法隆寺地図

伽藍配置比較 法隆寺略縁起   東アジア塔の規模
 法隆寺は元・法相宗であったが昭和25年(1950)に法相宗から独立し、現在は聖徳宗の本山となっている。
 推古天皇9年(601)聖徳太子は飛鳥から斑鳩の地に移ることを決め、斑鳩宮を造営し、605年
に移った。法隆寺はこの宮に隣接して創建され、現在へと続いている。 
 「日本の文化は継続の文化です。それを象徴的に表すものが、法隆寺と伊勢神宮です。
 法隆寺は7世紀に建てられた世界最古の木造建築です。それも、遺跡から発掘されたというものでは
ありません。何度も解体修理しながら、1300年の間ずっと日本人が戦争や自然災害から守り通して
きたものです。1千数百年にわたって、こうして一つのものを守り伝えて、今も生きているというのは
日本だけのことです。稀有のことです。これは継続の文化だからこそ、と言っていいでしょう。
 法隆寺は当時の国際文化として、宗教として外国から入ってきたものを一生懸命守ってきたものです。
 しかし、伊勢神宮は違います。これは在来の、日本が生み出したもので、遷宮といって20年ごとに
新しく立て直しています。毎回、新たに木材を切り出し、全く同じデザイン、同じ技術で建て替えているわけです。
そういう形で、建築の技術を伝承しているものです。
 最初は持統天皇の時といいますから、1300年近く伊勢神宮の遷宮は、戦争に負けようが、
爆弾が落ちようが、続けられてきたわけです。
 この伊勢神宮の神殿は、高床の、穀物倉の象徴です。つまり農耕民族であること、
農耕文化の大本である稲作農耕を忘れておりませんという、証だということです。日本の原型ともいえるものを、
そうやってデザインとして、技術として残していこうという先祖の知恵なのです。
 法隆寺と伊勢神宮。片方は文化財、生きた宗教として原型オリジナルを一生懸命残してきました。
もう一方は、継続はするけれども物や形ではなく、心を伝え残してきたことになります。
有形文化財と無形文化財の伝承を守り続けられた。」
  平山郁夫 
吉備池  伊勢神宮  奈良・世界遺産 
法隆寺中門の謎 平城宮跡大極殿   太平記に登場した大地震 
 
  世界遺産
 記念碑 「日本最初(1950)の世界文化遺産・
法隆寺・平山郁夫」
 法隆寺は兵庫県太子町にある斑鳩寺との縁か
ら、石材は兵庫県太子町のものをつかい、
平山郁夫の揮毫。中門前の西側に安置。
   
南大門(国宝)  西院伽藍中門(国宝)、南大門(国宝)より。 
 法隆寺の玄関にあたるこの門は、永享10年
(1438)に再建されたもの。南大門を入ると、
中門と五重塔が見える。
  世界最古の木造建築される法隆寺に、
国道25号線から北約300mに太子が
「万年の樹木」と言ったと伝えられる松並木
を通る。
上御堂(上堂) 西円堂 大講堂 鐘楼 金堂 五重塔 廻廊 中門 東室 聖霊院 百済観音院 綱封蔵 西室 三経院 地蔵堂 食堂 円成院 妻室 細殿 大宝蔵院 西院伽藍
中門(国宝)と五重塔(国宝) 卍・人形
     
金鋼力士立像・吽形(国宝)  中門(国宝)  金剛力士立像・阿形(国宝) 
   
 中門(国宝) 鐘楼(国宝)と廻廊(国宝) 
  中門は間口4間、奥行3間。4間は柱が5本で門の真中に柱がある。
美しいエンタシスの列柱となっている。
 伽藍の中軸を示すシンボルとして、東大寺薬師寺には灯籠が置かれているが、
それに代わるものとして、中門の中央の柱が中軸をしめしているといわれる。
 

 鐘楼(平安時代)この鐘楼の中に吊されている白鳳時代の梵鐘は、今なお当時の音色を響かせています。

  礎石 金堂、五重塔、中門、回廊などの礎石は、
二上山切りだしのやわらかい松香石(凝灰岩質)の上面をわずかに平らにならしただけのものである。
飛鳥建築と目されている特徴である、造出しなどの技巧もほどこさず、花崗岩をもちいていない。
廻廊と中門 金堂
廻廊と中門
 エンタシスの銅張りのある柱の回廊。
 すべての構架材をかくすことなく見せる化粧屋根裏となっている。
即ち、柱と柱の間に太い虹簗(こうりょう、横木)をかけわたして、
虹簗の真中に2本の角材を合掌形に組み合わせ、その頭に大斗(たいと)をのせ、
その上に巻斗(まきと)を3つならべて、棟木(むなぎ)を受け、屋根を支えている。
金堂
 上層勾欄(こうらん)の平桁(ひらげた)と地覆(じふく)の間の卍字崩(まんじくず)
しの組子は、中国山西省大同の雲崗(うんこう)石窟第10洞外陣北壁の奏楽天人の
列龕(れつがん)の前にめぐらされた勾欄と全く同じ様式とされる。この様式は493年
の以前のものされる。
 頭部の天蓋が見事な止利(とり)仏師作の本尊釈迦三尊像(国宝)を中心に、

阿弥陀如来像(重文)、運慶の四男·康勝(こうしょう)作の薬師如来像(国宝)、四天王像
(国宝)などが並ぶ。
 壁面は昭和24(1949)年に焼失、復元された壁画には、空に遊ぶ天女が見える。


 天智天皇9年(670)間もなくの再建としても約180年前の様式となる。 
  動画    大宝蔵院(外観)⇒⇒⇒
全動画⇒⇒⇒
 
百済観音  金堂壁画第一号壁焼損後複製 
橿原考古学研究所付属博物館  
 大講堂(国宝)  金堂(国宝)・中門(国宝)・五重塔(国宝) 大宝蔵院の中心である百済観音堂 
 塔の東に金堂が向い合い、中央奥に大講堂が位置する。

 仏教を学び、法要を執り行う場所として造られたもの。

 鐘楼とともに延長3年(925)に落雷によって焼失しました。 幸い正暦元年(990)には再建され、

ご本尊の薬師三尊像及び四天王像もその時に作られています。


 金堂と五重塔の第一層には裳階(もこし)がある。第一層だけで二層以上にはない。
和銅4年(711)に付け加えられたとされる。

 日本最古の五重塔とされる。高さは約31.5mで金堂のちょうど2倍。初層の内陣の
四方には、釈迦(釈迦如来)の教えをもとに造られた塑像群(国宝)がある。
 
大講堂の中央前にある灯籠は当初のものではない。

大宝蔵院百済観音堂

 大講堂から、正岡子規の「柿くへば……」 の句碑、聖霊院(国宝)を過ぎた北にある。

 大宝蔵院は平成10年に落成した。 内部には、ルーブル美術館に出品された百済観音像(国宝)、
有名な夢違観音像(白鳳時代)·推古天皇御所持の仏殿と伝えられ、かすかに輝きの名残をとどめる
玉虫厨子(飛鳥時代)·蓮池の上に座す金銅阿弥陀三尊像を本尊とする橘夫人厨子(白鳳時代)をは
じめ百万塔·中国から伝え られた白檀造りの九面観音像·天人の描かれた金堂小壁画など、

わが国を代表する宝物類を多数安置している。
飛鳥時代から近世に至るこれらの宝物は、1400年に及ぶ法隆寺の信仰の遺産であり、法隆寺の歩
んだ道のりをうかがわせる貴重な宝物。

 三棟造の東大門(国宝)をくぐり塔頭の並ぶ道を進んで四脚門(重文)を過ぎると東院伽藍である。

礼拝石
 金堂と五重塔正面に置かれている。当時は僧侶も特別なとき以外は堂内に入ることはできず、この
石から参拝した。
「万年の樹木」
 聖徳太子が幼少の頃、父の用明天皇に桃の木と松の木、どちらが好きかと尋ねられ、桃の花は美しいがすぐに散ってしまう。
常緑の松は万年の樹木であります。と答えたという。
金堂修生会(しゅしょうえ)
 1月8日~14日行法を繰り返し、平和な世の中や豊かな実りを祈る。 
 昨年1年間に犯した罪を悔い改める「悔過(けか)」と呼ばれる法会。法隆寺では奈良時代の768年に始まったとされ、
金堂の吉祥天毘沙門天(いずれも国宝)に向かって、毎年この期間に営む。
 
 五重塔(国宝)
五重塔(飛鳥時代)塔はストゥーパともいわれ、釈尊の遺骨を奉安

するためのものであり、 仏教寺院において最も重要な建物とされてい

ます。高さは約31.5メートル(基壇上より)で、わが国最古の五重塔 

として知られています。

 この最下層の内陣には、奈良時代のはじめに造られた塑像群が

あり、東面は維摩居士と文殊菩薩が問答、北面は釈尊が入滅、 西

面は釈尊遺骨(舎利)の分割、南面は弥勤菩薩の説法などの場面が

表現されています。

 
 金堂(国宝
  釈迦三尊像はじめ薬師如来像、四天王立像など
十数体の仏像を安置する。
ひび割れていた須弥壇は美しくなり、奈良国立博物館
に預けていた台座や天蓋(てんがい)も修理を終え元の
位置に戻された。
 
年の初めに国の安泰や人々の平穏を祈る「修正会
(しゅうしょうえ)が金堂で行われる。
7日の通夜に始まり、14日まで続く。
東大寺二月堂の修二会(お水取り)や薬師寺金堂の
修二会(花会式)と同様、六時の行法として1日に
「晨朝(じんじょう)」「日中」「日没(にちもつ)」「初夜」
半夜」「後夜」の法要がある。
 法隆寺は聖徳太子創立、およそ1400年の伝統をもつ大伽藍である。
   用明天皇が自らの病気平癒を願い寺と仏像を造ることを発願。念願果たせず崩御したが、その意志を継ぎ推古天皇と聖徳太子が用明天皇15年(607)に完成した。 
 金堂・塔を中心とする西院伽藍は、よく上代寺院の相貌を伝え、我が国現存世界最古の寺院建築として、極めて価値が高い。 
 夢殿を中心とする東院伽藍は、天平11年行信により聖徳太子の斑鳩宮故地に創立されたが、天平宝字5年の東院資材帳に示される寺域は、現東院境内に現中宮寺をあわせた地域とみられる。
 すなわち東西両院をふくむ、法隆寺伽藍の全域は、我が国上代寺院史上各種の重要史料を内包し、また斑鳩宮跡、若草伽藍などの重要遺跡をもあわせて、その歴史的並びに宗教的価値はきわめて高いものである。
 法隆寺を建てたとされる時代、斑鳩の里は、飛鳥から20kmも離れた辺境の地だった。イカルという体長20cm余りの野鳥が群れ飛んでいたのが地名の由来という説があり、のどかなところだったはずである。
 607年創建の法隆寺は670年に火災で焼失したとされる。現在の伽藍は8世紀初めまでに再建され、近くに創建時の伽藍跡があると考えられていた。その遺構が出土したのだ。(2008-6-21朝日新聞より)
 塔の高さは相輪の先まで34.1mあり、檜の心柱は年輪測定によると594年に伐採された。心柱になるまでの木は千年以上が必要とされる。
 世界遺産としての価値は建物だけでなく、金堂・釈迦三尊像や百済観音菩薩像・玉虫厨子など国宝38件、重文151件を所蔵する。
 塔は670年に火災、673年着工、679年工事中断、20年以上たって再開、711年完成した。
 五重塔の心柱は年輪年代法によって594年に伐採されたとされている。
調査 火災記事 五重塔心柱 遷都が遺したもの  
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古寺の風光のなかでもとりわけ私の愛するのは塔の遠望である。(中略)

いまは田園と化した平城京址を過ぎて行くと、まず薬師寺の東塔がみえ

はじめる。松林の、緑のあいだにそそり立つその端麗な姿が、次第に近づ

いてくる有様は実にすばらしく、古都へ来た悦びが深まるのであった。

また小泉のあたりを過ぎるとき、遥かな丘陵の麓 森蔭に法起寺と法輪

寺の三重塔が燻んでみえ、やがて法隆寺の五重塔が鮮かな威容をもって

立ちあらわれる状景には、いつも心を躍らされる。何故あのように深い

悦びを塔は与えるのであろう。

  (亀井勝一郎「大和古寺風物誌」新潮文庫)



ちとせあまり みたびめぐれる

ももとせを  ひとひのごとく

たてるこのたふ

  會津八一

 金堂内の天蓋(てんがい・重文)に、606年ごろ伐採された木材が使われていたことが分かっている。
法隆寺は聖徳太子(574~622)が607年に創建したが、670年に焼失し、7世紀後半から8世紀初め
ごろ再建したとされる。
 中枢部の金堂で、創建時期の古材が半世紀以上経た後に使われていた。法隆寺再建は謎の部分が
多い。 
 千石あった寺領が上知令で没収され、経済的に困窮する。明治11年(1878)に皇室へ宝物を献納し、
1万円下賜される。それを復興資金にする。現在、献納された宝物は、東京国立博物館の「法隆寺
宝物館」で展示・保管されている。

斑鳩宮
太子道  白山神社  山背大兄王の死 
中宮寺拝観手引き  推古大道  太子の死と一族の悲劇 
天皇の宮の名推古  法隆寺金堂壁画  法隆寺略縁起 
年表601,605年  飛鳥宮跡  法隆寺 
小墾田宮跡 山背大兄王  法隆寺調査 
推古朝舒明朝へ  聖徳太子  黒田大塚古墳 
法隆寺の謎  聖徳太子の皇子はなぜ殺されたか  法隆寺論争 
第二番叡福寺  舟塚古墳   

東院伽藍

伝法堂 夢殿 絵殿舎利殿 鐘楼 四脚門 礼堂 南門 東院伽藍 本堂 中宮寺 北室院 本堂 表門 太子殿 廻廊
東院伽藍入口・四脚門 夢殿(国宝)
本尊 救世観音立像(観音菩薩・飛鳥時代・国宝) 聖徳太子の姿を写したとされる高さ1.79m 
木造(樟)。八角円堂は聖徳太子の霊をなぐさめる建物。
 広隆寺桂宮院本堂⇒
 法隆寺西円堂
夢殿
 東院伽藍の中心建築である。ここは聖徳太子の斑鳩宮があったとっころで、僧行信らに
よって、天平11年(739)に建てられたといわれる。
 東院伽藍は夢殿を中心に、舎利殿・絵殿、礼堂、鐘楼、伝法堂などからなる。
 夢殿は、礼堂と舎利殿・絵殿を結ぶ回廊の中心にあり、二重基壇上の一辺が二間の八角堂。
この形式は、鎮魂の堂の役割を持つ例が多い。
 現在の夢殿は、鎌倉時代の寛喜2年(1230)に大改造を受けている。

 四脚門を入ってすぐのところにある八角形の御堂。救世観音像(国宝)が祀られている。
明治以前は秘仏中の秘仏で、目に触れぬよう布で巻かれていたという。
今も公開は、春(4月11日~5月18日)と秋(10月22日~11月22日)に限られている。 

 馬道(めどう) 
 中央の1間が馬道(めどう)と呼ばれる土間の通路で、
これは建物の中間に通り抜けるために馬道をもうけると、
使い勝手が格段によくなる。寺院建築では古い遺構として、法隆寺東院舎利殿及び絵殿(えでん)、
唐招提寺礼堂(とうしょうだいじらいどう)、東大寺二月堂参籠所(さんろうじょ)、
石上神宮出雲建雄神社拝殿などに馬道がある。
   
 絵殿舎利殿  鐘楼(国宝)
 左は西院伽藍の妻室(重文)で、多くの僧侶が生活していた
建物であるが、財力が豊かな子弟は別に院を建て、
ここから通って修行していた。
東院伽藍から西院伽藍 舟形
 東院伽藍から西院伽藍に至るところであるが、
門をくぐると右に方向が傾いているのが分かる。
 法隆寺は670年に火災で焼失したとされ、
以前は真っすぐな方向であったものが、
建て替えの際に方向が変えられたものとして、
顕著に現れている。
中宮寺  法隆寺金堂壁画再現模写  栄山寺八角円堂 



舟塚古墳地図
 
 
 世界遺産・法隆寺 (奈良県斑鳩町 )の参道脇の観光バス駐車場にある円形の植え込みが、 6世紀後半につくられた古墳だったことが、同町教育委員会と奈良大学の発掘調査で確認された。内部からは横穴式石室が見っかり、石が抜き取られていたことから、寺の建設などに再利用された可能性もあるという。
 植え込みは直径約 8 • 5m、高さ約 1・ 5m。駐車場の隅にあり、調査前は樹木に覆われ、裾は石垣で囲まれていた。この形に整備された時期は不明で、一見すると普通の植え込みにしか見えなかった。 
 ただ、地元には「クスノキの舟」が出土したとの言い伝えがあり、町教委は木棺が埋葬されていた可能性があるとして「舟塚古墳」と呼んでいたが、本当に古墳かどうかは確認されていなかった。
 町教委と豊島直博教授 (考古学 )が率いる奈良大文化財学科の学生らが 2 0 2 2年春、測量と実態解明のための発掘調査を実施。今年 2〜 3月の調査で横穴式石室が見つかり、 8月から内部を発掘していた。
 石室は全長約 3 • 8m、幅約 1• 6m。壁の石積みは 1m前後の高さが残っていたが、天井石は抜き取られていた。床からは鉄刀 2本や矢じり、馬具、琥珀の玉、須恵器など、多数の副葬品が出土した。土器の年代から6世紀後半の古墳と判明。石が抜き取られた際の埋土から、飛鳥時代の瓦も出土したことから、石室は築造から数十年後に壊された可能性が高い。
 豊島教授は「天井の石が抜き取られたのは、聖徳太子の一族が暮らす斑鳩宮や、法隆寺の建設に再利用するためだった可能性がある。その際に石室が埋まり、豊富な副葬品が残ったのでは」と話す。
  2023-9-8  朝日新聞 写真とも (今井邦彦)
舟塚古墳説明会
  奈良大学文化財学科の豊島直博教・ (考古学 )は「最初の掘調査の時は正直、古墳どうかよくわからず、乗気ではなかった」と半信半疑だったことを明かし た。
 出土した土器の年代から6世紀後半の古墳で、刀の配置などから「埋葬されしいるのは 2人で、小豪族と推定している」と説明。今r後について「石室の構造を詳しく調べ、この古墳から藤ノ木古墳 (国史跡 )や法隆寺にどのように歴史がつながっているのか、解明していきたい」と語った。 (阪田美 )