妙覚山誕生寺地図
京都府京都市伏見区久我本町 道元の誕生地は説として二ヶ所ある。 一つは宇治市木幡にある藤原基房の別邸 である木幡山荘で、現在は「松殿山荘」 (一般非公開)が建てられている。 もう一つが妙党山誕生寺である。京都 市伏見区から日向市を結ぶ途上、桂川に 架かる久我橋を渡った場所に建っている。 ここは久我氏の別荘のあったところで 「久我水閣」と呼ばれていた。 誕生寺が建てられたのは大正八年 ( 一九一九)のこと。永平寺六十六世住職 日置黙仙禅師によって、福井県小松の華 厳山妙覚寺がここに移された。本堂は昭 和六十三年(一九八八)に建てられた新し い堂宇だが、一帯は平成十二年(二000) にあたって復興整備された。境内では道 元禅師産湯の井戸、道元禅師幼少像、両 親の墓などを見ることができる。
おろかなる 吾れは仏にならずとも 衆生を渡す僧の身なれば との、道元が深草時代に詠んだ歌碑も 立っている。 |
福井県大野市西大月 新天地を得た道元は、山奥に建つ禅師 峰寺を拠点にして『正法眼蔵三界唯心』 ( 50頁)を著した。禅師峰寺ゆかりの地に は五十世玄透即中禅師が領主の許を左 得て、享和三年(一八〇三)に「禅師峰寺 旧蹟」の石柱を建立している。 |
吉峰寺地図
福井県吉田郡永平寺町吉峰 道元は大仏寺(永平寺)が建立されるま で、禅師峰寺と吉峰寺間を往来して、『正 法眼蔵』の撰述を行った。 吉峰寺はおよそ一二00年の昔、白山 信仰の開祖、泰澄大師により開かれた と伝えられている。経ヶ岳の山懐に抱か れた佇まいは、現在は近くまで舗装道が できたとはいえ、当時が偲ばれるほど今 も幽境の地である。明治三十六年(一九 0三)、田中仏心和尚が諸堂を再建、永 平寺六十四世森田悟由禅師を講じて中興 開山とした。 細く長い山道の石段が徹通坂。登りき ると杉木立の奥に法堂が建っている。徹 通坂とは、寛元元年(一二四三)、当時典 座職にあった三世徹通義介が,道元のた めに「八町曲坂、料桶左担いて粥飯を供 した」ことにちなむ。法堂の左手に道元 懐奘,如浄の三祖像を祀る開山堂、右手 に寂光堂、鐘楼、,庫裏、仏心閣が配置さ れている。永平寺と同様、ここは現在で も厳しい修行道場であり、一般の参禅研 修も行われている。白山比咩神社⇒⇒⇒ |
得度霊蹟(比叡山横川)地図
根本教典を徹底して学ぶ。建暦三年 (一二一三)四月、天台座主公円僧正のも とで剃髪し、延暦寺の戒壇で大乗律によ る菩薩戒を授かり、得度した。 延暦寺とは伝教大師最澄が開いた日本 天台宗の本山であり、比叡山の山々に立 ち並ぶ数多い堂塔の総称である。東塔、 西塔、·横川の三地域(三塔)に分かれ、横 川は叡山三塔のうちもっとも奥に位置す る。当時延暦寺といえば日本における宗 教界の名実ともに第一級の地であり、横 川は良顕の眼からみて教学的な雰囲気を 一番残していたのである。 しかし道元が入門したころの比叡山は、 天台宗内部の派閥抗争と横暴な僧兵のた めに著しく世俗化していた。純真な求道 の志をもって出家した道元は熱心に修学 したが、こうした叡山の世俗化、権力闘 争は道元に比叡山での修学の疑問左抱か せた。 そして道元が次の行動を起こすのに さほどの時間は必要なかった。 |
木ノ芽峠地図
福井県南条郡南越前町/敦賀市新保 木ノ芽峠は越前国と若狭国を隔てる交通の難所 だったが、京との幹線路でもあり、北陸への入り 口としてよく利用された。 病気療養のため上洛する道元に波多野義重は数 人の随者と輿を差し向けた。 建長五年( 一二五三)八月六日、道元一行は 草の葉にかどでせる身の木の芽山 空に路ある心地こそすれ 峠には現在も道元禅師碑が保存され脇の説明版 木ノ芽峠の手前の宿、脇本(現·福井県南条郡南条町) 帰ることができると伝えた。 なっている。 |
欣浄寺
(覚念屋敷跡)京都府下京区高辻酉洞院西入北側 建長五年(一二五三)七月十四日、道元 は永平寺の住職を懐奘に譲った。二世と なった懐奘は、道元に随伴して八月に高 辻西洞院の俗弟子党念の屋敷に着いた。 当初は容態も落ち着いており また見んとおもいし時の秋だにも 今宵の月にねられやわする と歌を詠んだほどだった。しかし病状は 悪化し、いよいよ命終のときに臨むと、 道元は『如来神力品』を低く誦し、室内を 経行し、経文を柱に書き残してここを 八日、懐奘をはじめ周囲の看護と祈念も むなしく、五十四歳の生涯を閉じたので あった。 現在この地には、永平寺七十六世秦慧 玉禅師によって書かれた「道元禅師示 寂聖地」碑が立っている。ちなみに建立 は昭和五十八年(一九八三)である。 |
京都府東山区円山公園南端鷲尾町 道元の遺骸は覚念の屋 敷から京都天神の小路に ある草庵に運ばれ、東山 赤辻の小寺で火葬された。 いわゆる建仁寺の三昧所 がここである。懐奘が 舎利礼文」を挙し、衆僧 がそれに和した。読経の 声が中秋の空に吸い込まれていった。 当時この一帯は真葛原と呼ばれた淋 しい場所だったという。いま残る場所は 広さおよそ百六十平方メートル(約五十 坪)、小さな堂の周囲を篠竹が囲み、堂 の屋根の下に道元禅師荼毘塔が、そして 堂の右に永平寺七十一世高階瓏仙禅師が したためた「曹洞宗高祖道元禅師荼毘御 遺跡之塔」の碑が立てられている。 近くは高台寺の住職たちの墓地で、円 山公園の喧騒も伝わってこないような静 寂な趣を保っている。 |
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