勝持寺地図

 
 境内にはソメイヨシノを中心に約100本の桜があり、紅葉や楓も同じくらいにある。
 寺伝では役行者が7世紀に創建し、8世紀に桓武天皇の命で最澄が伽藍を整備。中世には49の子院を数えたという。
応仁の乱で仁王門を除くすべての堂塔が消失し、現在の建物は天正年間から江戸期の再建という。
本尊薬師如来像(重文)や金剛力士像ともに鎌倉時代、寄せ木造りの西行法師像(室町時代)など多くの宝物も残る。
 境内には西行が植えたとされる西行桜がある。現在は3代目。
 平安の歌人西行が出家して庵を結んだ寺と伝わる。
「花見んと群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の咎(とが)にはありける」
 西行はこの寺で、花見にどっとやって来て修行を妨げる人々を疎まし思いこう詠んだ。
 大原野⇒






















西行井戸・去来の墓地図

     
  西行は二尊院の地に住み、その近くにあった井戸を利用していたと伝えられている。
歌碑  
 「牡鹿なく 小倉の山の すそ近み ただ独りすむ わが心かな」
     
     向井去来の墓





























落柿舎(らくししゃ)地図

   
 ここは、芭蕉の十哲の一人として名高い向井去来(慶安4年(1651)〜宝永元年(1704))の閑居の跡
として知られている。当時庭にあった40本の柿実が一夜のうちにほとんど落ちつくし、かねて売約中の
商人を気の毒に思って価を返してやった。これが落柿舎の名の由来である。
 芭蕉も晩年三度当庵を訪れ、名作「嵯峨日記」を著した。
 庭に去来のよんだ句碑がある。
   柿主や梢はちかきあらし山 
 去来は長崎生まれ、芭蕉に師事して俳諧を学び、その芭蕉をして「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行
なり」といわしめた。かって武人であった去来は極めて篤実真摯な人柄で、芭蕉に仕えるさまは、
ちょうど親に対するようであった。
 鴨なくや弓矢を捨てて十余年









小倉餡(あん)発祥の地地図

    
小倉餡発祥の地
小倉中字愛宕「ダオショウ」の里屋号が亀屋和泉
であったため、和泉明神として祀られていた。
この地に社があった。










竜門橋

   

竜門橋(歌詰橋)
 つぼの内にほひし 花はうつろひて 霞ぞ残る春のしるしに

歌人西行がこの橋のたもとにあった酒屋で歌を読みあい、
この歌の返歌に
詰まったとの伝説がある。

歌詰橋は、それに因んで付けられた名。後に天龍寺ができ、
その門
前に当たるところから、竜門橋と呼ぶようになったと
いわれる。
また、橋の下を流れる瀬戸川も、かつては芹川といい、
昔はこのあたりに
芹が繁殖していたらしい。

小倉山の麓を水源に臨川寺(りんせんじ)の東で大堰川にそそぐ。

京都市

   
瀬戸川 









慈眼堂 地図

     
  木造千手観音立像
像高 58.1cm
 
 清凉寺から西へのびるこの前の道は愛宕道で、両側の一帯が中院である。
十二世紀の末、藤原定家(一一六二〜一二四一)は中院に山荘を構え丶嵯峨の自然を愛してしばしば
この地を訪れた。

慈眼堂の本尊である「木造千手観音立像」は、付属する古文書によると藤原定家の念持仏で、
定家の没後、子の為家(一一九八〜一二七五)が伝領し,
為家からこの地の人々に与えられたものと伝え、
長くこの地の豪農浜松
屋善助屋敷内の堂に祀られていた。

像は寄木造り、漆箔、彫眼の技法によって制作されており、もの静かな面相と程よい肉身に、
小づくりの脇手を配している。保存状態は良く、
天衣の体から遊離した部分や、
微細な脇手持物の一部までも残っている。

本像は、仁治二年(一一四一)八十歳で亡vなった藤原定家の念持仏とする伝承にふさわしく、
十二世紀後半の様風を伝えるもので、鎌倉時代初期
(十二世紀末〜十 三世紀初頭)における
藤原風の美作として貴重なものであ
り、昭和六十年六月一日京都市指定有形文化財に指定された。

なお、慈眼堂では中院の人々が毎年正月十四日の夜から十五日の日出まで「日待」の行事を行い、
また、定家、為家の法要も営んでいる。

京都市










宝筺院(ほうきょういん) 地図
 
 善入山と号する臨済宗の寺である。
当寺は、平安時代に白河天皇により創建され

当初、善入寺と称した。
南北朝時代に夢想礎石の高弟、

黙庵が入寺し、
羲詮の保護を得て伽藍が復興された。
更に、
義詮の没後、その院号宝筺院に因んで
現在の寺名に改められた。
十一面千手観世音菩薩を安置している。
楠木正行(正成の子)の首塚及び五輪石塔及び
義詮の墓と伝え