高取城跡地図

   
 南朝方として活躍した土豪越智氏の支城。
城はいまは石垣を残すだけだが、14世紀
頃越智氏がここによって吉野山を守ったことに
はじまる山城だが、のち豊臣秀長の郡山城の
詰城、さらに江戸時代、植村氏二万五千石の
居城として整備された。
 幕末には、天誅組の襲撃も経験した。明治
に破却されたが、石垣から盛時の様子が偲
ばれる。
 
 新櫓跡、太鼓櫓跡
  栢森(かやのもり)の南にそびえる高取山の
頂きを中心に、大・小天主、27の櫓、33の門を
備えた難攻不落の山城の、諸塀を支えた長さ
2900mに及ぶ石垣が残る。ふもとからの標高
差約450mは日本一とも言われている。
二の丸御殿から見た太鼓櫓・新櫓の石垣  明治中期にほとんどの建物は壊されたが、
戦後、城跡として国史跡に指定された。
 高取城は郡山城の控えの城で格としては
郡山城の方が上である。
 日本三大山城の一つ、標高583mの
高取山頂に築かれ、現在は壮大な石垣を残す
のみとなっている。
 南北朝時代に地元豪族が砦のような城を築い
たのが起源で天正13年(1585)豊臣秀吉の弟、
秀長の重臣本多正俊が入城して本格的に大改
修された。
   
     
 朝日新聞 2015−7−9 より 在りし日の高取城 
北西から見た高取城の立体図
 高取城は国内最大級の山城を上空からレーザーを照射して測量したもの。
従来の古図などでは明確ではなかった遺構が確認されている。
 「明治二十年代後半、高取城が取り壊される直前の、この、写真は、ちょうどこの位置から撮影されたものと推測できます。」
 高取城の旧観については、明治20年ごろの写真が残っている。
 いわば密林のなかに石垣をそびえさせ、白亜の壁をかがやかせた堂々たる城がひそんでいるというかっこうで、
山中は湿気がつよく、それに風雨による被害も大きいはずだから、江戸期にこれだけの建物を維持するのは
大変だったろうと思われた。
 この高取城の場合はたえず普請をしてよろしいという「常普請」のゆるしをもらっていた。
その理由は幕府の戦略上の必要もあったろうが、ひとつにはこの城が奥山の山頂に築かれているため、
木材の腐りが早く、また台風や山崩れによる被害がたえずあったからにちがいない。  
  
 
高取城について司馬遼太郎 街道をゆく(7) より⇒⇒⇒
高取城 日本城郭
 奈良盆地南東の山に、”巽(たつみ)高取雪かとみれば雪でござらぬ土佐の城”
と歌われた。
 大和平野からの高取城の遠景を歌ったもので、白亜の大天守、
小天守はじめ櫓の数27、門数33、塀の長さ2、000mと高取山中にながくつらなる
土塀と建物の壮大な規模と白亜の外観があまりにも見事だったことにより芙蓉城の
別名でもたたえられた。
 日本一の大きさを誇る山城で日本三大山城(美濃岩村城備中松山城
大和高取城)の一つ。
 城は城内と郭内に分けられ、城内約1万平方キロメートル、周囲約3キロメートル。
郭内は約6万平方キロメートル、周囲やく30キロメートルの広大なもの。 
   
 
 本丸跡
本丸
 「本丸は大小二棟の天主閣と鉛櫓・煙硝櫓を多聞櫓(塁上に設けられた細長い単層の櫓)と塀によって接続する。これを連立式形態といっている。
東西四十間余(約73m)南北三十五間(約64m)の凸字型の平面をなしている。地型の変化に対応して築かれた山城は、自然に不規則な縄張りとなる。
 しかし、この本丸は平城城郭のような整然さを有するので築城技術の完成したころの構築とみなされる。
昭和四十七、四十八年度の県教育委員会の高取城修理にともない本丸東北隅の部分を対象に、石垣の実測、根石の状態を調査したが、石垣のひずみの部分は後補のものであり、隅石には転用材を使用していることが明らかになった。転用石の中には漆喰の付着した石が二個検出された、切石古墳の石を使ったものと想定されている。漆喰については、分析によると、桜井付近の古墳漆喰の分析値と似ていると報告されている。
 また、本丸鉛櫓の背面に補助的に設けられた付台石垣の下に配列された胴木の存在は、山城での遺存例として現在のところ唯一の発見例で注目すべきものである。」
 奈良県教育委員会
国見櫓跡より望む。大和盆地を一望する事が出来る。
 高取城二の門跡から本丸に向かって数百メートル上がり、矢場門跡手前を右折したところ。
眺望が素晴らしく、大和三山は云うまでもなく、大和平野が一望でき、晴れた日には六甲山や比叡山まで見通すことができる。
 中央に貝吹山(210m)を望むことができるが、この山に「太平記」の時代に活躍した越智氏の城跡がある。
もともとは、越智谷の越智城にたいする詰め城として築かれたが、後に本城となり、高取城へと発展した。
貝吹山城 二上山 葛城山 金剛山 葛城山 二上山 信貴山 生駒山 耳成山 香具山 畝傍山 貝吹山・越智氏 高安山 畝傍山 耳成山 香具山

 
  城跡にある猿石は、
吉備姫王墓にある像と同じ謎の石像。
 城の二の門近く、一升坂を登った左手
明日香栢の森への分岐点に
置かれている。
猿石
 高取城二の門外に所在し城下町に下る大手筋と明日香村栢森へ下る道筋の分岐点に位置する。
花崗岩製で高さ85cm、幅75cm、厚さ65cmを測る。目と鼻は円形で顔面は丸く平坦である。
口元の両端をあげ耳は顔側面の全体にとる。
手は右手をややあげている。陽物らしい表現もみられる。背中にも表現がみられるが明確ではない。
飛鳥の猿石と同様に現在の明日香村平田から掘り出され高取城築城の際に石垣材として運ぶ途中
にこの場所に置かれたようである。飛鳥時代・斎明朝(7世紀)の製作と考えられている。
猿石がのせられている台石は古墳の石材の可能性がある。
七つ井戸

rakann

大日如来の説く金剛界曼荼羅⇒⇒⇒ 大日如来の説く胎臓界曼荼羅⇒⇒⇒
五百羅漢
 壺阪寺から高取城跡につづく山腹巨岩に彫られた無数の石仏。
 総称して香高山磨崖仏という。
 室町中期に刻まれたもので、本多氏が高取城築城の頃、石工に作らせたものとされる。
地図
 
   
丁石の数々
高取城沿革
 「高取城は別名芙蓉城ともいわれ、近世山城の典型としてよく知られ、巽高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城とうたわれている。築造年代に関しては元弘二年(1332)との説もあるが確実ではない。しかし、南北朝時代、南大和に大きな力を振るった越智氏の支城の一つとして築かれたことは疑いない。
 元弘の頃に一時子嶋氏の居城となり、さらに越智しの居城となった。
 城の形態としては永正から天文(1504−1554)の頃に整備されたと見るべきであろう。当初の頃は越智氏にしても高取城をたんに越智城、貝吹山城に対する出城としか考えていなかったようであるが、自然的要害の条件を備えているところから次第に本城的なものとして重視されるに至ったようである。
 越智氏なき後、織田信長の城郭破却令によって廃城となっていた高取城の復活が筒井順慶によって企画され、天昇十二年二月、高取城を出城よ定め、郡山城ともども工事をすすめたのであった。
 この一国的規模での本城−出城主義の方針は豊臣秀長にも引き継がれ、本格的に近世城郭としての高取城が築かれたのは、百万石の大名として郡山城に入った豊臣秀次と秀保の時代であった。
 その後の歴代城主は本多氏が寛永十四年(1637)三代で断絶し、寛永十七年十月村氏が入部し、明治維新を迎えたのである。
 城跡は、標高583.3mの山頂部を本丸とし以下二ノ丸、三ノ丸、大手曲輪、吉野口曲輪、壺坂口曲輪が連なっている。それに隣接する外郭部は、侍屋敷群と放射線状にのびる大手筋、岡口、壺坂口、吉野口の入口があった。
 これら主体部はかって土塁、柵、空掘等により、段丘状の削平地に築かれた中世城郭の城域を一部拡大したものであったろう。その意味で現存する内郭、外郭の縄張りは兵法を強く意識した近世城郭の完成期の特徴を示す構造になっている。
 例えば、矢場門から宇陀門、千早門そして大手門の門台石組み遺構にみられるように、いずれも右折れ虎口(入口)として配置されている。
 その他、本丸の枡形虎口の精緻さや、本丸の各隅角部石垣に利用された転用石材(寺院の基壇石、古墳石室の石材等)も特記されよう。また、本丸、鉛櫓下の背面に補助的に設けられた付台石垣の下に配列された胴木の存在は山城での遺構例として唯一の発見例として注目すべきものである。
 ところで、廃城後の建造物については、そのほとんどが明治中期に取り壊された。石垣はほぼ今日まで原形を残しているが、一部崩壊やひずみの激しい箇所の修理を昭和四十七年以降繰り返し実施している。」

奈良県教育委員会
 高取山(583.9m)山頂に所在。南北朝以来、越智・本多・植村各氏の居城となる。中世越智氏の高取城はいわゆる「カキ上城」で、尾根沿いに幾段もの郭(くるわ)や掘割もあったが、平素は根小屋とよばれる麓の館(別所郭など)などに住んだ。天正八年(1580)織田信長の大和一国破城令にしたがって破却されたが、1584年筒井順慶によって復興された。翌年大和にはいった豊臣秀長は、平城(ひらじろ)の郡山城とともに山城の高取城を重視し、配下の大名脇坂・本多氏らを城主として大規模な改修を行わせた。寛永十四年(1637)本多氏が断絶、1640年植村家政がはいり、以後幕末まで高取藩植村氏の城として続いた。
 江戸時代は、山頂の本丸以下の総石垣造りの諸郭を城内とよび、それ以外の山中の土造りの諸郭の分布する広い地域を郭内とよんだ。城内には天守閣以下の建築物がならび、当初は藩主以下が居住したが、のち、順次山麓の下屋敷に移り、山上はほとんど明屋敷となった。しかし、幕府から常普請を認められていて、明治維新まで城の体裁は保っていた。




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