などのたいへんな宝物が敷

いてあったという。天武、持統両天皇の墓は、実は鎌倉時代に盗掘されたことがあるのだ。その

泥棒が捕まって調査書(『阿不幾乃山陵記』)が残っているから、墓の内部構造は、もういっぺん

口を開けなくてもほぼわかっている。

 天皇や皇族のものを中心として、飛鳥の丘には点々と、ほかにも墳墓の地が残っている。その

多くは、今では誰のものともわからない。だが、当時の複雑な政争と宮廷内の争いによって犠牲

になった為政者、あるいは蘇我氏といった、支配階級とインテリの墓も少なくないだろう。
   足の下の日本史  樋口清之



甦った二千年の地名

 神武天皇が存在したかしなかったのか、という議論はおくとして、実はその説話のなかにはた

いへんな疑問が含まれている。それは、神武天皇が即位したとされる橿原宮のことだ。

 現在は橿原神宮があるし、街を橿原市とよぶが、そもそも「橿原」という地名は明治の半ばま

で地上になかったのである。だが『神武天皇紀』には橿原宮で即位したと書かれている。そこで

明治二十二年に橿原神宮をつくり、街の名前も橿原になった。

 今から二百年ほど前、本居宣長が『古事記伝』を書くとき、あの辺を調べている。そして彼の
旅行記の『菅笠日記』に、橿原という地名がないのはおかしいと書いて
ある。宜長はさすが大学
者だ。今はない「が、なくなったのかもしれない」と、つまり昔はあったのではないか、ということを
外ににおわせて書いてある。やがて彼の正しさがわかるのだが、『倭名鈔』という平安初期の
日本の地名を書いた本のなかにも、橿
原が出てこない。だからそのころ、明治の約千年前にも
もうない。

 それが明治二十二年に、突如としてつくられた。その事実をとらえて、また文献学者が、千年前
にさえない地名を明治になっ
てつくったのだから、神武天皇の橿原宮はない、神武天皇はいなか
った、といっていた。

 ところが、これは反証があがった。

 今橿原神宮の外苑を、橿原グラウンドという。ここをつくるとき、神宮近くの東側で工事をやった
ところ、約1メートル半
の地下に、直径1メートル半ほどの、イチイガツというカシの樹根の大群が
埋まっているのが発見された。そんなものがなぜ埋まっていた
かと調べてみると、かつてその上に
川が流れていたせいだとわかった。その川は、現在、橿原神
宮の東を流れている飛鳥川である。

 飛鳥川はたいへんな氾濫河川で、昔からあっちこっちに動いている。ある時期に橿原という村

があって、その上に飛鳥川の水が襲いかかり、一メートル半も土砂を堆積させた。おかげで村は

一瞬にしてなくなったが、木は、上のほうは枯れても地下に埋まっているところは炭化して残っ

たのだ。その掘り出された大きな樹根が、今もそのまま奈良県立考古博物館に陳列してある。

 実は、その樹根は私らが掘ったのだが、そのとき同じ場所から、石器時代にはじまって弥生

代、そして古墳時代までの遺物が出た。それからすると、少なくとも村は弥生時代の終わりころ

に埋まったらしい。弥生時代の古いもの、中期のものが出て、後期のものは流れているから、埋

まったのは今からだいたい千八百年前だろう。遺跡からみれば、二千年ほど前には村がちゃんと

あった、ということがわかる。しかも、そこには大きなカシの木がたくさん生きていた。それで

橿原といったのだろうと思う。地上から証拠がなくなって地名は消えたが、人間の記憶にだけは

残った。それを奇しくも『古事記』『日本書紀』には書いてある。また『万葉集』にも、神武天

皇を橿原宮に「あめのしたしろしめすすめらみこと」と書いてある。

 そうしてみると人間の記憶というものは、たいへんに正確だといえる。私たちふつうの人間

は、モノをすぐ忘れがちだから、記憶はいいかげんだと思っている。だがそうではないのだ。た

とえば、アイヌなどはノートを積み重ねて1メートルの高さにもなる『ユーカラ』を、しかも目

の見えないおばあさんがすっかりおぼえている。それを全部、金田一京助氏がローマ字で速記し

た。おばあさんはユーカラの大家で、どこをいい出させてもみんな一言一句違わない発音とアクセ
ントで語った。そのおばあさんの子どもは、
あの有名な知里真志保という北大の教授になった方だ。

琉球(沖縄県)にも『おもろさらし』というのがある。これもまた膨大な古代伝承で、人よっては全巻
おぼえている。

 中世の盲人琵琶法師は、目が見えないのにあの『平家物語』を全巻おぼえていた。

 人間の記憶力というものは、字が読める者がいちばんだめである。本に書いてあると思うか

ら、ついそれをあてにし、記憶しようとしない。目の見えない人、字のない文化は、私たちが考

えるより以上によくおぼえている。

 古事記は、稗田阿礼が口述したものだという。人間の、ことに昔の人の確かな記憶力からする

と、稗田阿礼が古事記を全巻おぼえていたのは当然だと思う。そして、それらの記憶をもとにし

て古事記や日本書紀が成立したのだから、古代の伝承には考古学と一致する、つまり真実だとい

うことができるものが少くないことは認めなければならない。

 そういうことを、私は稲荷山古墳鉄剣銘文発見によって、もう一度、再確認させられたよう

な思いがする。
   足の下の日本史  樋口清之




渡来人の里アスカ

 奈良県に、飛鳥という土地がある。これは不思議な地名だ。アスカという音に、なぜ「飛ぶ鳥」
などと字を当てるか。

まだ決まった学説はないが、私の勝手な意見をいってみよう。

 『万葉集』では、アスカの枕詞として「飛鳥(飛ぶ鳥)」と書いてある。そこでおそらく、アスカに飛鳥
の字を当てるようになったのだろうが、それにしてもどうして「飛鳥」が「ア」につな
がるのか。鳥が
パッと飛びたつことを、当時は擬音で「アー」という。「アーッと飛んだ」とい
うので「ア」に「飛」がつけ
られたのではないかと思う。

 飛鳥の地名は現在は奈良県のものとして有名だが、歴史的にはこちらは「遠っ飛鳥」という。

ほんとうの飛鳥は大阪府だった。大阪府の二上山の西に、太子という村がある。聖徳太子の墓が

あるからその名がついたのだが、太子村を飛鳥村といっていたのだ。横に石川という川が流れて
おり、当時その付近にいた大陸
からの渡来人が東へ移住した。その移住した先が、奈良県の
遠つ飛鳥となった。した
がって大阪府のほうは、近つ飛鳥である。

今はもう近つ飛鳥という地名はなくなったが、古典にはその名で出てくる。

 渡来人は日本へ、だいたい大阪湾から入ってきた。そして大阪付近に上陸した人々が、近つ飛鳥
あたりに住みつき、持ってき
た技術で栄えたのである。

 その一つが刀を打つ技術であり、あの辺で盛んに刀剣製作をやる。それが鍛部(かぬちベ)という、
いわゆる鍛冶屋さんであ
る。たとえば崇神天皇のころ、その鍛部が刀をたくさんつくって朝廷に献納
する話がある。

 千振りの刀を献納したので、天皇はそれを石上神宮の倉に収納されたと『日本書紀』にあるく

らいだから、近つ飛鳥ではまず鉄工業が栄える。

 それから、陶工たちが来る。彼らはろくろを持ってきて、陶土を使い陶器を焼く技術を伝え

る。当時、日本はまだ土器で、陶器は朝鮮から来ていた。その陶器を焼く人間を、土師部(はじ

べ)とか埴部(はにべ)という。埴とは粘土のことだ。こういう陶器を焼く技術がまず上陸した

のは、河内である。その証拠に河内には今でも土師という村があり、そこにはたくさんの窯跡が

残っている。

 土師部や鍛部ばかりでなく、大陸渡来の新しい技術なもった渡来人たちがどんどんやってくる

のは、やはり河内平野だった。彼らの力のおかげで、のちに仁徳天皇陵もできるのである。

 そのような、いわば新知識人の集団である渡来人勢力の一部に、河内のもっと東の端、二上山

のふもと石川のほとりに住んだ人々がいた。彼らを舟氏という。石川は今でこそ陸内の川だが、

昔は中の海と呼ばれた大阪湾に注いでいた。舟氏は、おそらく中の海の内湾の一部に港をつくっ

て舟を入れ、沿岸ばかりか大陸への航海をやっていたと思われる。それはたぶん朝鮮から来た人

人だっただろう。のちにこの舟氏のなかから、文字を知っている人々が独立して、史(ふびと)

といって朝廷に仕え、文字を支配する家になる。

 やがてその人々は、近つ飛鳥から遠っ飛鳥へ移住する。河内に残った人々を西史(かわちのふぴと)
といい、
それに対して遠つ飛鳥の大和へいった人々を東史(やまとのふびと)とよぶ。その東史をつれて
いった大将が、
いわゆる蘇我氏である。

 「蘇我」という言葉は朝鮮語だ。蘇我氏は第八代孝元天皇の子孫だと書物には書いてあるが、

その語源からみてもほんとうは朝鮮人だったと思う。

 蘇我氏が文字を知っている人々をつれていくと同時に、新しい渡来人たちがあとからあとから

やってきた。そのなかで、漢織(あやはとり)という織物を織れる人々がいた。今でも飛鳥地方

に、その祖先を祀った服部(はとりべ)の神社があるくらい栄えた一族だが、その人々が蘇我氏

についた。

 こうして蘇我氏は、漢織という染色工業者や、文字を使える文化人たちをかかえて、遠っ飛鳥

地方に繁栄していくことになるのである。
   足の下の日本史  樋口清之






汚職と新知識で栄えた蘇我氏

  蘇我氏がほんとうに力をもってくるのは、当時の国家権力と結びついてからであった。その結

ぴつきのきっかけになったのは、やはり得意の文字である。

 このころになると古代王朝の基礎も固まり、天皇家の勢力が広がって、各地から租税が集まっ

てくる。租税がだんだんふえてくると、その出納は記憶だけではとても間に合わない。なんとか

それを記録しておかなければならないが、誰も文字を知らない。そこで登場するのが、大和の史

である。史たちは宮中に招かれ、米の出納を記録する役人になった。

 宮中には、大蔵(おおくら)内蔵(うちくら)斎蔵(いみくら)という三つの蔵がある。斎蔵は神様を祀
る費用を入れた蔵、内蔵は天皇家の経済生活を支えるところ、大蔵は国家の経営に必
要なもの
を入れてある。したがって、大蔵がいちばん大きい。

 その蔵に納められた米はすべて、租税て徴収したものだが、史は、その蔵の出し入れをや
のである。蘇我氏はその史の大将だから、結局、大蔵大臣になってしまった。今でも金を扱う

立場にいる者のなかには、それで私腹をこやす連中がよくいる。蘇我氏は背任横領役人の第一号

みたいな男で、地位を利用してどんどん自分の財産をつくってしまう。たぶん、みな字を知らな

いから、宮中の経済をごまかしたのだろう。その経済力で、こんどはまた渡来人をつぎつぎと自

分の配下にしていき 飛鳥地方に隠然たる大勢力をもったのである。

 飛鳥地方というのは、現在の地形から見ても小さな丘陵が起伏し、広い平野があるところでは

ない。米の生産からいえば条件の悪いところだが、蘇我氏はなぜこういう場所に根をおろしたのか。

 飛鳥には飛鳥川という川がある。彼らがはじめに住んでいた西の土地には、石川という川が

あった。この石川を彼らはみそぎをする場所にしていたようだが、飛鳥にも似たような川がある

というので、やはり同じ目的で利用したらしい。そのことは飛鳥という地名からみてもわかる。

みそぎをする川といえば、有名なのは伊勢の五十鈴川だが、この五十鈴川と飛鳥川は、同じ語源

だと思う。アスカの語義には、イスズ、イスケなどと同じく、みそぎの意味があるからだ。

 飛鳥川が神聖な川だったことを証拠だてる、歴史的な話がある。これはのちのことだが、飛鳥

川の上流から山ひとつ越えた吉野には、七世紀の末、持統天皇とその夫の天武天皇が、吉野川
へりにいた。そして近江の天智天皇と対立し、最後にはいわゆる壬中の乱を起こす。つまり、天

智天皇が亡くなると、天武天皇は兵を出して飛鳥川を通り、伊勢を経て、美濃から近江を攻める

のである。

 壬申の乱が終わり、天武天皇は飛鳥に都するが、やがてその死後、即位した妻の持統天皇は

精神的不安定な状態になる。すると天皇は、みそぎのため三十二回も飛鳥川をさかのぼり、山を
越え吉野までいくのである。

 飛鳥川は、人々にとってそれほどだいじな川だったらしいのだ。

 しかも、その川のある飛鳥地方は、農業生産に向かない丘陵地帯だが、逆にそれは防衛上の
利点にもなる。平地に住んでいればどこからでも攻められるが、
丘やくぼ地の多い場所では攻め
うがない。そのようなことから渡来人である蘇我氏は、飛鳥地方の丘陵の間に繁栄したのだろう。

 日本の政治は六世紀を過ぎると、古代王朝、大王の時代がだいたい終わる。一方では、蘇我氏

に代表されるような渡来人が朝鮮や中国から来て、新しい知識が入ってくる。そうすると天皇

は、神様を祀るという祭祀権だけで民衆を支配するような古代王朝的、卑弥呼的な存在ではな

くもっと武力と知識をもつ天皇でなければならなくなった。そこで大きな意味をもってくるの

は、渡来人が身につけた文化力と教養である。という事情から飛鳥地方には、天武天皇より百年

ほど前、欽明天皇のころから都がふえる。

 欽明天皇は、飛鳥から一キロ半ほど北の、大和川のへり、金刺宮に住んでいた。ここに仏教が

伝来するのである。金刺宮に伝来したのは、当時,大和川にあった内陸港の海石榴市が、大陸文

化入国の門戸になっていたからだった。

 大陸からはるばる海を渡り大阪湾にきた船は、大和川をさかのぼって海石榴市に入港した。の

ちに遣唐使が行くようになっても、帰りは船で海石榴市から上陸し、馬に乗って都へ行ったもの

である。

 さて、こうして百済から伝来した仏像は、まず飛鳥の蘇我氏の家に祀られた。それを寺に改め

たのが豊浦寺であって今も飛鳥にあるが,当時は渡来人蘇我氏の勢力圏に入っていた。しかし仏

像が祭祀されると、すぐその地に疫病が流行したので、難波の堀江へ投げ込んだという。難波と
いっても、それは豊浦寺の前に
あるドブのことで、大阪府には関係ない。

 またそのとき、司馬達等の娘である善信ら二人の尼が捕まり、裸にされ、仏教伝来の地
海石榴市の長屋でムチ打たれた。伝説によれば信濃の住人、本田善光は、そのあとドブに落ち
ていた仏像をこっそり拾い、それをもって信濃へ逃げて善光寺をつくったという

 いずれにしろ、それ以来、歴代天皇は飛鳥地方に根拠をおき、いつも蘇我氏を代表とする渡来
人勢力をバックにしながら、新しい時代に
適応していくのである。従来の古代王権は信仰による
文字どおりの古代王権だったが、シャーマ
ニズム信仰から離脱して、こんどはインテリジェンスと
経済力と軍事力を備えた、いわば新国家
をつくっていく。そのとき渡来人勢力が非常に大きな役割
を果たし、蘇我氏は新国家のなかにど
んどん食いこんでいった。

 そのなかで生まれたのが、聖徳太子である。
   足の下の日本史  樋口清之




操り人形 聖徳太子

 聖徳太子は、ちょうど仏教が弾圧をうけたあと、欽明天皇のつぎの敏達天皇のときに、橘の地
にあった宮で誕生する。宮庭の馬屋の前で生まれたから「厩戸皇子」といわれ、今でもその誕生地
がある。

 飛鳥の渡来人勢力のなかで生まれ、母も渡来人、后も渡来人という太子は、おばさんにあたる

推古天皇のため、仏教をいっしょうけんめい講義する。ほんとうは仏教を、国家の権力で保護し

てもらいたい。しかし天皇家は神社の祭祀をやっているから、仏教を蕃神(ばんしん・からのかみ)
といっ
て異教と思っている。そこでまず、天皇を教化しなければいけない。仏教は男の宗教で、女
を差
別する、と思わせてはいけないのである。

 仏教の経典のなかで女について説いたものが三つある。法華経、維摩経、勝鬘経だ。法華経

はお釈迦様の教えのいちばん原点を書いたもので、仏教徒はぜったいに学ばなければいけない教

えだが、維摩経ととくに勝鬘経は女人済度の経典で、女こそ仏に救われると説いている。聖徳太
はそれを熱心に講義し、とうとう推古天
皇をうまく仏教に教化してしまう。そして法隆寺をつくるので
ある。

 太子は法隆寺だけでなく、四天王寺を難波につくったという。当時、ちょうど中国は南北朝、六朝
の争乱のあと隋が天下を統
一し、勢力を国外にのばそうとしていた。

それが日本へ攻めてくるかもしれない。現在、四天王寺がある大阪の上町台地は、難波(大阪)の港
が展望できるところにあ
る。そこに寺をつくることによって、仏の加護で日本の門戸、港を守ろうとし
たの
だ。

 現実的には,仏の加護よりも防護のためだった。寺というのは泥壁であり、屋根に瓦がふいて

あるので、いちばん燃えにくいのである。その証拠に、戦国時代になって武将が敵を攻めると

は、真っ先に寺を焼く。寺が最後まで武力の砦となるのを防ぐためだ。そういう寺の利用法は聖

徳太子の時代から変わっていない。

 法隆寺は大和の入口につくった。ここはちょうど大和川の出口で、外から奈良県へ来ようと思

えばあの渓谷を通らないと入れない。入ったところが法隆寺だ。法隆寺にはやはり、武力的な意

味をもつ砦的な性格があると思う。

 ともかくこうして、仏の加護により外敵を防ぐという名目で、とうとう寺をつくるのに成功した。

 仏教伝来に反対をしたのは、日本の伝統的な宗教に奉仕していた大神氏と中臣氏、それから武

士の家であった物部氏と大伴氏である。

 中臣氏は、人と神のなかをとりもつから中臣という。この中臣氏は、関東の鹿島神宮の祭司を

していた。そして鹿島は鉄の産地だったから、配下にたくさんの製鉄業者をもっている。武器と

いうのは消耗品で、製鉄業者をかかえていることは大きな力だ。それをよりどころにして、こん

どは仏教を信仰した蘇我氏に対抗するのである。

 しかし、蘇我氏は利口だから戦争をやらなかった。そのために、仏教はいちおう弾圧された。

だが蘇我馬子は、自分の娘婿の聖徳太子をうまくそそのかし、まず天皇を教化して、とうとう国

家の力で仏教を保護するようにさせてしまった。

 物部氏だけが、最後まで仏教受容に反対した。武士というのは、だいたいが保守的である。

天皇が仏教信者になってもまだ賛成しないから、ついに物部守屋と尾輿は滅ぼされてしまった。
彼らには誤算があった。もともと
跡仏教受容に反対だった中臣氏や大神氏が連合軍として味方
になってくれると思って
いたところ、逆に聖徳太子軍についてしまたったのだ。これは蘇我氏の
陰謀である。

 蘇我氏はまた、物部氏を滅ぼすにあたって、それを祈願するための寺をつくった。それが
飛鳥寺である。

 飛鳥寺は、のちの日本の寺と構造がまったく違う不思議な寺だ。朝鮮の清岩里寺式藍配置を
完全にまねたもので、一寺四名といって四つの名前をもっている。東の門には飛鳥
寺、西の門に
は法興寺、南の門には元興寺、北の門には法満寺と書いてある。この寺が飛鳥の中
心で、仏教
文化の中心だった。

 こうして物部氏が滅ぶと、蘇我氏の勢力がたいへんに強くなり、ますます栄えてくる。そして飛鳥
には、この六世紀の終わりから七世紀にかけて、燦然(さんぜん)たる文化の花がひらくのである。

歴代の天皇はみな飛鳥地方に都をもち、板蓋宮川原宮豊浦宮などが営まれていく。

 その文化の推進者の蘇我氏は、非常に開放的で進取的だった。そのため、仏教の坊さんたち
もちろんのこと、シルクロードを通ってずっと西の、イランあたりの人間まで日本へつれてきて

いる。

 飛鳥地方に残っている石像仏などには、不思議なものがたくさんある。とくに、日本にあるのが
おかしいようなものさえ残っ
ているのは、当時のイラン文化の影響ではないか。·作家の松本清張氏
などは、そんな推定までしているくらいだ。

 いずれにしろ当時の飛鳥は、まさに日本離れしたエキゾチックな町だったにちがいない。
それが,いわゆる大化改新で、くつ
がえってしまうのである。
   足の下の日本史  樋口清之





古墳は語る

なぞの前方後円墳

 死者を葬る墳墓は、昔から民族によってさまざまに違う。中国は円墳だし、エジプトは方錐墳

のピラミッドである。

 ところが日本人は不思議なことに、四、五世紀のころ,世界のどこにもない前方後円墳という

古墳の形をつくる。古墳時代の文化はだいたい大陸文化の模倣だと考えられるのに、ヨーロッパ

はもちろん中国とも朝鮮とも違う前方後円墳が、日本にだけどうしてできたのだろうか。

 これはやはり、石器時代にはじまった日本文化の特色、文化の再生産と関係があると思う。

 中国には,天円地方説というのがある。天は円形、地は方形とする考えからきたものだ。日本

人はそれを、巧みにとり入れている。たとえば江戸時代に通用した一文銭は、外側が丸くて真ん

中に四角な穴がある。こんな形の通貨は世界にも例がない。それはともかく一文銭の丸いのは

天、四角い穴は地を象徴させたもので、天地の間に流通することを表しているのだ。

 この天円地方説が、古墳時代に日本へ伝えられていたとしたら、どうだろう。

 中国では、天は魂の帰るところ、地は人間のいるところとされる。だから人が死ぬと円形の墓

に埋めるのが原則で、このならわしは朝鮮にも伝わった。丸い墓の代表的な例は秦の始皇帝のも

ので、中国第一の大きな円墳だ。円墳の習慣は現代でも受けつがれているが、昔の中国では墓の

前に方形の土壇を築き上に小屋をつくって遺族がそこに入り、何年間かお祭りを続けなければな

らなかった。

 そういうお祭りの祭壇である方形と、死体を入れた円墳とが、たぶん知識として日本に伝えら

れたのだろう。そして日本では、両方をくっつけてしまった。それが前方後円墳の起源ではない

か。

 しかし、最近、 発掘調査が進むにつれその中間の、二つの円墳がくっついたものなどいろいろ

な例があるから、いちがいには断定できない。だが、いわゆる前方後円墳を見ると、やはり円墳

に祭壇がくっついた感じがする。ただ前方後円墳のばあい、祭壇にあたる部分は手前が広がった

梯形になっていて、正方形はついていない。これは、日本的な発想転換の一つの例ではないだろ

ろか。

 さて、そういう前方後円墳が、四、五世紀ころの日本に突如、現れる。これもまた、非常に不

思議な気がする。

 その前が、邪馬台国で有名な卑弥呼の時代である。その時代のことは、北九州を中心とした

『魏志』の『倭人伝』に記述されているので、ある程度、生活や中国との関係がわかる。倭人伝

には卑弥呼が死んで、直径百余歩の大きい塚をつくった、と書いてある。だがそれは前方後円墳

とはいっていたししかも百余歩などという大きな墓は九州にはない。そこで邪馬台国は奈良

県だとする説が出されて、今でも対立している。卑弥呼の時代のつぎの四世紀ころ、近畿地方、

とくに奈良平野の東側に突如として大きい古墳が出現するからだ。

 現在残っているいちばん古い前方後円墳は、箸墓古墳という。伝説によるとこれは
第七代孝
天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命の墓とされる。一名を大市の墓というが、三輪山
ふもとの箸中という村にあるので俗に箸墓と呼んでいる。
箸墓は前方後円墳の最古のものといっても、その形

は、成立途中を思わせる中間的なタイプではなく、いきなり完全な前方後円形につくられてい

る。その謎は最近、箸墓の横の水田の発掘が進むにつれて、解けてきた。水田のなかに、石を盛

りあげた積み石塚というのが見つかったのだ。積み石塚は、前方後円墳の、やや原始的な形の小

さいものである。
 そうしてみると、前方後円墳はかならずしも突然に起こったのではなく、
それ以前から積み石

塚などを経てだんだん発達してきたのではないか。その時間が短かったのだ、ということがわかっ
たのである。

 前方後円墳成立の秘密は解けたが、その中身については依然としてまだ多くの謎に包よれて
いる。というのは、前方後円墳は
天皇陵であるばあいが多いから、十分に調査ができないのだ。
そこで現在、考古学者
の間では、天皇陵の発掘をさせてほしいという希望がある。
日本の古墳文化は大王
つまり天皇家の文化といっていい。そのため大王の墓を調べることによっ
て、天皇家
のいちばん始まりおよび祖先の生活を知りたいのである。

 卑弥呼は、今の天皇家とは関係がない。だいたい風俗、習慣が全然違うし、いた場所も九州と
される。

 ところが、その卑弥呼を紹介した倭人伝に、奇妙なことが書いてあるのだ。記述にによれば、
三世紀中ごろに、中国から銅鏡が
百枚、日本に来たとある。百枚という数字を信用していいかど
うかわからないが、そ
の銅鏡はおかしなことに九州では一面か二面しか発見されないで、ほとんど
近畿地方
で見つかっている。だから、学者によっては、近畿地方にこそ当時からもう文化の中
があったのではないか、とか、中国から
見れば九州の卑弥呼も大和の大王もあまり区別がなかっ
たのではないか、
などという説もあるくらいだ。

 そこで今、それらの謎を解き、日本の原始国家の起源や成長を知る資料として、研究がたいへん
熱心に進められている。

天皇陵は改造されていた

 前方後円墳の研究には、大きな障碍がある。その代表的なものともいえる天皇陵に入れてもら

えないのだ。しかし、宮内庁で測った天皇陵の精密な測量図があって、それだけは公開された。

したがって現在の天皇陵の形はわかるが、それがはたして古代のままかどうか、これが実は大き

な問題なのである。

 なぜ疑うかというと、それにはわけがある。江戸時代末、有名な安政の大獄のあと、国内では

幕府に対する批判の声が強くなり勤皇運動が盛んになった。やむをえず幕府は、朝廷への忠誠の

証を示すため文久三年(一八六三年)、天皇の御陵を修繕することにして山陵奉行を任命した。

それになったのが、戸田大和守という宇都宮の大名の弟である。

 戸田大和守はまた勤皇家でもあったので、たいへんな熱意をもって、主に近畿地方の諸天皇の

を修繕した。その仕事を進めていくうえで彼がヒントにしたのは、蒲生君平が天皇の御陵の

事を書いた『山陵志』という本だ。今日、私たちがこの古墳は何天皇の御陵だというのは、ほ

とんどその本によっている。戸田大和守も、そう信じてやった。ところが彼は考古学を知らない

し、しかも一方では勤皇的心情をもっている。その結果、善意からしたことではあるが、たいへ

ん困った修繕のしかたをしてしまった。

 たとえば、こういう極端な例がある。奈良県の飛鳥に第二十九代欽明天皇の御陵があった。
それは、小さな円墳だった。欽明天皇は仏教伝来時代の天皇で、日本の歴史のうえではだいじな
存在である。その御陵がこんな小さな円墳であるとは恐れ多いととだ、と彼は思った。そこであた
りを見まわすと、横にもう一つ円墳がある。たぶんこれは欽明天皇の御陵と昔つながっていた

のだろう、と彼は考えた。なにを考えようと自由だが、彼はなんとその二つをつなげてしまったの
である。それも、円墳などと
いうのはみっともない、諸天皇の御陵はすべて前方後円墳だからと、
とうとうその形
にこしらえてしまった。それが今の、欽明天皇の前方後円墳である。

 従来、この御陵がいちばん新しい前方後円墳だといわれていた。欽明天皇は実在だし、仏教伝

来ということから年数もわかる。それからすると、少なくとも六世紀の終わりまで前方後円墳が
ったのだ。そういう説をいう学者もいた。

 しかし、戸田大和守の日記を読んだところが「つくった」と書いてある。これほどはっきりしていれ
ば、
もう掘ったり調べたりしなくても、だめだということがわかる。

 同じようなことは、まだあるのだ。

 古墳には考古学者はまだ入れてもらえないが、宮内庁は、濠のなかまでならと譲歩した。そこ

でときどき濠の水を出してなかを掃除する機会に、入れてもらえることになった。河内の国(現

大阪府)には、応神仁徳履中反正と第十五代から十八代の天皇陵がかたまっている。その

一つの天皇陵の濠を掃除するとき、考古学者が十名ほど入って見たのだが、えらいことがわかっ

た。

 その一つである天皇陵の前方後円墳は、前方部が非常に広く、琵琶のバチみたいな形をしてい

る。そこで従来の前方後円墳研究家は、この天皇陵の形からつぎのようにいっていた。前方後円

墳は、ある時期にたいへん幅が広くなってくる。一方、それに並行して長さが非常に短くなり、

ホタテ貝のような古墳もあるという、バラエティに富んだ墳形ができていった。

 ところが、考古学者たちが濠のなかを前方部のへりまでいって見たところ、なんとそれは、後

世にこしらえたもので江戸時代の古瓦も積みこんであった。そして、元の形にへりをずっとたど

ってみると、ふつうの前方後円墳だった。つまりそれを戸田大和守が、前が狭いのはまことに恐

れ多いことであるから広げてあげましょうと、善意だがよけいなことをしてしまった。その結果、

えらくかたわな、奇抜なものになってしまったのである。

 そういう事情を知らないものだから、考古学者はこれまで、現在残っている形をもとにして研

究していた。この例でもわかるように、古墳の内部まで探らなくても濠のなかに入り、土を見る

だけでも、後世に人の手が加えられているかどうか知ることができる。今、私たちがほしいの

は、そういう知識なのだ。天皇陵といわれているものが、どういうふうに後世の加工がほどこさ

れているかを知れば、日本の前方後円墳の編年ができる。正しい移り変わりがわかるのである。

天皇家のいちばん祖先は、奈良県の東側にある三輪山のほとりに成立した王朝だろう。三輪は

「神(みわ)」であり、王朝の統率者を神大王
(みわおおきみ)という。箸墓古墳は神王朝(三輪王朝)がつくったものだが、

以後、天皇権力が古墳に象徴されていく。神王朝はやがて奈良市の西に移って奈良王朝、つぎに

河内へきて河内王朝になる。その河内王朝がつくったのが、仁徳天皇陵だ。その流れは、戸田大

和守のゆきすぎた善意が裏目に出て、乱されてしまっている。そのため考古学者の間には、天皇

陵の伝説はウソではないかという人もいるくらいである。それほど考古学の研究と矛盾すること

が多い。天皇陵の調査を宮内庁が許可し、戸田大和守による修復前の姿を知ることができれば、

むしろ逆に、天皇家の歴史の正しさも証明されるのではないだろうか。

大王の資格

 奈良の西に、うわなべ古墳という濠をめぐらした大きな前方後円墳がある。それは神王朝のつ

ぎ、四世紀の終わりころに成立した奈良王朝のものだ。以前は、ただそうだろうと推測されてい

ただけだが、やがてその正しさを証明する事件が起こった。

 うわなベ古墳の横に、やはり小さな前方後円墳につくられたお供の墓があった。第二次大戦中、

日本の軍隊がその近くにいたため、戦後アメリカ軍が進駐してきた。アメリカ人から見れば、古

墳など意味もわからないし、なんということはない。しかも日本側も指定もなにもしていなかっ

たものだから、アメリカ軍はじゃまだというので、お供の墓のほうをブルドーザーでつぶしてし

まった。すると古墳には死者は埋葬されていず、代わりに表面全体を鉄板でふいてあった。

 鉄板をふくという思想もおかしなものだが、ともかくその板は縦型で、それぞれ長さ二十セン

チ、厚みが1センチぐらいもある。調べてみるとこの鉄の板は、当時、鉄鋌と呼ばれていたもの

だった。そしてその古墳は、前方後円墳だが人を埋めるためではなく、物を入れる古墳だったの

だ。こういう例は珍しいことではなく、銅鏡だけを入れた古墳もあるくらいだが、このばあいは

鉄鋌を入れるためにつくったものだった。

 ところで問題は、いったいなんの役にたつもので、どこから来たのかということだ。

『魏志』の「東夷伝」によると、そのころ、朝鮮から日本へ鉄鋌を鉄の原料として送ったとい

うことが書いてある。よた倭人が朝鮮に来て、鉄鋌をもらって国へ帰ると、それがお金の代わり
に通用していると記されてい
る。歴史的にいっても、ちょうど日本に鉄文化が入るころだ。しかし
この記述を、は
たしてそのまま信じていいものだろうか。

 そこで鉄艇を分析してみると、なかに〇.四%のマンガンが含まれていた。鉄にマソガンが入っ
ているということは、その原
料が酸化鉄である岩鉄の証拠だ。日本の刀剣にはのちに砂鉄が使
われるが、砂鉄は磁
鉄鉱で酸素が少ないからその精錬にはマンガンを使用しない。岩鉄は酸化
鉄だからマンガンを入れて溶解すると、酸素を吸収するので、い
わゆるカスとして酸化マンガンが
上に出る。それを除いたあとが純鉄だが、たいていは鉄鋌のよ
うにマンガンがいくらか残る。
当時の日本はまだ砂鉄しか知られていない時代だから、当然、岩
鉄精錬ができていない。とすれ
ば鉄鋌は、やはり東夷伝の記述どおり朝鮮からの輸入品というこ
とになる。

 そういう貴重な鉄鋌を小さい前方後円墳一面にふいてある。それは、横のうわなべ古墳に埋

っている人が、たいへんな権力者だった証拠ではないだろうか。なぜかというと、鉄は武器の原

料だ。

 したがって古墳の主がそれほど膨大な量の鉄をもっているということは,非常な武力と経済力

の持ち主だったと考えられるからだ。この一事をもってしても「奈良王朝」の存在とその手に

ってつくられた古墳だ、という私たちの推測が証明されたと思う。

 それと同時に、古代の王潮の性格もわかってきたということができる。古代の王朝とは、経済

力のもととして広い水田を支配し、このように鉄という武器の原料を大量にもつことなのであ

る。

 その解明の重要な手がかりになった鉄鋌は、今も残っている。発掘したアメリカ人から見れ

ば、そんな鉄くずなど二束三文の価値しかないから、全部が海外へ出されないで日本の宮内庁に

届けられたのだ。不幸なことに古墳はなくなったが遺物は残り、こうしていろいろな研究に役だ

っている。 
  足の下の日本史  樋口清之





石器時代の暮らし

発明能力は石器時代から

 日本文化は、旧石器時代からはじまったことがわかったが、そのつぎがいわゆる繩文・新石器

時代である。この繩文·新石器文化も以前はわが国独特のものと考えられていたが、最近の研究

でやはり世界の文化とつながっていることがわかってきた。

 これは私の学問的信念であるが、世界の文化というものはどれをとってみても孤立文化は存在

しない、たとえば、南アメリカのインカ文明は、昔から孤立文明だといわれていた。だがそれを

研究してみると、プレ·インカといわれるインカのいちばん古い文化などは、日本の繩文·石器

時代と同じものがつながっている。その上に南太平洋を経てエジプト文明が入ってきてピラミッ

ドや、ミイラをつくったということがわかった。インカばかりではない。日本とかかわり深い中国

文化、その象徴ともいえる漢字のもとは、実にエジプトの象形文字とつながることが証明されて

いる。

 私たちは、地球というのは非常に大きいように思っているが、宇宙から見るとごく小さいもの
ある。
また日本も住んでいると広い気はするけれど、世界全体に比べれば狭いものだ。

 一方、人間の生活圏を考えると、これは古代にいけばいくほど広い。私たち現代に生きる人
間の中には、自分の村しか知らな
かったり、自分の家のなかがすべてだという人がいる。
ところが昔の人は、自然植物
を採集し、動物を捕えて生活していたから、季節的に何百キロも
移動しなければ食
物を手に入れられないばあいがある。日本は狭いからまだましだが、中央
アジアなど
では、千キロ以上の移動を絶えずやっている。したがって騎馬民族になり、馬がたい

へんに発達する。日本は山林が多いし地形が複雑だから馬は発達しないが、古代の人の生
活圏は私たちの想像以上に広かったと
考えられる。

 そうすると、日本の繩文·石器時代は孤立文化でないとすれば、どことどうつながっていたのか。

 孤立文化でないことを証明するいろいろな証拠が発見されているが、その一つに櫛目文土器
というのがある。これは櫛の目を
捺したような文様をもつ土器で、東北アジアというかシベリアか
ら日本に来たもの
だ。その櫛目文土器の一種類が日本で発達して繩目文土器、繩文土器に
なったことがわかった。しかも、いわばその日本化の過程というか
繩文土器成立のしかたが、
また興味深い。

 わが国で繩文土器がつくられたのは、今から一万二千年ほど前である。それより昔は、土器の

ない旧石器時代だ。しかし日本人は、すでにそのころ、前にも書いたように複雑な混血の結果

優秀な体質をもっていた。その能力の一つに、外来物を日本の環境や自分たちの生活に適応
する
ものにすぐ変えてしまう性質がある。

 さて、一万二千年前、大陸から櫛目文土器がやってくると、当時の日本人は自分たちがつくり

やすい櫛目を考えた。大陸の櫛目は、ほんものの櫛をつくって土器の上に点々と並行して捺すだ

けだった。それを日本人は、繩を編んで土器の上をころがす方法を考案したのだ。そうすると

いきなり櫛目文と同じ結果が得られる。それが縄文土器である。それはただ手軽に文様がつけら

れるというだけでなく、もっと深い意味がある。

 繩に編んだひるを、土器がまだやわらかな間に内側へ手を入れ、外側をころがすと、縄と手の

間に圧力が加わって土のなかに入っている空気が出る。空気を出さないま士焼くと、土器は爆発

する。その意味から、胎土を固めるため手で押せばよいが、それをやると手にくっつく。ころが

すとくっつかないということから、ローラーをつくった。これは日本人の発想転換だ。一万二千

年前にしたこの発明にみられる発想転換が,以後の日本人のいわば宿命になる。つまり、ヒント

が一つあると、原ヒントとは違ったものをつくってしまうのだ。 ずっと後の事だが、天文年間
(一五三二~五五)に時計が日本に入ってくる。その時計は徳川家康が使って今も残っているが、
ゼンマイ仕掛けである。ところがそれを見た日本人は、すぐに分銅式の和時計をつくる。上から
分銅をぶらさげて、その重量によって針が回っていく「櫓時計(やぐら)」というのを発明するのだ。
現代では、自動車でも世界一のものをつくっている。また精密械類も同様だし、なかでも光学器
機は世界の水準を超えている。こうした能力は、すでに石器時代において証明されていたので
ある。

 そういうふうに、地下に埋まった遺物から繩文.石器時代の研究を進めていくと,従来はっき

りしなかった問題がいくつも解決されてきた。

石器時代人は健康優良人

 日本の繩文·石器時代は、早期、前期、中期、後期、晩期と大別されるが、その文化がいちば

ん栄えるのは中期で、約四、五千年前である。前期まではもちろん人口も少ないし、文化も盛ん

でないことは当然だ。それが中期になると人口が爆発的にふえ、遺跡の数もたいへんにふえてく

る。

 最近、繩文·石器時代の人口を研究したものがあるが、かりに前期を二万人足らずとすると中

期には二十万人になり、後期になるとまたその半分くらいに減るという。おかしいことだが人口

の増減は食糧生産量といつも関係していて、日本は中期のころが、自然食糧のいちばん多い基本

周期に当たるからだ。しかもそのころ、信州から甲州、飛驒といった山のほうが人口もふえ、文

化も進む。従来これは、非常に不思議なことだと思われていた。なぜかというと、人間の生存と

健康に欠かせない食塩をどうして手に入れたか、という疑問があったからだ。

 山に人が住み文化が進んだというのは、当然,保存食糧であるデンプン食の原料がふえたこと

である。おそらくヤマノイモや葛根の自生地帯が広がり、ドングリやカシなどの木の実がたくさんと
れたということだろう。それはいいのだが、
野生食物ばかり食べていると、実はカリウム過剰を
起こしてしまう。最近でもよく自然の草などを食べて健康食だという人がいるが、偏りすぎ
ると
肝臓や膵臓をやられる危険がある。それを中和するのはナトリウムだ。ナトリウムというの

はいろいろな状態であるが, いちばん豊富に存在するのは塩化ナトリウム、簡単にいえば海の塩
である。海水中の塩化ナトリウムを
結晶させれば食塩ができる。食塩は運搬が可能だ。

 では山に住んだ縄文·石器時代中期の人々が海岸地方から塩を運んだのか、といってもその
証拠が
なかった。信州や飛騨あたりから出土する土器と同じものが、海岸からは出てこない。
海岸
との交易があったという証明が、ゼロとはいえないが非常に希薄だ。

 そこでしかたなくヌルデという植物から食塩をとったのだろうと考えられていた。ヌルでは

漆科の植物で秋になると黒い実がなるが,その外側に塩をふく。これはほんとうの塩化ナーウ

ムで,山伏などはそれを水で洗い修行のときに飲む。だが古代の人々のばあいは山に定住してい

るわけだから、とてもそんなもの程度では一年間補うことはできない。

 それでは、動物の内臓からとったのではないか、という考え方もされた。動物の内臓には
ナトリウムがかなりの量含まれてい
るので、それを食べていたから生命が維持された、とする。

 しかし、発掘された当時の人骨を見ると、短命ではあるがどれも実に健康そのものなのだ。
健康であるということは、カリ
ウムとナトリウムのバランスがとれている、ビタミンのバランスも
とれている、つ
まり食糧のバランスが完全にとれたばあいに起こる現象といえる。すると、
ヌルデや
内臓食くらいの食塩量では、とても健康の秘密の説明がつかない。

 ところが最近、山地の繩文·石器時代中期の遺跡から出た土器を調べたところ、たいへんなこ

とが発見された。土器はがさがさしたもので、水をよく吸いこむ性質がある。そこで土器を洗う

とき、気をつけて泥を残したままにしておき、内側の部分をはがして精密検査したところ、なん

と塩化ナトリウムの結晶が出てきた。いいかえれば石器時代、四、五千年前の日本人が、海の塩

を食塩という形にして、信州や录驒の山の上へ運んでいるのだ。それが当然で、そうでなければ

あれほどの文化は栄えるはずがない。

 学問というものは、証明できないことを断定するわけ

にはいかない。そのため、これまでは

「かもしれん」とか「あるかもしれん」と、ただ想像していただけだった。そこへ、はっきり断

定できる証拠が見つかったわけである。この一例でもわかるように最近は、地下にあるものの調

査や、生活の内容の研究とか復元がいっそう緻密になったといえるだろう。

神々と風俗の成りたち

 前にも少し触れたが、石器時代の人々は信仰をもっていた。信仰というものは古代の人ほど強

いが、その痕跡はだいたい残さないものだ。宮殿をつくるとか、神様でも像に彫ったりすると残

るが、石器時代の遺跡からはせいぜい呪術の小さい土偶(土の人形)や土板(板に人間らしき形

を彫ったもの)しか出てこない。

 それが最近秋田県を中心とするやはり中部日本の研究によって、新しい事実がわかってき

た。石器時代の昔から人々は、石を立て、その周囲に石を円形に集めて、神様の宿る目標として

拝む信仰があったのだ。これは、広義の巨石崇拝といわれるものである。

 のちになって興る日本の古代神道も、巨石崇拝だ。磐座、磐境といって、石を拝む信仰の発育
したものが多い。今の伊勢神宮
でさえ、前のところに磐座が立っている。

そこでおはらいをしてから、神主はお祭りをするくらいである。それから奈良県にある日本のいちば
ん古い神社、大神神社も山
の上に磐座が祀られている。それが日本の古い神道の形で、石が
神聖であり、そこに
神様は宿るものだと考えられてきた。その信仰、いわゆる神道の原点が石器
時代にある。

 従来の学者は、石器時代の記録はないし、あんな古いころにはアイヌのような人々が住んでい

て(石器時代人=アイヌ説のこと)、日本の神道は天孫降臨から始ったと考えていた。つまり石器

時代の精神生活とは断絶がある、石器時代と日本の民族信仰は関係がないといわれていた。
それ
はとんでもないまちがいで、日本の民族信仰のもとはやはり石器時代にあり、その磐座信仰
がのちに、今のりっぱな神社になっ
ていくことが証明された。

 精神生活のいちばん基本の性格がつながっているということは、文化のなかでちばん決定的な
体質と並行することだ。私
たちは着物とか食べ物、住まいの形とかは、そのときどきの流行によっ
ていくらで
も変えられる。しかし、信仰の基本の形がずっと一貫しているということは、大きな意味
がある。それは、ときには人種タイ
プまで一貫していることの証明になるかと思う。

 すでに説明したように日本人の信仰は、石器時代から、のちの神道信仰的な性格をもっている。
それは石そのものを神様とするのではなく、石に神様の霊魂が宿ると思う信仰だ。

今日の宗教学では、シャーマニズム(神がかり信仰)と呼ぶものである。その神がかり的シャー

マニズム信仰がまず石器時代からあって、のちに農耕社会になると、農業神に中心が移る。そし

て、東南アジアから来た農業神的な性格に、シャーマニズムが変わっていく今の伊勢神宮も、

それを崇拝する天皇家も、農耕シャーマニズム信仰だ。これが日本民族の民族性というか、精神

性のいちばん中心をつくっている。
 こう考えてくると、
石器時代というのは、やはり私たちの祖父の文化であることが理解できるので
ある。

 信仰ばかりでなく生活習俗の面にも、それを証明するいろいろなものが発見されている。石器

時代の生活習俗には、小さな部分だが南方的要素が非常に多い。その一つに刺青がある。さら

に、歯をわざと欠いたり傷つけたりする風習。耳に穴をあけてイヤリングを差しこむ風習。この

ように肉体を傷つける風習は全部,熱帯系のならわしで、東南アジアから太平洋圏に広がってい

るものだ。それから石器時代の人々は、顔を赤く塗っている。まだ白粉などはなく、赤があるだ

けだ。赤に対する信仰も熱帯系の風習である。とすれば日本の石器時代の表装、つまり人間の
面を飾る信仰あるいは文化は、南方的だということができるだろう。

 ところが一方、住まい、家のほうは、不思議なことに北方的だ。石器時代の家をいろいろ研究

し復元してみると、浅いタテ穴の上に円錐形のからかさを伏せたような形の屋根をのせてある。
それは、現在でもアメリカイン
ディアンがもっている家と同じ形だ。同様な家屋は、かつてシベリア
地域をはじめ蒙
古人や満州人がもっていた。蒙古人などは今でも「蒙古パオ」というテントをもち、

住んでいるものも多い。

 反対に東南アジアの家屋は、伊勢神宮のような床の高い建物だ。日本では、石器時代は北方
的で、農耕社会になると床が高く
なってしまう。つまり、そこで家屋が入れ替わった。しかし日本
文化のなかには、い
つまでも北方圏的な性格を残しながら、南方的なものと重複させてしまうと
ころがあ
る。それは家屋にもいえることで、その証明が日本農家に土間があるということだ。

 農家に入るとまず土間があって、そのすみに炊事場がある。また土間には作業場があって、雨

が降ったり寒かったりすればそこで仕事をする これは石器時代の、タテ穴住居の床が残ったも

のである。

 南方系の高床は、座敷として受けつがれている。横に板を張って、そこに人が寝たりする場所が
つくられた。このように南北両系の家屋が、日本の農家になったということができる。

 ただ、外から見える上屋の、屋根の形だけは東南アジア系の切妻とか入母屋だ。見えるところは
いつも変わるが、なかの基本は変わらない。

現代の都会の家屋には、その必要性がなくなったことから土間は消えたが、農家には依然とし

て残っている。南北二つを合体させた土間付きの高床住居。それが日本家屋の原体である。

 このようにその生活の一部を分析した結果でもわかるとおり、日本人は石器時代から、いつも

南方的なものと北方的なものを重複させながら、違うものを生み出している Aが優勢、Bが優

勢というのではなく、双方を加わえてどちらでもない第三の価値をもつ、Cをつくる。これはた

だのものまねではない。新しい価値の再生産である。

 よく「日本文化はラッキョウ文化だ、タマネギ文化だ。皮をむいていくと芯がない」などという人がいる。
それは大きなまちがいだ。

タマネギやラッキョウは一枚ずつ皮がついているだけだが、日本文化は融合して、はげない文化である。

 そういう意味において、もう石器時代からその文化の性格が出ているということは、たいへん興味深い。
またそれを解き明かしてくれる石器時代文化の発掘の進歩は、このうえなく喜ばしいことである。 
  足の下の日本史  樋口清之





石上池溝(いそのかみのなうて)

 最近は、古代遺跡が各地でつぎつぎに発見されている。これはやはり現場の研究者はもちろん、一般の
人にも知識が広がっ
て、掘るということの意味や目的をよく理解して、みんなが注意してくれるようにな
たからだと思う。その意味で、日本の考
古学の夜明けの時代からたずさわってきた者として、たいへんうれし
いことである。

 たとえば、つい最近奈良県で「石上池溝」という大きな遺跡が発見された。天理大学構内で布留遺跡調査
団の発見である。ふつ
うは遺跡の規模があまり大きすぎると、見つからないものである。こんどのばあいは

東北から西南に一〇〇メートルほど掘ったがその延長はもっと西南の香久山付近、すなわち飛鳥地方にま
でつづくらしい運河で
幅は上部で一〇~一五メートル、底部で六メートル、深さ三~四メートルもあった。ちょ
うど私
が戦後発見した相模国分寺の運河とよく似ている。それを見つけたということは、発掘の関係者みん
なが『日本書紀』に書いてある石上池溝についての予備知識をもっていたからだろう。

 日本書紀には、斉明天皇が石上というところから飛鳥まで石を運んでくるため、堤防をつくり運河を掘らせた
話がある。

 古代に巨石を運ぶのは一般に水上運搬法だから、私は、石上池溝は天理市の石上から石を持ってきたと
きの堤防だと思い、著書の『古代産業史』にも、くわしく書いた。その証拠に、飛鳥地
方には天理市の石上神宮
付近の石が、たくさんきているのである。

 ところが、私以外の古典学者は全部、その説に反対していた。石上池溝は石を運ぶためのものでなく、
飛鳥寺の西北に石上(いま石神と書く)という小さな地名があるが、そこに堤防をつく
った話だ、という。

 石上池溝遺跡が発掘された結果、やはり私の説が正しかった。天理で発掘をやっている中には私どもの
研究室を出た人もいる。まさか別に私の説を証明しようとは思っていなかったのだろう
が、私がかつて彼に話し
たその知識があったから、もしかしたら石上池溝が存在するかもしれな
いとは考えていただろう。それがあった
のだ。当然のことで、当時の国家を傾けた大事業だか
ら、もしないものならば、日本書紀に書くはずがない。
その日本書紀にはひどいことが書いてあ
る。この運河の条に「水工ヲシテ渠穿ラシメ、香山ノ西ヨリ石上山ニ至
ル、舟に二百隻ヲ以テ石上
山ノ石ヲ載ミテ、流ノ順ニ宮ノ東ニ山ニ控引キ、石ヲ累ネテ垣ト為ス、時ノ人謗リテ
狂心渠
ト日フ。功夫ヲ損費フコト三万餘」というのである。クワフレゴコロ (狂心)の渠と言うのだから、気狂い溝
とでも言う異常な大工事を言っているのである。とにかく斉明天皇の評判は日本書
紀ではえらく悪いが、その
中心にこの運河が入っている。

 とにかく、斉明天皇は、石上池溝をつくったため国の財政を乱したと、たいへん悪口をいわれている。これだけ
の大きい規模であれば、相当な資金と労力を費やしたであろう。そのために人
民が疲弊したのである。

それくらいのものを掘ったのだろうと思う。

 遺跡は、わたしが想像していた規模と、ほぼ同じものが出てきた。だが,不幸にしてこれが私の発見だったら
他人は信用しなかったかもしれない。あいつは「ある、ある」とふだんからいってい
たから、自分でつくったのでは
ないか、ぐらいいわれるかも知れない。おかげで発見したのが第
三者なので、学界の信用を十分得ることがで
きた。

 このような発見がふえたのは、一般の知識水準があがったことと、一つ、全体の経済力がついてきたからだと
思う。


   足の下の日本史  樋口清之





万葉集 見れど飽かぬ

  見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑の絶ゆることなく また還り見む

                       柿本人麻呂巻一 三七番歌

 見あきることとてない吉野、その川の滑らかさが永遠であるように、

   いつまでも絶えることなく、くり返し見よう。


 柿本人麻呂吉野行幸にお供した際に詠んだ歌です。この歌は持統天皇代の部分に収録されて

おり、持統天皇は吉野へ三十回以上も行幸した記録が『日本書紀』にあるため、持統天皇の吉野行幸の時の作

であると考えられています。左注では『日本書紀』から持統三・四・,五年の計六回の行幸の記事を指摘します

が、どの時の作かは不明であるとしています。

 人麻呂は、吉野行幸時の歌を二組の作品に残しており(巻一 ·三六~三九番歌)、今回の歌は一組目の長歌の反

歌です。長歌では、天皇が統治する天下の中でも吉野の山川は清らかであり、天皇はそこに立派な宮殿をお造り

になり、臣下たちは朝夕に川で船遊びを楽しんでいる、その吉野の宮殿(滝の宮)はいつまでも見飽きないことだと

詠まれています。宮殿をほめることは、その主である天皇への讃美となります。続いて詠まれた反歌(今回の歌)で

は、「見る」ことがくり返し詠まれています。これは、「見る」ことによる呪的な力により、吉野の素晴らしい自然を讃美

し、そこに築かれた離宮と天皇の御代が末永く続くことを願う内容です。それは人麻呂個人の心情というよりも

この行幸に参加した人びとの思いの代弁であったと思われます。

 吉野の山や川が取り立てて詠まれるのは儒教の「山水仁知」の思想によるものと考えられています。山水の地

を遊覧することは、儒教的な徳を身に付けることであるという思想です。さらに吉野は、老荘思想により神仙境に

見立てられた場所でもありました。持統天皇の度重なる吉野行幸の理由についてはさまざまな説がありますが、神

仙境である吉野を訪れることで、神仙の不老長寿の力を得ようとしたのではないかとも考えられています。

持統天皇や人麻呂などの万葉歌人たちが訪れた吉野の地。

(県民だより 奈良 2019-3月号 本文万葉文化館大谷歩)

 

吉野の鮎

 天智十年(六七一)十月二十日、吉野の離宮(奈良県吉野町宮滝付近とする説が強い)に入った大海
皇子は近江京から自分にしたがってきた舎人たちをあつめていった。

「わたしは仏道の修行にはいる。ともに仏道に入ろうとする者はここにとどまれ。

出世しようと思う者は遠慮なく近江にかえるがよい」

 皇子からはなれる者はなかった。大海人皇子がふたたび舎人をあつめて同じことをいうと、こんど

は半数が近江朝廷に帰り、半数は残った。

 大海人皇子はひたすら近江からの疑念を解くことにつとめる。かれの胸中からは異母兄古人皇子

先例が去らなかったであろう。古人皇子(舒明天皇の子。母は蘇我馬子の娘法提郎媛)は蘇我入鹿
中大兄皇子(天智)に暗殺されたあと、皇位を辞して僧となりこの吉野にひっこんだが、その翌年には早く
も謀反を図ったという罪で中大兄のさしむけた兵に殺されている(六四五)。中大兄皇子にとって自分の
即位のためには異母兄の古人皇子が邪魔だった。
 当時、吉野の古人皇子には手勢がなかった。いまの大海人にも手兵がいない。近江から随行してきた
舎人の半分が近江にもどったとすれば、まわりにいるのは十人そこそこであったろう。ハダカ同然である。
近江方に攻めてこられたら、これはひとたまりもない。
 二ヵ月後に兄天智天皇が近江で死去した。大海人はこの訃報に胸をなでおろしたにちがいない。当

の危機は去ったとみたろう。もっとも恐ろしい対手はこの世にいなくなった。近江では天皇の死去
によって
当分はそのあとの処理にごたごたする。吉野へ攻めてくる懸念がなくなったわけではない
が、延期になる
ことはたしかである。

 危機がのびたというだけで、ゆだんはできず、吉野の大海人はひたすら仏道にはげみ、異心のないこと
を近江に示す。謹慎と恭順の生活である。

 ときに、童謡(わざうた)は曰う。

   み吉野の 吉野の鮎 鮎こそは

   島傍(しまへ)も良き え苦しゑ 水葱(なぎ)の下
    芹の下  吾は苦しゑ 
   
(鮎こそは吉野川の水の清い島辺に住んでいてよいだろうが、吾は沼田の水葱や芹のもとを這いま
    わって苦しい)

 もとは農民の生活苦をあらわす歌であったにちがいない。それを書紀がここでとりあげたのは、

「吾」を大海人にあてはめて諷したのであろう。鮎は吉野の島辺に住むのもよいかもしれないが、自分
(大海人皇子)は吉野にいて苦しい、
となる。

 そうだとすれば、吉野にこもって、近江の討手におびえる大海人の、息ぐるしい暮らしがあらわれている
ことになろう。

 もし、この想像どおりとするなら、大海人の「怖れ」には「早合点」があったと思う。

 古人皇子や有間皇子が殺されたのは中大兄(天智)が精気潑溂としていた時期だ。かれの最盛期であり、
行動力のもっとも充実していたときである。だが大海人が吉野に退隠したとき、その天智は垂死の病床に
あった。両皇子が殺された先例とは条件が違うのである。

 病篤い天智天皇には、わが子大友の皇位継承の大障害になる大海人を吉野に討滅するだけの気力は
すでになかった。意欲はあっても行動力がなかった。

 天皇は、 おそらく大海人がなによりも手ごわい人物であるのを知っていたろう。ながいことじぶんのそば
におき、あるいは補佐役として、
あるいは皇太子として、この弟の実力がじゅうぶんにわかっている。

  もし大海人を攻撃するなら、じぶんみずから兵を率いて行くか、後方で全軍の総指揮をとるくらい

でないと不可能だと天智は思っていたろう。この弟は近江方が出動したばあい、手をこまねいて待つ

ているような人間ではない。かならずやほかの地方に奔走して、そこで自己の勢力を組織し、挑戦し

てくるだろう。それに、いまこそ近江朝廷は諸臣が心をあわせているようにみえるが、じぶん(天智)

が死んだのちはどうなるかわからぬ。部内の抗争と、地方豪族の動向しだいでは、内戦に発展しそう

な材料もある。朝鮮では唐が高句麗をほろぼしたあと、新羅は高句麗の残兵をあつめて唐の駐留軍を

攻めさせ、かつ百済をねらっている(新羅が百済の故地熊津を併吞したのはその翌年)。こういう内外の
情勢が
不安なときに、うかつに大海人を攻めて火傷をしてはならぬ。

 「吉野の大海人には監視するだけで、手をつけるな。いまは、ひたすら継嗣に定まった大友皇子を五重臣
(左右大臣·御史大夫)がもりたて、じぶんの死後、天皇となる大友をたすけて政府機構をかため
大海人を攻
めるのはそのあとでよい」――

 死に直面した天智の気もちを想像すれば、こういうことだったのではなかろうか。

 書紀は近江朝廷側のことはなにも書かない。書かない理由は後述する。だが、右のカギ内のような
意味の遺言を、天智はひそかにいったかもしれないのである。

とすれば、大海人が近江をしきりとおそれだという書紀の記事は、いささか「早合点にすぎる」ともいえ
そうである。

 しかし、書紀にある吉野の大海人の様子がホンモノであったかどうかわからない。次につづく記述

もまた眉ツバものとわたしは思う。

 天智が死んだ翌年の五月、朴井雄君(朴井連雄君だが、連はあとからもらった身分称号なので省く。
以下同じ)と
いう舎人が大海人にいった。

「わたしは私事でひとりで美濃に参りました。そこで聞いた話ですが、朝廷では美濃·尾張両国の国

司に、先帝(天智)の山陵を造るので、そのための人夫をさし出せ、と命じて、人夫をあつめ、各自に

兵器をもたせているということです。これは山陵をつくるのではなく、かならず吉野を攻めるために

朝廷が軍隊を編制したのだと思います。はやくここを立ち退かれないと危のうございます」

 また、別の情報も大海人にとどいた。

「近江から大和にいたる通路の要所要所に監視人をおき、また菟道の橋(宇治橋)守りに命じて、吉野

に食糧をはこぶのを禁じております」

 近江朝廷が、天智の陵を造営するためと称して美濃,尾張の国司に人夫をあつめさせて兵器をもたせ、

また近江と大和の国境にあたる菟道の橋を警固させ吉野方への食糧輸送を遮断しているとの二つの
情報を聞いた大海人皇子は、事の真偽を知るため、
あらためて偵察させたところ、事実とわかった。

 そこで大海人は舎人たちにいった。「わたしが皇位を大友皇子にゆずり、ここに遁世しているわけ

は、ひとり病を養い、身をまっとうして、しずかに余生をおくるためである。今、その志とちがい、禍いを
うけようとしている。どうして身がほろびるのをここでむざむざと黙って待っていられよう
か。もう我慢が
できないよ」

 ――書紀はそう書く。しかし、これは大海人側の都合のいいぶんをそのまま記述したものだ。わたしは、

これを大海人がたの挙兵の口実としてつくられたものと思う。

 大海人の挙兵は、たんなる私闘ではない。その底には皇位の簒奪(天皇の位を奪い取ること)という
重大
決意がひそんでいる。となれば大海人は乱臣賊子の大謀反人である。

 むろん、そう決めるためには天智の死後、大友皇子が天皇の位についたかどうかを見なければなら

ない。結論からさきにいうと、大友はやはり即位したとわたしは考える。なかには、大友は即位式を

あげていないから天皇ではないと唱える学者がある。百歩ゆずって、かりにそうであっても、即位の

礼は儀式であって、いわば形式的なものだ。天皇の死後、ただちに皇太子が皇位を継ぐことは多い。

これがのちの制度にいう践祚である。践祚してから適当な時日をおいて即位式がおこなわれる。

死床の天智があれほど五重臣に大友皇子のことをたのんで誓わせたのだし、しかも大海人皇子は皇

太子の位を返上している。皇位継承の資格をみずから捨てて吉野山に去っているのだ。太政大臣大友

皇子が天智の死後、天皇になっていないわけはない。おそらく大海人皇子が吉野に去った直後には

すでに大友皇子は皇太子になっていたであろう。

 そのくわしいことはあとで書くが、一つだけ論拠をあげる。

 書紀は壬申の乱を記すのに、大海人皇子を「天皇」と書いている。むろん、大海人はまだ即位して

いない。即位していないのにのちの時点に擬して天皇と書くのは、この乱を「天武天皇即位前紀」に

入れているためである。しかし、それまでの各天皇の即位前紀に「天皇」や「皇后」と書いた例は、

伝承の天皇以外にはないのである。いずれも太子·皇子あるいは皇女の名になっている。
即位しての
ち、はじめて文字を天皇·皇后にあらためている。

 このことは、書紀が天智の死後、ただちに大海人を「天武天皇」にしてしまう既成事実づくりの意図を
示す。天武天皇が天皇になったことの造作に合わせて鸕野皇女も「皇后」にしている。それは大
海人
が大友「天皇」の皇位を武力で奪い取った行為を書紀が隠蔽するためのものであり、同様な理由
で、
大海人の挙兵が「近江方に攻められるのを黙って待つこともできず、やむなく起った」という
「詔」の
口実に作られたのである。攻撃側が、防御のためにやむなく敵と戦った、という言葉は、近
代の国家間
の戦争にも見られることである。

 壬申の乱では、東国の兵を味方につけるかどうかが勝敗の分かれ目であったといえる。大海人皇子

方も近江朝廷も東国兵の援助を求めたが、つねに先手をとっていた大海人方に近江朝廷方はおくれ

た。あとで述べるように、大海人方に不破関で阻まれた近江朝廷は、東国からの援軍が望めず、これ

が敗戦につながった。

 東国人の質素な生活,中央の文化に遠い単純性、そのきびしい自然条件のもとでの耐久力、乗馬を

よくし騎馬戰術にすぐれていること、部族内の団結心が強いこと、それゆえに中央がかれらの戦闘力

援助が必要だったことなど、たとえスケールは違っていても、中国の北方胡族に共通するものがある。

 さて尾張·美濃の情勢を大海人につたえた朴井雄君(えいのきみ・小君)は私用でひとり美濃に行って
きた。かれ
はその地の豪族子弟であろう。国にかえって家をつげば豪族の当主だ。美濃には朴(ほう)
の樹が多いから朴
井の姓もそこからきたのかもしれない。近江朝廷が尾張·美濃の国司に命じて天智
の山陵をつくるた
めと称して人夫を徴発させ、これに兵器をもたせている、という噂も、書紀が大海人
挙兵の口実に書
いたのであって、事実ではあるまい。

 それほど近江方が攻撃態勢に積極的だったと思えないのは、以後の戦闘経過をみてもわかる。
近江
方は終始守勢に立ち、後手後手とまわっているのだ。

 ついでだが、人夫に兵器をもたせるとすぐに軍隊になるように書いてある歴史書もあるが、説明不足
か事実誤認であろう。
 

 山陵の築造は,設計にしたがって多数の人夫をつかって土運びと土盛りをさせるが、これはたんに徴発
した人民を上から指揮しただけでできるものではない。それだけでは烏合の衆
にひとしい。
いくらかりだされた奴隷的人民でもそんな状況ではろくに統制がとれない。だいいち、当時、専門の常備
兵があったかどうか問題だが、部族の首長らはそれぞれ部民に民兵的な訓練を強制していたと思われ
る。

 たとえ強制労働でも、かり集めた人民を大隊·中隊·小隊といったような単位編制にしなければできる
ことではない。つまり諸部族の族長(王)がもっているそれぞれの半常備的な兵が大族長に提供さ
れ、
それが土木工事に転用されたのである。したがってそれぞれの持ち場の現場監督や人夫頭といっ
た役は、
各部族の族長であり、その下の幹部であり、かれらが戦闘編制時の各級の隊長であったろ
う。この伝統
は七世紀になっても地方豪族にみられた。

 地方豪族がそれぞれ半常備的な兵団をもっていたことは壬申の乱の経過をみても明瞭だ。地方豪族

は朝廷から命じられて、この「軍隊」を山陵築造の人夫として提供したのであって、単純に農民を徵発した
のではない。かれらは日常は農耕にしたがっているが、動員を命じられると、いつでも兵士と
なり軍隊に
編制されるだけの訓練と組織とがあった。後世の屯田兵の性格がこれに近かろうか。兵士
に徴用される
のを徭役という。この徭役は、巨大な墳墓の築造にも従事させられた。これも軍隊的編
制で統率されてい
たろう。だから「山陵を造るための人夫に兵器をもたせている」という朴井雄君の
報告記事から、人夫に
兵器をもたせさえすれば、かんたんに兵団になるかのように書かれている一般
の歴史書は説明が十分
でない。

 ところで、朴井雄君が、「私用によって単身美濃に行った」という書紀の記事もまことに奇妙である。
大海人の身辺があぶないとき、警護のてうすな吉野から有
力な舎人が一人でも「私用」ではなれるという
ことはまず考えられない。また、雄君の「私用」の内
容もはっきりしないのである。

 かれの「私用旅行」も「尾張·美濃で山陵造りと称して吉野方を襲う兵力をあつめている」という「情報」が
大海人の耳に達したとする手つづきとして書紀がつくりあげたのである。こうしないと大
海人が、やむをえ
ず決起したというかっこうにならないからである 菟道橋で吉野への食糧運びを
近江朝廷方が禁じた」とい
う情報にいたっては、書紀は「或は人有りて(大海人皇子に)奏す」とあるだ
けで、だれがそう告げたのか
はっきりしない。あいまいなのは当然で、これも書紀の造作にちがいない。
 要するに、
あれもこれも大海人の皇位篡奪の行動を
隠し、その目的のための決起(じつは反逆)をごまかし、正当化
するために書紀が創作したにすぎない。吉野の大海人は近江方に先制攻撃をかける準
備をひそかにすす
めていたのである。

 朴井雄君の美濃の「私用旅行」はさきにふれたように、吉野方決起のさいにそれに呼応するようその地方
の組織工作をするにあった。彼はもともと美濃の豪族の子弟だから、その「根まわし」にはう
ってつけであっ
たろう。そこで、かれの旅行にひっかけて「近江朝廷方が美濃,尾張で人夫に兵器を
持たせている」という
デマ情報になったのであろう。 ここまでの書紀の記述は、造作が多いが、これから少しあとの戦闘段階に
入るとその記事に信用度
が増してくる。あとにみるように、吉野方の舎人や従軍した者のなかにこくめいに
手記などをつけたのがあり、それらが部分的に資料となっている。そのため、ある部分の記事はたいそう
具体的で写実
的になっている。

 六月二十二日(天武称制元年. 六七二)大海人は、村国男依,和珥部君手,身毛君広の三人の舎人をそぱ
に呼んで、行動開始の秘策をさずけた。

 「近江朝廷の臣らは、われを殺害しようと謀っていると聞く。おまえら三人は早く美濃国に行って、安心磨郡
の湯沐令多臣品治にこの由を告げ、計略を示して、まずその郡の兵を召集させよ。なお、国司らを経て諸軍
を徴発し、すみやかに不破道をふさげ。われはいまより吉野を出発する」

 これが書紀の記す大海人の戦略第一歩だ。

 安八磨郡は現在の安八郡と海津郡の一部だという。つまり岐阜県の西南部にあたる。その大半は大

垣市·羽島市をふくむ揖斐川と長良川中流域のデルタ地帯になる。大垣から西十数言が不破関で、

不破道とは、近江と美濃·尾張とを通ずる道路だ。だいたいいまの東海道線に沿うとみてよい。不破

関はのちの関ヶ原付近で、関ヶ原の関の名もこれからおこっている。まず、不破関を扼して、近江方

と東国との連絡路を断とうという寸法である。

 湯沐邑とは中宮(皇后、阜太后-東宮室太子)の沐浴(風呂)の費用という名目で生活費などにあてる

課税地。湯渣は中国の制度をまねたもので『史記』に出ている0,湯姿はその徴税の役人である。

美濃の湯沐は東宮大海人皇子の食封だった。食封というのは、皇族·高官·社寺などに与えられる一

種の封禄制度で、一定地域の郷戸を封戸に指定して、その租の半分と庸·調のすべて、および仕丁を

支給したもの。大化改新で私地私民を廃した代償として大夫以上に支給したのがはじまりである。近

世の采地に似ている。


  壬申の乱  松本清張





稲荷山古墳の鉄剣

 ここで昭和五十三年九月中旬から学界とマスコミとを賑わせた、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘にふれ
ないわけにはゆかない。これは壬申の乱における「東国」の問題に関係があるからだ。

 この古墳は十年前に発掘されたが、鉄剣の錆落としを七月にやっているとき、金の光るのに気づき、

九月十一日に元興寺の文化財研究所でレントゲンで調べてみて、百十五個の文字が浮んできた。

 解読は、奈良国立文化財研究所が依頼をうけて当ったが(岸俊男氏はその1人)、九月十九日第一回の発

表文では次のようになっている。

 辛亥の年七月中記す。オノワケノオミ上つ祖の名、オオピコ、その児の多(名か)カリノスクネ、その児の名、

テイカリノワケ、その児の名、タカシジ?ワケ、その児の名、タカサキワケ、その児の名、ハテイ。

 その児のタ(名か)、カサヒヨ、その児の名、オノワケノオミ、世々杖刀人の首と為して奉事来(つかえたて

まつり)今に至る。ワカタケル大王寺(「など」または「やかた」)シキの宮に在る時、吾天下を佐治し此の百練の
刀を令作(つくらしめ)、吾記す。奉事するは□□也。

 国文学者大野晋氏は、これに多少訂正を加えた解読をし、右の人名を「タカリスクネ、テヨカリワケ、
タカハシワケ、タサキワケ、ハテヒ、カサハヤ、ヲワケの臣」と解した。最後の剝落二字を推測
で埋め「吾が事
(つか)へ奉る根源(?)を記す也」とした。

 現在のところ諸学者の一致した意見は、ワカタケル大王は雄略天皇(大泊瀬幼武天皇 紀])にあたるという
のである。

 一文の意味は、稲荷山古墳の被葬者(鉄剣の所持者)である武蔵の豪族オノワケノオミが雄略天皇
「杖刀人」(警固隊か. 「門番」とも解されている)として奉仕したのを栄誉に思い、オオピコ以下先祖代々の

名を鉄剣に金象嵌して誇ったというのである。

 この解読には疑問もある。第一に、ワカタケルは「勇ましい若者」または「青年」という普通名詞であって、
この上にハッセが付いてはじめて雄略という固有名詞になる。しかし、学者のなかには
「大王」は天皇のこと
だから、
ハッセが付いてなくても雄略のことに間違いないと言うものもある。

 けれども「大王」はたんに「王の敬称」という東洋史学者宮崎市定氏の説がある。

 氏はその「天皇なる称号の由来について」(『思想』一九七八年四月号)の中で、国語辞典には「大王」は

「①王の敬称、②親王の称」とあって、「近時の学者が考えているような、王の上に立つ王、王中の王という
ような解釈は何処にも見当らない。国語においても大王は、わが君、わが殿と、貴人を尊んで
いう敬称に過
ぎなかったのである」といい、隅田八幡宮蔵の画像鏡銘文中にある「大王」について
も、「これも大王を単なる
王位の者に対する敬称と読む方が自然であり、無理にこれを歴代の天皇中
の一方に宛てはめて、その称号
とする必要はない」と述べている。

 そういえば、聖徳太子も「大王」といわれ(天寿国繍帳の銘)、その長子山背大兄王も「尻大王」(法王帝説)と
いわれた。また書紀の天武元年六月条(壬申の乱前紀)では、高坂王·稚狭王の王をそれぞれ「お
ほきみ」と
訓ませている。高坂王も稚狭王(わかさ)も皇族ではなく、その系譜さえわからない小豪族である。

 額田王にしても、その「王」を「おほきみ」とよむのは、彼女が大海人皇子の妃からのち天智天皇

の妃となり、生んだ子十市皇女大友皇子の妃となったとくべつな履歴による敬称ではあるまいか。

 部族の首長(豪族)は部族民にキミと呼ばれ、漢字ではそれを「王」と書くが、それにさらに敬称をつけて
オオキミとよんだのであろう。それが漢字になると「大王」だが、「王」と書いてオオキミと
言う訓はその常習から
きたのであろう。

 岸俊男氏は、東は武蔵(稲荷山古墳)、西は肥後(江田船山古墳)からワカタケル大王と書いた剣と刀が出

ていることは、「ワカタケル大王というのを、中央のワカタケル大王に、つまり大和朝廷の雄略に当ててもいい、
そういうことになってくるのではないか」(「シンポジウム·鉄剣の謎と古代日本」の中での発言
といっているが、
蔵にも肥後にもそれぞれのワカタケル大王(若い首長)がいたという解釈もできる。東西両方の畿内より遠く
はなれた僻地にワカタケル大王の名が遺っていたからといって、上記のようにそれがただちに
中央に結び
つくとはかぎらない。シキの宮にしても埼玉県には志木という旧い地名もあるのである。

 ワカタケル大王の鉄剣と刀の銘にあったことから、五世紀の半ばには大和政権の勢力が東国にも西国にも
及んでいたと考える論者は、倭の五王の一人である「武」が中国南朝に出した上表文中の「昔より祖禰躬
(そでいみづか)ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。東は
毛人を征すること五十五国、
西は衆夷を服すること六十六国」が、通説の誇張ではなく、史実として
証明されたという。

 鉄剣銘の片々たる文字によって五世紀のヴェールが剥がれたとする古代史学も「厚かましい」

(前のシンポジウムでの岸氏発言)といえるが、井上光貞氏などは、右のように五世紀代における大和政権の
東西伸長
を強く信じているようである。

 わたしはこれに疑問があるので(疑問の一端は芸術新潮昭和五十三年十一月号新の発表)、ここに深く
は立ち入らないが、この記述
に関係あることでいえば、壬申の乱に東国からの組織的な動員が大海人皇子
方にみられなかった点だ
けを指摘したい。

 当時の「東国」には広義と狭義の意味があり、広義は不破関以東、関東地方まで含むが、狭義は美濃·
尾張·飛騨·三河·信濃の西半部までである(これに遠江が入るかもしれない)。壬申の乱での動員にみ
る東国
はこの狭義の範囲である。
 それも大海人方が味方につけたのは、はじめ名代·子代·湯沐邑といった大和政権の直轄領の、
わば「点」
である。これが基点となって中小豪族の結集となった。

 だが、武蔵·毛野(群馬県)の豪族らは壬申の乱には組織的には動いていない。とくに毛野には古墳の分布、
副葬品などの状態からみても、
四世紀以降大和政権に拮抗する大きな勢力圏があった。

 壬申の乱で東国から来たのは、甲斐の騎馬兵の十数騎ぐらいである。これでは組織的な動員とはいえない。
彼らは個人的に誘われてきた「浪人」的な、「一旗」組的な存在であったろう。七世紀の七
十年代にしてこの
ありさまである。稲荷山古墳鉄剣銘と倭王の「武」の上表文とを結合させて五世紀
の後半に,武蔵までの東国
が大和政権の統治下に入り、そこから雄略の宮廷に「門番」(杖刀人)とし
て奉仕していたとはすぐには思えな
いのである。
  壬申の乱  松本清張







徹夜の行軍

 吉野を脱出して莿萩野に到着して大休止するまでの大海人皇子一行がとったコースを、わかりやすく現在の
「道路地図」に合わせると次のようになろう。
 

 奈良県吉野町上市宮滝付近からの県道を東へすすみ、そのまま東行すると伊勢街道と合するが、そうは行
かずに途中の三茶屋で左に折れて北上の県道をとり、関戸峠を越え、国道一六六号線をわたっ
てなおも県道を
すすみ榛原にいたる。

 ここで国道一六五号線に沿って東へ。近鉄の伊勢線と宇陀川とが南側について並行する。大野のあたりでは
室生寺が近い。さらに国道を東へすすむと三重県の名張市になる。書紀の隠郡の駅家はその
付近という。

 そこをまた折れて名張街道をまっすぐに北上すると上野市に着く。それより国道一六三号線と接続する県道と
関西本線とに沿って東へ進むと、
阿山郡伊賀町となる。莿萩野である。
 これまでの全行程は概算九十七キロだ。
もちろんこれは現在の道路をいうのだから、曲折の多かった七世紀
当時の道は百四十キロくらいにはなろう。しかも舗装のない粗悪な山道、峠をいくつも越え
ての難路である。道は
羊腸として曲がりくねっている。なかには禽獣の通うような小径もあったろ
う。それを前日の午後三時ごろ
(わたしの推定)から徹夜で闇の道を約十五時間歩きつづけ、午前六時ご
ろに着いたのだから、たいへんなもので
ある。時速も九キロ以上になる。こんな難路だと普通はその
半分の時速だろう。一行の疲労は当然である。

 夜の行動は、もちろん近江方の眼を忍んでのことだ。それと、名張郡に入ってからは伊賀国である。それまでの
宇陀郡は大和国で近江朝廷方の直接支配地だ。大和国を出るまでは大海人皇子も虎の
尾を踏む心地だったで
あろう。

 夜明けの莿萩野で朝食をとり、少し行くと、積殖(つむえ・伊賀町柘植)で、高市皇子が鹿深(滋賀県甲賀郡)を越

えてきて一行と合した。高市皇子は、昨日、大海人が舎人の恵尺を近江朝廷へ行かせて誘い出したものだ。
わが子の来会に大海人は大よろこびだったろうが、腹違いのこの精悍な十九歳の皇子を大海人
の妃鸕野皇女は、
どのような気持ちでむかえたか。高市皇子にしたがう者として民大火以下七人の名
があげられているが、いずれも
帰化人系のようである。

 伊賀·伊勢国境の鈴鹿山地を越えて、伊勢の鈴鹿(三重県鈴崑郡)に至った。

 このとき国司守三宅石床以下が来て味方についた。そこで集まった軍兵「五百」で鈴鹿の山道を塞ぐことにした。
「五百」は多数の意をあらわす抽象数字で実数ではない。鈴鹿は畿内から東国に入る
要路で、三関の一つだ(他の
二つの関は北国街道の愛発と不破)。'さらに一行がすすんで川曲の坂下(鈴鹿市の山辺付近という)ま
でくると日が
暮れた。
天照大神遙拝

 川曲は伊勢国河曲郡で、坂下が鈴鹿市の西方ならば、伊勢湾によほど近くなった。ここまでくるとひと安心である。
日も暮れた。

「皇后」の 疲れたまふを以て、しばらく輿を留めて息(やす)む」(書紀)

 とあるのは、その安心感もあって鸕野皇女に、昨夜からの強行の疲労が出たのである。

 「皇后」は、大海人皇子を書紀がここではやばやと「天武天皇」にしてしまったので、それに合わせたもの。じっさい
は、まだ妃の身分である。

 したがって、前に書いたように、天皇の乗りものとして書紀が中国式に「車駕」「駕」と表現したので、それに合わせ
「皇后」なみに「輿」と表現したのだ。大海人も鸕野皇女も馬
に乗っていたのである。

 馬を降りて休憩しているうちに、夜空が黒雲におおわれ、いまにも雨がふりそうになったので、またいそいでさきに
すすんだ。

 はたして大雨沛然(はいぜん)としていたり、あたりが寒くなって、雷が鳴った。一行はずぶ濡れとなり、寒さにふる
えた。旧暦六月二十五日というと、いまの七月下旬だが、寒冷前線でも通過したのだろう。も
っとも当時の六月は夏
の終わりである。

 三重の郡家(三重県四日市付近か)に着くと、民家一軒を焼き、寒さにこごえている者に煖をとらせた。

 その夜なかに、鈴鹿関司が使いをよこして「山部王と石川 とがあなたのほうに帰属するために近江から来ておりま
す。いま、関にとめおいています」といったので、大海人は使いを出して引き
取らせにやった。この山部王も石川王も
系譜が不明だが、やはりこの地方の中小豪族である。そのこ
ろ、小さくても地方豪族は「おおきみ」(王)とよばれていた
ことがわかる。なお「大王(おおきみ)」というのは
たんなる敬称で、かならずしも「諸王の王」(天皇)を意味しない、と
東洋史家の宮崎市定はいっている。

 二十六日の朝、大海人は朝明郡の迹太川(三重県の朝明川)のあたりで、天照大神を遙拝した。

 天照大神とはその神社のことで、のちの伊勢神宮である。天武天皇(まだ大海人皇子)がはじめて伊勢の宮を拝ん
だというこの記事は、
皇室と結んで伊勢神宮の権威をたかめる話としてよく引用される。

 しかし、大海人がこのとき「天照大神を望拝ししたかどうかはすこぶるあやしい。書紀の書かれた八世紀のはじめ
伊勢神宮が大きくクローズアップされていたので、その反映であろう。もともとこ
の社は、伊勢の漁業生活者集団の
度会族の共同信仰としての磯宮だった。崇神紀によると、宮廷に同
祭していたアマテラスの御魂とヤマトノオオクニタマ
(
出雲系の神。オオクニヌシに同じ)の仲が悪いので、
後者は三輪山山麓に祀ったが、アマテラスの御魂は大和国内
に落ちつくことができず、伊勢へ行って
磯宮軒さきを借りたのが、ついに母屋を取ったかっこうで天照大神の廟となっ
た。

  壬申の乱  松本清張





常世の国

 垂仁紀二十五年の条に、天照大神倭姫命に憑依(つ)いて、「是の神風の伊勢国は、

常世の浪の重浪帰(しきなみよ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うま)し国(わきのほうにある美しい
国)なり。是の国に居らむとおもふ」

 と告げたとある。 

 この文句はひじょうに興味ふかい意味をもっている。「常世」のほんらいの意味は、遠い海外をさす。
それも現実には知ることも行くこともできない絶海の地を想像してのこと。

 オオクニヌシと出雲の国づくりに協力したスクナヒコナが常世国に渡った(記)とか、熊野の御崎か
常世郷に行ったとか、淡路島から粟茎にはじかれて常世郷にとんだ(紀)とかいう「常世」も、ま
た、
田道間守垂仁天皇の命で香果(ミカンの類)を求めにつかわされたという「常世国」(紀)も、み
な遠絶な
る海外をさす。これは東方の海上に空想上の蓬莱島などを設定した中国の神仙思想からきて
いる。
これが儒教とも結ぶ。
  壬申の乱  松本清張




伊勢神宮の起源

 たしかに天照大神は太陽信仰と関係がある。だが、それだからといって、伊勢の海に太陽がのぼる

ので、そこに天照大神を祀る伊勢神宮をたてたということにはならない。現代の古代史家には、二見

ケ浦の夫婦岩の風景が強く焼きついているように思われる。東の太陽を崇拝するには、なにも伊勢湾

頭にまで行って天照大神の神宮を建てる必要はない。大和の国の山上の東むきに宮を建ててもよいは

ずだ。

 書紀の文章は「常世の浪の重浪(しきなみ)」がうち寄るという場所、つまり「常世」につづく海岸が条件
となっている。海のない大和国内では「常世」という神仙思想とむすびつかないのである。「常世の浪が

うちよせる東方(大和からみて)の是の国にわれは居らんと欲う」という言には、神仙思想のみがあるの

であって、太陽信仰はみられない。

 また、右の天照大神の託宣には、この伊勢の国を「傍国」といっている。母国」は倭人伝にも「其他旁国」
と出ているように、わきにある国、地方の国の意味で、もちろん大和からみて伊勢が地
方の国というので
ある。

 では、どうしてそんな地方に皇祖神をまつる伊勢神宮を持っていったのか。書紀その理由を崇神六年
の条で説明している。

 天照大神と倭大国魂(出雲系の信仰)とを宮殿にいっしょに祀っていたところ、両神は共に住むのを好ま
ず、つまり仲が悪いため、国内に疫病が流行した。よって天照大神は大和の笠縫邑に祭り、大国
魂は
三輪山に祭った。
 大国魂は大田田根子という出雲系の司祭がついてそこにおさまったが、天照大神の
ほうは笠縫邑に
は落ちつけずに、倭姫命の捧持で、菟田、近江国、東美濃をめぐって伊勢国に入り、
(前記の「伊勢国は
常世の浪の」という託宣となって)五十鈴川の川上に斎宮をたてた。「これを磯宮と謂ふ。
すなはち天照大神
の始めて天より降ります処なり」(垂仁紀二十五年)。

 まず、なぜに大和朝廷の祖神とされる天照大神が地元の大和国内に祀られずに転々と流れて伊勢に

鎮まったかという疑問がおこる。祖神はじぶんの領内にこそまつるべきだからである。

 これは大和が先住の地元信仰(いわゆる出雲系の信仰。倭大国魂は大和におけるオオク,,シの霊神)で
占められているため、あとから大和
に入った外来の天皇家勢力の信仰は地元信仰に圧迫されて、大和国内
にその祖霊を祀ることができな
かったからである(『空白の世紀』参照)。

 そこで、やむなく天照大神は伊勢に「降臨」したのだが、その斎宮を「磯宮」といったというのが目をひく。
磯宮というのは前からそこにあった土地神(地元の信仰)の宮である。斎宮を磯宮といった
のではなく、磯宮
に斎宮が宿かりしたのである。

 伊勢湾の沿岸は漁撈生活者、いわゆる海人族の根拠地であった。いまの三重県度会郡の地はもと「磯」
といったらしい。国名のイセ(伊勢)
もイソ(磯)からきているようである。イスズ川(五十鈴川)の名も、イソから
出ていると思われ
る。イソツ川(磯津川。津は助詞の「の」) =イセツ川だったのを後世に神話じみた「五十鈴
川」の字
を宛てたのであろう。

 この磯の地一帯を支配していたのが漁撈生活集団の首長の度会氏である。この度会氏(海人族)の共同
神が磯宮である。

 柿本人麻呂の長歌にある「渡会の斎(いつき)の宮」 (『万葉集』一九九)というのが、度会の磯宮に天照大神
の斎宮が宿かりしていたときの姿を浮か
ばせている。これを大海人皇子が壬申の乱で望拝したことになってい
る。

 ワタラヒ(度会)は朝鮮語のワタ(pata=海)からきている。海を横切るのをワタル(渡る)といぅのもこれの動詞
化である。伊勢は「百船の度逢県」(『古事記』)であった。

 壬申の乱大海人方に神威が加勢したというので、度会の磯宮にある斎宮が朝廷の崇敬するところとなり、
伊勢神宮になった、と普通は説かれている。

 この磯宮は、朝廷がつくった伊勢神宮に内宮ができたとき、外宮となった。内宮が海岸から十数キロはなれ
た山の谷間の伊勢市宇治にあるのに対し、外宮が海岸に近い伊勢市
山田にあるのは古いかたち(磯宮)を示し
ている。

 では、朝廷はなぜ磯宮を内宮とせずに、それより格が一段劣る外宮にしたのか。それは度会氏の氏神ともい
うべき磯宮(斎宮)をそのまま伊勢神宮に昇格させたのでは皇室の権威にかかわるので、天照
大神がこの地に
天降ったということにして新たに内宮をつくったのである。内宮の神官に朝廷は度会
氏と拮抗する土地の
中豪族荒木田氏(その祖は大和からきて土着し、成務天皇のとき、神宮の御料田を寄進した功で荒木田神主
姓をたまときたという)を任じた。これは
朝廷が伊勢神宮の前身が磯宮だというイメージを払拭することと、度会
氏の勢力を削ぐことの二つの
目的からである。
 度会氏は神宮ができたときから内宮·外宮の神事を独占したと、その古さを主張しているのにたい
し、荒木田氏は内宮の成立当初から神事にしたがっていたと主張する。長いこの「論争」は性質上決着をみない
が、度会氏は磯宮の斎宮が外宮になったときからの神事をつかさどり、荒木田氏はあとから内宮ができたときか
らの神官とみるべきだろ。荒木田氏の主張が外宮にふれないのはそのことを証するようである。

 荒木田氏は中央の中臣氏と結托し、系譜の上からも中臣氏の支流につくっているが、度会氏のは中央貴族と
は無縁の独自の系譜である(岡田精司『伊勢神宮の起源と度会氏』による)。このことからも度会氏の

ほうが土地の古い豪族、つまり伊勢湾漁撈集団の首長の流れである。度会氏は「磯部」姓も名乗って

いたことが『続日本紀』にも見える。磯部の姓は磯宮との関係でわかりやすい。

 外宮が内宮よりも古いと思われることは、伊勢神宮の大祭では、まず外宮から神饌供犠の祭りがは

じまることでもわかる。これを神宮先祭という。荒木田氏はなんとかして先祭の特権を外宮から内宮

に取ろうと図ったが、度会氏ががんとして拒絶してきた。いらい両神官家の争いは明治になるまでつ

づいている。

 では、天照大神が内宮に坐すなら、外宮はどういう神を祀っているかというと、豊受神が主座であ

る。だが、この豊受神というのは系統不明の神で、『古事記』には登由宇気神の下に注のかたちで

「こは外宮の度相(わたらひ)に坐す神ぞ」と書き入れてある。これは記のもとの文にはなく、後から
挿入したらしい。

 豊受神というのは食物の神で、この場合は稲(米穀)の神さまということになっている。しかし、天

照大神を内宮に持ってゆかれたので、やはり外宮は分がわるい。

 次に、伊勢神宮の設立を大和朝廷が東国経営の拠点にするためだったという説がある。この説の根

拠の一つは、美濃·尾張·三河の各国に伊勢の神領があるというのである。しかし、これは伊勢神宮

が朝廷の権威で大きくなるにつれて神領がふえていったのであって、武力経営とは関係がない。

 またヤマトタケルが東国征伐に出発の途次、伊勢神宮の斎女をしている叔母のヤマトヒメのもとに

行き、神宮を拝した(景行紀)というのが根拠の一つになっているが、これは参拝だけであって、ここ

を武力の根拠地としたあとはない。それにヤマトタケルが伊勢神宮に立ち寄ったのは、「西の熊襲を

討って帰るとすぐに東の方十二道の悪人らを平らげよと命じられる天皇は、わたしが死んだらいいと

でも思っておられるのか」という不満と歎きを叔母に洩らす(『古事記』。書紀には無し)のが主目的だった

のである。

 東国経営の根拠地とするには伊勢神宮のある場所は南に下りすぎる。東国平定は海路でなく陸路だ

から、熱田神宮のある名古屋あたりなら合点がゆくが、伊勢ではうなずけない。たとえば東国に軍隊

を送るのに、伊勢湾を輸送船団が横断して渥美半島や知多半島に上陸させたという記事は見あたらない。
すべて內陸寄りの道(東海道はまだできていない)で、その主要コースは美濃·信濃·毛野(群馬県)とな
っている。
ここは古代の交通路で、中期古墳もこのコースに集中している。

 要するに伊勢神宮の設置は、海をもたない大和朝廷が東方の伊勢に海の宮をつくって祖廟としたと

いうことであって、それは西の瀬戸内海に漁撈生活集団(阿曇族)の共同祖霊である胸形(宗像)神社と

住吉神社とを信仰したのとなんら変わりはない。度会氏もまた阿曇族である。'

 それがとくに伊勢神宮となったのは、前述のように中国の神仙思想の影響が強い。「太陽信仰」や

「東国経営」をあまり過大視してはならないと思う。

 持統ほど旅行好きな天皇もめずらしい。吉野宮行幸の三十回以上を筆頭に紀伊·伊勢の海となって

いる。持統が宮廷人をひきつれて、これらの川(吉野川)や海岸に旅行したのは、新鮮な川魚や海の魚

貝を食べたかったからだろう。大和へくる魚介類は干ものか塩ものだったろうから、活魚料理の味は

かくべつである。鮎や近海魚や海底から取ったばかりのアワビの味など、大和の宮廷人の舌をこよな

くよろこばせたにちがいない。

 持統六年三月、天皇はおりからの藤原京の造営途中にもかかわらず、伊勢·志摩に旅行した。この

とき、中納言の大三輪朝臣高市麻呂(壬申の乱の功臣)という者が、田植えの農繁期にあたっての地方行

幸は農民をいたずらに苦しめるものだといって、これをとめようとした。が、持統はその諫言をふり

きって出発した。高市麻呂の「硬骨」も活魚料理の魅力にはおよばなかったのである。

  壬申の乱  松本清張 







書紀の編纂

 日本書紀』の編纂が天武のときに思いたたれたことは、天武十年三月十七日、大極殿で天皇が、
川嶋皇子·忍壁皇子以下の諸王·群臣十二名を集め、詔して「帝紀」と「上古の諸事」を
記し定めしめ、
大嶋と子首とはみずから筆をとってこれを録した、
という記事による。

 この「帝紀」と「上古の諸事」が、太安万侶が書いた『古事記』の序文の「帝紀」と「旧辞」にあたること
はほぼまちがいない。

 記序(『古事記』序文の略)の有名な文章。

「天皇(天武)は、『聞くところによると、諸家(諸氏族)にある帝紀と本辞は、すでに実際とは違い、

多くの虚偽を加えている、ということだ、今、そのあやまりをあらためないと、こんご数年と経たな

いうちにほんとうのことがわからなくなってしまうだろう。これをいま正すことが、すなわち邦家の

経緯、王化の鴻基である、よって帝紀を撰録し日辞を検討して、偽りを削り実を定めて、のちの世に

伝えたいと思う』とおっしゃった。

 ときに、舎人で、姓は稗田、名は阿礼、年これ二十八なる者がいた。かれは聡明で、眼に入る(文

字)は口に誦み、耳にふれる(話)は心に刻んだ。よって天皇は阿礼に勅語して帝皇日継および先代旧

辞を誦み習わしめた」

「帝紀」とは天皇の系譜である。「旧辞」とはそのふるい出来事の伝承である。「本辞」も「先代旧

辞」も「日辞」とおなじことで、字句の重複を避け、文章に変化をつけるためにいいかえたのである

(解釈に異説はあるが、こう考えてよい)。

 記序のこの部分の意味は、要するに各氏族の持っているその氏族本位の記録を淘汰して、天皇家本

位の帝紀と旧辞とを編纂するというにある。以前にもふれたように「偽を削り」というのは天皇家に

とって都合の悪い部分が「偽」であり、「実を定める」とは都合のいいところを「実(まこと)」として決定する、

ということである。

 だから、そういう史書をつくっておくことが、「邦家の経緯」(国家成立の根本)であり「王化の鴻基」

全政の基礎)だというのだ。これも壬申の乱後に絶対君主権が確立したと自負する天武によってはじ

めて思い立たれたことである。

 ところが、周知のようにじっさいに『古事記』ができあがったのは、天武十年(六八一)から三十一年あと
元明天皇の和銅五年(七一二)であり、これは太安万侶の撰上による。『日本書紀』は三十九
年後の
元正天皇の養老四年(七二〇)で、
これは舎人親王天武の嫡子)らの撰上による。

 『古事記』のできるのがこのようにおくれたのは、記序によると、「然れども、運(とき)移り世異(かは)
りて、
だその事を行なひたまはざりき」とあるだけでくわしい理由は明示されていない。かんたんに考
える
と、天皇が持統·文武と変わって忙しくてできなかったともうけとれる。だが、史学者のあいだには

このおくれた理由を、『古事記』があまりに天皇家に都合いいように書かれて他を無視しているので、

貴族(もとの氏族)からクレームがついたのだろうとする推説がある。

 いちおうもっともな説だが、これも疑問である。というのは天武の絶対王権が確立しているとき

に、すでにほろびたり衰弱したりしている大氏族がそんな苦情を天皇に言い立てるとも思えないから

である。それと、天武のときに『古事記』がいちおうできたとしても、それはまだ草稿の段階であっ

て、天武の手もとに置かれていたであろうから、貴族らは見せてもらえなかったにちがいない。

 そのうえ、『古事記』は天武が稗田阿礼なる記憶のいい舎人に「誦み習わせて」つくったと称する

いわば「私家版」的な性質のものである。私蔵の草稿であればさらに公開はなされない。

 前記のように、天武十年三月に川嶋皇子以下十二人に帝紀と上古の諸事を記定させ、中臣大嶋(注)

と平群舌とがみずから筆をとって書いたというのは、公的な『日本書紀』の編述に手をつけたとい

うことであって、私的な『古事記』のことではない。
 では、『古事記』と『日本書紀』との関係はどうなるのか。

 (注)中臣大嶋は神祇伯(神官職)。大和の中臣家系統で、中臣家を急手に称した藤原鎌足の家とは無関係。
しかるに中臣大嶋に藤原姓を賜ったというのは、当時の系譜の権威化で、ここはモトのかたちが逆になった。
中臣氏と藤原氏とを同一視してはならない。

記序の謎
 『古事記』と『日本書紀』との関係は依然として史学界の難題である。これについて坂本太郎氏はいう。

 天武天皇は帝紀を選録し、日辞を討覈(とうかく)して偽を削り実を定めようと試み、稗田阿礼に誦習せし
めた
がその出来が意に満たなかった。これが一人の力では成就しがたいことを悟って『古事記』撰録の事

業を敢然と放棄した。一方、あらたに諸皇子諸氏族の代表者を編纂委員とする大規模の修史事業を開

始した。これが『日本書紀』である。『古事記』は一度放棄されてその当座はほとんど世にも顧みら

れなかったろうが、時がたてば古いものがなつかしまれもするし、天皇の苦心と阿礼の努力とがいた

ずらに埋もれるのも惜しまれもして、元明天皇の和銅になって急に筆録するようになったのではある

まいか。かくてそれは当時別に行なわれつつあった書紀編纂の事業とはなんら関係のないことであ

り、またおそらくは天武天皇の遺志にもそわないことであるから、書紀の編者はことさらに『古事記』を無視
したのではあるまいか。『古事記』と書紀とが相前後して撰せられたこと、ならびに原則
としては書紀の内容
が前出の『古事記』になんら煩わされていないことは(たまたま『古事記』に似た記事
が書紀に取られていても、
それは『古事記』以前の材料が両者に共通したにとどまる)、このように解釈してよく理解さ
れるのではなかろ
うか。そしてこのことは、たとえ太安万侶が書紀編者の一人であったとしても、書
紀編纂の主宰者として天武
天皇の皇子舎人親王がある以上、その実行に疑いのはさまる余地はないの
ではあるまいか、と(『大化改新
の研究』)。

 この坂本氏の考えには、説得性がある。けれども、天武が一人で帝紀を撰録し、日辞を討覈しよう

としたという点がひっかかる。それらは天皇自身が一人でやるよりも、宮廷の史(ふひと)、つまり文官たちに

あたらせたほうがはるかに能率的ではなかったろうか。そうなると書紀の編纂委員会とあまり違わないことに
なってしまうが、そんなことははじめから天武にわかっていたろう。『古事記』の放棄に代
わるに書紀の編纂と
いう坂本説も、同一時点ではそういえないと思う。両者の書きかたやその事業目
的がまったく違うからである。

 『古事記』はすでに書いた考に、稗田阿礼なる者(実在が疑わしい。いわば「語り」を職能とする集団の擬制人
格化)が朝廷のつくった「歴
史ばなし」をもらって貴族の集会·宴会などの口演用に練習(誦み習う)したいわば
台本のようなもの
がモトになり,元明天皇のとき太安万侶がこれに手を加えて成書化したものである、とわたし
は思
う。

 したがって安万侶の「削偽定実、邦家の経緯·王化の鴻基」などという上表文は、書紀の序文にこ

そふさわしいが、『古事記』の序文とするには、ちぐはぐである。

 その内容要約の前半は天地創造から神武東征までを述べ、後半は天武の壬申の乱を描写する。「天の時未
だいたらずして、南山に蟬蛻(せんぜい)し(吉野退隠)、人事共給(そな)はりて、東国に虎歩したまひき(東国行)皇

輿忽ち駕して、山川を淩え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛威を挙げて、猛士烟のごとく起こり、
絳旗兵を耀かして、凶徒(近江朝廷)瓦のごとく解けき」 そうして、たちまちにして悪気を清め、戦勝して安らかに
帝都に帰り、旗をまき戈をおさめ、飛鳥浄御原で即位なされた、と書く。記序は純漢文の四六駢儷体(唐に流行した
美文調。四・.六の字数の句より成り、多くは対句で構成されている)である。
これに反し、『古事記』の本文は和風
な漢字文である。

 太安万侶の序文は、元明天皇のときにできた『古事記』が三十一年前に天武の詔命によっているこ

とから、壬申の乱での天武の偉業をたたえたのだが、これはむしろ天武が同じときに発想した『日本

書紀』についていっている感じが強い。書紀の修史局には太安万侶も参加したというが、これは平安

期の「弘仁私記序」にだけあることで、疑わしいとされている(なお『続本書紀』には、『日本書紀』と書
いてなく『日本紀』となっている。そこで『日本紀』と『日本書紀』とは別々のものではないかというやかま
しい議論があるが、これは表題の違いであって、同一のものにちがいない)

 ところが、太安万侶がはたしてじっさいに、『古事記』の序文を書いたかどうかとなると、これがすこぶる
あやしくなってくる。というのは記序には、おりから編集が進行中の『日本書紀』のことに
一言半句もふれら
れていないし、それだけではなく、書紀には『古事記』からの影響がまったくない
のである。これは歴史学者
もいっている。

 そうなると、記序は、だれかが太安万侶の名であとから書いたのではないかという疑いがおこる。

署名の太安万侶が「正五位上勲五等」とあるだけで官名のないことに気がつく。記序は正式には上表

文であるから、朝廷に仕える者が位があって官名を書かないのは「所謂散位で、隠居的身分である。

『古事記』の如き仕事が隠居仕事になったとは謂われまい」という仏教史家藪田嘉一郎氏の意見(「古

事記序文考」)がある。だが、この点は次にいうように太安万侶の墓誌銘の発見で疑問が解消した。

 また、「稗田阿礼という記憶のいい聡明な舎人」が架空の人物であるとのわたしの考えはすでに書

いた。阿礼の「誦み習う」意味も、宮廷や貴族の集まりの前で口演するための練習のことである。

『古事記』に「上」「去」などの抑揚の記号があることや、記序に彼は「目に度れば口に誦」んだと

あるのがそれを証する。「誦習」を、資料の難解な字句の解釈のことだという説は当たらない。そう

いう解釈や解読なら専門の文官のほうがはるかに熟達していた。なにを苦しんで稗田阿礼を俟とう

か。わたしはかつての中沢見明のように『古事記』そのものが平安時代の偽作とは考えないが、少な

くとも記序には大きな疑問をもっている。


  壬申の乱  松本清張




飛鳥の地名

飛鳥という地名は、もともと二つあった

 飛鳥地方は、奈良盆地の東南部の隅にあって、低い丘と、その間の狭い平野と、その中

を流れる飛鳥川からなっている。

 この飛鳥川は、いまはなんの変哲もない川だが、少し前まではきれいな川で、とくに浄

御原宮の跡地以南の四キロは、岩床の上を美しい清流が流れていた。そしていまなお、万

葉時代の飛鳥の石橋(飛び石)がそのまま残っていて、人がそこを歩いて渡ることができ

る。

 『万葉集』を見ると、飛鳥川を詠んだ歌が二〇〇首以上もあり、古代の飛鳥川はまさに

飛鳥人の心のふるさとであり、恋の川であり、遊びの川であり、郷愁の川でもあった。

 飛鳥地方は、第三三代推古天皇から第四二代文武天皇まで、つまり紀元六〇〇年から
〇〇年くらいまでの約一世紀間、孝徳·天智·弘文の約一五年間をのぞいて、天皇の宮殿

がある都城の地であった。これらの天皇の宮殿のうち、推古天皇の飛鳥豊浦宮、舒明天

皇の飛鳥岡本宮、皇極天皇の飛鳥板蓋宮、斉明天皇の飛鳥川原宮·後飛鳥岡本宮、天

武天皇の飛鳥浄御原宮持統天皇の藤原宮などが、いずれも飛鳥川のほとりに造営された。

 これほど多くの都が、七世紀の飛鳥地方に集中し、飛鳥が古代史の重要な舞台になった

のは、なぜであろうか。

 飛鳥と呼ばれる地名は、じつは近畿地方には二つある。一つは現·奈良県明日香村であ

り、もう一つは現·大阪府羽曳野市にある。古代には、この二つを区別して、大阪府の飛

鳥を"近つ飛鳥",奈良県の飛鳥を"遠つ飛鳥"と呼んでいた。

 奈良県飛鳥は、大阪府飛鳥地方に住んでいた渡来人集団が移住して開拓した土地で、

分たちの郷里の名をそのまま付けたから飛鳥が二カ所できたのである。彼らは、何を求めて
この地に移住したのだろうか、それは、この地が当時の水源神(雨請いの神)
の地であり、
稲作農耕に適した豊かな土地であったからである。


アスカとは禊の意味であった
 
奈良県飛鳥地方の地形は、低い丘陵に挟まれた、
谷間のような沖積平野である。なぜ、

このような狭い谷間でなく、もっと広い奈良平野に移住しなかったのだろうか。

 現代人なら、そう考えておかしくない。

 事実、飛鳥と奈良は目と鼻の先である。羽曳野から移住してきた旅路を考えれば、それほど
困難な道程ではない。
 しかし、彼らは狭い飛鳥地方を選んだ。
理由は簡単である。現代人は、たとえば関東平野のよ
うに、だだっ広い土地のほうが農耕に適しているように考えがちだが、それは逆で
ある。広い平野
は水田一枚一枚の高さの差がつけにくく、すぐ水が流れなくなってしまう。ひじように
正確な測量法
がなければ灌漑ができないのである。

 古代では、丘陵があって、土地に高低差があり、高いところから低い土地へ、水が流れていくよう
なところが、水田を開拓するのにもっとも適していた。渡来人たちは、当然の
ように飛鳥を選んだの
であった。
そのうえ飛鳥は、水源神の祀られている聖地であった。

 そして、移住してきた渡来人たちの目の前の奈良平野には、のちに述べるようにひろぴとした美し
い湖が開けていた。古代の奈良県飛鳥は、湖に飛鳥川が流れ込んだ河口にあ
たり、肥沃な土地だ
ったのである。
 渡来人たちは、この地方で水田開拓を行なった。
建築·土木·絹織物などにも高い技術を発揮し、
石舞台古墳築造のような巨石建造物を華やかに展開した。また、彼らは文字を
解していたから、
飛鳥地方は、奈良県の文化的中心地となり、さらに、渡来人と結びついた蘇我氏のような豪族を生
んで、
政治の中心地ともなったのである。

 天皇の宮殿が飛鳥地方に集中した原因は、渡来人たちが培った高い文化の中心地であっ たこと
にもよるが、もう一つは、飛鳥川が古代人たちにとって神聖な川だったからであ
る。  
 飛鳥の字音アスカは、禊の意味である。アスカ·アスク·イスク·イスズの語は、いずれもミススギが
その語源で、伊勢神宮の五十鈴川も、大和の飛鳥も、ミススギ川だったの
である。

大阪府飛鳥を流れる石川もイスク川であり、古くは飛鳥川と呼ばれていた。

 その証拠に、持統天皇は在位中、飛鳥川を通って、吉野川の河原で三一回も禊をしてい

る。『日本書紀』によれば、夫の天武天皇存命中にも一度行幸しているし、合わせて三二回も飛鳥川を
通ったことになる。壬申の乱(六七二年)後の人心の動揺を鎮めるために、飛鳥川で心身を洗い浄めて禊
をし、神に加護を祈る行為をされたのである。また、この飛鳥川は、その水源の栢森(かやのもり)に、
古代社会にとってはきわめて大切な、雨請いの神(水源神)が祀られていた。いまでも飛鳥川に沿って道
を南にのぼり、祝戸の集落を経て、中臣鎌足の師であった南淵請安の墓を通りすぎると、稲淵の
飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社に着く。さらに川を遡ると、そこが栢森で、加夜奈留美命が祀られ
ている。
  逆・日本史  樋口清之




遷都

なぜ、ひんぱんに遷都したのか

 栢森が古代信仰のあった「飛鳥奥津神奈備」である。時代がたつとともに、川下のほうへ下りてきて、
稲淵が「中津神奈備」と甘概丘が「辺津神奈備」と
なった。ここでは允恭天皇のとき盟神探湯の儀式が取り
行なわれていたと記録にある。

 盟神探湯とは、古代における神前裁判である。真偽正邪がなかなか決まらないときに、神の前で熱湯に手
を入れ、手がただれなかった者を正しいとしたのである。

 たとえ神の前とはいえ、熱湯に手を入れるのはたいへんな荒事である。実際の場合では、こうなる前に、両者
の話合いで結論を出せという戒めの要素もあったと考えられる。
古代人らしい知恵ともいえよう。
 古代社会の天皇は祭祀を司る責任があった。旱魃(かんばつ)のときには雨請いをする義務もあったから、
水源神の近くに都を定めたのは、
むしろ当然だったのであろう。

 古代において「都」という言葉は、宮のある所という意味である。「宮」とは「御家(みや)」であった。そして天皇
の住居社のある場所が「都」であった。天皇の住居のある付近には一
般庶民が住むということはなく、現代の
都市とはおよそイメージが異なっていた。天皇の
住居、つまり皇居の周辺に貴族や民衆が住みはじめて、まがり
なりにも都城を形成しはじ
めるのは、この飛鳥時代からであった。

 飛鳥時代をふくめて、それ以前の都は、天皇が代わるごとに皇居も移転する習慣があった。飛鳥川周辺だけ
でも、わずか一世紀の間に十数回も遷都が行なわれて
いる。

 なぜ、このように皇居がひんぱんに変わったのだろうか。古代史学者たちは、これを次のように説明する。

 天皇が崩御されると、天皇の死によって宮殿の建物がけがれるから、このけがれを忌みきらって、次代の新天皇
は新しい建物を別の地に造って、遷都されたのだという。

 もし、この説明が正しいのなら、いままで皇居のあった隣りの土地でもよかったわけである。ところが、ずいぶん
と離れたところへ天皇の都が移っていくことがある。また、天
皇が存命中に退位し、次の天皇が即位して遷都を
行なう場合がある。さらに、一人の天皇
が即位後、何度も遷都をする場合がある。これでは、前天皇の死のけがれ
によって遷都す
るという説明が成り立たない。

 そうではな くて、じつは日本古代の天皇は、婿入り婚(招婿婚・しょうせいこん)をしたために、必然的に遷都を行
なったのではなかろうか。すなわち、皇后の家に入り婿する儀式が遷都とい
うわけである。

 古代の天皇には、その名の下に「入彦尊」と付けられる習慣があった。たとえば第一〇代崇神天皇は御間城入彦
尊と呼ばれていた。

 「入彦」の「入」は、婿となって相手の家に入るという意味である。「彦」はすぐれた男、 神聖な男の意で、男の天皇
は「彦」とよばれていた。神聖な女は「媛」である。したがっ
て、入彦は、婿となって相手の女の家に入る男、すなわち
今様に言えば「養子になる男」
の称だった。

伝説によれば、神武天皇も入り婿だった

 日本の結婚は、古くは多くがこのように、男が家長権を持つ女の家の養子になるかたちの招婿婚であった。女が
男の家に入る嫁入り婚はむしろ例外で、男が女を盗む略奪婚、そ
の変形である売買婚などがそれであった。

 男は、好きな娘ができると、女の家へ行って、家の外から夜を徹して愛の歌を唄う。それを聞いて娘が感動する。
娘が男に歌を返す。こうしてお互いに歌を詠み合ったものが
万葉集」の相聞歌(そうもんか)なのである。そして娘が
母親(父親ではない)の許可を得て、男を家に
入れる。毎晩、娘の家に泊めてもらえるようになると、結婚が成立したこ
とになる。
 神武天皇伝説でさえも、そうであった。

 この伝説によると、神武天皇は妃選びのために国中第一の女を探させた。大物主神娘の比売多々良伊須気余
理比売
(五十鈴媛ともいう)が第一の聖女だとわかると、天皇は
その娘を訪ねて大和三輪山の麓まで出かける。
つまり、神武天皇は妻問いに行ったのであ
る。

 すると、野原で七人の美しい娘が花を摘んでいるのに出会った。いちばん前に立っている美女が五十鈴媛であろうと、
歌を詠みかける。五十鈴媛からも返歌があった。意気投合した二人
、百合の花の匂いのかぐわしい谷間の媛の
小屋の中で、夜をともにする。

 のちに、このときの体験を「葦原の醜けき小屋に菅畳いやさや敷きて吾が二人寝しという歌にして神武天皇が詠
まれたという。これが天皇御製の歌の第一号となっている。
もしそうだったら、後世の天皇とはくらべものにならない
くらい人間的な天皇だったわけ
である。

 そしてこの話は、天皇が皇后の入り婿になられたことを語っている。神武天皇は五十鈴媛の家(大三輪氏という)で
最初の一夜を過ごされたのだから。
 神武天皇でさえそうだから、のちの天皇も入彦の名を持たれることが多く、入り婿となって妃の家で過ごされる。
そのため、妃の家が宮殿となり、天皇は妃の家へ生家から移られるので、都もまた、天皇の結婚とともに移転したの
ではないかと、私は考えるのであ
る。


  逆・日本史  樋口清之




大和湖(やまとこ)

かつて大和平野に巨大な湖が存在した

 なぜ大和平野には、かつて巨大な湖があったと証明できるのだろうか。

 では、現在、大和地方は蒸し暑く、湿度がきわめて高い。これは、大和が周囲な山に囲まれている盆地である
ばかりでなく、地下に大きな宙水があって、たえず水がたたえられてい
るからである。この滞留水が地表面にに
じみでて水蒸気となって蒸発するため、大和平
野はきわめて蒸し暑いのである。

 大和の古い木造建築が現在でも残っているのは、大和が乾燥しているからだ、という間違った説を唱える学者
もいる。ひどいものになると、正倉院の倉庫は、秋は虫干しをして
あとは扉が閉められるので、いつも十月末から
十一月初めのころの大和の乾燥した気候の
主ぼの状態になっているから、多数の文献や織物、木造品が一二〇〇
年間も保存された

 だが、これはまったくの間違いである。

 正倉院の倉庫には湿度計が入れてあって、年間の湿度が毎年記録されており、この記録を見ると、内部がたい
へんな高湿であることがわかる。ただ、湿気の高低差はない。大和
平野は一年中、湿気の高低差が少ないところ
なのである。

 百貨店に行くとわかるが、漆器や呉服の売場のガラスケースの中には、水を入れたコップを置いて湿度を一定に
保っている。中が乾燥しきると、有機物が乾燥して破損するから
である。木の電柱も、地下に埋よっているところは、
案外に残っている。いちばんひどいのは、
地面に電柱が出ている境目のところである。

 これはたえず湿ったり乾いたりしているので、膨張·収縮を繰り返し、木の繊維がすぐぼろぼろになってしまうため
である。

 大和平野は湿気が多いが、地下水が滞留して、たえず水分を補給するので、湿気の高低差が少なく、そのため
正倉院の宝物が保存されたのである。

 現在でも、大和地方の地下には沈んだ地下大和湖があるわけだが、それは、かつて湖底に沈澱した葦類の堆積
土壌に保水性があり、そのためにえず水分をたたえているのである。

大和平野標高六〇メートル地点の謎

 では、この地下大和湖が、かつては大和平野に湖面を輝かした大和湖であったと、なぜ証明できるのだろうか。

 石器時代の終わりごろの遺跡が、奈良県全体で、約三〇〇近く発見されている。これらの遺跡は、大和の吉野渓
谷から始まり、宇陀・三 輪を通って大和平野に降りてくるが、平
野の周縁部に広がるだけで、中央の平坦部にはま
ったくないのである。そして、周縁にある遺跡は、
いずれも標高六〇メートルほどの線までである。

 これが弥生文化の一八〇〇年ほど前の遺跡になると、標高五〇メートルの線まで下りてくる。もっとも標高の低い
島根山古墳も、やはり標高五〇メートルの線で止まっている。

 これはどういうことかというと、石器時代には標高六〇メートルが、古墳時代には標高五〇メートルが、人間が生活
できる極限線だったことを意味している。それ以下の低い土
地には何らかの障害があって、 人間が住むことができ
なかった。

 そして、
住むことができなかった障害とは、そこに水があったからである。標高五〇メートル以下の土地はすべて、

かつては水中であった。

 つまり、大和湖の湖面が、二七〇〇~二八〇〇年前の石器時代には標高六〇メートルの線にあり、一八〇〇年
ほど前の弥生時
代には、標高五〇メートルまで水位が下がったということなのである。

 七世紀、天の香具山に登られた舒明天皇は、まだ残っていた海原のように大きな湖に、真白なカモメの飛びかう美
しい情景を、実際に眺められたのではなかろろうか。この歌は、
埴安の池とはあまり関係のない歌だと言いたい。

なぜ、北九州にではなく、大和に都ができたのか

 弥生文化が、おもに西日本で発達し、なかでも大和と北九州に大きな文化圏ができたことはよく知られている事実
である。だが、なぜ、

大陸文化を早くから受け入れた九州に王朝ができず、大和に日本の古代王朝が誕生したのだろうか。

 それは、大和平野に巨大な湖があり、時がたつにつれて、水位が下がっていったことに大きな原因があったと思わ
れる。
 水位が下がったのは土地がしだいに隆起したからであるが、水が引いたあとの湖畔の土地はよく肥えていて、農業
にもっとも適した土地であった。

しかも、大和平野は周りを山に囲まれているため、強い風を防ぎ、夏は蒸し暑くて、水田で稲を栽培するのには好条
であった。また、地形が複雑で土地の高低差があり、斜面に恵まれていたことから、大和地方に水田稲作農耕が
いち早く発達し、それが大和王朝を生んだのである。

 土地に高低差のあることが、水田の灌漑には必要条件であることは先に述べたが、斜面が古代の農耕に大切なこ
とは、ほかにも理由があった。

 だいたい日本の水田耕作は、はじめに焼畑開墾を行なった。山林や原野を焼くと、火は手上にあがっていく。上のほ
うがよく燃えるから、燃え上がってしまったところへ、焼
けた草木の炭や灰を鋤きこむ。自然土壌は酸性が強いので、
こうして炭や灰の含んだアル
カリで中性土壌に変えるのである。そこへ雑穀やカブ、豆などを蒔く。

 これが第一段階で、火で焼いてつくる耕作地だから、火の田、つまり"畑"である。耕しているうちに、木の根も腐って
なくなる。また、石なども取り除く。妨害物を除き、凹
凸もないほどよく耕すと、しだいに水平面ができる。これが白い田、
つまり"畠”であ
る。それが完全に水平になったとき、水を引いて"田“をつくり、水田稲作を行なうのである。畑·畠·田と
いう文字は、日本では、水田開拓の順序を証明しているのである。

日本では"耕して天に到る"のではない

 子どもの砂遊びを例に採ってもわかるのだが、斜面に下から水平面をつくっていくとじつに危険である。上から鉄砲
水がくると、すぐに崩壊する。。逆に、上から水平面をつく
れば、鉄砲水がきても下へ流れていくだけだから、上の水平
面は安全である。このように
して、上から下へ斜面を開墾して水平面をつくり、古代日本人は、しだいに水田を広げて

いったのである。

 中国の『資治通鑑』に「耕して天に到る」と書いてある。だから、耕作は下から上へあがるものだと、ほとんどの学者が
鵜呑みにしている。中国は畑地だから下から上がるのだ
が、それを考えずに、日本の水田もそうだと思い込んでしまう。
だが、これはたいへんな
誤解で、水田の耕作は、いつでも上から下へさがっていったのである。

 だから日本の苗字で、山田·上田·高田·本田などは、高い土地に水田を最初につくった開拓者で、水田が下に拡がっ
ていくと、これらの苗字は、苗代を管理した本家を意味し
た。一般論としては下田·平田などは、耕作地が下にさがった
ころにできた分家的な苗字
である。

 このように焼畑農業の原理と、水の自然流下方式をうまく生かして、上から下へと水田 を広げていったのが、日本の
水田耕作の歴史だが、大和地方はその斜面地に恵まれ、しかも耕作地が下に広がるにつれて、水の引いた肥沃な土
地に出会えたから、いち早く稲作文化が発達したのは当然だった。
神話と歴史の不思議な一致⇒⇒⇒
   逆・日本史  樋口清之




神話と歴史の不思議な一致ー神武天皇

 大和朝廷の権力者(天皇家の祖先)の起源がいつごろであるかは明らかではない。日本史を
述べたもっとも古い『日本書紀』や『古事記』によれば、第一代天皇はカンヤマトイ
レヒコノミコト
と伝えられている。
つまり神武天皇である。

 戦後、神武天皇の解釈が大きく変わり、神武天皇伝承は大化改新後、貴族制律令国家
くりあげた天皇家の祖先功労物語であるとか、日本建国の古さを説明することによっ
て、日本と
いう国家を権威づけるためにつくられた寓話であるという説さえ生はれた。神
武天皇が、はたし
て実在の天皇かどうかは別にして、『日本書紀 』や『古事記』に書いて
あることを、学問的根拠
もなしに頭から否定してしまうのは、戦前、神話をすべて鵜呑み
にして「歴史」としたこと同じくら
い滑稽な話である。

 なぜなら、神武天皇の話の内容は、じつは古代の大和に存在したいくつかの歴史的事実の印
象や伝承を編集、つまり日本の古代社会の雰囲気を如実に表現した部分が数多く含
まれてい
るからである。

 たとえば、地名である。

 神武天皇は九州の日向を出発し、東へ進んで大和に入ると、長髄彦(ながすねひこ)・兄猾
(えうかし)・弟猾(おとうかし)・土
蜘蛛(つちぐも)など)の未開人を平定し、畝傍山の麓の橿原の
で天皇の位に即いた、ということにな
っている。

この長髓彦や兄猾・弟猾・土蜘蛛などがいたという土地や、橿原など、神武天皇に関係のある
地名が『日本書紀』や『古事記』などに三三カ所ほど挙げられているが、これらの
地名を大和の
土地にあてはめると、すべて標高六〇メートル線以上に存在していることが
わかる。

 しかも、その土地は、大和湖のまわりの小高い所で、縄文式土器の出土する遺跡とぴったり
一致しているのである。
 もし、神武天皇伝承が、
 奈良時代にだれかが勝手につくりあげたものなら、標高六〇メート
ル線以下の、古代においては湖底にあたる地名も出る可能性がある。奈良
時代には土地の隆
起がいちじるしく、大和湖は幻の湖になっていた。昔は水位が六〇m
線にあったなどということ
は記録に残されていないからである。

 とくに驚くべきことは、神武天皇の都とされている橿原が、ちゃんと存在していたことである。
  逆・日本史  樋口清之




隋から船で三輪山についた

隋の答礼使は、船で三輪山に着いた

 江戸時代の国学者·本居宣長が『古事記伝』を書くとき大和を実地調査して、橿原の地には、その
地名さえ残っていないと嘆いた。『日本書紀』や『古事記』の内容を頭から否
定する学者たちは、
宣長でさえ橿原の地名はないと言っているのだから、あの神武天皇
橿原の話は根拠がない、
だいいち橿原の地名の由来である橿の木さえ生えていないではないかと言う。

 ところが、奈良県が畝傍山東南の県営グラウンドを工事したときに、イチイガシの大木に囲まれた
石器時代の遺跡が発掘された。

 石器時代から縄文を経て、弥生文化時代にまでつながる集落跡の出現であった。

しかも、それは標高六〇メートルの湖岸線の、半島状に南から北へ向かった突出した地形であった。
その半島の縁には、杭を打った船着場のような設備さえ発見されたのである。また、この遺跡
からは、アカエイやサバ·アジなどの海の魚の骨やクジラの骨までが出土した。おそらく、これらの
魚は大阪湾から大和川に入り、大和湖を舟で運ばれたものであろう。このようなことから、橿原は
古代の港町の遺跡だと証明することができると思う。

 この橿原遺跡のほかにも、大和湖の陸内港はいくつもあった。たとえば、大和の三輪や、橿原の
少し南にある大軽という村落でる。 

推古十六(六〇八)年、日本からの遣隋使·小野妹子が帰国する際、隋からは答礼使.裴世清
派遣された。『日本書紀』の「推古天皇の条」によれば、難波で一行を迎えたの は美しく飾られた日本
の飾り船三十艘。答礼使はその船に乗って大和川を遡り、大和湖を渡って海石榴市で上陸したので
ある。海石榴市はいまの三輪だが、なんと大和の三輪は、遣隋答礼使の上陸地点であった。

 また、大軽は軽市の跡であり、応神天皇軽島豊明宮のあった所である。ここに百済から王仁
阿直岐が『論語』と『千字文」を持って上陸した。

 大和湖の存在を知らない人は、どうしてこんなところに『論語』や『千字文」が到来したのかと不思議
がるが、大和川·大和湖で大阪湾に直結していた陸内港であれば、船でこ
こに上陸したとしても、なんの
不思議もない。

 神武天皇伝承は、大和が水田稲作農耕の最適地だったばかりでなく、船運による交通輸送,交易の
発達した土地であり、それが日本最初の王朝をつくった原因であることを教
えているのである。

 ここに神武天皇伝承を持ち出したからといって、私は神武天皇の実在を即断したり、そ の伝承を史
実だと言っているのではない。私が言いたいのは、この古代伝承を、はじめか
ら無条件にありえない話
だと決めてかからないで、その背景にある古代文化の流れの事実
を認め、こんなストーリーが生まれて
きた必然性を再考してみてはどうか、ということな
のである。もちろん、伝承はあくまで伝承であって史実
でないことは、あらためて述べる
までもない。だが、伝承には伝承としての意義のあることも、けっして
忘れてはならない
ということである。

  逆・日本史  樋口清之



卑弥呼は何十人何百人といた

 邪馬台国の女王·卑弥呼を特定の個人にあてはめるには無理がある。 北九州にも、大和にも、またその他の
地方にもいていいのである。

 卑弥呼は、特定の個人を指す固有名詞ではなく、「ヒメミコ」を意味する普通名詞なのである。ヒメは女性、ミコ
は巫女である。

魏志倭人伝』では、卑弥呼は鬼道に仕え、よく衆をまどわし、国が乱れても彼女が立つと、すぐ治まると書いて
ある。ここでいう鬼道とは、中国から見た鬼道である。中国と日
本では、当然ながら神は同じではない。
 中華思想で考えれば、野蛮国,日本の民が信仰している神など、しょせん死者の霊魂を中心とする「鬼道」にしか
見えなかったのであろう。おそらく
この卑弥呼は神に仕えていた巫女で、信仰的に国を治めていた。

 卑弥呼は神に仕え、神憑りをして神の意志を伝え、一般民衆を指導ていた。日本の古代社会は母系社会であ
った。そこではシャーマニズム信仰が共同体社会を支配し、かなら
ず神に仕える女王(ヒメミコ)がいた。

 だから、当時の日本に無数にあったと考えられる村落国家には、これまた同じく無数のヒメミコがいたはずであ
る。

 おそらく彼女は、村落を治める主婦たちの代表者で、ふだんは勤勉なおかみさんだが、政事や農事の必要に
応じてヒステリー現象を起こし、神憑りし、神の託宣を告げたのであ
ろう。こんなときの彼女は、ひきつった、こわ
い表情であったはずで、どう見ても美女だ
ったとは思われない。

 このような卑弥呼の治める村落国家の連合体の一つが邪馬台国で、その最高の支配者の一人を女王·卑弥呼
と呼んだのではなかろうか。


  逆・日本史  樋口清之 




原日本人は歩いて日本海を越えた

 現代日本人は、マレー人·朝鮮人·アイヌ人·インドネシア人など、各地から日本に渡来した人種の血によって構成され、
とくにマレー人などは日本人の血の大半をつくってい
て、日本人の母国·祖国は東南アジアであるといいたくなるほどで
ある。
 それにもかかわらず、解剖学的にいうと、われわれ日本人の祖型は、明石人·三ヶ日
人·葛生人などの、旧石器時代
から日本に住みつづけていた原日本人なのである。
 これらの原日本人とは、昭和初年に兵庫県明石市の洪積世地層から発見された明石人をはじめ、葛生人(栃木県葛
生町)、牛川人(豊橋市牛川)、三ヶ日人(静岡県三ヶ日町)、
浜北人(静岡県浜北町)などで、当時の動物化石といっしょに
発掘され、その存在は動かぬ事
実となって証明されている。ただし、明石人については、いまだに疑問が投げかけられ
ているが・・・。

 とくに動物化石にまじって発見された牛川人は、比重や弗素の含有量の多さからみて氷河時代のものと認められ、
アオモリゾウ·オオツノシカ·狼·虎など、
すでに絶滅した野獣たちと、日本列島での最初の生存競争をしていたことがわか
る。

 なぜ、これらの化石になった原日本人が、解剖学的にわれわれの祖先かというと、その骨である。欧米人や黒人の
手足の骨を調べてみると、管状骨の切断面はいずれも円形であ
る。しかし、化石日本人の管状骨の切り口はやや横長
で、かならずしも円形ではない。と
くに大腿骨などの関節部には、縦に大きなベルト(帯)がついている。そして、現代日本

人の管状骨も楕円形で、やはり関節部にベルトがついている。竪帯で骨を側面から補強する特徴は、化石日本人から
現代日本人まで共通して認められるもので、日本人としての動
かしがたい人種的特徴なのである。

 このようなベルトを持った骨は、中国人や朝鮮人にはない。東南アジア、すなわち、ベトナムからタイ付近の人間に、
わずかに認められるだけである。つまり、マレー人·朝鮮
人·インドネシア人など、数多くの人種が渡来し、さまざまな人種
的特徴を与えても、そ
れはみな、原日本人の祖型的特徴に吸収同化されてしまって、共通の日本人になったのである
 では、この原日本人は、どこからやってきたか。約二万年前、日本列島がアジア大陸と陸つづきであったころ、ゾウとと
もに大陸から歩いて
アジアの東端の日本列島にやってきたと考えられる。

 人類は、太陽の昇る東を理想の世界として、西から東へと移動した。地球の自転の方向とも関係があるが、東から西
へ移住した民族の例はきわめて少ない。

 大陸を東へ東へと移動して、ついに太平洋に出会った原日本人は、日本を最終地点として定着するより方法はなかっ
た。それ以来、氷河期などの寒冷な気候に見舞われることは
あっても、動植物の棲息と繁殖に適した日本列島に安住し、
無土器文化時代から、縄文·
弥生·古墳文化を経て、飛鳥·奈良·平安へと、時代が移っても、どこへも移動せず、住みつ
づけたのである。

 日本人の血は断絶することなく、すくなくとも二万年前から現在まで連綿と続いている。同一の地域に、世界中でもっと
も長く定住している人間が、われわれ日本人なのであ
る。


  逆・日本史  樋口清之




聖徳太子の皇子はなぜ殺されたか

六四一年、舒明天皇が亡くなると、ふたたび皇位継承問題が始まる。候補者は、中大兄皇子·古人皇子·山背大兄王
三人である。

 中大兄皇子·古人皇子は、ともに舒明天皇の皇子だが、中大兄皇子は皇后の長子、古人皇子は法提郎女(蘇我周子
の娘)の長子である。 蘇我蝦夷にすれば古人皇子を天皇にした
いが、中大兄皇子のほうが正統であり、聖徳太子の子
である山背大兄王も皇位継承を主張する正当な権利を持つ。そこで、暫定政権として舒明天皇の皇后で、中大兄皇子の
母宝皇女が即位し、皇極天皇となった(六四二年)。 その翌年、一つの事件が起こった。山背大兄王殺害事件である。
蘇我蝦夷が病気を理由に大臣の位をその子·入鹿に譲った。ところが、権力を握った若い入鹿は、古人皇子の対立候補·
山背大兄王を斑鳩宮に攻めて、王や妃·王子をことごとく自殺させた。

 この事件は,逆に蘇我氏滅亡の原因となった。入鹿はみずからの手で、自分の一族の首をしめたのである。

 山背大兄王が死ぬと、残されたただ一人の対立候補。中大兄皇子が、身の危険を感じ逆に自分から攻めて、蘇我氏を
討とうと考えたのは自然のなりゆきだった。

 また、皇子は大きな理想を抱いていた。そのころ、中国では隋が滅び、唐の時代に入っていたが、唐の律令政治をまねて、
日本にも天皇中心の中央集権国家を作ろうという計画
である。

 この計画に協力したのが中臣鎌足である。二人は、飛鳥寺で催された打毬の遊び(ホッケーに似た遊び。蹴鞠という説
もあるが、高松塚古墳壁画の発見で、打毬が正しいことが証明された)で親しくなり、唐から帰った南淵請安のもとへ学問
を学びに通う道すがら、蘇我氏を倒し、新しい国家制度をつくる計画を練ったという。 だが、このとき中大兄皇子は、
中臣鎌足がひとり胸に抱いていた、まったく別な計画には気づかなった。
  逆・日本史  樋口清之



木製仮面

 古墳時代の集落跡 「西岩田遺跡」 (大阪府東大阪市) から出土し、注目されている3世

紀前半の木製仮面。 焼けた鍬などと一緒に見つかっていることから、この地の有力者によ

る大規模な農耕祭祀に使われたとみられるが、 同時代の木製仮面は邪馬台国の有力候補地

で、ヤマト王権発祥の地とされる纒向遺跡 (奈良県桜井市) など2カ所でも見つかってい

る。 人の顔をした仮面は、 「人格化した神」を表し、 ヤマト王権の儀礼の影響を受けてい

るとの指摘もあり、 纒向、 西岩田両遺跡の強いつながりが推測される。 古墳時代には(河

内) 湖岸の港としての機能を持つ集落跡とされる西岩田遺跡は、 河川で纒向遺跡と結ばれ

る位置にあり、ヤマト王権の対外的な窓口の役割を担っていたのかもしれない。
  2023ー5-18  産経新聞(編集委員 上坂徹)

 

 西岩田遺跡で見つかった木製仮面はスギ材で作られており、長さ280・9秒、幅17・7秒、厚さは最

大2秒両目と口の部分はくり抜かれ、中央部分は周囲を削り出し、わずかに隆起させて鼻を表

現。右耳付近には小さな穴があけられており、ひもなどを通した可能性はある。が、現状で約300

㎏と重量があるうえ、厚みもあり、裏面が扁平で顔に装着するのは不向きなことから、柱などにく

くりつけるか、手で持って使用したとみられている。

 この仮面は、洪水堆積層の地下2.9の地点から、水を入れる容器や、火に焼かれて炭化した

などの木製品とともに見つかっており、古墳時代の大洪水によって、他の集落から出土場所に移動

した可能性がある。

 発掘調査した大阪府文化財センターの河本純一・副主査は「弥生時代の土器に、仮面を着けた
シャーマン(呪術・宗教的職能者)とみられる人物を描いたものがあります。(木製仮面と)同時に農業

に関わる木製品が出土していることから、木製仮面は農耕に関わる祭祀に使われたと思われます」
と話す。

ほかにも2例

 古墳時代の木製仮面についてはこれまで、纒向遺跡と、その近くの大福遺跡(桜井市)から出土し

た2例がある。纒向遺跡の面は西岩田よりやや古い2世紀後半から3世紀初頭、木製の鍬の身の部
分を加工、転用しており、樹種はアカガシ。 長さ26cm、幅21・6cm厚さ0.6cm。顎をとがらせた形

で、目と口が開けられ、鼻の部分も表現されるが、耳の部分に穴はない。祭祀では顎部分を手で持
って使用したとみられ、西岩田とは目の仕上げなどに共通性があるという。

 一方、大福遺跡の仮面は2世紀後半と最も古いが、残存するのは顔の半分のみで、長さ283・4秒、

幅7秒、厚さ0.5秒。コウヤマキ製で目の部分がくりぬかれ、耳にはひもを通した穴もあった。復

元すると、面長で西岩田に似た形状、という。 

 こうした木製仮面について、桜井市纒向学研究センターの寺沢薫所長は「人の顔をした面は、ただ

の面ではなく、人格化した神、首長霊を表しているのではないか」と指摘する。弥生時代から祭祀で

の仮面使用はあったが、確認されているものの多くは鳥の姿をしており、人の顔を表現したものには

入れ墨が施されていることが多い。 寺沢所長は「弥生時代の神は基本的に鳥の姿で、それが人格
化した姿になるのはヤマト王権ができてからと考えます。弥生時代以来の豊穣を示す穀霊と共同体
の永続を保証する) 祖霊が合体して、首長霊という観念が生まれた。

それを表現した面を祭祀に使ったのだろう。西岩田遺跡でも、ヤマト王権の影響下で同様の祭祀を
行っていたのではないか」という。

纒向と共通性

 古代の大阪は、海岸線が大阪平野の奥深くまで入り込み、内海(河内湾)が広がっていた。古墳

時代には、河内湾が淡水化して河内湖に姿を変えていったことが分かっている。西岩田遺跡は河
内湖の湖岸にあたり、 港を持つ集落だったとされる。周辺からは吉備(岡山県)など他地域の土器
が出土しており、広い範囲の交流があったことがうかがえる。

 寺沢所長は「西岩田遺跡は古墳時代になって大きくなった集落纒向遺跡と同じような時間的

歩みをしている。纒向遺跡にヤマト王権の大王宮があったとすれば、河川でつながっていた西岩田

遺跡には、河内湖岸にあるヤマト王権の玄関口としての役割があったのかもしれない。纒向遺跡で
の仮面を使った祭祀と同様のことが行われていたことは、西岩田遺跡の勢力がヤマト王権の傘下で、
王権をささえていたことの証しといえるかもしれません」と話している。