二尊院地図

   
二尊院  小倉山、大堰川(おおいがわ)を隔てて嵐山に対している。 
 小倉山と号し、天台宗山門派(延暦寺)
承和8年(841)嵯峨天皇勅願によって慈覚大師が創立した。
本尊 釈迦如来阿弥陀如来、(重文)
長くあれていたのを法然上人の高弟ェ空が再興。法然⇒

百人一首 
 小倉山 峯のもみじ葉心あらば 今一度の御幸またなん
  忠平
 の歌で名高い小倉山で昔から紅葉の名所で知られている。
 また、大堰川開墾者角倉了以や、儒者伊藤仁斎などの墓がある。定家卿が百人一首を撰んだ時雨亭はこの小倉山山腹にあったともいわれる。  
     
総門     
   






厭離庵地図 中院山荘跡地図
   
小倉百人一首選定の地 

中院山荘跡

(小倉百人一首ゆかりの地)

鎌倉時代の初め、この辺りに、僧蓮生

山荘があった

蓮生は、俗呂を宇都宮頼網といい、下野国

(現在の栃木県)の豪族で、鎌倉幕府の様 な

御家人の一人であった。しかし、政争に巻き込

まれるのを避けて出家し、実信房蓮生と名乗

った(このとき郎党六0余人も同様に出家し

た。)後に上洛し、法然上人,次いで善恵上人

証空に師事し、この地に山荘を営んだ。

蓮生は和歌の名手で、近くの小倉山麓に山荘

を構えていた藤原定家とも親交があり、彼の

娘が定家の子・為家に嫁いでいる。

嘉禎元年(一二三五)五月、定家は蓮生か

山荘の障子に貼る色紙の執筆を依頼したのに

快く応じ、色紙の1枚1枚に天智天皇以来の

名歌人の作を一首ずつ書いた。「小倉百人一首」

はこの時の選歌に、後世、鳥羽、順徳両天皇の

作品を加えるなどの補訂を施して完成したもの

といわれている

京都市 

当庵は臨済宗天龍寺派に属する寺院であるが、新古今集、

新勅撰集の撰者であり、中世和歌の重鎮ともいうべき、藤原

定家の「小倉山荘」の遺跡として世に知られている。

嵯峨釈迦堂清凉寺の西門から西へ向かって行く道の二丁ほ

ど行った所を、北に入る細い道のつきあたりに,定家山荘の

跡さながらに風雅な佇まいを見せている

「都名所図会」には「竹林のかなたに門ありて東に向かう。

これを厭離庵という。門の内に柳の水という清泉あり。草庵

の跡は西の高き所と見えたり。(西南は高くして石垣をしめ

たり)云々」と書かれている。

寺門を入ると、右側は槇の生垣が続き、道の正面は、中門

の姿をとった瀟洒な萱葺の腰掛待合になっている。枝折戸を

あけて入るとすぐ雪隠があり、腰掛が続く。飛び石に導かれ

て右側に趣き蹲を経て、茶亭「時雨亭」に達する。

時雨亭

定家が「百人一首」を撰定したことは夙に有名であるが

定家の山荘・時雨亭の名をつけた萱葺平屋建ての茶室であ

る。大正十二年、当時裏千家に出入りしていた数寄屋大工岡

田永斉によって建てられた。この時雨亭は、庫裏の東側に隣

接した四畳向切りの席で、広縁と三畳の水屋が付属している。
この席は四畳枡床(正方形の蹴込み床)の変化したもの

で、升席に框を入れて小半間分広くし、床前、窓側に出書院

をつけてあるので室はそれだけ広くなり、床の間にもゆとり

がある。天井を見上げると三畳分は化粧屋根裏、手前座の上

は小さい丸竹を並べて編んでいる。広縁は二畳大の吹放しの

間で、東側に腰壁、正面に手摺がつき、化粧屋根裏の晴れや

かな展望となっている。月見のための椽である。

本堂

境内の奥まった位置にある本堂には、定家の子為家の念持

仏、如意輪観世音菩薩の御像が祀られている。奈良の円照寺

門跡から寄進されたものである。本尊の両側には、開山霊源

禅師、西行法師、家隆卿、貫之卿の木像と定家卿、為家卿、

為相卿の位牌を安置する。また天井に描かれた「飛天」は愛

宕念仏寺の故西村公朝前住職によるもので朗らかで愛らし

庭園

待合の前を左に折れると西側は小高くなって石段を上り、

小さな門をくぐると楓の木などの下に苔がびっしりと敷きつ

められた平明な風致が開ける。「都名所図会」ではここを草

庵の跡と推定しているようだ。飛び石を伝って行くと書院の

脇から本堂に至る。

定家塚と柳の井

百人一首を書いた硯の水と伝わる「柳の井」は七百有余年

の時の流れを感じさせてくれる。園内に映える楓樹は新緑、

紅葉各々の季節を彩りて、京の名庭に数えられる。定家卿を

偲ぶ五輪の塔「定家塚」は静寂さをたたえ、その他楠の化石

の橋や織部灯籠などが点在し、歌づくりの風情を漂わせている。


拝観の手引 より
 百人一首を編んだ藤原定家の小倉山荘「時雨亭」の旧跡とされる

のが厭庵だ。境内には五輪塔「定家塚」や、時雨亭の名をつけた茶室がある。

本堂にまつられた如意輪観音像は定家の念持仏と伝わる。
子ども
のような表情だが、目には力を宿す。調査した井上一稔 同志社大教...

授によると、顔から胴体にかけては平安の終わりごろの作という。

大澤玄果住職は「このお像を見て出家を志しました」と話す厭離庵は紅葉の名所。それだけ

に青もみじの美しさも格別だ。

緑に包まれた庭園を爽やかな風吹き抜けていく。

(文・久保智祥、写真・佐藤慈子)2017−4−22  朝日新聞

 
 

意のままに願いをかなえる宝珠と煩悩を打ち砕く法輪を携える。愛らしい表情ながら、
切れ長の目に力が
あり、人々を苦しみから救おうとする意志がにじむ。

平安・鎌倉期の歌人/藤原定家が「小倉百人音」を編んだ山荘の旧跡の一つとされる
厭離庵の本尊だ。

ヒノキの一木造りで像高38cm。寺伝では定家の念持仏とされ、江戸中期に冷泉家が寺として
再興した際に移
されたという。
2017−4−24  朝日新聞


























鹿王院(ろくおういん)地図
客殿の縁に座ると、嵐山を借景にした見事な枯山水庭園が広がる。

寺は室町幕府3代将軍ほ足利義満が1380年に建てた宝幢寺(ほうとうじ)の塔頭(小院)。客殿にかかる「鹿王院」の扁額は義満の自筆という。

今回、舎利殿で多宝塔に収められた仏牙舎利(ぶつげ・釈迦の歯)が特別公開される。鎌倉幕府3代将軍、源実朝が宋から求めた貴重なもの

で通常は10月15日のみの公開だ。夢窓国師の墨書(重文)や鎌倉前期の慶派の作という十大弟子像なども拝観できる。


2017-4-22 朝日新聞
 


 

 足利義満は22歳のとき、「位も富も十分に手に入れた。ここで一寺建立すれ

ば延命長寿間違いなし」と、夢のお告げを受けた。春屋妙葩を開山として宝幢

寺[ほうどうじ]を建立。鹿王院はその開山塔である。応仁の乱で宝幢寺は焼失し

たが、鹿王院だけが再建された。

拝観の手引き⇒⇒⇒
鹿王院の舎利殿。宝形造の江戸初期の建築で江戸中期に現在の場所に移築された。
枯山水庭園の向こうには嵐山の山並みがのぞく
.。 
 

京都・嵯峨にある禅寺の鹿王院(京都市右京区)。室町幕府8代将軍足利義満が建立した宝幢寺を開山した普明国師(春屋妙は)自らの塔所として開きました。

利牙舎利殿の堂内には、華麗な彫刻や組み物で飾られた大きな厨子があります。厨子内に安置された多宝塔に「仏牙舎利」が収められています。舎利といえば通常は釈迦

の遺骨ですが、仏牙とは釈迦の歯です。歯は言葉を発する源であり、釈迦の教えの象徴として貴ばれています。

舎利が熱烈に信仰された鎌倉時代, 3代将軍の源実朝が中国・宋の都,臨安から譲り受け、鎌倉・円覚寺などを経て、後光厳上皇が1374年に普明国師に与えて鹿王院に安置されたと伝わります。寺では、中国から博多港に到着した10月15日に毎年、「舎利会」を営み、この日だけ公開していますが、今回は「京都非公開文化財特別公開」(4月28日S5月7日)で厨子の扉が開かれます。今回は、天龍寺を開いた夢窓疎石が、その法を継いだ甥の普明国師に与えた書(国重要文化財)や、建仁寺,南禅寺の住職を務めた玉?梵芳筆「蘭石図」(同)など五山文化の隆盛を示す品々も公開されるなど充実の内容は必見で(久保智祥)

2017−4−21 朝日新聞


 










遍照寺地図

古くからの観月の名所、嵯峨.広沢池。京都市内とは思えないほ

どのどかな田園風景が広がる。かつて、この池のほとりに遍照寺は壮大な伽藍を構えていた。平

安中期の989年、宇多天皇の孫ェ朝が創建。真言密教の広沢流の根本道場として栄えた。応仁の

乱で荒廃し、江戸初期に南へ約300mの現在地へ。1830年にようやく堂宇が再建された。

そんな変転を乗り越え、千年以上も伝わってきたのが本尊の十一面観音立像(国重要文化財)だ。

創建ごろ、定朝の父または師とされる康尚の作という説が有力だ。

彫刻史が専門の伊東史朗・和歌山県立博物館長は「一木造という古い技法を用いながら重厚感を払

拭し、穏やかな表情や浅い彫りの衣紋に次の時代の表現が見られる。仏像が和様へと飛躍した記念

碑的作品です」と評価する。

隣に安置されている赤不動明王坐像(重文)も康尚作と考えられ、憤怒の表情ながら優美さも漂

う。「醜より美が優先されるのが和様なのです」と伊東さん。

2017−4−22  朝日新聞


本尊 十一面観音立像  像高124cm の一木像
 

 遍照寺開山僧正は広沢御坊とも称され、一品式部卿敦実親王の二男で寛平法皇(宇多天皇)の皇孫にあたる。
僧名は寛
朝,真言密教の秘法を究め、真言宗で初めて大僧正に昇補された高僧である。
弘法大師と同じく不動尊を信仰し、念持仏
として朝夕に祈念。度々祈祷によって不思議な法力を顕した。
中でも天慶二年(九三九)には朱雀天皇の勅命を受け関
東下総で平将門平定の祈祷を修するとその霊験忽ち顕れ乱が治まった。
そしてその地に東国鎮護の為建立したのが成
田山不動尊新勝寺(千葉県)である。
一条天皇の永延元
年(九八七)五月干ばつ著しき折、勅を承け六大寺の僧を大仏殿に集め雨を祈ると翌日雷鳴轟き大雨
になったとの事であ
る。天元四年(九八一)円融天皇病の折、宮中にて病気平癒

の祈祷を修されると眼前に明王顕現し帝の病がたちどころに癒えたという。よって歴代朝廷の帰依篤く、円融天皇は寛朝

僧正のもとで出家された程である。広沢池は嵯峨冨士と云われる端麗な姿の遍照寺山を背景に風光明媚の地である。

寛朝僧正は若き日よりこの地を好まれ修法の好適地として山荘を営み住房としていたが、円融天皇の勅願により諸堂を

整備建立し永祚元年(九八九)十月二十六日遍照寺を開創した。正暦三年(九九二)五月一日には山麓に多宝塔が建立さ

れ盛大な供養が営まれた。池に映る壮大な伽藍が想像される。寛朝僧正は当寺にて盛んに灌頂の儀式を行い密教の法流

を広めた。これが真言宗二大流派の一「広沢流」である。

このように栄えた遍照寺も長徳四年(九九八)寛朝僧正没後次第に衰微していった。鎌倉時代後宇多天皇により復興し

たが、その後応仁の乱で廃墟と化した。江戸時代寛永年間に現在地に移り成田不動尊と一木二体の霊像と伝えられる赤不

動明王と広沢池旧観音島に奉祀されていた十一面観音立像を安置する。文政十三年(一八三〇)舜乗律師により堂宇が建

立され復興の礎が築かれ、近年収蔵庫,護摩堂を建立。平成九年客殿・庫裡を建立し現容となった。
 拝観の手引 より