長保寺地図
本堂(国宝) 桁行5間、梁5間、一重入母屋造、向拝1間、本瓦葺きの建物である。 長保2年(1311)の建立である。 この堂は、和様と唐様を融和し、構造的に独自の形式をもち、特に外陣を広くした部分に設けられた組入天井は紀州の古建築に 見られるもので、鎌倉時代の遺構として極めて貴重な建物である。 なお、須弥壇、厨子も同時期のもので、比較的低い天井内に大きな厨子を巧みに納めている。 |
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長保寺は長保2年(1000)、一条天皇の勅願により創建された。 一条天皇には定子と彰子の二人の皇后があったが、定子皇后のお付きの女官が「枕草子」を書いた清少納言。彰子皇后のお付きの 女官が「源氏物語」を書いた紫式部である。 本堂、多宝塔、大門、鎮守堂といった主要なお堂は鎌倉時代に至り再建されたものである。仏教の大衆化が進み、地方が独自の経済力 と文化の力を誇示し始めた、日本の中世を代表する建築物群である。 寛文6年(1666)に紀州徳川家初代藩主頼宣により菩提寺に定められた。 |
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本堂・塔・大門と三つそろって国宝の寺は、法隆寺と長保寺だけである。大名墓所として全国一の規模である。 |
本堂 |
長保寺大門(国宝) この門は、後小松天皇の勅宣を受けて寺僧実然が嘉慶2年(1388)に再建したものである。 3間一戸の楼門で入母屋造り本瓦葺の建物で、組物は和様を基調とした三手先斗栱に尾垂木を組み、 軒を受けるなど室町初期の特徴をよく表し、形態がよく整った点においても代表的な門の一つである。 現在掲げる額は、紀州家初代頼宣卿が藩の儒者李梅渓に命じて模写させたものであり、当初の扁額は 応永24年(1417)妙法院二品親王御筆で大門と共に指定されている。 仁王尊は弘安9年(1286)堪慶作と伝えられる秀作とされている。 |
多宝塔(国宝) |
境内より大門を望む | 本堂と多宝塔 |