玄昉

 中国の唐で学問をおさめ、帰国後は僧侶の最高の位についた。
 玄昉は18年間唐で学び、天平7年(735)に5千巻に及ぶ経典を携えて帰国した。
 この時遣唐使に選ばれた者は乗り組み員500人以上、後に朝廷に仕えた安倍仲麻呂もいた。
遣唐使持ち帰った文化⇒⇒⇒






源信(恵心僧都)

平安時代中期、仏法が衰える末法の世が到来したと信じられ、浄土信仰が広まった。天台僧・源信

(942~1017)は「往生要集」を著し、具体的な死後の世界のイメージを伝えるとともに、極楽に

往生するための死の迎え方を指南した。
この書の影響を受け、様々
な地獄絵、極楽図が描かれた。

臨終の際に、浄土から楽器を奏でながら迎えに来る菩薩たち(聖衆)と阿弥陀を描いたこの絵は、

全3幅からなり、幅4mを超える大作。絵師は不明だが、壮麗で迫力ある描写で、数ある来迎図の中

でも最高傑作とされる。源信が修行した比叡山延暦寺の横川に伝わり、16世紀末に高野山に移された

という。

中央の邀台に阿弥陀如来が座し、その前を蓮台を捧げ持つ観音菩薩と合掌する勢至菩薩が先導す

る。阿弥陀の周りには、太鼓や鼓、横笛,琵琶,笙、を手にした菩薩たち。優雅で楽しげで、中には笑

顔も見える。躍動感のある雲とともに遠近感巧みに描き、来迎の瞬間を臨場感たっぷりに表現する。

阿弥陀が正面を向いて座る来迎図は古い時代の構図という。来迎図を目の前に掛け、極楽浄土の様

や仏の姿をまざまざと思い浮かべる「観想」の修行に用いたとされる。行者の耳には妙(たえ)なる音楽が響

いていたのかもしれない。

2017-8-4 朝日新聞 夕刊
 (池田洋一郎)

 

奈良県と大阪府の境にある二上山のふもとに位置する阿日寺(奈良県香芝市)を訪れ

た。この寺に源信の生誕の地という伝承があるからだ。源信は尊称の「恵心僧都」の名前で親

しまれ、本尊阿弥陀如来像の前には、彼の座像が安置されていた。本堂の欄間には笛や太鼓を

奏でながら飛来する金色の菩薩たちの像が掲げられ、まるで「往生要集」の仏たちの来迎の

場面を見るようだ。

源信の母は、やはり二上山のふもとの高雄寺に参拝し、観音像に祈り その霊験で男子、つ

まり源信を授かったと伝わる。

1999年、奈良県葛城市北部にあった高雄寺の観音堂は不審火で全焼したが、国重要文化財

の観音像は無事だったそうだ。

少年時代の源信については、ほとんど分かっていないが、源信とのつながりをうかがわせる

モノはある。阿日寺から南西へ約2キロ離れた当麻寺(葛城市)に伝わる国宝「綴織当麻曼荼

羅」だ。奈良時代の作とされる約4m四方のつづれ織りに、「観無量寿経」の伝える極楽浄

土の姿が織り込まれた。

源信が当麻曼荼羅を見たという確かな記録はないが、「源信展」を担当した奈良国立博物館

の北澤菜月·主任学芸員( 38 )は「当麻曼荼羅を織り上げた中将姫が極楽往生を遂げた逸話は、

当時も広まっていたでしょう。

幼い源信が信心深い母に連れられて曼荼羅を礼拝し、その強烈な記憶が、源信の極楽に対する

イメージの原点になったのかもしれません」と推測する。

源信は、経典に記された地獄や極楽の記述を体系化し、「往生要集」にまとめた。それが、

のちの鎌倉時代に生まれる浄土宗、浄土真宗に影響を与えたとされる。その原点とは、源信少

年が母と一緒に見た当麻曼荼羅の光輝く仏の世界だったのかもしれない。

2017-9-21 朝日新聞(編集委員·今井邦彦)

 
源信げんしん)

942年に大和国(現奈良県)に生まれる。比叡山に入り、「往生要集」を著すなど浄土教の発展に寄与し

た。1017年, 76歳で死去。






























阿日寺地図

阿日寺の寺名は、源信が母のために

刻んだ阿弥陀如来像、父のために刻ん

大日如来像から1字ずつを取ってつ

けられたという。参拝すると苦しまず

安楽に往生できる「ぽっくり寺」とし

ても信仰を集めた。拝観希望者は事前

に電話(0745·76·5561)で

予約を。毎週水曜は「定休日」。

高雄寺観音堂跡には現在、焼け残っ

た礎石の脇に記念碑が立っている。重

要文化財の観音菩薩立像(平安時代)

を収めた収蔵庫と鐘楼は無事だった。

当麻寺では本堂と金堂、講堂を公

拝観料大人500円。国宝の綴織

当麻曼荼羅は非公開で、本堂には室町

時代に模写された重要文化財の「

曼荼羅」がまつられている。
2017-9-21 朝日新聞